ジェンダー」カテゴリーアーカイブ

【ジェンダー】『英雄色を好む』という男らしさの固定概念について

ぽつりぽつりと思い出した男性ジェンダーロールについて、棚卸しさせてください。

私はあまり『肉食系』と言われる男性とソリがあいません。

しかし、男性社会においては、未だに『雄として有能であること』を誇示する傾向にあります。会社や趣味の集まりなど、リーダーシップを取ろうとしたがる人がいわゆるそうした『肉食系』にカテゴライズされるリア充的なキャラクターが多いなぁと思って、いつも遠巻きに眺めています。

転職したとき、7人しかいなかった同期は「自分たちは優秀だ」と思っている節があり、90%以上がそのようなキャラクターの人でした。たしかに転職試験の倍率は高く難関で受かった人が少なかったから、自負が芽生えるのも無理はないのですが、研修中の寮での共同生活は苦痛でした。

同期たちは、毎週末クラブに出かけてナンパしたり「何回やった」だの、「セフレがいる」だの、そういう雄自慢を酒の肴に飲むことが多い人たちでした。

私は本当はそういう話題が全く楽しくなく、むしろ嫌いだったのに「世の中はそういうもので、それが優れた人間のやることなら、真似しなくては」と、乗っかっていきました。

そんな自分を惨めに感じます。

同期は好きだったんですよね、そういうプレイボーイであると自負できる生活が。エロさえあれば男は喜ぶと思っていて、色を好むことこそハイランクな趣味だとさえ考えていたように見えました。価値観の相違が半端ではない。

私は当時まだ酒を飲んでいましたから、酒を飲むなら気を遣ったりしながらではなく、静かに部屋で酒の薬理作用だけに集中して、それこそしこたまただただ飲みたかったのです。すでにその飲み方がアディクトですよね。

わざわざ知らない女性に緊張しながら声をかけるのは嫌だったし、別にそんなに不特定多数の女性と関係を持ちたいわけでもなかったのです。

むしろ、当時はそういうフシダラな在り方を軽蔑し毛嫌いしてすらいました。

それでも、私は間違っているから、と気持ちや素直な感覚に蓋をして、盲目的に「社会で評価されているから」と同調し同化しようとしました。

そのようは卑屈な試みを拒否できなかった、自己肯定感の低さに吐き気がします。

厄介なことに、男性は少なからず、男性同士の集まりにおいてそういうノリの悪さを嫌い、馬鹿にします。

「ナンパの一つもできねーへたれ」

「男としての魅力や自信がないダサいやつ」

そう思われたくなくて、無理をしてそちら側の仮面を被っている人を見てきました。そのうちの1人だったからよくわかります。

むしろダサいのは愛する人をシンプルに大切にしない人だと今ならわかります。

何人と性交渉しようが、RPGのレベル上げじゃないんだから、人間的な価値がモリモリ上がるわけでもないのに、やはり性別が男性である以上「そうでなくてはならぬ」「そうあるべき性別」という固定概念がわたしの中にあったと思います。

私はその自身の中にある認知の歪みをちゃんと自分のものさしで考えて、拒否する勇気を持ちたかったです。とても恥ずかしいです。

わたしの認知の歪みにより傷つけた女性がいたはずで、私が「自分の気持ちをちゃんと見なかったこと」「自分の感じ方を大切にしなかったこと」が、その問題の根元にあります。

女性が傷ついた話を見るたびに、そのエピソードに対して何故かザワザワしました。

女性に対して過剰防衛的になったり、男性に対して不自然に攻撃的になったりしてきました。

私は男性として自分が誤った認識を持っていた時期があったことや、私がやってしまったことを、正しさで隠したかったのです。

私はそういう、あまりにも弱い、人間だったと認めます。

そういう弱さを覆い隠そうとするのをやめたいな、と思います。

今こそ、弱さや罪を覆い隠すために、強さや正しさを得ようとする心を、手放す勇気を。

【ジェンダー】男性だけど「配偶者の扶養から抜け出したい」という女性の気持ちがなんとなくわかる話

『夫の扶養から抜け出したい』という漫画があって、結構気になっている。

 

読みたいが、まだ勇気が出ないでいる。男性である私は、結構メンタルがやられそうで。

 

男性はなぜ、扶養家族に対して「こっちは仕事して稼いできているんだから」という物の考え方や発言をしてしまうのだろうか?

