依存症」カテゴリーアーカイブ

【依存症】12ステップ・プログラム STEP11の「黙想と祈り」を仏教から考える

祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。

出典:ACAジャパン「ACのための12ステップ」

 

めちゃくちゃ宗教っぽい。

私は不可知論者(神様はもしかしたらいるかもしれないけどいるかどうかわからないと思ってる人)なので、神がどうとか言われると胡散臭いなと思う素直な性格をしている。

神の意思?は?って感じだし、いるんだったらもっとマシだろ世の中、と思う。

だけど、STEP11が言わんとしていることには納得しているし、他の宗教も同じような考え方に行きついているので、おそらく私にとっての真理に近いと思っている。

今日はその辺のことを書こうと思う。

 

大乗仏教の「唯識学派」

大乗仏教にも似た思想があって、『唯識学派』という学派がある。

各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する考え方である。

最も根底に、『阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna)』という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。

過去記事:「【依存症】祈りとは信じることだという話」より

 

唯識学派の八識説は、図に表すとこう。

 

つまり仏教においても無意識の領域があって、その領域の最深部に「阿頼耶識」という「自我を超えた大きな力の源」があり、それが根本となり世界を形づくっていると考える。

自分が意識していることをはるかに超えた「大きなもの」が横たわっている。

全ては「潜在意識」によって生み出されている。

 

潜在意識を顕在化してコントロールしようとするのは愚の骨頂

「潜在意識」といえば、引き寄せの法則がどうとか詐欺チックなページがよくWEBでヒットする。

真実に近い匂いを醸し出させつつ騙すのは詐欺の常套手段というか、信じ込ませやすいからそっちに寄っていくというか、人って何でも金に換えたがるなー、と呆れる。

これらの詐欺と本当のステップ・プログラムの見分け方は簡単。

「夢・願望を達成する」と謳っているものは偽物だ。

「この考え方をすればみんなが欲しいものが手に入りますよ~」っていうのは、「これを飲むだけで3ヶ月で10kg痩せられます!」というのと同じ。

皆苦しいときは救われたくて、効果が劇的で早いと宣伝する方法に魅力を感じがち。

ダイエットがうまくいかない人が運動しなくても痩せると謳うダイエット詐欺商法に騙されるのと全く同じ。そんな問題ではないのだ。ダイエットは一朝一夕に成るものではない。

筋肉量を増やすために地道にトレーニングを重ね、低脂肪食で摂取カロリーを考えて生活した結果、その「生活に合った体」が自然にもたらされる。「痩せたいから痩せよう」とするのではなく、無意識に痩せるような生活をしている、在り方が自然と変わると、いつの間にか自然に受け容れられる自分を認識している、という感覚。

「痩せたい」を叶えるためにやるから、失敗する。

ステップ・プログラムは、潜在意識に身をゆだねる。

結局どうあがこうが、潜在意識に導かれるように私は導かれるんだよな、ということを理解して信頼する。

だからその限りにおいて、自由に楽しみ、心の充実に専念することができる。それが幸せという物の正体。

つまりコントロールしようとすればするほど、どんどん遠ざかっていくものなのだ。

 

12ステップ・プログラムにおける「ハイヤーパワー」=「潜在意識」=「阿頼耶識」

ACやAAの12ステップ・プログラムにおいて、依存症は「顕在意識」ではなく「潜在意識」からきている、と説いている。

なぜなら「渇望」は理性ではコントロールできないから。すでに無意識なので自身の手を離れている問題なのだ。

「いつの間にか」酒に口をつけている。「いつの間にか」共依存性に反応している。

だから、もうこの問題を取り除ける力はないので、他の力を頼るしかない、と無力を認める。(STEP3)

んで神とやらに祈るわけなんだけど、それは偶像崇拝でしかない。

崇拝の対象とする、助けを求めるものをとりあえず「神」という呼び方にしているので、みんなアレルギーを引き起こすのであって、「神」と呼ばなくてもいい。

ある人にとっては「良心」だろうし、ある人にとっては「自分のなかの天使」かもしれない。

つまり、呼び方はどうでもよい。

唯識論でいうところの「阿頼耶識」、12ステップ・プログラムでいうところの「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」が「『潜在的に在る』という認識を共有しようよ」ということをどの考え方も言いたいのだ。表現が違うだけ。

潜在意識は、自分の存在がまずあってそこを起点に発出する意識というよりは、この世の命がみんなでシェアしている大きなインフラストラクチャーみたいなもの。めっちゃでかくてエネルギーを持っている自分と繋がっている何か、と捉えられる。

だから「内なる神」と表現するけど「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」として分離しているのだ。内包しているようで、内包していない。シェアしているようで、自分とは完全に切れた何かではない。

だから唯識論では自分という実体を「有るようでなく、無いようである」と知覚するんだと思う。「全は一、一は全」すべては繋がっているので、個体として存在しているというよりは、全部が繋がりながら大きな流れのなかで揺蕩い、集っているのが世界だと考える。

 

近代社会では個人主義が徹底され、比較や競争を良しとする市場原理で精神的にも肉体的にもどんどん分断されているので、より実感しにくくなっている。

誰もが何かの共同体に属していて、成し遂げたことは決して一人の成果ではないし、ひとりきりで生きているわけでもない。それなのに、孤独で傲慢で乏しいモノとして生きようとするから病むのである。生命は生まれながらに独りではないと言える。孤独というのは自分が創り出しているのだ。

 

「黙想と祈り」はリコネクト

なぜ、STEP4~9までの取り組みを10で繰り返す約束をしたうえで、黙想と祈りをするSTEP11があるかといえば、これがなくては「STEPを踏んだ努力(自分自身の力)により私は回復したんだ」と勘違いしやすいからだと思う。

自分の力ではない。確かに私は頑張った。

しかし、たまたまステップに出会って、たまたまそこまでステップを進めることができただけだ。

タイミング、出会い、心の準備。何か少しでもずれが生じたら、今の私はなかったことだろう。

そんな数々の奇跡的な偶然を用意したのは何か?

唯識論でいうところの「阿頼耶識」、12ステップ・プログラムでいうところの「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」だと思う。

すでに決まっていた、というとまた胡散臭くなるんだけれども、私にはコントロールできない数々のモノにより支えられているのは確かだ。そしてそれは予定調和的に様々なものを伏線として用意されていたように絶妙のタイミングで与えられる。

たとえば私がベンチャー企業に行かずに今の会社にストレートで入っていたとしたら、仕事上の苦しみはこんなにもなかったかもしれない。しかし、赴任地が東北にならなかったら、妻とは出会えなかったかもしれない。そしたら、私は依存症を認めずに自死していた自信がある。今ココにはいない。

私には必要だったのだ。ブラック企業でボロ雑巾のように働く時間が。その経験が。

同じようにアルコール依存症になることも、ACであることも、全部全部必要だった。今の私になるには。

それは私が選んだものじゃない。私はそんなにドМな人生設計をするタイプではない。できれば楽してあまり苦しまずに生きていたいタイプだ。

そういうものに巡り合うことをすでに決めている大きな何か。

言っちゃえば全部それ次第であり、私たちができるのは精一杯今を生き切ることだけ。

だから、私たちはその大きな何かにお願いするくらいしかできないのだ。そのお願いを積み重ねると「ああ、これってこういう授かりものだったんだな」という感謝ができるようになる。

それが「黙想と祈り」によるリコネクトだ。

横たわる大きな何か、支えてくれている大きな何か。それに感謝できる、存在を感じる。

そのために「黙想と祈り」はある。

 

 

 

【依存症】私がブログを書く理由は

私は今日、なぜこのブログを続けているのかな、とふと思ったので書いてみる。

 

変化の記録

特に誰に依頼されたわけでもない。特別読者が多いわけでもない。私などあまたいる浅学菲才な凡人だ。

そんな人間が書くものが、読者にとってどれほどの価値があるかわからない。そんなにたいしたことを書いてないなと思う。文章も無茶苦茶だしね。

でも、私が「依存症者」として至らない思考の数々を記録に残し、その恥を全世界に晒す意味は、私にとってけっこうあるんじゃないかと思う。

私の考えは常に変化している。

だから、ブログを始めた当初の記事は、書いていることがなんとなしにイキっていて過激でしつこくて、なんか相当イタイ内容だったりする。やめて、ブラウザバックして確認しないで。

だけど、それも確実に私だし、そういう一貫性のなさみたいなものが私そのものだなぁと思う。

正しいことばっかり書いてあっても、つまんないじゃない?

みんな日々変わる。それが当たり前なんだから、一貫性がなくったっていいじゃない。

そんなふうにもともと超頭固い人間だった私が、悩みながら自己受容ができるようになっていく過程。それが生々しく開示されているのがこのブログ。

すなわち、毎日毎日せっせと恥の上塗りをしているのだ。とんでもないドMだ。

でも案外、私と同じような悩みを持つ人に最高に寄り添えるんじゃないかなぁ。恥を晒しっぱなしにしているのはそういうわけ。

え?恥ずかしすぎて読み返せないからそのままにしてるんじゃないよ、ほんとだよ。ほんとほんと。

 

灰色を振り返る

私は物心ついたときから、とにかくめっちゃ生きているのがつまんなかった。

マジかよ、これあと何十年もあんの?地獄じゃん、と思っていた。

他の子達はとても楽しそうだけど、私が混じると微妙な空気が生まれてみんな楽しそうじゃなくなる。とても不思議だった。

私は一人の方がとても楽だったから、幼稚園にはじまり酒を飲めない時代の教育機関において楽しいと思った記憶はあまりない。大学は酒が飲めたから楽しかった。そのあと地獄が待ってたけど。

学校に行くとみんな楽しそうにしていて、毎日飽きもせず他人と遊んでいた。本当に不思議だった。

「なぜこんなに挨拶だけで疲れるのに遊べる体力があるのか?私に体力がないのか?いや、水泳では一番泳げるし、走るのも速い。どうやら身体能力の違いではない。」

「なぜこんなクソつまらない授業を聞いて御山の大将を決めるような小規模でダサいお遊びの部活をやって『毎日楽しくてたまんないぜ』みたいなフリができるのだろう?演技力半端なくない?なぜこんなにつまらないのに生きていけるんだろう?楽しいフリじゃないとしたら、一体全体何が面白いのだろう?彼らが感じている面白みは、何のどこにあるのだろう?」

