アダルトチルドレン」カテゴリーアーカイブ

【AC】他人といるだけで疲れてしまう原因とは?

私は他人と一緒にいるだけ、しゃべるだけで、ヘトヘトに疲れる。

そんな人はいないだろうか?

なぜ私は人としゃべるだけで疲れるのか

それは、勝手に自分で自分を傷つけるからだ。

言葉や行動の裏を読もうとする自分の思考に殺されるので、ヘトヘトになる。

たとえば、職場で私が主幹になって進めているプロジェクトに関する作業を、私には連絡がなく進めている同僚がいたとする。

その場合、私の頭のなかには以下のような言葉が浮かんでくる。

上司「あいつは使えないから、他の奴に依頼しよ」

同僚「このくらい気づいておまえがやれよな、余計な仕事増やしやがってよ」

これらは実際に言われているわけではない。

私が勝手に「彼らはそう思っているのではないか」と想像しているだけ。

しかし私の頭はまことしやかに彼らが私を侮辱しているように認識する。

 

それはなぜだろうか。

私が「恐れ」を抱いているからである。

 

いじめられた痛み。嗤われた痛み。受け容れられなかった痛み。

私の心は「もうこれ以上同じ痛みを感じたくない」と痛みを恐れて絶叫する。

パニックを起こして防衛本能から、体験しうる痛みをリスクとしてすぐ想起する。

「傷つくくらいなら自分で自分をあらかじめ刺しておけ」と言わんばかりに、言われるシチュエーションを疑似体験する。いわば、勝手にまだ刺されてもいないのに自傷する。

 

もっと深いところでは、悪く思われるのではないか、嫌われるのではないか、ということを恐れている。

親の顔色を窺って、友達の反応を窺って、びくびくしながら過ごした幼少期。

「暗黙の了解」や「言いたいこと」を「言わなくても察する」。

これがADHD・ASD併存の私はとても苦手だった。

人間はそんなに勇敢ではないので、言葉にできない主張を態度や表情に滲ませる。

そうやって滲ませた主張を全く受け取ってもらえないと、今度は怒りを滲ませる。

そしてそれも汲んでもらえないとなると、怒り出す。

その一連の流れを汲み取れない私は、何度も周囲の人間が「なぜか突然怒り出す」という体験をしてきた。

それは恐ろしかった。

地雷が埋まっている一見問題なさそうな道をずっと進んでいるような感覚だった。

だから、一挙手一投足を観察してあれやこれやと「気分を損ねていないか」検索する癖がついている。

そして、滲ませた何かを拾えなかった結果怒り出した過去の人たちの亡霊が、私の脳内で「気分を損ねたパターンの発言」としてインストールされた。

生き抜くためのご機嫌取りの呪いにかかっている。

だから、他人といるだけで徐々に擦り減り、しんどくなる。

 

他人の本音はわからない

「本人に素直に聞けばいいじゃない」

たしかにそうだ、と聞いてみると、

「そんなつもりはないよ、ハハハ」と返されたとしよう。

それが嘘か本当か。

それは本人にしかわからない。

つまり、どう答えられたとしても他人である私に真実は分からない。

つまり、コントロールすることもできないし、確認することもできない領域、アンタッチャブルだ。

ならば、相手の心理と言動というのは、実は結局「自分がどう受け取るか」によって決定される。

私は今までインストールされた呪いによって「悪意」という本音が隠されている前提で受け取っている。

ならば「善意」が本音だという前提で受け取るように書き換えればいい。

真実はどうだかわからないが、私の現実は私が決められる、ということだ。

 

 

「他人の本音は善意だ」と捉える生存戦略

「深く考えない」という技術は、私にとってとても重要で、発達の特性上最も難しい。

しかし、幸せに人生を送るうえでとても重要な感性として「鈍感さ」があるように思う。

 

ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』をご存じだろうか。

主人公のチャーリイ・ゴードン。

知的障害を抱えており6歳児程度の知能しかない彼は、パン屋で地道に働きながら、障害者向け学習クラスに通っている優しい32歳だが、障害にコンプレックスを抱えていた。

ある時、学習クラスの担任アリスは、大学のつてでニーマー教授、ストラウス博士を彼に紹介する。2人は知能発達に関する研究者で、チャーリイを最新の脳手術の臨床試験にリクルートしようと考える。

脳手術の動物実験によって賢くなったハツカネズミ「アルジャーノン」に感動した彼は、脳手術を承諾。実験によって彼はみるみる頭が良くなり、後天的天才になる。

「もっと賢くなれば」、そのコンプレックスを解決できると思っていた彼は、まさに望んでいた現実を手に入れるのだが、それはいいことばかりではなかった、というお話。

 

チャーリイが、今まで優しいと思っていた周囲の人の笑顔は、知能が低い自分をバカにして嘲笑する笑顔だった、と気づくというエピソードはまさに象徴的。

深く考えず、純粋に他人のことを「いいひとたち」だと信じていたころのほうが、彼の世界は優しさにあふれた幸せな世界だった。

結局本作では「偽り」だったわけだが、現実では先に述べたように「本当のところは知り様がない」。

ブラックボックスの中身を「良いもの」か「悪いもの」か決めるとしたら、チャーリイのエピソードから考えると、「良いもの」と決めてしまったほうが、世界は愛すべきものになる。

 

自分をありのまま肯定すれば世界は裏返る

信仰といってもいいだろう。

相対している他人の性質は善か悪か。そのどちらを信じるか。

善だと信じる人と悪と信じる人の違いは、自分を肯定しているかどうかだ。

前提に自己肯定感があると、そんな「私」を他人が悪く思う可能性をまずはあまり考えない。

そして、自分で自分を肯定しているので、他人に肯定される必要がない。だから、もし悪意があったと分かっても「あなたの問題」「あなたはそうなんだね、私は私を好きだけど」と「例外」として自己評価から切り離すことができる。

前提に自己否定があると、自分を他人が悪く思うのは当然だと受け容れてしまう。

歪んだ自己評価を補強する「客観的事実」として受け取るので、傷つく。他人を、自分のなかの自分をさらに下げてくる外敵として認識する。その結果、恐れるし敵意を持つし恨みも抱く。

実は他人が嫌いなのではなく、自分が嫌いなのだ。

受け容れてくれない他人ではなく、自分を受け容れられない自分の問題。

 

私は空気が読めない。

他人の心情を想像するのが苦手だ。チャーリイが知的障害を抱えているのと同じに。

そんな自分を、欠点も含めて受け容れる。

誰しも、何かが欠けている。一人では生きていけない。だから社会がある。

「もっと空気を読めれば」

「もっと賢ければ」

それは自己否定だ。欠けているから自分なのに、それを必死に埋めようとして、結果的に世界を敵に回すのだ。本当はもっと世界に繋がりたくて、さびしいから、やっていたのに。

つまり、アプローチが根本的に間違っているということだ。

まずは、自分の至らないところ、良いところ、それをあるがままに、それで充分100点満点だと思おう。

私が私のままで愛すべき存在であるように、これを読んでくれている皆さんも、そのままで愛すべき価値がある存在だ。

それを実感として与えてくれる「母親」が、たまたま不在だっただけ。

よく、そんな大きな喪失を抱えて、ここまで生きてきた。

それだけで、その人生が、あなたを肯定している。

苦しくて寂しいけれど、できるだけそれを何とかしたいと思って、一生懸命生きてきた。

あなたがあなたとして生きてきた証が、あなたを愛すべき存在であると実証している。

 

自分で自分をいじめるのは、もうやめよう。

チャーリイが、アルジャーノンに花束を贈ったように、自分自身に花束を。

【AC】「子どもを産むのは親のエゴ」問題について

こんなツイートが流れてきた。

今回は「子どもは親に感謝すべき」という洗脳の間違いについて書いてみる。

 

子どもをつくったのは親の責任

「育ててもらった恩も忘れて」

「ここまで大きくなれたのは誰のおかげだ」

とは、 よく目にする親側のセリフである。

確かに親が働いて稼いだお金で、子どもはご飯を食べて育つ。

母の世話がなければ生きていけず、泣くことしかできない赤子の時期もあった。

 

しかし、産むと決断したのは親である。

産まないこともできた。しかし産んだ。

それは自分の人生の選択であり、働いて養わなければならないことも、毎日世話をしなくてはならないことも、容易に想像できたはずだ。

それでも産むことを選んだ。

「親のエゴ」というキーワードでTwitterでは拡散されていって物議をかもしているが、もっと近いニュアンスとしては「親の決断」だよなと思う。

決断には当然責任がともなう。ある行動を選択するということは、その行動がもたらす責任を負うことを委細承知したということだ。

産みたくて産んだのではなかったかもしれない。SEXで気持ちいいなということ以外はよく考えていなくて、たまたまできてしまって、そのとき中絶する金銭的な余裕がなかったかもしれない。あるいは避妊していたけれど授かったのかもしれない。

しかしSEXしなければ受精は起こらないので、SEXをするという選択をした時点で、親になる可能性を排除しない、という行動を選択している。

ということは、結局自分が選択した行動を経ているので、背景はどうあれ責任は発生する。

当時はそこまで考えていなかった、と言っても現実は変わらない。責任も無くならない。背負ってしまったなら、それはともに歩むしか選択肢がない。

 

責任は感謝とは関係がない

この人が言うことはもっともで、親に感謝するかどうかは、子どもが判断することである。

「感謝」という感情を生むのは、子どもの心であり、その心に感謝の気持ちが宿らないのは、親にはどうしようもない。

私は親になったが、子どもたちが私に感謝してくれるとは限らない。むしろ恨まれるかもしれないとさえ思っている。

なぜなら、この世は生き地獄だから。

特に現代社会などは、功利主義・合理主義・結果主義によって沈みつつある泥船である。いずれ大きなカタストロフが起きてすべてがひっくり返り大混乱になる。

とてつもない痛みと苦しみを味わう世代になるかもしれない。

 