その根本には、会社の奴隷として生きている男性の哀しいジェンダーロールが見え隠れしている気がする。

「夫の扶養から抜け出したい」は、「会社の奴隷から抜け出したい」という男性の想いと似ていると思ったので、ちょっとまとめてみる。

 

 

「会社」というファミリー

「お前は給料をどこからもらってんだよっていう話だよ」

これは実際、私が上司(♂)から言われた言葉だ。

会社から金をもらっている分際で、という圧力をかけ言論を封殺するための言葉である。

 

末端の話は重要視しない。聞かない。

社員は仕事をやって当たり前、と思う。

末端の社員を見くびっているのだ。

 

自由がない「会社」というファミリー。

経済的な主導権を握っているからという理由で、横柄な態度をとるという点において、扶養家族にでかい顔をする亭主のそれと非常に似通っている。

社員の副業禁止は、妻の交際範囲の制限に近い。

事前に申請しなきゃ必要経費はもらえないのは、家計に必要なお金を定額しかもらえないのに近い。

 

雇用と結婚は違う

勘違いしてはいけないのが、婚姻関係と雇用関係は根本的に異なるということである。

結婚は雇用契約ではないし商業取引ではない。

つまり、配偶者は召使いではない。

そこは勘違いしてはいけない。

日本国憲法第24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定している。

同等の権利を有する2名が合意のもと形成するのが婚姻関係である。

その意味でやはり、稼いでいる側が稼いでいない側に、会社と社員のような雇用関係に近い要求や価値観を押し付けることは、間違っている。

同等の権利を有する以上、どちらが稼いでいるかは判断材料にならないし、共通の財産である給料はふたりの物である。それを片方がコントロールして権利を不当に侵害するのは、家庭内のパワハラであり、モラハラである。

 

奴隷のような社員生活で男性のメンタリティが歪んでいる可能性

社員もまた、召使いではない。

賃金と引き換えに労働や己の能力を提供する、対等な契約者としての矜持を持っていいはずだが、雇用関係の解消という切り札を相手に握られていると考えているため、会社に対して顔色を窺い、卑屈にへりくだることが一般化している。

 

奴隷と社員の違いは、本に例えると分かりやすい。

Aさん(雇用主)が「好きな本を読む」という目的を達成する場合、2通りの方法がある。

 

奴隷は、本の購入。

一度購入したら、いつ読んでもいいし、破ってお尻を拭くのに使ってもいいし、燃やしてもいい。つまり、持ち主の自由。

つまり、人で言えば、深夜までこき使ってもいいし、目的以外の使い方をしてもいいし、殺してもいい、ということだ。要は、雇用主のおもちゃとなるということ。

 

社員は、本のレンタル。

レンタルの費用を払っている間は「本を読む」ということについて許されているが、期間は決まっているし、目的以外のことに使ったり、意図せずとも傷つけた場合、元通りになるために補償しなくてはならない。

つまり、人で言えば、雇用契約に基づいた適切な労働以外は提供することはなくて当然だし、メンタルもフィジカルも元気100%の状態で持ち主である私たちに、私たち自身を返してもらわないといけない。

 

ここから言えることは、私たちはあくまで私たちのものであり、雇用関係だからと言って魂を売り渡す必要も、人生を損なってまで尽くす必要も全くないのである。

 

それなのに、男性は、会社というファミリーへの献身をやめられない。

もはや、共依存関係にあるからだ。

「私はこれだけ会社に尽くしているんだから」

「家族を蔑ろにしてまで仕事に打ち込んでいるのだから」

仕事人として、プロとして私は評価されるべきだ、という考えなのである。

私は、あくまで仕事はアウトプットで評価されるべきであり、それまでに自分を押し殺して他人を気遣ったというような自己犠牲を勘案すべきではないと思っている。

なぜなら、自己犠牲を払うことを肯定する構造を生み出すからだ。

そしてまさに、これは会社で暗黙の了解としてルール化されており、そのような自己犠牲と献身こそ、組織人としての美徳であり品格だと勘違いしている人間が多い。

組織の駒として自分を殺し、任務を完遂する。そういう生き方を推奨してきた歴史がある。

男性は、このような歪んだ虐げられ方というか、絶対服従を社会から当たり前と思い込まされている。

ゆえに偏った思考パターンと行動パターンを獲得してしまったのかもしれない。

 

