月別アーカイブ: 2020年3月

【ジェンダー】男性だけど「配偶者の扶養から抜け出したい」という女性の気持ちがなんとなくわかる話

『夫の扶養から抜け出したい』という漫画があって、結構気になっている。

 

読みたいが、まだ勇気が出ないでいる。男性である私は、結構メンタルがやられそうで。

 

男性はなぜ、扶養家族に対して「こっちは仕事して稼いできているんだから」という物の考え方や発言をしてしまうのだろうか?

その根本には、会社の奴隷として生きている男性の哀しいジェンダーロールが見え隠れしている気がする。

「夫の扶養から抜け出したい」は、「会社の奴隷から抜け出したい」という男性の想いと似ていると思ったので、ちょっとまとめてみる。

 

 

「会社」というファミリー

「お前は給料をどこからもらってんだよっていう話だよ」

これは実際、私が上司(♂)から言われた言葉だ。

会社から金をもらっている分際で、という圧力をかけ言論を封殺するための言葉である。

 

末端の話は重要視しない。聞かない。

社員は仕事をやって当たり前、と思う。

末端の社員を見くびっているのだ。

 

自由がない「会社」というファミリー。

経済的な主導権を握っているからという理由で、横柄な態度をとるという点において、扶養家族にでかい顔をする亭主のそれと非常に似通っている。

社員の副業禁止は、妻の交際範囲の制限に近い。

事前に申請しなきゃ必要経費はもらえないのは、家計に必要なお金を定額しかもらえないのに近い。

 

雇用と結婚は違う

勘違いしてはいけないのが、婚姻関係と雇用関係は根本的に異なるということである。

結婚は雇用契約ではないし商業取引ではない。

つまり、配偶者は召使いではない。

そこは勘違いしてはいけない。

日本国憲法第24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定している。

同等の権利を有する2名が合意のもと形成するのが婚姻関係である。

その意味でやはり、稼いでいる側が稼いでいない側に、会社と社員のような雇用関係に近い要求や価値観を押し付けることは、間違っている。

同等の権利を有する以上、どちらが稼いでいるかは判断材料にならないし、共通の財産である給料はふたりの物である。それを片方がコントロールして権利を不当に侵害するのは、家庭内のパワハラであり、モラハラである。

 

奴隷のような社員生活で男性のメンタリティが歪んでいる可能性

社員もまた、召使いではない。

賃金と引き換えに労働や己の能力を提供する、対等な契約者としての矜持を持っていいはずだが、雇用関係の解消という切り札を相手に握られていると考えているため、会社に対して顔色を窺い、卑屈にへりくだることが一般化している。

 

奴隷と社員の違いは、本に例えると分かりやすい。

Aさん(雇用主)が「好きな本を読む」という目的を達成する場合、2通りの方法がある。

 

奴隷は、本の購入。

一度購入したら、いつ読んでもいいし、破ってお尻を拭くのに使ってもいいし、燃やしてもいい。つまり、持ち主の自由。

つまり、人で言えば、深夜までこき使ってもいいし、目的以外の使い方をしてもいいし、殺してもいい、ということだ。要は、雇用主のおもちゃとなるということ。

 

社員は、本のレンタル。

レンタルの費用を払っている間は「本を読む」ということについて許されているが、期間は決まっているし、目的以外のことに使ったり、意図せずとも傷つけた場合、元通りになるために補償しなくてはならない。

つまり、人で言えば、雇用契約に基づいた適切な労働以外は提供することはなくて当然だし、メンタルもフィジカルも元気100%の状態で持ち主である私たちに、私たち自身を返してもらわないといけない。

 

ここから言えることは、私たちはあくまで私たちのものであり、雇用関係だからと言って魂を売り渡す必要も、人生を損なってまで尽くす必要も全くないのである。

 

それなのに、男性は、会社というファミリーへの献身をやめられない。

もはや、共依存関係にあるからだ。

「私はこれだけ会社に尽くしているんだから」

「家族を蔑ろにしてまで仕事に打ち込んでいるのだから」

仕事人として、プロとして私は評価されるべきだ、という考えなのである。

私は、あくまで仕事はアウトプットで評価されるべきであり、それまでに自分を押し殺して他人を気遣ったというような自己犠牲を勘案すべきではないと思っている。

なぜなら、自己犠牲を払うことを肯定する構造を生み出すからだ。

そしてまさに、これは会社で暗黙の了解としてルール化されており、そのような自己犠牲と献身こそ、組織人としての美徳であり品格だと勘違いしている人間が多い。

組織の駒として自分を殺し、任務を完遂する。そういう生き方を推奨してきた歴史がある。

男性は、このような歪んだ虐げられ方というか、絶対服従を社会から当たり前と思い込まされている。

ゆえに偏った思考パターンと行動パターンを獲得してしまったのかもしれない。

 

「本当はしたくないのに」という本心が家庭でにじみ出る

男性だって、おそらく本心では、奴隷でいたいわけがない。

なのに、それを当たり前だと思っているから、「本当はしたくない」という気持ちになかなか気づけない。

そして鬱屈した思いは、家庭で歪んだ形で妻や子に対してにじみ出るのである。

「こんなに我慢して仕事しているのに」

「家族のために俺はこんなに頑張っているのに」

という気持ちはわからなくはない。

しかし、考えてみてほしい。

たとえば趣味。自分でやりたくて納得してやっていることなら、誰に何をほめられなくとも、損したとしても、目標に向かって邁進している自分を誇れるものだ。

もしそうでないのなら、実はやりたくないことを誰かのせいにしてやっている。病んでいる。

我慢して働くことを選択しているのは誰か。

家族のために頑張ることを選択したのも誰か。

それが「~しなくてはならないから」という義務感でやっているとしたら、一度立ち止まって考えてみるほうがいい。

それは本当はやりたくないことで、やらなくていいことかもしれない。

そこまで我慢して頑張らなくても、共働きで無理せずやっていけるライフスタイルがあるかもしれない。

家族のために最も必要なことは、お金ではなくて、あなたの健康と笑顔と、家族が一緒に過ごせる時間かもしれない。

 

そういう自分の幸せを、何も考えずにステレオタイプな社会的価値にあてはめて生きていると、本当に大事なものは、いつの間にかなくなっている。

そうなっては遅い。

いまこそ、男性は自分のための自分の人生に、真正面から向き合うべきときなのではないだろうか。

【ジェンダー】暴力とパワーゲームに歪む男のジェンダーロール

女性にもあるように、男性にも「ジェンダーロール」があるということを、最近感じるので書いてみる。

ジェンダーロールとは?

性役割(せいやくわり、gender role)とは、その性別に、社会的に期待されている役割のことである。

例えば、「男だから、めそめそしない」「女だから、おしとやかにする」などの行動規範に従って行動するとき、その人物は性役割を演じているとされる。

この場合、特定の性に本人の好むと好まざるとを問わず、一定の役割を期待すると共に、その役割に応ずる準備や能力、資質、性向がない場合、不要なストレス、劣等感を当事者に持たせ、社会的に自分が不完全であり、不適応であるとの疎外感や差別感を持たせることになってしまう。

これは、女性に賃金労働上の成功のチャンスを与えないばかりか、男性にマッチョイズム(男性至上主義)のシンボルとして適合しない場合、その権威への落第者といった自己評価の低下をもたらすなど、さまざまな議論を投げかけるものでもある。

同時に、ステレオタイプな分類がされているため、性自認を考えるときに、自分を現す用語を並べることでその手助けになることもある。

性役割は、文化によって異なるものもあり、例えば近代日本では買い物は女性の仕事だと考えられていたが、アラブ文化圏や古代ギリシアでは男性の仕事であった。裁縫は女の仕事だと考える文化もあれば、男の仕事であると考える文化も無いわけではない。

(コミュニケーションについては、「コミュニケーション#コミュニケーションの男女差」を参照)

出所:Wikipedia

女性にとって性別が女だというだけで、炊事や洗濯をするのが当たり前だと言われたら違和感があるだろう。

なぜなら、人には得手不得手があるし、性別が役割を規定することは選択の自由を制限することだからだ。

女性だから力が弱いわけでもないし、おしとやかなわけでもないし、誰もがいい香りがするわけでもない。

これと同じことが、男性にも言える。

 

男性の「ジェンダーロール」

少し、この曲を聴いてほしい。

 

 

「強くなければならない」

「ぶつかり全力を尽くさなければならない」

「負けてはならない」

「立ち上がらなければならない」

「泣いていいのは条件付き」

「転んでもいいのは条件付き」

「やられたらやり返さなければならない」

 

これらのことが、「男なら」の枕詞で語られている。

私はこの歌にずいぶん励まされてきたし、はじめの一歩もウルトラマンネクサスもdoaも『英雄』という曲も好きである。それらを批判するつもりは一切ない。

しかし、ここから透けてくるジェンダーロールがある。

「守りたいものを守る」とか「話し合う」ためには、まず上記の条件を満たさなければならないのが、「男」という存在だということだ。

 

力が対等ではくては、暴力で制圧される男社会

女子もそうだったかもしれないが、男子の間では、気に入らないやつを陰で腹パンして外傷が目立たないように暴力を振るうなどは日常茶飯事である。

サンドバッグでいたくないなら、相手をサンドバッグにするしかない。

眼には目を、歯には歯を。なめられたら搾取されるだけだ。やるか、やられるか。強者にしか選択権はない。

 

 

雄の序列は、原始からパワーで決まる。

生まれた時からパワーゲームが世界のルールだ。

砂場で小突かれたら小突き返し、負けて泣いて親のもとに逃げ帰るようなら、「メソメソ泣いてないで一発二発やり返してこい!男だろうが!」と叱られた。

種の繁栄も、太古の昔から戦いのピラミッドの上位にいなければ不可能だった。

お猿さんのときから、群れに強い雄がいなければ、群れを維持できないから、雄は常に上下関係をはっきりさせてリーダーを決めてきた。

弱い雄は群れのなかで価値がないから子孫は残せない。群れのなかで勝ち上がり、群れ同士や外敵との戦いに勝たなければ、生きていけなかった。

 

現代でも展開されるパワーゲーム

婚活市場でもまさにパワーゲームが展開されており、大してその頃から違いはない。

男性は年収や職業で足切りされ、高い参加費を払わないと参加すらできない。

女性には、今のところそれは当てはまらない。年齢という別の足切りがあるが。

暴力は禁止されつつあるが、資本主義社会は結局は血で血を洗う競争社会である。

競争で勝たなくては年収は上位にはならない。

つまり、戦いのフィールドは違えど、他のオスに勝たなくては結婚すらできないのが現実だ。

それなのに『成果出そうレース』から降りろコールされても、降りることなどできない。降りたら無価値になり死を意味するからだ。

「いや、結局降りたら生きてる価値無くなるし、あんたら女性たちは真っ先に見捨てるっしょ…」というのが、ミサンドリーに対する男性たちの声なき叫びだ。

そうやって、力でマウントし合う社会。

強くなければ生き残れない社会。

それが今も脈々と続いている。

 

では暴力に頼るべきなのか?

