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【AC】私が基本的に他人を信頼できない理由とは

なんでなんだろうね?と思ってジムで走りながら考えたことをつらつらと書いてみる。

 

私は基本的に他人を信頼しない。

似た言葉に「信用」という単語がある。私はこの単語が好きではない。

信じるのは良いが「用いる」なんて、他人を道具として扱っていると思わないか?

私はそんな印象を受けて、口にするだけで嫌な気持ちになる。

「信頼」は「信じて頼る」であるから、とても相互尊重の精神を感じる。

相手を頼るべき存在と肯定したうえで、その相手にお伺いを立てるようなイメージ。実に誠実である。あるべき態度を言語化しているのは「信用」より「信頼」だ。

 

ここまで考えて、私は「用いられる」つまり「使われる」ということに、アレルギー反応を起こしているというか、過剰な拒否反応を示している自分を発見した。

たぶん定型発達の普通の人々はここまで気にしない。わざわざただの単語にスキキライしない。

ではなぜ私はここまで気にするのだろうか?

それは、おそらく「使われてきた」という反省と警戒があるからだ。

 

親の愛の真贋

私は長らく両親に「大切にされてきた」と信じて生きてきた。

しかしアダルトチルドレンの概念を知り、機能不全家庭とはまさに私の家庭だと知った。当時はかなりの衝撃だった。

勉強すればするほど、私と実父母との生活は、健全な家族の在り方とは逸脱していた。

そう自覚してもなお、やはり子供というのは親を肯定したいという潜在的なバイアスを兼ね備えているらしい。

「とはいえ、1ミリも愛していないということはないだろう」

「そうはいっても、少しは大切に考えているだろう」

そう思っては裏切られてきた。今はもうできるだけ距離を置こうと思っている。

カラカラに渇き切った。

「本当は大切で愛しているが、伝わっていないだけ」

そうであればどんなによかっただろうか。しかし、本当の愛を知らない親もこの世には存在する。

 

依存症予防教育アドバイザーとして、社会福祉士として、ADHD・ASD当事者として、様々な立場で保護者向けの講演をさせていただく機会があった。

私が親に対する絶望と孤独を話すとき、一様に保護者達は受け入れがたいという表情を浮かべる。自分がもし実子にそう思われていたら…と思うと、親の立場を想像し共鳴して心に痛みを感じるのだろう。

「きっと接し方がわからなかっただけで、本当は大好きだと思うよ」

「話してみれば、分かり合える日がいつか来ると思うよ」

『だから、許してあげて、あなたから歩み寄って』

私の話を真剣に聞いてくれて、とても感謝しているし、貴重な発表の機会をいただいてフィードバックをもらえるのはとてもうれしい。

しかし、本当に申し訳ないが、このメッセージは、呪いそのものだ。

それは聞き手の願望であり、私の人生とシンクロしない。

私の親は、あなたではない。あなたがそうであっても、私の親がそうであるとは限らない。

そして、今まで両親に接してきて得た「愛とは決定的に異なる」という私に対する態度への実感以上に、信憑性のあるエビデンスはない。

にもかかわらず、自分の不安や恐れを覆い隠すために許せとか歩み寄れとかいうのは、無責任だし過干渉だと思う。親の呪いを複製してリフレインしている。

 

親として子供を持ち、ともに生きていて思う。

私は親として、子供たちには本当に好きに生きてほしいと思う。

思うように、やりたいように、思いたいように思って生きていってほしい。

私のことが嫌いでもいい、尊敬していなくてもいい。別の道を行きたいなら応援する。

本心から生きたい方向に突き進むなら、それが社会的に成功か失敗かなどどうでもいい。

その子が自分の人生を成功か失敗か判断する権利があるのだ。親の私ですら、それを勝手に判断する権限はない。世間や他人など、言わずもがな。

どう感じるか、どう判断するか、どう生きるかは、子供たちひとりひとりにその権利がある。

権利を尊重する。ひとりの人間として、その尊厳を侵したくないし、その必要もない。

どんな人生だろうと、どんな価値観だろうと、どんな風に私を思っていようと、私が子供たちを愛し、見返りを求めず本人が望むなら手を貸すだろう。これは少しも変わらない。

それが、親の愛だと、親になって理解した。

 

では、私の両親の「愛」とは、親の愛だったか?

否。彼らのそれは、自己愛であった。

所有物としてのわが子。自分が作った便利な道具、モノに対する愛着。

そういうものを「愛」と偽って私に恩着せがましくも「与えてあげた」と洗脳してきた。本当に信じがたい絶望だった。

 

妻は客観的に私の生家を見ることができるので、とてもありがたい存在だと思っている。

私が気づかないアンコンシャスバイアスを顕在化してくれる。

私が両親と接している様子を観察していた彼女は、次のように言った。

「あの人たちにはもっとちあきを大切にしてほしいと感じる。ちあきがかわいそうだ。」と。

私は最初わけがわからなかった。

大切にされていると思っていたから。しかし、そうではないらしい。

親が成し遂げたい目的のために、使われているというのだ。

たとえば進学・就職。

所有するブランド品として他人に自慢できるステータスを得られるように、勉強させ就活させた。望むレベルの結果でなければ泣き、及第点なら満足げにし、直接言わなくても間接的に子供の将来をコントロールしようとする。

子供自身がどんな信念で、どんな夢をもって、どんな人間になりたくて生きているのかではなく、どこで何をしているか?それが自慢できるか?が重要なのだ。

たしかにそうだ。今回の転職にしても、私が今どう思っているとかなぜ苦しんでいるかとか何を求めて転職するかではなく、どの企業に行くかとか年収がどうなるかくらいしか興味がなかった。

なんというか、そういう視点でみてみると、すべてつじつまが合う。

祖父母とのコミュニケーションのダシに使ったり、すでに内情としては崩壊している夫婦関係の鎹に使ったり。

私の実父母は、私のことを使うことについては長けていたなぁと思う。使うことばっかり考えていたんだろう。

そして、私が自我を持ち、求められる役割にNOを突きつけると、狼狽して怒ったり泣いたりする。

父親は母親のヒステリックや精神不安定さをなだめるために私を使い倒し、母親は自分のつまらない人生をさも充実しているかのように周囲に虚飾するために私を使い倒した。

私は愛されていると思いたくて使われていることに内心傷つき渇きながらも、身を粉にして心を殺して従っていたのだ。

 

もういいです

もう、うんざりである。

私は親とのこのような関係性を通じて、人間とは「私を粗末に扱い便利に使おうとする存在だ」と学んだのだと思う。

半生が与えたもうたこの血塗られた教訓は、私を疑り深く孤独な人間に育てた。

そして私の自尊心を大きく棄損した。精神的虐待である。

私は「利用価値がなければ愛する価値がない」というメッセージをずっと与えられ続けてきたのだ。そんなメッセージを親から常に受け取っていたら、自分を好きになれるわけがないし、価値を感じられるはずがない。そう思わないか?

 

私のインナーチャイルドはこう考える。

親ですら私を使おうとするのだ。他人など、言わずもがなである。

メリットがなければあえて私には近寄ってこないし、力を貸すなら何か取引条件、つまり裏があるはず。

相手が想定している利用価値を正確に把握してから取引に応じないと、とんでもない見返りを請求されるかもしれない。

それなら、安易に手を借りないほうがいい。後悔することになる。

人間関係における「借り」とは借金と同じ。借金がいくらかわからないのに借金する人間はいないだろう。いくら負債を負わされるかをよく吟味して、力を借りるかどうか判断すべきだ。

たいした力にならないのに頼り負債を抱えるくらいなら、自分自身のリソースで対処したほうがマシだ。

それがベストな結果に繋がらなかったとしても、かまわない。負債を抱えて不安と恐れと負い目に精神をさいなまれるコストを考えればおつりがくる。

まずは自分が使い潰されないことだ。そうしなければ死んでしまう。

つまり、他人を頼るということは、死ぬ可能性がある選択だ。

自分でやり切ろうとしてやり切れず死ぬか、他人を頼り代償として使い潰されて死ぬか、二つに一つ。

なら、まだコントロール可能な前者で行こう。

こういう思考回路で、インナーチャイルドは、よっぽどのことでもない限り他人に相談しないし、頼るという判断をしない。

 

しかし、わりとそこまでこの世は地獄ではない。

私がそうであるように、困った人がいたら損得なしに助けたいと思う人もいる。

他人が期待するリターンがあったとしても、すべてに応える必要はない。

損得で人間を判断する人だとわかったら、そこそこのディールでまとめつつ、深くは付き合わないという選択もできる。

私という人間は存在するだけで価値がある。

私は私らしく生きているだけで価値がある。

他人がどう値踏みしようが、その価値は揺るがない。

私は付き合う人を選べる。私を大切に思ってくれる人と一緒に生きていけばいい。

私が大切な人に惜しみなく愛を注げばいい。

 

実父母は私にとって大切な人ではない。なぜなら私を大切に扱わない人々だから。そう私が感じている、それが全てだから。

それはいけないことではない。私が判断していいことで、どう感じるかは私に権利がある。

わが子が私をどう感じるか、私との関係性をどう判断するかは、わが子に委ねられているのと同じように。

私は好かれようと思ってわが子と接することはない。好かれるか好かれないかは、私のわが子に対する愛情にまったく影響しないから。

 

大切な人は、選べる。

私の価値は、揺るがない。

【AC】自分の課題をみないために他人の課題をみる

“人生で一番責任を取らなければならないのは、自分の福利(良い状態にあること)と幸福である”

これは『ACのための12のステップ』のSTEP4「自己憐憫」に記載されている一文である。

同じSTEP4の課題である「過剰に発達した責任感」にも通じる。

読んだらそりゃそうだよね、と思うけど、これがなかなか難しい。少なくとも私にとっては、とても難しいことだったように思う。

 

