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【依存症】7月18日

いつの間にか、断酒して5年が経過していた。

 

2017年7月18日

後の「アサイージュース事件」である。

 

私は妻が結婚式で地元に帰っているスキに、盛大にスリップした。

そして酔って頭を打ち、ベッドを血まみれにした。

何を飲んだかもよく覚えていない。

赤ワインの瓶を数本買い、それらをすべて飲んでしまったので、飲酒運転でウイスキーを買いにいった気がする。

ウイスキーの瓶は駐車場で粉々に割れていたから、飲めなかったんだと思う。

ストロングゼロは無事だったようで、買った記憶はないが、リビングに空き缶が散らばっていた。

 

その日は、とてつもない気持ち悪さで目が覚めた。

頭がべっとりと何かに濡れているような感じで、とても不快だった。

何だろうと思って触ったら、赤黒い血がべっとりと手についた。

一瞬何だかわからなかった。

「血だ」と思って起き上がろうとしたら、身体に力が入らない。

左半身が麻痺したように、全然力が入らなくて、しばらく起き上がれなかった。

ようやく起き上がってあたりを見渡してみた。

マンホール大の血だまりがベッドのそばにあり、マットレスは黒い血で染まっていた。

枕も真っ黒。

血の気が引いてふらついた。

 

頭を触る。

痛みが走る。

数センチの裂傷が後頭部にあるのが、指の感触でわかった。

いつ、どこで?なぜ?

とにかく何もわからず鈍くて働かない頭。

真っ先に思い浮かんだのが、

 

「隠さなきゃ」

 

だった。

血に汚れたままトボトボヨロヨロしながら歩いてドラッグストアに向かった。

生理用品用の洗剤を買う。

暑さと貧血、二日酔いで吐きそうになりながら自宅に帰り、枕とマットレスとシーツを洗う。

取れない。

力が入らなくてしんどい。風呂でへたり込む。

自分は、何をしているんだろう。

惨めな気持ちで風呂に漬けている枕を虚ろな目で眺めていたら、数時間経っていた。

 

なんとか薄いピンク色くらいになった。

アサイージュースみたいだな、そうだ、ジュースをこぼしたことにしよう。

そう考えた。それしか思いつかなかった。

電話で「ベッドにアサイージュースをこぼしちゃった」と妻に伝える。

妻は「・・・・ふーん。まあしかたないよね。」と言った。

私は普段アサイージュースなんて健康によさそうなものを飲まない。

妻はこの時点で、なにかおかしいと思っていたそうだ。

 

数日後。

 

妻が、帰ってきた。

妻は家に着くなり鼻をスンスンと鳴らして、いぶかしげな顔で家の匂いを嗅いだ。

顔がどんどん険しくなる。

それを眺めながら、私の心臓は破裂しそうだった。

血の匂いが濃いほうへ目線を向ける妻。

妻は、ベッドルームに一目散に向かって足早に歩く。

ピンク色になったベッドをみる。

力が入らず取り切れなかった血の塊がフローリングの溝にこびりついているのを見たとき、妻は何があったか、理解したという。

 

「ねえ」

 

「なんか言うことあるよね?」

 

そう言いながら妻の見開かれた目を見て、私は

 

「ごめんなさい、飲みました」

 

といった。

 

頭の傷を見せる。

「こんなに切れてるの?!病院は??」

「行ってない」

「アホか!!!今すぐ行くよ!!!!」

さいわい外傷以外何もなく、脳に異常もなかった。

 

帰りの車で。

「一緒に断酒会、いこうよ」

「うん」

 

これが、アサイージュース事件。

 

2022年7月18日

頭の裂傷は、縫いもせず放置していたために傷口はふさがったが、痕が残った。

2017年7月18日の「アサイージュース事件」は、頭の傷跡にも、心にも、深く刻まれた。

私には、生きていくのに必要な大失敗だったと、今では思う。

 

私は、飲んだことを、必死に隠そうとした。

自分の身体の傷を手当てしようなんて発想はなかった。

妻に今度こそ見限られる、という恐怖しか頭になかった。

嘘をついて欺こうとすることのほうが、よっぽど彼女を失望させるというのに。

 

依存症は、何度もスリップすることがある。

私は、4回スリップして、今に至る。

 

気合と根性では、2年ともたなかった。

3回目のスリップで病院に繋がり、自助グループに繋がってもなお、スリップした。

自分の生きづらさに目を向けることはできないままの私にとって、断酒は「我慢」だった。

我慢は続かない。

4回目のスリップでそれを理解した。

 

「自分は、どうしようもない人間だ。自分で酒をやめることもできない。でも、生きたい。死にたくない。死ねない。」

「ならば、もう自分のやり方は捨てる。何でもやってみよう。やってみるしかない。誰にでも頭を下げて、何にすがってでもいいから、とにかく回復している人がやっていることを、やってみるしかない。それでもだめなら、もう死ぬしかない。」

そう思って、私は今までのやり方と在り方のすべてを手放し、完全に降伏した。

 

それから、様々な場所でいろいろな人のいろいろな話を聞いた。

ときに頭にきて眠れなかったり、悔し涙を流したり、感動の涙を流したり、共感したり嫉妬したりした。

見たくもない自分のなかの恐れと不安を、ドブのような濁った心の底から掘り起こしては、目を凝らす毎日だった。

心のドブさらい。それが棚卸しだった。

少しずつ水底が見えるようになってくる。

『白河の清きに魚の棲みかねて』というべきか、清くあればあろうとするほど、水底は余計にみえなくなった。

『もとの濁りの田沼恋しき』。濁った部分も自分なのだ、間違ったことのある自分も大切な自分なのだ、と受け容れてから、ようやく窒息しそうな水の中から顔をあげる。

そうやって初めて。

私のような人間の心からも、蓮の花が咲いていることに気づく。

 

阿頼耶識は綺麗ごとだけではできていない。

自分がそうであるように。世界がそうであるように。

それに気づくために、私には断酒して過ごすこの5年間が、必要だった。

 

私は、酒を飲めない。

ようやく諦めたとき、見える世界は白い闇だった。寂寥感でいっぱいだった。

存在することそのものが、全て哀しかった。

この唄のような心の有り様だった。

 

 

「もしもピアノが弾けたなら」

私の人生には、酒がなくなった。

「もしも酒が飲めたなら」

私をなんとか支えていた酒。それが無くなったことを受け容れられない気持ち。

それがこの唄に近い。

 

こんな心で、蜘蛛の糸のように細い道を歩く。

これが死ぬまで続くのか。

絶望した。

 

 

それが今、私は、心に咲くたくさんの蓮の花で満たされている。

元々それらは咲いていた。

咲いていたのに、気づかなかった。

 

私は、回復した、変わった、と言われる。

私は、本質的には変わっていない。脳の壊れた回路はもう元には戻らない。

 

変わったのは何なのか。

回復とは何なのか。

 

それらは、知るのでもなく掴むのでもない。

人生から、出会う人々から、

いや。「生きることそのもの」から、与えられるのかもしれない。

 

私は確かに頑張った。もうこれ以上できないほど。

だけど、私のおかげではない、とも思う。

ただ一つ言えることは、私がアルコール依存症になることは、必要だから与えられたことだった、ということだ。

【雑談】ちょっとガス抜きさせてください

最近、いつの間にか一日が終わっている。

いろいろなやりたいことがなかなかできないまま、日々が飛ぶように過ぎていく。

もう7月も後半とかウソでしょ?ウソって言ってほしい( ^ω^)・・・

 

やりたいことを書きだしてみる。

〇会社設立(正確には妻を個人事業主としての、共同事業の立ち上げ)

・事業デザインの精査

・場所探し(居抜き物件で放課後等デイサービスができるような建物)

・仲間探し(保育士さん)

〇現在の勤務先での従業員ネットワークのイベント準備

〇動画編集の勉強(Youtubeで啓発活動を始めたい)

〇社会福祉士としての活動

・リワーク施設への訪問

・児童発達支援事業所への訪問

・地域医療連携室の精神保健福祉士のみなさんへの訪問

〇発達支援の勉強(ASD・ADHD・LDなどの発達障害の子どもたちへの支援資格取得)

〇代表理事をやっている任意団体の活動内容更新(ブログ整理)

〇農業

・畑を借りる

・家族が食べていけるだけの食べ物を自給自足できる準備する

〇資産を金に換える

 

いっぱいできていない。

つらい。

正直、もう仕事はどうでもよくなってきている。

もう全然興味がなくなってしまった。

とてもやばい。けど、それが本心なのでしょうがない。

 

薬って、そもそも飲まなくて済むのであれば一番いいものだと思う。

異物だから。

どうしても必要な人に届けばいいのであって、全体のマーケットは小さくなるのが最も世の中にとっては良いこと。

ましてや西洋医学の理論で開発された化合物など、なおさら使わなくて済むならそのほうがいい。

そもそも、今回のmRNAワクチンの件に端を発して、私は西洋医学に基づく薬理学的な理論に懐疑的になってきている。本当にこれは人のためになるのだろうか?と疑っている。

今回はあからさまにバレバレなやばい代物だったから明るみになった。

でも、よくよく振り返ってみると、子宮頸がんワクチンやインフルエンザワクチンも、似たような物だと私は思う。

ということは、私がよかれと思って科学を信じて宣伝してきた高血圧症治療薬や糖尿病治療薬や睡眠薬や脂質異常症治療薬は、もしかすると全然必要のない、むしろ毒でしかなかったのではないだろうか。そういう恐ろしい予感に背筋が寒くなる。

私は、また人を不幸せにするような仕事に加担してしまったのではないかしら。

 