「本当はしたくないのに」という本心が家庭でにじみ出る

男性だって、おそらく本心では、奴隷でいたいわけがない。

なのに、それを当たり前だと思っているから、「本当はしたくない」という気持ちになかなか気づけない。

そして鬱屈した思いは、家庭で歪んだ形で妻や子に対してにじみ出るのである。

「こんなに我慢して仕事しているのに」

「家族のために俺はこんなに頑張っているのに」

という気持ちはわからなくはない。

しかし、考えてみてほしい。

たとえば趣味。自分でやりたくて納得してやっていることなら、誰に何をほめられなくとも、損したとしても、目標に向かって邁進している自分を誇れるものだ。

もしそうでないのなら、実はやりたくないことを誰かのせいにしてやっている。病んでいる。

我慢して働くことを選択しているのは誰か。

家族のために頑張ることを選択したのも誰か。

それが「~しなくてはならないから」という義務感でやっているとしたら、一度立ち止まって考えてみるほうがいい。

それは本当はやりたくないことで、やらなくていいことかもしれない。

そこまで我慢して頑張らなくても、共働きで無理せずやっていけるライフスタイルがあるかもしれない。

家族のために最も必要なことは、お金ではなくて、あなたの健康と笑顔と、家族が一緒に過ごせる時間かもしれない。

 

そういう自分の幸せを、何も考えずにステレオタイプな社会的価値にあてはめて生きていると、本当に大事なものは、いつの間にかなくなっている。

そうなっては遅い。

いまこそ、男性は自分のための自分の人生に、真正面から向き合うべきときなのではないだろうか。

【ジェンダー】暴力とパワーゲームに歪む男のジェンダーロール

女性にもあるように、男性にも「ジェンダーロール」があるということを、最近感じるので書いてみる。

ジェンダーロールとは?

性役割(せいやくわり、gender role)とは、その性別に、社会的に期待されている役割のことである。

例えば、「男だから、めそめそしない」「女だから、おしとやかにする」などの行動規範に従って行動するとき、その人物は性役割を演じているとされる。

この場合、特定の性に本人の好むと好まざるとを問わず、一定の役割を期待すると共に、その役割に応ずる準備や能力、資質、性向がない場合、不要なストレス、劣等感を当事者に持たせ、社会的に自分が不完全であり、不適応であるとの疎外感や差別感を持たせることになってしまう。

これは、女性に賃金労働上の成功のチャンスを与えないばかりか、男性にマッチョイズム(男性至上主義)のシンボルとして適合しない場合、その権威への落第者といった自己評価の低下をもたらすなど、さまざまな議論を投げかけるものでもある。

同時に、ステレオタイプな分類がされているため、性自認を考えるときに、自分を現す用語を並べることでその手助けになることもある。

性役割は、文化によって異なるものもあり、例えば近代日本では買い物は女性の仕事だと考えられていたが、アラブ文化圏や古代ギリシアでは男性の仕事であった。裁縫は女の仕事だと考える文化もあれば、男の仕事であると考える文化も無いわけではない。

(コミュニケーションについては、「コミュニケーション#コミュニケーションの男女差」を参照)

出所:Wikipedia

女性にとって性別が女だというだけで、炊事や洗濯をするのが当たり前だと言われたら違和感があるだろう。

なぜなら、人には得手不得手があるし、性別が役割を規定することは選択の自由を制限することだからだ。

女性だから力が弱いわけでもないし、おしとやかなわけでもないし、誰もがいい香りがするわけでもない。

これと同じことが、男性にも言える。

 

男性の「ジェンダーロール」

少し、この曲を聴いてほしい。

 

 

「強くなければならない」

「ぶつかり全力を尽くさなければならない」

「負けてはならない」

「立ち上がらなければならない」

「泣いていいのは条件付き」

「転んでもいいのは条件付き」

「やられたらやり返さなければならない」

 