弱さという鎧

私は自分を自分で否定することで、つまり積極的に「弱さ」を纏うことで、自分を守っていたんだと思う。

「自分は価値がない最低の人間だ」と自分が自分に言い聞かせることで、もし他人からそう言われても傷つかないように予防線を張っていた。

「ほら、やっぱり。知ってたよ。」と、他人の言葉が与える冷たい痛みを軽減するために、これ以上痛まないように、言い聞かせていたんだと思う。

実際には、面と向かってそんなひどいことを言われる機会などほとんどない。

他人は自分のことに興味があるわけじゃない…うーん違うな、興味がないというか、ほとんどの他人は私がそうであるように、自分のことだけで精いっぱいなんだ。

それに他人が見ている自分というのはいつも虚像で、私自身とイコールじゃない。

その虚像は、その人自身を投影している、他人のなかの産物に過ぎない。

罪悪感とか病的な囚われとか、そういうネガティブなもので容易に歪み、実像とはかけ離れていく。

だから、誹謗中傷というのは、他人が「自分ではない誰か」のことを悪く言っているのと、そんなに変わりがない。

つまり、あんまり気にする必要がない。

指摘している内容が「あてはまるなー」と思ったら感謝して素直に受け止めて改善すればいいし、「ちがうんだよなー」と思ったら聞き流せばいい。

反論する必要もない。その人のなかの私という虚像のイメージをいくら良くしようとしたところで、それは私が影響できる範囲を超えた現象であり、叶わない。私には「変えられないもの」だ。

「どう思われるか」という変えられないものを変えなくていい、ということ。

変えられるのは今ココからの自分の在り方と行動だけ。そして変えるかどうかはいつもいつでもその人自身に選択権があり、その意思は誰にも奪えない。

私が私を好きだと思うのは自由だし、最低だと思うのも自由。

「“他人からどう思われるか”が変えられないものであるがゆえに軽い」と気づいた今、私は自分を否定して弱さで武装する必要がなくなった。

私自身、アルコール依存症も今までの人生も全部ひっくるめて、その時を全力で生きてきたと思う。

間違いもたくさんあったし、他人を傷つけてきたけれど、それでもそれは私は私なりに全力で向き合い生きた結果だと思う。

だから私は私自身を否定しなくなった。そして、やっと好きだと思えるようになった。

「弱さ」という鎧は必要なくなった。

 

ACにしても、私は立ち位置の捉え方を誤っていたように思う。

機能不全家庭の「被害者」という弱さ、つまり正義を理由に、親という他人をボコボコにするというのは、加害者的というか嗜虐的な側面がある。

「自己否定」というかたちで自分に向けていた牙を「自己憐憫」という牙に変えて他人に突き立てる。

それは、回復しているようでいて、回復とは程遠い姿だったと思う。

確かに私は親の不健全な療育のおかげで苦しんだ。それも事実。

でもそれは親も親なりに(病んでいたとしても)全力でやったことだった。それも事実。

幼少期の私はつらかったということに向き合い、本当の意味で消化し受け容れて、親に対して憎しみや恨みを抱くことをようやく手放すことができた。

「親の被害者」としての人生から、「わたし」の人生に目を向けたからだ。

アルコール依存症になったのは、この世のお酒があるからいけなかったのか?

いや、自分がお酒を飲まなくては立っていられないほど病んでいたからだ。お酒を世の中から消すことはできない。

病んだのは、親がACを自覚せず過干渉(世話焼き)という虐待(加害)を加えたからか?

いや、それは確かに私の病的な振る舞いを構成する主要な要素だったが、今の私は「私の人生を生きる」という選択肢を選ぶことができる。ずっとその被害者というポジションを手放さなかったのは、自分の人生に目を向けるのが怖かった私が望んで選択したことであり、選択した理由は私にとってメリットがあったからだった。

全てを誰かや何かのせいにしてそれをいつまでも繰り返し責めていても、自分自身は一歩も前に進まない。

 

自分の課題をみないために他人の課題をみる

他人の課題に目を向けていれば、自分の課題に目を向けないで済む。

芸能人のスキャンダルなどに飛びついてはあれやこれやと正論をまくしたてる人がいるが、まさに自分の課題から目を逸らしている典型的な状態だ。

何を隠そう、私も恥ずかしながら、その類いのひとりであった。

気にくわない世の中、組織、人間に嚙みついて正論を言い、自分の課題をみないようにしてきたひとりである。穴があったら入りたい。

他人のここがよくない、あれが悪いと指摘するのは、実に気楽だ。

他人の人生は他人のもの。自分には責任がないので、好き放題いえる。

そして、指摘しているときはその人よりも上に立ったように錯覚できる。

「間違った人間に説教をしてやっている」という場面設定に陶酔して、マウントが取れる。

自分が少しマシな存在になったように思えて、自分の人生に対する不安や恐れが軽減される。

自分を見る勇気がなければないほど、その勇気の無さすら覆い隠すために、他人に上から目線で干渉する。

それはただの有難迷惑でしかなく、相手は私を認めるどころか逆に呆れたことだろう。

他人のためを思ってやっているという大義名分とは裏腹に、他人の役に立つこともほぼない。

 

親切と過干渉は紙一重

求められてもいないのにアドバイスするとき、私は「自分の課題をみないために他人の課題を見ている」状態だ。

前述した私がやってしまった有難迷惑の多くは、そんな状態で行われたことだった。

私にできることはせいぜい、相手が相談してきたら「私の場合はこうだったから、少なくとも私はこう考えているよ」と伝えるくらいのものだ。

たいていは、その人自身がその人のタイミングで気づくべき時に気づく。私にできる事はほとんどないと言っていい。

その人がプライドが高い人で、自尊心が邪魔をしてなかなか他人に助けを求められなかったとしても、生きる意思が、内なる良心が、いつか困難を契機にその殻を破る、そして、そのとき頼るべき人を頼る。

その人自身に内在する力を信じているので「見守る」ということができる。

 

子どもを見ているとよくそう思う。

この世に産まれて少ししか経っていないということは、経験が絶対的に浅いということで、なにをやるにも危なっかしいし、たどたどしい。

より確実に目的が達成できるよう「こうすればいいんだよ」と横から手を出したくなる。

しかし、それをせずにじっと見守っていると、子どもは試行錯誤しながら自分でできるようになっていく。

どうしてもできなくて助けが欲しいときは「できないから教えて」と周りに救難信号を発信する。

そういう力があるのだ。そもそも備わっているのだ。それを根本的に信じなくてはならない。

自分の意思で助けを借りるのと、勝手に横から手を出されるのとは、全然違う。

前者では、自らの意思で助けを得る選択をしている。自分で選んだ道筋だから、得られた結果や納得できる。達成したという実感を享受できる。

後者では、工程が奪われて結果が贈呈されるので、自分で選んだ、自分でたどり着いたという自己効力感がない。

「あなたなら自分で気づき、自分でたどり着くと信じている」というメッセージ。それこそが愛情である。

 

親切でアドバイスしてやっている、と悦に入っているときは、自分の課題をみないために他人の課題をみているとき。本当の意味でハイヤーパワーを信じられていないとき。

 

他人のことは他人に任せよう。

頼られたなら、そのときはじめて可能な範囲でこたえればよいだけ。

自分の人生の福利と幸福に集中しよう。

それが何よりも他人のためになる。

 

 

【発達障害】なんであなたは他人といるだけで疲れてしまうのか?

ADHD・ASDでアダルトチルドレン(AC)の私は、そんなに嫌いでない人でも、他人といるだけでドッと疲れてしまうことに悩んできた。

今までの考察から、私が疲弊する理由は、大きく分けて3つある。

現在ではそれが軽減されてきたので、他人がひしめき合う社交場に出てもさほど疲れなくなったが、それでもやはり疲れることはある。

とりあえず今までの自己分析まとめてみる。

 

過去のトラウマからくる防衛本能

私は今までの経験から、他人とは私を攻撃する存在だと認識している。

その認知の形成には、いじめに苦しんだ暗い過去の経験が影響を与えていると思う。

 

通っていたサッカークラブ。

私は一つのことにしか集中できないので、ボールだけに集中して周りが見えなくなる。

サッカークラブの練習は途中から各自ボールを持って自主練をする時間があり、何人かでグループになってパスを回したり、思い思いに時間を過ごした。

私は他人とできるだけ絡みたくなかったので、壁に向かって蹴ったりリフティングをしたりしていた。

周りになじまずグループに入らない私は奇異に映ったのだろう。

ひとりで黙々と練習している私に、ボールを蹴って当てるゲームを始めるグループがあった。

面白半分に彼らはやっていたのだろうが、私はいきなり横っ面にサッカーボールをぶつけられてとても痛かったしそのたびに驚いた。

やめてほしいと伝えても、彼らは私が鈍いのを馬鹿にしてますます面白がった。

コーチはそういうところまで目が届かなくて、私は自主練の時には攻撃を受けないよう隅っこにいるようになった。壁で自分を守り、じっとしていた。

学校でも似たようなものだった。

私は優しい性格だったので、他人に何か嫌なことをするなんて想像もつかず、自分の好きなように遊んでいた。ひとりで色水を作ったり、木を削ったり、砂で造形を作るのが好きだった。

ずっと一人で遊んでいると、必ず邪魔者が現れた。

水をひっくり返してみたり、気を取り上げてみたり、砂で作った私の作品を破壊してみたり。

「放っておくと、他人は私に危害を加える。厄介で恐ろしい外敵だ」と他人という存在について私は認識を改めるようになった。他人なんて気にもとめていなかったが、私の邪魔しかしない。こんな迷惑なやつら一人残らず死ねばいいのに、と心から思っていた。