答えはNOだ。

パワーゲームの世の中だからといって、強者が弱者に暴力を振るうのは仕方ない、とは1ナノミクロンも思っていない。

この文明社会においては、暴力は犯罪であり、法で裁くという『正しく知的な暴力装置』で応戦できる。

ただ、法はまだ喧嘩が下手なので、充分に機能しなかったりするから悩ましい。

私たちは、腕力や膂力に関係なく誰もが安心して対等に話ができる社会をつくるべく、法律という『正しく知的な暴力装置』を、誰もに平等に機能するよう興味関心を持ち、育んでいかなければならない。

ミサンドリーやミソジニーの憎しみに歪んだ主張は、法律を健やかに育むことを妨害していると思う。まるで、息子夫婦の子育てにあれやこれやと偏った経験で過干渉してくる姑のようである。

恨みや私怨によらず、フラットで想像力のあるジェンダーの議論が必要だ。

両方にとって幸せな社会に発展することを願うばかりである。

最後に、もちろん女性同士だって、お互いの歯を折り合うくらいの喧嘩をしたり、刺し殺そうとしたりする修羅場もあるだろうと思う。

「女性だってそういうことがないわけじゃない」という意見に対して、私はYESだと思う。

妻にいびきが煩いからとベッドから蹴り落とされたこともあるし、寝相が悪いからエルボーを落とされたこともあるので、安心してほしい。女性だって腕力があることは身をもって理解している。

ここで話しているのは、男性はみな、そういうバトルロワイヤルに一律に生まれたときからぶち込まれることが、性別としてちょっと特殊なんだな、という話だと理解してもらえれば幸いである。

 

【AC】Step8「傷つけやがった人」その①『幼稚園・小学校のクラスメイト全員』

Step8に従い、私を傷つけやがった人をひとつひとつ、卸していきます。

 

要約:彼らは全員、いじめに加担した。私をバカにして、軽く扱った。私が困っていても見て見ぬふりをして助けなかった。(日和見達も同罪)

 

幼少期の私は変わった子供だった

私は幼稚園から小学校3年生ごろまでいじめられていました。

私は当時はわかりませんでしたが、発達障害(ADHD寄りのASD)なので、空気が読めませんでしたし、集団のなかにいることを嫌いました。

独りでできる遊びが好きで、砂場で山をつくったり、何の木の実かわからない実で色水をつくったり、割り箸をナイフで削って極限まで尖らせたり、空想の世界で物思いにふけったり。そういうことが好きな少年でした。

独りでいる変わった人間は、いつの時代も奇異の目で見られます。一般的な人は、異質な人間のことが恐ろしいので、排除しようとします。あるいは、異質であることを下にみたり、大人に間違っていると言われているので「攻撃してよい存在」と勘違いして攻撃したりします。

例にもれず、私もそのような迫害にあいました。

私には友達はいませんでした。クラスメイトも教師も全員、敵でした。

私をいじって遊ぼうとする。

それを見て見ぬふりをする。

無視して「いない人間」として扱うこともありました。

2人組をつくってください、という先生の言葉は、死の呪文と同じでした。

 

孤立からいじめへ

私は親がそうだったように、「嫌だ」ということは人を傷つける、と思いこんでいたので、嫌だという勇気がありませんでした。

辛くても限界まで我慢しようとしました。それが、いじめっ子を増長させました。

数人で手足を羽交い絞めにされ、和式トイレに顔を押し込められて拷問に近いいじめをされたこともありました。

つまり、こいつは傷つけてもいい存在だ、俺たちとは違うし何をやっても怒らないからいじめてもいい、と軽く見て、彼らは私を軽んじてバカにしたのでした。

私は私らしくいると、集団から理不尽な仕打ちを受けました。

教師などの管理者は正しく介入する能力がありませんでした。

困っている私を見て見ぬふりをしました。

「私が変わっているのが悪い」と言わんばかりの世界に絶望しました。

最終的には全員殺したいと思うほど憎みました。

 

私は何が哀しかったのか

私がそのままでいると誰にも受け入れてもらえないことが、とても悲しかったのだと思います。

なぜ私に冷たくするのだろう。なぜ私はそのままではいけないのだろう。みんなはそれでも許されているのに。

私だけが許されない理由は何なんだろう。私がしたいことを大人がみんな怖い顔をして中断させるのはなぜなんだろう。

そんな、悲しみに満ちた「なぜ」を抱えて独りで泣いているのが、私の幼少期でした。

私はこの頃から、理解されることを諦めました。

生存戦略を定めました。

要求に沿って、望む姿でいれば、少なくとも攻撃はされないことを学び、生き延びるべく模倣して「一般人」に擬態する、わたしなりの生存戦略。

私はこの頃から、自分らしく生きることをやめ、仮面をかぶるようになったと言えるでしょう。

そうすれば、少なくとも攻撃はされないし、異質な人間と認定されてあの冷たい対応を取られる心配もない。

それは元々の出発点は外的脅威からのディフェンスでありながら、主なニーズは求愛だったのだ、と今なら分かります。

結局、いじめっこに報復し鍛えた力を見せつけて暴力で黙らせたのですが、それは本当は望んでいなかったし、理想的な解決ではなかったのでしょう。

結局は己の力で解決するしかない、という思考回路を強化し、実力至上主義が正義であり唯一頼るべき原理原則だとインプットしただけでした。

本当は、傷ついたことを話し、それをきちんときいて謝ってくれたなら、許したいと思っていたかもしれません。

私は、そのような健全なやり取りをしてくれる人間関係に恵まれませんでした。

 

健全な人間関係を経験して手放したい

私は当時、そのままでは愛してもらえないから、愛される形を整えようとしました。

それは、当時私が生きていくためにやらなくてはならないことでした。

そして、今は大人になってから健全な人間関係を経験したことで、必要ないことだと理解しました。

だから、少しずつ手放していきます。

 

この「傷つけやがった人」で気づいたことは、私は

「ありのままの自分の存在を否定され軽視され受け容れてもらえなかったこと」

に傷ついたといえるでしょう。

【ジェンダー】フェミニストを名乗る「隠れミサンドリー」

って書くと炎上しそうだが、我慢できないので書くことにする。

先日、いたく感動した。この漫画を見て。

 

成果出そうレースに参戦し始めた女性たち

この 成果出そうレース は、女性が社会進出するに伴い、女性にも適用され始めているように思う。

例えば、結婚。

家が決める縁談でしかたなく相手を選ぶ余地もなく決められたため、他責にできた今まで。 自由恋愛になり、女性にとって結婚は自らの狩猟能力を問われる実力至上主義の『狩り』と化した。

いかに高性能なATMを捕まえるか、という『成果』で比較されるようになり、数字でわかりやすく存在価値を競うレースに様変わりした。 私たちは簡単に比較できるほど貧相な存在価値ではないし、そもそも異性に好かれるかどうかなど、その人の魅力の一部でしかない。 にも関わらず女性もこのレースから降りようとはしない。

それはなぜか?

