月別アーカイブ: 2020年3月

【AC】「え?」と聞き返されて、悲しくなりイライラする理由

私は、「え?」「なに?」と、話している最中や話終わった後に、話し相手から聞き返されるのが嫌いです。

話をしているとき、それが続き、話す気をなくす時もあります。

今日はそんな会話における私の負の感情を掘り下げます。

 

私が嫌なこと①:「え?」「なに?」と聞き返されること

話をよく聞き返されます。

私の声は騒音にかき消されやすく、高くもなければ低くもありません。たぶん、聞こえにくい。

こちら側の責任です。だから一生懸命しゃべります。

話の最中に聞き返されると、私の話を軽視しているのではないか?と疑念がよぎります。

つまり、私の話を重要だと思っていないから、最後まで聞かずにかぶせて話すのではないか、という疑念です。

これは話終わってから「え?なに?」と言われる場合も同様です。

一生懸命しゃべったのに意味が通らないのは、集中して聞いていないからではないか?という疑念に繋がります。

どちらにしても、私の話が重要ではない話と思われているように感じます。

だから悲しくなります。

 

私が嫌なこと②:嘘や隠し事

私はそんなに頭が良くないので、隠し事は不得手です。

世の中の人々は、よく嘘や隠し事を場面や人により使い分けていて、私は大変感心しています。私には難しいことだから。

私は仲間だと思うと、なんでも話してしまいます。

私の『そのまま』を見せられること。それが私にとっての仲間の定義だからでしょう。

だからかもしれません。私が真摯に聞いてきたその人の話が『そのまま』ではないと知ったとき、私はとても辛くなります。

隠し事をされていると知った時も、同じように胸が痛みます。

『お前は仲間ではない』と言われているような気持ちになります。

もちろん、嘘や隠し事がない人間など、社会的な生き物である我々には不可能なことは、今まで生きてきてよく分かっているつもりでした。

それでもなお、私は痛みを感じます。

 

私が嫌なこと③:誤魔化されること

②に似ています。②は、間接的に話してもらえない悲しみです。

これは、直接的に『真っ直ぐ返ってこない』ということに対する哀しみです。

たとえば謝ったとき、伝えようと言葉を尽くしたとき。

Do you 〜 ? という形で質問されたら、YES or NO が回答の頭に来ますよね?

それが他の形で返答されると、私が発した疑問やメッセージは、ちゃんと受け取ってもらえたのだろうか?と不安になりますよね。

それと似ていて、日常会話で喩えるならば

妻「晩ご飯なにがいい?」

夫「君はなにが食べたい?」

と質問で返してくる違和感と似ているでしょう。

なにがいいか?という問いかけに応えてから、質問をするべきです。問いかけは、実質無視されています。

これが妻側にとっては静かに着実にストレスになります。これを私は「誤魔化し」ていると認識します。

なぜか?

自分の答えや考えを表明するリスクを避け、無意識に相手に責任を負わせる卑怯な行いだからです。

自分の気持ちが見えないという課題を見ないために、誤魔化すためにあえて他人に振る。

向き合おうとしていません。自分にも、相手にも。

だから私はそのような人と会話していると、虚しくなります。

 

私が嫌だと感じた背景は?

ここまで読んで、聡明な皆様はお気づきかもしれません。

そう、これらは、私には『変えられないもの』です。

だから、悩んだり嫌がったりしても、どうしようもない事柄。

なぜそれをコントロールしたいと思ったのか?そこにフォーカスすると、私の認知の歪みが顕在化します。

母親です。

また母親かよ、と思うかもしれません。しかし、母親です。

 

母親は、聞き返されるのが嫌いでした。

聞き返すとひどく怒りました。

だから私は、母が話し始めたときには、できる限り聞くことだけに集中するようにしました。

それは私にとってストレスでした。

いつどこから始まるかわからない、相手のペースで唐突に始まる、私にとって重要かどうかもわからない話。

それを、今熱中してやっていることを中断して(これはASDには耐え難いくらい辛いのですが)聞かなくてはならない。

それだけの努力を不意に常に強いられることが、不満だったのでしょう。私は他人にも、その努力を求めるようになりました。

私がこれだけの熱意を持って話しているのだから、相手も熱意を持って話を聞くべき、という認知の歪みです。

 