なので、私は他人が一定の距離以上に近づくと反撃できるよう、攻撃をかわせるよう、体を硬直させる。臨戦態勢に入るように体が自動的にプログラムされた。

そうなると厄介なことだが、他人がそばにいるだけで交感神経優位になりノルアドレナリン神経系が活発になる癖がついた。他人がいるだけで落ち着かないばかりかとてもストレスを感じるようになった。

サウナ後の外気浴でリラックスしていても、足のあたりを他人が通り過ぎるだけで「足を踏まれるのではないか」と神経がピリつく。まったくリラックスできない。

会議で他人が近くにいると、ソワソワしイライラしてくる。ストレッサーが近くにいるので精神的に摩耗していく。だから話の内容はほとんど頭に入らない。リモート会議になって本当によかった。ここだけはコロナ茶番に感謝している。

他人には近づかないか、近づいてきたら威嚇する。

そういう処世術が身についたのは、成育歴に由来する。

 

会話という行為に対する疲労感

警戒心MAXなのも疲れの主たる要因だが、会話という行為そのものも非常にストレスフルである。

音がうるさい

まず、声がうるさい。

キンキンと高い女性の声は、脳がキリでつつかれるような感じがする。不快極まりない。

興奮すると音量が大きくなるので、とてもめんどうくさい。

伝えたい内容を、できるだけ穏やかな声音で、的確かつ簡略化して話せばいいのに、どうでもいいことばかり大声で喚き散らす。

私はおそらくASDによくある感覚過敏だ。音は特に快不快を感じやすい。

視覚優位なので、聴覚情報が視覚情報の処理を邪魔してとてもストレスになる。

集団で会話していると、同時に複数の人が話始めたりするけど、イライラして口を開いているやつ全員をぶん殴りたくなる。

一度にしゃべったら処理できないだろ、お前ら全員聖徳太子かよ、と。

情報入力ソースとして、音声は私にあまりそぐわないんだろうな、と思う。

人に会うとうるさい音声を出す、だから他人に絡みたくない、という感じだ。

 

会話の作法(マナー)がめんどうくさい

会話がいざ始まると、いつも私を悩ませるのが、社交辞令などの「定型発達の間で交わされているの暗黙の了解」=常識・マナーである。

腹の底では行く気もないパーティーに「ぜひ行きたいですねー」と言ったり。

何かを見せられたとき条件反射的に「かわいい~」「すてき~」と言ったり。

本題に入る前にまったく中身のない世間話をしたり。(=アイスブレイクのこと)

そんなもん誰も決まりとして明文化していないのに、なんで守らなきゃいけないんだ、と思う。そもそもそんなマナーや常識を提唱していながら、内容の精査が甘い。形式ばってアイスブレイクとか言っている暇があったら、もっと内容を詰めるべきだと思う。

だけど、定型発達はみなそうとは思わないらしい。謎は深まるばかりである。

相手の利益のために伝えるべきことを伝える。

聞いてほしいと前置きして悩みを相談する。

相談されたことに対してクリティカルに求めている情報を提供する。

人と人とがわざわざ時間を使って会話をするのは、そういう目的在りきだと思うんだけど。

今まで人と関わってきて、なんだかダラダラグダグダととりとめのない話を聞かされ長時間拘束されることがあった。その経験から学び、私は他人と好んで会話しなくなったのだと思う。

 

ありのままでいられないストレス

会話の形式もさることながら、内容も非常に気を遣う。

幼少期に思ったことをそのまま言葉にしていたら、なぜか相手が泣いたり怒ったりすることがあった。

私としては自分の本心なので、噓をつくよりよっぽど誠実に他人と向き合っていると胸を張って言葉をかけていた。

それが仇となり、私は盛大に集団いじめにあった。

私が私らしくしていると、他人は不愉快そうに攻撃を仕掛けてきた。

まったく迷惑な話である。しかし脅威ではあった。降りかかる火の粉は払わなくてはならない。自分らしくいるより、この不可解な集団に同調して擬態しておいたほうが、デメリットが少ない。

そう思った私は、自分の思いをそのまま話すのをやめ、周りを観察した。

こういうときはこう反応する。

この話にはこう切り返せば笑いをとれる。

こういうときにはあまり言葉を挟まないほうがいい。

定型発達者同士の会話のやり取りを分析し、因数分解して応用する。

意図した反応が得られれば成功、反応が芳しくなければ失敗。

私が自己防衛のために構築してきた会話方法は、地味な科学実験の賜物だ。

はたしてストラテジーの構築が完了し。最もリスクが低い(=定型発達に違和感を持たれない)応酬話法が可能になった。

しかし、困ったことが起こった。とても疲れるのである。

まったく楽しくない。ただの作業。工場のライン作業のようなものである。自動迎撃システムのようでもある。つまらなすぎて対応を間違えることも増えた。

自分の言いたいことを言えない。なんの面白みもない繰り返し。

それはとてつもなくストレスフルな行動だった。だから、結果的に会話をできるだけ避けるようになった。必要最低限の場面で最低限しかできなくなった。

 

まとめ:経験不足を補うための自助グループ

そうなると、当然会話の経験が少なくなる。

本来人と人との会話というのは、実はこうではなくて、みんなちょっとずつ本心をさらけ出しながら、その摩擦により距離感を学んでいたと、つい最近になって気づいた。

圧倒的に真心でぶつかり合って研磨するという経験が不足していた。気づいた時にはもう大人になっていた。しかし大人になってからではもう得難かった。

それが孤独を深め、孤立を深めた。

依存症になる人も、こうした他人との関係の不健全さと経験のなさが大いに関係している。

他者との関係構築が下手くそなので、交流によって癒されることを知らない。だからその癒しを物質や行為に求めて、泥沼にはまる。

糖質と脂質とたんぱく質をバランスよく摂取しなくては体調が崩れるのと同じに、他者との適度なコミュニケーションは心に必要な栄養であり、それが欠乏すれば心が病むのは当たり前。

私は自助グループでこの経験不足を補う機会を得た。

断酒会やAAやACAは、人間関係のへたっぴ同士の集まりだ。心理的安全性が担保された環境でみんなで言いっぱなし聞きっぱなしをして、失われた経験を取り返していく。その経験は心が子供から大人になっていくのに必要な試練である。

その過程で摩擦や衝突はつきものだが、霊的な道具である12ステッププログラムがセットであることを忘れてはならない。

私がそうであったように、不健全な関係で身に着けた歪んだやり方が、問題として顕在化されてくる。認知の歪みを自覚すること、それを取り除こうと棚卸しをすること。それによって、他者との健全な関係構築の精度は高まっていく。

逆に言えば、ただ自助グループに行っていても変わっていかない。自らを省みて変化するためには霊的な道具とそれに沿った謙虚な行動が必要だから。

それでも反応してしまう場合、私でいうトラウマが根強くある場合は、トラウマセラピーによって心理的に自動化された反応プログラムを解除する必要がある。PTSDなど過去に経験した強いストレスでどうしようもなく拒否反応が出る人は少なからずいる。

このように、今まで形成された歪んだ認知、つまり自分を守るために刷り込んだ思い込みを、絡まった糸を一本一本解きほぐすように、丁寧にひとつひとつやっていく。

そうすれば、少しずつストレスは軽減されていき、人との交流を楽しむという新たな感覚に出会える。

私はまだ途中だが、当初から考えるとかなりストレスは軽減できていると思う。無理せず、しかしあきらめず、自分がありたい姿を思い描いて、行動を積み重ねていくと、変化は訪れる。

希望を持ってほしい。

【AC】「他人の言動を悪くとらえてしまう」という悩み

私の話である。

私は他人と話していて、その言動の裏を勘繰る癖がある。

これは、機能不全家庭で培われた歪んだライフスタイル、ACとしての恐れと不安によるものだ。

言葉の通りに受け取ってきて、痛い目に遭ってきた経験に裏付けられた悪癖。

ADHD・ASDとして、相手の言葉をそのまま受け取ってきたが、多くが言葉通りの意味では無かったり、あとで真意を聞かされて混乱したりしてきた。

そんな私は幼い頃、クラスメートに「変なやつ」扱いされ、爪はじきにされてきたと感じていた。

両親は何かを決めるとき、いつも「自分で選んでもいいのよ」と口では言ったが、常に彼らが選んでほしい選択肢が先に決まっていた。違う選択をした場合は、否定されるか落胆された。

なので、私は「自分で選んでもいい」という言葉の本当の意味は「親の私たちが思い描く正解を当てなさい」だと考えるようになった。

常に他人にとって違和感がない「正解」を当てなければ、思わぬ地雷を踏んで被害を被る。まるで戦場にいるような緊張感があった。

そういう歪んだ関わりと苦い経験に基づいて、私は「言葉をそのまま受け取らず、その真意をよく吟味して咀嚼してから行動する」ようになった。

 

しかし、このスタイルは私を生きづらくさせてきた。

今も健全な人間関係の構築を阻害している。

ACとして問題を抱えている、と思う。

私はこの問題を手放し、もっと率直にアサーティブに人と接することが必要だし、またそうしたい。

私の願いは問題解決だ。だから今回はこの問題について深く考えようと思う。

 

自分が敵だと思うから相手が敵に見える

たとえば妻は「基本的に他人は私に悪意を向けていない」という前提で他人と接する。

私とは逆のスタイルだ。

そして妻は私から見れば、仲間に囲まれ、善意と好意に包まれて幸せそうに見える。

本人も「そのほうが楽しいから」と問題を感じていない。

つまり、私にとっては理想的な関係性を構築している。

 

これは井上雄彦先生の『バガボンド』にも同じような描写がある。

それこそがお前の殺気 わし始め他人はそれを映す鏡にすぎぬ

今まで何人打ち殺してきたか・・・さぞかし多くの敵に囲まれ生きてきたことじゃろうな

だが それはお前自身が仕立てあげた敵にすぎぬ お前自身の殺気が出会う者すべてを敵にする

あと何人斬り殺す?そういうのは強いとはいわん 不細工じゃ

引用:『バガボンド』井上雄彦 第4巻「不細工」より 宝蔵院胤栄

武蔵が宝蔵院胤栄と初めて畑で出会った時のシーン。

胤栄が鍬をもって畑を耕していて、襲いかかってくるように感じて身を固くする武蔵。

そんな武蔵に対して「殺気が不細工」だと言う胤栄。

自分自身の殺気が、出会う者すべてを敵にする。

これはとても耳が痛い台詞である。

私は多くの他人を「敵」として捉えて生きてきて、不細工な殺気を纏ったこのときの武蔵のように、出会う者すべてを敵にしていたと思う。

妻は、出会う他人を「味方」と捉えて生きているので、自分にも相手にも「味方」に見え、実際にそうなっていく。

妻という存在、私という存在がその確かさを実証している。

私が他人を「敵」と捉えなければ、世界に「敵」はいなくなる。

ではなぜ「敵」と捉えることを私はやめられないのだろうか?

