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【依存症】なぜアディクトは他人の回復に過干渉してしまうのか?

アディクトは自助グループに繋がって少し経つと、周りをキョロキョロし始めるように思う。私も周囲が気になる時期があり、断酒日数を気にしたり、回復していることをアピールしたりしたくなる時期があったことを思い出す。

私が行っていたグループでは、古参メンバーの数人がやたらと新しく入院してきた人やスリップした人(私)に異常なまでに甲斐甲斐しいことがあった。

その構図に、同じ病の仲間の愛の美しさというより、私はある種の『気味の悪さ』を感じてきた。

この『気味の悪さ』の正体はなんなのだろうか?

 

共依存へのスライド

自助グループという名の鳥籠のなかですら、ヒエラルキーを作りたがる人がいる。

一度は社会で失敗し敗退したパワーゲームを、アディクトという同類のなかでゲームのやり直しをしようとするのだ。

それで、せっかく繋がった仲間が疲弊し精神を病んで離れていく。そんな光景はよく見てきた。

自分の自尊心を満たすために仲間を使っている。

それが愛なはずがない。

美しいはずがない。

もちろん、全ての自助グループがそんな阿鼻叫喚の釜茹で地獄と言っているわけではない。

アサーティブで健全なスポンサーシップに基づいて、各々の回復に向かうグループが殆どだろう。

しかし、依存対象がスライドしていることに気づかないで『自分は回復者だ』と自負する人は、一定数存在する。

12ステップ・プログラムを共に進めている人と話していて「依存症者は、依存対象をやめても共依存にスライドする傾向があるのではないか」という言説にいたく共感した。

他人の問題(しかもこちらが勝手に問題視しているだけ)にばかり目が向くときは、大抵、自分自身の回復から目を背けているときであり、自覚するのはとても難しい。

知らず知らずのうちに、アディクションの対象が、物質やプロセスへの依存から共依存にシフトしているのだ。

実は生きづらさの根本はそのままであることに、本人だけが気づいていない。

 

ジャッジとコントロール

では、生きづらさの根本とは何なのだろうか?

「正しさ」の物差しの呪縛にとらわれて、自分自身の無力を真の意味で受け容れられていないことだと思う。

ジャッジしたがるという心理はそういうことだ。

「私が正しいのだから、私の言うことを聞いて当たり前だ。」

「私はステップをこの人より先に始め先に進んでいるはずだから、私の方が回復していて当然だ。」

こんな心の正体を深掘りしていくと、結局『結果』へのこだわりが手放せていないのだとわかる。

自分を他人と比較して優れていることを確認したいのは、安心したいから。正しさを武器に他人の境界線を侵略し、コントロールしようとしているからだ。

それはまだ12ステップ・プログラムにおけるステップ1の「無力を認める」がまだ未達成な状態と言えるのではないだろうか。

私たちはそのように「コントロールできる」と信じて、尽くコントロールできてこなかった事実を受け容れたはずなのに、気づけば形を変えて同じことを繰り返してはいないか。

12ステップ・プログラムのステップ12をやっているからといって、他のアディクトより前に進んでいるわけではない。

自分自身の棚卸しを続け、間違った時は直ちにそれを認めた。』というステップ10にある通り、繰り返し棚卸しを続け、原点に常に立ち返る謙虚さを忘れてはならない。

変えられるものは、自分の行動のみ。

つまり私たちにできることは、この日々の棚卸しと埋め合わせをきちんと行うことだけだ。

そもそもバックグラウンドや生きてきた道筋が異なる以上、回復は比較できないことだし比較する意味もないことだ。

依存症の専門知識やステップの経験を笠に着て、経験が浅い人を見縊るのは、今まで自分がされて嫌だった『ジャッジ』を他人に押し付けている。

ジャッジしてマウントを取りたがるのは、心の奥底にまだ不安や焦りがあるからだ。

「自分の本当の本当を、掴んでいないのではないか?これで本当に回復しているのか?」

そういう不安から目を逸らし見て見ぬ振りをするために、心が他人に目移りしている。

 

自分自身の回復がすべて

回復の度合いを比べたりジャッジしたりするメンバーがいる自助グループが、グループ全体の安寧秩序を維持できているはずがない。

ひとことで言えば、自分自身の回復が主軸ではなくなると、自分のみならず周囲にも悪影響なのだということだ。

何をもってしても自分の回復こそが主題である。それだけが主題である。

自分自身の回復に向き合うために、様々な自助グループがある。

他人の回復の促進(そんなことはできないが)や、メンバーとしてグループの役に立つことが、自助グループに参加する目的になってはならない。

他人に影響を及ぼすことに傾注するのは、もはや『嗜癖』だと自覚しよう。

正しさで他人をぶん殴るそれは、暴力だ。暴力を嗜癖にしてる。それは自分がまだ自分自身に向き合えていないからだと自認しよう。

他人より自分の人生に目を向けよう。

私が思う正しさは『自分の世界』という小さい世界での正しさだ。万国共通じゃない。

ついつい同じように依存に苦しんできた仲間と自分を同一視しがちだし、同じなら理解し合えるはずと思いがちだ。

論理が飛躍してしまっている。

相手をそのまま見て、相手の話をあるがままに聞いていない。

勝手に期待して、裏切られたと感じる。

相手も、自分の生きていく道筋すら、私には変えられないものなのに、共通項に目を奪われて、すぐに自他の境界線が曖昧になる。

私も例に漏れずやっぱり共依存的だなと思う。

 

あとがき

今いる自助グループが肌に合わないと思ったら、他のグループに顔を出してみるのも手だということは、アディクションに悩む仲間には覚えておいてほしい。

変えられないものを受け入れる落ち着きを。 変えられるものを変える勇気を。 その二つを見極める賢さを。 とは、先人達によりよく咀嚼し吟味された言の葉だな、と痛感する。

【依存症】私を許さないでいてくれて、ありがとう。

私の酒害について、今日新たな気づきを得たので、棚卸しします。

「偽りの謝罪をぶつけて、相手から『許し』を強奪しようとしたことも、酒害の一種だったんだな」という気づきを得ました。

 

 

私はまだ断酒していない時期や、やめてすぐ(断酒から6ヵ月に満たない)の時期、自分が罪悪感から楽になるために、許してもらって楽になりたくて、よく偽りの謝罪をしました。

相手が許してくれないことに憤慨して「こんなに謝ってるのに許してくれない相手が悪い」「他にどうしろというんだ」などという気持ちを持ちました。

荒れ狂いました。

本当に、自分のことしか考えていなかったと思います。相手がどんな気持ちだったか、自分が何をしたのか、そういう事実にまだちゃんと想像が及んでいませんでした。

とにかく苦しいから罪悪感を取り払いたくて顔色を窺いながら謝りました。「もうわかったよ」「今回だけだよ」そんな言葉を期待して、引き出そうとしていただけでした。

つまり、あれは謝罪ではありませんでした。

自分が楽になるために相手をコントロールしようとしていました。

償うことができないなら、謝る意味がない、と考えていました。『自分にとって』意味がないからです。許してくれないなら、謝ることは無駄だと思っていたのです。

それは、私が相手のことではなく、自分のことだけを考えていたことの証明です。

 

そして、そういう私の謝罪は、軒並み受け取られませんでした。

私は、今は、それを感謝しています。もし偽りの謝罪で許された気になっていたら、また同じことをして、他人を傷つけて、その埋め合わせをしないまま、また自分のためだけに許しを引き出そうと偽りの謝罪をしたことでしょう。それを繰り返していたことでしょう。

受け取ってもらえないから、必死で考えたのです。

なぜ許されないのか。

何をしたからなのか。

答えは明白でした。

酒でした。

「酒を飲んでいる限り、誰に何を言っても、話を聞いてもらうことすらできないんだ。酒を飲んでいる自分は、とにかくダメなんだ。それに、酒をただ飲まないだけじゃなく、何が原因で私はこんなに酒に狂ったのかを、真正面から見据えて考え続けなければダメなんだ。」