まさにコレです。

無意識に押し付ける暴力の連鎖。

私は、私が母親に受けた傷を見て見ぬ振りをした。だから、相手にも求めてしまいました。

 

②と③について。

母親は、私に真っ直ぐ本当のことを話してくれていない、と私は感じてきました。

父との関係も、親戚や実家との関係も、後ろ暗いところは背中に隠して、何も問題ないようなフリをしていました。

私が尋ねても、誤魔化すばかりでした。

私は、そのときの悲しみの味を知っています。同胞と認め自分の真心を差し出した相手が、それを受け取らず、また真摯に返してくれないときの痛みの味を知っています。

不安でした。

私の声は届いていないのではないか?私が悪いのではないか?

なぜなら、母親は私を愛しているはずで、私の声をちゃんと聞いているはずで、それなのに届かないのは、私の言い方や声の大きさやタイミングが悪いに違いない。

そうでなくては、私は愛されていないということになってしまうからです。

私は愛されるために一生懸命声を枯らし、喉が裂けるほど声をかけて、取り合ってもらえなかったあの日の無力感と不安感と焦燥感。

もう二度と味わいたくない…だから私は、そういう対応をされたとき、必要以上に焦りイラつき、哀しくなります。

 

まとめ:母も他人も『変えられない』けれど

私の感情を、私自身が真っ直ぐ振り返るとき、ようやく報われた気持ちになります。

他ならぬ私自身が、あのとき辛くて、腹立たしくて、悲しくて、愛してほしかった。

このことを認められずにいるから、私は他人にも自分が受けたのと同じ暴力を押し付けてしまったのだということ。

私が受けた傷は、確かにあった。

私は他人に求めることを手放せる気がしています。

不安になり「愛されていないのではないか?」と思う必要はもうないということを、私は今の私に穏やかに諭すことができます。

 

世の中にどれほどいるでしょうか。

率直に自分の醜さをさらけ出す人が。

それを真っ直ぐ受け止め、真剣に投げ返してくれる人が。

私は期待しすぎていました。そして、それは私が頑張りすぎていたからなのです。

真っ直ぐ聞けないときだってあるし、嘘や隠し事が全くない人なんていない。誤魔化したいときだって、私にだってあるじゃないか。

それって実はすごく難しいことなんだよなっていうことを、すっかり忘れていました。

 

相手が、できるか、できないか。それは変えられない。なぜなら、相手の能力だから。相手の能力は、相手の人生の中でしか磨かれない。私たちはタッチできないことです。

だから、貴方のせいじゃありません。

聞き流されても、嘘をつかれても、隠し事をされても、誤魔化されても、貴方に非はありません。

貴方が至らないからではない。

貴方がしているからされて当然なわけでもない。

 

相手がまだ未熟だから、そうしてしまうだけで、貴方には何も悪いところはない。

だから、哀しくて当たり前だし、怒って当たり前です。

嫌いになったって仕方ないでしょうし、要するに、貴方が感じたことを、我慢する必要なんてない。貴方が感じた感情は、確かにある大切なものなんだから、隠さないで認めてあげてください。

それが、他人の「え?」「なに?」に悲しみイラつく日々から抜け出す一歩目になる。そんな気がします。

 

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑪(権威ある人を恐れること)

今回は、権威ある人を恐れること について棚卸ししていきます。

権威ある人を恐れること とはどんなもの?