幸せというものは不透明で、己の幸せを明確に把握できている人はごく一部であり、大半は分かりやすく比較できるもので手っ取り早く安心したいからだ。これは男性も同じだ。

 

女性は社会から「女として」「母として」というレッテルを貼られた枠のなかでしか生きられないのが嫌になった。そりゃあ嫌になると思う。

だから、社会進出して権利を勝ち取り、結婚だけでなく資本主義経済社会においても『成果出そうレース』に自ら参戦し始める。

成果出そうレースにずっと生まれたころからぶち込まれていた男性と、成人して就職や結婚というイベントに直面して自ら選択して参戦した女性とでは、認知の歪みに大きな隔たりがあったのだが、そのことは今は知る由もない。

『成果出そうレース』は何でもありのバトルロワイヤルだから、当然、出産や育児で離脱しても誰も助けてくれない。敵にとってはまたとないライバルを蹴落とすチャンスだ。

今までの男たちが、家庭を省みたり休みを取ったら同僚に出し抜かれレースで不利になってきたのと同じに、このレースは不平等を補正してはくれない。 男性はそういう血も涙もないモノだ、それで当たり前だと育てられている(歪んでいる)。 女性は参戦してみて、いち早くこの不平等に気付いた。

だから「マタハラだ」とか「セクハラだ」というふうにハラスメントを顕在化できた。 その点で、女性が社会進出してくれたことにより、いかに不健全な競争をしていたかということが炙り出された形だ。

・婚活市場における勝ち組と負け組

・家事育児と仕事の両立の無理解

実はこれらは異性が悪いのではなくて、社会の歪みこそが真の戦犯だ。

 

前職で年収が低かったとき。 婚活パーティーで年収の欄をみてガッカリされ話も聞いてもらえなかった経験がある。

逆に転職して年収が跳ね上がり桁が変わった辺りから、『優良物件』という商品として異性の態度がコロッと変わるのも目の当たりにしてきた。

婚活でパートナーを探せば人間性より先に年収で足切りされるし、結婚してATMとして性能が低ければ、本来安息の地であるはずの家庭でも居場所がない。家事育児に寄与できなかった功罪は、熟年離婚という形で精算される。出がらしの茶葉が捨てられるように、年老いて金が産めなくなった男は棄てられる。男の一生なんてそんなにうらやましいものではない。

この『成果出そうレース』に参戦する人は、男も女も、そういう比較しやすい社会的価値(自分にとって意味があるかどうかわからない曖昧な価値)に振り回されて、満たされない承認欲求を抱えることになる。

実に不幸だ。

男性は漏れなくこの成果出そうレースにぶち込まれるわけで、その生きづらさも少しは汲んであげてもいいのかもしれない、とは思えないだろうか。

もちろん今のバトルロワイヤル方式はルール改定が必要だ。 女性も男性も『生きる喜び』を感じられるように、我々は群れをつくり社会を形成したのだから。

 

男を呪い殺したい「隠れミサンドリー」

女性は本当に長い間、男性によって(正確には社会構造に)苦しめられ、男性を憎んできて、それは今なお、少しも癒されていない。それが、いわゆる「男嫌い」の人々と話していると、よくわかる。

今はちょうど、男女平等こそ是とされる風潮になり、鬱積した怒りと憎しみが女性から噴出している時期なのだろう。

この今のタイミングで、フェミニストを名乗る「男嫌い」に対して、いくら男性の生きづらさを説いたとしても聞く耳は持てない。それは当然の展開なんだなと思う。 「男嫌い」の人たちの鬱憤が晴れてきたら、ようやく話し合うスタートラインにたてる気がするが、それはかなり先のように思える。

真の男女平等を実現したいとして、それは果たして男性を引き摺り下ろし叩き潰し、女性が社会の頂点に君臨する社会構造をつくることなのだろうか?

「男嫌い」がやりたいのはそういうことだと思う。しかしそれは私怨であり復讐であって、男女平等の実現とは程遠い。 自分たちの恨みを晴らすだけ。

戦争の歴史が証明しているように、片方を叩き潰したら、長い歴史をかけて必ず報復されるのは、セオリーだ。 女性は今まさに絶賛報復中で、それは男性の今までの罪のかたち。それは受け止めるべき話だと思う。 しかし、フェミニストは元来、「男嫌い」でも「女嫌い」でもない。

どうやら、この「男嫌い」というのは、「フェミニスト ではなく、「ミサンドリー なんだそうだ。 

私はこのフェミニストを名乗る男嫌いを「隠れミサンドリー」と勝手に呼ぶことにした。

自分たちがしているのは「男尊女卑という巨悪を討つ聖戦だ」と言わんばかりに、男性であればけちょんけちょんにしてもいい、という狂信者たち。

「隠れミサンドリー」は自分たちが弱者であるということを最大の武器にしているし、男性をいくらでも傷つけてもいいという免罪符にしている。自分がされて嫌だった『レッテルを張り追い詰める』という責め苦を味わわせることに人生の喜びを見出した、哀しい復讐者である。

 

人類を減らしていく「隠れミサンドリー」の華麗なる暗躍

確かに私も アルコール依存症 になるまで、弱者の立場を理解していなかった。 スポーツでも学業でもある程度成功していたので、「結果が出せないのを外部要因のせいにするのは甘え」で、敗者の弁は「負け犬の遠吠えだから聞く価値がない」という実に高慢で嫌なヤツだった。

完全に間違っていた。

差別される側になり、疾患に対する無理解に憤慨した。苦しみを理解しない会社や世の中の人が殺したいほど憎かった。 だから「私たちが味わった生き地獄をお前らも味わうがいい」という異性嫌いの憎しみには懐かしさすらある。実に馴染み深い感情だ。ごく自然な憎悪で、私はそれを全く否定しない。

憎み続けて、病と生きづらさに向き合い続けて、ようやく最近「かつて憎んだ人たちも同じような生きづらさに認知を歪ませている被害者であり加害者だった」ということに気づいた。

気づくのに、実に7年の歳月がかかった。 だから、ミサンドリーの人たちの憎悪が簡単に消えないのには、同情の余地が多分にある。

だから、どっちかっていうと私は、男尊女卑を是正して男女平等の社会を実現するいうゴールを向いている。

弱者のつらさを味わったことのある人間なので、むしろフェミニストにとって味方であるはずなんだが、隠れミサンドリーの話は一方通行にも程がある。こうも議論にならず建設的な話ができなくては、辟易させて味方を減らすだけだ。

そうやって、理解ある異性すら攻撃対象にして、擬態しているフェミニスト勢の戦況を悪いほうに悪いほうに傾かせる。司馬懿もびっくりの天才的な見えざる内乱を実現している。

フェミニストを名乗る「隠れミサンドリー」が思い描く理想郷を実現するには、相手方を『根絶やし』にするしかない。

そうしなくては歴史は繰り返す。 結局そういう人は片方だけになったとしても、また別の立ち位置で二極化させていつまでも争いをやめない。つまりがん細胞みたいなものだ。

もうすでに男性たちは辟易としていて、肉食から草食になったり劇的に衰弱している。

全力で衰退の一途をたどっている。もはや絶滅寸前だと思う。隠れミサンドリーの皆さんには嬉しいニュースである。もう一歩で滅ぼせるよ。

そんな荒野で、結婚に対してメリットを感じている男性が、この世にこれからどれだけ残るだろうか。

このまま、女性が男性を目の敵にして「仕事をしていて当たり前」「家事育児をしていて当たり前」「年収は周囲より高くて当たり前」「妻にはいつも優しくて当たり前」「変な性癖があるやつはNG」などと条件を追加し続けていくとする。

もはやそこまで縛られて修行僧のような生活をしながら一人の女性と一緒にいることを選ぶ人のほうが少なくなるだろう。結婚しないで細々と自分が食べられるだけの給料を確保して、趣味にかけられるお金と時間を確保したほうがよほどQOLが高い。

どんどん、結婚は物好きな人がするものになっていくだろう。

女性は仕事をバリバリしたいし、出産や育児でタイムロスしたくないとさんざん言ってきたんだから、それに人生を費やせばいいし、男性は結婚したくないのだから、必然的にカップルは生まれず、ゆえに子供は生まれない。

しかしそれがお互いのニーズが最適化された姿だろう。よもや恨むまい。

そして人類は人口を大きく減らし、衰退していく。それもひとつの選択肢だと思う。

私はそれもいいんじゃないかな、と本気で思っている。生きたいように生きるのが、人生においては大事だし、女性も生きたいように生きるならば、それでかまわないのではないだろうか。

 

まとめ:滅びの道を歩むのが望みではないのなら

しかし、そうではない、というのであれば、少し課題について整理してみたので、聞いてみてほしい。

フェミニストとひとくくりに呼ばれる人たちの中で、フラットに会話できないタイプのフェミニスト、いわゆる「隠れミサンドリー」の良くないところは『自分たちは被害者で、加害者性はない』と盲信していることだ。 無自覚なだけで、男女ともにそれぞれの役割に対して共依存してきた歴史がある。

相手との歪んだ関係に執着することにより、被害者でもあるが加害者でもある依存関係。それが、共依存という関係だ。

残念ながら、両性ともにこういう偏った被害者精神を堅持するタイプが一定数存在する。

それが続く限り、いつまで経っても話し合いは進まない。それらの人たちの騒音が鳴り止まない限り、互いの声は聞こえない。

隠れミサンドリーが、本気でジェンダーロールを破棄して社会をアップデートしたいと願っているとしたら、その実現を自ら阻んでいるのと同じだと思う。

ジェンダーの問題は被害者性と加害者性を等しく持っている。 女性も男性も。 どちらかを加害者にしようとしたり、自分たちだけを被害者にしようとしたりすると、話は歪む。

まずは両方がお互いに自分たちの辛さを受け入れてもらえること。 その上でどうだったら嬉しいのかを一緒に組み立てようとは、考えられないだろうか?