これに気づくためには、私には許してほしい相手にことごとく拒絶されることが必要でした。

謝罪すら言わせてもらえないことが、必要でした。

今更、もう全てが遅い。許してもらうことなんて期待できない。でも、それでも謝る意味は何なのか?そう考えてはじめて、私が相手に謝罪する意味が見えてきました。

自分の保身や安心のためだけではない、他人の心の傷の埋め合わせのために謝罪をするべきでした。

私は、受け取られずとも、出来ることならしたいと思いました。

なぜなら、これからは自分の気持ちを大事にしたいし、それと同じように他人の気持ちを大事にしたいからです。

 

振り返ってみて、そう思えたのは、周りが率直に飲酒している私を忌み嫌ったからでした。

爪弾きにし、無視するようになって、様々なものを実際にポロポロと手から零れ落ちる『現実』を、真っ直ぐ与えてくれたからでした。

ステップ8をやっていて、やっと今、そういう気持ちです。

 

私は感謝します。

私の飲酒を、酒害を、偽りの謝罪を、拒絶してくださり、ありがとうございました。

あなた方には、許したことにして私に対して貸しを作り、何か不都合なことがあった際に持ち出して「あなたをあのとき許してやったのに」と私を黙らせ、従わせることができました。つまり、恩を着せて私をコントロールする共依存的な選択肢もありました。

そうすれば、私を支配下に置いて、優位に事を進めることができました。その方が、その瞬間は得をするし楽だったかもしれません。

この選択肢は、私の回復はもちろん、あなた方自身の回復にも陰を落とさせる道につながります。だから、その道を選ばないでいてくれてありがとう、と言いたい。

私なんかには言いにくいであろう、拒絶の言葉を与えてくれて、ありがとうございました。私はそのおかげで、現実を知るチャンスを頂きました。

私を許さないでいてくれて、ありがとう。

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【依存症】成果はコントロールできないという話

『人事を尽くして天命に聴(まか)す』という言葉がある。

 

自分の全力をかけて努力をしたら、その後は静かに天命に任せるということで、事の成否は人知を越えたところにあるのだから、どんな結果になろうとも悔いはないという心境のたとえだ。 南宋初期の中国の儒学者である胡寅の『読史管見』が成り立ちである。

私は、この言葉をずっと勘違いしてきた。

人事を尽くして天命に「任せる」。『成功するためには完璧に準備する(人事を尽くす)ことが大事だ』という意味だと思っていた。

その考えの根底には、「成功したい」「結果をコントロールしたい」という願いがあると気づいた。

 

仕事の成果はコントロールできるものなのか?

仕事は契約である。

ビジネスは、一定の成果を出すことを期待して契約を結ぶ。契約に沿って成果に応じた報酬をやり取りする。

だから、成果は一定の責任であり、ビジネスマンならコントロールするべきものだと思うのが自然だ。

そう思い込んできた。ある程度、努力と成果は相関しているように見えがちで、私も長くそう信じてきた。特に、社会的に表面上は上手く渡り歩けてしまった人ほど、それを信じて疑わないのではないだろうか。

この世の多くの人が、その勘違いにハマっている。つまり、仕事の成果は努力次第であり、コントロール可能なものだと思っていると思う。

 

しかし、成果は、実はコントロールできない「変えられないもの」なのだ、と最近感じるのである。

「成果」というものは、『人事を尽くして天命に聴す』という言葉の真の意味の通りに、「人智を超えた理に従って動いている」のではないだろうか、と考えるようになってきた。

 

私自身コントロールできているというのは傲りだったな、と感じることがある。

たとえば、私は約30年、「人生はコントロールできるもの」と教えられ、それを信じて生きてきた。実際は全くでたらめで、コントロールなんてまるでできていなかった。

両親が提示する「正しい道」を信じて、スポーツも学業もできるように頑張り、理想の息子・兄として生きようとした。私は私なりに一生懸命だったと思う。

しかし、一定の表面的な結果は出たが、嬉しくなかった。常に空虚だった。束の間の安心を得るために結果を求めた。

コントロールしなくてはならない事ばかり頭にあり、次第にどんどん生きることはただ辛い作業になっていった。

心には常に穴が空いていた感じだった。大切なものがどんどんその穴からこぼれ落ちていった。私を素通りしていって、焦った。

その穴を埋めるためにエチルアルコール(酒)という合法ドラッグに頼った。私は穴からこぼれ落ちるものを見ないようにするために。

結果、どんどん何もなくなり、穴は埋まるどころか拡がった。

私はアルコール依存症になった。

当時、私は酒なしに生きることは困難だった。そう、生きる事すら困難だった。成果や結果などコントロールできようはずもなかった。でも必死にコントロールできると信じてもがいていた。

コントロール不能なものをコントロールしようとして、私はエチルアルコールの使用方法をどんどん間違えていった。

いま振り返ると、土台無理なことだったのだ、と思う。

「自死を選ばず、ちゃんと寿命まで義務を果たして死ぬ」という「正しい人生」を全うするための最低条件。すなわち生きて立っていること。その最低条件すら、エチルアルコールが無くては全く自信がないほどに、私の心は痩せ細った。

体育会系リア充教

全力で自分ができる準備を、できる限りやり切るのみ。

あとは天に預ける、お任せする。

実はそれが100%なのである。

 

しかし、世の中はポジティブ思考を好み、もてはやす傾向にある。

  • 人生は努力すれば必ず報われる。
  • どんな人も頑張れば結果が出る。
  • 私たちは、今を変えられる。

 

こうした妄信は、一言でいえば、質の悪い宗教であると私は思う。

私はその宗教を個人的に、体育会系リア充教と呼んでいる。

もちろん、頑張ることは尊いことだ。

しかしながら、努力したからといっても報われる保証にはならない。

頑張ったからといってご褒美に必ず成果がついてくる、なんてことはない。

結果が出ないのは努力不足だからでは決してないのだと思う。

そういう定めだったというだけ。

それはすでに私たちの手に負えない領域の話なのだと思う。

こう考えると、無力感で絶望し、全部投げやりになりそうになる。

体育会系リア充教は、そんな自分に自己効力感を与えてくれる。偽りの希望を持たせてくれる。だから信者が多い。

自分の力では何事もどうにもならないという真実から目を背け、絶望しないように縋るには、ちょうどいい宗教である。

みんな血眼になってポジティブワードを喚き散らしながら「当たる!当たる!」と「努力」を積んで博打を打ち続けている感じがする。

人生はクソゲー?

私はゲーム依存症には詳しくない。

門外漢だということを自覚しているが、何となく共感するところがある。

私は「ゲームの世界に浸る」のが好きだ。

私の大学時代は荒廃していた。ゲームの発売日と重要な授業のレポート日が重なり、ゲームしていてすっぽかし留年しかけたことがある。酒を飲みながらゲームの世界に浸るのが好きで、大学の授業は後半ほぼサボっていた。

なんでそんなにゲームの世界が好きか?