 

傷つくことへの恐れと不安

結論から言えば、他人を「敵」と想定して行動することに「メリット」があったからである。

他人を「本当のことを言わない、油断すれば加害を加えてくる脅威」として認識しておくことで、どんなメリットがあっただろうか。

・親の機嫌を損ねずに済んだ、そうしていれば親から愛されないかもしれないという不安を感じなくてよかった

・いじめなど、うかつに信用して危害を加えられることを未然に防げた、同じような辛い気持ちを味わわないでよかった

つまり、今までに経験した出来事、それにともなう負の感情を再び味わうことへの恐れと不安が、私が最も避けたいことだった。常に猜疑心をもち、他人を敵と同定する思考方法により、それらを避けられる、ゆえに傷つく頻度を最小化できるという信仰があった。

この信仰は、当時の幼い私にとっては、自分を守るために最も有効でメリットのある対応の仕方だった。

それ自体を否定することはできない。するつもりもない。一生懸命生きてきた。生きるために必要な防衛本能だった。

 

しかし、その信仰は今も有効に機能しているだろうか?

今は有効に機能しているとは言い難い。いや、素直に認めよう、有効どころか有害である。

他人の言葉の裏にありもしない悪意を探して、勝手に勘違いして傷ついたり腹を立てたりする。とてつもなく不毛で、相手に対して失礼な態度を生み出している。

善意を悪意と勘違いして、不必要なほど距離を取ったり、アサーティブでない形で「牽制」という大義名分で言葉の加害を加えることが、人を遠ざける。結果、私の孤立を深めている。

いじめもそうだが、この世にあるのは事実ではなく解釈である。

当時にタイムスリップしてみないと分からないが、もしかすると、「いじめられていた」という私の解釈は、歪んでいたかもしれない。実は相手にはそんなに悪意はなかったかもしれない。あるいは予想通り悪意に満ち満ちていたかもしれない。

それは確かめようがない。そして過去は変えられない。人の本心はどこまでいっても永遠に分からない。

なら、あるのかないのかわからないようなものは「あった」と信じることも「なかった」と信じることもできる。

背景をどう規定するかは、私自身に権利と自由がある。

私は好んで「悪意がある」と信じるほうをとっているけれども、それは別の問題を生み出してはいないだろうか。

出会う人すべてを敵にして、孤独にさいなまれ、独りで何でもやろうとするのでしなくてもよい苦労をしていないだろうか。

 

「他人」という呪縛から自分を解放する

そもそも、他人とはそこまで重要な存在なのか?ということを再考してみる。

もっと言うと、他人の評価や、行動である。

 

まず評価から言及する。

他人のなかで自分がどう位置付けられたかは、私の価値に直接影響しない。心の中で馬鹿にされたり、あるいは裏で誹謗中傷をしていても、そしてその言葉を信じる人がいても、それは私の問題ではなく、他人の問題である。他人の解釈の問題であり、私が事実と認識しない限り事実ではない。

私は私らしく生きている限り、私は私であり、またそうでしかありえない。

「他人が私をどう思うか」が私自身に影響する、と信じているから、他者評価を重要視する。

なんら影響しない、と信じている場合は、なんの重要性もない。

つまり、他人の評価は私にとってどうでもいいことに分類することが可能だ。

 

では行動はどうだろうか。

不愉快な干渉や攻撃があれば、そのときに「それはやめてほしい」というだけでよい。

それ以外の行動の裏に、その因子を見つけ出そうとする努力は、しなくてもいい努力だと言える。

どれだけ注意深く他人を観察したとしても、分かることは限られている。そして、できる事も限られている。コントロールすることはできない。

悪いことをする人はどこにでもいるし、いつの時代もいなくならない。

降りかかる火の粉を降りかかったときに払えばよく、そんなに他人の一挙手一投足に注意を払わなくていい、ということだ。

引っかかることを言われたら「それってどういう意味?」と切り返す。

嫌なことをされたら「嫌なんだけど、やめてくれない?」と物理的に距離を取る。

そういう反射的な対応さえ身につけ実践すれば、成人した今では、そこまで困ることはない。

もちろん何も考えずただ信じる、というのでは、昨今の医療詐欺や食品詐欺を考えた人たちに私の大事な身体を傷つけられる可能性がある。

落ち着いて情報を調べ、自分の頭で考え、判断すればいい。唯一の自由である「意思」を他人に明け渡しさえしなければ、どう受け取るか、どう行動するかは、自分で決められる。

他人の行動はコントロールすることはできない。する権利もない。

相手が私をコントロールしようとすることも、止めようがない。

私には相手の不当な要求を拒否する権利があり、自由がある。

ただそれだけのことなのである。

だから、他人の行動は重要ではない。自分がどう行動するか、それのみが重要である。

 

まとめ

他人はそれほど脅威ではない、ということだ。

評価は勝手につけていればよく、行動も私の迷惑にならなければ特に干渉する必要もない。

脅威としての存在感が小さく、むしろ協力者としての存在感が大きいのが実際だ。

人は独りでできる事は限られている。

何かを成し遂げたいと思ったとき、力を貸してくれる仲間がいるというのは、とても有難いことだ。

私は極力他人を頼りたくないと思いがちだ。

なぜなら借りを作ることになるから。借りとは負い目である。何かの形で返さなくてはいけない、つまり心の負債となる。だから避けてきた。

しかし、よくよく友好的な人々を観察していると、どうやら見返りを求めないらしい。愛というのは見返りを求めない。

今まで私が受け取ってきたものは、本当は愛だったかもしれないのに、負債だと思って受け取っていた可能性がある。返す必要がないのに、返さなくてはいけないと思っていたということ。まるでアホである。

返さなくていいなら、どんどん頼ればよかった。苦しい、助けて、と言えばよかった。痛いなら痛いと言えばよかった。居たいなら居たいと言えばよかった。

なのにそうしなかった。それは私に「愛を受け取る勇気」がなかったからだ。「愛されるべき存在だ」と他ならぬ己自身が、己を肯定していなかったから。

私が助けを求めたとき、損得を考えず駆け付けて力になってくれる人。それが仲間であり、友達であり、そんな人には私も無償でできる限りのことをするだろう。

それが健全な協力関係で、実はそんなふうに弱さを曝け出して助けを求める勇気さえあれば、他人とは、最もありがたくて愛しい存在なのかもしれない。

そう思って感謝しながら生きていけるとしたら、それほど幸せな人生はない。私はそんな風に生きていたい。

だから、私は今、無償で力になりたいと思うことに力を入れている。ワクチン後遺症の支援や国内の農業を守る活動にも携わっている。そういう「助けて」に損得ではなく良心で手を差し伸べること。それが私が人との健全な繋がりを取り戻すために、まずやれることだ。

世界はどんな風に色を変えるだろうか。楽しみだ。

生きるのが楽しみだと思えるのは、今まで生きてきてなかなか味わったことがない感覚だ。

生まれてきてよかった。

 

【雑談】出会いがあれば別れもある

I do my thing and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped.

 

上述の「ゲシュタルトの祈り」のように、人と人との繋がりは良くも悪くもコントロールできないものだ。

先日、私のことを知ってくれて、私の記事を読んで、よかったといってくださる人が声をかけてくれて、とてもうれしかった。今日地震きて死んでもいいかも、と思うくらいうれしかった。ありがとうございました。

縁というのは面白いもので、まるで用意されているかのように、そのときに必要な人がお互いに引かれあう。

逆に言えば、人の価値観や生き方はどんどん変化していくので、自然と切れていく縁もある。

かつては気の置けない友人・恋人として深く繋がっていたとしても、お互いの状態が変われば自然と離れ離れになる。

そのときお互いにとって何か意味があって、時を共にする。

 

正直、かつて仲が良かった人と疎遠になり、さらにはあからさまに拒絶されていたりすると、しゅんとする。

自分が悪いワケでもなく、相手が悪いワケでもないので、特に誰かや何かを責める必要はないのだが、「そっかー、残念だな」と思う。

でも、その次の瞬間には、すっかり忘れて楽しく過ごしている。

 

私は最近「嫌うこと・憎むことに執着しなくなった」と気づいた。

おそらく理由は2つある。

ひとつは、ACとして12のステップを踏み、日々棚卸しを続けていることによる変化だと思う。恨みや憎しみは、書き尽くせるだけ書き尽くした。語りつくせるだけ語りつくした。負の感情を自助グループという安心安全の居場所で吐き出しつくしたので、今がある。

一度表に出さないと、手放すことは難しい。それが何であれ。内に秘めて隠している限り、それは火山のなかで轟々とうねる溶岩のように熱を帯びたままだ。

噴火して、自分の身を焦がしてでもある程度まで吐き出して、ようやく沈静化する。

それと同じだと思う。

もうひとつは、他人の価値観と他者の評価にタッチしようとしなくなったことだ。

私はACとして「過剰に発達した責任感」「世話焼き」「見捨てられ不安」「コントロール」「権威ある人を恐れること」「承認を求めようとすること」などの問題を抱えていたし、今も名残があると思っている。(※これらの問題に興味がある人は、過去記事「12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録」シリーズで詳しく解説しているので、お手数をおかけしますがこちらから遡ってご参照ください)