フェミニストを名乗り、男女平等を理想に掲げるならば、男性の生きづらさにも寄り添うマインドセットをして議論に臨み、社会に声を発するべきだと思う。 「隠れミサンドリー」とフェミニストを混同している限り、残念ながら女性も男性も自由にはなれない。

つまり「隠れミサンドリー」を明確に区別し回復を支援することこそ、フェミニストのみなさんに先頭に立っていただき、皆でフェミニズムを大切に育てるために必死になって取り組むべき課題だと思う。

どっちの方が辛いとか、そういう話はもう比較はやめにしたい。つまらない、そういう話は。

わかり合うには、この『成果出そうレース』から男女共に離脱して互いの存在価値を認めることだ。

お互いにお互いの辛さがある。聞くよ。それをお互いに否定せずに吐き出せる、心の安全が確保された空間が、男にも女にも必要なんだと思う。そこで思う存分、恨みは吐き出そう。そして、おいてこよう。

それから、お互いが生きやすくなるように、社会を一緒に変えていこう。

社会こそが歪みであり、真のラスボスだ。女も男もホントはRPGで言えば同じパーティなのに。 同士討ちしたって埒があかない。

そう思うのだけど、これもまた曲がった解釈でとんでもないクソリプをもらうような予感しかしない。

諦め半分で、しかし今の想いを書かずにはいられなかった、3月の寒い夜。

【AC】私は執着と欠点を手放します!(12ステップ・プログラム:Step6~7)

 

Step6~7では、自分が執着していることやStep4で明らかになった私の欠点と呼べるものをまとめていきます。そして、それを書きだし、手放していく決意をする、というものです。

みなさんにみていただいて、私は「これらの欠点や執着を手放します!宣言」をしたいと思います。

 

■私が執着していたこと・あるいは欠点

・親に評価されようとする
・会社に評価されようとする
・期待された役割に応えようとする
・社会的ステータスに固執する
・他人を評価しようとする
・結果を残そうというこだわりをもつ
・他人を過度に恐れる
・他人に頼ることを恐れる
・断罪しようとする
・他人を満足させようとする
・完璧であろうとする
・他人に完璧を求める
・愛されようとする
・自分が不十分だと思いこもうとする
・失敗を恐れる
・失敗を許せないし許さない
・異質であることを恐れる
・他人の必要を自分の必要より優先する
・他人の事情を酌み他人のケアを優先し自分の感情やケアを後回しにする
・復讐という嗜癖にこだわる
・正直に伝えることを恐れる
・正しくあろうとする
・正しくないことを否定する
・自分の気持ちを正しさでジャッジし感情を無視する
・コントロールされることを恐れる
・嫌われないように本心を隠す
・評価を落とさないように振舞う(道化)
・同じ失敗を繰り返すことを恐れる
・取引関係(貸し借り)で相手をコントロール下に置き安心しようとする
・他人を信用しないで疑う
・自分で物事を決めることと納得すること
・模範的であろうとする
・直接気持ちを確認することを恐れる
・直接気持ちを表明することを恐れる
・やりたくないことをしている状態の責任を他人に押し付ける
・本当の自分は嫌われるという思い込み
・怒りを表出することを我慢する
・哀しいことやつらいことを繰り返し考える
・他人からの要求を拒否してはいけないと思い込む
・寂しいと思う自分を惨めに思い、目を背ける
・自分が死滅しいなくなることを願う
・他人が死滅しいなくなることを願う
・都合の悪い自分を見ないようにする
・必要とされようとする
・他人に奉仕してその褒美として承認するようにコントロールしようとしていた
・権力に従うことを恐れ忌み嫌う
・味方を失い孤立することを恐れる
・見捨てられることを恐れる
・親の行いを全肯定しようとする
・他人が自分を好きになるはずがないと信じる

 

まとめ:私の誓い

私が他人にイラついたり、過剰に反応するのは、これらの「自分の欠点」を相手に覗き見るときです。

つまり、他人は自分を映す鏡、というのは言い得て妙で、自分の見たくない姿や恐れを相手を鏡にしてみていたんだな、と思います。

私が哀しかったり、怒ったり、苦しかったりするのは、自分が自分に刃を突き立てていて、相手に反応しているだけなんだな、と気づきました。

もちろん、人権の侵害や不平等な扱いには、ちゃんと抗議して自分の権利や尊厳を守る闘いをしなくてはなりませんが、私はこれからは、少し立ち止まって、自分が激しい感情にのまれているときに、これらの執着や欠点に引き摺られて、あるがままを歪めていないかどうか、点検する勇気を持ちたいと思います。

その繰り返しのなかで、ひとつずつ確実にこれらの執着や欠点を手放していくことを望みます。

おそらく一朝一夕にはいかず、一歩進んで二歩下がるような遅々とした歩みだとしても、それが必要な時間なんだと受け容れます。

完全に私のコントロール下にはないことに恐怖を感じますが、あらゆる努力をしてこれらの執着と欠点を手放す準備をする努力を惜しまないことを、ここに誓います。

わたしたちは自分の人間らしさをーーーその弱さを言い訳に使わないでーーー理解し受け容れて、自分にできるベストを尽くすだけです。

私たちの心構えは良いものでしょう。

しかしそのことは、時折ちょっとした誤りが起こらないという保証にはなりません。

わたしたちのしなくてはいけないことは、自分の弱さを認め、短所を取り除くことについて神(自分の意志ではコントロールできない、この世の力)の助言を謙虚に求めることだけです。

 

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
100Pより引用

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平安の祈り

神様、私にお与えください。

自分に変えられないものを受け容れる落ち着きを

変えられるものは変えていく勇気を そして

その違いを見分ける賢さを

今日一日に生き

それぞれの瞬間を楽しみ

困難を平和への道として受け入れ

この欠点の多い世の中を、

あなたがなさったように、

自分の思うようにではなくて

そのままに受け取り

自分を明け渡してあなたの意志に従えば

あなたが全てを正してくださると信じ

この世では適度に幸福であり

次の世ではあなたと共に

至上の幸福を味わうであろう

と信じることを。

 

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
105Pより引用

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【AC】12ステップ・プログラムのStep5における「2つの注意事項」

12ステップ・プログラムのStep4を終えた人が、Step5を実践するうえで必要な注意事項について、個人的にまとめてみました。

 

 

今まで、私は「12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録」というタイトルで、ブログに赤裸々にStep4の内容を開示してきました。

共感していただけたり、気づきがあります、とコメントをくださったりして、私のフォローワーさんは優しい人が多く、幸いにもあまりグッサリ傷つくようなことはありませんでしたが、これは極めて危険な打ち明け方だった、と言えるでしょう。

まさに、交戦中真っ只中の戦場に、丸腰で白旗を振りながら、籠城していた城からひょっこり出てくるような行為でした。こわ。

Step5はお察しの通り、「Step4を他の人に実際に話すあるいは書きだしたことを見てもらう」ということなのですが、そのときには注意しなくてはならないことがあります。

 

注意点その①:「Step5を聴いてくれる人を注意深く選びなさい」

Step5を聴いてくれる人を注意深く選びなさい ―― 12ステップ・プログラムを良く知っている人を。その人は次のような人であるかもしれません。

 

■信頼できる宗教の資格を持っている宗教家。いろいろな宗派の聖職者は、しばしばこのような要求に応えてくれます。(教会の牧師など)

■信頼できる友人(同性の人が望ましい)、医師または心理療法家。

■あなたが心を開いて分かち合える家族。配偶者や他の家族を傷つける恐れのある情報は明らかにしないように気をつけなさい。

■12ステップ・プログラムのメンバー。あなたがすでにグループに参加しているなら、信頼はすでにあるでしょうし、Step5をグループの一人のメンバーとともに行うことで、その信頼が深まることを発見するでしょう。ある場合には、グループ全体が聞き手となってもいいものです。

 

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
85Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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つまり、あなたが信頼している、あるいは12ステップ・プログラムについて理解のある「言いっぱなし聞きっぱなしができる人」ということです。

なぜなら、そうでない場合、あなたが勇気を出して話したことに対して、カウンセリングやアドバイスをしたがる人は、あなたの心の安全を脅かす可能性が高いからです。

なので、Twitterやブログに簡単にアップするなど、もはや死亡フラグです。

クソバイス(クソみたいなアドバイス)やクソリプに赤裸々に打ち明けた正直な心を踏み荒らされ踏みにじられ、二度と他人に心を開いたりするもんか、とATフィールドMAXになる可能性が高いので、絶対にやめましょう。

 

そのような背景から、聴き手にも、次のような注意事項があります。

■聴き手として寛容であり、受け入れるようにすること。あなたは、あなたのハイヤー・パワー(回復する力)の代理人として、無条件に受け入れるということはどういうことかを伝えているのです。

■聴き手としてあなたがそこにいるのは、話し手が考えたことを明瞭に表現する手助けするためなのです。情報が二人ともに明瞭に理解できるように、必要な時には質問しなさい。

■秘密保持を遵守すること。あなたが分かち合ったことは個人的なことです。信頼を裏切ることほど正直さを貶め、人間関係に害を与えるものはありません。

■Step5がやり通されたときに、その経験について、両者とも自分の感情を分かち合うこともできます。ハイヤー・パワー(回復する力)がわたしたち一人ひとりに向けられている愛を相互に向けあうことが今や可能です。

 

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
86Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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お互いにやり通した間柄であれば、「やり通したという経験」について感情を分かち合うことができます。

しかし、内容について明瞭に理解するために質問をするのはOKですが、聴き手の主観をもとにして打ち明けられた内容について議論したりアドバイスをしたりしてはいけない、ということですね。

○無我の状態で、ただただ打ち明けられるStep4の内容を聴き、内容を理解することに集中する。

○そしてどんな話であっても、一度それを受け容れ、ハイヤー・パワー(回復する力)の代役を務める。

聴き手としては、このことを常に忘れないでいたいものです。

 

注意点②:「謙虚に正直に、勇気をもって、ありのままを話し分かち合うことだけに集中しなさい」

■考えたことの一つ一つを、最後までやり通すのに充分な時間を割きなさい。その題材に集中してそこにしばらく留まりなさい。余計な説明はしないように。

■Step5は、わたしたちが自分の欠点の正確な本質を認めることだけを要求しているのです。このことを心に留めておきなさい。その欠点がどこから来たのかとか、どう変えていったらいいのか、といったことを議論する必要はありません。あなたはカウンセリングや助言を求めているのではないのです。

■他の一人の人にしたいして自分自身を明らかにすることは、控えめに言っても、相当程度の謙虚さを必要とするものです。私たちは今まさに、自分の、自分を滅ぼすような、害のある、人を傷つけるような性格特質を、あからさまにしようとしているのです。私たちは自分の、肯定的な、役に立つような特質も明らかにするでしょう。わたしたちはこのことを、わたしたちが世界に対して着けている『舞台用の仮面』を取り除くためにやらなければならないのです。このことは、表面を取り繕って後ろに隠れようとする、私たちの必要・欲求を取り除くための大胆な一歩です。