それは、ゲームの世界はきちんとしているからだ。一定のルールが必ずある。

経験も無駄にならない。経験値として蓄積される。数値化されて努力が形になる。

失敗したら何度でもやり直しができる。

弱くても、失敗しても誰にも責められない。

 

人生は、ゲームで言えばクソゲーだ。

『ノーゲーム・ノーライフ』というライトノベルで語られている、以下のような世界観に共感するところが大きい。

ルールも目的も不明瞭な中
70億ものプレイヤーが好き勝手に手盤を動かし
勝ちすぎても負けすぎてもペナルティ
パスする権利もなく、しゃべりすぎたら疎まれる
パラメータもなくジャンルすら不明

こんなもの、ただの、クソゲー

 

全くその通りだと思う。特にこの日本は。

不条理でゴールも分からず、生まれたいとも思っていないのに強制参加させられた「現実」というゲーム。

それより、ちゃんと理路整然としていて、やればやるほど成果が出る「仮想現実」のゲームの世界のほうが、楽しいに決まっている。

ある程度コントロールできるからだ。

コントロールできると希望が持ちやすい。ダメでもまた立ち上がる元気が湧いてくる。

私にとっての現実は、そんなイメージではなかった。

失敗したらやり直しがきかないと半ば脅されながら言われたことを必死にやってきて、失敗したら責められ落胆され、失敗できないと縮こまっては「そんなふうではいけない」と逆に叱られ。

生きててこれっぽっちも楽しくなんかない、という気持ちだった。

こんなクソゲー今すぐやめられるのならやめたいと思っていた。

だから、現実よりゲームを取る気持ちは、とても分かる気がする。

 

まとめ:とりあえずエンディングまでやってみようか

しかし、私はまだ生きていたいなと思う。

クソゲーだな、と思って嫌々やってきた。

でも、自分がエンディングまでの道筋をコントロールすることなんて一切できないのだ、と知ってから、逆に楽しくなってきたように思う。

気楽になった。

コントロールできないなら、成功や失敗を考えなくていい。今の状態を楽しむことがミッションだからだ。

そして、実は失敗したってよかったのだ。この現実もゲームと同じように「やってみてダメでもまたトライしてみればいい」という世界だった。

それなら、好きなだけ試して、好きなことをやりたいようにやれる。クソゲーではなかった。

このゲームで私がやりたいのは、今までやろうとしてきた、体育会系リア充教の妄信や虚しいパワーゲームではない。

世の中での成功を目指すことは娯楽の一つだと思う。娯楽なんだから、嫉妬に目が眩んだりしたくない。楽しむものだから、娯楽たり得る。社会的な成功を得るミッション。これはおそらくこの世の本筋とは関係のないサイドゲーム的な位置づけのように思う。

だから、安心して楽しめばいい。他人のパワーゲームを見守っていてもいいし、気が向いたら参加するくらいでいい、と思う。

このゲームは最大限楽しんだもの勝ちで、対戦ゲームではないし、そもそも競うものでもないのだ、というふうに感じる。

最大限楽しめるように、プレイしてみたいと思う。

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【依存症】アルコール依存症者にとって「オンライン飲み会」はリスクでしかない

メディアで最も早く「オンライン飲み会」の危険性について言及してくれた記事は、私が知る限りではこのKarma氏のnoteの記事である。

瑞々しい情景描写に続けて綴られる美しい文章は、専門知識を持たない読者に配慮され計算された文脈で構成されており、読んだものの脳裏に冒頭の描写のようなしなやかさと美しさを感じさせる。

ぜひ、一読してほしい記事である。

というか、もはやここに全部書いてあるので、もう私が蛇足を付け加えることもはばかられるくらいである。

とにかく読んでほしい。そしてヒマだったら戻ってきて私の文章も読んでほしい。

 

さて、この記事が指摘している「オンライン飲み会」に対する懸念を、少し他人事のように考えていたことを、私は反省しなくてはならない。

なぜなら、私自身もこの「オンライン飲み会」によって、断酒を脅かされかねない経験をしたからだ。

 

普通の飲み会より断りづらい「オンライン飲み会」

私は会社員である。

多くの会社がそうであるように、現在オンラインでミーティングを行っている。

そしてよくメンバーから、会議の予定のインビテーションがメールで投げられてくる。

そのなかで、とても厄介だったのが、オンライン飲み会付きのミーティングのインビテーションである。

ミーティングが終わったら、そのまま回線を切らずに、彼らは飲み始めるのである。

私はこれがとても厄介で、久々に飲酒欲求がわいた。

つまり、スリップしそうになった。

 

まず、家にいるのが確定的に明らかなので、「断る理由を考えるのが困難」だということである。

外食する予定も外出する予定も、新型コロナウイルスの影響で自粛であり、できないことは周知の事実である。

家庭のことで、という言い訳が唯一のよりどころだが、毎回断るのはさすがに気が咎める、というひとは多いだろう。断ることも大変なストレスなのである。

 

私はアルコール依存症であると、会社に公言している。

今年の1月から、取引先にも公言している。

そして「酒のある席は基本的に参加することはない、誘わないでくれ」と公言している。

なので、そのことがあってから、「飲み会」自体に接することが激減した。

いつもの飲み会なら、会議が終わった後会場を移動する。私は、会議は会議室で参加して、飲み会でみんなが飲み屋に移動するのをしり目に帰宅する。

今までは実に気分爽快であった。

「会議」と「飲み会」は明確に境界線がひかれていた。

それが、私の断酒を支え、ストレスを軽減してくれていたのだ。

 

しかし、オンラインミーティング+オンライン飲み会で、一続きになっていると、疎外感が半端ではない。

 

「私がいなくなった後どんな話するのかな」

「みんな楽しく飲むんだろうなぁ」

「もしかして私の悪口を言うんじゃないだろうか」

 

そういう悪い想像が頭をかすめて、正直会議どころではない。

私はもう絶対に何を言われようと、どれだけ不利になろうと、酒だけは飲みたくない、という一念で「じゃ、私はアル中なんで消えます、おつでしたー」とブチっとWEBの接続を切ったが、こういうことがしにくいのが本来だろう。

なんとなくなあなあで残ってしまったら最悪である。

日ごろ我慢している酒をおいしそうに飲む同僚のライブ映像を延々何時間も自宅で見せつけられる拷問のスタートである。

 

アルコール依存症の患者に対する配慮を

「私はもう酒の席なんて断れる」と天狗になっていた節がある。

今まで見ない努力をしてきただけで、脳の報酬系の回路の異常は今もしっかり脳に焼き付いている。それを浅はかにも「コントロールできている」と見誤り軽視していたことを私は反省した。

ここで依存症者でない方に向けて、オンライン飲み会をするうえで配慮できたらしてほしいことを書いてみようと思う。

①会議のインビテーションは、別々に案内する

わかる。面倒くさいって言うんだろう?でも、やってくれさい。

「会議」と「懇親会」は別のイベントである。分けてインビテーションを送るだけで、「断りづらい」ということでズルズルと残ってしまい、断酒していたのに飲んでしまった、なんてことを防げる。飲まないためには「元から参加しない」。これが一番良い。

考えてみてほしい。

ひとりだけ砂漠で水も飲んでいないのに、このあと水を飲む人たちとハードなトレーニングをして、そのあと美味しそうに水を飲む人たちの映像を見せられたらどうだろう?

どんなに我慢強い人でも、水を飲みたくなるし、水を飲むなって言われたって、飲むだろう?意志がどうとかそういう次元ではない状況なのである。

そういう酷なことをしているのだという自覚を持ってほしい。

 

②開始と終わりの「時刻」を明確に決める

本物の飲み会でもそうだが、ダラダラと長い。

しかも家で、すぐ隣にベッドがあり、日ごろさみしさを抱えていれば、あと少しあと少しと延長したい気持ちは痛いほどわかる。

しかし、それにより酒量は確実に増えていく。

私は毎朝犬の散歩をしていて気づいてしまったのだ。新型コロナウイルスで在宅勤務が推奨され始めてから、空き缶のゴミが増えていることに。

このことにとても恐ろしさを感じている。

しかも特にストロングゼロ(アルコール度数9%の酎ハイ)の空き缶が多い。

長々と酒を飲み、家で飲む習慣ができ、いずれは私のように昼から飲みながら仕事をするようになる。そうなると、もう依存症まで待ったなしである。つまり、あなたも他人事ではない、ということだ。

 

③「飲まなきゃやってられない」はなぜか見つめよう

そんなこと言ったって、飲まなきゃこのストレスをどうやりくりすればいいんだよ?