一番最初に携わった太陽光発電システムの営業、マテリアルリサイクルの営業。

これらの世界を環境問題に取り組むという「良いこと」だと思って飛び込んだ。

しかし蓋を開けてみれば、仕事の内容は詐欺に近かった。

中国から取り寄せた安い太陽光パネルを利用して、国産メーカーに競合したことは、国内の電機産業を衰退させる手助けをしたに過ぎないし、太陽光発電システムそのものがそもそも環境に良い製品ではなかった。

いや、環境問題そのものが、でっち上げられた架空の課題であり、そもそも解決する必要などないものだった。

私は大学で何を学んだのだろう。

環境経済学という学問は、世の中の本質にリンクする学問ではなかった。

倫理の教科書に強く惹かれた高校時代の自分の感性を信じて、哲学を専攻すべきだったと思う。今古典哲学にのめり込んでいるのは、本当はそれが知りたかったことで、深めたかったことだったからだ。

「社会で成功しなくてはならない」

「高収入を得られる仕事をしなくてはならない」

そういう世俗的な価値観・親の期待に惑わされて、やりたくもないことを嫌々やってきた結果が、今の仕事だ。

正直、全然面白くない。

 

元々お金に無頓着で、あれば使うだらしない人間だった。

無ければ無いで、道草を油で揚げて食べたりして糊口をしのいでいた。

そんな大学生活だった。

わりと金が無くても人ひとりで生きる分には何とかなるものだ。

お金に全然興味を持てない。

ACとしての恐れと不安から高収入を条件に仕事を選んできたけれど、実際はそこまで私の価値観のなかでは大事なものじゃなかったんだと思う。

つくづく失敗した、と思う。

 

会社の皆はお金が大好きだ。

どこどこでいくら売れたとか、売り上げが伸びているとか、嬉々として語る。

「〇人の新規処方が確認できました!」とかSMSで毎日飛び交っている。

それは、病んでいる人がたくさんいるということで、薬が必要なほど苦しんでいる人が見つかった、というだけではないだろうか。

喜ぶことじゃないんじゃないだろうか。

そりゃたくさん売れれば会社で褒めてもらえて、あわよくば昇進・昇給、ボーナスが何百万ももらえるかもしれない、という期待に胸が膨らむんだろうと想像はできる。

でも、会社が褒めてくれることって、そんなに喜ぶほど価値のあることだろうか。

会社は、命令を着実に遂行してくれる「人間をやめた歯車」がほしくて、日夜洗脳に余念がない組織である。自分たちの洗脳が功を奏して無事に生まれた「優秀な歯車」に対して、賞賛を送るようにできている。

ということは、会社に褒められる、というのは、「お前は使い勝手のいい歯車だな!いい感じに人間やめれてて素晴らしいぞ!」と言われているのとイコールだ。

それ、うれしいの?

私は嬉しくない。馬鹿にすんなと思う。

そんな人をコケにした真意を知ってか知らずか、私以外の人々は組織内での地位と名声と権力を求める。

私も、自分が自分としてありのままで充分に価値のあるいっこの存在だと認めきるまでは、それらの外部からの承認を喉から手が出るほど欲しがった時期があった。

だから気持ちは分かる。

不安な心の穴を埋めるための、対症療法。

依存症と一緒だ。

社内で上昇志向をもつ人間は一見パワフルで健康的にみえるし、いわゆる「レベルの高い」人間と錯覚されやすいが、実際は病んでいる依存症者と同じだ。

つまり私たちと同じ。アディクトの仲間だ。

だから、彼らを侮蔑することも、下に見ることもない。

私がそうだったように苦しんでいるんだな、と思うだけだ。

特に干渉することもないし、否定することもない。

 

しかし、彼らとしては、私のような思想と行動は容認しかねるようだ。

売上のためにもっと人格を削ぎ落してでも、あくせく働いてほしいそうだ。

自分たちと同じように。

だから、私が数字に無頓着だと「意識が低い」とか「やる気がない」とか言って心のなかで馬鹿にしだす。

心のなかでどう思おうが、その人の自由なので、それはよいのだが、「自分たちと同じ歯車になれ」と集団同調圧力とコントロールを働かせてくるところは、看過しがたい。

私は私で、私のやり方でこの仕事のなかで実現したいことがある。

それは、結果的に会社が社会的信頼を取り戻し、提案を受け入れてもらえる手助けになると思う。

会社にとってメリットがあることをやっているつもりだ。

私は不必要なところに提案することはないが、必要だと感じるところには薬剤の使用を一つの手段として提案することはある。

その提案を採用して実際に使うかどうかは、先生方の判断だし、患者さんの意向もあるだろう。その領域は、私たちにとって「変えられないもの」なので、絶対に侵害してはいけない。

しかし信頼関係があれば、勘案してくれる可能性は高い。

役に立てるかどうか、その観点で誠実に可能な範囲で接することが私たちがやるべきコトであり、唯一できることでもある。

私はそう考えているので、「MRには会いたくない」という先生の所に無理して会いに行ったりしない。

会わないことで薬剤の最新情報や私という社会資源と出会えないリスクを踏まえてその判断をしているわけだから、その責任はその先生がとればいい。私は関係がないし、その生き方を変える権利も義務もない。その判断を尊重する。

ただ手は差し伸べ続けるし、必要とあらば時間を取る。可能な限り丁寧に対応する。

 

このコロナ騒動で先生方としては「コロナだから」という黄門様の印籠を手に入れた。

MRを締め出すには絶好のチャンス。今までうっとおしい夏の夜に蚊帳の中に入ってきたやぶ蚊のようなMRを、やっと院内から追い出すことができた。

今まで「使ってください」というお願いとそれを成就させるためにありとあらゆる詭弁を弄してきた今までのMR活動の成果のひとつだ。本来は、その残念な結果を、真摯に受け容れ反省するべきだ。

が、無謬性の神話に雁字搦めになっている製薬会社の上層部が、今まで自分たちがやってきたことが元凶だとは認めるはずもなく、数字とにらめっこしながら、頓珍漢な結論を導き出して、とにかく会えるように努力しろと現場にげきを飛ばす。

追い詰められた現場は、なんとか理由をつけて無理やり自分のアポイントをねじ込もうとする。

成功例として社内で報告されている事例も、一見うまくいっているように見えて、実は長期的に見てより関係を悪化させる一手にしかなっていないことがある。

しかし組織内では、自分たちの仮説と戦略が正しいと裏付けられそうな成功事例を欲しているので、飛びついて賞賛する。自分たちがみたいものしか見えなくなっている。

なぜかといえば、自分たちが正しいという裏付けが欲しいからだ。それをアピールしたいからだ。もしも間違っているという方向に結論が導かれてしまったら、方針を決定した責任を取って役職を降りなくてはならないリスクと恐怖にさらされるからだ。

管理職に、自身の判断が間違いだった可能性を模索する覚悟がない。自分の進退を含めての戦略的な決断ができていない。リーダーを務めるに価しない人間が配置されているからだ。

わが身が一番かわいい人たちだ。

本当は、患者さんのことなんてどうでもよくて、自分たちが組織内の椅子取りゲームで居場所を奪われないかどうかだけが、関心事だ。

そんな人たちの指示に従いたくなる人がいるだろうか?

私は従いたくない。だから理由を言って拒否している。当然煙たがられる。

 

なんとかして言うことを聞かせようとしつこく接触してくる。

それをあしらう時間がもったいない。

そういう雑事に追われて、上記に示しているような本当にやりたいことができない。

 

信頼していないからだと思う。

雇っている人たちを信頼していない。

性悪説で、人は権力者が管理しなくてはならないと思っている。そうでなくてはサボるし悪いこともする、と思っている。

会社はリヴァイアサンでいなくてはならないと思っている。ホッブズである。

信頼されていないから、従業員もまた会社を信頼しない。

不信感で繋がった希薄な雇用関係。実に空虚で暗い繋がりだ。

 

信頼して任せる。真の意味で権限移譲ができれば、もっと自由にもっと多様な価値が生まれることだろう。

それが、最終的には企業価値の最大化に最も近い道のりだと思う。

だけどそれは、恐れと不安でコントロールしたい欲望に負けてしまってできない。

まるで、ACの生きづらさそのものだ。

ハイヤーパワーに委ねられない、南無阿弥陀仏に委ねられない。阿頼耶識の声を聞けない。

だから苦しみを背負い、幸せから遠ざかることになる。

 

投資可能性は、計算可能性。

計算可能性が無ければ、事業は立ち行かない。投資できないから。

結局、資本主義の原理原則が、あらゆる人をコントロール欲求の奴隷に貶めている。

だから資本主義はシステムとして破綻していて、誰も幸せにならない。

それを証明したのが、ここ最近の1世紀の人類の取り組みの成果だと思う。

だけど、自分を守るために精一杯の人類は、この成果に気づけない。

だから行くとこまで行って自滅して、多くの価値あるものを失いつくして初めて、真の底付きを体験するんだと思う。

そこに至るまでのディストピアを生きるのは、今からとても暗澹たる気持ちになるけれど、それが私にとっても、私たちにとっても、必要な禊であり、ハイヤーパワーの導きなんだろうと思う。粛々と受け容れて今を生きていくしかない。

 

私は私で、ブレずにやりたいこと・やるべきことをやっていくよりほかはない。

やりたくないことをやれと言われると疲れてしまうので、休み休みにはなるが。

よく頑張っていると思う。

自分の心と身体に折り合いをつけながら、いくつか実現して形になってきたものもある。

今できる100%は常にできているんだ。今できる100%は、いつもの日常なのだから。

焦る気持ちやイライラする気持ちは、ある。

「仕事をやめてしまいたい。もっとやりたいことだけに集中できれば、違う未来があるのに…」と思わない日はない。

しかし、そのタラレバは、起こりえないからタラレバなのであって、私ができる事は、無理なく自然に今ココを全力で生きることだけだ。

こうしてブログに想いを書き出すことだって、一見ただの愚痴吐きのように見えるが、自分を見つめ直しやりたいことを整理することで、マインドをリブートするきっかけになった。