■「恨みと恐れについての課題演習」について分かち合うことから始めて、あなたが書きだした性格特質を分析することによって進んでいきなさい。

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
86、89Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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今回Step4を書きだすにあたり、最も重要だと思ったことは、謙虚であるということと、正直であるということです。

よく考えてみれば、Step4で振り返ってきた性格特質は、私たちが今まで全力で『見て見ぬふり』をしてきたことばかりです。

それを認め、見える形にしてまとめる、ということだけでも相当なエネルギーを要します。

言い訳をしたくなります。背景を説明しようとしたりして余計なことを言いたくなります。「私は悪くない」と自己弁護したくなります。必要以上に自分を卑下して書きそうになります。

そういう気持ちを脇に置いて、ただひたすら正直に・謙虚に、私の性格特質はどうであるのか、それによりどんなことがあったのか、それにより誰を傷つけたのか、当時どう思っていたのか、なぜそう思ったのか、どうしてほしかったのか、それはなぜなのか、など、書きだしていくのです。

今まで見たくなかったものが噴出してくるにつれ、書きだすのがつらくなることもあるでしょう。私は、こんな醜いものが私の正体なのか、と絶望感を感じたことすらあります。

しかし、書きだしてそれらをじっくりと眺め、間違いや認知の歪みを認められたとき、心に薫風が吹き抜けたように、爽やかな気持ちになります。

長いこと背負ってきた重荷をようやく卸せたような、そんな気がするでしょう。

だから、勇気をもって、実際にやってみてほしいなと思います。

 

まとめ:自分の問題を打ち明けることにチャレンジする人に敬意を払おう

「絶対に他人に知られたくなかった胸の内を他の人に打ち明ける」ということは、想像を絶する勇気が要ります。

そうして打ち明けた話を、否定されたり、もっとこうすればいいとアドバイスされたり、こういう点が問題だったと講評されたりして、そのままを受け容れてもらえなかったとしたら、どれほど傷つくでしょうか。

 

想像してみてください。

 

例えば、素顔を晒したことのない人に、勇気を出して初めてすっぴんで会ってみたとき。

「あー、すっぴんはかわいくないんだね」

「もっといい化粧水使ったほうがいいんじゃない?」

「目と鼻が残念かな、くちびるは合格だけど」

などと、無残なことを言われたときの気持ちを。

 

もう一生化粧はとらない、むしろ外出したくない、他人に会いたくない、と思いますよね。

このように、ただ言いっぱなし聞きっぱなしで棚卸しを聴くことができない、ということは、勇気を出してStep4を打ち明けた人のアイデンティティそのものを侮辱するようなものなのです。

せっかく、「わたしたちが世界に対して着けている『舞台用の仮面』を取り除くため」に勇気を出し、「表面を取り繕って後ろに隠れようとする、私たちの必要・欲求を取り除くための大胆な一歩」を踏み出そうとしている人の足をひっかけ、二度と仮面を取り除けなくさせる行為です。

Step5はそれほどセンシティブなセッションだ、ということを、話し手も聴き手も理解しておかないといけません。

【ヘルスケア】「少し飲み過ぎる日もあるけど、私はひとよりお酒が好きなだけ」というあなたへ

酒豪の皆様、こんにちは。お酒って飲んでるときは楽しい気分になりますよね。

「飲まなきゃやってらんねーよ」めっちゃ気持ちよく分かります。

酒飲みとアルコール依存症の違いについて考えるチェックリストです。

ちょっと興味ありませんか?

 

いきなりですが、質問です。

基礎チェック:過去に次の経験がありましたか?

1、飲酒量を減らさなければならないと感じたこと     □ある □ない

2、他人があなたの飲酒を非難するので、気に障ったこと  □ある □ない

3、自分の飲酒について、悪いとか申し訳ないと感じたこと □ある □ない

4、神経を落ち着かせたり二日酔いを治すために「迎え酒」をしたこと

□ある □ない

出典:CAGE(ケージ)質問票(Ewing JA:北村俊則訳)

※2つ以上当てはまる方は、特に次の精密チェックをやってみてください。

精密チェック:過去一年間に次のことがありましたか?

1、飲酒したいという強い欲望や強迫感(抑えられない感じ)がある。

例:医師からの断酒・節酒の指示が守れない。

飲酒運転を繰り返す。隠れてでも飲みたくなる。

仕事が終われば待ちきれないように飲む。

□ある □ない

 

2、飲酒の開始、終了、量のいずれかのコントロールが困難である。

例:朝から飲んでしまう。

翌日に支障が出るほど遅くまで飲む。

悪酔いや臓器障害を起こすまで飲む。       □ある □ない

 

3、飲酒を止めたり、減らすと離脱症状が生じる。

例:手指の震え、発汗、不眠、吐き気、イライラ等の離脱症状があり、

その不快さを避けようとして飲酒する。

□ある □ない

 

4、耐性が生じる。(酒量が以前より多くないと酔えなくなった)

例:飲み始めたころの1.5倍以上飲まないと最初の頃と同程度の酔いが得られない。

□ある □ない

 

5、飲酒のために、他の楽しみや趣味が減ってきた。

例:飲んで酔っている時間が長く、飲酒中心の生活になっている。

□ある □ない

 

6、明らかに飲酒が原因で有害な結果が起きているのを知りつつ飲む。

例:飲酒による肝障害等の身体の病気

一定期間の多量飲酒によって生じた落ち込んだ気分状態

周囲の人(家族・友人など)との関係が悪化した等

□ある □ない

出典:WHOによる「ICD-10」の診断基準より

 

 

いかがだったでしょうか?

 

 

精密チェックで3つ以上当てはまった方は、要注意です。

基礎・精密ともに1つぐらいしかなかった、という人も、飲み方の変更が必要かもしれません。

そんな皆さんは、今後お酒と上手に付き合っていくためにも、少し最後まで読んでみることをお勧めします。

 

「酒は百薬の長」と思っていませんか?

お酒は少量なら、「動脈硬化を抑制する作用」「2型糖尿病の血糖値の低下」「骨密度の増加」などの可能性があります。

しかし、これらは他に有効な予防・治療法があり、これらの薬理効果があることを理由に飲酒を推奨することは医学的にはできません。

WHOによれば、上記の図のように発がん性など多くの害をもたらします。

実は、あまり知られていませんが、アルコールに関連して生じる病気や病変は非常に多いのです。

このことを考えると、「百薬の長」とは決して言えませんよね。

「酒は百薬の長」とは、2000年も前の中国の為政者が税収確保のために考案したと言われている言葉で、医学的根拠に基づいたものではありません。

 

アルコールは「脳の変化」を生じます。

多くの人は、日ごろの嫌な気分(抑うつなど)や欲求不満や不安や緊張を取り払うために、付き合いのために、喜びをもっと大きくするために、あるいは単なる習慣として、お酒を飲んでいます。

しかし、アルコールは薬物なので、次のようなことが生じます。

 

1、急性の脳の変化 ―酩酊と離脱―

①「酩酊」は、脳の働きが弱まった状態

少量なら、これらの脳の働きへの影響は小さく、内気な人が感情を伝えたり、緊張や不安を取り、ストレス緩和や人間関係作りに役立ちます。

しかし、多量になると、感情のコントロールがひどく弱まり「怒り上戸」となって人間関係を傷つけたり、「泣き上戸」となって落ち込みから自暴自棄・自殺の恐れが生じます。

また、緊張・不安がなくなって無防備となり、危険な目にあったりします。

 

②睡眠のリズムに悪影響

寝酒は、寝つきはよくなっても、途中で目覚めること(中途覚醒)が多くなり、深い眠りは得られません。

うつ病の人が寝酒すると、睡眠障害をさらに悪化させます。

睡眠薬よりも、アルコールは依存しやすい薬物です。

 

③酩酊から醒めたとき

飲んだ翌日の二日酔い状態は、心も体も調子が悪く、うつ気分になりやすい状態です。

アルコール依存症では、酒が切れてくると、離脱症状の不快さが生じるのでそれを回避するために飲むようになります。

離脱症状:手指の震え、発汗、不眠、吐き気、嘔吐、食欲不振、イライラ、怒りっぽい、頻脈、動悸など

 

2、慢性の脳の変化 ―長期・多量の飲酒はアルコール依存症と脳委縮を生じる―

①アルコール依存症の出現 ―ちょっとした刺激で飲みたくなる―

飲み続けていると、飲酒を思い出させる情景(赤ちょうちん・ビアガーデン・夏の海など)や気分(仕事終わりの解放感・嫌なことがあった日・良いことがあった日・旧友に再会した喜びなど)にすぐ反応して、酔いの快感を生じる脳の中枢(報酬系)が過剰に興奮し、普通以上に飲酒欲求が亢進するようになります。

アルコール依存症についての画像研究はこのような事実を明らかにしています。

お酒を飲み続けているのは、「意志が弱い」せいではないのです。

 

②脳委縮の出現 ―アルコールは神経細胞数の増加も神経細胞の発達も抑える―

日本酒2合以上の飲酒は、脳委縮を10年早めます。

万能細胞から発達した神経幹細胞を使った実験において、アルコール量を加えた培養液では、ほろ酔い程度の量であっても、神経細胞の数が減り、成長も悪く、神経細胞同士が神経突起で繋がり合うことも減ることが分かっています。

 

③体や家庭が壊れるまで飲んでしまう

上記の脳の変化により、リスクのある飲み方の修正が困難となります。

 