おっしゃるとおりである。私はそう思って飲み続け依存症になったので、気持ちは痛いほどわかる。

それは、なぜなのだろうか?

私の場合は、生きづらさから目を背けたことだった。

自分が抱えている苦しみや不安や恐れや悩みに向き合わず、逃げるために「酒」という名で販売されているエチルアルコールという薬物に頼った。

酒は飲み物ではなく、最も厄介で体を蝕む薬物である。合法だが、良いものではない。これは科学的に間違いない。

そのような薬物を頼ろうとした、その背後にあるものに目を向けてほしい。私みたいになる前に。

もしあなたが「やってられねぇよ」という気持ちで酒をあおっているのだとしたら、そういう気持ちをもっている仲間はちゃんといる。そして、その薬物に頼らなくても、生きていける回復の道がある。孤独でつらく、助けを求めづらかったと思うが、それこそ今はオンラインで気軽に仲間に繋がることができる。

 

まとめ:オンライン飲み会ではなく、オンライン自助がおすすめ

結局、オンラインを求める満たされない気持ち、それは「さびしさ」である。

人と人との繋がり、ひとりじゃないということ、不安感や孤独感を紛らわせたいから、人は集まりたいし、話を聞いてほしいし、話を聞きたいのだ。

そういうことなら、いい場所がある。オンライン自助グループである。

実際足を運ぶのがためらわれた人も、恐ろしそうだから敬遠していたという人も、今ならボタン一つで、酒を買い込まなくても参加できる。

もし興味があったら、気軽にアクセスしてみてほしい。

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【依存症】自助グループは、人生の敗者の集まり?

なぜか、学生の頃から高杉晋作にあこがれてきた。

「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなしものは心なりけり」

高杉晋作が詠んだとされる(下の句は幕末の女流歌人である野村望東尼が詠んだとされているが)この歌は、実に味わい深い。

上の句のみが取り沙汰され「このつまらない世の中を俺が面白くしてやるぜ!」といった意味で誤解されてることが多く、本来の意味は「心のありようで世界は面白くもなるしつまらなくもなる」という意味だ。

事実は厳然とそこにあり、事象はあるがままでしかなく、それをとらえる心にこそ、喜びや悲しみや幸せや不幸せがあり、心で思ったことや感じたことが世界を創っている、というのである。まさに前回書いた、阿頼耶識である。

 

鬼のように強かった奇兵隊の組織構造

そんな歌を残した高杉晋作が組織した、「奇兵隊」という戦闘部隊がある。正確には、「長州藩奇兵隊」と呼ばれる。

長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の1つである。

奇兵隊などの諸隊は文久3年(1863年)の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊である。この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されている。当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。

出所:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A

奇兵隊は志願制であり、武士だけでなく農民・漁師・猟師・力士など、身分を問わず徴用した。そうした半数が武士以外のごちゃまぜの部隊だったと言われている。

長州藩には100以上の部隊があったにもかかわらず、奇兵隊が有名だったのは、その「強さ」が桁違いだったからだ。

奇兵隊は西洋式の散兵戦術を用いることが最も特徴で、これは西洋との戦争で敗れた敗因をもとに構築されている。

今まで戦国時代における日本の戦い方は、密集して陣形を組み、後方から指揮官が指揮する戦術をとっていたが、一ヶ所に密集している兵は鉄砲や大砲のいい的であり、攻撃を受けると一気に不利になるという欠点があった。

なぜそんなに密集させて目の届く範囲で指揮していたか?それは、兵士を信用しておらず、指揮官は兵の逃亡を防止する役割も兼ねていたからである。

兵を信じず、管理しようとするがゆえに密集し、それが弱点になっていた。動きは遅く、刻一刻と状況が変わる戦況に対応できず、不信の差配は、あたら貴重な兵を無為に失う結果を招いたのである。

 

そんなわけで西洋の軍隊にコテンパンにされた下関での反省を糧に、高杉晋作が組織した奇兵隊は、一味違う運営方法になった。

兵をひとりひとり信用したうえで、指揮官の指示が無くとも、独りで判断して戦えるように鍛え上げたのである。

基本的には装備を軽くして機動性を高め、走り回って散開できるよう、50kmを8時間で走るなど厳しい訓練を積んだ。

また、戦術を理解し司令官が倒れても別の人間が命令書を書けるよう、勉学を必須とした。

奨励した者は出身がどうであれ本隊に組み入れられる「出世制度」を導入しており、怠けていれば武士出身であろうとも昇格できなかった。

 

ホラクラシーとヒエラルキーと自助グループ

こうした自律型の組織構造を現代では「ホラクラシー」と呼ぶ。

ホラクラシーとは、上司・部下の関係性や肩書きのない、組織構造のことです。ホラクラシーの下では、社員全員が対等な立場となり、個人やチーム単位で意思決定を行うことができます。従来のトップダウン式の組織体制とは異なり、効率的な組織マネジメントが可能です。

引用:ホラクラシーとは?メリットやデメリット・よく見られる誤解も解説(手放す経営ラボラトリー)

ホラクラシーでは、マネジメントするのは人ではない。

仕事や役割をマネジメントするのである。

統治方法もルール(法律)であり、権力分配ではない。

日本においては、ヒエラルキー型の組織構造が一般的である。ヒエラルキーという単語は聞きなれている人も多いと思う。

例えば会社。社長や課長など、役職にあるものが決定権を持ち、トップダウン型のマネジメントをしている組織のほうが、想像しやすいだろう。

 

このヒエラルキーと対照的なホラクラシーによる組織運営は、まさに自助グループの運営方法に酷似している。

特に緊急事態宣言が発令されて集会ができず自助グループはオンライン化が急速に進みつつある。

その先駆けである『三森自助グループの森(@mimori333mori』(主宰:三森みさ

@mimorimisa)では、まさにこうした「ホラクラシー」のノウハウがフル活用されたフラットな組織運営がなされている。

 

「目的に向かって、組織の全メンバーがそれぞれ自己決定を行う自律的組織」であり、常に人も組織も進化していく。

なぜなら、自助グループの運営に携わる人々もまたピアカウンセラー的で、いわゆる同列の仲間であり、先輩後輩や上下関係などは存在しないのである。

各々が自身の回復に熱心に取り組み、利用者目線で(つまり当事者目線で)より良いグループの在り方について実践と検証を繰り返していく、自立型の組織である。

なればこそ、創始者や主宰者がいなくなってしまったのしても、組織は永続的に新たな英知を取り入れつつ、時代に応じた進化を経て存在し続けられるのである。

 

まとめ:自助グループは未来への希望

会社勤めをしていると、ヒエラルキー組織からの脱却を切に願わずにはいられない。本当に、自助グループの爪の垢を煎じて飲んでほしい。

「兵(構成メンバー・社員など)を信頼する」という基本的な、ただそれだけのことなのである。

それは、とても難しいことなのだ、と実感する。

リスクを抱えることを恐れて、管理にはしると、活動はどんどん委縮していく。事なかれ主義になり、人は育たず、責任を押し付け合う、この世の人の醜さをまざまざと見せつけられることになる。会社の現状が、まさにそれである。

自助グループは、それぞれが問題を抱えているいっこの人間であると自覚している。だからこそ、他人の弱さや至らなさを含めて、仲間として認め、信じることができる。自分だって完ぺきではないからだ。それを、心から認めて知っているから、完璧でなくても許せるし、損得勘定など無く助け合える。それこそ、理想の組織ではないだろうか。

謙虚でひたむきな未完成の人間の集まりが、最も高い完成度と可能性を備えた組織を創り、その運営を可能にしていく。

人生の敗者の集まり?