いや、そんな時代でなくとも、生きることはとても苦しい。

努力は報われるとは限らない。個体差が冷酷に粛然と存在する、弱肉強食の世界。そのなかで生き延びなくてはならない。傷つくことや傷つけることを避けては通れない。

そんな空間に招待するのである。「おめでとう」と言いながら。

そんなことをされて、感謝するだろうか。

基本的には感謝しないのではないか、と私は思う。

なので、そんな地獄にわざわざ生み落としておいて、感謝を請求するというのは、はなはだ筋違いである。

親の責任を果たすのは、感謝をもらえるからなのか。そうではない。

責任を果たすのは、行動の当然の帰結であり、自分自身の問題である。

他人である子供に、自分が負った責任の一部を押し付けてはいけない。

 

なぜ感謝されたいと思うのか。

それは、自分の「所有物」として子供の存在を認識しているからだ。

自分が与えたものを返してくれるのが当たり前、なぜなら自分が満足を得るためのおもちゃだから。そんなふうに考えているから、感謝されないことに憤る。もらえるはずのご褒美をもらえなかった子供のように。

つまり、親がまだ精神的に子供なのである。

子どもを尊重すべき独立した別人格として見ていないので、自分の手足のような感覚で思い通りになると思っている。

その傲慢さが、子どもに呪いをかける。子どもは呪いに長きにわたって苦しむことになる。

感謝されるわけがない。

 

感謝されるのではなく感謝する

むしろ、感謝しなくてはならないのは、親のほうだ。

「母の無償の愛」などというが、無償の愛を受け取っているのは親のほうだと思う。

子どもはどんな親でも、自分の親を愛さずにはいられない。どんなに愛されていないと薄々感づいていても、どこかで自分のことを愛してくれるのではないかという希望を健気に手放さない。

虐待されていても、子供は親をかばう傾向がある。本当は愛してくれるのではないか、優しくしてくれるのではないか、抱き締めてくれるのではないか。そう切なる願いを込めて、小さい体で精一杯できる限りの愛情を示す。

自分の存在を全肯定してくれる存在。それが我が子という存在だと思う。

そんな得がたい思慕を捧げてくれる存在が、他にあるだろうか。およそ他人には期待できない貴重な体験を与えてくれる我が子。感謝するのはむしろ親のほうだといえる。

 

私は親になることが不安だった。

子どもが嫌いだったから。後になってそれは、私がまだ子供を生きられていなかったからだとわかった。

無邪気に笑って自由に素直に感情を表現することが許されている子供を見ると、我慢ならなかった。とてもイライラした。

それは、私がそんなふうに子供時代を過ごすことができなかったからだった。

アダルトチルドレンを自覚し、回復のために12ステップ・プログラムに取り組んでいくにつれ、その苛立ちはゆっくりと氷解していった。

私も本当は、キラキラと感じるままに笑って泣いて、親が定めたあるべき姿ではなくありのままの姿を肯定されていると感じながら、満ち足りた幼少期を生きたかったのだった。

『子供を生きれば大人になれる』とは、かの有名なクラウディア・ブラック先生の著書だが、大人になるためには、子どもをしっかり生きなくてはダメなのだというのは、よくわかる。

 

「親のエゴ」問題の真相と解決策

結局この「親のエゴ」問題の真因は、大人たちの未熟さだ。

親になった人が、まだ子どもをちゃんと生きていなくて大人になってもいないのに、親になってしまったというのが、問題の根本だろう。

もちろん、親も人間なので完璧ではないし、育てながら一緒に成長するものだ。それだけ、子どもたちは親に様々なギフトを与えてくれるという裏返しでもある。ここでも、親は子どもからもらいまくりだ。

完璧ではないにしろ、せめてもの最低ラインとして、親は子どもを生き切っていなくてはならないのだ。

今親として未熟な人間が親をし、感謝を取り立てているのは、本人の性質が悪だからではない。その前の親世代の課題を引き継がせられて、その人も苦しい幼少期を過ごしてきたのだと思う。私のように。

気の遠くなるような世代間連鎖のすえに、私たちは存在している。

社会では、我々は個として存在をジャッジされがちだが、そんな簡単な問題ではない。根深い、何代にも続く病が、今この瞬間に表面化しているだけだ。

つまり、社会の問題だ。この親が悪いとか、この親は良いとか、そういうのではなく、能力でランキングをつけたり経済的利益のために人格をそぎ落としたりしてきた社会そのものによる哀しい産物のひとつが「子どもに感謝を強要する親」だということだ。

親を怨むなとは言わない。しかし親もまた独立した別個の存在「他人」であり、その人の人生は本人にしかどうにもならない。そのことも、理解する必要がある。

 

私たちは生まれてしまった以上、生きていくしかない。

他人は変えられない。自分の行動・自分の認識しか、変えることはできない。

ならば、感謝を求めてくる親には「残念だけど無理なので、あとは自分のためにがんばってくださいね」と手を振って、自分の人生にしっかり焦点をあてて今この瞬間を生きていくしかない。

自分が世界に与えることができる愛に、力を注ぐ。

自分の感情を、良いも悪いもなく素直に受け取る勇気を持とう。

私たちのこれからは、私たちが選択していく。そしてそれは謙虚に素直に向き合っている限り、自分以外の何かの導きによって、必ずどこかに繋がっている。

良いことばかりではないだろう。でも、悪いことばかりでもないかもしれない。

その受け取り方を、私たちは決められる。

古代の哲学者エピクテトスも、唯一「自分の意志」だけは自由だ、といっている。

何をしようと決めるか、何を好きだと思うか、何を尊いと思うか、は、本人が決められる唯一の自由なのである。

何をするかを、他人に委ねていないだろうか。

他人にどう思われるかびくびくしながら、他人に嫌われないように行動を選択するというのは、その唯一の自由を他人に受け渡していることと同じだ。

会社の命令で嫌だけどお金のためにしかたなく人生の大半をつまらない作業で浪費する。

嫌われるのが怖いから、行きたくもない集まりに行く。

そういうことをやめること。そこから、親として生きる第一歩が始まる。

 

 

【共依存】仕事に逃げる男たち

男たちが仕事にこだわる理由。

それは結論から言えば「人生から逃げるため」である。

 

彼氏彼女の幻想の崩壊

男はジェンダーロールという呪いを背負っている。「強くなくてはならない」「社会で成功しなくてはならない」「仕事をして稼いでこなくてはならない」という洗脳を受けて大人になる。

これは戦前から連綿と続くアメリカでいうマッチョイムズである。日本では「家長」としての父親像から端を発する。戦後の核家族化・高度経済成長の流れのなかで、徐々に男性の役割が「家長」ではなく「大黒柱という名のATM化」に移行していくが、ジェンダーロールは今までの時代の流れから形成されている呪いである。

この呪いは根深い。

専業主夫という概念を若干見下す一定の世代の偏見は、こうした既存の価値観からきている。

「男は外で汗水たらして金を稼いでくるのが役割」だと刷り込まれている。

その価値観を引き継ぎ是とするままのこの現代社会で、若者が結婚する気になれるわけがない。

昨今の若者は、生まれてからずっと経済社会が悪くなるところしか見ていない。バブル崩壊後どんどん経済が低迷していき、ろくな景気対策もできない政治をする大人たちを見て育ってきた。経済が上向かない・よくなる未来が全く見えない今の日本で「金を稼いで家族を養う」なんてできないと絶望しているのである。

だから未婚率が高くなるのは必然だ。

 

結婚できたとしても、結婚生活がうまくいかない。

なぜなら「結局は自分が稼いでこなくてはならない」というプレッシャーを常に感じながら生活していて、仕事に重点を置かざるを得ない心理的呪縛が抜けないからだ。

結婚すると生活は一変する。

まるでナウシカのように、彼女は優しく自分をあるがまま受け容れてくれる存在だと、付き合っているときには勘違いしている。その認識のまま結婚する。結婚して妻になり子供が産まれた瞬間、彼女だったあの子はもういなくなる。完全に消滅する。

女性はその子の母になる。旦那の世話など二の次・三の次、いや果てしなく優先順位は下だ。

それは当然であり、男たちが勝手に勘違いして幻想を抱いていた彼女像が、そもそもの認識間違いである。

妻は、夫の母代わりではない。

独立した別の人格を持つ、尊厳ある一人の人間であり、共同生活を共に営む、いうなれば相棒・会社でいうところの共同経営者だ。

しかし男たちは、妻を、自分のことを一番に考えてくれて辛いときは慰めてくれて、欲しい承認欲求を与えてくれて、守るべき存在でありながら自分を包んでくれる存在だ、と思い込んで結婚している。

そんな風に妻のことをいつまでも自分だけの女神さまのように思ってきて、ある日「あれ?なんか思ってたのと違うな」となる。

子ども最優先になり、今までやってくれていたことはできなくなる。

妻はホルモンバランスが変わり、子ども最優先で行動するよう生体からプログラムされている。夫のことは、男性としてではなく子育てチームの一員としてみるようになる。ガラリと変わるその様は、男性にとって、まるで妻が別人になったかのように見える。

それは母として最適化するよう遺伝子にプログラムされていることなので、本人たちにもどうしようもない。

そして、夫が家事育児の領域で役に立たないと、妻はむちゃくちゃイライラする。そもそも寝不足で身体はガタガタなのでメンタルのコンディションは最悪だ。あらゆることが癪に障る時期なので、どうしようもない。役に立っていても基本的には存在しているだけでムカつく、そんな感じだ。

そうなると次第に夫は妻に、妻は夫に不満を持つようになる。

「付き合っていたときとは、変わっちゃったな」

「こんな人だとは思わなかった」

そもそも付き合っていたときに感じているときめきが一種の幻覚であり恋の「病」。異性に求めていることが根本的にマザコン的な依存である男性は、それをいつまでも叶えてくれるなんていうのがとんでもない幻覚妄想の類で、スタートから間違いなのだが、徐々に夢から醒めていく。