飲酒には「危険」が伴います。

①家族関係、家族の心を壊す

…飲酒欲求の亢進の結果、酒中心の生活になり、家族と溝が生じます。

②子供にストレスを与え、トラウマを生じる

…トラウマは、成長後も子供の生き方に影響を与え続けます。

③仕事上の能率の低下・事故・職場を失う恐れがある

…アルコールによる体調不良は、突然の欠勤・病欠・能率低下・ミス・事故につながります。職場の健康診断で、アルコール関連の異常が指摘されます(血液検査の数値異常など)。

④飲酒運転・事故を起こしやすい

…急性・慢性のアルコールの影響による脳の判断能力の低下が違反・事故を引き起こします。

⑤外傷(ケガ)を繰り返す

…酔って、転倒・転落などでケガをしたり、命を落とします。

⑥自暴自棄・自殺願望を強める

…長期多量の飲酒は、気分障害(うつ病)を発症・悪化させます。それゆえ、うつ気分を癒すのに、酒を利用するのは危険です。

⑦妊娠中の飲酒は胎児障害の恐れが生じる

…妊娠中やその可能性のある時は、完全飲酒が推奨されています。

 

「危険」を知らせる心身の兆候

ここまで読んで、ちょっとでも心当たりがあるひと。当人ではないけど、大切なひと(パートナーや妻や夫や子供など)の飲酒に心当たりがあるな、というひとがいるかもしれません。

 

☆心身の兆候7つのチェックリスト☆

□血液検査(γGTP・MCV・ALT・AST・尿酸値・中性脂肪・血糖値の上昇)の異常がある

□顔の傷跡、酩酊時の外傷(ケガ)の経験がある

□軟便、下痢をする

□飲むと抑うつ気分がひどくなる

□飲酒運転をする(二日酔いでの運転は飲酒運転です…)

□離脱症状がある

□救急・時間外の受診経験がある

 

気になる人は、この漫画を読んでみましょう。

ここにあなたが知りたかった、すべてのことが書いてあります。しかもおもしろい!

「自分は違うかなー」って思ったひとも、これから安心して飲み続けるために、一度読んでおいて損はないですよ☆

 

 

【依存症】再飲酒(スリップ)を活かすために

アルコール依存症の治療には、再飲酒はつきものであると言ってよい。

飲酒すると確実に病気は悪化するし、失うものも多い。

しかし、この病衣期は何回か失敗しないと、本当に酒をやめる気にはならないものである。

大切なことは、飲酒を今後のために活かせるかどうかである。

飲酒した場合には、自分のどこに問題があったかを考えて、それを改めるようにしていくとよい。

次にチェック項目を挙げてみよう。

 

①アルコールに対してコントロールが効かないことを認めているだろうか?

量を過ごさないように飲めばよいと思っていれば、その考えを改めない限り、何回でも酒による失敗を繰り返すであろう。

アルコール依存症とはどんな病気であるかよく学び、他ならぬ自分がその病気にかかっているということを認めることが大切である。

 

②自分ひとりの力でやめ続けられると考えていないだろうか?

AAや断酒会に出席しない限り断酒継続は難しい。

自力に頼っている間は、しばらくはお酒をやめることはできても、長期の断酒はできないと思ったほうがよい。

この分野では、なぜAAや断酒会が発達してきたのかを考えてみよう。

 

③友人の整理はついているだろうか?

飲み友達が訪ねてきたり、あの人は酒が好きだからといって、親せきや職場の同僚が酒を勧めに来るようでは断酒はできない。

絶対に酒は飲まないということを、周囲にもわかってもらうべきである。

そのためには飲み友達とは付き合わないようにし、自分は一滴の酒も飲まないということを周りの人にはっきり告げる事である。

 

④家族は治療に参加しているだろうか?

アルコール依存症は家族全体がやられていく病気である。

家族自身にも多くの問題点があり、それを直していかないと、アルコール依存症者の断酒も難しくなるし、たとえ断酒したとしても家庭の平和を取り戻すことはできないのである。

家族自身が病院の家族教室や、自助集団の家族会に出席することが大事である。

 

⑤感情の動揺を飲酒で解決しようとしていないだろうか?

腹が立ったらすぐに酒に走るとか、イライラするので一杯飲んでスッキリさせようという類のことである。

不快な感情をアルコールや酒に頼ることなくやり過ごすにはどうしたらよいか考えてみよう。

 

⑥もう治ったと思っていないだろうか?

これは1年以上断酒した人に多く見られる。

長いこと飲んでいないから、コントロールの効かない体質もよくなったのではないか、と思って少量のつもりで飲み始める。

しかし、たちまちのうちに以前と同じ問題飲酒の状態になるのである。

20年以上経って飲酒してあっという間に元に戻ったという人もいるのである。

 

⑦すべてがわかっていても失敗することがある

頭ではわかっていても断酒を実行するのは大変なことである。

回復の途中で、ふとした気のゆるみなどで、何回かは飲酒してしまうこともあるだろう。

この場合は、失敗をいつまでも悔やまず、再度挑戦すればよい。

 

 

まとめ:失敗しないほうがいいけれど、失敗したって道はある

一度飲酒してしまうと、無事に酔いが醒めるかどうかは全くわからない、アルコール依存症はそういう難しい病気である。

だから、もっともよいことは、一回で気が付いて失敗することなく回復の道を歩み続けることである。

また、飲んでしまったけれども、幸いにアルコールが切れた場合には、そのことを最大限に活かすように努めるべきであろう。

大丈夫。

私は何度も再飲酒している。そのつらさや苦しさは、少しはわかるつもりである。

そして失敗しても道はある、ということを、私はこれからの人生をかけて示していきたい。

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【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑫(見捨てられ不安)

今回は、見捨てられ不安 について棚卸していきます。

 

見捨てられ不安 とはどんなもの?

■見捨てられ不安■

見捨てられ不安は、わたしたちが幼時期に経験した、情緒的あるいは身体的な(両方の場合もある)両親の不在に対する無意識の反応です。

子どもの頃わたしたちは、応答してくれない・責任を取らない、情緒的にそばにいてくれない大人たちの、予測できない行動を観察してきました。アディクションがどんどん激しくなるにつれて、彼らは親らしいことをすることが、ますますできなくなりました。

子どもの頃わたしたちは、彼らの与えることのできる以上の配慮を求めました。彼らの興味の対象は他にあったのです。

成人としてわたしたちは、同じように情緒的にそばにいてくれないパートナーを選ぶ傾向があります。見捨てられることの現実と痛みを経験しないですむように、わたしたちはパートナーの必要・欲求に全て応えることによって、自分の「愛」の必要・欲求を満たそうとします。

「楽しませる」こと、そのことによって見捨てられる可能性を減らすことが、人間関係での問題や葛藤に先行してしまって、ほとんど交流のない緊張した環境を生み出します。

見捨てられることを恐れていると、わたしたちは次のようであるかもしれません:

●安全でなく感じる
●他人を楽しませる人になる
●一人になることを避ける
●過度に心配する
●自分のために立ち上がろうとすると罪の意識を感じる
●共依存する

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最も認めるのが困難だったセッション

私がこの「見捨てられ不安」を最後に残していた、ということには意味があります。

残していたことそのものに意味があるというか。

私は、「見捨てられ不安」が自分にあるとは認めたくなかったのです。

私は常に「別にこっちを見てくれなくてもいいよ」「そんなこと気にしてないよ」という態度をとっていました。

それは、自分が不安であることを認めるのが怖かったからにほかなりません。

今こそ、12回目のこのSTEP4の最終段階において、認めるべき時が来ました。

 

私にとって両親の「愛情」は「支配」だったということ

なんで怖かったのかな?と考えを巡らせてみれば、やはり、認めるということは「見捨てないでください」という願いを白日の下にさらすことだったからではないかと思います。

その願いが聞き届けられなかった時の私のダメージは計り知れないからです。立っていられないかもしれない。そう思っていました。まさに生き死にに関わる認識の一つでした。

あるいは過去に聞き届けてもらえなかったのでしょう。

子どもの頃わたしたちは、応答してくれない・責任を取らない、情緒的にそばにいてくれない大人たちの、予測できない行動を観察してきました。

アディクションがどんどん激しくなるにつれて、彼らは親らしいことをすることが、ますますできなくなりました。

子どもの頃わたしたちは、彼らの与えることのできる以上の配慮を求めました。彼らの興味の対象は他にあったのです。

まさにこの部分ですね。

彼らの興味は別にありました。

あるときの父は他の女性だったし、あるときの母は自分の父親でした。

父の最大の関心事は仕事だったし、母の最大の関心事は、実は自分自身の心の平穏でした。

皆、そのままの私を見ていてはくれていなかった。私以外の物に興味があり、私の「私を見てほしい」「見捨てないでほしい」という願いは見事に無視されました。

彼らは「いいや、私たちは一生懸命愛情をもって育てた、無視などしていない。何度も問いかけたではないか。それにたくさんの本やモノを買い与え、習い事など機会を与えた。つまり私たちの愛は時間的金銭的投資で証明されている。」というような主張をするでしょう。

しかし、ここでいう無視とは、そういうことではないのです。

私は、ただ、私のそのままの気持ちや言葉を、「そう思うんだね、なるほどね」と聞いてほしかっただけでした。

私は、ただ、好きなものを否定しないで「失敗してもいいから」と自発的に挑戦して結果を得るプロセス、これを経験するチャンスをこそ、与えてほしかった。

それらを根こそぎ奪ってコントロール下に置いておいて、自己満足でやることは、オナニーです。「愛情」ではなく「支配」です。

だから、私は

「あなたたちは私を愛していたかもしれないが、愛する方法を間違えたし、事実私は、とてもさびしかった。『望まれる私でなければ』あなたたちに見捨てられるのではないかと不安になるくらいには。」

と堂々とここに、両親に対して異を唱えたい。

 

