この二つは、簡単なようでとても難しい。
なので、人はよく間違う。
私たちは、それ(コントロール)を手放すことを学ぶ。
家族を手放すことを学ぶ。
自分のショー以外、人の回復のショーを仕切ることはできない。
自分の考えが、母、父、兄妹、祖父母の役に立つかどうかということは関係ない。
家族がどうしても必要とする答えを何とか見つけたとしても、それで家族の人生が確実に改善されるとしても、
それは関係のないことだ。
それは全くどうでもよいことだ。
引用:『共依存症12ステップへのガイド』メロディ・ビーティ著(ワンネス出版)P222 より
家族を大切にするということ
これを、何でもかんでも転ばぬ先の杖を用意することや、過剰な世話焼きをすることと、わたしたちは誤解しやすい。
「失敗」とは、必要だから用意されている。
経験すべき「失敗」を与えないことは、一種の略奪であり虐待である。
家族を本当に大切にするのであれば、私たちは本人がするに任せることである。
本人が経験する痛みも喜びも、本人のものであると尊重することである。
落ち着くこと、そして辛抱強く見守ることだ。
それこそが家族を「愛する」ということだと私は思う。
そういう意味では、私は愛されていなかった。
社会的な失敗を回避するためにうんざりするほど世話を焼かれた。
そして自己効力感を失った。生きている実感を失った。
私にとって、親の「愛情」は、無理やり神経を引き剝がされるような拷問だった。
私の人生は成人して病気になりにっちもさっちもいかなくなるまで、半分死んでいるようなものだった。
私は実感をもって、これらの行いが「愛情」という仮面をかぶった虐待であると自信をもって伝えることができる。
なぜ、私の両親はコントロールを、私たち子どもを、手放せなかったのだろうか。
それは、自分の人生を生きていなかったからだ。
自分のショーを健全に楽しむことを放棄して、他人のショーに没頭した。
自分のショーに向き合う勇気がなかった。自分のショーを立て直す根気がなかった。
うまくいかない自分のショーよりも、責任を負わなくてもいい他人のショーにばかり一生懸命になった。
そのほうが、楽だと錯覚したから。
「愛しているから」という免罪符を使えば、子供に干渉していいと社会も背中を押した。
社会に疲弊した大人たちの多くは、大義名分をつくって、自分自身が楽になるために子供を生贄にしたのである。
そのなかの一組がたまたま私の両親だったと、いうだけのことである。
しかし、楽だと錯覚しているけれども、本当はどんどん苦しくなっていくだけ。
だから、親も子供も苦しくなり、最終的にはお互いに殺し合ったりする。
それは、愛しているというにはあまりにも凄惨である。
「家族を大切にする」というのは、こんなエンディングを迎えるような状態ではなく、それぞれがそれぞれに生きることを楽しんでいて、それを尊重する状態ではないだろうか。
何をしていようと、どんな職業だろうと、どこに住んでいようと、子供がいようと居まいと、五体満足であろうとなかろうと、本人が満足しているなら、それは確実に良い人生なのである。
なぜなら、良い人生かどうかは、本人にしか決められないからだ。
自分の家族に与えられる最もパワフルでポジティブな影響とは、自分が健康で幸せな人生を送ることである。
引用:『共依存症12ステップへのガイド』メロディ・ビーティ著(ワンネス出版)P222 より
私の両親は、ただ楽しく生きてさえいればよかった。
息子のために、娘のために、と望まないままに何かを我慢したり何かを犠牲にしたりしないほうがよかった。
無理をして暗い気持ちを隠さなくてよかったし、家庭に問題があることを「なかったこと」にして幸せな家族を演じなくてもよかった。
そういう「〇〇しなければ」で家族を縛り付けた結果、誰も楽しくも幸せでもなくなった。
子どもにとって、親が果たすべき最も重要な役割は、人生を楽しむ姿を見せることだ。
「お前が生まれてきてくれたこの世はこんなに輝きであふれていて楽しい世界なんだ」ということを、言葉ではなく行動で、生きている背中で伝えることだ。
私は、親の後姿を見て、絶望的な気持ちになった。
こんなに我慢しながら、やりたくもないことをして、誰かの陰口を子供に吹き込まないと生きていけないほどのストレスを抱えて、かたちにばかりこだわって生きていかなくてはならないのか。
もはや世界は牢獄であり、生きることは義務のように見えた。
そんな世界で生きていきたい人は少ないだろう。