しかし問題を自覚したことによって、かつてのようにACとしての歪んだ衝動によって盲目的に強烈に突き動かされることが少なくなった。

第三者が評価するかしないかに関わらず、あらゆる存在には一定の価値があり、それは薄っぺらい金銭的・実利的な指標で量れるものではないことを理解した。

客観とは主観から構成されている。結局は主観の集合でしかない。そして他人の認識は、他人の問題であり、他人のものだ。完全に正確な客観的評価というモノは存在しない。

私たちは「他人にどう思われるか」をまったく気にしなくていい。「他人のなかの自分像」というのは、他人のとらえ方の問題で自分の問題ではないからだ。

私が他人を自分のフィルターを通してしか認識できないように、相手の認識機能にも限界があることを受け容れること。その受容が落ち着きとなる。

相手を変えよう、というのは傲慢なことだと知る。

相手には相手の価値観があり、他人がどう私を評価するかは他人に権利があり、他人の問題でもある。そしてたとえば「他人の家の庭の雑草が手入れされているかどうか」が私にはあまり関係ないように、たいした問題ではない。

同時に、他人の評価や価値観は違う宇宙の事象であり、アンタッチャブルなのである。

 

去る者は追わず来る者は拒まず。

お互い、好きなように人生楽しく生きればいいんじゃない?

 

そんなふうに思っている。

憎しみを抱いて執拗に攻撃するような状態は、特定の人物に異常な好意を寄せる状態と似ている。どちらもどこか心を病んでいるだけなので、そんな態度を向けられて「少し嫌だな」と思ったら堂々と距離を取るのがよい。

権利を侵害したり、境界線を侵害したり(暴力や支配など)する人には、毅然とNOを突き付けて、堂々と距離を取るのがよい。

相手を変えようとしてはいけない。

相手を変えることはできない。

変われるのは、相手が変わりたいと思ったときだけ。そして「変わる」というのは、相手自身にしかできない仕事だ。私たちの仕事ではない、相手に任せよう。

私たちにできる事はせいぜい、素直に落ち着いて意思を伝え、必要とあらば距離を取ることくらいのことだ。だから、実はとてもシンプルなのだ。

その結果、出会いがあれば別れもある。

嘆くようなことではなく、受け容れることであり、自然で必要な変化でもある。

無理して繋ぎとめておこうとするほうが不自然で、いずれそういう縁は腐れ縁となり、己を縛る腐り(鎖)となる。

あなたはあなたのままで、正々堂々と生きているのが一番良い。

そうやって生きていれば、ちゃんと必要なものが、必要な分だけ、あなたのもとに用意される。

【AC】生きてるだけでえらい

「生きてるだけでえらい」

こう言われて、あなたはどう思うだろうか。

そんなわけないじゃないか、と思うだろうか。

私もそう思って生きてきた。

 

なんだか馬鹿にされたように感じることもあった。

「お前は生きているくらいで能力の100%なんだから、身の程をわきまえろ」みたいなニュアンスでとらえるくらい、私の心は歪んでいた。

というより疲れていた。自分の状況をを他の人のそれと比べて責めていた。

 

「生きる」というのは、基本的に苦しい。

つらくてくじけそうになることが多い。

他人はうっとおしいし、仕事はつまらないし、世の中に流通するありとあらゆる商品やサービスが毒である。

やりたいことを考える前に、やらなければならないことが雪崩のように押し寄せて、身動きが取れなくなる。

「やりたいことをすればいい」なんて言われても、それすら埋もれて見えなくなっている。感じようにも感じられない。わからない。

世の中でもてはやされているのは「ポジティブ思考」で、「生きていたくない、生きるのがつらい」なんて言ってはいけないような風潮だ。

なんとなく禁じられているように感じて、抱えた暗い気持ちを誰にも話せないまま、外側はポジティブであるかのように振舞う。そうやって、少しずつ心が狂っていく。

とても共感できる感覚だ。私はそういうふうに世界が見えていた。

 

「みんな頑張っているのだから」

「私より苦しい人も貧しい人も大勢いて、それなのに今日を生きているのだから」

そうやって、居もしない他人と比べて自分を叱咤激励していた。

私は私の限界以上に頑張っていたと思う。

だから無理が祟った。アルコール依存症になり、うつ病にもなり、睡眠障害にもなった。

みんなって誰だ?

私より大変だから、私の苦しみは軽いのか?

そういう疑問を持つことすらよくないと思い、蓋をした。

蓋をしたその思いを飲み下すために、酒を浴びるように飲んだ。

アルコールで意識を失いたかった。願わくばそのまま消えたかった。

 

あなたも、充分に頑張っていると思う。

他人は他人でしかない。自分と同じではない。

生物学的分類が同じだけで、感じ方も違うし、ポテンシャルも違うし、生きてきた背景も違う。

全然違う存在だ。

そんな違う存在が何かを成しているからと言って、私たちも同じことができるわけではない。

「働くのが当たり前」というのは国がそう決めているだけで、働くなんてできない人も当然いる。

「社会人だから当たり前」というのも、世の中という幻想が求めている虚像であって、社会人である必要はない。実際、年齢を重ねても精神的に幼いひとはいる。結構すました顔をして生活しているけど、ちゃんと人生に向き合っている人はそんなにいない。

何かに依存し、誰かに依存し、見て見ない振りをして、なんとなく生きている人が大半だ。

たまたま経済的に恵まれて、チャンスに恵まれて、五体満足で生まれたから、たまたまそれっぽく暮らしているだけ。

私もその一人だと思う。

何か一つでも欠けて、何か一つでもすれ違っていたら、今この生活はなかったかもしれない。

それくらい今というのは、初冬の湖に張っている薄氷のように危なっかしい。でもそれに気づいてしまうと恐ろしくて前に進めないので、みんなその事実を認識の外に追いやる。そしてなんとか生きている。

 

私は社会に出るまで、大人というのはとても崇高で、あたかも全知全能の存在のように思っていた。

社会的地位のある人というのは、人徳を備えた質の高い人間だと思っていた。

しかし、それは大いなる勘違いだった。

大人はそんなに大したことがなかった。体が大きいだけで、基本的に頭は良くないし、感性も鈍い。

社会的地位がある人などは、それがよりひどくなったようなものだった。人の痛みをあまり感じないので金儲けに特化しやすいだけだったり、他人に褒められたい欲望が強いから汚いことができるだけだったり。

社会で認められる、というのは、あまり名誉ではないことを知った。

「社会で認められる立派な人になれ」という両親や教師の教えは、全くの間違いだった。

こんな狂った社会で認められる人は、立派でもなんでもない。

人をモノのように扱うことができる、幸運な人でなし。それに成れと言われていたのか、と思う。私は絶対になりたくない。

 

この社会は、基本的に狂っている。

働いても働いても生活は苦しいままで、それは一部の権力者が美味しい思いをするために仕組化されているから。

国民の生活をより良くしようなんて思っている施政者などいなくて、私腹を肥やし自分たちのお仲間だけが裕福ならそれでいいと思っている。

そういう真実から目を背けさせるために、酒を売ったり薬を売ったりゲームを売ったりコンテンツを売ったりする。

何かに依存させて目隠しをするついでに、さらに絞り取ろうとしているだけ。

そんな修羅の国、日本。世界もそうか。

 

そんな地獄のようなところで、あなたも私も、よく生きていると思う。

よくぞ生き延びた。今まで。そう思う。

「生きてるだけでえらい」というのはそういう意味だ。

寄ってたかって殺そうとしてくるこの社会で、何とか今日も生きている。

それは、とても難しいことだ。

とくに、自分に素直で真実から目を背けられない、純度が高く上質な人間性を持つ人であればなおさら。

精神を病む人というのは、敏感で繊細だから、この地獄をまともに見てしまうので、疲れ果てるんじゃないかと思う。

この狂った社会で病まないほうが、狂っている。

ちゃんと病んでいる私たちは、正常だと思う。

病んで動けなくなるくらい、本物の人間にとっては、この世はきつい。

 

疲れ果てて仕事ができない時期があってもいい。

学校に行きたくなくなるなんて、正常な反応だ。

活躍している他人と自分を比べて落ち込んでしまう必要はない、彼らは狂っているのだから。

何の役にも立っていないなんて、思わなくてもいい。役に立つ必要はない。いるだけで世界の役に立っている。存在しているというエネルギーは計り知れない。糞をするだけでバクテリアの役には立っている。人間が認識できる「役割」なんてごく一部。それに当てはまらなくても一向にかまわない。

つまり、「義務」など、あるように見えて、何も無い。

抱えている「○○しなくちゃいけない」は、実はしてもしなくてもいい。しなくちゃいけない、と思っているだけ。

唯一「義務」があるとすれば、「全力で味わうこと」だ。

喜びも悲しみも、楽しさも苦しさも、体全部を使って心全部で受け止める。

それだけで、100%よくやっている。

そして、それが「生きる」という行動そのものでもある。

生活していくとか、結果を残すとか、そんなものはオプションに過ぎない。

全力で今を感じる。表現する。伝える。

対面している生命をよく見聞きする。できるだけわかろうとする。

最もこれを徹底して実践しているのが、こどもだ。

子どものように、純粋に今を全力で味わう。原点回帰。

大人になるというのは、この原点を忘れる、と言うことに他ならない。

大人になんてならなくてもいい。つまらない。

つまらないことはしなくていい。

100点満点は既に達成されている。生きてるだけでえらいんだから。

それ以外のことは、追加のオマケである。

【AC】他人を見下さないって難しい

他人を見下さないって難しいな、と思う。

私の「私は正しい」という思い込みは根強い。

なんか反省した。

 

