今回は、見捨てられ不安 について棚卸していきます。
見捨てられ不安 とはどんなもの?
■見捨てられ不安■
見捨てられ不安は、わたしたちが幼時期に経験した、情緒的あるいは身体的な(両方の場合もある)両親の不在に対する無意識の反応です。
子どもの頃わたしたちは、応答してくれない・責任を取らない、情緒的にそばにいてくれない大人たちの、予測できない行動を観察してきました。アディクションがどんどん激しくなるにつれて、彼らは親らしいことをすることが、ますますできなくなりました。
子どもの頃わたしたちは、彼らの与えることのできる以上の配慮を求めました。彼らの興味の対象は他にあったのです。
成人としてわたしたちは、同じように情緒的にそばにいてくれないパートナーを選ぶ傾向があります。見捨てられることの現実と痛みを経験しないですむように、わたしたちはパートナーの必要・欲求に全て応えることによって、自分の「愛」の必要・欲求を満たそうとします。
「楽しませる」こと、そのことによって見捨てられる可能性を減らすことが、人間関係での問題や葛藤に先行してしまって、ほとんど交流のない緊張した環境を生み出します。
見捨てられることを恐れていると、わたしたちは次のようであるかもしれません:
●安全でなく感じる
●他人を楽しませる人になる
●一人になることを避ける
●過度に心配する
●自分のために立ち上がろうとすると罪の意識を感じる
●共依存する
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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
65Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)
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最も認めるのが困難だったセッション
私がこの「見捨てられ不安」を最後に残していた、ということには意味があります。
残していたことそのものに意味があるというか。
私は、「見捨てられ不安」が自分にあるとは認めたくなかったのです。
私は常に「別にこっちを見てくれなくてもいいよ」「そんなこと気にしてないよ」という態度をとっていました。
それは、自分が不安であることを認めるのが怖かったからにほかなりません。
今こそ、12回目のこのSTEP4の最終段階において、認めるべき時が来ました。
私にとって両親の「愛情」は「支配」だったということ
なんで怖かったのかな?と考えを巡らせてみれば、やはり、認めるということは「見捨てないでください」という願いを白日の下にさらすことだったからではないかと思います。
その願いが聞き届けられなかった時の私のダメージは計り知れないからです。立っていられないかもしれない。そう思っていました。まさに生き死にに関わる認識の一つでした。
あるいは過去に聞き届けてもらえなかったのでしょう。
子どもの頃わたしたちは、応答してくれない・責任を取らない、情緒的にそばにいてくれない大人たちの、予測できない行動を観察してきました。
アディクションがどんどん激しくなるにつれて、彼らは親らしいことをすることが、ますますできなくなりました。
子どもの頃わたしたちは、彼らの与えることのできる以上の配慮を求めました。彼らの興味の対象は他にあったのです。
まさにこの部分ですね。
彼らの興味は別にありました。
あるときの父は他の女性だったし、あるときの母は自分の父親でした。
父の最大の関心事は仕事だったし、母の最大の関心事は、実は自分自身の心の平穏でした。
皆、そのままの私を見ていてはくれていなかった。私以外の物に興味があり、私の「私を見てほしい」「見捨てないでほしい」という願いは見事に無視されました。
彼らは「いいや、私たちは一生懸命愛情をもって育てた、無視などしていない。何度も問いかけたではないか。それにたくさんの本やモノを買い与え、習い事など機会を与えた。つまり私たちの愛は時間的金銭的投資で証明されている。」というような主張をするでしょう。
しかし、ここでいう無視とは、そういうことではないのです。
私は、ただ、私のそのままの気持ちや言葉を、「そう思うんだね、なるほどね」と聞いてほしかっただけでした。
私は、ただ、好きなものを否定しないで「失敗してもいいから」と自発的に挑戦して結果を得るプロセス、これを経験するチャンスをこそ、与えてほしかった。
それらを根こそぎ奪ってコントロール下に置いておいて、自己満足でやることは、オナニーです。「愛情」ではなく「支配」です。
だから、私は
「あなたたちは私を愛していたかもしれないが、愛する方法を間違えたし、事実私は、とてもさびしかった。『望まれる私でなければ』あなたたちに見捨てられるのではないかと不安になるくらいには。」