何もかもには意味があって、それを認識できるかできないかの違いしかない。

明日も、一生懸命楽しんで生きていこう。

【依存症】自分を「赦す」ことからはじめよう

私はたくさん間違えてきた。いけないこともたくさんしてきた。

 

私という人間

小さい頃から、他人より上手にできないことのほうが多かった。

馬鹿にされたし、軽く見られた。

他人に受け入れてもらえない、そんな自分を自分自身が好きになれずに、苦しんだ。

自分の欲に負け、ずるい考えで他人を騙そうとしたこともある。

嘘をついて、罪から逃れようとしたことも、他人に何とかして気に入られようとしたこともある。

いじめられて他人に馬鹿にされる痛みを知っているのに、自分が標的にならないために、いじめる側に立ったこともある。

他人のためと言いながら、自分のために、自分がここにいていいと思うために、他人に過干渉したこともある。

自分に自信がないことを隠すために、社会的な評価・組織内での評価・収入や地位に固執したこともある。

自分だってよく間違えるくせに、他人の失敗をあげつらってこっぴどく責めたこともある。

何もかも知っているわけでは無いのに、自分が知っていることを他人が知らないと、無知だ馬鹿だと心のなかで侮蔑したこともある。

自分より収入が低い人は、自分よりも能力が低い価値のない人間だと下に見たこともある。

自分がただ環境に恵まれていただけなのに、今自分が得られている恩恵は自分が努力したからだと信じたくて、成果主義・能力主義を肯定的にとらえていた時期もある。

かわいそうなひとや恵まれない人の話を、どこか自分とは関係がない世界の話として他人事で無関心で、手を差し伸べなかったこともある。

他人の物を盗んだこともある。それを隠そうとしたことも。

自分の都合で他人の命を粗末に扱ったこともある。それによって、他人の心も体も、ひどく傷つけた。

正しさで他人を打ちのめして憂さを晴らしていた事実がある。

 

私は人間として、よくできているとは言えない。

聖人君子でも紳士でもない。

それが、ありのままの私だ。

 

私もそうだったじゃないか

ありのままの私を、そのまま見ると、つらい気持ちになる。

「なんで私はこんななんだろうか」と思うような汚い部分・嫌な部分は、そこかしこにある。

つらいから、見ない振りをする。

そうやって見ない振りをしていると、汚い嫌な部分は自分の背後でどんどん膨れ上がっていく。

だから、逃げるように何かにすがりたくなる。

何かは、人によっては宗教だったり、他人だったり、モノだったり、行為だったりする。

私の場合は、たまたま酒だった。だからアルコール依存症になった。

 

自分を許せないから、他人を許せない。他人に厳しいとはそういうことだ。

自分が抱える後ろ暗さを打ち消すために正しさを求める。

強迫的な正しさへの固執が、他人の不正への敵意に変換されて表面化する。

他人を責めているとき、自分は正しさの側に立てる。だから、安心する。

それは偽りの安心で、いくら他人を責めても自分の本質は変わらない。抱えている不誠実は消えない。

自分の罪を自分自身が許してあげないと、誰の何の罪も許せない人間になっていく。そして一人きりになる。

 

「俺だって、間違えることもあるよな」

「そのまま受け容れるのって、難しいよな」

「嘘をついたり騙したりすることだって、珍しくない」

 

そう思う。

私はそんなにできた人間ではないから、他人がそうであってもおかしくないと思う。

直接人を殺したことはなくても、この社会システムのなかで誰かを殺して生きているかもしれない。人を殺してしまった人も、いつかどこかにいたかもしれない、私かもしれない。

お金や権力に眼がくらんで自分の都合がいいように他人を操ろうとする人たちも、私と同じように自分自身を受け容れられない苦しみにもがいているのだと思う。

罰を与えて罪を背負わせても、痛めつけて解決したつもりになっているだけ。

「絶対に間違えてはならない」という呪いを、他でもない自分自身に上掛けするだけ。

 

私を許すことは、他人を許すこと

自分が犯してきた罪を、まず自分自身が認めよう。

誠実に実直に、その償いをしよう。

直接謝ることはもうかなわないとしても、いつでも謝れる心で生きていく。

なにもかも全部、包み隠さず認めよう。

その罪の裏にあるのは、悲しみや怒りや寂しさだったことも、認めよう。

その苦しみを誰にも言えなかった弱さを認めよう。

人間はそんなに強くない。一人で生きていけるほど、個人は力を持っているわけではない。

世界の一部だから生きていける。

一部で在り全部。それは、あの人も、この人も、全てのひとがそうだ。

ごくわずかな片隅の一欠けらであることを認めよう。

だからこそ無くてはならない価値があることも、同じように認めよう。

何かの役に立つとか立たないとか、そんな功利的な観点によらず、必要不可欠な存在なのだ。

君も私も。誰もが。

誰もが弱くて寂しくて悲しくて、怒っても仕方がない。

私がそうであるように。

 

そう思いいたると、他人が許せる。

私がそうであったように、何かを抱えて苦しんでいて、それがたまたま外部への攻撃性としてあらわれ、たまたま私が被害に遭っているだけ。

彼ら彼女らは、私だ。だから「そんな気持ちになることも、そんなことしちゃう日だって、あるよね」と思う。

だからと言って何もかも無抵抗で受けるわけではなく、私は私が大事で、彼ら彼女らも同じように大事なので、共存していくために必要な「私の気持ち」は伝える。

「私の気持ち」をどう受け取るか、どう行動するかは、彼ら彼女ら次第だ。私にもその権利があるように。

受け取れるように、伝わるように、できる限りの手心を加えて。その方法が「アサーティブ」であったり「アイメッセージ」であったりする。

 

 

心の根っこのところで自分も他人も許すことで、私は本来の優しさと思いやりを取り戻せる。

それできてはじめて、求め続けて手に入らないと嘆いてきた「安心」が、いつもいつでもすぐそばにあったことに気づける。

救われるのは、自分自身。

自分を「赦す」ことから始めよう。そこからすべてを始めよう。

それではじめて、あなたも私も、優しくなれる。

【社会福祉士】民主主義というファンタジーを信じる日本人

みなさん、日本は民主主義国家だと思いますか?

選挙によって、我々の民意が政治に反映されると思いますか?

 

残念ながら、この国はそんな国ではありません。

 

選挙はプロレス

自民党も民主党も共産党も社民党も、みんなお友達です。

どの政治家も、ある特定の財閥に繋がる血筋です。

争っているように見えるだけで、親戚同士裏では繋がりながら、プロレスをしているだけ。

参政党とかれいわ新選組とか、それらの親戚とは違うと思われている政党ですら、残念ながらあまり大差ないと思います。

すべては結果有りきで行われている茶番。

 

そもそも選挙結果は自由に操作できます。ご存知でしたか?

株式会社ムサシという会社が投票用紙の自動集計機を納品しています。

この会社の株主はペーパーカンパニーで、そのペーパーカンパニーを調べていくと、最終的には実質の支配権はロックフェラー系列の外資です。

我々の国の選挙に使われる機械は、ユダヤ系外資がつくっているということ。

これは、彼らの都合がいいように、得票結果を自由にコントロールすることができる、ということです。

最近よく単語が出てくるようになった「統一教会」の創立者文鮮明氏は、グローバリズムでロックフェラー財閥と意気投合して資金提供を受けてきました。

つまり、お仲間です。

その「統一教会」と親交の深い自民党が与党となり、ユダヤ系資本がパックにいる選挙用の機械を使って選挙をすれば、結果がどうなるか。

想像に難くないですね。

こうして、選挙は「国民の投票により政治家を決定している」という体を取りつつ、実際は権力を持つ「財閥」の都合のいいように動かされています。

だから、自民党が勝つのは当たり前だし、ぶっちゃけどこが勝ってもいい。

なぜなら、どこかがまかり間違って勝ったとしても、金でその政党を買えばいいだけだからです。

それが、資本主義社会です。

政教分離?そんなの名ばかりです。そもそも政治を牛耳っている経済的な力を持っているのが「統一教会」であり「ユダヤ系財閥」なんですから。一心同体です。

票が取れれば、選挙で勝って政権を維持できればそれでいい。そのためならどんな手も使う。金さえあれば飛ぶ鳥も落ちる。

それがこの現代社会の、この国の姿です。

民主主義なんて幻想(ファンタジー)です。

だから、公約で掲げた政策なんて一向に実現されないでしょう?

選挙のときに耳障りの良いことを言っているだけで実行する気なんてさらさらないですから、そりゃ実現するわけないですよね。

国民の意見なんて死ぬほどどうでもいいと思っていて、お金を出してくれる海外の権力者の言うことを聞くために存在している。それが今存在する政党であり政治家たちです。

そんな人たちが、税金から何千万も給料をもらっているんです。仕事中には腕組みをして居眠りしているんです。

だから、私は政治には何も期待していません。

この腐りきった国の政府を最大限利用して、仲間を集め自分たちの手で人生を切り開いていくしかない、と思っています。

 

日本のエリートたちはみんなゴマすり

日本では、大企業も、政治家も、官僚も、大手マスコミも、みんなそれらの権力にゴマをすって生きています。

よく名前が出る大企業のCEOをはじめ、経済界・政界・マスメディアの重要ポストにいる人間は、だいたい世界経済フォーラムに参加しています。

ヤンググローバルリーダーに選ばれている人は、特に傀儡として利用しやすいので持ち上げられている人たちですね。

大手製薬会社もだいたい世界経済フォーラムの系譜です。

新自由主義とは、金持ちがより金持ちになり、彼らにとって都合がいいように世の中を作り変えるための社会の在り方です。

自由競争?これは強いものが弱いものを食い散らかす「自由」を与える競争社会です。

誰もにチャンスがある、なんてとんでもない。むしろチャンスなんて根こそぎ金で刈り取るための、肥大化したコントロール欲求が支配するディストピアです。

共産主義がいいとは言いません。でも、資本主義は共産主義同様、システムとして破綻しています。

その証拠に、自殺者は増加しているし、貧困は拡大しています。一部のエリートたちがもっとお金を集めるために、それに類さない大半の人々の命と人生は、これからもますます奪われていきます。

平等を装った超格差社会。それが日本の社会です。

 

そりゃあ依存症にもなりますよ

この日本は、まさに地獄です。

先進国どころか、後退国です。

雇用は不安定で賃金は一向に上がらないのに、税金と物価はどんどん上がります。

他人を裏切り蹴落としてでも権力者に媚びへつらえる人間が、扱いやすい奴隷として認められ、おこぼれをもらって「成功者」として台頭し、マシな生活を手にします。

人間性を削ぎ落した操り人形になることが「昇進」「出世」であり、人間をやめられない人間が「負け組」として辛酸をなめる。

そんな世の中で、まともな精神を保てるほうがイカレていると思いませんか?

