私は、「え?」「なに?」と、話している最中や話終わった後に、話し相手から聞き返されるのが嫌いです。
話をしているとき、それが続き、話す気をなくす時もあります。
今日はそんな会話における私の負の感情を掘り下げます。
私が嫌なこと①:「え?」「なに?」と聞き返されること
話をよく聞き返されます。
私の声は騒音にかき消されやすく、高くもなければ低くもありません。たぶん、聞こえにくい。
こちら側の責任です。だから一生懸命しゃべります。
話の最中に聞き返されると、私の話を軽視しているのではないか?と疑念がよぎります。
つまり、私の話を重要だと思っていないから、最後まで聞かずにかぶせて話すのではないか、という疑念です。
これは話終わってから「え?なに?」と言われる場合も同様です。
一生懸命しゃべったのに意味が通らないのは、集中して聞いていないからではないか?という疑念に繋がります。
どちらにしても、私の話が重要ではない話と思われているように感じます。
だから悲しくなります。
私が嫌なこと②:嘘や隠し事
私はそんなに頭が良くないので、隠し事は不得手です。
世の中の人々は、よく嘘や隠し事を場面や人により使い分けていて、私は大変感心しています。私には難しいことだから。
私は仲間だと思うと、なんでも話してしまいます。
私の『そのまま』を見せられること。それが私にとっての仲間の定義だからでしょう。
だからかもしれません。私が真摯に聞いてきたその人の話が『そのまま』ではないと知ったとき、私はとても辛くなります。
隠し事をされていると知った時も、同じように胸が痛みます。
『お前は仲間ではない』と言われているような気持ちになります。
もちろん、嘘や隠し事がない人間など、社会的な生き物である我々には不可能なことは、今まで生きてきてよく分かっているつもりでした。
それでもなお、私は痛みを感じます。
私が嫌なこと③:誤魔化されること
②に似ています。②は、間接的に話してもらえない悲しみです。
これは、直接的に『真っ直ぐ返ってこない』ということに対する哀しみです。
たとえば謝ったとき、伝えようと言葉を尽くしたとき。
Do you 〜 ? という形で質問されたら、YES or NO が回答の頭に来ますよね?
それが他の形で返答されると、私が発した疑問やメッセージは、ちゃんと受け取ってもらえたのだろうか?と不安になりますよね。
それと似ていて、日常会話で喩えるならば
妻「晩ご飯なにがいい?」
夫「君はなにが食べたい?」
と質問で返してくる違和感と似ているでしょう。
なにがいいか?という問いかけに応えてから、質問をするべきです。問いかけは、実質無視されています。
これが妻側にとっては静かに着実にストレスになります。これを私は「誤魔化し」ていると認識します。
なぜか?
自分の答えや考えを表明するリスクを避け、無意識に相手に責任を負わせる卑怯な行いだからです。
自分の気持ちが見えないという課題を見ないために、誤魔化すためにあえて他人に振る。
向き合おうとしていません。自分にも、相手にも。
だから私はそのような人と会話していると、虚しくなります。
私が嫌だと感じた背景は?