そんなことを思いながら灰色の気分で周りを観察する日々だったなぁと思う。小中高とそんな感じだった。

 

スポーツや勉強で他人に勝てることは最初は楽しかったけど、上には上がいるわけで、いつも勝てるわけじゃない。

勝ち負けにとらわれても結局苦しいだけなんだなと思ってから、競うことにあまり興味がなくなった。

相手に馬鹿にされない程度に強くて勝てていれば、生存戦略としては必要十分。それ以上の意味はないなと思った。

親が喜ぶし、周りも「すごい」と言って賞賛するから、これが「良きこと」なのだと信じたいと思った。

社会に認められることこそが正しいこと。

そういう既製品の価値観をじわりじわりと深層心理に塗り込んでいった。

心の中で疑わないわけではなかった。

「本当にこれがやりたいことなのか?」「本当にこれが意味のあることなのか?」「皆が良いと言うから良いと信じるのは危険なんじゃないか?」

そう思ったけど、その方が楽だったし、親から見てもらえる効果的な方法を手放せなかった。安心できた。その偽りの安心を維持できるならと目を瞑った。

私は私の気持ちをみるのをやめて、周りの物差しを信じようと努力してしまった。

 

成長すればするほど違和感はどんどん膨らんでいく。

社会的にもてはやされる事柄に興味が持てないのだ。結構焦った。

女性と何人関係を持てたかを自慢したりする同性たち。価値観が合わない。自分の娘が「一発やれたらいい」みたいな腐った男に好きにされたら、親として一体どう思うのか?そんなことも想像できないのだろうか?大切な家に侵入してくるゴキブリのような存在になっているとは思わないのだろうか?

他人を間接的に殺してでも金をたくさん稼いでいる人間が上等だと言う先輩の社会人。冗談だろう?なんで人の命より金が重いんだ。カイジの利根川かよ。世の中を良くするための仕事じゃないのか?武力以外で効率的にたくさん人殺しするために(高級取りになるために)私は我慢に我慢を重ねて大学までクソつまらない勉強をしてきたと言うのか?ひょっとして今までの高等教育というやつは、みなインテリヤ◯ザになるための英才教育だったのか?

一生懸命合わせようとしてきたけど、瓦解した。

もうだめだ、私は社会不適合者なんだ、と思った。

結婚も仕事も何も魅力的じゃない。だけど、どうせ今までと同じようにやらなきゃいけない。だってそれが正しいことだから。そうでない人間は生きていてはいけないような言われ方をする。恥さらしだとゴミのように扱われる。

それは嫌だけど、この世界もいい加減うんざりしてきた。

どうしよう?

このクソつまらない世界に付き合うのと、もういっその事終わりにするのと、どっちが楽なんだろう。

 

そんなとき酒に出会った。

簡単に私を現実ではないところに連れて行ってくれる酒。

このゴミ溜めのような世界を輝かせてくれる酒。

酒によって私は解決の鍵を手にしたと思った。

酒に酔っていれば、この灰色の世界も色を取り戻す。

なるほどな、世の中の人は、この桃源郷にありつくために楽しくないのに楽しいフリをし、土の中で夏を待つ蝉のように、成人になるのを待っていたのか!

なるほど納得だ。これで私は安心だ。よっしゃ時代が来た。酒さえあればこの地獄をなんとかあと数十年しのぐことができる。

そう思っていた当時の阿呆すぎる自分を殴りたい。

 

尾崎放哉と父の思い出

そのあとは他の記事で語っている通りの凋落ぶりで、尾崎放哉のような急転直下の崖のふちでなんとか踏みとどまった。

そして今もまだかろうじて生きている。

あのまま酒で全てを失って孤独死していたら、放哉とはあの世でめっちゃ仲良しになったことだろう。同郷だし話も弾む気がする。鳥取をボロクソに言って盛り上がれそう。

「咳をしても一人」「肉がやせてくる太い骨である」「こんなよい月を一人で見て寝る」

私が思春期の頃、父が尾崎放哉で個展をやった。

父の筆で書かれたこれらの句をみたときのなんとも言えない郷愁。このときの記憶はいつまでも色あせない。

汗がにじむ夏の日に、蝉の声がうるさい。父の書斎に行ってみる。父は休憩中で不在。床には展覧会に出す前、苦しみ抜いている父のたくさんの練習書きが散乱している。

命の最後のひと絞りを渾身の力で絞り出す。放哉の魂の叫びが聞こえる。定型に縛られず、決まりにとらわれず、自由律俳句を叫ぶ放哉が見える。こんなに弱々しい言葉なのに、圧倒されるようなエネルギーがある。

慣れ親しんだ何もなさ。何もないことへの静かな怒り。その郷愁に震えた。

全てを失って孤独になり今際の際になった瞬間でこそ、このような言葉が生まれるのなら、その瞬間のために何十年も生きるのかもしれない。とても美しい。

そういうようなことを、幼いながらに感じ取った。生きることの最後の希望として胸の奥深くに刻み込まれた。

 

輝くものを見つけたい。自分の中に見つけたい。

尾崎放哉に、それを書く父に感じたような輝きを私も生み出せる人でありたい。

私は、芸術家としての父を尊敬していたし、今でも大きい存在だと思っているんだな、と思う。

色も輝きもなかった私の幼年期〜青年期。

その何もなさがあったから、眼を凝らしてよく見るようになった。他人と違ったから、より深く意味を考えるようになった。簡単には納得しない厄介で可愛げのある人格が育った。

自分に正直に生きるようにして、灰色の時代は寂寥感ばかりではなくなった。「信じなくては」「正しいのだから合わせなくては」と思っていたルールや社会というものの脆弱性を知ったから。実は虚構だし正しいわけでもなかった。私の心が発した警告は間違ってなかった。

今灰色を生きている人へ。そういう世界が音を立てて崩れながら色を取り戻す。あなたにもそういう感動的な瞬間がきっとくる。私なんぞに来たんだから、きっとくる。

でもその事実は、今の私から語るものではなくて、未熟でもがいていて、イキっているけど怯えていて、もうどうしようもなくだめで恥ずかしい、当時の私しか語り得ない。

当時の私の青さが奥行きとなる。私が変化しても、別の段階にいる悩める人の仲間として「かつての私」「未来の私」つまり「あなた」と今の私を、繋いでくれる。

 

あの日にみた放哉は、かっこ悪くてみっともないからこそ、そのままだからこそ、美しかった。

だから私はこんな恥ずかしいブログを書いているのだと思う。

【依存症】仕事依存症(ワーカーホリック)はゲーム依存症

最近、社会学者の宮台真司さんの話が面白すぎて、ずっと聴いている。宮台さんの話に感化されてうすうす思っていたことが確信に変わる。それが実に快感。腹落ちすることばかり。分かりみの嵐というべきか。

そんな確信に変わった事柄をつらつらと書いてみる。

 

ヴェーバー予想の実現

まず、宮台真司さんが言う「ヴェーバー予想の実現」から紐解かなくてはならない。

ドイツの政治学者・社会学者・経済学者であるマックス・ヴェーバーによって、今の社会システムが限界を迎えることは喝破されていた。

複雑な社会システムを運営するためには計算可能性が必要。

なぜなら計算可能性が無くては投資可能性が無いから、資本主義が回らないから。

そして計算可能性を担保するためには行政官僚制が必要。

行政官僚制とは、ヒエラルキー構造を持った組織運営で、属人的にならないようにシステムにとって取り換え可能な存在として人間を部品化することに他ならない。

行政官僚制でしか回らない社会は、他の組織の形態と比して、業務の正確性と継続性や、曖昧性と恣意性を排除するなどの側面が認められうる。

しかし他方、行政官僚制は形式合理性の論理にしたがって組織を閉鎖化し、単一支配的な傾向を生み出す。

つまり合理性を求めれば求めるほど人間性はノイズになるので、人としての性格がどんどん削られていき合理性と組織の奴隷になるしかなくなる。

この経済的システム的豊かさを求めるが故に人間性の欠落に陥ることの閉鎖性を、ウェーバーは「鉄の檻」と比喩した。

行政官僚制のなかでは人事(権力)と予算(金)が人を支配するので、上の意向を尊重し周りをキョロ見し自分のポジション取りしか考えない損得勘定だけで動く「損得マシーン」が自然と増える。

同時に、行政官僚制は文書による事務処理を原則としているので、人々は自分で考えるのをやめ既存のもっともらしい言葉・概念の持つシステムや体系にそのまま乗っかるようになる。

プログラムのように言葉によって自動的に動くだけで、自分の感情にも他人の感情にも鈍くなり「感情が劣化」する。

なので、人々の「言葉の自動機械」化が進む。わかりやすく言えば、主語がでかい人。

中国に行ったこともないのに「中国は〜だ」と語ったり、性というカテゴリで安易に分けて反応するミソジニーやミサンドリーのこと。

しかし、この行政官僚制に基づく社会システムに乗らなければお金が稼げないし生きていけないので、結局人々はシステムの支配から抜けられない。法に閉じ込められた人々を指して「法の奴隷」と呼ぶ。

この「損得マシーン」「言葉の自動機械」「法の奴隷」が3つそろうと「人はどんどんクズになる」と宮台氏は言う。ヴェーバーは「没人格」と表現していて、つまり結局人はシステムに頼れば頼るほど、人間をやめていくということだ。

「鉄の檻」つまり宮台氏のいう「クソ社会」では、どんどんクズが生まれていき、結局頼みの綱だった民主主義や民主制は育たなくなる。「鉄の檻」の破綻は、その存在そのものが持つ性質上、成立した瞬間から運命づけられているということ。

ここまでのことを予見したウェーバーは絶望して神経症になってしまうわけだが、「ウェーバー予想の実現」は、自称「先進国」日本において、先進国らしく世界に先駆けていよいよ完了しそうだ、ということ(社会システム崩壊のトップバッター)。

今の社会の阿鼻叫喚の正体は、システムそのものに最初からプログラムされていた。当然の帰結だったのだということ。

行政官僚制は何も政治経済だけではなく、ありとあらゆるところに蔓延っている。だってそれが資本主義経済社会の在り方そのものだから。

つまり経済活動である「仕事」などは、例外なく「鉄の檻」の内側の出来事でしかない。

すなわち働く人々は組織的であればあるほどクズ化(法の奴隷×言葉の自動機械×損得マシーン)していくのが、むしろ当たり前なのだ。

だから、私が日ごろ同僚や上司の良心の欠如を嘆き「なんでなんだろう?」と頭を抱えていたのは、とても滑稽な話だったのだ。だって当たり前のことなんだから。

「もしかしてこの世の中のほうが間違っているのではないか?」とうすうす感じてきた感覚は、まさにビンゴだった。

この日本社会(日本に限らず資本主義社会全部だけど)がクソ社会なんだから、正常な思考能力を持っている人ほど生きづらくて絶望するのは、当たり前だったということ。

だから依存症になるほど悩むというのは、むしろ上等な人間だという証明でもある!