そりゃあ、依存症にもなりますよ。真面な人こそ、依存症になりますよ。何かに依存でもしなければ、とても命を繋いでいられない世の中です。

それなのに、依存症者は偏見に苦しみ、社会の隅っこに追いやられている。

こんな社会のほうこそ狂っているんじゃないでしょうか。

私はそう思います。

資本主義によって、世の中は物質的には豊かになったかもしれませんが、精神的にはどんどん貧相になっていると思います。

心にはどんどん空白ができて、巨大な穴がぽっかりと空いている。

そんな大きすぎる心の穴を埋めるために、何かに依存するのは、おかしなことではありません。

対人関係に依存したり、物質に依存したり、行為に依存したり、その表出の仕方は人によって様々ですが、根っこは同じです。

依存症の真の課題は、この国、社会のあり方にあると思っています。個人的な問題ではない。

対人関係に依存して、共依存になり、過干渉・イネイブリングなどが多くの人のベースにある。だから、親子関係を含めた人間関係は、当然不健全な形にならざるをえない。

その不健全で歪んだ関係性が、アダルトチルドレンの問題や虐待や家庭内暴力などに繋がっているのではないでしょうか。

医療や福祉では、問題を抱えている「個人」に焦点を当てがちですが、実際は「環境」の問題で、その人はむしろ健全だからこそ病んでいるのではないか、と私は思います。

だから、その人をどうこうしようとしても、意味がない。根本的な解決にはならない。そう思ってしまいます。

なので、これからも社会福祉士として私ができる事を、できる範囲でやっていきます。

 

この地獄を生き抜いていくための処方箋

ここまで読んで「夢も希望もないじゃないか、元気なくなるでしょうが、どうしてくれるんだよ、どうしたらいいんだよ!」とお思いのあなた。

 

たとえ国が腐っていて社会はゴミでも、私たちにはできる事があります。

それは、

①損得勘定抜きで付き合える人間関係を大切にすること

②お金になるかどうかではなく、優しさと思いやりを基準に行動を選択すること

ということです。

 

①損得勘定抜きで付き合える人間関係を大切にすること

ビジネスにおいての損得とか、権威やブランドへの憧れだとか、そういう自分の利益や世間の評価ではなく、あなた自身が「人として純粋に好き、尊敬できる」と思う他人と付き合うことです。

損得なしに助けあえる人との繋がりだけが、残っていくでしょう。

なぜなら、いずれこの社会は終わるからです。

資本主義・合理主義のもと損得で繋がる関係ではなく、愛と共感によって繋がっている関係だけが残る。そんな時代が来ると思います。

そうなったとき、損得で人間関係を選択していた人は、終わります。誰も助けてくれない「孤独」という地獄が待っています。

「人脈」という言葉が好きなビジネスマンは多いですが、ビジネスで繋がっている「人脈」をいくら広げても意味がありません。結局は金回りが悪くなれば離れていく。

見返りを求めない愛情を他人に与えることができる人は、それだけで豊かです。

愛情を受け取った人は、どんな大金をもらうよりも、それが生きていく力になることを、いずれ知るでしょう。

他人に分け与えた愛情は、巡り巡って自分のもとに還ってきます。だから損などするはずがない。他人を含めた世界は、自分と同一であり、世界を愛することは、自分自身を愛することだから。

それに気づいて愛を実践できる人同士は、深く共鳴するでしょう。

損得ではなく愛によって繋がった人間関係を大切にすることです。それが最も価値がある宝です。

この宝が、これから本当に豊かな人生を送ることができる鍵だと思います。

 

②お金になるかどうかではなく、優しさと思いやりを基準に行動を選択すること

①につながりますが、愛というのは行動です。

言葉ではいくら耳障りのよいことを言っていても、行動が伴わない。そんな人はすぐに化けの皮が剥がれるというもの。公約ではいいことを言っていても、当選したら手の平を返す、現代の政治家のようなものですね。

その人が信じるに足る人物かを見極めるときは、その人が何をしているかをよく見るとよいです。

行動が、その人を創り、人となりを表します。

決して、偽善をして気に入られようなどとはしないことです。それは損得です。気に入られることで何かを得よう、というのは、下賤な考えです。今すぐ捨てましょう。

愛とは、何かを与えるかわりに何かを得ようとすることではない。

何も見返りがなくても、与えずにはいられない。そういう行動のことです。

目の前で苦しんでいる人がいたら、自分に何ができるか定かでなくても、駆け寄って手を差し伸べずにはいられない。

目の前で悲しみに暮れる人がいたら、そっと寄り添って肩を抱かずにはいられない。

そういう行動のことです。

それを、日ごろの行動で実践すること。

「変に思われるんじゃないか」

「結局頑張ったって、1円にもならないんじゃないか」

そんな邪念に惑わされないでください。

あなたから生まれた優しさと思いやりを、殺さないでください。

迷うことなく、その人に惜しみなく与えてください。

その行動が、あなたの心を豊かにし、あなたそのものを形づくる。

毎日をそうやって生きていくと、自然とあなたの周りには愛があふれるようになる。

あなたを形づくる行動基準に見合った人々に囲まれて生きていけるようになる。

信頼は、お金では買えません。

信頼関係は、損得では成り立ちません。

その関係性こそ、資本主義の原理原則の外側にある、最も重要な宝です。

それを私たちは、目に見えるわかりやすいお金や権威よりも価値が低いと思っている。ひどい勘違いです。

 

いくら選挙に行っても、政治は良くならないでしょう。

いくら真面目に働いても、私たちは貧しいままでしょう。

人間をやめた人々が構築するこの社会は、崩壊するまで地獄のままでしょう。

 

現代社会の枠の外に、繋がりを求めましょう。

マックス・ヴェーバーのいう「鉄の檻」の外側に、経済とは全く関係のない繋がりと仲間を持つことです。

そのかたちのひとつが「自助グループ」。

だから私は自助グループに属し、利益にならなくても運営に携わっているのかもしれません。

【発達障害】「あらゆる集団に馴染めない問題」について

私は本当に、集団で社会生活を営むのに向いてない。

コミュニティに属するのに向いてない。

なんていうか、人間そのものが向いてない気がする。

 

なんでか知らないけど、どこに行っても衝突する。

私としては、まっとうなことを言っているのに、煙たがられる。

 

たとえば、マスクなんて意味ないから外してるんだけど「つけてください」とか「お子さんにつけさせてください」とか言われて、「え、なんでつけないといけないんですか?」って言う。

「そういうルールなので」とか「感染対策なので」と返ってくるんだけど、実際今まで真面目につけてた日本で感染はまた拡大してる。ということはリアルワールドでも効果なかったし、研究結果で「感染対策として意味がなかった」って報告もある。

だから、絶対つけないといけないとは言えないし、そもそも任意だし、「つけてください」と言われても「嫌です」が本心。

本心を話すと困った顔をされる。

私よりコミュ力が高い妻は「そんなん、そのときだけ合わしといてすぐ外せばいいじゃん」という。

わからない。

なんで本当は嫌なのに、気を遣って意味がないと思っていることに付き合わないといけないのか。

私は、他人がマスクをつけることは止めない。

マスクですっぴんが隠せるというメリットがあるからつけている人もいるだろうし、そもそもマスクというアイテムが好きな人もいるだろうし。

感染対策になると本気で信仰している人もいると思う。それは、宗教の自由だから、別に信じているならそれはそれでいいんじゃないかと思う。

つまり、好きにしたらいいと思っている。

だから、私にも好きにさせてよ。(笑)

マスク着けるかつけないかなんて、私が決めることでしょ。なんで明らかな正しさも納得もないのに他人の命令きかないといけないの。

おかしいよね?俺がおかしいのか?

 

会社でも浮いている。

患者さんのためになることをするのが、製薬会社のレゾンデートル(存在理由)であり、真の仕事だと思う。金儲けじゃない。

だって、薬の売り上げの7~9割は税金なんだよ?ほぼ公務員じゃん。成り立ちとしては民間企業だし、株式会社だから営利団体かもしれないけど、税金で成り立ってるビジネスなの忘れてない?

しかも生命関連産業が金儲けだけに走っちゃ倫理的にダメでしょ。

地域医療に役立つ仕事をして、その結果会社のスタンスを評価してもらって信頼されて、だから話す内容を真剣に聞いてもらえる。

結局今まで逆だったから、MRはゴミみたいに扱われてるんじゃないの?

ただ売りたいだけ、下心で近づいてきて、都合のいいことしか言わないから、信頼を失って今があるんじゃないの?

コロナのせいじゃないよ、もともと会いたくなかったんだよ。そんな損得野郎と話すの嫌だもん、俺が先生だったら。忙しいのに近寄ってくんなよハイエナども、って思うよそりゃ。

もともとはたくさんお金を支払えたから、まだウザくても利用価値があったかもしれないけど、今はせいぜい弁当くらいでしょ。もう用なしだよね。(笑)

会えないから会うために、講演会の役割とかこしらえてさ、アポイントアポイントって、それさらにウザがられるだけじゃない?