そしてある時期から「なんでこんな人と結婚したんだろ…これが望んだ結婚生活なのだろうか?」と夫婦ともにお互いが小首をかしげはじめる。

しかし、それを直視した先に、「離婚」あるいは「別居」という重いテーマに対峙しなくてはいけなくなることを、うすうす気づいている。

だからお互いに見て見ない振りをして、夫は仕事に逃げ、妻は子どもに逃げる。

その結果、2人のコミュニケーションは劇的に少なくなる。お互いに対する徐々に不満と怒りをため込む。ため込んだ不満と怒りは腐敗して、消しがたい恨みとなっていく。

そして両者の溝は決定的に埋めがたいほど深くなっていく。

 

仕事に逃げる男 子どもに逃げる女

両者の関係が険悪になるにつれ、一緒にいることが辛くなってくる。

ひとつ屋根の下共同生活を送ることそのものがストレッサーになり始める。

そうなると、男は仕事からなかなか帰ってこなくなる。

「家にいるより仕事をしていたほうが心理的ストレスがないから、朝早くても夜遅くても大丈夫です」

とは、最近新生児が生まれた後輩のMくんの発言だが、まさにこれだ。

そもそも二人でいることが辛いのに加えて、子どもは夜泣きするし、妻はいつも不機嫌だし、家庭にいる時間を針の筵のように感じているのだろう。

つまり、生きづらさの逃げ道として「仕事」を選ぶ。

社会的には仕事にまい進するのは肯定されているし、頑張って成果を出せば、組織内で評価してくれる。

条件付きではあるものの、かつて彼女に求めていた「俺を認めてほしい」「俺を褒めてほしい」という承認欲求を満たしてくれる体験を仕事に見出せるのではないか、と考える。

出発点として、自己肯定感とは、「自分が」「自分を」ありのままで存在を肯定できることなので、それがないから彼女に求めているところに、男性たちの闇がある。

結局は、他人の承認なくして自分の存在を価値あるものと認識できない男たちは、スタートからすでに共依存の病を抱えているのである。

しかしそんな概念をもちろん知りもしないし、自分が病んでいる自覚もないので、内省には至らない。

母として子を見るようになり自分を見てくれなくなった妻を逆恨みし、会社に足しげく通う。共依存相手を、妻(かつての彼女)から会社にシフトする。

だから、成果を出してもなかなか認めてもらえないと、望んでいるもの(承認欲求)を差し出さない会社を恨み、同僚と飲みに行って愚痴を言ったりするのである。

もっと評価されよう、もっと褒めてもらおう。よしよししてもらいたい一心で仕事を生活の中心に据えて、関係が悪くなり居心地の悪い家庭のこと、満たされない自分のことに向き合うことから逃げ続ける。

 

かたや妻のほうはといえば、逃げまくる夫に家事育児を押し付けられて、途方に暮れる。

かつて頼りにしていたカッコいい彼氏は消え失せて、独り。孤独感と閉塞感でいっぱいだ。

家から出られない。か弱い子どもの命を常に守らなくてはならない親の重責を抱えて、一時も休みがない。

そうなると、夫の環境に嫉妬する。夫は仕事とはいえ外に出ることができるし、独りの時間を持てる。自分には持てないものを享受していると、嫉妬する。

自分は我慢していることをさんざん日中やっているくせに、家に帰ってきても一向に戦力にならない夫に、怒りが蓄積されていく。

「あなたはいつもなんで何もやってくれないの?!」の裏には「私は苦しい、私を助けて」という本音が裏側にあるが、YOUメッセージ(主語に「あなたは」がくる)で伝えているので、夫は否定され責められているようにしか感じない。次第に聞いているのが辛くなり聞き流すようになる。ますます共依存で仕事に執着していくだけ。夫は妻のSOSに気づかない。

ある時期から、妻は悟りをひらく。

「ああ、こいつには何を期待しても無駄だ」

そう思って、期待するのを諦める。

夫は「最近小言を言われなくなったな」と内心ホッとする。実にアホである。なぜなら、この諦めは最後通告を無視し続けた末の完全なる決別の証であり、関係修復が絶望的になったことを意味するからだ。

この諦めの瞬間から、妻のなかでは夫はもう家族の一員ではなく「言葉をしゃべって飯を消費するATM」であり、人ではないのである。もはや期待しているのは稼ぎだけになる。

生きていても死んでいてもどうでもよくなった夫のことはさておいて、妻は子どもに失われた時間の対価を見出そうとする。

「子どもがより良い人生を送れるように」という大義名分を盾にして、結婚後の失われた人生、うまくいかなかった結婚生活から目を逸らすために、子どもに共依存していく。

母が子どもに過干渉・イネイブリングをするのはそのためである。

父親的な存在を彼氏に求めて結婚する女性もまた、自分そのものを肯定できていない。自分を愛し「君だけだ」と言ってくれる王子様に承認欲求を求める。

王子様だったはずの夫。恋焦がれた王子様は遠い幻影となり、使えない同居人になり、最終的にしゃべって食べるATMになる。

 

要するに、彼氏彼女はお互いに求めていたものを相手から得られなくなったので、向き合うことから逃げて他で承認欲求を補填しようとする、ということだ。

 

男女それぞれの共依存が生む弊害

まず男が仕事に依存すると、「プライオリティ(優先順位)の1番を仕事にすること」を他人にも強要するようになる。

「プライベートを言い訳にするのか」

「仕事ができて一人前」

という言葉で表面化するこの価値観の押し付けが発生する。

家庭から逃げてきた男たちにとって、会社こそが「家」であり、仕事仲間こそ「家族」だからだ。

だから会社(家)のために頑張り、家族(仕事仲間・上司)から褒めてもらおうと、必死で働く。会社(家)で存在価値を示すことが、唯一自分を肯定してくれることになってしまう。その一方で、心の奥底では、本当の家族をないがしろにしている後ろ暗さが常に背後にある。

恐れを抱いて震えながら、自分という存在の生き残りをかけて仕事でマウント合戦をやっている。それが仕事ばかりしている夫の真の姿である。

それで正しいんだと安心するためには、他人が同じでなくては困る。

今まで逃げ続けてきたこと、妻と向き合い家庭と向き合うことが仕事なんかよりよっぽど大切だった、ということに気づいてしまうと、今までのすべての自分が瓦解してしまう。

だから、自分を支えている世界観が壊れることを恐れて、他人にも自分と同じように生きよと強要するのである。

仕事よりも家庭を大事にしている同僚を目にすると、内心穏やかではない。

だから「あいつは仕事ができないダメなやつだ」とか「仕事をもっと真剣にやらないから出世できないんだ」とかレッテルを貼って下に見ることで、心の平穏を保とうと必死になる。

上から目線で見下すという態度は、自分ができなかったことをする人に恐怖している証拠である。

こうして、本当に大切なものを大切にしている人を迫害し始めるので、病んだ男たちにとっての歪な「会社」という家庭は地獄そのものになる。

 

妻はといえば、「子どものため」と言いながら、イネイブリングで子供を虐待する。

自分の生き直しとして手取り足取り教え、転ばぬ先の杖を用意し、子どもから「失敗の経験」という人生の宝を盗む。

自分の生きづらさを解消してくれる自分の所有物(おもちゃ)として子供にちょっかいを出しまくる。

そうして、子どもは「失敗の経験」を横取りされ、自分で自分の人生を決める権利を奪われ、アダルトチルドレンという生きづらさの呪いを背負わされる。

この幼少期の共依存的な関わりが「自分で挑戦して人生を生き成功も失敗も肯定する感覚」=自己肯定感をがっぽり子供から吸い取っていく。元から発生しないように阻害してしまうとでもいうべきか。

これがのちに成人すると、仕事に逃げる男、子どもに逃げる女、に変身する。

こうして、生きづらさは世代間連鎖する。

【メンタル】まともな人ほど心は病むよね(山田玲司)

 

この動画で山田玲司さんが話していることがむちゃくちゃ重要だったので、要点を書き起こして考察してみる。

 

ちゃんと感じることのできる「まともな人」が「メンヘラ」になる、

ちゃんと感じることのできる人なんじゃないのって俺は思ってる。メンヘラって。

だからこそキツいことになっちゃうよね、この文明社会では。

だから俺は近代病だと思ってる。文明病みたいな。

 

本当にそうだよな、と思う。

この世の中は基本的に狂っている。

この資本主義経済がベースにある社会では、なんでも市場価値に換算して相対的に比較するし、合理主義が神よりも信仰されているし、とにかく人間がクズになる。

没人格化して機械のように生きることが正解の世の中で、病まないはずがない。

今の社会に適応できている人こそ狂っている。

だから、今の社会で成功を掴んでいるとかいって称えられている人を素直に憧れるのはやめておいたほうがいい。

人間をやめた人を参考にしても、人間をやめることになるだけだからだ。

まだ人間をやめていないまっとうな人が、耐えきれずにメンヘラになる。

だから、メンヘラこそまともな人、というわけ。

 

スターウォーズ問題

 

「親の問題」っていうものを解決できるかどうかっていうことを、子どもは関係ないのに背負わされるわけ。これは、本人のせいではないわけ。親がダースベーダーだったかどうかだよ。

 

これはいわゆるAC(アダルト・チルドレン)の話だ。

日本の家はほぼ機能不全家庭だといっても過言ではない。

過干渉・共依存のオンパレードで、何かしら闇を抱えた親に育てられて、そのまま闇を繰り越すことを何代もやってきたのが、日本人だろう。

学歴がなくて出世できず苦労したから、やたらと高学歴にこだわる父親。

旦那がパッとしなくてタワマンカーストでマウントを取られたトラウマがあるから、やたらとハイスペックな男と娘を結婚させたがる母親。

もう日本中だいたいおかしなことになっている。

おかしいと自覚していないだけで。

親はそういうトラウマからくる「偏執性」を子供に背負わせる。

子どもは自分の分身である親を信じているし、無条件で愛してしまうので、最初にその「偏執性」をインストールしてしまう。

そして、自分の問題ではない問題を背負った呪いに苦しむ。

 