私は依存症者であることを誇りに思うと同時に、自分の人間性を確認出来てとても安心した。

 

クズにより世界規模で繰り広げられるMMORPG=仕事

結局大企業にいるいわゆるエリートサラリーマンや行政・政府に所属するエリート官僚や政治家が何をしているかというと「ゲーム」だ。

泥船であるこの社会のなかで、限られた椅子を奪い合う椅子取りゲームをしている。

分かりやすく言うと「出世しようゲーム」「成果出そうゲーム」「勝ち組になろうゲーム」だ。これは男性だけではなく近年女性も参戦している。性差はない。

(言語ゲーム理論について話した記事でも似たようなこと書いたなあ。)

地位・名声・名誉・権力。これらをいかに集められるかというミッションを掲げ、貨幣価値を共通言語として「MMORPGMassively Multiplayer Online Role-Playing Game、マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム)」つまり「大規模多人数同時参加型オンラインRPG」をやっている。

このゲームにおいて、プレーヤーの人道的・良心的な価値観は、どんどん剥ぎ取られていく。当然だ。だってクズ化がレベルアップだから。

法の奴隷で、自分で何も考えなくて、損得勘定だけで動くもはや人の形をした「人間をやめたもの」にならなきゃ、このゲームでは勝ち残れないから。

学歴や資格などはたとえば「課金アイテム」と位置付けられる。

不平等の極みだが、経済的に恵まれていなければテストを受けるチャンスすらもらえない。ガチャをまわす金がないのと同じ。もともと初期値で割り振られた所持金が低いからアイテムが手に入れられないプレーヤーが一定数いる感じ。

一定数のゲームランク上位にいるクズたちが強くてニューゲームして、「課金アイテム」を独占し、よりボロ勝ちするために自分たちに有利なようにガチャ自体の設定を好き勝手いじっている。

上位ゲーマーたちは下位のゲーマーは負けてんだからログアウトすればいい(死ねばいい)と本気で思っている。「下手で弱いヤツはやめちゃえよ」と課金アイテム使いまくってふんぞり返ってるイメージ。

だからこの社会では、お金がある人がよりお金持ちになるための法制度を行政府をコントロールして成立させるのが当たり前。

そうやって現に日本は、グローバリズムによってどんどん国の財産であるヒト・モノ・カネを、なますに切り刻まれている。そして、これから激安で海外にたたき売りする予定だ。

日系大企業で働いていて思う。

社員は本当に、社会や消費者のことなど考えていない。クズこそ出世するクソシステムだとしみじみ実感する日々である。

御上のご機嫌を損ねず、周りに合わせておいて要所で騙して出し抜く。限られた椅子をいかに自分のモノにするかしか考えていないプレーヤーばかり。

 

エリートサラリーマンの面白いところは、総じてこのクソみたいなゲームに依存していることだ。

仕事そのものは決して悪いものではないのと同じように、ゲーム依存症の当事者からも「ゲームそのものは悪くない」という話をよく聞く。共通している。

ゲームにも良さはある。

ITスキルの向上であったり、ゲーム好き同士の利害を超えた繋がり(仲間・居場所)であったり。資本主義に寄らない社会的価値を生み出すプラットホームとしての価値を持っている。

同様に仕事も社会とそこに住む人々を豊かにするためにするのであれば、これほど自己実現できるものはない。

仕事を通じて心を通わせる瞬間はあるし、仕事という共通言語のなかで育まれる共同体はときとして損得勘定を上回る。

 

ゲーム依存症と仕事依存症

つまり、ゲーム(仕事)それ自体は悪くない。

ゲームに依存して人としての道を踏み外すことが問題だということ。

ゲーム依存症では、ゲーム以外に楽しみを見出せなくなったり、実生活をおろそかにしてしまうなど、仮想空間に入れ込むあまり不健全になっていくことで自分だけでなく他人にも悪影響を及ぼすことが問題だとされる。

仕事に依存するワーカーホリックも全く同じ。

仕事依存症だと仕事以外に達成感を味わえるものがない。その結果、夫婦生活や親子の関係を犠牲にしてまで椅子取りゲームに夢中になる。それにより機能不全家族という不健全性を自分にも他人にももたらす。これがどれだけ有害かに無自覚で、このクソ社会にとっては問題にならないことが問題の本質なのだが、ほとんどの人がわからないまま病んでいく。

そしてゲーム依存症や摂食障害と同じように、うまく付き合いながら生きていくしかないのが、残念ながら今の時代だ。

資本主義経済社会で生きていく以上、お金は血液みたいなものなので、仕事をせずに生きていくことなどなかなかできない。

この世で生きる限り経済活動を余儀なくされる。

食べ物を食べなくては生きていけないように。ゲームによる繋がりが必ずしも悪ではないのと同じように。

要は、依存症に陥らないためには『「鉄の檻」の外側をもつこと』『損得に寄らないで関わり助けあえる「仲間」をもつこと』が重要だ。

宮台氏がいう社会という荒野を仲間と生きろというスローガンは、まさにこのことだと理解している。

ゲーム依存症でいえば、自助グループ。

仕事依存症でいえば、仕事以外に意味を見出せる繋がり。

家族でもなんでもいいから資本主義経済社会とは一線を画した共同体を持つことで、人はなんとか「鉄の檻」の外側に自ら己の居場所を創り出す。それでいて初めてクズでなくなることができる。クズ社会から一歩抜け出すことができる。

 

つまり世に言う「勝ち組」というのは、ただのジャンキーなんだということを覚えておきたい。一昔前に言われたネトゲ廃人というのに似ている。

仕事というゲームにどっぷりハマって、何が良きことで何を感じているかを考えることを放棄した人たち。

「俺のほうがすごい」

「俺のほうが偉い」

「私のほうが優秀だ」

と周りをキョロキョロ伺いながらゲームで勝つために何もかも犠牲にして人間をやめたクズ。

それが、今の社会で認められている人だ。

だから、むしろ社会から認められないほうがいい。

そのほうが誇らしいことなのだ。社会からボッコボコに叩かれるほうが「ああ、俺ってやっぱ間違ってないわ」と安心するというもの。

社会から否定されることこそ「まともな人間である」という証明だと思う。

だって社会は、いずれ滅びるクソ社会だから。そんなもんに認められちゃったら「おめでとうございます!あなたもいずれ滅びる方向に向かってる一味だよ」とクズに笑いかけられている状況なわけ。

むしろ背筋が凍る話だと思わないか。

 

まとめ:仕事がゲーム化しているからゲーム依存症と親和性を持つのは当たり前

仕事がゲーム化している以上、仕事依存症はゲーム依存症である。

そして、今日本社会ではありとあらゆる人が没人格化、つまりクズ化しつつあるので、クソ社会の沈みゆく泥船のシステムのなかで生き残りをかけてバトルロイヤルをやっている。

例えるならば、サービス終わりかけのリアル『フォートナイト』なのかな。

MMOPRG要素を追加した「フォートナイト改」のなかで、一生懸命課金して毎日毎日必死こいて他人と殺し合いしてるんだけど、もうサービス終了がすでに決まっていてそろそろなのに気づいていない感じ。

ゲーム以外に何も関係性を育ててこなかったゲーマーの末路は想像に難くないよね。

だからアホみたいに仕事依存症になってないで、経済的価値観では測れない、己の人間性に共鳴する経験や繋がりに投資すべきなんだよ。

「金になるか、ならないか」で考えると心がどんどん貧しくなっていくのはつまりそういうこと。

経済的価値はゲームのなかの通貨の話で、ドラクエの「ゴールド」はいくら集めても現実世界では何の恵みも与えてくれないでしょ?

アルコール依存症の私がお酒をやめてから言うから間違いないけど、リアルにもたくさん依存していたこと以外に面白いことはあるし、それはお金なんていうクズの価値の物差しでは測れない価値なわけ。

いろいろ話が飛んだけど、依存症ってこのクソ社会が生んだ社会的な病で、むしろ踏み絵的位置づけだと最近思うんだよね。

こんな人が人でなくなるようなシステムに順応できる狂人が健常者で、システムが嫌すぎて他に何かドラッグ使わなきゃとてもじゃないけどやってらんねーよ…っていう人間をまだやめてない連中が依存症者なのよね。

たとえば「覚せい剤やめますか?人間やめますか?」なんて腸ねん転起こすくらい笑える高度なギャグ。「おまえらみたいなガチガチの行政官僚制のなかで椅子取りゲームやってる、生粋のジャンキー(マトリの方々)にそんなこと言われたくねーよw」って話なわけ。

だから依存症の人たちは胸を張ってほしい。あなた方こそ人間の希望だし、まだ人間だという証拠だと思う。

恥でもなんでもない。むしろ名誉だよこれ。だって社会がクソだしクズが評価される世の中なんだもん。そりゃ依存したくもなるって。

そんなことを思うわけです。

【依存症】アルハラは人を殺す?知ってほしいアルコールの知識

みなさんのなかには、こんなこと言ったり言われたりした経験がある人、いませんか?