とんでもない。未来への輝ける可能性こそが、自助グループである。

人生に勝ち組負け組などとレッテルを貼って一喜一憂している、遅れた人たちにとやかく言われる筋合いなどない、素晴らしい組織だと私は思っている。

この世には、分かりやすい幸せと、分かりにくい幸せがある。

「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなしものは心なりけり」

それぞれに個性があり、成功か失敗かは最後までわからないし、簡単に比べられるものではない。だからこそ人生はおもしろく、心次第でおもしろくもつまらなくもなるのである。

他人と比べて勝った負けたで分かる幸せは実にわかりやすい。そして、いつまでも満たされない儚いものである。

そんなに簡単ではないからこそ、私たち依存症者やマイノリティは、「一般的な人生」よりもたくさんの物を得ることができるのだ。それは、「フツーの人生」なんかより遙かに豊かで幸せな一生ではないだろうか。

 

だから、三森自助グループの森の運営に携われることをとても誇りに思っているし、いつもたくさん学ばせてもらっている。この場を借りて、自助グループに関わる全ての人に深く感謝申し上げる。

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【依存症】祈りとは信じることだという話

どん底を経験して、今死なないならとにかく生きるしかない、ということで回復に向かって真剣に生きてきて、今思うこと。

 

死なないで生きてみる

やっぱりアルコール依存症は苦しかった。とても、二度と経験したいものではない。

ただ、苦しんだけど得るものがあったし、この病にかかることで導かれるようになってたんだな、と思うことがある。

途中で強制的に終わらせなければ。死ななければ、物語には続きがある。

人生とは何か。そのことを深く考えさせられる。そういうはっと目が覚めるような感覚を何度も味わった。

生きなきゃ、損だということかもしれない。

まだまだいろいろあるんだろうから。

上映している映画を途中で退席するようなもんだ。

私は、この人生という映画を、もったいないからまだまだ観たい。

 

生きることに真摯であること(内的なハイヤー・パワー)

私は最近になって、自分の力ではどうにもならないことを経験をした。

他人の考え方や生き方をどうにかすることなど、どれだけ近かろうと他人にはできはしない。

自分で気づかなくては、何も伝わらないこともある。言葉で伝わることは限られていて、真実や回復というものは、感じるものなのだと思う。

どんなに願っても、ならないもんはならないんだな、と思う。

自分もそうだった。頑なだったり、必死だったり。自分しか見えていなかった。今もまだまだそうだとも思う。

そんな自分が、今こうやって、何かの巡り合わせで回復に向かっている。

そう考えると、やっぱり、何か大きな見えない力が働いていると感じる。

真摯にやっていれば、諦めずに向き合い続けたら、ゆくゆくは同じところに繋がるものなんだと思う。

その己が持つ『真摯さ』は、己の自我を超越していながら内在している「自分を超えた大きな力」。つまり、『内的なハイヤー・パワー』なんだなぁって思う。

 

大乗仏教にも似た思想があって、『唯識学派』という学派がある。

各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する考え方である。

最も根底に、『阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna)』という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。

つまり、己のなかにいる『神』と言ってもいいだろう。それがハイヤー・パワーの一つであると思う。

回復しよう、よくなろう、という誠実な気持ちは、生きることを諦めない限り必ず常に己のそばにあるし、世界そのものであるがゆえに、信じられる。

それを、『神』を信じる、ハイヤー・パワーを信じる、と表現するのだと思う。

 

祈りとは信じること(外的なハイヤー・パワー)

「依存症が回復するかはぶっちゃけ運」

「家族が回復できると祈ることも運」

という言葉を聞いて、最初は少しだけ違和感があったのだが、結局そうなのだと最近はとても肚落ちする。

コントロールすることなどできない。己に誠実に真摯に向かい合うことしかできない。

それでも回復に向かうはず、と信じることこそ、『祈り』なんだと思う。

『祈る』ことは信じることなんだなと思う。

信じようって言えるのは、自分がそうだからだ。今までもそうだし、これからもそうだから、可能性を体現している。

私の場合、あんなにどうしようもなかった奴だったのに、これまで偶然にも生きてこられて、大事な仲間ができるんだから。しかも回復に向かうんだから、あらゆるひとにとって回復の可能性はゼロじゃないと信じられる。

絶対大丈夫とは言えんが、ゼロじゃないなら、終わりじゃない。

 

俺ができることはちっぽけだけど真摯にやってたら、何かが何処かに繋がってることが、往々にしてある。

だから安心して、誠実に自分に向き合い続ければいい。そしたら、川が海に流れていくように、外的な「自分を超えた大きな力」にしたがって、信じるとおりになっていくのだと思う。

その安心感が、『外的なハイヤーパワー』なのだと思う。常に自分とともにある。それは川が川であるために土手があるように、自分と一体になっている世界そのものだから。

つまり、ハイヤー・パワーとは、外在的な安心でもあり、内在するオーダーメイドな神でもあるのだと思う。

 

まとめ:きっと、大丈夫。

いつ、そういう風に信じることができるようになってきたのだろうか、と考えてみる。

アルコール依存症になって、向き合って生きるか、諦めて死ぬかどっちか選べって状況になった。

今日。まだ死にたくないから生きる決意をして、とにかく真剣に、一日、また一日とがんばって今に至る。

そしたらいろいろ、時間がかかったけど、今まで見えなかったものが見えてきて、今こうして生きてることや、回復を実感するときがある。

そんな、パズルのピースがぴったりハマったような偶然に、感謝の気持ちがこみあげてきて、ふふふ、と笑いがこみ上げてくることがないだろうか。

それこそ、どこの誰だか知らないが、天や神に、祈りたくなる。今までのすべてにありがとう、って祈りたくなる。嬉しいときの方が、祈りたくなるのは私だけだろうか。

自分自身の人生を生きる。その覚悟と、実行と、感謝。

その素晴らしさと有難さが、生きている喜びの実感そのものだと思う。

絶対信じられなかったもんな。

酒をやめ始めた時、また笑う日が来るなんて。

毎日毎日我慢して、いずれ死ぬと思っていたのに。

そんなゾンビみたいなのが、2年経てば、わりかし笑うんだから、大丈夫。

 

そう、きっと、みんな大丈夫なのだ。

私が信じられるくらいだ。ハイヤー・パワーは、信じてもいいものだと思う。

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【依存症】自分を超えた大きな力(ハイヤー・パワー)について考える

「ハイヤー・パワー」

この単語を聞くと、何となく胡散臭く感じるのは、わたしだけではないだろう。

「神」という単語にも、私は拒絶反応がある。

回復の道しるべである、12ステップ・プログラムに取り組んでいると、しばしばこの単語に遭遇する。

私たちは、これらの概念をどうとらえて、どう考えていけばいいのだろうか。

 

神様や仏様を信じられない私

私は神様や仏様を信じていない。

そんな高尚なものが意志をもっていて、この世を統括しているとしたら、一発ぶん殴りに行きたい。あまりにも無慈悲で理不尽なことが起こるし、生きることはほぼ苦行であると感じる。

それらが神のお導きとやらだとしたら、ドSにもほどがある。私はMだけど、ご褒美がないSはただのパワハラ野郎だと思う。単純に好きじゃない。

と、いきなり天に唾することを言っても仕方がないし、不遜かもしれないが、私は素直にそう思っている。

したがって神仏は一切信仰してこなかった。これからもそうだと思う。

 

大きな力によって生かされている私たち

でも、自分を超えた大きな力はあるんじゃないかと思う。

 

私たちはひとりでは生きていけない。

独りでできる事は、ものすごく限られている。

生きていくだけでも、様々な人のいろいろな偶然やめぐりあわせによって、今日も偶々何とか生きているのが、実際だと思う。

ちょっとボタンを掛け違えたら、人は簡単に死ぬ。明日が来ることは当たり前ではない。

 