だって先生たちは毎日命を守るために忙しく働いてるのに、スライドつくったりするのに何時間も取られて、そんなのやりたくないよ。よっぽど目立ちたがりの先生じゃない限りは。

謝礼支払えるったって数万ぽっちでしょ?そんなはした金のためにスライドつくろうと思うほど、先生たちの財布はさびしくないよ。大したメリットじゃない。

なんかそんなことを依頼してこいと上司に言われるわけさ。

そりゃバトルになるよね。

「その行動が本当に医師の信頼につながるのか」

答えはNoで、医師の処方に繋がればそれでいいと思って行動を考えている。

処方に繋がるわけないじゃん、ウザがられることしてるのに。

結局私が今担当しているところでは、面会アポイントを定期的にいただくことができない。それは、前任者が今の上司の口車に乗ってウザい依頼をかけまくったから。

建前上は医師会や薬剤師会からの依頼だと断りづらいから、しぶしぶ会ってくれたけど、そのあとは「めんどくさいことお願いされるかもしれないから逃げとこ」ってなったんだと思うよ。

全く、余計なことしてくれたもんだ。おかげで俺が会ってもいないのに嫌われて会ってもらえない。

とまあ、こんなことを言うのはさすがの俺も気を遣うので、とても言葉を選んでやんわりと伝えるんだけど、根本的にお金しか見ていないからか、全くわかり合えない。

厄介なことに、自分たちが正しい、と思っている。

お金儲けそのものは、ゲームとしてこの社会で成立しているので、ハマるぶんには個人の自由だと思う。お金が欲しい、地位が欲しい、名声が欲しい、いいんじゃない?それで人生が輝くなら、突き進んだらいいと思う。

それを、私に押し付けないでほしいんだよね。

勝手にゲームにハマるのは良いけど、なんでこっちにもプレイさせようと強要するのか、意味が分からない。

私は本来の仕事だと思っている、副作用情報の収集とか本当に喜んでもらえる講演会イベントの企画とか、そっちのほうが楽しいし結果的に会社にとっても最も利益があると思ってやってるわけよ。

ほっといてくれよ。

金儲けには俺は興味ないんだ。出世とかもう心底どうでもいいんだ。

どうか勝手にやっててくれんかな。

なんか、そんな感じで職場でも浮いている。

 

不動産でも毎回もめる。

退去時にバトルにならなかったことがない。

私が問題あるのかな、と思った時期もあったけど、あきらかにボッタくろうとしてくるのが問題の根源だと思う。

こっちだって、国交省のガイドラインに沿って適切に請求されたものなら、喜んでできるだけ早く支払うさ。

やたら単価が高かったり、汚損破損以外のところを全部ついでに修理しようとしたり、減価償却の原則無視したり、そもそも契約書にあきらかに賃借人に不利な特約書いたりするから、トラブるわけよ。もともと自分たちが蒔いた種だよね、って話。

そんな細かいことわからなくてホイホイ支払う人には支払ってもらえばいいと思うよ。本人がそれで納得してるんだし。

でも、俺はちゃんとした請求内容じゃないと納得できないから支払えないのよ。

それって間違ってる?何も問題ない、むしろ起こっている状況に対して真面目で誠実な態度じゃない?おかしいなぁ( ^ω^)・・・。

確かに見積で「諸経費」を意味もなく載せたり、足元みて高めに単価設定したり、それは営業ならよくあることだって知ってる。

でも、それってバレたらもう通じないわけよ。ちゃんと見積を読む担当者の前ではすぐ化けの皮剥がれる。

不動産業界、特に管理会社会界隈では、普段は家賃の5%前後しかもらえないから、退去時にぼったくらないと利益が出せないって必死なんだってね。

そんなん、知らんし。そっちの都合じゃん。

しかも、大した管理もやってないじゃん。5%妥当な仕事っぷりじゃん。(今まで住んだ物件の管理会社に限る。多分いい管理会社さんも、めぐりあってないだけでたくさんあるはず。)

健全な企業努力で成果出しなよ。弱者からむしり取ろうとしないでさ。そんなお金で食べるご飯は美味しいのか。その神経、私には信じられない。

だけど、周りを見てみると、そんなにもめている様子もない。

不思議すぎる。みんな請求内容を見て疑問に思わないのだろうか。

 

研修会とか、同じ資格の集まりに参加しても、どこか馴染めない。

質問したら質問が多すぎるとウザがられる。

なんで?質問が生まれるようなプレゼンだから質問されるんじゃん。内容をブラッシュアップすればいいし、それができるチャンスじゃん。なんでうざがるのか。

時間がないって思うなら、あんまり意味のないディスカッションパートもっと圧縮すればいいじゃん。何となくやってる感、理解してもらえた感のために、ロールプレイとかするから時間無くなるんでしょうよ。

その運営の下手さはそっちのマターでしょ、こっちにイライラで八つ当たりされても困るんよ。

参加させてもらって有難いと思ってるし、真剣に受けてるから質問が生まれるわけで、ただ置かれた人形みたいにしてたほうがよかった?そんな感じで聞いてるときは、俺の頭には何一つ入ってないけど。それが目指してたゴールなら、すいませんでしたって感じだけど。(笑)

結局本心は、やれたことそのものに満足しちゃってて、自分たちのイベントを否定されたくなくて、守りに入ってるだけでしょうよ。

そりゃ、一から新しく組織立ち上げたりは大変だっただろうさ、それはすごいと思う。

でも、イベントの質の高低と経歴は別の問題じゃない?

 

 

とにかくそんな感じで、他人とはそりが合わない。

それが他の人と比べて頻度が多い気がする。

なんとなく、適当に、やってればいいのかな。

でもそれは全く私らしくない。

 

なんていうか、厳しいんだろうな。

自分に対してそうだから。それが当たり前と思うんだろう。

それは、自分の当たり前を他人に押し付けてるわけだから、よくないよな。

 

たぶん想像するに、友達ができる人は、

「まあ、そういうこともあるよな」

「彼らなりの事情があるんだろうな」

とこだわらないで流せる心が広い人なんだと思う。

そういう解釈では、私はとても心が狭い人なのだろう。

あとは、基本的に尊敬しているんだと思う。他人を。

歩んできた人生とか、作り上げてきた成果とか、とにかく背景にある歴史にリスペクトを持つこと。それを前提にして会話をしている気がする。妻を見てるとそう思う。

だから、今ココでパフォーマンスがどうか、というより、ぶっちゃけ提供されたサービスがショボくても、その背景エフェクトで不平・不満が相殺されてる感じがする。

私は今までどれだけスゴイかとかはあんまり興味が無くて、今しか見てない。

「自分がその人を目の前にしてどう思ったか」が基準なので、偉い人だろうがなんだろうが、あまり背景を勘案しない。言っていることが違うなと思ったら「違う」という。

だから「なまいきだ」とか「失礼だ」とか言われる。

 

ああ、それで思い出した!

部活!部活でも蛇蝎のごとく嫌われてた。

先輩とか後輩とか意味が分からなかった。

だって、1歳か2歳歳くってるだけで、大して変わりないガキ同士なのに、偉そうにされる意味が分からんかった。そうじゃないの、みんな?

「そんなに偉いんなら、タイマンで勝ってみろよ」って、先輩たちランキング戦でボコボコにしたら、ロッカーに落書きされたりした。(笑)

俺に負けた先輩が悔しすぎて陰で泣いてたのを何回も見た。

だって、スポーツの上下って実力じゃないの?

負かされたら、もちろん尊敬するよ。年下でも年上でも。俺はそう。

 

ああ、でも教師ともそりが合わなかったな。

クソつまんない話しかできないうえに社会に出たことのない、学生の延長にいるおじさんおばさんだと思ってたから。それはちょっと認知歪みすぎだったなと思う。親が教師だったから、余計に偏見が入ったんよな。

でも、偉そうにするのはどうかな、と今でも思う。

同じ人間で、軍隊でもないのに、なんで命令すれば生徒が従うと思っているのか、意味が分からない。命令が正当じゃなければ従わないっしょ。

たとえば「シャツをちゃんと入れなさい」とか。それに納得いかない俺のせいで授業が1限分潰れたことがあった。

夏にシャツを入れたら、入れないときに比べて通気性悪くなるじゃん。先生たちはクーラーがんがんにきいた職員室にいるからわからんかもしれんが、クーラーのない教室で個々人が工夫して可能な限り快適な服装をすることの何が悪い。みたいなことを言った気がする。

だって勉強しにきてるんだよ?勉強に集中できたほうがいいじゃん。快適じゃないと頭に入らないよ。ただでさえ眠りの呪文みたいなわかりにくい授業なのに。

規律が、とか、校則が、とか言ってた気がするけど、なぜそもそもその規則ができたのか背景を説明できない時点で、やっぱり根拠に乏しい聞く価値がない命令なんよ。

みたいなこと言ったらぶちギレられて職員室に呼ばれた。とても涼しかったので快適だった。

 

なんかもう、無理っぽいなぁ。

私は私らしく生きていると、集団を破壊するのかな、とだんだん思ってきた。

それ自体は負い目を感じる必要もなくて、私は結局私らしくいないとまたアルコール飲んだり共依存したりするだけだから、もうどうしようもない。

受け容れてもらえないなら、それはそれ。

私そのものが悪いワケじゃない。ただ合わなかっただけ。

受け容れてもらえる場所を見つけるか、受け容れてくれる自然と生きるか。

それしかないんだろうな、と思う。

 