対等でアサーティブなコミュニケーションは簡単じゃないなぁ、と常々感じる。

 

「正しい」「間違い」はなく、ただそれぞれがあるようにあるだけなのに、正しさで白黒つけてしまう自分がいる。

妻はそのバランス感覚がすばらしく、白黒つけずに「そういう考え方なんだね」とある程度聞き流しながら上手に会話をさばいていると感じる。

それが、私にはまだまだできないんだよなぁ。

 

他人が、自分の中では一度検討し解決済みの問題を抱えていたりすると「なんだ、まだそんなところにいるのか」と、見下す気持ちがわいてくる。

他人が、自分と異なる意見を持っていると、自分が正しいという無意識の大前提にのっとり他人の意見は「誤り」であると断定し、なぜそんな間違いをするのかという原因分析的な思考回路でその人の発言を聞いていることがある。

 

自分が正しいかどうかなんてわからないのに、実に傲慢なことだ。

あくまでも「私としてはこう思う」というだけで、正しさなんてどこにもないし、何の保証もありはしない。しかし、私は自分が考えたことがこの世で一番正しいと思う節がある。

 

こんな気持ちを持っていたら、アサーティブなど程遠い。

会話する前から対等ではない。姿勢が対等でないと、相手は話始められない。私の話も相手の心には届かない。

 

変えられないものを受け容れる落ち着き、変えられるものと見極める賢さがまだ甘いんだろうな、と思う。つまり、私の課題だ。

相手はそう思う、私はそう思わない、ただそれだけで、そこに上下はない。

やりたい人はやればよく、やりたくない人はやらなければいい。

たとえば会社や組織なんかでは、組織運営の観点で方向性を統一したがるので、やりたくないからやらない、では軋轢が生じるケースが多い。

その場合は、取り入れるにしろ「ここまではやれる」という範囲で良いし、逆に言えば「ここまでしかできない」ということを率直に伝える必要がある。

要は、自分の判断や決定を捻じ曲げられるのではないか、という恐れを抱いているから、見下して相手という脅威を矮小化したがる。

これは、実際の経験が影響している。

幼少期は親という権威に自分の判断や決定を軽んじられ、敷かれたレールの正当性に反駁できず従わざるを得なかった。それによって、私は多くを失い、大きな怒りを抱えることになった。

成人してからは会社や上司という階級構造に取り込まれ、巧みに会議という場で合意を取り付けられ、やりたくもないことを一生懸命やる羽目になり、苦しんだ。

その苦々しい体験たちが、私に警告を発するんだろう。

「気をつけろ!ぼーっとしているとまた正しさを振りかざしてやり込められるぞ」と。

相手に私の素直な気持ちを騙され変えられてしまう、という恐れと不安。

 

私はとことん、他人の思い通りに動かされるのが大嫌いだ。

私が納得したうえで方向性が同じだから一緒にやろう、ならいいが、納得を置き去りにして力関係や上下関係や労使関係でやれと言われると、絶対にやらない。というかやろうと思ってもやれない。酒の力を借りて頭をラリらせて無理やりやった結果、精神疾患のデパートみたいになったから、もう二度とやらない。

やりたくなくてもやるのが大人、という考え方を耳にしたことがあるが、それは奴隷としての最適化であって、大人でも何でもない、と私は思う。

そうやって自分の気持ちを殺して生きるのが大人なら、大人になんてならないほうが正解だ。

私は、私の意志で、私の納得するように生きたい。

そうでない生き方がどんな末路をたどるか、経験してきたからだ。そのせいで一度死んでいる。もう一度拾った命で第2の人生を歩んでいるのに、なんで同じ死に方せにゃならんのだ。絶対にヤダ。

とにかく人に使われるのは向いてなさすぎる。サラリーマンなんて、自分でもよくやっていると思う。

まぁ、そもそも集団で行動のベクトルを揃えようとするから軋轢が生じるんだけどなぁ。

そもそもが組織化すること自体不自然で、ストレスがかかるもので、人と関わらなければ何かを成し遂げることができないこの世の摂理を呪いたくもなる。

 

しかし、生きとし生けるものすべてが、単独では存在しえず、うまいこと間を取って手と手を取り合って生きていかなくてはならない。それは存在そのものを通じて「異なる意見も自分の意見と同様の重みをもつ現実」を顕在化していると思う。

折り合いをつけて、心がいつも真ん中で、相手も自分もまるっと受け容れて。

どこに偏るでもなく、こだわりすぎるでもなく、でも納得して穏やかにいられる。

そんなふうに自分をポジショニングしていけたらいいな、と願う。

相手は変えられない。相手が私を「コントロールしよう」とすることも変えられない。相手の課題だから私の範疇を超えている。

私にできることは、Noと伝えることと、代替案を提示すること。できることとできないことを率直に丁寧に伝えること。

相手が相手らしく在っていいように、私は私らしくある権利があり、道を違えたとしても誰も悪くはなく、どちらが正しいのでもない。

運よく同じ方向を目指していけるとしたらそれは素晴らしいことだし、そうでなくてもまたしかたのないこと。

この辺りはゲシュタルトの祈りに似ている。

I do my thing, and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by the chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped.

わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれば、それも仕方のないことだ。

「ゲシュタルトの祈り」

 

そのためにも、サラリーマンは良い環境ではないかもしれん。

常に金、金、金。

雇う側は金で圧力をかけて雇われる側に言うことを聞かせようとする。

会社という組織では、アサーティブは無理だと思う。

話す相手がすでに上から来ていてアサーティブとは根本的に程遠いのに、こちらだけアサーティブを貫くには無理がある。アサーティブでいない権利も、私たちはそれぞれが持っている。

私は私ができる時だけ、できる相手だけにアサーティブでいて、他とは距離を取るしかない。

つまり私にとっては、「会社」というコミュニティーにはあまり関わらないのが一番だ。

 

まあ、資本主義社会では、常に金の呪いにつきまとわれるので、この社会そのものに向いていないともいえる。いえるけど、そういってしまうともう死ぬしかなくなるから言わない。

できるだけ影響が少なくなるように、また、お金から距離を取って生活できるように、独立の準備に勤しもうと思う。

【AC】見返りを求める

「見返りを求める」

現代社会においてだいたいの人間関係はそんな感じだよな、と思うことがあります。

何でもギブアンドテイク。

だから、人と接するとイガイガ・イライラするんだなと思います。

心が荒むっていうかね。

 

「やってあげたのに」とか

「してもらったのに」とか

他人がやることは他人の自由だし

自分がしたことは自分の選択だし

別に何かを返す義務などない。

だけど、求めたり求められたりする。

そして「その程度の関係だったのか」とガッカリする。

 

なんで人は、他人に期待し、自分に報いることを求めるのか。

それは自分のなかの「当たり前」を押しつけているから。

他人の行動や態度が、自分の「当たり前」からズレることに対して、怒りや不安を感じる。

つまり勝手にルールを設定して勝手にキレている。

そういうことなんだよな、と思います。

が、ついつい忘れます。

 

「自分が正しい」と無意識に思い込んでいるから、自分の勝手な「当たり前」をこの世の摂理のように思い違いをしている。

だから他人にイラつき、他人に自分の当たり前をさせようとする。

それは、傲慢なことです。

相手の尊厳と権利を侵害し、境界線を踏み越えている。

だから傷つけ、傷つく。

 

「したことに見返りを求めるなら、それはあなたが本心からしたいことではない」

ということを、私自身忘れないようにしたい。誰かのせいにして、自分で選択し決定することから逃げているのだと、常に自覚していたい。

また、他人が私にその人の当たり前を押しつけてきても、私は落ち着いて毅然とした態度で要望をお断りし、その人を許したいと思う。

だって私も「もっと感謝してくれたっていいじゃん」とか思うことあるし、親に「もっとこうしてくれてたらよかったのに」って思うことあるし。

それも私。

私だってそうじゃん、と。

だから他人は私のように、愛嬌がある憎めないもののようにも感じる。

やったことに返してくれたら嬉しいって思うし、どうしても期待するし、なんでやってくんないのさ?!ってムカつくときもあるし、そんな素直な気持ちすべてをひっくるめて自分。

親が機能不全家庭でやってきたことに傷ついた私がいるのも、哀しい気持ちや苦しい気持ちに苛まれているのも、本心。

それらを「正しくない」とかレッテルを貼って、無かったことにしようとか、しちゃいけない。全部ちゃんと自分なんだから。全部大事なこと。

いずれ蓋をしたそれらの本心は、形を変えて必ず顔を出す。もっと歪んだ醜さを纏って。

人はそんなに強くない。だから、間違ったり傷つけたりするのも、お互い様。

そんなもんなんだから、他人だってそういうときもあるよな、と思う。

だから、自分を受け入れるためにも、他人の弱さと過ちを赦す、そして手放す。

それが「優しさ」なんかな、と思います。

そんなことを最近思ってます。

【AC】お盆は休みではない

きっと皆さんはお盆明け、仕事に戻るとこう言われるだろう。

「お盆休みはゆっくり休めましたか?」

休 め る わ け ね ー だ ろ 。

仕事よりしんどいよお盆は。

 

「お盆休み」という激務

お盆・お盆休みとは、そもそも何なのだろうか。

 