 

「乾杯はビールだろ!烏龍茶で乾杯なんて失礼だぞ!」

「上役やお客様から注がれたら、飲めなくても飲み干すもんだ!」

「酒の上での失敗なら、俺もやったことある。多少飲み過ぎたって大丈夫だ!」

「記憶なんてなくなることなんて、たまにはあるよ。ふつうふつう。それは今日飲まない言い訳にはならんぞ。」

「ていうか、飲まない奴はつまらん、飲め!」

「飲まなくてもいいんだよ?飲まないなら、分かってると思うけど、それは君の自由だからさ。」

「お酌しにくる立場で、瓶ビール片手に、自分は烏龍茶なんて、もしかしてバカなの?」

 

これ、口にしている人は要注意です。

ちなみに、全部、私が言われてきた言葉です。笑

 

これから社会人になる皆さん、そして、大学生になる皆さんにも、ぜひ知っていてほしい知識として、「アルコール依存症」「急性アルコール中毒」の知識があります。

今回は、アルコール依存症でない人々に向けての視点でアルコール依存やアルハラについて書いてみたいと思います。

 

 

本人が認めたがらない病「アルコール依存症」

 

過度の飲酒により記憶をなくす事を『ブラックアウト』といいますが、これを2回以上経験していたり、酒の上での失敗を繰り返し、反省したり後悔したりしているのに、飲む量をコントロールできなかったり。

 

こんな経験がある人は、だいたい、「アルコール依存症」か、その一歩手前です。

 

「アル中ワンダーランド」という、まんきつ先生のノンフィクションアル中実体験漫画がありますが、その1コマにも「そんなのみんなそうじゃないですか」と自分がアルコール依存症だとは認められないシーンがあります。

 

 

 

アルコール依存症の診断をされても、当初は、本人は依存症だなんてこと、全く信じません。

もしかしたらご家族も、困ったような愛想笑いを浮かべるだけでしょう。

「ウチの旦那に限ってそんなこと…」ってね。

 

特に40〜60代の企業戦士時代の方々で、24時間働けますか?な超体育会系。

モーレツに仕事を頑張って高度経済成長期に時代を作ってきた、素晴らしい年代の方々。

この年代のお歴々は、特に「アルコール依存症」という病気に関してはいくら説明しても、平行線を辿るばかりで、全然伝わらないから、本当に辟易としています。

元々優秀な方々なのに、説明しても理解できない・しないのは、実は本音では「理解したくない」から。

実は、こういった人たちは『否認』しているだけで、むしろ本人たちそのものが「アルコール依存症」だったりします。

アルコール依存症が、「否認の病」と言われ、治療介入が遅れる所以です。

 

お酒をしつこく勧めるのは、とても危険

 

「失礼な!私はアル中なんかじゃない!」というなら、そうなんでしょう。

 

でも、せめて、無理やり飲ませるのは、ホントやめましょう。

アルコールは薬物です。

アルコールで人は死にます。

 

アルハラの定義は以下の通りです。

 

【アルハラ】

アルハラとはアルコール・ハラスメントの略。飲酒にまつわる人権侵害。命を奪うこともある。

特定非営利活動法人ASKおよびイッキ飲み防止連絡協議会では、以下の5項目を主要なアルハラとして定め、啓発活動を実施しています。

 

飲酒の強要

上下関係・部の伝統・集団によるはやしたて・罰ゲームなどといった形で心理的な圧力をかけ、飲まざるをえない状況に追い込むこと。

イッキ飲ませ

場を盛り上げるために、イッキ飲みや早飲み競争などをさせること。「イッキ飲み」とは一息で飲み干すこと、早飲みも「イッキ」と同じ。

意図的な酔いつぶし

酔いつぶすことを意図して、飲み会を行なうことで、傷害行為にもあたる。ひどいケースでは吐くための袋やバケツ、「つぶれ部屋」を用意していることもある。

飲めない人への配慮を欠くこと

本人の体質や意向を無視して飲酒をすすめる、宴会に酒類以外の飲み物を用意しない、飲めないことをからかったり侮辱する、など。

酔ったうえでの迷惑行為

酔ってからむこと、悪ふざけ、暴言・暴力、セクハラ、その他のひんしゅく行為。

出典:特定非営利活動法人アスク『アルハラ5箇条』

 

これを読んで分かる通り、今ニュースになっている光本勇介さんの行為は、歴としたアルハラです。

恵比寿の飲食店の事件でお亡くなりになった女性に対して一定の責任があることは明らかです。

文春オンライン記事:『《恵比寿テキーラ20歳女性急死》「A子さんは段ボール箱に頭を突っ込んで……」NewsPicks系“天才起業家”「一気飲みチャレンジ」の真相』

 

記事を読む限り、客という立場で上下関係と金に物を言わせて、女性たちに飲むことを断れない圧力をかけてきたことが、まず問題です。

光本氏は本人が飲むことを選択したと言いますが、そんなことはありません。

権力を振りかざされて、チャレンジすることを選ばざるを得ない状態に誘導されています。

コントロールしているのは他ならぬ光本氏であり、そのように金と権力の力で自分の思い通りにコントロールできることを楽しんできたのです。

『相手に無理やりやりたくないことを強要できる』それだけの力があるのだ、と自己顕示欲と自尊心を満たすために、他人をコントロールしたのです。

その結果、一人の女性が命を落としたのです。

『命は、カネより重い』。

それがこの殺人行為の本質です。

光本氏が、そして彼の行為を見て見ぬ振りをし続けてきた関係者全員が省みなければならないことです。

 

光本氏のように、人の命を奪わないまでも。

飲まない、という人にしつこく勧めたり、「つまらんやつ」等と飲まない事を侮辱するのは、ホントやめましょう。

言われる側は、たまったもんじゃありません。

めっちゃストレスです。キレます。

少なくとも10年は恨みます。

 

体質的に本当に飲めない人もいます。アルコール依存症の患者さんの場合は、『アルコールを解毒できなくする薬』である、「抗酒剤」を飲んでいることがあります。

 

どちらの場合でも、ビール一杯でも救急車行きの可能性があります。

呼吸が止まります。

全身が痙攣して泡を吹きます。

飲ませることは、もはや殺人です。

 

酔った勢いであろうが何だろうが、その気があろうがなかろうが、なんの言い訳にもなりません。

もしあなたがすでに誰かにストレスをかけているなら…。

あなたはもう他人から、深く深く怨まれているかもしれませんよ。

 

自己責任だとか聞いてないとか、本気で言ってますか?

「私は強要してない、自己責任だよ」

「そっちが勝手に飲んだんだ、私は悪くない」

「そんな理不尽な!病気ならちゃんと話せばいいじゃないか!そんなの聞いてない、知らなかったんだ!」

「そんな厄介な地雷みたいなやつ、そもそも飲み会に来るんじゃねーよ!」

と、アルハラしたことを認められず、生死を彷徨うトラブルを起こしてから責任逃れを言う人がいます。

 

正直、私はアルコール依存症になるまで、ガッツリ「アルハラする側」の考え方でした。

周りより酒に強かったのも災いして、じゃんじゃん飲んで、「大量に飲めること」を誇りに思っていました。

だから、「アルハラする側」の気持ちも、感覚も、わかります。

 

でも、ですよ…

社会的に間違った認識や差別がまだ根強い、この病。

アルコール依存症と聞いたら、どんなイメージでしょうか?

 

「仕事ができないダメなやつがなる病」

「心が弱いやつがなる病」 などなど。

 

そう思われるのを覚悟するのは、当たり前ですか?

「アル中です」と公言することは、義務ですか?

反対の立場だったとして、言えますか?

 

アルコール依存症でなくても、お酒を酌み交わすことが当たり前という空気の中で、飲まないことを選択できますか?

「飲まない人」というマイノリティの立場で、楽しいはずの場を白けさせるのを厭わず、嫌われたくない人に嫌われるのを厭わず、公明正大に、本当に言えますか?

私は職場の仲間に打ち明けるだけで、口はカラカラに渇き、汗が止めどなく流れて、情けなくも、声が震えました。

 

誰もが飲めるわけではない、という当たり前の配慮

言えないだけで、実は今隣にいる彼・彼女は、お酒があまり得意ではないかもしれません。

もしかしたら、アルコール依存症を患ってきたかもしれません。

あなた方との付き合いを大切にしたいから、必死で努力しながら、烏龍茶で参加してるかもしれません。

「アルコール依存症」は、糖尿病や喘息や統合失調症と同じぐらい、サラリーマンにとって身近な病気なんですが、なかなか知られていません。

そんなこと気にせず、飲みたい人もいるでしょう。

それは、別に否定できません。後悔してもしなくても、それぞれの人生です。

でも、他人に苦しみを与える飲み方・飲ませ方なら、いつの日か、己れに天罰が下ります。

飲むシーズンになるといつもそう思います。

飲まない人のあたりまえ、飲む人のあたりまえ、両方あっていい当たり前ですが、少しのやさしさでお互いに気持ちよく過ごせるのにな、と思います。

【依存症】私が今の考え方にたどり着くまでの軌跡

私は昔、酒をやめられない自分をいつも責めてきました。

「自分がダメだから、自分が努力不足だから、やめられないんだ」と思っていました。

毎日が来るのが嫌で嫌で逃げたくてたまらないけど、努めてそれを感じないように、湧き上がる感情を否定する努力をしていました。

「つらい現実から逃げちゃダメだ」とハウトゥー本を読み漁ったり、『行動でしか人生は変わらない』とか『やるかやらないかだ』みたいな体育会系の偉人の格言みたいなのを繰り返し毎朝唱えたりしました。必死になって、すでにカラカラに枯渇しているやる気を絞り出そうとしていたのです。

その努力は涙ぐましいものがあります。しかし思えば方向性がハチャメチャでした。

 

がんばってがんばって、でもいつも虚しくて悲しいのです。

「何でダメなのか、何でこんななのか」

「他の人はちゃんとしているのに、うまくやっているのに」

「ああ、自分が不良品だからいけないんだ。『良品』にならなくては」

今の自分を否定して「別の自分」に成ろうとしていました。

他の人々のように社会を生きられる「自分より優れた自分」に。

この思考はAC由来で、親との関わりから刷り込まれた信仰なんですが、当時は知る由もありませんでした。両親はもうそばにはいないのに、繰り返し繰り返し事あるごとに、私は「自分はダメなんだ、だからうまくいかないんだ」と自分に刷り込んでいたように思います。

「自分はダメだ」「だからうまくいかない」

人は、気づかないうちにそう自己洗脳していると、無意識に「うまくいくと困る」と思って可能性を自ら潰していきます。

「ほらやっぱりうまくいかなかった」という一貫性を保とうとします。

そうやって、自分の信仰を証明するできるように生きてきたのでした。

誰のせいでもありません。

律儀に「自分はダメだ」と思い続けてきたのは、他ならぬ私でした。

ダメな自分を維持しようとしていたのは、他ならぬ私自身でした。

 

酒でその自己矛盾をごまかすことを覚えて5年。

いよいよ「もう消えたい…もうたくさんだ、やってられるかこんなこと!」とどん詰まりにたどり着きます。

何もかも嫌で、何もかも憎むことにすら疲れ、考えるのは「死ぬ苦しみとどちらが苦しいだろうか…」そればかりになります。

そう、真剣に命と苦しみを天秤にかけ出したのは、社会人になって2年目でした。

消えたいが、消えるのもそう簡単じゃないぞ…

しかし生きていてもただただしんどい。どうすればいい…?