そう考えると、自分が生きていく道筋は、自分を超えた大きな力によってほぼ完璧に決められていて、私たちはその大きな力には、全く逆らうことができない。

果てしなく無力である。

川の水が、川のかたちの通りにしか水が流れられないように、私たちは、人生の流れを自分で決めることができない。

自分が思い描いたように人生設計をして、思い通りに生きているように錯覚しているが、実は、そうではない。

自分ではコントロールできているつもりになっていることがほとんどだが、偶然に偶然が重なり、たまたま今があるにすぎないのである。

 

コントロールできるという驕り

特に、受験や就職で社会的にスムーズに成功してしまった人に多い認知の歪みが、「自分は他人より優秀であり、状況や他人をコントロールできる」という傲慢さである。

勉強できる環境(金銭面・治安面など)があったことや、タイミング、景気、脳の特性など、さまざまな偶然が重なって、今生きている社会において「良い」と評価されている特性にたまたま合致しているに過ぎない。

それが優秀さの絶対的指標にはならない。なぜなら社会というものは常に変化しあいまいで、他人の評価というものはさらに流動的だからだ。確かなものなど、実は何一つない。

収入も学歴も美醜も、何一つ『かけがえのないもの』ではない。かけがえのないものだとしたら、それは時代によっても国によっても価値観は一定であるはずだが、そんなことはない。

すなわち、社会的評価というものは、水物で、それに適応していないからと言って劣等種ではないし、そういう価値観で物事を見ていると、世界が変化したときに対応できない。

 

世界の変化は突然起こる。

栄枯盛衰、驕れる者久しからず。結局ひとはいつか死ぬし、生まれて死ぬタイミングすら「自分を超えた大きな力」により決められていて、自分ではどうすることもできない。

生きている間に、うれしさや悲しみの感情の波が寄せては返す水面のように揺蕩い、そのなかでわずかばかりの金銭が行ったり来たりするだけ。

それが、生きるということを客観的にみるところの真の姿なのではないかと思う。

 

変えられないものを受け容れる限り、生きることは自由

私は、アルコール依存症である。私は発達障害(ASD・ADHD)でもある。

これらは、私にはどうすることもできなかったことで、これからもどうすることもできないだろう。

生まれる家は選べなかったし、生きていくにはエチルアルコールに頼るしかなかったし、発達障害を持たないように生まれることはできなかっただろう。

生まれた時点で、すでに大きな力に定められていたのかもしれない。

しかし、自分を超えた大きな力については、ただ単に無慈悲なわけではなく、何となく決めているとしか思えないくらい、一貫性がないように見えて、己に誠実に向き合うことさえできれば、学びとして活かせるほどの自由度がある気がする。

ようは、与えられた事象をどうとらえるか、という点で、我々は限りなく自由なのである。

川の水と同じである。水は、激しく打つこともできるし、ゆるやかに流れることもできる。流れる道筋は完璧に決められているかもしれないが、柔軟性をもって道を下ることそのものを受け容れる限り、その限りにおいては完全に自由であると思う。

 

そのわずかに見える余地が、生きる上で最も重要であり、ただ流れたくもないのにずっと流されていくのか、流れる道のりを楽しみ、反応し感じ考え、最後に海にたどり着くのとは、同じ川の流れだったとしても、その道中の景色の輝きは全く異なるだろう。

 

 

まとめ:ハイヤー・パワーは、川が海に続いていると信じるということ

全ての川は、海に続いている。

山のどんな険しいところから細々と始まった川であったとしても、どれだけ濁り澱んでしまい、流れが停滞しそうであったとしても、必ずや、海に繋がっている。

それを信じることに似ていると思う。

私たちの人生は、どこに繋がっているのだろうか。

生まれる、というところから、死ぬ、というところに物理的には確実につながっているわけだが、メンタル面・精神面でも、確実に一定のライフサイクルを辿るはずなのである。

ということは、良いことか悪いことかを抜きにして(その判断は自身のとらえ方によるので)、生きている限り、ある一定のゴールに向かって導かれていくものなのだと思う。

 

私がアルコール依存症になったことも、私が、マイノリティとしての痛みを知り自分を省みるチャンスをいただくために与えられたチャンスだったのではないかと思う。

この病気を患ったからこそ出会えた人がいる。かけがえのない仲間の優しさや強さに触れることができた。生きる喜びも、病気になる前よりも強く感じる。

世界はそういう、素敵なことが起こるようにできている、と信じることが、ハイヤー・パワーを信じる、ということなのではないだろうか。

そう信じてみたい。

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【依存症】イネイブリングをしないこと・境界線を引くこと

『だらしない夫じゃなくて依存症でした』

この本を繰り返し、ふと開いて読むのが日課になっている。

第6話「家族の接し方」について、最近読み返すと、連載当時にはわからなかった感覚が理解できるようになっていることに気づいた。

 

依存症者の家族側のつらさについて考える

「信じてもらえない」

「頼ってもらえない」

家族として、パートナーとして、これがどれほど、しんどいことかわかるだろうか。

家族側の苦しさは、正直あまり実感がなかった。

知らなかったが、最近になって実感することがある。

 

相手の課題と自分の課題を分ける境界線。

これを適切に引くことはとても難しい。自分のなかにあるコントロール欲求との戦いである。

依存症によく使われる言葉で『イネイブリング』というものがあるが、まさしくこれは自他の境界線をもち、自分も相手もリスペクトしようという考え方に基づいている。

出所:『だらしない夫じゃなくて依存症でした』(三森みさ著)第6話より

 

とはいうものの、渦中にあってはとても冷静にはなれないのが、常である。

自分という存在がそばにいて、愛情をもって接しているという自負があるにもかかわらず、自分にはわき目もふらず、アルコールやギャンブルに相手を取られてしまう。(と感じる。)

たかがモノに自分の存在が『負ける』。その悲しさと屈辱感と無力感。

 

親と自分がそうだったな、と思うからかもしれない。

私は両親にどんどんイネイブリングされるにしたがって、生きる力を弱くしていった。イネイブリングに気づいた今、「この人たちには何を言っても無駄だ」と感じている。

本当のことを伝えられない関係の空虚さ。絶望よりも深い諦め。

「イネイブリングされる側」の気持ちを味わっているから、頼れない存在として相手に認識されるのは、とても怖い。その距離の開きを、ひどく寂しく感じるからだ。

そのようなうっすい関係しか築けなかった、と落胆する気持ちは、やはり隠せないだろう。

 

イネイブリングする側の満たされなさは、会社でも味わってきた。

「会社のためにやったのに」という恩着せがましさを抱えて、尽くした結果、何も見返りがないことが多かった。

当然だ。今の会社からしたら、求めていない、ただの煙たいやつだったのだから。笑

当時はその怒りをどこにぶつけていいのかわからない感覚だった。なぜ正当に評価され『賞賛されないのか』に憤っていた。

すでにお分かりのように、会社に関して、私は、『相手が求めているかどうか』よりも、『正しいかどうか』を優先し、『自分を認めさせたい』という自己顕示欲を満たすために、自分勝手で一方通行なアプローチをしていたことを認めざるを得ない。

それはまさしく過干渉でありイネイブリングであり、親が幼い自分に対してやってきたことと全く同じことだった。それに気づいたときは認めたくなかった。

そういう苦い経験がある。

 

相手の課題は相手にしか解決できない

50/50であり、限りなく対等な関係だからこそ、私だけでは完結しない。

どちらかのせいにすることは、おかしな話なのだと思う。

 

そもそも、我々にとって明確な切り分けが難しい課題なのだ、と改めて認識したい。

良い意味でも悪い意味でもお互いに響きあう可変的な関係で、一見すると影響できるかのように見えるが、実は明らかに境界線があって、それぞれに独立しているのである。

①私たちには、各々の世界に明確に境界線がある

②しかし、私たちは相互に影響しあっている

そのことを何となく例えられないかな、と思って、考えてみた。

 