私がアルコール依存症になったすべての元凶

私が人生のなかで最も違和感を覚え、悩み苦しみ、結果アルコール依存症を発症するにいたった私の特性。

それは、「自分より相手を満たそうとしてしまう」という特性です。

 

見捨てられることの現実と痛みを経験しないですむように、わたしたちはパートナーの必要・欲求に全て応えることによって、自分の「愛」の必要・欲求を満たそうとします。

「楽しませる」こと、そのことによって見捨てられる可能性を減らすことが、人間関係での問題や葛藤に先行してしまって、ほとんど交流のない緊張した環境を生み出します。

 

まさにここに書いてある通りです。

 

私は、見捨てられないように、この特性を身に着けたのだと、今まさに分かりました。

私は、できるだけ出会う人に嫌われないように嫌われないようにと、びくびくしながら暮らしてきました。

頼みごとが断れないのも、そうです。場が嫌な空気になると自分が犠牲になろうとするのも、そうです。好きでもない人のご機嫌取りをしてしまうのも、そうです。

全部、『見捨てられることの現実と痛みを経験しないですむように』私は能動的にその行動を選択していた、ということを認識します。

楽しませなくては、いい気分にさせなくては、好かれなくては、正しくなくては、優しくなくては、魅力的でなくては、、、

『私は見捨てられてしまうのではないか?』

と不安だから、取り繕い、道化を演じ、自分自身そのままでは、他人に相対することができませんでした。

その結果、『ほとんど交流のない緊張した環境を生み出し』、アルコールで脳を麻痺させなくては人と交流できないほどの耐えがたい緊張を自らに与えていたのです。

これが全ての元凶です!!! 

私は、これが知りたかった。ずっとずっと知りたかった。

なぜこんなに生きづらいのか、なぜ私は人に媚を売るような真似ばかりするのか、気になって気になって、自分が惨めで嫌いでたまりませんでした。

 

 

見捨てられ不安からの回復 とはどんなもの?

□見捨てられ不安からの回復□

わたしたちが、常にそこに存在しているハイヤー・パワーの導きと愛に、より多くを頼り任せることができるようになるにつれて、自分の環境の処理能力に対する自信が増加します。

わたしたちの見捨てられ不安は減少していき、ゆっくりと、自分は生まれながらに価値ある、愛すべき、貴重な人間であるという感情に置き換わっていきます。

わたしたちは、自分自身を愛し、大事にしている人たちと健康な人間関係を求めます。感情を表したり、人間関係での問題について話したりするとき、もっと安全に感じるようになります。

わたしたちは古い恐れをハイヤー・パワーと、わたしたちに関心を持ってくれる人たちへの信頼に置き換えます。

わたしたちは、自分を取り巻く社会の中での育み愛する友情関係を理解し、受け入れるようになります。

ハイヤー・パワーがわたしたちの生活のなかに在れば独りぼっちになってしまうことはもう絶対にないのだ、ということを理解し始めるにしたがって、わたしたちの自信は成長していきます。

見捨てられ不安が小さくなるにつれて、わたしたちは次のようになり始めます:

○自分の感情に正直になる
○一人でいて快適に感じる
○自信を表現する
○人間関係において自分の必要を大事にする
○人間関係での問題について話し合う

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私は見捨てられることに怯えなくてもいい

ゆっくりとではありますが、私は自分の気持ちに対する正直さを取り戻しつつあります。

私はアルコール依存症になりました。

酒をやめること一つ、私は自分の力ではできなかった。その無力を知りました。

そして、回復しようとする力(ハイヤー・パワー)が己のなかにも、そして仲間のなかにもあることを知りました。

どんな生い立ちであっても、どんな環境であっても、人はより良くなろうとする重力を、生まれながらに持っているのです。なんてすばらしいことでしょう。そして、それは社会的な形で報われるかどうかはわかりませんが、確実にそのひとを、人間として成長させてくれる、ということは、どうやら確からしいのです。

ということは、私たちは、自分にはコントロールできないが確かに存在する大きなエネルギーに支えられていることになります。

そして、そんな天然の永久機関ともいえる我々一人ひとりは、このうえなく素晴らしく、生きているだけでものすごく価値がある生命体です。

それゆえに、どんなひとも「生まれながらに価値ある、愛すべき、貴重な人間である」といえるのでしょう。

そんな自分なら、幸せになる権利も価値もあると思いませんか?

私たちは、生きていてもよかったということです。

私たちは、自分の幸せを追求してもよかったのだということです。

人の顔色をうかがって嫌われないように背を低くして生きていかなくてもいい。

そんなことをしなくても、私たちは見捨てられない。ないがしろにもされない。

なぜなら、私たちは、誰が何と言おうと、人間である限り、価値ある存在だからです。

 

ということは。

たとえばそんな自分を「好きだ」と言ってくれる人がいます。

今までは「こんな私を好きなわけがない」「何の目的だろう」「本当の私を見ていないに違いない」と、愛情を受け取ることを拒否していたでしょう。

それは、受け取ってもし違ったら、見捨てられるのではないか、という不安が先に立つからです。

 

これからはどうでしょうか。

私たちは、生きているだけで、価値ある存在だと分かりました。

そんな自分を「好きだ」という人が現れたとして、それは素直に受け入れられることのように感じます。

好意をそのまま受け取り、「ありがとう」と言い、そんな関心を寄せてくれる人を信頼します。そして、その人のなかにもある、より良くなろうとする重力(ハイヤー・パワー)を信じて交流することで、私たちはやっと、喉から手が出るほどほしかった『真の信頼関係』を築くことに成功します。

もう好かれようと自分を犠牲にしたり、我慢したりしなくてもよいのです。

私たちが私たちのまま、健康な人間関係を築くためには、まず自分自身のより良くなろうとする重力(ハイヤー・パワー)を感じて、自分自身をこそ愛することが必要だったのです。

私はそのために、アルコール依存症になったのだと思います。

わたしたちは、自分自身を愛し、大事にしている人たちと健康な人間関係を求めます。感情を表したり、人間関係での問題について話したりするとき、もっと安全に感じるようになります。

わたしたちは古い恐れをハイヤー・パワーと、わたしたちに関心を持ってくれる人たちへの信頼に置き換えます。

わたしたちは、自分を取り巻く社会の中での育み愛する友情関係を理解し、受け入れるようになります。

ハイヤー・パワーがわたしたちの生活のなかに在れば独りぼっちになってしまうことはもう絶対にないのだ、ということを理解し始めるにしたがって、わたしたちの自信は成長していきます。

 

まさにここに示されている通り、私たちは『古い恐れ』を置き換えることができます。

この原理原則を理解してさえいれば、たとえ物理的には独りだったとしても、私たちはもう独りじゃない。

昔のように古い恐れを抱いて、誰とも心を交わさず、人を愛さず、己を愛さない、閉じた絶望と暮らす日々には、もう戻らないでいい。

 

まとめ:とはいえ、私はまた忘れることも知っている

今日、とてもよい気づきを得たとしても、私はまた、絶望のうちにいるときもあるでしょう。

世界中の誰も信じられない、己すら信じられない、と落ち込み、全てを投げたしたくなるときが、きっとあるでしょう。

それは、今までの人生で幾度もあった危機だからです。これからも繰り返されることは、おそらく確実です。

でも、ここでわたしたちは思い出さなくてはなりません。

何度もその危機を乗り越えてきたからこそ、いま私たちはこうして息をしているのだということを。

そう、私たちは不屈の重力を有しています。何人にも奪うことができない、回復しよう・より良くなろうとする重力。これは、命ある限り動き続ける力で在り、私たちを見えるところでも見えないところでも常に支えてくれています。

だから、いま私たちの仲間がどん底にあるとしても、信じています。

私たちは己の思い込みなんかには負けない。信じてくれる自分自身や信頼できる人がいる限り、何度失敗してもまた立ち上がることができる、と。

これを教えてくれたのは、他ならぬ最愛の人です。心から感謝を込めて。

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑬(抑圧された性)

今回は、抑圧された性 について棚卸していきます。

 

抑圧された性 とはどんなもの?

■抑圧された性(セクシュアリティー)■

気がついてみると、わたしたちの他の人たちーとりわけ親しい人たちや、情緒的に親密になりたいと思っている人たちーに対する性的な感情は、混乱していて不確かです。わたしたちは、自分の性的感情が、不自然で異常であると考えるようにトレーニングされてきました。

自分の感情を他の人たちと分かち合わないので、わたしたちは自分の性(セクシュアリティー)について、健康な態度を育てていく機会がありませんでした。わたしたちが小さい子どものとき、子ども同士で身体的な性的探検をして、厳しく罰せられたかもしれません。与えられたメッセージは「性は汚い、話すべからず、避けるべし」というものでした。またわたしたちは、コントロールを喪失していた親か近親者に、性的に辱めらていたかもしれません。

その結果、わたしたちは、自分の性的役割について居心地が良くありません。私たちは、誤解されたり、見捨てられたりするのではないかと恐れて、パートナーと性について自由に話しません。わたしたちは愛をセックスと取り違え、無差別に自分の体を与えたり、あるいはハグ(抱擁)が欲しいだけなのにセックスに同意したりするかもしれません。

親として、わたしたちは性について自分の子供に話すのを避け、そうすることによって、彼らが性的同一性を発展させるためには指導やモデルが必要なのだ、ということを否定しているのかもしれません。

抑圧された性によってわたしたちは次のようであるかもしれません:

●罪と恥を感じる
●道徳観を失う
●自分の性的同一性について混乱している
●好色である
●嫌な気分を避けるためにセックスを使う
●冷感症または不能症を経験する
●誘惑するような行動で人を操る

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
77Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