これらのことが、「男なら」の枕詞で語られている。

私はこの歌にずいぶん励まされてきたし、はじめの一歩もウルトラマンネクサスもdoaも『英雄』という曲も好きである。それらを批判するつもりは一切ない。

しかし、ここから透けてくるジェンダーロールがある。

「守りたいものを守る」とか「話し合う」ためには、まず上記の条件を満たさなければならないのが、「男」という存在だということだ。

 

力が対等ではくては、暴力で制圧される男社会

女子もそうだったかもしれないが、男子の間では、気に入らないやつを陰で腹パンして外傷が目立たないように暴力を振るうなどは日常茶飯事である。

サンドバッグでいたくないなら、相手をサンドバッグにするしかない。

眼には目を、歯には歯を。なめられたら搾取されるだけだ。やるか、やられるか。強者にしか選択権はない。

 

 

雄の序列は、原始からパワーで決まる。

生まれた時からパワーゲームが世界のルールだ。

砂場で小突かれたら小突き返し、負けて泣いて親のもとに逃げ帰るようなら、「メソメソ泣いてないで一発二発やり返してこい!男だろうが!」と叱られた。

種の繁栄も、太古の昔から戦いのピラミッドの上位にいなければ不可能だった。

お猿さんのときから、群れに強い雄がいなければ、群れを維持できないから、雄は常に上下関係をはっきりさせてリーダーを決めてきた。

弱い雄は群れのなかで価値がないから子孫は残せない。群れのなかで勝ち上がり、群れ同士や外敵との戦いに勝たなければ、生きていけなかった。

 

現代でも展開されるパワーゲーム

婚活市場でもまさにパワーゲームが展開されており、大してその頃から違いはない。

男性は年収や職業で足切りされ、高い参加費を払わないと参加すらできない。

女性には、今のところそれは当てはまらない。年齢という別の足切りがあるが。

暴力は禁止されつつあるが、資本主義社会は結局は血で血を洗う競争社会である。

競争で勝たなくては年収は上位にはならない。

つまり、戦いのフィールドは違えど、他のオスに勝たなくては結婚すらできないのが現実だ。

それなのに『成果出そうレース』から降りろコールされても、降りることなどできない。降りたら無価値になり死を意味するからだ。

「いや、結局降りたら生きてる価値無くなるし、あんたら女性たちは真っ先に見捨てるっしょ…」というのが、ミサンドリーに対する男性たちの声なき叫びだ。

そうやって、力でマウントし合う社会。

強くなければ生き残れない社会。

それが今も脈々と続いている。

 

では暴力に頼るべきなのか?

答えはNOだ。

パワーゲームの世の中だからといって、強者が弱者に暴力を振るうのは仕方ない、とは1ナノミクロンも思っていない。

この文明社会においては、暴力は犯罪であり、法で裁くという『正しく知的な暴力装置』で応戦できる。

ただ、法はまだ喧嘩が下手なので、充分に機能しなかったりするから悩ましい。

私たちは、腕力や膂力に関係なく誰もが安心して対等に話ができる社会をつくるべく、法律という『正しく知的な暴力装置』を、誰もに平等に機能するよう興味関心を持ち、育んでいかなければならない。

ミサンドリーやミソジニーの憎しみに歪んだ主張は、法律を健やかに育むことを妨害していると思う。まるで、息子夫婦の子育てにあれやこれやと偏った経験で過干渉してくる姑のようである。

恨みや私怨によらず、フラットで想像力のあるジェンダーの議論が必要だ。

両方にとって幸せな社会に発展することを願うばかりである。

最後に、もちろん女性同士だって、お互いの歯を折り合うくらいの喧嘩をしたり、刺し殺そうとしたりする修羅場もあるだろうと思う。

「女性だってそういうことがないわけじゃない」という意見に対して、私はYESだと思う。

妻にいびきが煩いからとベッドから蹴り落とされたこともあるし、寝相が悪いからエルボーを落とされたこともあるので、安心してほしい。女性だって腕力があることは身をもって理解している。