①私たちには、各々の世界に明確に境界線がある

相手の部分は相手にしか解決できない。

相手の行動でしか変化しない課題だから。

このことについて、なつかしい話をしようと思う。

x2+px+q=0

y2+ry+s=0

この数式のXとYはそれぞれ独立している。

なぜなら、全く別の解を持つ、独立した二次方程式だからだ。

人生はこのように、もともと条件が違う人生をそれぞれ生きているので、個別の二次方程式を解いているようなものだ。どちらかの数値が相手の方程式に関与することはしない。コントロールして代入させることはできない。あくまで(たとえば2次方程式なら)それぞれに因数分解して、自分の答えを探すほかない。

なのに、どうだろう。

私たちはこれを一生懸命、連立方程式だと思って相手の式を解こうとしてしまう。無意識にx=yだと思い込む。相手は、私と同じ答えだとは限らないのに。

つまり、相手が私を信じてくれず、相手の問題が解決しないのは、私が矮小で信頼できない存在だから、「私がダメだから」だと思い込んではいないだろうか。

それは正しくない。

相手がまだお互いの答えを見せ合いこする準備ができていないだけ。

 

相手との答えの違いをお互いに見せ合うのが会話であり対話だとしよう。

xの式を解いているのが自分。yの式を解いているのが相手だとして、相手の答えが出なかったり、x=yかどうかわからないのは、まだyの式のほうの因数分解が解けていないからだ。

それは100%、xの数値うんぬんのせいではない。

だから、私は私なりのxの答えを出すことに集中するしかない。

相手も問題(式)にあきらめず向き合ってくれると信じて任せる。答えを見せ合う機会を待つ。

すなわち、『自分ができることを自分のためにする』。できるのは、それしかない。

 

②しかし、私たちは相互に影響しあっている

他の人の因数分解の解き方をみるのが、「自助グループ」ではないかと思う。

何度も数値を当てはめてみてうまくいかないことがあるだろう。

似た形、だけど違う形。それぞれの式ににらめっこしながら試行錯誤する毎日。人生には公式はないし、数式よりよっぽど難解で、答えにたどり着けないことだってあるだろう。

私もまだまだ解きかけで、やっと最近「このぐらいしか進んでなくて恥ずかしいんだけどね…」と言いながら途中まで進んだ式の展開をさらけ出せるようになってきたようなものだ。

その途中までの式の展開を見せ合うことで、互いに共感する。

その嬉しさや喜びが、解き続ける力になる。悩んでもまた諦めずに立ち向かえる。必死に別の数式を解く仲間がとなりにいてくれる。

歯を食いしばって泣きながら机にかじりつく勇姿に、背中を押される。

影響しあっているというのは、式の展開を超えた世界線での、そういう響きあいだと思う。

 

まとめ:いつか通じる真心を信じる

 

自分が一生懸命やっているなら、わかってくれる人にだけわかってもらえたら、それが今の最大値なのだと思う。

もともと、手のなかに無かったもの。それを手のなかにあると勘違いして、私たちはよく悲しんだりぬか喜びしたりする。

寂しさから、自分と同じだと思い込んで境界線をなくしたり、踏み誤って傷つけたりする。それは、だれでもやることであり、やってしまったから終わり、では決してない。ちゃんと真心から伝えれば、いつか伝わる人には、ちゃんと伝わる。

 

最近、肩の力抜いて、相手にとって自分ならやってもらえたらうれしいかもなっていうことだけするようにしている。そうすると、不思議なことに、事態が好転することが多くなってきた。

今、伝えたい人に伝えたいことが届かなくて、哀しい思いをしている人もいるかもしれない。

そんなあなたに伝えたい。

伝わらないのはこっちばっかりの要素じゃないから、そんなに悲しまなくていいということと、伝わるときには伝わるので、時期じゃなかったんだなって長い目でみてたらいいんだよ、ということを。

焦らなくてもいい、ということを。

 

追伸:この本はめっちゃそういうことが分かりやすく書いてあるし、純粋に漫画としておもしろいので、一生に一回は読んだほうがいい。

 

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【依存症】焦らず一つひとつ『知る』ということ

回復したい。

そう思えば思うほど、焦る。

 

やらなければ、と思ってやるのはちょっと違う。

やりたい、と思ってやるとき、本当にやって変化が訪れる。

そう、変化は起こすものではなかった。訪れるものである。

自分を変えたい。

そう思うことは素晴らしいことで、勇気あるチャレンジだ。称えられるべき姿勢だ。

しかし、割と意図的に変えようと画策したことは、得てしてなかなかうまくいかない。

うまくいったように見えて、うわべを撫でていただけだったということは、よくある。

やはり、天から授かるように、変化は私たちがお呼びもしない何かに導かれて『訪れる』。

 

本当に、「理解する」というのは難しいな、と常々思う。

ただ情報を知ったとしても、理解しているとは言い難い。

行動しなければ、本当の意味で頭のイメージと体感イメージが一致しているかどうかは、わからない。

行動できることは限られているから、真偽を確かめられる事象は、必然的にほんの一握りのことだ。

しかも、同じ行動であったとしても、人によって感じ方や作法は様々で捉えどころがない。

王道だと思っていたことが、実は道のひとつであるということを、道半ばで知ると、人は固執し、己の価値観を変えたくないと抵抗するものだ。

なぜなら、「わからない」「違うかもしれない」ということは、不安や恐怖を感じさせるからだ。自分の足元が揺らぐようなことは、誰も信じたくない。

しかし、私たちは、様々なことを、本当の意味では知らないまま、生きていかなくてはならない。

知識として頭に入ったことを「理解した」つもりになってしまうことはよくある。

私はよくあるし、今もそうだと思う。

 

私は絶望的に様々なことを『知らない』。

未知の領域について、私は知っている範囲で想像することしかできない。

実際にやってみたとして、掴んだものがfakeである可能性はゼロにはできない。

しかし、やらずには、やはり何もわからないままだから、私は知りたい思うことを実際にやる以外にない。

 

私は未熟なのだろうか。

私は至らない人間だろうか。

私は能力が低いのだろうか。

 

そうではない、と思う。

というのも、自画自賛したかったわけではない。私はもちろん、まるでなっていない、てんでダメな状態だ。

私が言いたいのは「みんな、そうなんだ」ということだ。

 

立派そうに見える人も、社会で成功している肩書が立派な人も、知ったような澄まし顔をしている人も、素晴らしい技術を持つ人も、みな、『まるでなってないてんでダメな状態』なのには、変わりがない。

結局は皆知ったかぶりをして生きている。様々なことを『知らない』のが現状なのだから、多少の差はどんぐりの背比べのような違いなのである。

 

だから大事なのは、『知らない』ということを知っていて、常に忘れずにいるかどうか。

大事な違いは、この姿勢くらいなのだろう。

ソクラテスの「無知の知」は、まさにこういうことなんだと思う。

 

私はまだ忘れる。

私が『知らない』ということを、忘れる。

 

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【ヘルスケア】「少し飲み過ぎる日もあるけど、私はひとよりお酒が好きなだけ」というあなたへ

酒豪の皆様、こんにちは。お酒って飲んでるときは楽しい気分になりますよね。

「飲まなきゃやってらんねーよ」めっちゃ気持ちよく分かります。

酒飲みとアルコール依存症の違いについて考えるチェックリストです。

ちょっと興味ありませんか?

 

いきなりですが、質問です。

基礎チェック:過去に次の経験がありましたか?