お盆(おぼん)は、日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。

かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。

期間

お盆休みは江戸時代には既に定着していた連休で、明治以降も1872年(明治5年)までは旧暦7月14日から7月16日まで3連休となっていた。

全国的には以下のいずれかにお盆を行うことが多い。

旧暦7月15日(旧盆)
沖縄・奄美地方など。旧暦によるとお盆の日程は毎年変わり、時には9月にずれ込む[注釈 1]
新暦7月15日(もしくは前後の土日)
東京などの大都市部や東北・北陸地方の一部の都市など農繁期と重ならない地域では新暦7月15日となっている[1]。東京盆と呼ぶこともある[1]
函館[注釈 2]、東北地方の一部[1]、東京下町・横浜中心部・静岡旧市街地、栃木市旧市街地、山形県鶴岡市街地区(鶴岡市鶴岡駅前、白山、赤川堤防西岸、文下田南、外道地区以北)、石川県の一部(金沢市旧市街地、白山市旧美川町地区、かほく市旧高松町高松地区)、佐賀県有田町 など[1][3][4]
新暦8月15日(月遅れ盆)
ほぼ全国的に多くの地域。

由来

仏教用語の「盂蘭盆会」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もある。現在でも精霊を「ボンサマ」と呼ぶ地域がある。

お盆休みの帰省は、故郷を離れて暮らすことが一般化した昭和の後半から全国的に見られるようになったが、悼むべき故人に大戦で亡くなった親類縁者を共に加えて行うことも少なくない。

 

引用:Wikipediaより一部抜粋

 

つまり要約すると、夏に先祖の神霊を慰める儀式の総称がお盆で、そのための期間がお盆休み、ということになる。

家という共同体の恒例行事である儀式をするために、仕事をしないだけだ。

昭和後半以降は核家族化がすすみ、地方の実家を離れて都市部に住む働く世代が、その期間に帰省するという風習が定着したにすぎない。

帰省する側・迎える側が実際にやっていることは「先祖の神霊を慰める儀式」ではないので、本来の宗教的な観点で言えばほぼ意味を失っている。

では、儀式をやめて何をしているか。

親から子への、過干渉とイネイブリングである。

 

今夏は皆さんに、ちょっと奉仕をしてもらいます

古来の風習を口実に実家という自分の土俵で手ぐすね引いて待っている実父母・義父母。

彼ら彼女らが何を企んでいるか。

若者から自分に対する奉仕を引き出すことだ。

期待する奉仕は、精神的なものの場合もあるし、肉体的なものの場合もある。

 

精神的な奉仕の代表的な例としては「自分たちの存在を肯定してもらう」という奉仕である。

孫たちに「お盆玉を渡す」「何かを買ってやる」「遊びたいだけ遊ばせる」という甘やかしの切り札を切る。

求めているのは、「おじいちゃん、おばあちゃん、大好き」であり「おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう」である。

実子とその配偶者にその姿を見せつけて恩を売る。

「本当によくしていただいて。来年もまた帰ってきますね。」と言質を取る。

空っぽでつまらない己の老後の生活に潤いを与えるために。

「自分の人生はこれで本当に良かったのか」という漠然とした不安を一時的に忘却するために。

自己肯定感を求めている。

 

あるいは、未婚の娘や息子に対して「いつ結婚するんだ」「いい相手はいるのか」「結婚して早く孫の顔を見せてほしい」などとプライバシーの侵害をする。

孫の結婚や就職や子育てに口を出すのも、同様にプライバシーの侵害だ。

これによって引き出したい奉仕は、勝利させてもらうことだ。

未熟者というレッテルを張って、自分が勝ち確のマウンティング合戦を子供や孫に仕掛けて勝利を味わう。

この対戦において、自分たちはもう結果を持っているので有利だ。

結婚ができた、妊娠出産ができた、子育てができた、だから今がある。

こうした自分の人生の結果・人生の選択を、善いことで間違っていなかったのだと他人に肯定させたい。

当然、話を振られた未婚の娘や息子は不利な立場を強いられる。

なぜならまだ選択を決定していないので結果を経験していないから。

経験している立場と経験していない立場の、埋めがたいギャップが彼らの勝算だ。

もし「結婚や出産は求めていない」という自分の価値観を主張しても、彼らは必死で言いくるめようとする。

いかに結婚が素晴らしいことか、子供を持つことがいかに素晴らしいことかを、自分に言い聞かせるように延々としつこく悦に浸りながらプレゼンする。

他人の自慢話ほど聞くに堪えないものはない。

ひたすらめんどうくさいので「ハイそうですね頑張ります」と言っておいて、その場を終わらせるのが最も手っ取り早い。

その諦観と絶望からくる表面的な返答を聞いて、彼らは安堵する。

議論に勝った、自分たちの思い通りに説得できた、と思い込む。

そして、結果が伴わない限り、心配しているふりをしながら舌なめずりして同じマウンティングを繰り返す。次の夏も、その次の夏も対戦を仕掛けてくる。

自分の人生の選択について他者からの肯定を得たい。そのために、わが子やわが子の家族を生贄に捧げる。

これが、精神的な奉仕の例。

 

肉体的な奉仕の代表例は、食事の支度や義父・親戚一同の世話係である。

これは、特に女性に集中的しがち。

休みなんてとんでもない。他人のジジババや知らない大きなお友達の分まで働かされるのだから、いつもより仕事が多くなる。休まるわけがない。

黙って出されたものを静々と口にして「おいしいね、ありがとうね」と言っていれば、まだかわいげがある。

たいていはそんな風ではない。

「味付けがおかしい」だの「もっと健康なものを食べさせてあげないと」だのと作業の途中で謎のマウントを取り始める。挙句の果てに息子の嫁の調理の途中で「もう見ていられない」と手を出し始めるような義母の話を聞くことがある。

ただの邪魔である。やばい。

最終的な目的は、息子から「やっぱりお母さんの味が一番だな」というマザコン言葉を言わせることだ。義母が作った品と息子の嫁の品を比較するために、あえて嫁にも作らせたのだ。

醜悪さに怖気が走る。

そんな気持ち悪い出来レースを見せられたら、妻は激怒する。

「いや、そんなら、最初から自分だけで作れよ。お前の料理出したいなら準備しとけよ。こちとら毎日家事育児に追われて疲れ果ててんだから無駄に手伝わすなクソババア。」と思っても無理はない。怒り心頭だろう。当たり前だ。

義母のほうはいい気なもので、自分が今までやってきた家事育児を肯定されるようで気分が高揚し機嫌がよくなる。ますます息子の嫁からすればストレス以外の何物でもない。

息子の嫁は面目丸つぶれの状況をつくられて、ますます義母が嫌いになるだろう。夫のマザコンっぷりに辟易として愛想をつかす。夫婦の人間関係に亀裂を生むだけだ。

「他人の家」の人間関係を荒らして、後々まで続く呪いのような家庭不和を植え付けるだけなのだが、自分が認められることしか頭にないため、想像が及ばないのだろう。

また、自分に育児の責任がないが血の繋がりのある赤ちゃんや幼子と触れ合おうとするのも、幼い彼ら彼女らに身体的な奉仕を強いているといえるだろう。

老いさらばえてカッサカサの肌の自分とは違う瑞々しい肌を撫でまわして、かわいいかわいいと言って孫から生気を吸い取る。その姿はまるで妖怪である。

これが肉体的な奉仕の例。

 

休みではない。奉仕をしに行くということは仕事だ。仕事よりしんどい激務。奉仕という激務だ。

せっかく与えられた休みをつぶし、わざわざ住み慣れた家を離れ、安くない移動費を自己負担し、田舎に住む妖怪たちに己が身を貢物としてお供えするようなものだ。

だから、コロナだろうがそうでなかろうが、帰省したくない人が多いのは当たり前だ。

 

 

まとめ:里帰りではなくお祓いが必要

結構極端に書いたが、おおむね中らずと雖も遠からずといったところではないだろうか。

「ご先祖様あっての自分、だから感謝しろ」

「先祖の墓参りにもいかないでいると、バチが当たるわよ」

なとどいう人がいるが、そんなわけがない。

ご先祖はご先祖なりに人生を生き、そして死んだんただろう。たぶん死後の感謝など求めてはいない。自分が今を生きるためにやったことだ。自分のためだ。

私を生かしてくれているのはご先祖だけの力ではない。この世界のすべてが、私を生かす私の一部だ。だから毎日感謝している。なので、わざわざ夏に交通費をかけてまで特定の一部にだけ感謝を表明する必要はない。

バチなど当たるはずがない。自分の血族を呪うなんて、どうかしている。

そんなことするなら「あんたどうかしてるぜご先祖さんよ」と言いたい。

もしそんなご先祖の霊がいるとしても、私たちがありのままの自分で生きることを望み、温かく見守っているはずである。

「貴重な休みにわざわざ墓になんて来なくていいから、楽しく過ごしなさいな」と思っているはずだ。

私の先祖なのだ、そうに違いない。だから呪われるわけがない。

 

結局、前述のような奉仕を獲得するための、父母側の口実の一つでしかない。

あれやこれやと脅して子供の行動を支配しようとしている。いわゆるイネイブリングのための論法である。

だから無視していい。

実父母、義父母の精神的な問題である。というととは私たちにできることはない。どうか勝手にがんばってほしい。私たちは休みたい。そして限りある今を自由に過ごしたい。

 

ていうかなぁ、なんていうか。

正直に「毎日つまらなくてさびしくてたまらないので、どうかウチに遊びに来てください」と言えばいいのに。

断られるのが恐ろしいから、屁理屈をこねてコントロールしようとするんだよね。

ちゃんと今まで、年少者に対してアサーティブに対等に接していて、対等な関係を築いているならば、愛情は伝わっている。無駄に策を弄さなくても、勝手に会いに来るさ。

求めなければ会いに来ない時点で、お察しなんだよね。

成人した子供たちの貴重な時間を自分の寂しさを埋めるために定期的に奪うなど、厚かましいことだとは思わんかね。

「自分たちのことなんて心配しなくていいし様子なんて見に来なくていいから、好きなように過ごしてほしい」と、なぜ言えない。

本当は愛していないのか。いまだに子供を自分たちの所有物だと思っているからか。

確かにそんな利己的な人間が死んだら、その地で地縛霊になりかねない。

だから墓参りをしないとバチが当たるのかもしれない。

だとすれば、毎年手配しなくてはならないのは、里帰りの交通チケットではなく、悪霊のお祓いであろう。

【AC】お盆に考える「親の愛とは何なのか」問題

お盆である。

実父母とひさびさに三日間過ごしてみて改めて感じたことについて、書いてみる。

 