いろいろね、コミュニケーションがどうとか、気に入られる技術とか、さんざん漁ったよ。

でもそれは結局問題の本質では無くて、どんな特性であっても堂々と生きることが最も健康的で最も自然で、本当の友達に出会える近道なんだよな。

本当の友達は、人ではないのかもしれないし。

人間の友達でなくてもいいのかもしれない。

【雑談】ストレスだらけの現代社会に希望はあるか

いやー、口内炎が治りません。

 

明らかに仕事(というか上司)のストレスだよなって感じです。

全く思想が合わない。

儲かればいいだけなら、オレオレ詐欺と変わらないんだよなー。

まあワクチンを取り扱っている時点ですでに詐欺会社って感じですが。

言ってしまえばインテリヤクザみたいなもんです。

私はまっとうな堅気の商売がしたいので、活動方針が真っ向から対立することがほとんど。

向こうも「やりづれぇなぁ」と思ってると思いますけど、こちらもそうなんですわ。

申し訳ないけど、異動するまでの我慢だと思ってお互い乗り切りましょうか、って感じです。

 

あー、あとは退去に伴う精算費用の訂正かな。

管理会社がぼったくってきているので、その対応が4月から今まで続いております。

よく敷金と相殺して・・・とか言いますが、基本的にはふつうに住んでいれば払わなくていいんですよ。

普段何もしないのに、退去のときには張り切って騙せる奴から騙し取るんですよね、管理会社って。

そのあたりも、正式に減額できたらノウハウを全部公開しようと思ってます。

 

私、お金って嫌いなんですよね。

ていうか、どうでもいいんですよね。

なんでみんなお金好きなんだろ。なんかと交換できるから?そんなにほしいものあるのかな。欲がすごいです。逆に羨ましいくらい。そんなに欲しいものないわ。

上司の件も管理会社の件もそうですが、思考がもう100%金のために生きているって感じで、なんかそれ虚しくない?って思います。

そりゃこの資本主義社会で生きていくには、ある程度必要なのはわかります。

でも必要最小限でいいと思うんだよなー。

損得関係なしの交流をする時間・家族との時間・純粋に知りたいことを知るための時間・自分と向き合い表現する時間、そんな時間にこそ、限りある人生を費やしたほうが、私は有意義だと思うんです。

お金にならないことのほうが、実は最も重要なこと。

 

マスメディアで報道していることは、99%プロパガンダなので、あまり真面目に見聞きしなくていいですよ。

テレビは必要ないです。捨てて大丈夫。新聞もネットニュースも、見なくて大丈夫。

誰かに何かの得があるから、記事になるしニュースになるんです。

今回のワクチンの件で、とてもよくわかりました。

だから、有名人の誰それが亡くなったとか、そんなんいちいち見に行く必要ないですよ。

人間には生存戦略のうちの危機管理能力として、不安になるコンテンツほど見に行ってしまう習性があります。

だから、凄惨な事件をテレビで流すのは、見てほしいから。視聴率を稼ぎたいからです。

それに対してコメンテーターが「こんなの許せない!」みたいな感情的なコメントするじゃないですか、報道番組って。

あれは共感させて見てもらおうっていう戦略ですね。

「恐怖」と「共感」。それがメディアの釣りメソッドだと田中玲司先生も言ってます。

ホントまさにそうだと思う。

 

ぶっちゃけ、直接会ったことも話したこともないような人が死んだって、そんなに関係ないから。

そんなこと言うと「想像力がないのか」とか「冷たい」とか、感情論で正論ぶつけてくる人が必ずいるんだけど、それは言っている本人が気持ちよくなれるから言ってるだけ。

「他人の不幸に共感できる自分は人間として素晴らしい」って思えるし、正論で他人をぶん殴るのは快感ですからね。

本当は、そんな正論をのたまう人も、ショックなんて受けていなくて、1年も経ったらスッキリ忘れてます。だいたいそうです。

だから関わる必要ありません。「自分の人生空っぽだから埋めたくて必死なんだな」って思って静かに距離を取りましょう。今話しても話が通じないので。

 

お金とエゴイスティックな欲求が絡む事象は、結局はドライな結論になっていくんです。

「自分の利益」。外側の皮を一枚一枚剥いていけば、中身はそれしか入ってないから。

だから、つまらないんだよな。

 

人間は、そんなに合理的にはできていません。

非合理な存在なのに、利益を追求して合理的な社会システムにしちゃったから、なじめなくて病んでいく。どんどん自分の人生を見失っていく。そんな感じで、自殺者が後を絶たないような現代社会ができあがっています。

なんか、依存症になる人って面白くて内面が豊かな人が多いなーって思ってたんですけど、感性が死んでないからなんですよね。

感性を殺して個性を殺して社会に適応すれば、この歪んだ社会では生きていけるんだろうけど、そんなふうに器用に誤魔化せるほど鈍くないから、酒やギャンブルでごまかすしかなかった人たちなんですわ。

以前三光病院にいらっしゃった市川正浩先生のご講演を拝聴したとき、

「依存症になった皆さんこそ、未来の希望だと私は思っている」

と語っておられた理由が、何となくわかった気がします。

私たちが依存症になるほど死と隣り合わせになってまで何かを突き詰めなければいけなかったのは、生きづらさを誤魔化しきれないほど眩い感性と個性をもつからこそ。

ダメなんじゃないんです、優れているからなるんです。依存症って。

国が「ダメ、絶対」でレッテル貼りしたかったのは、コントロールできないほどの優れた感性や個性を恐れていたから、叩きたかったんじゃないかな、と思いますね。

ダメな存在ということにして片隅に追いやって、有象無象に叩かせておきたかった。だから偏見と差別をわざわざ意図的に生んだ。

私はそんな風に思います。

 

依存症になると、最終的には「自殺するか、生きるか」の二択を真剣に選ぶことになるので、ほんと人生についてちゃんと考えるんですよね。

いい加減にできない不器用さもあり、とことん考え尽くすし、そうやって紆余曲折を経て回復すると、依存症になる前の世界の見え方とはまるで変わってる。

生まれ変わるといってもいいほどに。

本質に気づいて向き合える。

そういう意味で本当に希望なんだよなー、と思います。

 

いずれもう、この社会はダメになります。終わります。

結構もう限界きてると思う。資本主義社会は、共産主義が倒れたように、遅かれ早かれ倒れるでしょう。人を本当の意味で輝かせるシステムではなかった、残念ながら。

だから、今このシステムに合わないからって、気にすることないです。いずれ終わるんで。

社会不適合者で結構。むしろそのほうがいい。

不登校で結構。むしろそのほうがいい。

自分の思うままに生きてください。

既存の価値観はクソです。気にしないように。

 

今は生きづらい世の中ですが、なんとか耐えて、生き延びましょう。

農産物も毒まみれ、ワクチンも毒まみれ、空からは化学物質まみれ。

これからどんどん死にます。合理的思考のもと殺しにきているので、それはもうある程度死ぬところまで進まない限り、気づかないし止められないでしょう。

古代ギリシャの哲学者たちが200年以上も前に答えを示してくれていたのに、私たちはどんどん愚かになっていったんですよね。

進歩なんてとんでもない。退化以外の何物でもないです。

 

そんな感じなので、外野のいうことはあまり気にしないで、のびのび楽しく生きていきましょうね。

【雑談】結婚はしてもしなくてもいい(男女それぞれの勘違い)

未婚率を年齢(5歳階級)別にみると、2015(平成27)年は、例えば、30~34歳では、男性はおよそ2人に1人(47.1%)、女性はおよそ3人に1人(34.6%)が未婚であり、35~39歳では、男性はおよそ3人に1人(35.0%)、女性はおよそ4人に1人(23.9%)が未婚となっている。長期的にみると未婚率は上昇傾向が続いているが、男性の30~34歳、35~39歳、女性の30~34歳においては、前回調査(2010(平成22)年国勢調査)からおおむね横ばいとなっている。

引用:内閣府HP 内閣府ホーム >  内閣府の政策 >  子ども・子育て本部 > 少子化対策 > 少子化社会対策白書 > 平成30年版 少子化社会対策白書(全体版<HTML形式>) > 第1部 少子化対策の現状(第1章 3)

 

結婚とは、国の洗脳でありビジネスのためのもの

結婚は幸せと直結しない。

なぜなら、国のための制度だから。

1898年に明治民法で家制度が制定された。

なぜか?天皇制の国家制度を定着させるためだ。

家長である世帯主と家族の関係を、天皇と国民の関係性になぞらえて、「天皇は国の家長」という価値観を定着させるため。

戦後の民法改正で家制度は廃止されたが、刷り込まれた価値観はそのまま国民のなかに残存する。

そのため、今なお「結婚して家庭を持つもの」という価値観をぬぐえないのだ。

 

結婚産業の力も大きい。

結婚式は大きなカネが動くので、ビジネスとして旨味がある。婚活イベントや結婚専門雑誌や結婚式場や写真家や飲食業界など様々な利害関係者が存在している。

だから「結婚するのが当然」と社会が認識しているほうが、彼らにとっても都合がいい。

あの手この手で婚期を焦らせる。「結婚適齢期」とか「婚活偏差値(結婚偏差値)」とか、数字で横並びにして劣等感を煽る。「みんなしているのに、自分だけしていないのは変に思われるでは」とこの国が大好きな同調圧力で不安を煽る。

 

こうして、なんとなく「みんながするものだから」と他人の価値観をもとに結婚を選択する。

国がかつて意図した仕組みのための洗脳と、結婚によって儲かるビジネスを終わらせたくない人々に選択させられている。

自分が「したいからする」ことは、少ないのではないだろうか。

 

 

女も男も、どっちも幻想を「待っている」

承認欲求を満たしてくれる白馬の王子様を待っている女

「誰かが見つけて迎えに来てくれる」

そう思って運命の人が自分にアプローチしてくれる日を待っている。

女性は、ルッキズムの呪いで、男性からも同性からも容姿で順位を付けられる苛酷な世界を生きている。

そんな厳しい競争社会のなかで、自分磨きによりをかけ、女としての価値を高める努力を強いられながら、「一生幸せにする」という確約をくれる契約相手が現れるのを待つ地獄。