事実、私は生まれて物心ついたころから、ほどなくして死にたくなった。
さっさと終わらないかな、こんな人生、と思って生きてきた。
そしてアルコール依存症にもなったし、うつ病にもなった。
様々なものを失ったが、「失敗」を経た今が、最も幸せである。
家族を助けるということ
では私たちは、家族を、大切な我が子を「助ける」ために、何をすべきなのだろうか。
助ける人として私の役割は、助けようとする人たちのために 何かをする のではなく、何かになる ことである。
つまり、彼らの行動をコントロールして変えようとするのではなく、理解と意識をもって、それらに対する自分の反応を変えることである。
(中略)
他人の将来の行動には一切考えを持たない。
時間が経過しても、他人が良くなるか悪くなるかを期待しないということだ。
なぜなら、そういった期待をするということで、本当は私が望むイメージに作り上げてコントロールしようとしているからだ。
なるがままにする。
引用:『共依存症12ステップへのガイド』メロディ・ビーティ著(ワンネス出版)P222~223 より
つまり、彼らがするに任せる、彼らが向かう未来を信じる、ということだ。
私が望むイメージがあったとして、それは娘や息子が望むイメージではない。
私が勝手に思い描いているだけだ。
娘や息子は、自分自身でイメージを描く権利がある。むしろ、その権利は彼ら自身にしかない。
それを勝手に描いておいて、その通りにコントロールしよう、などというのは、とんでもないことだ。
「将来は野球選手にしよう」「将来は医者や弁護士になってほしい」
しぬほど余計なお世話である。
彼らは立派に勝手に生きるのだから、親は親の人生のことでも考えておればよい。口出しする権利は親にはない。誰にもない。
私が精いっぱい自分の人生を生きる。
先に様々なケースを学ぶ。
それを参考にして、子供たちは自分を生きる。
『何かをする のではなく、何かになる』とはそういうことだ。
何かゴールがあってそのために何かをする、というのは、ゴールを勝手に設定している。
彼らが歩む。その道を行くために、「私」という親が「一例」となる。
サンプルの一つである。それが信頼できるかできないか、使うか使わないかは、子供らが決める。
「こんなめんどうくさいやつにだけはなりたくねぇ」と思うかもしれない。
「こんなふうに楽しむにはどうすればいいんだろう」と思うかもしれない。
どちらでもいい。
思いたいように思ってくれていい。
それを使って、自分の頭で考え、自身が思うように生きてみてくれさえすればそれでよい。
結果がうまくいこうと行くまいと、正直、俺には関係ないし。
彼らの人生なのだから、彼らがけつを持つのが当然である。
それに、結果がどうであったとしても、当事者として主体的に生きられることは楽しい、と私は思う。
私が途中まで、親にコントロールされるうちに当事者意識を持てなくなり、結果として半生を主体的に生きることができなかったから、かもしれないが。
経験上、結果や責任を誰かに盗まれることほど、肩を落とすことはない。
私の親はこの盗みをはたらきがちだった。それは子供である私を深く失望させた。
それをしないだけで、私にとっては、私の両親よりマシな親でいられる、と思っている。
「助けない。君が勝手に助かるだけさ。」
「人は、一人で勝手に助かるだけ。」
引用:『化物語』忍野忍のセリフ
本人が助かろうとしなくては、いくら他人が横から助けようとしても無駄である。
助かりたい人が、『何かになろう』と思って生きている人にヒントを得て、勝手に助かる。
『何かをする のではなく、何かになる』ように生きる誰かが、使いたきゃ勝手に使ってくれ、と置いておいたものを、通るべきタイミングで通りがかってうまく活用する。
それは、利用されているのではない。
たまたま引き合わされただけ。
意図せず活用してくれただけ。
損得ではない。
世の中は計り知れないめぐり合わせで回っていて、私たちは個別でありながらひとつでもあるから。(このあたりは、また話すとしよう。)
ともかく、コソコソと計算して、これが必要だろうから何かをしようだなんて、姑息なことを考えてはいけない。何も見えなくなってしまう。
自分のために生きた道筋が道となり、その後を歩く人に道のひとつとして役立つ。
それ以上でもないし、それ以下でもない。
自分自身を変えることはできるが、人のことは、愛することしかできない。
それを知って落ち着いて生き、安心して愛するひとでありたい。