■権威ある人たちを恐れること■

権威ある立場の人たちを恐れることは、親たちの非現実的な期待ーわたしたちがそうできた以上のことを求めたことーの結果であるかもしれません。

彼らの裁くような、批判的な、責めるようなやり方と、つじつまの合わない怒りは、わたしたちの他人との関わり方に影響を与えてきました。

私たちは権威ある人たちを、その人たちがわたしたちに非現実的な期待を持っているかのように思ってしまい、彼らの期待に沿えないのではないか、と恐れてしまいます。

他の人たちが単に何かを主張しただけなのに、私たちはしばしばそれを怒り、またはコントロールと誤解してしまいます。

このことで威嚇されたように感じるかもしれないし、さらにそれに対して、わたしたちの過剰に敏感で脆弱なやり方で反応するかもしれません。直面や批判を避けるために、私たちは自分の統合や価値を犠牲にして、力を持つ人のそれに合わせていくのです。

自分がどれくらい有能であるか正当に評価できなくて、他の人と比べ、自分は不十分で不適当であると結論するのです。

権威あるひとたちを恐れることは、わたしたちに次のような問題を引き起こしているかもしれません:

●拒絶や批判を恐れる
●ものごとを個人的に受け取ってしまう
●ごまかすために傲慢に振る舞う
●自分を他の人と比べる
●自分が正しいことに固執する
●不適当、または無能であると感じる

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
67Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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わたしは『厄介な社員』です

私は、会社の本部が嫌いです。

私は、上司、というものが、虫唾が走るほど嫌いです。

会社が『指示』してくる、というのが、もうそれだけでNo!と言いたいぐらい嫌いです。

会社・組織・先輩・上司。組織のヒエラルキー構造、上の立場にいる評価者。

それらに対して反射的に否定的な態度を表明する傾向にあります。

私たちをコントロールしようとしているのではないか?と身構えます。「俺たちに○○しろって言いてぇのか?」と胸ぐらをつかみかかりに行きます。

これは、弱い犬ほどよく吠えるという言葉にもある通り、私が権威ある人を恐怖している、弱い側の存在だからです。これを認めることは、正直今とても抵抗感があります。「実力がない」「弱い」。そんなふうに判断されることは、私にとって耐えがたいことです。

『威嚇』というのは、言い得て妙で、実にぐっさりきます。

 

その割には、「評価」に対して過剰反応します。

これについても、とても嫌だな、と思います。

評価されたいと思っています。自らの有能さを正当に評価できない私は、おっしゃる通り、他の人との比較でしか安心できないのです。

特に、憎んですらいる、権威ある人からのお墨付きを欲しているところがあります。つまり、自信がないのです。自分が誇る自分に、自信がない。だから、外部の評価や権威に寄りかかろうとします。

そんな自分は、ひどく卑しい下賤の輩だと自己卑下しています。だから、他の人との比較において優秀な成績を収め、賞賛されたことに対して素直に喜べません。心の底ではほしくてほしくてたまらないと渇望しているくせに、「そんなもの欲しくもなんともないけどね」という顔をしたがります。欲しいと認めることは、隷属に近い屈辱感があります。

しかし、このように他人に評価されたいという欲求(承認欲求)に支配されているということを、認めざるを得ません。そういった認知の歪みが、確かに存在します。

 

 

 

 彼らの裁くような、批判的な、責めるようなやり方と、つじつまの合わない怒りは、わたしたちの他人との関わり方に影響を与えてきました。

これに関して考察を深めてみます。

私は、両親にそうした扱いを受けてきたのだろうか?それは、他人との関わり方に影響を与えてきたのだろうか?

 

そうでした。

 

「どうして○○できないの?」

「なんでこんなこともわからないの?」

「できなかったら、○○は買ってあげないからね、できない子には何も買ってあげません」

「○○できるまで、寝ることも食べることも許しませんからね」

 

これらは言われた記憶があります。

私は家という場所を、一時期は『牢獄』と同様のイメージに感じていたことがありました。結果を出さなければ処罰される場所。要求を満たさなければ権利がはく奪される場所。

そして、看守的立ち位置である母は、情緒不安定でした。

同じことをしていても、あるときはぶちギレ、あるときは、何の反応も示しませんでした。わたしは安心して生活することができなかったように思います。常に顔色を窺いながら、これをやっていいのかどうか、内心ビクビクしていました。

 

「非現実的な期待」とはなんだったのか?