 

「君は努力が足りない」とか「暗いからダメなんだ」とか、そういう簡単な浅ーい認識で人間を評価してきた歴史があんだけど、もういい加減分かってきてるでしょって、この時代ならさ。

(中略)

これ(親やその前の代の影響がその人のフォーマットをつくっていること、それは本人のせいではないこと)をわかんないで本人のせいにしたり薬入れたりとかするから…

そんな簡単に治んないですよって話。

 

最近医療がアホらしいな、と思うのはココで、本人しか見ていないのに何がわかるのか?というところ。

エビデンスが、研究結果が、とかいうけど、同じ家族背景で対象患者をリクルートすることなどできない。ここに抱えている呪いは程度も種類も違う。

そんな精神を病んだってだけで十把ひとからげに集めてきて、この薬使ったら効きました!とか言ってるのを聞くと、本当かよ?と思う。

担当医がちゃんと診察の過程で、背負わなくていい自分の荷物を下ろすのを手伝ってくれたから回復したのかもしれない。

あるいは、他人との出会いで、自分に気づきを与えてもらって、捉え方が変わった結果、そんなに悩まなくて済む状態になったのかもしれない。

人生の長い長い期間で、ほんの一瞬、よくなったからと言って、本当に効果があったといえるだろうか。

精神領域の実臨床というのは、それこそオーダーメイドである。

他人がポッと現れてちょっと見て「とりあえず今こんな感じだからこの病気だよね」と勝手にレッテルを貼って薬だしときゃ治るなら、そもそも苦労しない。

それぞれの物語に自分自身が向き合っていく手助けくらいしか、他人にはできない。治すとか治さないではない。その人自身にしか、その人を変えることはできない。

そのあたりに簡単に介入できる、と思っている時点で疑わしいことこの上ない。

 

水槽(アクアリウム)問題

中にいる魚って、魚単体が病気になるんじゃなくて、水槽全体が病気をつくるんだよ。

魚単体の話をしてもしょうがないんだよ。これが、患者単体の話、心を病んでいる人単体の話にしてはいけないっていうやつ。

もう結局そこって環境じゃないですか?って話。

 

結局、この社会でそこそこ良い位置にいるような人間が、心を病んでいる人の健全な心をわかるはずがないのである。

この社会でそこそこ良い位置にいるということは、この行政官僚制のバトルロワイヤルで生き残ってきた、「勝ち組という狂人類」のカテゴリにいる人だからだ。

狂っている人に、狂っていない人の気持ちがわかるはずがない。

そんな狂人たちに支配されているこの社会は、もう完全に終わっている。

 

この国のな、なんで心を病むかっていったら、だいたい1%の勝者と99%の負け犬っていうシステムになってんの。

「野球やりたい!」っつったときに全員がイチローになれないの。「そういうふうになったら良いなと思ってました」っていうひとたちがほとんどの国なのこの国は。

だからそこで夢を語るとかいうのが、まずそこでちょっとおかしいんだよ。

 

誰かが富めば、誰かが貧しくなる。

他人の幸せは自分の不幸になるシステムになっている。

そんな救われないシステムのなかで夢を抱いて前に進めと言われたって、そんなの無理に決まってるじゃないの。

もう『カイジ』の利根川さんみたいな人ばっかりである。

勝たなきゃゴミだとか言われて、それが正論で、そんな世の中で生きていて楽しいわけがない。

 

学校という地獄

学校ってさ、異常なシステムだと思うんだよ。

家庭でスターウォーズやって、学校でバトルロワイヤルやって、もう戦争から戦争ですわ。そんな毎日を送って「学校行きたくない」って言うに決まってるべ。

 

学校というのは、地獄である。

いきなり年齢が同じだから、と箱にぶち込まれて、そのなかでバトルロワイヤルをやらされる。そういう空間である。

成績・ルックス・運動能力。

そういう薄っぺらい限られた価値観で相対的に互いを評価しあい、1%のリア充と99%の有象無象に分けられるトラウマを製造する。1%のエリートも、金という虚しい紙きれを追い求める悲しい怪物として使い倒せるように型にはめられていく。

まさに蟲毒である。

お互いを敵として、モノとして認識させ、コントロールしやすい歯車を生み出すための奴隷養成所。それが学校である。

そんなとこ、行きたくなるわけがない。

行きたくなくなるのが普通だ。行けているほうが狂っている。

だけど、不登校というと、なんだか道から外れたダメな子だとか言われる。

逆だ。

まともだから、不登校になるんだ。感性がまだ死んでいないから、しんどくなれるんだ。

だから、私は子どもに学校なんてどうしても行きたくないなら行かなくてもいいからね、と言っている。

 

学校ってなんで…話の下手なね、公務員のね、つまらない話をね、1日6時間も聞かなきゃいけないのっていう、この苦行。

俺の若い時代を返せと言いたい。だって時計しか見てなかったもん。「終わんないかなー」しか考えないでしょそんなもん。そうでしょ?

なんでで12時になったら嬉しいの?おかしくない?1日の半分が終わっちゃうのに。

つまんないからだよ!つまんないから!

くそみたいな授業受けるから、学問っていうのがつまんなくなっちゃって、「学校つまんない」=「学問つまんない」っていってしまった人たちのなんと多いことか。

 

一生懸命授業の準備してくれていたんだと思うんだけど、申し訳ないけど、先生という人種の話は基本的にとてもつまらない。

教師は社会にまともに出ずに教師になることが多い。

教育学部で実習して、そのまま学校に公務員として就職して、民間で働いた経験がないので、社会でいろいろな人と話をしていろんな人がいるんだなということに触れる機会もない。

ずっと「学校」という異常なシステムの箱庭のなかにいた人間が、社会を語ることそのものが困難だ。だから仕方がないと思う。

 

実際、社会で不条理や苦渋を味わってから古典哲学に触れて、ハマりまくっている。

学問はこんなに面白いのか、と思う。

私が学校でやっていたことは、狂った異常なシステムで表向き正しいとされているノウハウだとか、受験というゲームを攻略するために必要な暗記方法だとか、そんな些末な似非学問であって、学問じゃなかった。

学問とは、生きることのど真ん中にあり、それは「学校」で机に座っているだけでは絶対に教わることができないものだった。

なのに、人生の大半を机にかじりつき続けてきた人が学問を語る。

もはやコントである。

 

生き延びて逃げろ

今どうしたらいいかっていうと「逃げろ」「生き延びて逃げろ」ってこと。

今はまだわかんないんだよ、でもこの先には巨大なカタストロフ(壮大な破滅)が待ってますから。一気に壊れるからバーッていろんなことが。

そうするとまた「空き地(フロンティア)」できるから。っていうことの繰り返しなんで歴史って。

だから、そのときまで「なんとか生き永らえろ」って話なの。

 

早く破滅してほしいな、と思う。

世の中が全部完全に壊れて、今までの価値観なんて木っ端みじんになってほしい。

言っちゃ悪いけど、だんだんとみんな気づいてきていると思うけど、もうこの社会はもうダメなんだ。

今はまだ外向きのカタチを保ってはいるけど、中身がもうスッカラカンの張りぼて社会だ。

だからそんな社会に否定されたって、気にするな。

頭おかしなやつがなんか言ってんな、って聞き流しておけばいい。

学校に馴染めなくても、一向にかまわない。むしろそのほうがいい。

変に周りをキョロキョロみて怯えながら空気を読んで、合わせようとしなくていい。どんどんクズになっていくだけだから。

不登校でもいい。むしろ行きたくないと言えてお前は偉い!と言いたい。私は親に洗脳されていたので、行きたくないという本心を握り潰してしまった。私よりもみんなのほうが優秀だ。誇るべきことだ。

おそらく苦労はあるだろう。

学歴がないことで、金が稼げないことで、今は不遇の時期を過ごすかもしれない。

しかし、全てが終わったとき、メンヘラこそが世界を再構築できる救世主でもある。

それまで、ともに狂人の圧政から逃げて、生き永らえよう。

 

【AC】「被害者」として生きる『嗜癖』を手放す

こういうタイトルにすると、なんだか責められるような予感を感じる人がいるかもしれないが、そんなことはないので安心して読み進めてほしい。

それにこのブログの記事は私が私の人生において感じる話なので、誰かの何かを責めるために書いているのではない。

基本的にこのブログはそんな感じのスタンスである。

 

さて、私は「被害者」として生きているほうが、自分の生きづらさをみないためにはとても都合がいいので、いつも誰かを責めたり、誰かの粗探しをしていたように思う。

その結果、私は他人を自分を見ないための道具として扱っていて、だから他人と深く付き合えなかった。なので、友達ができなかったし、親友がいないのだ。他人に好意を持たれなかったのは、私が他人を道具扱いしていたからだと思う。

全部、他人がどうのこうのというより、自分の在り方の話だったのだ。今振り返ると、そう思う。

でも、それはしょうがなかったと言えばしょうがなかったんよ。

だから「同じようにやっちまってたなぁ…」と思う読者がいたとして、私は「私も同じように、やっちまった人間だから、わかるよウンウン」と言いたい。

ベストなのはそりゃ最初から他人にアサーティブに道具扱いせずに接することができるほうがいいさ。

でも、私はACとしての課題を抱えていて他人とまごころから接することなんてとてもじゃないけどできない状態だった。

理想なんてわかってても、できなかった。それは誰のせいでもない。

 

もちろん、親が未熟だったのでACとしての私が爆誕したわけで、割と親のせいで苦労したというのはある。

もっとありのままを尊重してくれて、私の感性を正論で否定しないでくれたなら、別の人生もあったかもしれないと思う。だからこそ、私のペンネームは「ちあき」という名前なのだ。「ちあき」にしようか、今の本名にしようか迷って、結局「ちあき」は取り下げられた候補だったそうだ。もしも「ちあき」だったなら…という人生の分水嶺的な意味で私は人生の面白味を感じて、この名前を名乗っている。いわば、ブログのなかの私は、もう一つの世界線の私でもある。