拮抗状態で苦しむこと5年。(不思議なことに5年スパンですね。)

「会社を解雇されるかもしれない」という状況に追い込まれ、社会的な死、その後に来る肉体的な死を、リアルに想像するようになります。

「死ぬんだな」と思ったとき、人界万里のどん詰まりで感じたのは、不思議にも「よかった、やっと楽になれる」ではなくて、「まだ終わりたくない」でした。

 

「わたしはまだやり切れていない」

「わたしはまだやり残したことがある」

「まだ、死ねない」

「このまま終われねぇ」

「どうせ死ぬなら、それをやってから死にたい」

出典:『はじめの一歩』森川ジョージ

 

 

そうは思ったけど、当時感じていた「ガラクタのような自分」とまたいちから生きていくのは、とても覚悟が要りました。

「サハラ砂漠に行って、砂粒の色を一粒一粒、確かめろ」

と言われているような、気の遠くなる不可能なことのように思いました。

だけど、生きるにはやるしかない。「この私」で私として生きていくより他はない。

そうであるならば「もう何でもいいから教えてもらったことを素直に一つひとつやるしかない」と心から思いました。

この地獄を知ってもなお、まだ生きている人がいる。

その人たちがどうやったのか、知りたい。そして真似したい。生きるためにはそれしかない。

自分のやり方ではまったくもって無理だった、もうやっていけない、それをつくづく思い知らされた10年でした。

 

自助グループやステップは、そういう私にとってすら、当初は胡散臭くうつりました。

「そんなことやって何になる?」

「お前らとは違う」

「私にもそんな効果が本当にあるのか?」

でも、自分は自助グループやステップ以上に成功したエビデンスはありません。

むしろ何もかもダメだったから、ここにたどり着いている。それを認めて、とにかくやってみました。

結局、絶望して白旗を振ってからも、あれやこれやと脱線しては戻りを繰り返しました。

理解するのに、また5年間かかりました。笑

 

そうして、ようやく今があるなぁ、と思います。

この15年があったから、今があるとも思います。どんな苦しい瞬間も、無駄じゃなかった。

全ては必要だから、その時々に私の目の前に用意されていたのだと、今は感じます。

当時はとてもじゃないけどそんな風には考えられませんでした。無理で当たり前だと思います。

こういう回復への道程で経験してきたことを率直に正直に他人に伝えるっていうことが、12番目なんじゃないかなぁと、最近思います。

つまり、12番目はなにもそんな大仰に啓発などをしなくてもよく、素直に話すだけで、実はとてもシンプルなんじゃないかと思うのです。

 

私はそういう風にこのブログを活用していきたいな、と思います。

過去の記事で書いていることは、時として目を覆いたくなるような恥ずかしい認知の歪みにまみれています。

しかし、それも私。ぜーんぶひっくるめて私。

ぜーんぶひっくるめてのお前なんだ

いいんだ それで

 

出典:『バガボンド』井上雄彦

 

【依存症】他人との関わりについて

最近、人との関わりに興味が持てなくなっている。

酒は止まっているけど、人と人との関わりについてはまだまだわからないことだらけだ。

私は、元からそんなに他人に興味がなかったのに、必死に興味を持とう、関わろうとしてきたように思う。

酒が止まり、本来の状態に近づいているからなのかもしれない。

 

伝えたいことを伝わる形で届けようとすることは、いつでもだれに対しても、とても重要だ。

その努力は惜しみたくないし、最大限力を注ぎたいと思っているし、そうしてきたつもりだ。

しかし、どう力を尽くしたとしても、相手がいることだから、うまくいくとは限らない。

相手が受け取る準備ができていなければ、私がどう苦心して形を整えたとしても、伝わらないことは多々ある。

結局、人間は誰もが自分を含む世界全体を見たいように見ている。他人はその人にとって都合がいいように映る。私も含めて皆がそうなのは、どうやら経験上確かだなと思っている。

 

何を必死になって、世の中にとって意義のあることをしたい、などと息巻いていたのだろう。

専門領域について詳しくなり、様々な人に正確な知識を伝えたい、なとど躍起になっていたのだろう。

 

お節介もいいところだ。

全部、受け取る相手がいるのだ。

どんな情報も言葉も、受け取る相手次第であり、それらはハイヤーパワーにより導かれているのだから、私が使命感を持ってどうこう影響しようとする話ではない。

そういう傲りは、私が他人に必要とされたい、という欲望だ。必要とされていなければ生きていてはいけないという恐怖の副産物だ。

私たちは皆、役に立つとか立たないとか関係なく生きていていいし、自己実現や承認欲求はプラスアルファであり、その人がそれぞれ満たしたい分だけでいいものだ。つまりサブミッションだ。

 

私は、私が今まで知ってきたことや感じてきたことを通じてしか世界をとらえられていない。その時点で、どれだけ多くのノウハウを詰め込んだとしても、私の見方は限りなく一元的だ。

他人が見ている世界とは、結局のところ同じではない。誰とも、同じものを見ているわけでは無いのだから。

だから、私が言えるのは「私としては、こうだと思う。」ということだけ。正しいとか間違っているなんて、そもそも存在しない。

私はこれからも「私は世の中がこうなったらいいな」と思うことを朴訥に、淡々と、実行しては検証するだけだ。

賛同する人間は賛同し、反対する人間は反対して、各々の好きなようにしたらいい。

私は私のペースで、そのとき在りたいようにあるしか無い。

本当に、それでしかない。

 

他人の世界観を知ることは、自分の世界を広げる可能性を秘めている。

だから、自分の話をして、他人の話を聞く価値は、いつでも誰とでも、あると思う。

他人と接することで、他人という鏡に映る自分の姿や状態を認識することができ、違う宇宙を覗くことで、神経が拡がっていくように自分の宇宙が拡がる。

 

ただ、この作業は、私はすごく疲れる。

もう正直うんざりしてきている。

この作業にワクワクして力をもらう人には、これ以上ない活力なんだと思うけど。

私はそういう造りはしていない感じがする。

むしろデメリットや矛盾が不快な感覚を味わせてくるので、余裕があるときに少しでいい。

年寄りで胃もたれするから脂物はちょっとでいいみたいな感じ。おじいちゃんかよ。

 

人に囲まれて、慕われて好かれて、みたいなことに憧れがあったけど、今はもうなくなった。

あれは私とはまた違う報酬系だったんだな、と今は思う。人は自分と違う他人に憧れるのだから。

 

勝手に下にみたり、崇拝したり。

くっつきすぎたり、離れてみたり。

あと何回、誰かとの似たようなケースの処理に付き合うのだ。いい加減飽き飽きしてくる。

そんな感じだ。

期待しては失望して、それは結局自分の勝手な独り相撲で、お互いに傷ついて終わるパターンを、一生のうちにあと何回やるのだろうか。

これを楽しいと感じられるのはかなりすごいことだと思う。

もう疲れたな、というただの愚痴。

 

【依存症】巧く生きるより、たいじなこと

蝉が鳴いている。頭の芯にじんわりと滲むような、力強い声で。

夏がきた。

 

「今ココを集中して生きる」

というのは、簡単なようでいて、実に難しい。

いつも混じりっ気なく今のど真ん中でいられることが理想だけど、考えている時点で既に感じたその瞬間からは遠ざかりはじめている。文字にしたときには、もうかなり遅れている。

シャボン玉の表面の模様が極彩色に輝いて常に一定ではないように、私たちの心理や在り方は一瞬たりとも同じではない。

「人としてどうあるか」ということの究明は、結果的には自分の内面との語り合いに帰ってくるのだが、外に対して意識が開かれていなければ、今ここ自体を感じきることができないから、帰ってくるためには、逆説的に外界に開かれた精神でもって世の中と境界線を持たなくてはならない。夏がきたのに冷房が効いた部屋で耳を塞いでいては、夏の暑さや蝉の命の力強さをちゃんと感じることはできないように。

 

私はほんとうに『巧く生きる』ということの不得手さに関しては一級品なんだよな、と自覚している。

今まではその不器用さを恥じてきた。

狡く巧く生きる人をたくさん見てきて「私はなぜあんな風にできないのだろう」と自分以外の誰かと私を比べては、妬ましく思ってきた。

しかし最近になって、「巧く生きる必要」があるのかといえば、そうではないと感じるようになった。

私が巧く生きることに嫉妬したのは、とにかく生きるのが苦しかったからだ。

こんなにしんどいことをもうこれ以上やりたくない。もしかしてみんなもっと楽をしているんじゃないか。ズルい。そう考えていた。

そうやっかんで眺める隣の芝生は、実に青々としていて、私はその思いからどうしても目を背けられず、捨てたくても捨てられないでいた。

しかし、必ずしも巧く生きていることは、本質的に良いわけでは無いのでないかしら、と考えるようになる。

私は間違っていると言われたとしても、自分で味わって飲み下す実感を得ないでは、何かを諦めることはできない。

それが大事であればあるほど、だ。

だから、巧く生きていけないということは、私が触れる存在に対して深い愛情を持っているという証明でもあるような気がする。

傷はたくさんできるだろう。

でも、実りある人生は、巧く行きた人生よりずっと魅力的じゃないだろうか。

巧くソツなく、私は酷暑の夏も涼しい顔をして生きていきたいのだと勘違いしていたけど、本当に生きたい人生はそうじゃないんじゃないだろうか。

そう気づかせてくれるのは、いつも『同じように、真剣に人生に向き合って生きている人』である。

誤魔化したり言い訳をしたり嘘をついたり、そんなことはいくらでもできるのに、それをしないで、見たくない現実に向き合い、傷を負う覚悟で前を見ることをやめない人を、私は美しいと思う。

 

誰にも責任を取らせず、見たくないものを見ず、みんな仲良しで暮らしていけば楽でしょう。しかしもし誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない。深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない。闘うということはそういうことだ。

出所:『リーガル・ハイ2』古美門研介のセリフから引用

 