いつか自分の輝きを見出してくれる異性が現れる、その特別な誰かと一緒になれば幸せになれるという、幻想を信じている。

実は、「幸せ」より「安心」が欲しい。

真の敵は女の目であり、自分の女としてのランキングが平均より下にならないか、知り合いの誰かより下にならないか、それを心底恐れている。

腕によりをかけて女としての自分を高めたと認識すればするほど、その努力と築いてきたプライドに報いるような収入・ルックス・甲斐性がある異性でなくては納得できなくなる。

しかしそんな異性は、この貧困にあえぐ日本において数%であり、すでに契約済みの物件ばかり。

白馬の王子様候補は他に取られてしまったと気づいて、何とか我慢できる程度の相手に妥協する。

しかし、欲しい「安心」は理想より格下の「王子もどき」では得られないので、徐々にストレスを抱えていく。

「妥協して私にふさわしくないにも関わらず結婚相手に選んでやった」という忸怩たる思いがあるので、一挙手一投足が癪に障る。

家事育児ができない、仕事ができない、配慮ができない。できないことばかりが目に付く。

 

 

自分より弱い自分だけのマリア様を待っている男

「女はどうせ相手にしてくれない」

スクールカーストのトラウマを抱えた男の子。それが多くの男性の姿。

バスケ部のキャプテンやテニス部のエースなど、スクールカーストトップの男しか男として認識されない。思春期の多感な時期に、否定され続けた心の傷を抱えて、「女は怖くてめんどくさい生き物だ」と半ばあきらめムードで引いていっている。

それでも、誰かを守って死にたいとどこかで思っている、哀れな生き物。

異性に褒められたい、認められたい。否定され続けた恐れで自分からはもうアプローチする気力はない。だが、自分より弱い、儚げな誰かを求めている。

だから、女性が強いとなると、男はもう出る幕がない。

マウントを食らって正論で論破されようモノなら、もう黙るしかなくなる。

実家のお父さんがしゃべらない静かな存在になっていくのはそのため。

女性と喧嘩するということは、男性にとっては裁判で尋問されるようなものだ。

自動的に女性は判事であり、男性は被告である。過去に遡って過失をひとつひとつ列挙され、人格否定とジャッジが始まる。

判事に1つ口答えすれば、100倍になって返ってくることを知っている。

否定され続けた思春期を経て、もう男性の心はボロボロなので、裁判を戦える心の体力はすでに皆無。

馬鹿で弱いので「とりあえず同意して聞き流しておけば収まる、言い返しても長くなるだけだ」と諦めている。だから、男性を説教して成長させようなどとは、女性は期待しないほうがいい。男は正論で論破しても決して成長しない。殻にこもるだけだ。

このように、弁舌やコミュニケーション能力もさることながら、女性のほうが基本的に生物として男性よりも強い。痛みにも強い。精神力も強い。男性が敵うわけがない。

男性が夢見ている女性像が、そもそも現実の女とはかけ離れているのが問題。

自分を褒めてくれて、優しく包んでくれる優しさを持つマリア様を望んでいる。幻想を待ち望んでいるのは男性も同じ。

そう錯覚して幻想と結婚すると、すぐに現実を突きつけられてまごつく。

生理により毎月ホルモンバランスと激しい闘いを繰り広げる妻。楽屋は戦場である。仕事で疲れて帰ってきても、家庭も戦場。終わりなき戦場めぐりを体験し、こんなはずではなかった、と後悔する。

一緒になった妻は、もうあの頃の可憐でか弱い彼女ではない。

「結婚して・子供ができて妻は変わってしまった」と嘆く男性が多いが、それは男性側が勝手に勘違いしていただけだ。変わってなどいない。元からそうだったのだ。

目の前の女性ではなく、妄想のなかの自分だけのマリア様と結婚した気になった。

だから、女性としても、夫から自分以外の誰かのような期待を持たれて当惑するし、寂しさを感じるようになる。自分を自分として愛してくれていたのではないと思うようになる。

夫は「か弱い守るべき存在」と思い込んで接してくるので、妻である自分を下に見ているように感じる。

 

お互いに「あれ?なんか違う」ということに、結婚してから気づく。

 

どちらも孤独で不安で、病んでいる

女性も、男性も、病んでいる。

どちらも「助けて」と叫んでいる。

溺れながら相手を求め、相手も溺れているので、一緒に足を引っ張りあいながら水底に沈んでいく。そして、さらに深い場所で息もできない孤独と不安にもがき苦しむ。

これが、結婚後うまくいかない夫婦の姿だと思う。

 

自分に欠けた何かを、相手に求める。

それは自然なことだし、自分に無いものを持っているから惹かれる。似た遺伝子をかけ合わせないで子孫を残すために、遺伝子配列が異なる個体を本能的に求めている。

ここで問題なのは「相手の『自分と違う部分』を含めて『人』として尊敬しているか」ということ。

自分に無い部分の補填要員として夫・あるいは妻をリクルートすると、『自分と違う部分』が鼻につく。それは結婚により自由を失う代わりに求めているサービスとは関係がない、不純物だから。

お互いにある種のビジネスで一緒になってしまうと、相手を人として見ていない。所有物として、購入済みの商品として見ている。

それが問題の根本。

自分の生きづらさを他人で埋めようとしない。埋める手段にしない。

自分の生きづらさは自分の課題として引き受けたうえで、相手を人として尊敬するから一緒に生きていきたいと思う。

そういう前提で結婚して一緒に生活するなら、独りでいるよりも人生は実り多いものになると思う。

夫婦間の愚痴、諍い、内に秘めた恨みを感じるたびに、結婚するにあたって前提を間違えて選択している男女がとても多いのではないか、と想像する。

 

結婚はしてもしなくてもいい

結婚は、してもしなくてもいい、そんなに気にする必要のないものだと思う。

他人の目を気にしてするものでは、決してない。

男女とも、同性間でランキングをつけられることに恐怖している。

その恐れから逃れるための「逃げ道」として結婚を手段として使うと、自分の幸せから余計に遠ざかる。

誰かの一番でなくても、私もあなたもそれぞれの世界のなかで一番であることに変わりはない。主人公は自分自身。

私は永らく、同性の親友がいないことにコンプレックスを抱えていた。

他人との関係を深められない、つまらない人間だから、親友ができないのだと思っていた。

それは、相手に特別視されることで、自分が価値ある人間だと思いたかったからだった。

自分自身が自分に価値があると信じられないから、他人の物差しを頼る。それは、他人の目を気にして結婚を急ぐ人と全く同じ思考回路だった。

自分が「こいつは俺にとっての親友だ」と思っていれば、もう親友でよかった。

相手がどれだけ自分を慕っているかは、あまり関係なかった。そのことに気づいた。

つまり、自分が「いない」と思っていただけで、実はそこかしこに居たのだった。

あえて形にしなくても、または相手が証言してくれなくても、自分が信じるならそれは真実であり、他人には否定できない。

だから、親友がいるかいないか、と同じように、伴侶がいるかいないか、はそんなに大きな問題ではない。真の幸せに必要な条件ではない。

そう考えると、結婚しても離婚しても、それは自然なことでもあり、必要かどうかは人それぞれであり、結婚していなくてもしていても、自分の価値には大して影響を与えないという価値観は、素直に受け入れられるようになるだろう。

素直に自由に選択することが、結果的に後悔しない選択をすることに繋がると思う。

【メンタル】生きるのが楽になる!コミュニケーションの2つの大原則(山田玲司)

この内容がすごく大事だったので、文章にまとめてみる。

 

コミュニケーションからは逃げられない

私はASDの特性からか、他人と話すのを苦痛に感じることが多い。

というか、他人に関わるのが結構しんどい。

そういうタイプなので、できればコミュニケーションを避けて生きていきたかった。

それこそ幼稚園の頃などは、とにかく幼稚園が好きではなかった。

なんでこんなよくわからない他人と一緒の空間にいないといけないんだろう…そう思って行きたくないと親に言い、着せられた服を脱いだりしたが、無駄な抵抗だった。

無慈悲にもバスは毎朝きて、暗澹たる気持ちでゆられていた白黒の世界を思い出す。

帰るときは嬉しかった。

何故かヤクルトを飲んでから帰るという風習がある幼稚園で、ヤクルトが配られるときは希望に満ち溢れていた。

やっと帰れる!このくそみたいな空間から、自分の居場所である自宅に帰れる!