非現実的な期待とは、私のなかではこのような期待だったように思います。

期待というよりは、義務ですね。

 

「常識的・ふつう・良い子 でなくてはならない」

「正しくなくてはならない」

「完璧でなくてはならない」

「第三者から評価されなくてはならない」

 

私たちは権威ある人たちを、その人たちがわたしたちに非現実的な期待を持っているかのように思ってしまい、彼らの期待に沿えないのではないか、と恐れてしまいます。

 

これらの期待に沿えないことはとても恐ろしいことでした。

なぜか?

裏切ったら、私の存在はいないもの、必要のないモノと判断され無視されるから。

無視される恐怖、無関心に対する恐怖です。

 

必死で叫んでも声を聞いてもらえない。

どんなに訴えても心に届かない。

わかってもらえない。見てもらえない。守ってもらえない。

 

それは、親・先生・クラスメイトとの交流の記憶です。

 

親は私が優秀であることを期待しました。迷惑をかけなくて、学業・スポーツ共に優秀で、良好な友好関係を築く自慢の息子。いいですね、そんな人間なら。

でも私は最初、そうではありませんでした。だから失望されました。いつも悲しそうな顔を向けられました。

クラスメイトは、私が劣っている点を挙げて、ことあるごとに馬鹿にしたりいじめたりしました。私は、別に彼らが好きに生きていることに特に異論はなかったのに。私が好きに生きることは、彼らの良しとするところではありませんでした。

先生は、そんな私を守ってはくれませんでした。「正しい行いをしなさい」と偉そうなことを言っておきながら、何もできないことに、腹が立ちました。

「あなた方が正しいというのなら、どうして私を守ってくれなかったのか。」

『るろうに剣心』(第16巻)で、瀬田宗次郎が緋村剣心に語った言葉が私の胸に蘇ります。

不殺とか 弱いものを守るとか あなたは言うけれど

それは間違いなんだ

何故なら

あの時あなたは 僕を守ってくれなかったじゃないですか

あなたが正しいと言うなら なんで守ってくれなかったんです

 

「弱きを助け強きを挫く」という正義を行うことができない先生や学校に失望しました。思えば、そこから組織や上司に対する不信感は醸成されてきたのでしょう。

頼りは、己の力のみでした。

親も、先生も、正しさを振りかざす割には、徹頭徹尾正しいわけではない、中途半端な存在。そのつじつまの合わなさが、私には耐えらえれないほど腹立たしいことでした。

 

両親が教師であることの歪み

さて、両親は教師です。

そう、私は当然、先生と同じだ、ということを連想します。

この人たちは、親であるけれども、あの頼りにならない偽善者と同じ人種だ、と私は認識しました。

正しい人たちの代名詞『先生』。それがどれだけ空虚で実のない存在かを知っています。

それなのに、私に正しさで制限をかけてきます。正しさという隠れ蓑に隠れて自分は血を流さない卑怯者。それは唯々邪魔な存在であり、私が生きる上でこのうえない脅威でした。

彼らはいわゆる看守であり、私は囚人だったといえます。

 

つまりここにきて私は、「管理者」に対して、恐怖しているのだ、と自覚せざるをえません。

(この「管理」について、私はこの窒息しそうな閉塞感を快感に変換しようとして性癖を歪ませるわけですが、それはまた今度分析したいと思います)

 

 

権威ある人を恐れることからの回復 とはどんなもの?

□権威ある人たちを恐れることからの回復□

権威のある立場にいる人たちと、一緒にいて楽に感じるようになり始めるにつれて、わたしたちは批判をもっと積極的にとるようになり、批判は学ぶための手段となりうることを発見するようになります。

権威ある人たちも私たちと同じような人間であり、彼らなりの恐れや防御や不安感を持っているのだということがわかります。

物事を個人的に受け取ることをやめたとき、彼らの行動は、私たちがどのように自分自身について感じるかを決定しはしないのだ、ということを実感するでしょう。

わたしたちは単に他者に反応するのではなくて、状況を判断し、自分の行動を選択し始めます。わたしたちは、究極的な権威は、常に私たちと共にいるハイヤー・パワーであることを再認識します。