そういう尊敬すべき人に出会い、対話ができるからこそ、私は私自身を尊敬することができる。

独りではできなかったことだ。

「独りで生きているような気になって偉そうに」と言われてきた。

そういう類の発言に対して、常に反発してきた。

「何が仲間だ、どうせ裏切るくせに恩着せがましいんだよ。」

「何がみんなのおかげで生きている、だよ。歯が浮くようなきれいごと言いやがって。きっしょ。」

「お前に何がわかんだよ?同じような孤独のなかで生きてきたんか?奴隷のような人生を我慢して生きてきたことあんのか?お前は俺より苦労してんのか?そっちこそ、俺を分かった気になって偉そうなこと言ってじゃねーよ」

と返してきた。

今振り返ると、結局その指摘は、痛いところをついていたように思う。

私は独りで生きている気でいた。独りよがりだった。

それは、切り捨てられる痛みが怖くて、私はひとを心から遠ざけたから。

つまり、積極的に周囲の人々を遠ざけ孤独になろうとしたのは、私だった。

私が、孤独であろうと選択したから、私はあたりまえに独りになっていった。それなのに、「みんな俺を見捨ててひとりにするくせに…」と恨み言を言っていたように思う。

本当はさびしかった。分かり合えないことの痛みを恐れ、疲れ果てて、身を固くして怯えていたのだと思う。

 

変わるべきは、私のほうだった。

変えられるものは、私の行動だけだったのだから。

「私が変われば世界が変わる?んなわけねーだろ、ラリってんのか?」と思っていたけど(随分と不遜で恥ずかしい限りだが)、本当に私の行動を変える事だけが、私が知覚する世界の在り方を変える唯一の方法だったんだな、と思う。

 

世の中を、できるだけ感じるままに感じること。

それを自分の内的な世界観に限りなく忠実に反映しようと努力すること。

それが「誠実に世界と向き合う」ということの具体的な行動。

外界との境界線で生じる化学反応から、自分の境界線を知り、自分を形づくっている輪郭を感じる。

その試行錯誤の繰り返しによって、「私」が創りあげられているのだ。

だから、私は独りでは成り立たず、世界がそこにあり、尊敬すべき仲間と交流できるチャンスをもらっているから、「私が在ることができる」のだということだ。

私が在るために必要不可欠なものが、私には『変えられないもの』であるということは、恐怖だったし受け入れ難かった。生きていけないかもしれない、というリスクの大きさに足がすくむ思いだった。それは『変えられないもの』をコントロールしようとしているからだった。

「気に入られなければならない」

「尊敬されなければならない」

「恐れられなければならない」

「力を示さなければならない」

そういう「我執」を育ててきたのだ。

でも、そもそも。世界は私がいてもいなくてもそうで元々である。

私が否定しようと何しようと、厳然たる事実として、そういうふうに脈々と命を繋いて世界ができているのだから、もうどうしようもないことだ。「己を超えた大きな力」が、世界を動かしている。

それに、そのどうしようもない力のおかげで私は『変えられるもの』=「自分の行動」を変え続けることができるし、変えられるものを変えていく勇気を与えられている。

だから、委ねるべきをゆだねて、諦めずに前を向いて生きていくことができる。

 

今朝早く、犬の散歩をしていると、道端に一匹の蝉を見つけた。

道路のど真ん中で幼虫から成虫になろうと、ゆっくりと着実に羽を伸ばそうとしていた。

「何故よりにもよって道路で…」と一瞬憐れんで、「あ、これだ」と思って恥じた。

また分かったような気になっているなと思った。

この蝉は、私のようだと思った。

木で羽化すればよいものを、道路のど真ん中でやり始めてしまうし、効率よく羽化して優雅に飛び立つなんてできないで、地面で頑張っている姿は、不器用な私のようだと思う。

どんな未来が待っているかは、わからない。

私がこんなに巧く生きられないことが、他の不器用な仲間たちの力になる日が来れば、夢のようだな、と思う。

そういう嬉しい気持ちは、夏らしく爽やかで、とても好きだ。

【依存症】なぜ現代人は同僚にイネイブリングしがちなのか?

ある依存症者に、親切で気前がいい友人がいるとします。

 

飲み代が足りなければ貸してあげたり、一緒に飲んでおごってあげます。

酔いつぶれると介抱したり、タクシーで家まで送ってあげます。

「どうしてそんなに飲むんだ」と心配し、酒の席で悩みを聞いてあげます。

 

この友人は、イネイブラーです。

お金を与え、一緒に飲み、飲む理由に理解を示し、面倒を見てあげることで、依存症者が飲むことを可能にしているのです。

出典:ASKアルコール通信講座<基礎クラス>第3回テキスト「イネイブリング」とはなにか?P1より引用

 

私は、この光景に見覚えがある。

というか、社会に出てからというもの、この光景にしか遭遇したことがないほどだ。

酒癖の悪い同僚、ついつい飲み過ぎてしまうダメな後輩。

よく観察していると、そんな人に群がっている上記の引用のような「イネイブラー」を簡単に見つけることができるだろう。

彼らは、最初に親切で気前のいい友人のように近づいておきながら、問題が手に負えないことが明るみになると、途端に手のひらを返したように冷たくなる。

「せっかく俺が目をかけてやったのに」とか「甘やかしてたらつけあがりやがって」などと体のいい口上を並べながら、自分はいかにも被害者だと言わんばかりに周囲にアピールする。

私は数えきれないほど、こういう目に遭ってきた。

この日本社会は、そういう事例で満ち満ちている。

 

私の周りのイネイブラー

会社に勤めているあなたの周りでも起こっているのではないだろうか。

私の経験から共通しているのは、どれだけ優しく聞こえる言葉をかけてくれていたとしても、私が酒を飲む限り、最終的にはみんな離れたがり敵になる、ということだ。

どれだけ当時の私にとって耳障りのいい言葉をかけていて、理解しているふうだったとしても、それは今振り返れば優しさではなかった。

彼らの本心を代弁するならば「私が飲んでバカをやっている姿を酒の肴に楽しみたいから」一緒にいるのだった。

まるでピエロだ。

飲み屋で悩みを聞いてくれる先輩や同僚。

「この人たちならわかってくれる」と飲み方も距離感も勘違いした私。

「もう酒はこりごりだから飲まないようにしようと思う」と話すと、「ちょっとくらいなら飲み過ぎることもあるよ」「俺も若い頃はいろいろ失敗したもんだ」などと引き留めてくれる。実に心優しい仲間たちに思えた。

そんな彼らと何度も酒を飲んでは、ひどい失敗を繰り返した。

彼らは、酒を飲んで狂っている私の姿を「おもしろい」と見続ける観客ではあり続けたいものの、当事者として面倒ごとに巻き込まれたいわけではない。

だから、私がなにかマズいことをしでかして、面倒ごとが巻き込まれそうになると途端に『突き放す』。「私は関係ない、お前が勝手に飲んだんだ、飲むなとあれほど言ったのに」とさも自分は止めたというふうなことを言って、白い目で私を見る。会社の組織内では厳罰を食らわせて、「何度注意してもダメなあいつに、俺が一発凹ませてやった」などと周りに吹聴して誤魔化す。

それが、いつものパターン。

これらの出来事のどこに優しいと感じられるポイントがあったのか、今振り返ると全くわからない。

ただただ、私はとにかく、当時さびしかった。生きることがとてもつらかった。生きることをつらくなくしてくれる酒がなくては、とても働けなかった。とても、生きてはいられなかった。

酒を飲むことを肯定してほしかった。私には必要不可欠なものだと思っていたから。だから、都合よく、私はそれらを口先でも肯定してくれる人たちを「いいひとたち」だと思ったのだろう。

 

もちろん、酒を飲んだのは、私だ。

私は、私の行動に責任がある。

これは明白だ。

そして、それを誤魔化す気もない。

私は、彼らの言葉に寄りかかり、言い訳にして飲んだだけだ。

本当は彼らと心を通わせかったわけではなかった。エチルアルコールが飲めれば何でもよかった。どんなことも理由にして飲んだ。そういう病気だ。

しかし、酒をやめたいという言葉をもらした私に「イネイブリング」をするということもまた、知らなかったでは済まされない、重大な責任があることも確かだ。

 

最も重要なことは、イネイブラーである人は、間違っている人・性格が悪い人、というわけでは決してない、ということだ。

私は、彼らの人格を否定するようなことは全くしたくないし、するつもりもない。

私も彼らも、当時はそれぞれに一生懸命に考え、互いに生を遂行していただけだ。

その実、誰にも罪など無い。飲んでしまった人も、飲むことを可能にしてしまった人も。

おそらく出発点は誰もが、愛情や抱えている寂しさなのだ。

全ては、「依存症」という私の、そして彼らの病気の症状でしかなく、「依存症という病気に対してどう対応していくか」ということについて学ばなくてはならない。それが、本当に相手を愛するということに繋がる。

 

「イネイブリング」とは?