ここで話しているのは、男性はみな、そういうバトルロワイヤルに一律に生まれたときからぶち込まれることが、性別としてちょっと特殊なんだな、という話だと理解してもらえれば幸いである。

 

【ジェンダー】フェミニストを名乗る「隠れミサンドリー」

って書くと炎上しそうだが、我慢できないので書くことにする。

先日、いたく感動した。この漫画を見て。

 

成果出そうレースに参戦し始めた女性たち

この 成果出そうレース は、女性が社会進出するに伴い、女性にも適用され始めているように思う。

例えば、結婚。

家が決める縁談でしかたなく相手を選ぶ余地もなく決められたため、他責にできた今まで。 自由恋愛になり、女性にとって結婚は自らの狩猟能力を問われる実力至上主義の『狩り』と化した。

いかに高性能なATMを捕まえるか、という『成果』で比較されるようになり、数字でわかりやすく存在価値を競うレースに様変わりした。 私たちは簡単に比較できるほど貧相な存在価値ではないし、そもそも異性に好かれるかどうかなど、その人の魅力の一部でしかない。 にも関わらず女性もこのレースから降りようとはしない。

それはなぜか?

幸せというものは不透明で、己の幸せを明確に把握できている人はごく一部であり、大半は分かりやすく比較できるもので手っ取り早く安心したいからだ。これは男性も同じだ。

 

女性は社会から「女として」「母として」というレッテルを貼られた枠のなかでしか生きられないのが嫌になった。そりゃあ嫌になると思う。

だから、社会進出して権利を勝ち取り、結婚だけでなく資本主義経済社会においても『成果出そうレース』に自ら参戦し始める。

成果出そうレースにずっと生まれたころからぶち込まれていた男性と、成人して就職や結婚というイベントに直面して自ら選択して参戦した女性とでは、認知の歪みに大きな隔たりがあったのだが、そのことは今は知る由もない。

『成果出そうレース』は何でもありのバトルロワイヤルだから、当然、出産や育児で離脱しても誰も助けてくれない。敵にとってはまたとないライバルを蹴落とすチャンスだ。

今までの男たちが、家庭を省みたり休みを取ったら同僚に出し抜かれレースで不利になってきたのと同じに、このレースは不平等を補正してはくれない。 男性はそういう血も涙もないモノだ、それで当たり前だと育てられている(歪んでいる)。 女性は参戦してみて、いち早くこの不平等に気付いた。

だから「マタハラだ」とか「セクハラだ」というふうにハラスメントを顕在化できた。 その点で、女性が社会進出してくれたことにより、いかに不健全な競争をしていたかということが炙り出された形だ。

・婚活市場における勝ち組と負け組

・家事育児と仕事の両立の無理解

実はこれらは異性が悪いのではなくて、社会の歪みこそが真の戦犯だ。

 

前職で年収が低かったとき。 婚活パーティーで年収の欄をみてガッカリされ話も聞いてもらえなかった経験がある。

逆に転職して年収が跳ね上がり桁が変わった辺りから、『優良物件』という商品として異性の態度がコロッと変わるのも目の当たりにしてきた。

婚活でパートナーを探せば人間性より先に年収で足切りされるし、結婚してATMとして性能が低ければ、本来安息の地であるはずの家庭でも居場所がない。家事育児に寄与できなかった功罪は、熟年離婚という形で精算される。出がらしの茶葉が捨てられるように、年老いて金が産めなくなった男は棄てられる。男の一生なんてそんなにうらやましいものではない。

この『成果出そうレース』に参戦する人は、男も女も、そういう比較しやすい社会的価値(自分にとって意味があるかどうかわからない曖昧な価値)に振り回されて、満たされない承認欲求を抱えることになる。

実に不幸だ。

男性は漏れなくこの成果出そうレースにぶち込まれるわけで、その生きづらさも少しは汲んであげてもいいのかもしれない、とは思えないだろうか。

もちろん今のバトルロワイヤル方式はルール改定が必要だ。 女性も男性も『生きる喜び』を感じられるように、我々は群れをつくり社会を形成したのだから。

 

男を呪い殺したい「隠れミサンドリー」

女性は本当に長い間、男性によって(正確には社会構造に)苦しめられ、男性を憎んできて、それは今なお、少しも癒されていない。それが、いわゆる「男嫌い」の人々と話していると、よくわかる。