 

話がそれたが、私は親を長らく心のなかで責めてきたし、恨んできた。

今もそんなに仲良くする気はない。私の目の届かないところで早く死んでほしいと思っている。彼らの生き方はあまり変わらないようなので、それなら私はあまり関わらないことを選ぶ。それだけの話だ。

こういう正直な親に対する感情をうっかり何も知らない他人に話してしまうと、だいたい中年以降の人々だが、よってたかって私にクソバイスをする。

 

「まだ若いから。親の気持ちがいずれ分かるわよ」

「でも、見えないところで親の努力のおかげで育ってきたのよ」

「親は本当にすぐボケて会話できなくなるから、早めに和解したほうがいい」

「親がかわいそう、仲良くしてあげてよ」

 

うるせぇ。(笑)

親になり親の気持ちはなんとなくわかってきた。仕方なかった部分もあることも。

しかし、親がやってきたことをどう思うかは、子どもの私にしか決められないし、他人が否定するものではない。

ぶっちゃけ、子どもの私が「地獄のような家だった」と思うなら、それが真実なのだ。外見的にどれだけリッチで幸せそうだろうが、親の愛情が深かろうが。それは子供には関係ない。子どもがどう思うかは、子どもの権利だ。それを否定するのは、人権侵害である。

 

そして、親が子供を権利あるいっこの人間として尊重して育てるのは、当然のことだ。

「子どもの権利条約」 一般原則

・生命、生存及び発達に対する権利(命を守られ成長できること)

すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう、医療、教育、生活への支援などを受けることが保障されます。

・子どもの最善の利益(子どもにとって最もよいこと)

子どもに関することが決められ、行われる時は、「その子どもにとって最もよいことは何か」を第一に考えます。

・子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)

子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します。

・差別の禁止(差別のないこと)

すべての子どもは、子ども自身や親の人種や国籍、性、意見、障がい、経済状況などどんな理由でも差別されず、条約の定めるすべての権利が保障されます。

引用元:ユニセフHP>HOME>世界の子どもたちを知る > 子どもの権利条約

 

 

ユニセフの「子どもの権利条約」にもあるように、これらの権利は当然与えられるべきものだ。それが子供をつくった親たちの責務であり、社会の責務だ。

そんな責務を果たすのは当たり前なのに、子どもに対して恩着せがましく「育ててやった」みたいに言ってんじゃねーよ、と思う。

生んで育てたことを担保にして感謝と献身を引き出し搾取しようとするのは、詐欺みたいなもので、とても質が悪い。

子どもが仲良くしてくれないのは、そういう詐欺を親がいい年こいて今もなおやろうとするところが忌避されているだけだし、それに気づかないで死んだりボケたりするのは「ああ、理解が間に合わなかったね、どんまい」で終わりなのである。子どもにしりぬぐいをさせようとするのはお門違いである。

 

とまあ、ボロクソに書いたが、親側が勘違いしすぎな感がある。

子どもに「お父さん、お母さん、育ててくれてありがとう」と言われたい気持ちはわかる。

気持ちは分かるが、それを言わせるために洗脳したり抑圧したりするのは、

『子どもを道具に使っている』のだ。

 

ん??どっかで聞いたような。

 

そう、冒頭の話に帰ってくる。

「他人」を「自分を見ないための道具」に使っている。

 

それは、私そのものだ。この態度は、親から学んだものだったのだ。

親が私を「自分を見ないため道具」として使ったことをしっかり経験的に学んでいて、私は他人との関わり方をそのように徹底したのだ。なんて素直で勉強熱心な息子だろう。涙が出そうだ。(笑)

 

そうした何らかの目的のために特定の何かをやりがちな状態を「嗜癖にしている」という。

「嗜癖」とは英語で「addiction」ともいう。つまり「依存症」、有害な習慣を意味する。

 

親も結局、この他人を道具として扱うことをやめられないために、子どもとの関係が破綻したと言える。親の在り方次第だったのに、いまだに子供に対して親に歩み寄る努力を求めている。この不自然さ、不健全さがわかるだろう。

先の私にクソバイスを言う人々は、依存しているのだ。子どもに。

自分の問題をみないために、自分の心の穴を満たすために存在する道具扱いしている。それにまだ気づいていない。

むしろ親として正当なことだと思っている。だから子供はますます病むし、親に失望し心がだんだん離れていく。いつになったら気づくんだろうなぁ。否認を解くのはとても難しいんだな、と思う。

 

親は、親自身の課題に全集中するのがベストだ。

というか、親に限らず、人は全てそうだ。

自分自身の生きづらさや人生の課題について、プライオリティを第一において取り組んでいる限り、最も豊かな人生を送ることができる。

他人をコントロールしようとせずそのままを尊重し、全ては無理でも一定数を愛することができる。なぜなら他人は自分と同じ世界の一部だから。

 

最近、自分の人生を一番に生きるようになって、他人と少しずつ深く語ることができるようになってきたと思う。

例えば私が自殺しようとしていたこととか、アルコール依存症になった経緯とか、素直に率直に話す内容を受け止められる人は、同じく率直に自分自身を語ってくれる。

そうやって、他人はそれまで知らなかった辛いことや哀しいことを、なんとか乗り越えて生き延びてきたことを知る。

それは、私とは違う人生だけれども、懸ける思いは同じだったのだと。

得も言われぬ、人生への深い愛と真摯さが根底に流れていて、それで自分と他人は繋がっていたんだと気づく。独りではないと気づくというのは、そういう感覚だ。

 

この繋がっているという感覚。自己開示しなければ得られない繋がり。

繋がっているという実感がないからこそ、寂しくて独りぼっちで、何かに「嗜癖」していなければ生きていられないほど辛い。

しかし、拒絶されることが恐ろしいので、自己開示できないから、最終的に欲しいものをいつまでも手に入れられず(実感できず)に、苦しみ続けている。

 

それが、子どもを道具に使おうとした私の親と、他人を道具に使おうとした私自身の、真の姿だった。

 

その姿を隠すためには「被害者」である必要があった。

「私は悪くない」と他人に言い訳するための隠れ蓑が必要だったから。

全部、本当は自分のことしか考えていない。

そうやって「被害者」として独りぼっちで自分のことばかり守ろうとして、自分を自分に閉じ込めたまま生きているから、苦しい。

 

変えられないものを受け容れる落ち着き。

変えられるものは変えていく勇気。

それら二つのものを見分ける賢さ。

 

それらが与えられますように、と祈ろう。

そして、勇気を出して「被害者」として生きる嗜癖を手放そう。

その先に、本当に欲しかった繋がりがあり、真の安らぎがある。

それが、本当の意味で子どもを愛することに繋がる。

やらない手はない。

【AC】「上から目線だね」と言われるのはなぜ?

私はよくひとから「上から目線だね」と言われることがある

私は、よく顔に出る。態度にも出る。

そういう意味ではとても素直な性格をしていると思うけれど、他人からは「性格がねじ曲がっている」と言われる。

確かに言われるままを信じないという意味では、人々の言う「素直さ」はないのかもしれない。でも、私にとっては「他人の言うことは信用ならない」という信念に真っすぐなのであって、そういう意味ではある種の一途さがあるとは思わないか。

まあ思わないから「ありえないくらいにひん曲がっている」とまで表現されるんだろう。

 

ごく最近になって、そんな私が他人に対して「上から目線だな」と思うことがあった。

それは、あるイベントで私が開催しているものに参加してくれた人のこんな一言に対しておもったことだった。

「まあ、私としてはこのイベントに参加する意味があるとは思えなくなってきたんですけれど、みなさんの成長をここで見守っていきたいと考えているのです」

なかなかの高みから我々を見下ろしているご意見を頂戴した。

「そうですか」としか言いようがなかった。

私は「上から目線だな」と思う側の立場になって、ある法則を発見した。

 

上からだと思う=「君は下から見上げるのが当然」と思ってるから

それは、発言者に対して、聞き手が「お前は私より下だ」という前提の認識を持っているということだ。

「上から目線だ」と感じるのは、本来下にいるはずの人に下からではなく上から目線を送られたことに対して、自分の認識とは異なる相手の予想外の態度に対する違和感・怒りの感情が発生しているからである。

分かりやすく喩えるなら、自分は上司で相手は部下だと思っていたり、自分は先輩で相手は後輩だと認識している状態なのに、いきなりため口で説教を垂れてこられたような感覚である。

つまり「上から目線だな」と思うということは、言ってきた相手を自分より下に見ているということを意味している。

それこそ、上から目線ではないだろうか。

私は当該の発言をしてきた人を、今まで自分が悩んできたけれど解決に近づいている問題に今もなお悩んでいて、問題の本質に気づいていないのに、分かったつもりになっている、と思って下に見ていたように思う。

それが事実だったとしても、私はその人よりも問題の認識レベルが上にあるという傲慢な思い込みを自分のなかに発見して、少しショックだった。

 

本来人には上も下もないのに、上下関係をつくるのは、常に自分の「思い込み」だ。

そしてその思い込みは、己のなかの不安や恐れから生成されている。

「私は分かっている」「私は成長している」

そう思いたい。自信がないから他人と比べて安心したくなる。本当にそうであればそれは全く気にする必要が無いのだが。

不安や恐れは必要な感情である。

ネガティブな気持ちがあるおかげで、私たちは己を省みたり来るべきリスクを予想して備えることができる。それが行き過ぎると、強迫性障害や全般性不安障害になるが、全くなくても双極性障害の躁状態のようなもので、バランスを欠く。

大切なのは、誤魔化さないことである。

不安や恐れがある、ということを認める。認めて、傍らに置いておくことができる。

それが最も自然な状態だということ。

感情に反応する人ではなく、感情を認めて自ら行動する人であるということ。

不安や恐れが自分のなかに「ある」と謙虚に認識しているか否か、だが、この違いはとても大きい。そしてとても難しい。

 