中学英語で「be able to」で「~できる」と習ったのが、実に懐かしい。

 

enableとは、<誰か>が<何か>するのを可能に(able)する、という言葉だ。

つまり「イネイブリング」とは、誰かに何かを可能にすること、ということになる。

アルコール依存症においては、以下のように定義されている。

○イネイブリング(enabling)

=「アルコール依存症者が飲み続けるのを可能にする(周囲の人の)行為」

○イネイブラー(enabler)

=「アルコール依存症者が飲み続けるのを可能にする(周囲の)人」

出典:ASKアルコール通信講座<基礎クラス>第3回テキスト「イネイブリング」とはなにか?P1より引用

 

おそらく、本心では、こんなことだれもしたくない。

飲み続けることを可能にしようなんて思っていない。

『だらしない夫じゃなくて依存症でした』(著者: 三森みさの第6話を読むと、よくわかる。

以下、数コマを抜粋して紹介したい。

 

イネイブリングしている本人も苦しい。

こんなことするつもりじゃない、という気持ちに何度もなる。

でもやめられない。

これは、「共依存」という状態だ。

アルコール依存症と付き合うなかで、別の依存状態に陥ってしまっている。

『相手をコントロールする』ことに目を奪われて、自分の人生を生きることができなくなる。そういう病的な状態である。

 

○イネイブラーにならないためには

◎自分が楽になる方法を考えよう

◎相手の責任まで背負い込むことはない。

◎いやいや酒を与えるのはやめよう。

◎自分の気持ちをすなおに表現しよう。

出典:ASKアルコール通信講座<基礎クラス>第3回テキスト「イネイブリング」とはなにか?P9より引用

 

「相手のためだから」という隠れ蓑を脱ぎ捨てて、自分の人生を第一に考えよう。

周りの人がイネイブリングをやめる目的は2つで、「疲れ切った貴方が楽になるため」であり、その次にくるのが「依存症者が回復するチャンスをつくるため」だ。

 

「失敗できない」競争社会の生きづらさ

なぜ、会社の同僚の酒の問題について「世話焼き」をしたり、「コントロール」しようとしたりしてしまうのだろうか。

私はここに、日本における競争社会で「負けられない」「失敗できない」というプレッシャーに押しつぶされそうな、かつての私を見る。

私のように、自分の人生に向き合うことを恐れ、人は他人の人生に逃避する。

 

ボクシング漫画の名作『はじめの一歩』の44巻に登場するヒールである、ブライアン・ホーク。

即、命のやり取りになるニューヨークのスラム街でストリートファイトに明け暮れ、その類い稀な才能だけで、WBC世界J・ミドル級チャンピオンになった男。

その来歴のとおり「負けられない」世界のおきてで生きてきた彼の言葉は、日本で働くあらゆるひとに染み込んでいる、ある事実を示している。

 

何があろうと どんな手使おうと 最後の最後立ってるヤツがーーーー

強えんだよっ!!

 

いいよ やらなきゃいけないコトはわかってるよ

オレが今まで何をしても何を言っても それが通った 誰もが黙った

何故だ!? 負けたコトがないからさ! チャンピオンだからさ!!

負ければオレの言うコトなんざ 誰一人 耳を傾けやしねぇ

みんながソッポ向いちまう

嫌だ・・・・嫌だ 嫌だ 嫌だ!!

出典:『はじめの一歩』(44巻) (講談社コミックス)より引用 

 

この日本社会は、失敗することに対して不寛容である。

他人に負け競争から脱落することは、死を意味するとみんなが『思い込み』、上記のブライアン・ホークのように内心恐怖におびえながら暮らしている。

だから、失敗した人をみると、舌なめずりをする。

「こいつは自分より下だ」と思える人物の登場は、相対的に自分の評価を上げることができる格好の材料だ。『美味しい相手』だ。

アルコールで失敗するような「負け犬」は、上手におだてて飲ませておいて、その人のぐちゃぐちゃになっていく人生を見ている間だけは「オレはこいつよりはマシだ」とホッとすることができる。パワーゲームの勝者の立ち位置でいられる。そうでなくては安心できないから、イネイブリングして飲むことを可能にする必要がある。だってその人が立ち直ってしまったら、下にみる人がいなくなってしまうから。

ダメな他人の人生にあれこれ口出ししている限りにおいては、自分が勝ち負けで比較される人生の苦しさを少しだけ忘れることができる。そう錯覚している。

あるいは、ダメなひとを形上は『救う』役割を買って出ている。なぜかといえば、そうすれば自分のダメな部分が許される気がするから。自分の至らなさ・失敗・敗北感。似たものをもつもっとダメなやつを見つけてきて、そいつを許してやれば、自分の醜さもなかったことにすることができる。そんなような気になっているのではないか。そういう偽りの安らぎを得るために、他人の問題を『なかったことにする』ことに一生懸命になっている。

 

そうやって目を逸らし続けているのだ。

誰もかれもが、そうやって自分にみて見ぬふりをして生きている。

だからいつまでもイネイブリングをやめられない。

苦しみはいつまでも根本的に解決されずにとどまり続ける。

 

まとめ:イネイブリングしても、恐れを「なかったこと」にはできない

我々が、共通してなかったことにしたいのは、「恐れ」である。

失敗できない恐れ。

負けられない恐れ。

ダメだと思われたくない。

死にたくない。

そういう「恐れ」は、目を背ければ背けるほど、背後で大きく肥大していく。

黒く重くのしかかるそれは、見ない振りができないほど肥大化して、いずれ自分に返ってくる。

他人をだしにつかって誤魔化している場合ではない。私たちは、向き合わなくてはならない。自分の人生に、自分の真の課題に。

それが大事なことだ。

気づいた今、我々がやるべきは、他人の人生にちょっかいを出すのをやめ、「突き放す」のではなく「手放す」ことに努めることだ、と思う。

 

 

 

【依存症】アフターコロナの世界、自助グループの新しい在り方とは?(リアル自助vsオンライン自助)

新型コロナウイルスにより一変した私たちの日常。厚労省から発出された「新しい生活様式」の実践例が『新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言(5/4 厚生労働省HP)』に記載され、各業界が試行錯誤しながら新しい在り方を実現しようと四苦八苦している。

感染防止の3つの基本として掲げられているのが、①身体的距離の確保、②マスクの着用、③手洗いである。

これからは常に直接的な接触を避けて生活することが求められる。

人と人との繋がりの在り方は少しずつ変わっていくのだろう。

依存症者の回復プログラムとして欠かせない「自助グループ」の在り方も、この社会情勢に対応するべく変化しつつある。

 

「自助グループ」とは?

自助グループとは、同じ問題を抱える人やその人を大切に思う家族らが自主的に集まり、似たような立場や経験を持つの多くの仲間と出会い、交流しつつ、助け合える場所です。グループメンバーと体験談、想い、情報、知識などをわかちあうことで、気づき、癒し、希望や問題解決へのヒントなどを得る人が多くいます。

自助グループの始まりは、1935年の米国でアルコール依存症に悩む人々自らが結成したアルコホーリックス・アノニマス(AA)です。原則的に当事者以外の専門家らの手に運営を委ねない独立したグループであることが特徴です。依存症からの回復を目指す過程で、ありのままの自分が受け入れられる居場所を見つけたい方、回復の道のりで迷ったり、疲れ果てた方、アルコール・薬物・ギャンブルなどを必要としない新しい生き方を、似た境遇の仲間と助け合いながら創り出していきたい方、など多くの方が活用しています。自助グループへの参加は、医療機関での治療と並行して行うことも可能です。

出所:依存症対策全国センターHP「自助グループとは」より引用

 

同じ悩みを持つ人々が主体的に集まり、お互いの経験を共有しあうことで、助け合い回復を目指している。

心の安全が守られる場所として、依存症からの回復のよりどころとなっていて、無くてはならない社会資源である。

私自身、断酒会を経て現在はAA(アルコホーリク・アノニマス)に所属していて、アルコール依存症当事者として自助グループにお世話になっている。

同時にAC(アダルトチルドレン )でもあり、ACA愛媛グループの管理者を担っている。

参加者側・運営側の両側面で自助グループに関わるチャンスをいただいていて、ありがたいことである。

2020年3月にコクラン共同計画により発表された約1万人・35件の研究をメタ解析したデータによれば、AA(アルコホーリクス・アノニマス)は認知行動療法や動機付け強化療法よりも効果があると結論付けられており、その効果は、心理療法を含む他の治療よりも、最大で60%程度効果が高い可能性があるとされている。※1

 

現在、さまざまな悩みに対応した自助グループがある。

アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症、買い物・浪費・借金依存、性依存、恋愛依存、感情・情緒の問題、共依存、AC、ゲーム依存、ひきこもり、トラウマ、対人恐怖など、医学的に依存症という疾患として扱われている問題に加えて、様々な生きづらさに対応している。

 

★参考文献

1、『Alcoholics Anonymous and other 12‐step programs for alcohol use disorder(Cochrane Systematic Review – Intervention Version published: 11 March 2020)John F Kelly,Keith Humphreys,Marica Ferri』

2、特定非営利活動法人アスク「自助グループ_一覧」

 

コロナ禍で生まれた「オンライン自助」という新しい在り方

そんな社会的にも医学的にも重要な自助グループだが、コロナ真っ只中では、3密になることから全国で開催が中止されてしまった。

回復のための重要な、自助グループというかけがえのない居場所を奪われた当事者たちは、当時本当に苦しんだ。

未知の脅威にさらされてストレスがかかる当時だったからこそ必要である自助グループを機能させようと生み出されたのが、「オンライン自助グループ」である。

たとえば、コロナになる前から機能していたオンライン自助グループとしては、『三森自助グループの森』がある。※4

コミュニケーションアプリ『LINE』を用いていて、主宰の三森みさ氏(@mimorimisa)を中心として実際の自助グループを経験したことのあるメンバーを監修に招き独自のシステムを構築している。

私自身もリアル自助グループ経験者であることを買われて創設メンバーとして呼んでいただき、発足当初より運営に携わっている。

 

その他のオンライン自助グループについては『とどけるプロジェクト』の一環として、アドボケーターでジャーナリストのKarma氏(@k6rm6_2)がまとめてくれている。

非営利活動法人アスクの「ASK依存症予防教育アドバイザー」による自主活動『依存症チャットルームA.D.N.G.』などが代表的である。すでにわかりやすくまとめてWEB上で発信されているので、以下の参照リンクをご覧いただきたい。※1,2,3

 

★関連・参考リンク

1、とどけるプロジェクト「依存症等の当事者または家族向け、オンライン自助グループの開催情報」監修:松本俊彦(国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所、国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター病院 精神科)、ライター:karma、編集:向井愛

2、とどけるプロジェクト「依存症等の当事者によるオンライン自助グループ運営ガイド」監修:三森みさ(依存症予防教育アドバイザー、三森自助グループの森 主宰)、松本俊彦(国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所、国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター病院 精神科)、ライター:karma、編集:向井愛

3、特定非営利活動法人アスク「コロナに負けない!オンラインで自助グループにつなぐ、依存症チャットルームA.D.N.G.開始【ASK依存症予防教育アドバイザーによる自主活動】」

4、MimoriMisa ART Graphics「三森自助グループの森について」三森みさ(依存症予防教育アドバイザー、三森自助グループの森 主宰)

 

リアル自助とオンライン自助のメリット・デメリット

私は両方のタイプの自助グループに携わってみて、それぞれによさがあると感じている。

 

 

一覧にまとめると、上記の図のようになる。文章でまとめると、以下のとおりである。

 

□リアル自助のメリット

・五感を使って分かち合いができる。

・時間と空間を共有することで、集中して分かち合いができる。

・分かち合いのスピードがオンライン自助よりも早い傾向がある。

・運営側の負担が少ない。(体系化され、年功序列など集団心理が働くため収拾がつきやすい)