と堂々とここに、両親に対して異を唱えたい。
私がアルコール依存症になったすべての元凶
私が人生のなかで最も違和感を覚え、悩み苦しみ、結果アルコール依存症を発症するにいたった私の特性。
それは、「自分より相手を満たそうとしてしまう」という特性です。
見捨てられることの現実と痛みを経験しないですむように、わたしたちはパートナーの必要・欲求に全て応えることによって、自分の「愛」の必要・欲求を満たそうとします。
「楽しませる」こと、そのことによって見捨てられる可能性を減らすことが、人間関係での問題や葛藤に先行してしまって、ほとんど交流のない緊張した環境を生み出します。
まさにここに書いてある通りです。
私は、見捨てられないように、この特性を身に着けたのだと、今まさに分かりました。
私は、できるだけ出会う人に嫌われないように嫌われないようにと、びくびくしながら暮らしてきました。
頼みごとが断れないのも、そうです。場が嫌な空気になると自分が犠牲になろうとするのも、そうです。好きでもない人のご機嫌取りをしてしまうのも、そうです。
全部、『見捨てられることの現実と痛みを経験しないですむように』私は能動的にその行動を選択していた、ということを認識します。
楽しませなくては、いい気分にさせなくては、好かれなくては、正しくなくては、優しくなくては、魅力的でなくては、、、
『私は見捨てられてしまうのではないか?』
と不安だから、取り繕い、道化を演じ、自分自身そのままでは、他人に相対することができませんでした。
その結果、『ほとんど交流のない緊張した環境を生み出し』、アルコールで脳を麻痺させなくては人と交流できないほどの耐えがたい緊張を自らに与えていたのです。
これが全ての元凶です!!!
私は、これが知りたかった。ずっとずっと知りたかった。
なぜこんなに生きづらいのか、なぜ私は人に媚を売るような真似ばかりするのか、気になって気になって、自分が惨めで嫌いでたまりませんでした。
見捨てられ不安からの回復 とはどんなもの?
□見捨てられ不安からの回復□
わたしたちが、常にそこに存在しているハイヤー・パワーの導きと愛に、より多くを頼り任せることができるようになるにつれて、自分の環境の処理能力に対する自信が増加します。
わたしたちの見捨てられ不安は減少していき、ゆっくりと、自分は生まれながらに価値ある、愛すべき、貴重な人間であるという感情に置き換わっていきます。
わたしたちは、自分自身を愛し、大事にしている人たちと健康な人間関係を求めます。感情を表したり、人間関係での問題について話したりするとき、もっと安全に感じるようになります。
わたしたちは古い恐れをハイヤー・パワーと、わたしたちに関心を持ってくれる人たちへの信頼に置き換えます。
わたしたちは、自分を取り巻く社会の中での育み愛する友情関係を理解し、受け入れるようになります。
ハイヤー・パワーがわたしたちの生活のなかに在れば独りぼっちになってしまうことはもう絶対にないのだ、ということを理解し始めるにしたがって、わたしたちの自信は成長していきます。
見捨てられ不安が小さくなるにつれて、わたしたちは次のようになり始めます:
○自分の感情に正直になる
○一人でいて快適に感じる
○自信を表現する
○人間関係において自分の必要を大事にする
○人間関係での問題について話し合う
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66Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)
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私は見捨てられることに怯えなくてもいい
ゆっくりとではありますが、私は自分の気持ちに対する正直さを取り戻しつつあります。
私はアルコール依存症になりました。
酒をやめること一つ、私は自分の力ではできなかった。その無力を知りました。
そして、回復しようとする力(ハイヤー・パワー)が己のなかにも、そして仲間のなかにもあることを知りました。
どんな生い立ちであっても、どんな環境であっても、人はより良くなろうとする重力を、生まれながらに持っているのです。なんてすばらしいことでしょう。そして、それは社会的な形で報われるかどうかはわかりませんが、確実にそのひとを、人間として成長させてくれる、ということは、どうやら確からしいのです。
ということは、私たちは、自分にはコントロールできないが確かに存在する大きなエネルギーに支えられていることになります。
そして、そんな天然の永久機関ともいえる我々一人ひとりは、このうえなく素晴らしく、生きているだけでものすごく価値がある生命体です。
それゆえに、どんなひとも「生まれながらに価値ある、愛すべき、貴重な人間である」といえるのでしょう。
そんな自分なら、幸せになる権利も価値もあると思いませんか?