今はちょうど、男女平等こそ是とされる風潮になり、鬱積した怒りと憎しみが女性から噴出している時期なのだろう。

この今のタイミングで、フェミニストを名乗る「男嫌い」に対して、いくら男性の生きづらさを説いたとしても聞く耳は持てない。それは当然の展開なんだなと思う。 「男嫌い」の人たちの鬱憤が晴れてきたら、ようやく話し合うスタートラインにたてる気がするが、それはかなり先のように思える。

真の男女平等を実現したいとして、それは果たして男性を引き摺り下ろし叩き潰し、女性が社会の頂点に君臨する社会構造をつくることなのだろうか?

「男嫌い」がやりたいのはそういうことだと思う。しかしそれは私怨であり復讐であって、男女平等の実現とは程遠い。 自分たちの恨みを晴らすだけ。

戦争の歴史が証明しているように、片方を叩き潰したら、長い歴史をかけて必ず報復されるのは、セオリーだ。 女性は今まさに絶賛報復中で、それは男性の今までの罪のかたち。それは受け止めるべき話だと思う。 しかし、フェミニストは元来、「男嫌い」でも「女嫌い」でもない。

どうやら、この「男嫌い」というのは、「フェミニスト ではなく、「ミサンドリー なんだそうだ。 

私はこのフェミニストを名乗る男嫌いを「隠れミサンドリー」と勝手に呼ぶことにした。

自分たちがしているのは「男尊女卑という巨悪を討つ聖戦だ」と言わんばかりに、男性であればけちょんけちょんにしてもいい、という狂信者たち。

「隠れミサンドリー」は自分たちが弱者であるということを最大の武器にしているし、男性をいくらでも傷つけてもいいという免罪符にしている。自分がされて嫌だった『レッテルを張り追い詰める』という責め苦を味わわせることに人生の喜びを見出した、哀しい復讐者である。

 

人類を減らしていく「隠れミサンドリー」の華麗なる暗躍

確かに私も アルコール依存症 になるまで、弱者の立場を理解していなかった。 スポーツでも学業でもある程度成功していたので、「結果が出せないのを外部要因のせいにするのは甘え」で、敗者の弁は「負け犬の遠吠えだから聞く価値がない」という実に高慢で嫌なヤツだった。

完全に間違っていた。

差別される側になり、疾患に対する無理解に憤慨した。苦しみを理解しない会社や世の中の人が殺したいほど憎かった。 だから「私たちが味わった生き地獄をお前らも味わうがいい」という異性嫌いの憎しみには懐かしさすらある。実に馴染み深い感情だ。ごく自然な憎悪で、私はそれを全く否定しない。

憎み続けて、病と生きづらさに向き合い続けて、ようやく最近「かつて憎んだ人たちも同じような生きづらさに認知を歪ませている被害者であり加害者だった」ということに気づいた。

気づくのに、実に7年の歳月がかかった。 だから、ミサンドリーの人たちの憎悪が簡単に消えないのには、同情の余地が多分にある。

だから、どっちかっていうと私は、男尊女卑を是正して男女平等の社会を実現するいうゴールを向いている。

弱者のつらさを味わったことのある人間なので、むしろフェミニストにとって味方であるはずなんだが、隠れミサンドリーの話は一方通行にも程がある。こうも議論にならず建設的な話ができなくては、辟易させて味方を減らすだけだ。

そうやって、理解ある異性すら攻撃対象にして、擬態しているフェミニスト勢の戦況を悪いほうに悪いほうに傾かせる。司馬懿もびっくりの天才的な見えざる内乱を実現している。

フェミニストを名乗る「隠れミサンドリー」が思い描く理想郷を実現するには、相手方を『根絶やし』にするしかない。

そうしなくては歴史は繰り返す。 結局そういう人は片方だけになったとしても、また別の立ち位置で二極化させていつまでも争いをやめない。つまりがん細胞みたいなものだ。

もうすでに男性たちは辟易としていて、肉食から草食になったり劇的に衰弱している。

全力で衰退の一途をたどっている。もはや絶滅寸前だと思う。隠れミサンドリーの皆さんには嬉しいニュースである。もう一歩で滅ぼせるよ。

そんな荒野で、結婚に対してメリットを感じている男性が、この世にこれからどれだけ残るだろうか。

このまま、女性が男性を目の敵にして「仕事をしていて当たり前」「家事育児をしていて当たり前」「年収は周囲より高くて当たり前」「妻にはいつも優しくて当たり前」「変な性癖があるやつはNG」などと条件を追加し続けていくとする。