実母の生い立ち

実母は、AC(アダルトチルドレン)でありACoA(アダルトチルドレン オブ アルコホーリックス)の当事者だが、否認しており回復に繋がっていない。

アルコール依存症の父(私から見た母方の祖父)の壊れた機能不全家庭に育った。

祖父もまたACで、母親の共依存から逃れられないままの人生を生きた。

脈々と引き継がれてきたACの系譜。

その先に私がいる。

 

実母の人生を振り返ってみよう。

実母は祖父から「食うのに困らないのは教師だから、教師になれ」と人生のレールを敷かれた。そして、それに従って生きてきた。

なぜかといえば、祖父は成功者のレールから外れてコンプレックスを抱えており、権威主義と満たされなかった承認欲求に支配されていたからだ。

祖父は、次男でありながら彼の母親に共依存的に頼られて、当時勤めていた総合商社をやめて地元にUターンした。海軍の軍役を終えて、幸運にも総合商社という経済的に裕福な生活が送れる職業に就いた祖父は、おそらく優秀だったのだろう。そしてその自負もあったはずだ。

その経済力を魅力に感じて、そして次男というポジションから介護とは無縁であると期待して、祖母は祖父と結婚した。結婚後突如として表れたUターンするという話は彼女にとって青天の霹靂であり、ひどく狼狽して激しく反対したそうだ。

その反対を押し切って、総合商社を退職したのは、祖父の兄(長男)が「地元に帰ってくるなら仕事を世話してやる」と約束していたからだ。

しかし、その約束は結果的に反故にされた。祖父は兼業農家として貧しい暮らしを強いられることになった。

貧しいばかりか年老いた母親の介護まで祖父母に押し付けられ、祖母は祖父に対する好意を急速に失っていったという。思い描いていた人生設計がものの見事に粉砕されて、祖父に対しては憎しみさえ抱いていたことだろう。その話を娘である実母にするくらいなので、そうとう腹に据えかねていた様子がうかがえる。

祖父は、自分の選択ミスにより針の筵と化した家庭の居心地の悪さと自分のACとしての生きづらさを紛らわすために、アルコールに依存することになる。

いつもREDウイスキーの瓶を枕にして寝ていたというエピソードから、私と同じようなアルコホーリクだったと容易に想像できる。

祖父は、愛した女性は自分そのものではなく自分のステータスや経済力と結婚したのだとわかって、絶望と自暴自棄に埋没した。

口を開けば母親に世の中に対する恨み言ばかり言っていたそうだ。完全なるマルトリートメントである。

実母は、そんな祖父に過干渉され、祖父を憎む祖母の苛立ちを八つ当たり的に日常的に浴びせられた。そしてその地獄のような家庭環境は、実母をしっかり伝統的なACとして育んでいった。

 

実母の現在

そして今も彼女は、ACとしての生きづらさを抱えたままだ。

息子や娘の就職先は有名企業や社会的に地位が高いと認識されている専門職(医師・薬剤師・弁護士・裁判官など)でなくては満足できない。

なぜなら、祖父から刷り込まれた権威主義を今も引きずっているから。

人生を、父親に言われた職業に就くため・母親から小言を言われない「いい子」であり続けるために費やし、自分のインナーチャイルドを窒息死させたまま生きてきたため、自己肯定感が低い。

 

引用:一般社団法人リカバリング・マインズHP「第一章:インナーチャイルドを知る」

 

そのため、他者からの承認を求め、正しさに固執し、嫌われないために行動する。

しかし、それこそが他人との健全な関係構築を遠ざける。

その証拠に、彼女にはいつも親しい「友人」がいない。損得や共通点で繋がっている他人はいるが、胸の内を打ち明けられるような、心から信頼している他人が一人もいない。

だから常に孤独。その孤独を埋めるために、子どもに共依存する。

祖父の母親がそうであったように、祖父がそうであったように、子どもの人生に過干渉しイネイブリングする。歴史的にその方法しか子どもに対する関わり方を知らないので、不可抗力ともいえるが、子どもである私からすれば、たまったものではない。

実父はそんな実母にかける言葉も提示できる解決策もなく、居づらさや後ろめたさを隠すように、仕事に依存して家庭になかなか帰らなくなる。

マンツーマンで相手をさせられるのは、長男である私だ。

実父の代わりに、実母の愚痴を聞き、実母がかけてほしいであろう言葉をかけ、彼女の孤独を埋めるための「道具」に使われる。

子どもは生活力がないうちは家庭を離れることができない、私は母親から逃げられない。

逃げ場を失った私を人ではなくモノとして使っている自覚が彼女にはない。彼女のなかでは「愛情を注いでいる母親」であり、その愛情の見返りとして、子どもが自分に対して「お母さん大好き」と言うなど「承認欲求を満たしてくれる対価」を差し出すのは当然のことだと勘違いしている。

だから、自分を慕ってくれないとひどく気分を害して不貞腐れた結果「構ってちゃん」になる。「私はこんなに尽くしているのに」と罪悪感を煽って自分がしてほしい行動を引き出そうとする。

これは、ACがよくやりがちな「コントロール」であり、子どもを自分に都合がいいように「道具化」して支配しようとしている状況だ。

なので、私が成人した今も、私がきちんと満足できる優良企業()で働けているかどうかを真っ先に探ってくるし、何かしら世話焼きができる欠点がないかどうか「心配する」というふりをして詮索する。そして欠点らしきポイントを見つけると、舌なめずりをしてあれやこれやとアドバイスという名の過干渉をし始める。

本人としては、本当に本人の未来を案じていて「善き母親として子どもを気にかけている」と思っているのだろう。

本当に子どもを愛していて善き母親であるならば、成人した既婚者の息子に対して余計なことは言わず、ただ信頼して見守るものだ。

相手にはもう責任能力があると信じていて、そのように親として関わってきたという自信があり、対等に尊重している関係性なら、過干渉や詮索行動は起こりえない。

相手が我が子だという関係性を笠に着て、成人した尊厳ある人間との適切な境界線を見失っている。

自分の生きづらさと向き合う工程がゴッソリと抜け落ちて、精神は満たされない子供のまま、大人になり親になってしまったから、自分の人生以外のところ、すなわち息子の人生にいつまでも関わろうとする。

 

回復する私と取り残される実母

私がACを受け容れ回復のために歩み始めたことで、離れようとする私の挑戦に、幾度となく実母は抵抗運動をした。

さめざめと泣いてみたり、怒り狂ってみたり、息子が一生添い遂げようと決心してプロポーズした妻のことを低学歴だ気にくわないなどと侮辱してみたり。

全てが、私の目を覚まさせるには十分すぎるほど、毒親のそれだった。

そして今も、私が幼少期に惨めなACとして貢いできた労働の歴史を、息子から愛されている証明と勘違いして、過去の話を持ち出して反芻しては、息子側の認識の違い・現実と妄想との乖離に心を痛め、あからさまに落ち込んだりしている。

過去の思い出話しかすることがなく、現在の自分・未来の自分に関する話がひとつもないのは、そういう現実逃避の仮想世界にいるから。

今回接してみて、未だにその世界にいるんだな、と実感した。

とても残念だ。しかし私にはどうしようもない。

彼女の問題は、彼女にしか取り組むことができない。

 

親孝行とは、いったいなんだろうか。

私は親になってみて思う。

親孝行とは、すでに完了した過去である。

子どもは我が子として存在してくれただけで、もう十分すぎるほど様々なギフトをくれたと思っている。

自分の人生を、素直に真っすぐに生きてほしい。

私や妻などに関わっていないで、想いのままに生きてほしい。

その邪魔になるくらいなら、早々に退場したい。

私から与えてあげられる、彼ら彼女らが自分らしく生きるために必要なものなら、見返りが無くともいくらでも差し上げる。

代わりに私を愛さなくてもいい、憎んでも構わない。

褒められもせず、苦にもされず、そんな存在であればいい。

もう、親孝行は、生まれた時点ですでに済んでいる。

 

まとめ:親の愛

親の愛とは、そういうものではないだろうか。

フロムは『愛すると言うこと』で「精神的に成熟した人間でなくては、愛することを実践するのは難しい」と説いている。

 

いい子でなくてもいい。

私のことが大嫌いでもいい。

障害があってもいいし、うまく社会に馴染めなくてもいい。

他人と比べて優秀でなくてもいいし、誰かに認められる何者かでなくてもいい。

その子が、その子らしくあってくれさえすれば、それだけでいい。

 

成熟したインナーアダルトを持つ親とは、子どもに対してこんな想いを抱いているものではないだろうか。

 

引用:一般社団法人リカバリング・マインズHP「第二章:インナーアダルトと共に」

 

なぜなら、その子は「自分の延長」ではないから。

所有物や「道具」ではないから。

思い通りになんて、ならなくて元々。

彼ら彼女らの人生は、本人のものだ。

親であろうと、他人である私がコントロールすべきものではない。

 

悪夢のようなACの世代間連鎖を断ち切る。

そのためにはまず、私は私らしく生きることに、全力でなくてはならない。

私は、私として精一杯生きて、しっかり己の宿命を生きたと胸を張って死にたい。

自分の人生の課題を、子どもに背負わせることだけはしたくない。

実母のような「愛を嘯く呪い」ではなく、「どこにでも宿る愛」でありますように。

切れ切れの愛として彼ら彼女らの世界の一部となり、爽やかに忘れ去られますように。

偽らざる愛情とは、そういうものではないだろうか。