権威ある人たちと一緒にいて快適であるようになってくるにつれて、わたしたちは次のようになり始めます:

○高まった自己評価を持って行動する
○自分自身のために立ち上がる
○建設的な批判を受け入れる
○権威ある人たちと楽に交際できる

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
68Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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忌まわしい管理者である親や先生も、また人なり。

彼らもまたどうしようもなく不完全で矛盾した人間であり、正しさの権化ではないのだ、と知ります。

「役割」として正しくあらねばならないと虚勢を張っていた、彼らの苦しさや弱さについて確認すると、そのような「管理者」に対して、私は必要以上に恐れる必要はない、という安心感を持つことができます。

すなわち、私の自己評価について、彼らは決定権を有していない、という安心感です。

私は彼らに認められなかったからと言って、自分の評価を落とさなくてもいい。

つまり、どれほど権威ある人が否定的な評価を下したとしても、私には直接的には何の関係もないことで、「私は生きていないほうがいいのかもしれない」と思い悩まなくてもいい、ということです。

あくまでも彼らの私に対する第三者評価は彼らの物であり、私になんの攻撃性も有していない、と確認するとき、私は安心してその批判的な内容を冷静に吟味することができます。

そして、取り入れるべき批判については、気づきを与えてくれたことに感謝して真摯に聞くことができるでしょう。

取り入れるべきでない、と思う批判は、ごみ箱に捨ててもいいのだ、という安心感をえました。

そのすべてが攻撃に見えていた彼らの批判は、学ぶための手段となりうることを発見することができました。形は歪でも、彼らなりのヒントをくれていただけだったということです。それは善意であり、悪意であっても扱い次第で私は主体的に役立てることができる。

そういう、自分自身の生きていく力を信じ、耐えがたいほど辛いこともいつか好転していくというハイヤー・パワーを実感することができたセッションではないかと思います。

【AC】他人からのアドバイスを無意識に警戒してしまう理由

わたしは、アドバイスを素直に聞くのは苦手です。

「○○したほうがいいよ」

と言われると、何も知らないくせに知った風な口を聞きやがって…と、心が反発しがちです。

他人から提示された情報に非常に懐疑的です。

本当に真実なのか?他人の欲や意図やバイアスに歪んでいないか?を確認しないと信じることができません。

わたしは、人を信じられない、心の冷たい、器が小さい人間なのだろうか?と凹むことがよくあります。

そもそも、なぜなんだろうか?と考えてみました。

 

理由①:「間違えてはいけない」という強迫観念

まず、わたしは、極力間違えてはいけないと思っている節があります。

間違えることは他人から非難され嘲笑される、取り返しのつかない恥ずかしいことだと思っているのです。

なぜなら、ASD(自閉症スペクトラム)で、いわゆる『常識的なこと』でわからない点をよく尋ねてきました。尋ねた人には、よくバカにされてきました。

「なんでそんな当たり前のことがわからないの?」

「どうしてあなたは普通にできないの?」

と言われました。親にも悲しい顔をされてきました。

私の「わからない」という気持ちに、だれも寄り添ってくれなかったし、誰も助けてはくれなかった。その悲しみと怒りが今もまだ腹の底にあります。

つまり、私のことを根本的に理解していないと思っています。

それなのに、わかったようなことを言われるのは、我慢がなりません。そのわかったようなことは、基本的に間違いだと考える傾向にあります。

心のうちを打ち明けあい、私がさらけ出した醜い部分をみても否定しないこと。自分の醜さも打ち明けてくれること。

この双方向でのやり取りで信頼関係を構築しない限り、他人から言われたことはほぼ100%疑ってかかる傾向にあります。

わたしは聞くのが怖くなり、聞いてくれなかった他人を憎み信用しなくなりました。

わからないことを素直に聞けない。でも間違えてはいけない。そういう強迫観念を持っています。

だから、素直に受け取れないのだと思います。

 