もはやそこまで縛られて修行僧のような生活をしながら一人の女性と一緒にいることを選ぶ人のほうが少なくなるだろう。結婚しないで細々と自分が食べられるだけの給料を確保して、趣味にかけられるお金と時間を確保したほうがよほどQOLが高い。

どんどん、結婚は物好きな人がするものになっていくだろう。

女性は仕事をバリバリしたいし、出産や育児でタイムロスしたくないとさんざん言ってきたんだから、それに人生を費やせばいいし、男性は結婚したくないのだから、必然的にカップルは生まれず、ゆえに子供は生まれない。

しかしそれがお互いのニーズが最適化された姿だろう。よもや恨むまい。

そして人類は人口を大きく減らし、衰退していく。それもひとつの選択肢だと思う。

私はそれもいいんじゃないかな、と本気で思っている。生きたいように生きるのが、人生においては大事だし、女性も生きたいように生きるならば、それでかまわないのではないだろうか。

 

まとめ:滅びの道を歩むのが望みではないのなら

しかし、そうではない、というのであれば、少し課題について整理してみたので、聞いてみてほしい。

フェミニストとひとくくりに呼ばれる人たちの中で、フラットに会話できないタイプのフェミニスト、いわゆる「隠れミサンドリー」の良くないところは『自分たちは被害者で、加害者性はない』と盲信していることだ。 無自覚なだけで、男女ともにそれぞれの役割に対して共依存してきた歴史がある。

相手との歪んだ関係に執着することにより、被害者でもあるが加害者でもある依存関係。それが、共依存という関係だ。

残念ながら、両性ともにこういう偏った被害者精神を堅持するタイプが一定数存在する。

それが続く限り、いつまで経っても話し合いは進まない。それらの人たちの騒音が鳴り止まない限り、互いの声は聞こえない。

隠れミサンドリーが、本気でジェンダーロールを破棄して社会をアップデートしたいと願っているとしたら、その実現を自ら阻んでいるのと同じだと思う。

ジェンダーの問題は被害者性と加害者性を等しく持っている。 女性も男性も。 どちらかを加害者にしようとしたり、自分たちだけを被害者にしようとしたりすると、話は歪む。

まずは両方がお互いに自分たちの辛さを受け入れてもらえること。 その上でどうだったら嬉しいのかを一緒に組み立てようとは、考えられないだろうか?

フェミニストを名乗り、男女平等を理想に掲げるならば、男性の生きづらさにも寄り添うマインドセットをして議論に臨み、社会に声を発するべきだと思う。 「隠れミサンドリー」とフェミニストを混同している限り、残念ながら女性も男性も自由にはなれない。

つまり「隠れミサンドリー」を明確に区別し回復を支援することこそ、フェミニストのみなさんに先頭に立っていただき、皆でフェミニズムを大切に育てるために必死になって取り組むべき課題だと思う。

どっちの方が辛いとか、そういう話はもう比較はやめにしたい。つまらない、そういう話は。

わかり合うには、この『成果出そうレース』から男女共に離脱して互いの存在価値を認めることだ。

お互いにお互いの辛さがある。聞くよ。それをお互いに否定せずに吐き出せる、心の安全が確保された空間が、男にも女にも必要なんだと思う。そこで思う存分、恨みは吐き出そう。そして、おいてこよう。

それから、お互いが生きやすくなるように、社会を一緒に変えていこう。

社会こそが歪みであり、真のラスボスだ。女も男もホントはRPGで言えば同じパーティなのに。 同士討ちしたって埒があかない。

そう思うのだけど、これもまた曲がった解釈でとんでもないクソリプをもらうような予感しかしない。

諦め半分で、しかし今の想いを書かずにはいられなかった、3月の寒い夜。