✨この本の購入はこちらからできます✨

https://aca-japan.org/docs/books.html

ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
お求めの際には、ここの名前は出さないようお願いいたします

 

水責め

私の性的欲求は、実に倒錯しています。

特に「管理」ということに性的興奮を感じます。

 

たとえば、水責め。

私は、高校生のとき拘束されて溺れさせられるAVを見たことがあります。

複数人に足をつかまれて、何度もプールに沈められます。飲み込んだ水を吐くので精一杯で、呼吸できず、やがて失神します。

身体がチアノーゼで紫色になり、水をホースでかけると痙攣します。その姿を見て、AV男優たちが笑っています。

「もうやらないからね」と言いながらストーブのある部屋で少しだけ優しくされます。

そこで涙を流しながら「怖かった」と縋り付いているところに、再びAV男優が来て、「嫌だ嫌だ」と泣き叫ぶAV女優を再び水責めにします。そしてまた苦しみぬいて失神します。

もはや、拷問です。

 

私は、いじめられていました。

何人もの男子生徒に手足を羽交い絞めにされ、トイレの便器に顔を沈められたことがあります。

鼻に入ってくる汚水。呼吸ができなくて、「やめて」と叫んでもゴボゴボというだけで届かない。相手が飽きてくれるまで、決して終わらない地獄。

 

その時の苦しみを、私は快感に変換しないと耐えられなかったのではないか、と思います。

息をすることを「管理」される恐怖。生きることも死ぬことも相手に委ねなくてはならない絶望感。そういう不自由を強いられることに、性的興奮を感じます。

 

拷問

私は、ドMなのかといえばそうでもなく、ドSの側面もあります。

 

たとえが難しいのですが、漫画に似たような描写が2つあります。

 

ひとつは『幽☆遊☆白書』で、飛影が躯に送ったバースデープレゼントです。

 

 

 

もう、最高のバースデープレゼントですよね。

プレゼントしたものは、昔、躯を奴隷にしていた奴と、鞍馬から貰った寄生植物と融合させて作った花(笑)です。

切ってもすぐ再生して死なないが、痛みは感じるといったかなりエグいものです。脳を破壊しない限り、半永久的に、対象に生き地獄を味わわせることができます。

一家に一鉢ほしいところです。

 

 

もうひとつは、『天上天下』の颯又左が、兄を「飼っている」シーンです。

妾の子として颯家にきた又左は、兄にいじめられ、しょんべんをかけられて馬鹿にされたりします。父親は実子である兄のほうをかわいがり、又左は存在を認めてもらえませんでした。

ある日、幼い又左は憎しみに耐えかねて兄を襲撃しますが。父に阻まれます。

その後は、性格および性癖は異常かつ残忍に成長。自らに従わない高弟達を惨い方法で殺したり、従うことを拒否した「八楰」を拷問した上で火あぶりにして殺したりします。

そうして邪魔者をすべて殺して当主となった又左。

憎き兄を、地下室に指を爪ごと一本一本釘で拷問椅子に打ちつけて管理しています。手足の指を骨に沿って限界まで割いた状態で固定し、経管栄養で生かしておいている兄が、いまなお8年経っても、言葉にならないうめき声をあげて苦しんでいるシーンがあります。

それぐらい、しますよね。うんうん、わかるわかる!とすごくスカッとする爽やかなシーンだと思います。

殺すなんて生ぬるい。死にたい、死なせてくれ、と哀願するくらいに追い込んでからが勝負。死ねない地獄を味わわせるところからが本番、ということをこの作品はよくとらえていると思います。

 

 

興奮して話がそれました。

つまり私は、生死与奪を「管理」される、という苦しみを快感だと思っている節があります。

 

「管理」を性的欲求に変換した理由

なぜなのかな?と思い思考を巡らせます。

性的虐待を受けていたわけではありません。

両親が変態だったわけでもありません。

しかし、ここには心当たりがあります。

自分の感情を他の人たちと分かち合わないので、わたしたちは自分の性(セクシュアリティー)について、健康な態度を育てていく機会がありませんでした。

 

私が本当に感じる性的快感や、興奮する事柄についてひたすら隠してきました。

おそらくこういうものが一般的に興奮するんだろう、ということで、友人が貸し借りしあっていたAVを試しに借りてみても、興奮できませんでした。

愛のあるSEXを映像化したようなノーマルなものには私の性的センサーは反応しませんでした。

それを話すと、仲間外れにされると思いました。だから、分かる振りをしていました。

 

父と母が性交している場面に出くわしたとき、両親はひどく狼狽して、その場を誤魔化し、とても情けなくみえました。

私はとてもよくないことを目撃してしまったような気がしました。そのことについて特に翌日何もなく、私はあまり両親が性的なパートナーであるということは触れてはいけないことなのだと思うようになりました。

与えられたメッセージは「性は汚い、話すべからず、避けるべし」というものでした。

まさにこれ、ですね。

 

その結果、たしかにわたしは、自分の性的役割について居心地が良くありません。

「管理」というキーワードで、法に抵触するような性的欲求を持っていて、それは常に満たされることはありません。

オーガズムに達することはできますが、最もやりたいプレイをしているかといえば、そうではないという感覚があります。

呼吸や生死をコントロールされる、ということへの性的興奮は、おそらく、幼少期に「耐えられない」と感じた苦痛を快感に変換して、無理やり緊急対応したのではないか、と思います。

 

私は母親の過干渉で、何もかも決められ、私の意志は尊重されませんでした。あらゆる決定は自由にできませんでした。まさに「管理」です。

いじめにより、実際に呼吸ができない恐怖を味わいました。力に屈服させられる経験。これもまた悪意のある「管理」です。

そういった「管理」による苦しみは苦しみとしてとらえると耐えられないものだったのでしょう。私は、その苦しみを、快感に置き換えてしまい、性的倒錯を引き起こしたということなのではないか、と分析しています。

 

 

抑圧された性からの回復 とはどんなもの?

□抑圧された性からの回復□

自分を愛する気持ちと、自分を気遣う能力を増大させてくるにつれて、わたしたちは自分の体と自分の性的な欲望を正常で自然なものと認め始めます。

他の、自分自身を愛し、大事にしている健康な人たちを得ようとするときに、わたしたちは愛や好意をより適切に表現し、また求めるようになります。

何かや誰かに関わることを恐れる度合いが小さくなり、情緒的、精神的、性的に、健康な人間関係に入っていく準備が、以前より良くできています。

感情や欲望や弱さを分かち合うとき、もっと安全に感じるようになります。自分に対する信頼感が成長し、自分が傷つきやすくても許せるようになります。

わたしたちは、自分や他の人が「完全」でなければならないという必要・欲求を放棄し、そうすることによって自分自身を成長と変化に向けて解き放ちます。

わたしたちは自分の性(セクシュアリティー)について、子供たちに正直です。わたしたちは、彼らの健康な性的同一性に対する必要と同様に、情報に対する必要をも受け入れます。

自分の性(セクシュアリティー)を受け入れると、わたしたちは次のようになり始めます:

○自分の性的な必要について適切に対話する
○親密な感情を分かち合う
○自分自身の性的な必要を考慮する
○性的な自己を受け入れる

******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
78Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

✨この本の購入はこちらからできます✨

https://aca-japan.org/docs/books.html

ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
お求めの際には、ここの名前は出さないようお願いいたします

 

私はこの性癖を、後ろ暗い、あまり話すべきではないものだと思ってきました。

しかし、自助グループで勇気を出して性癖について打ち明けてみて、わたしだけが倒錯した性的欲求をもっているわけではないんだ、ということがわかり、とても安心しました。

 

感情や欲望や弱さを分かち合うとき、もっと安全に感じるようになります。自分に対する信頼感が成長し、自分が傷つきやすくても許せるようになります。

わたしたちは、自分や他の人が「完全」でなければならないという必要・欲求を放棄し、そうすることによって自分自身を成長と変化に向けて解き放ちます。

 

まさに、この通りでした。

 

性について話してはいけないものではなかった、ということを理解すると、私は、自分が醜い特殊で異常な性癖をもった『劣悪な人間』だという自己否定をせずに済みます。

私が性的に興奮することについては、由来があるもので、私の人間としての質を下げるものではないということは、私を安心させます。

 

性においても、我々は『理想的で完璧でなくてもよい』のです。

だから、私は安心して、子供が何に興奮しどんな性的欲求を持っていたとしても、否定せずに傾聴することができそうです。

わたしたちは自分の性(セクシュアリティー)について、子供たちに正直です。わたしたちは、彼らの健康な性的同一性に対する必要と同様に、情報に対する必要をも受け入れます。

そして、彼らが興味を持ったとき、隠したり誤魔化したりすることなく、丁寧に情報提供する必要を受け容れ、保護者としてできるサポートをすることを認めることができます。

 

まとめ:性癖はいろいろあってもいい

この記事を書くにあたり「異常性癖」と調べてみると、実に様々な性癖が出てきます。

参考:異常性癖-アンサイクロペディア

 

なんだ、自分だけが変なんじゃなかったんだ、って思いません?

いろいろな性癖があっておもしろいし、当然なんだなと思います。

だってこれだけたくさんの人がいて、顔かたちや異性の好みだって様々なんですから、一緒なわけないですよね。

そういう安心感を、このセッションでは感じられた気がします。

 

性癖に限らず、「これって自分だけで変なことなんじゃないか」と思うことも、話してみると意外に受け入れられたりするもので、そういう風に打ち明けてもらえると、他の人が話しやすくなるのかもしれません。私は他の人の話を聞き、話しやすくなった人の一人です。

自分が性的なマイノリティーで、差別されるのではないか、と考えると怖いのは、ものすごくよく分かります。

だから、心の安全が担保される場所で、信頼できる仲間にだけ、まずは話してみることをお勧めします。