ここまで読んで、聡明な皆様はお気づきかもしれません。
そう、これらは、私には『変えられないもの』です。
だから、悩んだり嫌がったりしても、どうしようもない事柄。
なぜそれをコントロールしたいと思ったのか?そこにフォーカスすると、私の認知の歪みが顕在化します。
母親です。
また母親かよ、と思うかもしれません。しかし、母親です。
母親は、聞き返されるのが嫌いでした。
聞き返すとひどく怒りました。
だから私は、母が話し始めたときには、できる限り聞くことだけに集中するようにしました。
それは私にとってストレスでした。
いつどこから始まるかわからない、相手のペースで唐突に始まる、私にとって重要かどうかもわからない話。
それを、今熱中してやっていることを中断して(これはASDには耐え難いくらい辛いのですが)聞かなくてはならない。
それだけの努力を不意に常に強いられることが、不満だったのでしょう。私は他人にも、その努力を求めるようになりました。
私がこれだけの熱意を持って話しているのだから、相手も熱意を持って話を聞くべき、という認知の歪みです。
自分の受けた傷を認めず、「あの人にも理由があったから」と自分を傷つけた加害者のための言い訳をし続けると、いつかどこかで「自分だって耐えられたのだから、あなたも耐えられるはず」を無意識に押し付ける暴力の連鎖を生み出す。自分を大事にして生きることは他人を尊重するのと同じ。
— 三森みさ@書籍販売中『だらしない夫じゃなくて依存症でした』 (@mimorimisa) March 3, 2020
まさにコレです。
無意識に押し付ける暴力の連鎖。
私は、私が母親に受けた傷を見て見ぬ振りをした。だから、相手にも求めてしまいました。
②と③について。
母親は、私に真っ直ぐ本当のことを話してくれていない、と私は感じてきました。
父との関係も、親戚や実家との関係も、後ろ暗いところは背中に隠して、何も問題ないようなフリをしていました。
私が尋ねても、誤魔化すばかりでした。
私は、そのときの悲しみの味を知っています。同胞と認め自分の真心を差し出した相手が、それを受け取らず、また真摯に返してくれないときの痛みの味を知っています。
不安でした。
私の声は届いていないのではないか?私が悪いのではないか?
なぜなら、母親は私を愛しているはずで、私の声をちゃんと聞いているはずで、それなのに届かないのは、私の言い方や声の大きさやタイミングが悪いに違いない。
そうでなくては、私は愛されていないということになってしまうからです。
私は愛されるために一生懸命声を枯らし、喉が裂けるほど声をかけて、取り合ってもらえなかったあの日の無力感と不安感と焦燥感。
もう二度と味わいたくない…だから私は、そういう対応をされたとき、必要以上に焦りイラつき、哀しくなります。
まとめ:母も他人も『変えられない』けれど
私の感情を、私自身が真っ直ぐ振り返るとき、ようやく報われた気持ちになります。
他ならぬ私自身が、あのとき辛くて、腹立たしくて、悲しくて、愛してほしかった。
このことを認められずにいるから、私は他人にも自分が受けたのと同じ暴力を押し付けてしまったのだということ。
私が受けた傷は、確かにあった。
私は他人に求めることを手放せる気がしています。
不安になり「愛されていないのではないか?」と思う必要はもうないということを、私は今の私に穏やかに諭すことができます。
世の中にどれほどいるでしょうか。
率直に自分の醜さをさらけ出す人が。
それを真っ直ぐ受け止め、真剣に投げ返してくれる人が。
私は期待しすぎていました。そして、それは私が頑張りすぎていたからなのです。
真っ直ぐ聞けないときだってあるし、嘘や隠し事が全くない人なんていない。誤魔化したいときだって、私にだってあるじゃないか。
それって実はすごく難しいことなんだよなっていうことを、すっかり忘れていました。
相手が、できるか、できないか。それは変えられない。なぜなら、相手の能力だから。相手の能力は、相手の人生の中でしか磨かれない。私たちはタッチできないことです。
だから、貴方のせいじゃありません。
聞き流されても、嘘をつかれても、隠し事をされても、誤魔化されても、貴方に非はありません。
貴方が至らないからではない。
貴方がしているからされて当然なわけでもない。
相手がまだ未熟だから、そうしてしまうだけで、貴方には何も悪いところはない。
だから、哀しくて当たり前だし、怒って当たり前です。
嫌いになったって仕方ないでしょうし、要するに、貴方が感じたことを、我慢する必要なんてない。貴方が感じた感情は、確かにある大切なものなんだから、隠さないで認めてあげてください。
それが、他人の「え?」「なに?」に悲しみイラつく日々から抜け出す一歩目になる。そんな気がします。