・ネットの知識がなくても足を運べばだれでも参加できる。

・依存症や抱えている問題についてカテゴリがはっきりしている。

 

■リアル自助のデメリット

・地域・時間が限定されるため、予定が合わないと参加できない。

・移動手段がないメンバーの交通手配が必要。

・会場に行くことへの抵抗感からネットに比べて参加しづらい。

・気楽に転籍・脱退ができない。(よいことでもあるが)

・簡単には、時間や場所を変更できない。

・クロスアディクトの場合、それぞれの自助に行く必要がある。(時間的・空間的制約が増す)

 

◇オンライン自助のメリット

・エリアを限定せず、様々な地域の人と分かち合いができる。

・時間的・地理的に足を運ぶことができない当事者や、子育てなど家庭の事情で参加が難しい当事者が、早期に自助に繋がることができる。

・ネット環境があればだれでも気軽に参加できる。(参加に対する抵抗が少ない。)

・匿名性が高く、人目を気にせず分かち合いができる。(カメラをオフにできる、文字だけで顔が見えないメリット)

・若い世代にアウトリーチすることができる。

・開催時間をフレキシブルに変えられるので、様々な層の人に参加してもらえるように調整できる。

・自助によっては広く問題を取り扱うため、1つのグループに所属していれば様々な悩みを分かち合うことができる。

 

◆オンライン自助のデメリット

・LINEの場合、文字だけだと誤解が生まれやすい。

・LINEの場合、ある程度の文章力が必要。

・顔が見えないため微細な感情が伝わりにくい。

・制約がなく繋がりやすいからこそ時間にルーズになりがち。

・運営側の負担が大きくマンパワーが必要になる。

・運営に際してルール化が必要になる。

・年配の方やネットに詳しくないメンバーが技術的な問題で参加しにくい。

 

 

リアル自助は「参加者の充実感・組織としての安定性」という良さが浮き彫りになった。

オンライン自助は「参加しやすい手軽さ・企画の多様性」が特徴になるだろう。

どちらにも替えられない良さがあり、今後はこの2つをハイブリッド型で活かしていくことが理想的だと思う。どちらが優れているとか、劣っているとか、そういう比較に終始するのは実にもったいない。

せっかく生まれた新しい在り方にダイバーシティ&インクルージョンの精神で親和的に接していく度量の大きさが、特に支援する側には必要ではないかと感じている。

 

まとめ:恐れず、時代に合わせた在り方を歓迎しよう

テレビ業界や紙媒体でのメディアは、日本においては能や歌舞伎と同様に、伝統芸能の領域にシフトしつつあると感じている。

テレビや本に対して「古い」という意味で忌避しているわけでは決してなく、伝統芸能にはそれらしい良さと在り方があるように思う。

今の若い世代は、オンラインで友達とやり取りし、コンテンツをYoutubeで摂取して、異なった価値観をもって大きくなってくる。

今までのように講演会を開いて聴講しに来てもらうより、スマホでオンライン配信している講演のほうが彼らの目に触れやすく、受け容れられやすい時代が、もうすでに来ている。

そうした時代に、依存症について情報発信したり、社会資源としての自助グループによりアクセスしやすい状態を実現したりするためには、やはり「オンライン自助」という在り方を今もこれからもどんどん進化させていくことが重要だと思う。

どちらかである必要はない。私たちアディクトの在り方がそれぞれの「ありのまま」でいいように、自助グループの在り方も「こうあるべき」に縛られて衰退することがないように、支援していきたいと思う。

【依存症】神を信じない人のための「ハイヤー・パワー」

私は神様は信じていない。

無神論者である。

神様がいるなら、もっと世の中は幸せに満ちているだろうと思う。「むかし祈ったって助けてくれなかったじゃんサボんな」というのが本音だ。

しかし、私は12ステッププログラムを進めていくうえでどうしても「神」について考えなくてはならなくなり、ことに「ハイヤー・パワー」については、「はあ??んなもんあるわけねぇだろーが。」という気持ちをどうしても抑えられずにいた。

神がいるとしてこの世を創ったとしたら仕事が甘すぎる。もう少しマシなものにできただろと思う。それはいまでも結構変わらない。

しかし、昨日受けた講義で、ハイヤー・パワーというものの正体に少し近づけた気がする。

本当にこの『プログラム・フォー・ユー勉強会』はわかりやすくて丁寧で、12ステップ・プログラムに取り組んでいるひとにとってとても有意義な講義だ。時間が許すならぜひ参加してみてほしい。

 

回復のベクトルと中心にあるもの

人生はどのようにして構成されているか。

人の構成物質は「酸素65%、炭素18%、水素10%、窒素3%、カルシウム1.5%、リン1%、その他1.5%」だが、それに加えて魂があると考えるのが、霊的な考え方である。

そして、人というものの在り方は、『独りでは生きていけない』という特性がある。

私は長い間独りで生きていると思っていたが、それは大きな勘違いで、社会的な生物である人間はそれぞれ役割分担をして、完璧でないお互いを補いながら、生活を続けることができている。

つまり、『お互い助け合う』ということなくして生きてはいけないので、欲とは別に、人間は『善行を積む』という一定の方向性、つまり『良心』が魂にプログラミングされているのではないか、と考えることができる。

人は、基本的に何かいいことをしよう、という風にできている。性善説である。

魂は、そういう意味では内的資源で、人である限り誰もが持っていると言える。

魂を、アメリカの人々は『創造主である神が与えたのではないか』と考えたのだろう。

そうすると、「内なる神」=「魂」なので、自分を超えた大きな力でありながら、自分のなかにすでにあるものであり、それは自分の力ではなくて、外部から与えられた『変えられないもの』として位置づけることができる。

私は神は信じないけれども、魂はあると信じることができる。

私が確かにこの身体を介して世界と接している本体。それは魂であり、私が好きな唯識思想でも人は意識で世界を創り出しているとしている。

「知覚すること」が、世界を「認識」させる。つまり、魂が世界との境界線を私に見せてくれていて、この目に映っている世界が構成されている。

思想が違えど、このなかにある魂について、ある一定のベクトルで己を導くプログラムが、人生のOS(オペレーティングシステム=システムを動作させるための基盤となるプログラムの総称)に組み込まれているととらえている。異なった宗教でもそのようにとらえるということは、生物的な在り方としてそれが妥当であり確からしいと考えられる。

だから、魂は全ての人の中心に在り、それこそが「回復の力」になるんだと思う。

だから、回復の力という原石は誰にでも確かに内に秘めているはずで、誰にでも回復できる可能性があるという希望でもある。

 

そのままの魂を隠すもの

しかし、厄介なことに、この魂を覆い隠すものがいる。

それが、欲や感情だ。

不安・恐れ・恨み・憎しみ・悲しみ・喜び・驕り。

相手よりうまくやってやろう。出し抜いてやろう。

人より得をしたい。みんなよりも優れていたい。

つまり、他人と比較すること。他人の反応に左右されること。

それに目を奪われだすと、魂の周りに重たくて剥がれにくいものがワサワサと纏わりついてくる。

本来純粋に感じていた、「ああしてみよう」「こうしてみよう」「こうしたらどうなるんだろう」というワクワクや好奇心を殺してしまう。

どんどん本来の感情が見えなくなり、正しさや勝ち負けに覆い隠されて行って、自分が何をしたかったのか、見えなくなる。

そう、魂が、見えなくなるのだ。

だから何をしても「なんか違うような…」という得体のしれないイライラと焦燥感に襲われる。与えられたものにも満足できなくなる。どんどん嫌いな自分になっていく。

 

最後の一節である。

最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。

「内なる神」を、「あなたにもともと与えられた魂」と置き換えると、しっくりくるのではないだろうか。

私たちは導かれるように、魂が目指す方向に向かって進んでいる。

その過程で、出来事に意味を持たせるのは私たち自身である。

「気持ちの問題」という言葉があまり好きではないが、これはある種真実で、どうとらえるか、どう受け取るかは、私たちは選択することができる、ということだ。

今ある状況を、あなたはどう感じるだろうか。

哀しいだろうか、うれしいだろうか。

こんなはずじゃなかったと嘆くだろうか。

予定通りだ、俺の実力だ、誰のおかげでもないと吠えるだろうか。

それらは、あなたが真心から感じている限り、魂で感じている限り、すべて正しい。

誰がなんと批判してこようと、正しい。

あなたの世界の感じ方は、あなただけが決めることができるからだ。誰にも否定できない。

感じ方は、自由でいい。そう思えば、自分の感情をジャッジしなくて済む。

「これは感じてはいけない」と蓋をせずに済む。

そういう素直さを取り戻していくと、少しずつ纏わりついていた余計なものを振り落として身軽になっていく。

生まれたばかりのころに感じていたはずのワクワクした気持ち、新鮮な驚きや喜びが蘇ってくる。

そのように、魂を見つけ、磨いてよりちゃんと見つめるために、12ステップ・プログラムという道具がある。

 

あなた以外の強い何かが、あなたの奥底には宿っている。

神はいないかもしれない。

というか、いないと思う。

でも、私たちは自分が知覚していることが全てだと思い込んでいるけれども、確実に生物として何かに設計されプログラムされている。

それが本能に加えて存在する、魂というOSであり、本能のみで生きる他の動物とちょっと違う、人間が人間たるゆえんではないだろうかと考える。

知的生命体という意味で知能が高いのではなくて、社会的な営みをMUSTとされた宿命があったからこそ、魂のベクトルが人に進化を促したのではないかと個人的には思っている。進化は「生物の遺伝的形質が世代を経る中で変化していく現象」ではあるけれど、あり方を変化させるほどに強い力が働いているのである。しかもそれは外的要因ではなく、主に内的エネルギーによるものだとすると、本当に生きているだけで素晴らしいことなんだなと思う。

宗教的には魂をつくるものは神だということで、この考え方とは真っ向から対立する。

キリスト教ではもちろん、イスラム教とも合わない。イスラム教は「進化」がハラーム(禁忌)に触れているとしてポケットモンスターすら許さないから、わたしなんかは尚更許されないだろう。

もし神がいて、魂を創ったとしたら、なかなかやるやん、と感心する。ちょっとは信じてやらんでもないかな、と思う。