Timing is everything; don’t jump the gun

とらわれないようにするには「この人との間に上下関係はなく、対等な関係なのだ」と自分の認識を正すことだ。

先の私の思い込みを例にとって言えば。

その人が「このイベントには意味がない」と思うことは、その人の権利であり自由だ。好きなようにそう思っていればよく、今後参加するかしないかも、私がどうこう言うものではない。必要だと思えば参加するのだろうし、不必要だと思えば離れていくのだろうし、意味がないと言いながらも足しげく通ってくるかもしれない。それは私にとってはどうでもよいことだ。

その人の人生は、その人が決めるからだ。そうでしかありえない。

私は私で、意味があるイベントにしたいという願いを形にするためにできる事をするだろうし、意味がある時間と空間を作り上げるためだったら、意見を求めたりもするだろう。

そうやってできたものをどう評価するかは、一切合切他人の領分なのであって、私は私が提供できる最良のものを準備するところまでしか、できることはないのである。

チャンスをどう受け取るかは他人の準備ができているかどうかにもかかっている。

啐啄同時というのか、わかるべきときはわたしにもあなたにも「与えられる」ものであって、遅いも早いもないのである。その人にとってベストなタイミングがある。

私が未だに知らないことは星の数ほどあり、私より頭がよく詳しい人は数えきれない。

そういう無数の英知から、私は日々学んで少しずつ「なりたい自分」になっていく。

そのような牛歩の歩みは人間であればだれでもそうで、特別なことは何もない、こと人生という営みにおいては。

だから、上から目線だと言われたときには「ああ、この人にとっては、私には至らない点があるんだな、それはどういう部分なのだろう」と思って耳を傾けてみる。

それが私にとってもそう思える内容なら改善のチャンスだし、的外れな思い込みなら「不安だから私を下に置いておきたいだけの人なんだな」と思ってスルーしておけばいい。

上から目線だな、と思って怒りの炎が心のなかでチリリとしたときには「ああ、今自分のなかには相手を下に見ている気持ちと、それを生む不安や恐れがあるんだな」と思って心に耳を澄ませてみる。

不安や恐れが見つかったなら、それを信頼できる人に打ち明けて聞いてもらえばいい。楽になるだろう。そして客観的にその思いが真実か思い込みかどうか、落ち着いて眺めてみることだ。冷静になれたあなたは、たいていが杞憂だと気づくはずだ。

こうやって書いているけれど、言うは易く行うは難し。実に難しい。

まだまだだな。

【AC】他人が嫌いだという話(ACと反応性愛着障害)

私は人間のくせに、人間が嫌いだ。

とにかく近くに人間がいると落ち着かない。気になる。

人がいる安心感?冗談ではない。警戒感しかない。

ソーシャルディスタンスの2mくらい離れていないと、不安で仕方がない。

だから人混みを歩くことは、サメが泳いでいる海を裸で泳いで渡っているような心地だ。

ジムや温泉に人が片手以上の人数いると、思わず「チッ」と舌打ちをしてしまう。

レクリエーションをしにきたのに、これじゃあ気が休まらないじゃないか、と思う。

いつか家にジムとサウナを導入したい。誰にも邪魔されない安心できる環境で楽しめる日を夢見ている。

人混みにいると落ち着くとかいう感覚が本当に信じられない。

他人とゲームしたり、何かをやったりするのが楽しい感覚も信じられない。

できれば、独りでいたい。

そんな人はいないだろうか。多分いると思う。

 

反応性愛着障害(RAD)

私は個人的には、愛着障害って基本的にアダルトチルドレンの医学的分類だと思っている。

DSM-5では、「トラウマとストレス関連障害」のなかに「反応性愛着障害(以下、RAD)」がある。

養育者との愛着(きずな)がうまく形成されないことによる障害で、深刻な虐待/ネグレクトがその背景にあるとされている。

アダルトチルドレンは、機能不全のある家庭システムに育ち、幼少期に不健全な人間関係を構築するパターンを学んでしまったために、そのパターンの制約に成人してからも苦しんでいる人々のこと。

こうやって並べてみてみると、虐待やネグレクトがどうこうという限定された背景というよりは、本質的に「家庭の何らかの機能不全により、他者との交流に困りごと(障害)を抱えている」という点が、全く同じということがわかる。

 

RADは一言でいうと「人が(怖い・嫌)。だから人を求めない」という状態である。

とても共感する。

物心がつく幼稚園くらいには「親は正しいことをしないと味方をしてくれない」と思って半ばあきらめていたし、特に笑うこともなかった。子どもも大人も含めて他人と関わることを避けはじめていた。

私の幼少期は、殴る蹴るのない虐待みたいなものだったのかもしれないが、それは外から見てもよくわからない精神的なものだったのだろう。

 

「人」と「人間」

そんなわけで、常にATフィールド全開の私だが、信頼できると思う人には心を開くこともある。

私にとって「人」と「人間」にはものすごい開きがある。

その辺に生きているのが「人間」という動物。

信頼できる人生に深く関わるのが「人」である。

「人間」は正直生きようが死のうがどうでもいい。

むしろうっとおしいので、ちょっとでも数が減ってくれたほうが助かる。

私も分類学上は同じ人間なので偉そうなことは言えないが、醜く学ばず傲慢で強欲で残酷で、基本的にろくでもない生物だと思っているので、死んだほうが地球のためにはなると思う。

でも、人間として生を受けた以上、人間として生きていくしかない。

人間という生物の枠のなかでみなそれぞれ思い思いに生きて、みな勝手に生きて勝手に死んでいくのである。

そんなことを言うと「他の人と自分も同じなんだから。自分が死んだほうがいいと言われたら嫌でしょ?」とか言われる。

ずっとそういう「死んでいても生きていてもどっちでもいい」という扱いだと思っていたし自分自身もそう思って生きてきたから、逆に言えば「他の人と自分が同じ」という論理なら、そう思われるのが自然ということで解釈一致なのでは?という感じである。

それに、他人は、私がされて嫌なことを、私にさんざん腐るほどしてきたではないか。「他人が嫌がることはしない」などというご高説を垂れられても。どの口が言うのか。全然ピンとこない。

クリック一つで簡単に人を殺すし、金のためならどんな汚いことでもするし他人を踏みつけていくくせに、よくそんなおべんちゃらが言えるよなあ、と思う。

 

基本的に私は、人間であることがいいことだとは思えない。

犬や猫や昆虫や草木のほうが、生を謳歌していると思う。真っすぐに今を生きている。そういう真摯な生命には、頭が下がる。

無駄がない。余計な不純物を抱えていない。洗練されている。生き様に覚悟と凛々しさがある。

できるだけ人間ではなくそういう別の生命に触れて、人間社会ではなく、自然界の大切な真理を学ぶこと。それが大事だと思う。人間社会は腐っているので、触れ続けていると魂が腐る。『風の谷のナウシカ』でいうところの腐海のようなもの。適度に抜け出して息継ぎをしないとやっていられないのは当たり前だ。

 

他人との関わりは食事のようなもの

とはいえ、他人との関わりなしに人間は生きていけない。

だから私は人間から人に自身を昇華して、人と繋がるしかない。

 

食事に似ている。

摂らなくては生きていけない。

でも、毎度毎度、胃が痙攣するようなゾッとする味の食事をするのはただの拷問だ。

こんな日々なら死んだほうがマシだ、と何度思ったことだろう。

無いと生きていけないから、と不安で焦って詰め込んでも、醜く肥え太るだけである。生命としての磨き抜かれた姿とは程遠くなる。いずれ死を選ぶことになる。

 

ちゃんと食べようとしているものを見て、選ぶ。

自分に必要で大切なものを、必要な分だけ頂く。

人付き合いも、それでいい。

全員と仲良くする必要はない。どことも知れない他人が活きようが死のうがどうでもいい、というのは、自然なことだ。建前上、聞こえがよくないから皆言わないだけで、本心はそうだ。

この目に映る「人間」はごく一部と知りながら、そのなかで信頼で繋がることができる「人」を見出して、その人たちと共生できればいい。それが「仲間」である。

必要な量は個体により異なる。

私は必要最低限でいい。そんなに他人に興味が無い。たくさん食べてしまうと食傷気味になる。お腹いっぱいだからもう見たくもない。

たくさん必要な人は、仲間をたくさん作ればいい。「たくさん友達がいるほうが幸せでしょう?」と自分の感覚を押し付けるのは、もうお腹いっぱいですと言っている相手の口に無理やり飯を押し込むのと同じだ。やめていただきたい。もはや当事者にとってはただの拷問である。映画『Se7en』を思い出す。

 

なんかすごくまとまりがないけど、漠然とこの感覚を可視化したくて文章にしてみた。

人間が嫌いな人間がいてもいいじゃないか、と思う。

人間は「やれ疾患だ」「やれ障害だ」「やれ回復してないからだ」とレッテルを貼って他者を欠陥品扱いするのが好きだが、それは「その人の認識の範囲」から当該の人物のパーソナリティが収まらないから、何かレッテルを貼らないと不安なだけではないか。

理解を超えたものがあると不安だから、自分の下に位置付けるために、欠けていると考えたいだけではないか。

そういう処理はご自身で勝手にやるのがよい。

勝手にこっちにレッテルを貼りに来ないでほしい。うっとおしい。

そんなにペタペタ他人に何かを貼ったりしている暇があったら、自分を見つめ直して、生きたい人生を生きたらいいのに、と思う。

私はとても理解しがたいと思いながらも放っておいているのだ。そっちもそのようにしてほしい。

いや、それこそ余計なお世話か。

私は、私の人生を、他人にこれ以上邪魔されずに楽しみたい。

ただそれだけだが、それがなかなか叶わない。

ままならないものだ。

【AC】「恨み」の棚卸し②

恨みが、あなたにとって問題であるような状況を調べなさい。そのような状況を記載するとき、次の質問に答えなさい。

1、あなたは何を、誰を恨んでいますか?
2、あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?
3、この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?
4、どんな性格特質が目立っていますか?