理由②他人に従うことに対する恐怖

次に、闇雲に親の言う事を信じた結果、痛い目をみてきた経験から、人に従うのは危険で怖いことだと感じている、ということです。

過干渉によりストレスを与えられ続けた私は、長いこと学習性無力感に苛まれてきました。

正しさというカンナで丁寧に削られ続けた自己効力感は、もはや雀の涙ほどもありませんでした。何も確認しないで親の期待に身を任せて生きてきて、自分の人生を生きている実感を失いました。

その実感を取り戻すのは、至難の業で、未だ判然としません。

私はまたこの失敗を繰り返すのは、死んでも嫌です。

だから、提示されたアドバイスの内容が、本当に私が受け入れるべき提案なのかどうか、そして、今やるべきことなのか、という2点で、かなり慎重に検討することになります。

 

しかし、そういう私の態度を見てとると、アドバイスしてくれた人は苛立ちます。

「正しいことを言っているのになぜやらないんだ?!」

「せっかくアドバイスしているのに聞こうともしない。全然素直じゃない!」

発言者にとって正しいことが、私にとって正しいかどうかは、私が決めることです。

アドバイスや助言はありがたいですが、その情報を活用し行動に移すかどうかは私の自由でいいはずです。

しかし、アドバイスしてくれたのだからそのひとに対して配慮しなくてはならない、と思うと、ただでさえ遅い決断がさらに難しくなります。

 

疑り深さというマイナス要素は、慎重さというプラス要素と表裏一体

性質について考えを深めるにつれ、私の欠点は果たして欠点だから消さなければならないものなのか?と私は自分自身に問いかけます。

私には、利点でもある、とも思えてきました。

私はたしかに、人の善意を無闇に警戒する認知の歪みを抱えています。

それが原因で、私は他人に関わるとひどく疲れます。

「私にはそう言った認知の歪みがある」と認識しておくと、『あ、今これはもしかして思い込みかな』と客観視することができます。

そうであれば、この特性は「慎重さ」という利点です。

不用意に誤った情報や判断に流されたり、他責にしたりすることなく、世の中を生きる『誠実さ』にさえ繋がる長所でもあります。

 

根源的なもう一つのバイアス

ここで、はた、と気づいたことがあります。

「わたしはそもそも何故『素直であらねばならない』と思っているのか?」

ということです。

愚直であることは、決して美徳ではありません。

昨今のコロナウイルスの情報を盲目的に信じる人々がマスクやトイレットペーパーの買い漁っています。

真偽が定かではない情報に踊らされる姿は、かくも滑稽で社会悪です。

このことは、皆さんも肌身に感じていることかと思います。

素直というのは、毒にも薬にもなる、ただ単なる特性でしかない。

良いも悪いも、裏返る。

ではなぜ、それを良いと断定したか?

それは、『世間的に良い』とされている、機能不全家族の父母が愛した「常識」という忌まわしい物差しが、私のなかに深く根を張っていたからです。

そして①の、「間違い」と他人に思われる、いわゆる常識外れが怖い真の理由は、「そうでなくては嫌われて、またひとりになるかもしれない」という不安からです。

「見捨てられ不安」です。

それに縛られているから、わたしは間違えてはいけないと思っているし、素直でいなくてはならない、と制約をかけていたのです。

この根こそ、そもそもの認知の歪みの始まりだったのだと気づいて、『じゃあ素直に聞けなくたっていいんじゃん』と思えました。

「素直である必要」は、実はどこにもなかった、ということになります。

まとめ:あなたはそのままでいいのかもしれない

私はこのままでいいのかもしれない。

ということは、あなたも、そのままでいいのかもしれません。

今、「これが私の悪いところだ」と思っていることは、いくつありますか?

そのいくつかは「こうあるべき」という「常識」という歪んだ物差しで断定しているものではありませんか?

そのいくつかは「そうでないと嫌われるかもしれない」という見捨てられ不安で回避したいものではありませんか?

もしもそうなら、それらの罪悪感や劣等感は、抱え切れないほどいっぱいのその両手から手放してよいものなのかもしれません。