1、飲酒量を減らさなければならないと感じたこと     □ある □ない

2、他人があなたの飲酒を非難するので、気に障ったこと  □ある □ない

3、自分の飲酒について、悪いとか申し訳ないと感じたこと □ある □ない

4、神経を落ち着かせたり二日酔いを治すために「迎え酒」をしたこと

□ある □ない

出典:CAGE(ケージ)質問票(Ewing JA:北村俊則訳)

※2つ以上当てはまる方は、特に次の精密チェックをやってみてください。

精密チェック:過去一年間に次のことがありましたか?

1、飲酒したいという強い欲望や強迫感(抑えられない感じ)がある。

例:医師からの断酒・節酒の指示が守れない。

飲酒運転を繰り返す。隠れてでも飲みたくなる。

仕事が終われば待ちきれないように飲む。

□ある □ない

 

2、飲酒の開始、終了、量のいずれかのコントロールが困難である。

例:朝から飲んでしまう。

翌日に支障が出るほど遅くまで飲む。

悪酔いや臓器障害を起こすまで飲む。       □ある □ない

 

3、飲酒を止めたり、減らすと離脱症状が生じる。

例:手指の震え、発汗、不眠、吐き気、イライラ等の離脱症状があり、

その不快さを避けようとして飲酒する。

□ある □ない

 

4、耐性が生じる。(酒量が以前より多くないと酔えなくなった)

例:飲み始めたころの1.5倍以上飲まないと最初の頃と同程度の酔いが得られない。

□ある □ない

 

5、飲酒のために、他の楽しみや趣味が減ってきた。

例:飲んで酔っている時間が長く、飲酒中心の生活になっている。

□ある □ない

 

6、明らかに飲酒が原因で有害な結果が起きているのを知りつつ飲む。

例:飲酒による肝障害等の身体の病気

一定期間の多量飲酒によって生じた落ち込んだ気分状態

周囲の人(家族・友人など)との関係が悪化した等

□ある □ない

出典:WHOによる「ICD-10」の診断基準より

 

 

いかがだったでしょうか?

 

 

精密チェックで3つ以上当てはまった方は、要注意です。

基礎・精密ともに1つぐらいしかなかった、という人も、飲み方の変更が必要かもしれません。

そんな皆さんは、今後お酒と上手に付き合っていくためにも、少し最後まで読んでみることをお勧めします。

 

「酒は百薬の長」と思っていませんか?

お酒は少量なら、「動脈硬化を抑制する作用」「2型糖尿病の血糖値の低下」「骨密度の増加」などの可能性があります。

しかし、これらは他に有効な予防・治療法があり、これらの薬理効果があることを理由に飲酒を推奨することは医学的にはできません。

WHOによれば、上記の図のように発がん性など多くの害をもたらします。

実は、あまり知られていませんが、アルコールに関連して生じる病気や病変は非常に多いのです。

このことを考えると、「百薬の長」とは決して言えませんよね。

「酒は百薬の長」とは、2000年も前の中国の為政者が税収確保のために考案したと言われている言葉で、医学的根拠に基づいたものではありません。

 

アルコールは「脳の変化」を生じます。

多くの人は、日ごろの嫌な気分(抑うつなど)や欲求不満や不安や緊張を取り払うために、付き合いのために、喜びをもっと大きくするために、あるいは単なる習慣として、お酒を飲んでいます。

しかし、アルコールは薬物なので、次のようなことが生じます。

 

1、急性の脳の変化 ―酩酊と離脱―

①「酩酊」は、脳の働きが弱まった状態

少量なら、これらの脳の働きへの影響は小さく、内気な人が感情を伝えたり、緊張や不安を取り、ストレス緩和や人間関係作りに役立ちます。

しかし、多量になると、感情のコントロールがひどく弱まり「怒り上戸」となって人間関係を傷つけたり、「泣き上戸」となって落ち込みから自暴自棄・自殺の恐れが生じます。

また、緊張・不安がなくなって無防備となり、危険な目にあったりします。

 

②睡眠のリズムに悪影響

寝酒は、寝つきはよくなっても、途中で目覚めること(中途覚醒)が多くなり、深い眠りは得られません。

うつ病の人が寝酒すると、睡眠障害をさらに悪化させます。

睡眠薬よりも、アルコールは依存しやすい薬物です。

 

③酩酊から醒めたとき

飲んだ翌日の二日酔い状態は、心も体も調子が悪く、うつ気分になりやすい状態です。

アルコール依存症では、酒が切れてくると、離脱症状の不快さが生じるのでそれを回避するために飲むようになります。

離脱症状:手指の震え、発汗、不眠、吐き気、嘔吐、食欲不振、イライラ、怒りっぽい、頻脈、動悸など

 

2、慢性の脳の変化 ―長期・多量の飲酒はアルコール依存症と脳委縮を生じる―

①アルコール依存症の出現 ―ちょっとした刺激で飲みたくなる―

飲み続けていると、飲酒を思い出させる情景(赤ちょうちん・ビアガーデン・夏の海など)や気分(仕事終わりの解放感・嫌なことがあった日・良いことがあった日・旧友に再会した喜びなど)にすぐ反応して、酔いの快感を生じる脳の中枢(報酬系)が過剰に興奮し、普通以上に飲酒欲求が亢進するようになります。

アルコール依存症についての画像研究はこのような事実を明らかにしています。

お酒を飲み続けているのは、「意志が弱い」せいではないのです。

 

②脳委縮の出現 ―アルコールは神経細胞数の増加も神経細胞の発達も抑える―

日本酒2合以上の飲酒は、脳委縮を10年早めます。

万能細胞から発達した神経幹細胞を使った実験において、アルコール量を加えた培養液では、ほろ酔い程度の量であっても、神経細胞の数が減り、成長も悪く、神経細胞同士が神経突起で繋がり合うことも減ることが分かっています。

 

③体や家庭が壊れるまで飲んでしまう

上記の脳の変化により、リスクのある飲み方の修正が困難となります。

 

飲酒には「危険」が伴います。

①家族関係、家族の心を壊す

…飲酒欲求の亢進の結果、酒中心の生活になり、家族と溝が生じます。

②子供にストレスを与え、トラウマを生じる

…トラウマは、成長後も子供の生き方に影響を与え続けます。

③仕事上の能率の低下・事故・職場を失う恐れがある

…アルコールによる体調不良は、突然の欠勤・病欠・能率低下・ミス・事故につながります。職場の健康診断で、アルコール関連の異常が指摘されます(血液検査の数値異常など)。

④飲酒運転・事故を起こしやすい

…急性・慢性のアルコールの影響による脳の判断能力の低下が違反・事故を引き起こします。

⑤外傷(ケガ)を繰り返す

…酔って、転倒・転落などでケガをしたり、命を落とします。

⑥自暴自棄・自殺願望を強める

…長期多量の飲酒は、気分障害(うつ病)を発症・悪化させます。それゆえ、うつ気分を癒すのに、酒を利用するのは危険です。

⑦妊娠中の飲酒は胎児障害の恐れが生じる

…妊娠中やその可能性のある時は、完全飲酒が推奨されています。

 

「危険」を知らせる心身の兆候

ここまで読んで、ちょっとでも心当たりがあるひと。当人ではないけど、大切なひと(パートナーや妻や夫や子供など)の飲酒に心当たりがあるな、というひとがいるかもしれません。

 

☆心身の兆候7つのチェックリスト☆

□血液検査(γGTP・MCV・ALT・AST・尿酸値・中性脂肪・血糖値の上昇)の異常がある

□顔の傷跡、酩酊時の外傷(ケガ)の経験がある

□軟便、下痢をする

□飲むと抑うつ気分がひどくなる

□飲酒運転をする(二日酔いでの運転は飲酒運転です…)

□離脱症状がある

□救急・時間外の受診経験がある

 

気になる人は、この漫画を読んでみましょう。

ここにあなたが知りたかった、すべてのことが書いてあります。しかもおもしろい!

「自分は違うかなー」って思ったひとも、これから安心して飲み続けるために、一度読んでおいて損はないですよ☆