引用:『ACのための12のステップ』 より

 

上から目線のアドバイスを長文で送りつけてきた人のエピソード

1、あなたは何を、誰を恨んでいますか?

私は、一緒にプロジェクトをやろうと話しかけたとき、やたら高圧的な上から目線のアドバイス(しかもわかりきったような稚拙な内容)を長文で送りつけてきたBさんを恨んでいました。

しかも、Bさんは他の人を経由して私たちがやっているプロジェクトには頼ろうとしてきました。

どのツラ下げて頼んできてんだよ…と呆れ返りましたし、侮蔑の気持ちを持ちました。

 

2、あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?

相手の一方的で不遜な態度です。

自分のほうが優れているという思い上がりがにじみ出ていて不快でした。

私が「助けてほしい、頼りにしている」と伸ばした手をぴしゃりと叩き落されたような気がしました。

それが哀しかったし、怒りと恥ずかしさを感じました。

仲間だと思っていた気持ちを裏切られたと感じました。

 

3、この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?

この恨みにより、私はその人が高圧的に他人を批評する姿を見るのが不快になりました。

回復者のふりをしているだけで、承認欲求と傲慢さを克服できていない未熟な人間だと思うようになりました。

そのような未熟な人間に頼る必要もないんだし、むしろこちらから願い下げだ、と距離を置くようになりました。

それ以来、同じようなネットワークで知り合った人に頼ることをやめました。こいつらに頼るのは金輪際もうやめようと思いました。

仲間だとか横のつながりだとか上辺だけ綺麗ごとを言っているだけで、そのつながりはあてにならないと思いました。本当に困っているときには手を振り払うような、薄情な人間しかいないと思い込むようになりました。

その人たちが「仲間のおかげで」「仲間のために」などというたびに、胸やけがしました。飽きもせず嘘ばっかり言ってんじゃねーよ偽善者が、と思って鼻で笑っていました。

 

4、どんな性格特質が目立っていますか?

「孤立」

「コントロール」

「権威ある人を恐れること」

 

私は拒絶されたことに、正直ショックを受けました。

目的やゴールが同じなので、協力してくれるだろうと期待していたし、80%は固いと踏んで声をかけたからです。

そして予想外のしっぺ返しを食らったダメージを緩和させるため、「孤立」して自己防衛しようとしていたと思います。

私としては、他人を頼るということはかなり勇気を出したことでした。

その行いは賞賛されるべきもので、何かを成すのに自分ではすぐにはできないから、という無力を自覚しての行動です。素晴らしい。私はそのように手を伸ばせるまでに回復したということです。

そして、私が認識しなくてはならないのは、私に悪いところは何もないし、ショックを受ける必要はなかった、ということです。

結局、私が勝手に期待しただけでした。それは「コントロール」であり、おそらくOKをもらえるだろうと計算して、他人の能力を利用しようとしたのは確かです。

相手は、それができないと言っただけでした。

まあ、その人がご高説を垂れる必要もなかったのですけれど。

それは、他人の課題でした。

つまり、その人には、相談されて一緒にできる自信がなかった、やる能力がなかった。能力があっても、今はいっぱいいっぱいで手伝えないと思った。

「自分は今、何らかの能力不足で要望を受け付けられない」をそのまま伝えるのは恥ずかしい、とてもその勇気が持てないので、もっともらしい正論を並べ立てて私を追い返すしかなかった。

それは、私ではなくその人の「否認」です。

「自分には余裕が無くて今はできない」というのは、実はちゃんと相手を尊重しているからできる事です。

無理をして引き受けたとしても、相手を傷つける断り方で強くrefuseして自尊心を守ったとしても、結果的に良い状況は生まれません。

強く拒否するのは恐れているから。つまり、相手の恐れが私を傷つける形になって表出していただけでした。

私は当時強がりで「相手がショボいだけだ」と思っていましたが、奇しくもそれは的を射ていました。相手に、私の要望を一緒に実現するだけの能力が無いから受けることができなかった、その事実を恥ずかしくて認められず、素直に言えなかった、というだけでした。

 

だから私は「孤立」しなくていいということです。

その繋がりのすべてが腐ったリンゴなのではない。

たまたま今回は腐ったリンゴに語りかけてしまっただけで、他の人にトライする価値は常にある。

そして、他の人も、できないならしかたない。それ自体は悪いことではない。

なぜなら、私にもできないことはたくさんあるから。それと同じ。

できるひとでやれることをやるしかない。

できないことは、できない、と素直に言うことが最も優しいこと。

 

人々が、あるがままの私たちを受け入れてくれることが分かってきたとき、自分の感情を、もっと楽に表現できるようになってきます。

それと同時に、自分を受け入れられるようになり、自己評価が高まってきたことの結果として、さらに快適に落ち着いて生活するという、貴重な贈物を楽しむことができるようになってきます。

引用:【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑦(孤立)>孤立からの回復ってどんなこと?

 

あるがままの私たちを受け容れてくれることを理解するには、私たちがあるがままで生きてみないといけません。

その勇気と引き換えに、本当のつながりが見えてきます。

そのつながりのなかで私たちは自分の感情をもっと楽に表現できるし、その結果、できないことについて他人を頼れるようになってきます。

私はまさに、回復するにつれて、自己評価が高まってきたことを実感してきています。

自分らしく表現しながら生きていて他人に批判的な態度をとられたとしても、認めてくれる人は認めてくれる。

否定されたとしても「私とは少し価値観が違う人だったんだな」と理解するようになりました。

バカにしたり失礼な態度をとる人には「おそらく余裕や能力が不足しているんだな」あるいは「何か哀しい辛いことがあって健康な精神状態ではないのかもしれない」と思うようになりました。

自分の側にばかり責任があると思い込まない。

それこそが、ACからの回復を、ある意味決定的に特徴づける、思考方法の大転換なのだと思います。

 

参考:恨みの課題演習の過去の取り組みは以下のリンクから見られます。

【AC】「恨み」の棚卸し①

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録①(恨みについての課題演習)

【AC】「恨み」の棚卸し①

恨みが、あなたにとって問題であるような状況を調べなさい。そのような状況を記載するとき、次の質問に答えなさい。

1、あなたは何を、誰を恨んでいますか?
2、あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?
3、この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?
4、どんな性格特質が目立っていますか?

引用:『ACのための12のステップ』 より

 

失礼なメールを送ってきた人のエピソード

 

1,あなたは何を、誰を恨んでいますか?

私は、とある研修の運営主体であり責任者のAさんを恨んでいました。

 

2,あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?

研修を受けた後、私が質問を送ったメールの返信で、私の意図と理解の範囲をよく把握しないうちに「ボタンを押しただけで答えが出てくるわけではありませんよ」などと上から目線の返事をしてきたことに、強い怒りを感じ、恨みを持ってきました。「馬鹿にしやがって」と思ったし、その人を物事をよく理解していると信頼して頼ったことを後悔しました。思ったような素晴らしい人物ではなかったことに落胆し、そんな人だと信じてしまった自分の浅はかさを憎みました。

研修中の状況も思い返せば、聞くに値しない質問をする迷惑な参加者のように扱われていたと認識して、とても哀しい気持ちになりました。

時間管理で精いっぱいで私たち参加者の疑問や質問より、スケジュール通りに研修をこなすことを最重要視しているところが垣間見え、研修の完成度の低さに落胆しました。

 

3,この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?

私は、そのことがあってから、私のなかでこの団体の評価を下げました。心のなかで、取るに足らない、大したことのできない未熟な集団と位置づけました。馬鹿にされた分バカにしてやろうと思いました。

 

4,どんな性格特質が目立っていますか?

特性は以下の3つが複合してます。

「権威のある人たちを恐れること」

「承認を求めようとすること」

「低い自己評価」

「コントロール」

 

私は研修を受けた当時、その団体に大変権威があると思い込んでいました。

私がその団体に軽んじられることや存在価値を認められることを、不自然に重く取り扱っていました。存在価値を認めてもらえないことを恐れていたし、拒絶や批判を恐れていました。

それは、ひとえに私の自己評価の低さが問題でした。

彼らは彼らなりに準備したものを提供し、彼らの経験の範囲のなかで回答したにすぎません。それがたとえ今回のように思ったより質が低いものだったとしても、それは私の見る目が無いわけでもないし、彼らに落胆する必要はなかったということです。

そして、彼らにとって、私がメールのなかで提案した改善策は、受け取って気持ちのいいものではありませんでした。

なぜなら、運営に関するアドバイスをするなど、彼らにとって一参加者として参加しただけの私にされるべきものではない、という認識だったから。

私がより良くなるのに、と思ってかけた言葉は過干渉であり、共依存的な行いでした。私の評価が上がること、すなわち存在価値が上がることを期待して行動していたからです。つまり厳密にいえば彼らの為ではなかった。だから彼らにとっては不快なアプローチとしてぞんざいに扱われてもおかしくない内容でした。冷静に後から考えればそうです。

つまり、私は彼らに必要以上に構うべきではなかった。

そんなことをしなくても私には価値があるし、彼らは彼らのやりたいようにやればいいのだから。

彼らから自発的にアドバイスを求められたらすればいいし、特に求められていないなら心のなかで「ショボいな」って思っとけばいい、ただそれだけのことだったのです。

 

私がどの程度理解していて、どういう意図で質問していたのかも、私とその人は1回あっただけですから、分かるわけがない。

今まで接してきたアディクトたちの知能レベルと反応のケーススタディの累積から推察するしかない。そしてその結果はじき出されたのが「ボタンを押せば回答が出てくるわけじゃない」というなめた答えだったということです。

つまり、彼らが接してきた人々の集大成というか想像上の平均的なキャラクターがおそらく「ボタンを押せば回答が出てくる」と思っている思考停止型のアイデンティティを持っている、ということがはっきりしただけで、私がばかにされたわけではなかった、ということです。