私たちは、生きていてもよかったということです。
私たちは、自分の幸せを追求してもよかったのだということです。
人の顔色をうかがって嫌われないように背を低くして生きていかなくてもいい。
そんなことをしなくても、私たちは見捨てられない。ないがしろにもされない。
なぜなら、私たちは、誰が何と言おうと、人間である限り、価値ある存在だからです。
ということは。
たとえばそんな自分を「好きだ」と言ってくれる人がいます。
今までは「こんな私を好きなわけがない」「何の目的だろう」「本当の私を見ていないに違いない」と、愛情を受け取ることを拒否していたでしょう。
それは、受け取ってもし違ったら、見捨てられるのではないか、という不安が先に立つからです。
これからはどうでしょうか。
私たちは、生きているだけで、価値ある存在だと分かりました。
そんな自分を「好きだ」という人が現れたとして、それは素直に受け入れられることのように感じます。
好意をそのまま受け取り、「ありがとう」と言い、そんな関心を寄せてくれる人を信頼します。そして、その人のなかにもある、より良くなろうとする重力(ハイヤー・パワー)を信じて交流することで、私たちはやっと、喉から手が出るほどほしかった『真の信頼関係』を築くことに成功します。
もう好かれようと自分を犠牲にしたり、我慢したりしなくてもよいのです。
私たちが私たちのまま、健康な人間関係を築くためには、まず自分自身のより良くなろうとする重力(ハイヤー・パワー)を感じて、自分自身をこそ愛することが必要だったのです。
私はそのために、アルコール依存症になったのだと思います。
わたしたちは、自分自身を愛し、大事にしている人たちと健康な人間関係を求めます。感情を表したり、人間関係での問題について話したりするとき、もっと安全に感じるようになります。
わたしたちは古い恐れをハイヤー・パワーと、わたしたちに関心を持ってくれる人たちへの信頼に置き換えます。
わたしたちは、自分を取り巻く社会の中での育み愛する友情関係を理解し、受け入れるようになります。
ハイヤー・パワーがわたしたちの生活のなかに在れば独りぼっちになってしまうことはもう絶対にないのだ、ということを理解し始めるにしたがって、わたしたちの自信は成長していきます。
まさにここに示されている通り、私たちは『古い恐れ』を置き換えることができます。
この原理原則を理解してさえいれば、たとえ物理的には独りだったとしても、私たちはもう独りじゃない。
昔のように古い恐れを抱いて、誰とも心を交わさず、人を愛さず、己を愛さない、閉じた絶望と暮らす日々には、もう戻らないでいい。
まとめ:とはいえ、私はまた忘れることも知っている
今日、とてもよい気づきを得たとしても、私はまた、絶望のうちにいるときもあるでしょう。
世界中の誰も信じられない、己すら信じられない、と落ち込み、全てを投げたしたくなるときが、きっとあるでしょう。
それは、今までの人生で幾度もあった危機だからです。これからも繰り返されることは、おそらく確実です。
でも、ここでわたしたちは思い出さなくてはなりません。
何度もその危機を乗り越えてきたからこそ、いま私たちはこうして息をしているのだということを。
そう、私たちは不屈の重力を有しています。何人にも奪うことができない、回復しよう・より良くなろうとする重力。これは、命ある限り動き続ける力で在り、私たちを見えるところでも見えないところでも常に支えてくれています。
だから、いま私たちの仲間がどん底にあるとしても、信じています。
私たちは己の思い込みなんかには負けない。信じてくれる自分自身や信頼できる人がいる限り、何度失敗してもまた立ち上がることができる、と。
これを教えてくれたのは、他ならぬ最愛の人です。心から感謝を込めて。