彼らが接してきた人たちが統計的に思考停止型の人間が多かったので、経験上そういう思い込みが発生しただけで、それは彼らの問題でした。

つまり、彼らの反応がどうであっても、私の価値は少しも変わらない、ということです。

 

まとめ:すなわち私はその人を恨む必要がない

ここまで見直してみると、私の課題とその人の課題が複合していることが分かります。

そして、私の課題に私は取り組むことができるけど、その人の課題はその人にしか解決できない、ということで、持つべき課題意識が明確になります。

私は自分のAC的な認知の歪みを修正することができる。それしかできない。

つまり、以下のように振舞いを変えることで、私は彼らを恨まなくていいということが分かります。

「権威のある人たちを恐れること」→権威があるという思い込みを捨てる。そうすると、その人たちを恐れなくて済む。

「承認を求めようとすること」→その組織に承認される必要などなく私は私であるだけで価値があるし、それは他者評価によって左右されるものではないことはないと知る。

「低い自己評価」→自分の能力を現実的に認める。両親や権威ある人たちとの関係で培ってきた誤った自己イメージ(自分を無能のように思い、他人のほうが正しいと思う)を捨てて、他人の行動と切り離して考える。

「コントロール」→彼らが主催するイベントなのだから、それが結果的に不満足な内容であっても私の責任ではないので、彼らの運営と自意識に任せて必要以上に関与しない。

 

私は私の問題に真剣に取り組む以外にできることはない。

なので、彼らの認識の誤りを正す必要もないし、ショボいイベントをより良くする責任もない。

だから、私はそのメールで彼らを恨む必要は、最初からなかった、ということです。

 

参考:恨みの課題演習の過去の取り組みは以下のリンクから見られます。

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録①(恨みについての課題演習)

【AC】「他人からどう見えるか」というのは 実は「あなたの幸せ」には全く関係ない

私は、身長170cm・体重92kg・体脂肪率19% だ。

数字でみて、あなたはどう思うだろうか。

太っている、と思うひともいるだろうし、デカい、と思うひともいるだろう。

私の身体を数値的に表した事実から、人が想像するものは異なる。

その違いは、いったいどこからくるのだろうか?

 

ひとは見たいものしか見ない

太っている、と思った人は、体重をみたのかもしれない。

「いかに低い体重を実現するか」を重視している人にとって、92kgは「重い」と感じるので、そこから連想されるのは「太った身体」というイメージなのかもしれない。

または、体脂肪率をみたのかもしれない。

「10%未満でないと痩せているとは言えない」などと思っている人にとって、男性で19%というのは「痩せている」と表現するには許せない数字なのかもしれない。

デカい、と思った人はどうだろうか。

おそらく瘦せ型の身体を鍛えていて、筋肉をデカくしてパワフルな身体になりたい、と思っているのかもしれない。なかなか体重を増量できない人にとって、食べて動いて筋肉の重量をあげることは大変なことだから、羨ましさを感じるかもしれない。

 

ここまで読んでみると、見え方の基準には必ず、自分の願望や価値観が隠れている。

「こうでありたい」「こうであるべき」という自分の感覚で、数字という情報から、知らず知らずのうちに好きなようにひろってきて勝手に判断している。

つまり、他人のことをあれやこれやと言うとき、ひとは自分のことを見て話しているのである。

 

だから他人の評価は「サンプルその①としての価値」はあるかもしれないが「絶対的に正しい価値」ではない。

客観的だからといって、すべてが正しいかと言えば、それは違う。

客観的にみる、といっても、人それぞれに客観的な見方は異なるからだ。

先に申し上げた通り、人は自分の見たいように物事をみているので、必ず自分の願望が入る。客観的と言いつつ、常に一部主観的であることから逃れることはできない。

つまり、完璧な客観性など存在しない。

たとえば空を見てAさんが「青いね」と言っていてBさんが「そうだね、青いね」と言っていたとしても、全く同じ「青色」に見えているかどうか、正確にはわからない。微妙に彩度や濃淡は違って見えていてもおかしくない。しかしその同一性は検証しようがない。

だから、私とは違う個体が同じ事象をどのように見るのか?という一応の参考にはなるけれど「他人が見て言っているのだから(客観なのだから)主観よりも真実に近い」というのはおかしい考え方で、他人の視点というのは常に「自分が見る世界と同じ程度の価値をもつ、似ているけれど少し違う別の世界観」というだけなのである。

 

だから、私は「太っている」と言われようが、「デカいね」と言われようが、「意見を述べてくれてありがとう。そうか、あなたのなかではそうなんだね」としか思わない。

そうでしかなく、それでよい。

 

アイ・フィール・プリティ!

『アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング (字幕版)』

という映画がある。

私はとてもこの作品が好きだ。

 

 

【あらすじ】

自分の容姿にコンプレックスがあり、仕事も恋も積極的になれないレネー(エイミー・シューマー)。ある日、自分を変えようと通いはじめたジムでハプニングに見舞われ、頭を打って気を失ってしまう。そして目覚めると、絶世の美女に変身していたのだ(とただの勘違い)!見た目はそのまま、超絶ポジティブな性格に生まれ変わったことでレネーは自信に満ち溢れ、仕事も恋愛もすべてが絶好調になるが…!?

 

主人公は、客観的には何にも外見が変わっていない。

自分自身を「魅力的だ」と思うか「ブスだ」と思うかは自分で選べる、生き方は選べる、というメッセ―ジをコミカルに描いている。

この映画のスト―リー展開を観るたびに、女性だけでなく、人は皆そうなんじゃないかと思う。

 

結局のところ「自分がどう思うか」がすべてを決める

私はトレーニングをしている。

なぜトレーニングをしているかというと、楽しいからだ。

先週よりも1回多くMAX重量を扱えたとか、少しずつ筋繊維が太く大きくなっている変化を感じるとか。

この栄養を摂ってこの運動をすると〇週後こういう変化がある、という理論上の身体的変化を、仮設通りに自分の身体で再現できたときとか。

いわゆる「楽しい遊び」としてやっていて、前の自分と比べた変化が面白いから、やっている。

他人よりも優れた身体になるため、つまり比較の為ではない。今更異性にモテたいわけでもない。痩せたと他人に言われたいからでもない。

自分が「目指す良い体に少し近づいたな」と思えたなら、それは楽しい。

 

人生やメンタルでも同じことがいえると思う。

他人と比べても、キリがない。

もって生まれたポテンシャルも文化も、何もかも初期設定が違う者同士、異なる価値観を包摂しながら社会を構築して生きていかなくてはならない、この浮世だ。

他人と比べること自体が、ナンセンスなのである。

能力を競うこの世のあらゆる競争はすべて「遊び」であって、それで勝っても負けてもその人そのものの価値に何の傷もつけない。

オリンピックに出ようが、世界一になろうが、それはたまたまそういう結果が一つの比較で生まれただけであり、その人の価値がどうこうするものではない。

「競争」を「遊び」として楽しむ範囲において人生は健全だが、それに囚われると、途端に不健全になっていく。

他人に一部の能力で劣る自分を「生きている価値が無い」とまで思い詰め蔑み粗末に扱ったり、一部の能力で優れているからといって増長して他人よりも自分のほうが価値があると思い込んで傲慢になったりする。

それは自分で自分の存在価値を認識しづらいから、「競争」という場で優劣をつけることで「自分の立ち位置」を確かめないと不安なのだ。低いのか高いのか、どちらでもいいから自分のポジションを決めたくて、人は卑屈になったり不遜になったりしている。実にばかばかしい。

仕事にハマる人、特に大きな組織に属しているワーカーホリックはだいたいこれ。

不安を抱えているから、ポジション取りに必死になる。

成績で横並びに優劣をつけられ、その競争のなかで褒めてもらうことを生きがいにしている。

それを人生のなかのサブゲーム的な位置づけで遊びとして楽しむなら別にいいのだが、「人間としての価値を決めるゲーム」だと思っていることが多いのが、このタイプの辛いところで、負けたら死ぬしかない、死んでも仕方ないと思っている。

パワーゲームで人を殺し、人に殺される。それがワーカーホリックの世界だ。

とんでもない!遊びで殺されてたまるか!!

しんどかったらゲームから降りてもいいし、楽しくなかったら別のゲームに移行していいのだ。

だって、ただの遊びなんだから。

 

しかし、今この社会を構築しているいわゆるエリートと呼ばれる人々が、だいたいこんな調子で病んでいる。なので、本当に人が死ぬ羽目になっている。それがこの日本社会である。

出世のためにポジション取りに忙しい人々が本当に必要な仕事をしないせいで、人が今どんどん死んでいる。コロナショックはウイルスによる自然災害というより、行政官僚制のなかで腐っていった人間による人災だ。

相当終わっていると思う。

 

まとめ:少なくとも忘れないでほしいこと

それは、

「あなたの幸せは、あなたが定義するものだ」ということだ。

 

誰かのお仕着せの「幸せはこれだよ」というのを真に受けて、信じないこと。

 

大企業で安定した暮らしをするのが幸せらしいから、いい学校に行っていい会社に就職する。

結婚したほうが幸せらしいから、結婚する。

子どもは2人以上いたほうがいいらしいから、子供をもうひとり産む。

 

そういう他人の幸せをなぞったところで、あなたは幸せにならない。

「他人からどう見えるか」というのは 実は「あなたの幸せ」には全く関係ない。

「他人からどう見えるか」ということばかり追いかけていると、自分がどう思い、どう考え、何を幸せと感じるのか、何もわからなくなってしまうよ?

私みたいに。

 

今ここから、他人は自分のするすべてのことや今の自分すべてを肯定してくれると仮定して考えてみよう。

あなたは、何がしたいのか? あなたが心の底から楽しいと思うことは何なのか?

他人を関係なしに思い描いたとき、あなたはどんなふうになりたいのか?

それこそがあなたの幸せである。