そう思って幼稚園にいる時間のなかで、唯一ウキウキした。

小学校も嫌だった。

次第に、この変な集まりには絶対に参加しなくてはならない社会のルールなのだと理解した。

深く絶望した。

他人は必ず存在して、うまく付き合っていかなくてはいけない。

そういうことなのだと悟った。諦めた。

 

そこから私の戦いははじまった。

とにかく他人を模倣して、馴染むように徹底的に努力した。

偽りの関係しか結べない、偽りの人間関係だったが、徐々にコツがつかめてきて、周りから迫害されることはなくなった。

しかし、相変わらず空虚で、接すれば接するほど病んでいった。

もっとうまくやらないといけない。

そうしないと社会で生きていけない。

その危機感はあった。

 

だから、向いていない営業を仕事に選んだのだろう。

ほぼ無意識に、この欠点を補修工事しないことには、人間らしく生きていくことが不可能だと思っていたようだ。

そして地獄のような社会人生活がはじまった。

「空気を読め」「ちょっと想像すればわかるだろ」「相手の立場に立て」

意味不明だった。

今までは勉強とスポーツができていれば、ある程度の処世術になったが、社会人はそうはいかなかった。

より高度なコミュニケーションを要する社会人生活で、私は完全に挫折した。

アルコールで何とか不安をかき消し、頑張り続けた結果、うつになりアルコール依存症になり、ボロボロになった。

 

そんな私は今、ある程度人との関わりを前向きにとらえることができるようになった。

それは、私の病巣の根本に欠けていた「自己受容」を成し得たからだと思う。

ASD・ADHDである自分。アダルトチルドレンである自分。

生きづらさを生む根本的な他人との違いを、問題として認識し、受け容れ、それでも自分には価値があると思えたこと。

それにより「他人に合わせなくてはならない」「うまくやらないといけない」という呪いを祓った。

自分を認めることは、他人を認めることに繋がった。

違ってもいい、間違ってもいい、だから自分も他人も許せる。

そういう到達点にあって、山田玲司先生のおっしゃることは真理だと思った。

 

コミュニケーションの大原則①

「人は変えられない」

相手のためを思ってって言いながら

相手を自分の意のままにコントロールしようとするというのは

近代の病です。

そして人間の傲慢なんですよ。

とんでもない傲慢で 己を知らない

無知の知ってやつですよ。

自分が無知であることが分かってないから

自分が言ってることが正しいと信じて

相手をその考えのもとで変えようとしている。

 

私の親は、私を変えようとしたがった。

私が一人で居ようとすると、無理にでも友達と遊ばせようと外に追い出した。

私が他の子と違うと、悲しげな表情で「なんで他の子と同じようにできないの?」と聞いた。

違うんだからしかたないじゃないか。

そう思っても、そう言っても、違和感があってはダメだと言われた。

これはとてつもなく強い呪いとして、私の幼い心に冷たい楔を打ち込んだ。

「ちあきのためを思って、言っているのよ」

と何度言われたことか。

私のためを思うなら、私のありのままを受け容れてくれさえすればよかった。

最も私を肯定してくれるはずの両親が、私が私のままでいたらダメだと言われたら、立つ瀬がない。もうどこにも居場所がない。

親は、親自身の考えが正しいと信じ込んでいるとき、子どもを否定する。

自分たちのほうが正しいと思い込んで、それを刷り込もうとする。

何と傲慢なことだろう。

子どもだって一人の尊厳ある人間であり、その瞬間に感じることは、その子にとってのゆるぎない真実だ。それを否定してはいけない。そんな権利は、親にも、世界中の誰にもありはしない。

結局、私は私のままだった。全力で偽装と模倣はしたが、本質は変わらない。

人は他人が変えるものではなく、自ら変わろうとするときに変わるものだ。他人が変えようとすることは、そもそも不可能なのだ。

なのに、親は自分の子どもを「教育できる」「育てられる」と思っている。

自分の分身のように勘違いしているので、そういう発想になるのだと思う。

そうやって子供を自分の持ち物のように扱っていると、私のように病んだ子供になる。

 

まずは、自分が正しい、という思い込みを捨てること。

正しいことなんて、この世にありはしない。正しいように見えるだけで、本人が信じる世界が、そのすべてだ。それを書き換えようとするのは、人権侵害であり越権行為だ。

そして、影響を及ぼせるのは自分だけで、自分すらままならない、という事実を受け容れること。

まして、他人をや、である。

自分で自分をコントロールできる、ということすら、傲慢な思い込みで、そんなことはできはしない。

人間というのは、ありとあらゆるこの世のすべてから影響を受けていて、その一部でしかない。

木の葉が木の幹に逆らうことができないように、木の葉の栄養なしに木の幹が太くなることができないように、全は一、一は全である。

 

 

コミュニケーションの大原則②

「デスノート禁止」

自分内憲法によって相手を裁くのが、デスノート理論です。

(自分のなかの)「許せない」が多い人ほど不幸な人生になる。

自分憲法をやめて、自分美学にしなよ。

 

小さい頃から思い知ってきた。自分と他人とは違う、ということを。

価値観も違う。背丈や見た目も違う。育ってきた環境も、目指している場所も違う。

譲れないことも、許せることも違う。

他人とは、別の宇宙で生きているようなものだ。

同じ空間、同じ世界で生きているようで、心が通うように錯覚することはあれど、それぞれの精神世界は完全にシンクロすることはない。

違って元々。そしてそれぞれが美しくて元々。

私は自分の世界を否定されて育ったので、自分の世界を憎み、他人の世界をもっと憎んでいた。

「そんなにお前らが正しいって言うんなら、どんなに素晴らしいもんか見せてみろや」

と思っていた。

否定する気満々なので、見るものすべてが不快で、欠点ばかりに思えた。

それを心のなかで否定するにとどまらず、対外的に攻撃性として内包し続けた。

それを他人に直接ぶつけられないので、反転して自分に殺意が向いた。アルコールを過剰摂取していたようなもの。自傷したり、過食や拒食に陥る人も、同じような感覚なのかな、と思う。

私は私のなかで、他人を決して許しはしなかった。

虐めた人間はフルネームで覚えていて、どこかで会ったらいつか復讐してやろうと思っていたし、何か気に入らないことを言った人間のことを繰り返し思い出していた。

心のなかのデスノートは、たくさんの名前でいっぱいだった。

恨みを抱えて、誰も許せない。「許せない」が飽和状態になり、心を埋め尽くす。

それはそれは生きるのが辛かった。なんてしんどいんだろうと思った。

こんなに嫌な世の中、早く寿命がきて終わりにならないかな、いっそのこと終わらせてしまおうか。

そんな風に思って生きていた。

外への攻撃性を自分に向けた結果、自暴自棄になる。

そのまま外に攻撃性を向けた場合は、わかりやすく逮捕される。

それだけの違いだと思う。

 

つまり、自分の世界を認めさえすれば、他人の世界も許容できる。お互い様だから。

自分の世界を他人に否定され続けて、自分自身も否定するようになると、苦しくなる。

他人は、親も含めて、否定して当たり前だった。違う宇宙だから。

それを私に押し付けたことは、彼らの罪だが、それは彼らもそうされて育ってきた呪いを継承したに過ぎないのだろう。

だから私は親を許すことができた。彼らもまた被害者だから。

ただ、同じ呪いを受け継ぐつもりはないので、私は私をありのまま受け容れる決心をした。

そして私の世界を、他人に押し付けることをしないと誓った。

とはいえ、なかなか難しいもので、他人が私の世界を否定して変えてやろうと干渉してきたとき、境界線を越えてきたことへの怒りでついつい反撃したくなる。

そういうときは「この人は今なお、受け継いだ呪いに苦しんでいるんだな」と思うことだ。

ガンディーは狂信的なヒンズー教原理主義者の凶弾に倒れ暗殺されるとき、薄れゆく意識のなか、自らの額に手を当てた。

これはイスラム教で「あなたを許す」というジェスチャーだった。

つまり、彼は自分の命を奪いにきた相手にすら「それでもあなたを許そう」と思える偉大な人だった。

私はまだまだそんな域には達することはできないが、これが一つの解答だと思う。

 

 

まとめ

①変えられない自分を含めて、人は変わらないということを、それでいいんだと受け容れる。

②心のなかのデスノートを抱えて生きるより、自分も他人も許して生きていくほうが、楽しいし幸せだと理解する。

このふたつで、人生は、今までよりはるかに生きやすくなると思う。

私は遙かに楽になった。生きやすいし、毎日が楽しい。

心の大部分を占めていた怒りや恨みを手放すと、心のなかにゆとりができる。

それではじめて、世界の美しさや自分の心の声が視えてくる。それなしには、自分の世界を愛することなどできはしない。「他人」という負の意識に埋め尽くされているうちは、己を理解しようと耳を澄ます余裕すらないのだから。

仕事においては、呪いを背負いまくっている自称エリートの病人たちが同僚なので、度重なる過干渉に辟易とすることはある。

というか、この世の中はそんな病人ばかりだ。社会そのものの病み方がもはや末期的。そりゃしかたない、この人たち一人一人のせいじゃないよな、と同情する。

しかしまあ、それも含めて変えることはできないし、私の仕事ではない。私は私をご機嫌にすることが唯一他人ができる事なので、「御気の毒様」と思ってあまり触らず流している。流せるようになったのは、成長の証だ。

彼らからしたら「なんでいうことを聞かないんだ」「私が正しい、あんなのはダメだ」と心底受け入れがたいかもしれないが、申し訳ないけど私のなかで違うものは違う。違っていいと思うし、他人が違う世界の理で生きていてもいいと思う。私に押し付けさえしなければ。まあ押し付けてしまう気持ちも分かるので、それも含めて、彼らが思うように生きたらいいと思うよ。

私の世界を受け容れられないのは彼らの心の問題であって、私は私で生きていくほかない。それでベストだから、もうどうしようもない。あきらめてほしい。(笑)

なんだか、そういう最近よく感じることに重なる動画だったので、とても感慨深かった。

 

参考:冒頭にご紹介したまとめ動画の元動画はこちら↓

 

【AC】他人の目が気になってやりたいことができない人へ

ACは特に「他人の目」を気にしやすい。

具体的には、問題でいうところの、以下の太字部分に、悩みを抱えている。

 

機能不全のある家庭で育ったことにより、わたしたちが共通して持っていると思われる特徴

  1. わたしたちは孤立し、人や権威を恐れるようになっていた。
  2. わたしたちは承認を追い求めるようになり、そうしているうちに自分が何であるか分からなくなっていた。
  3. わたしたちは人が怒っていたり、何であれ個人的な批判を耳にしたりすると怯えてしまう。
  4. わたしたちはアルコホーリクになったり、アルコホーリクと結婚したり(両方の場合もある)、あるいはワーカホリックなどの他の強迫的な問題を持つ人を見つけたりして、病んだ「見捨てられ欲求」をみたそうとする。
  5. わたしたちは人生を犠牲者の視点から生きていて、そういう弱さによって恋愛関係や友情関係で人にひきつけられる。
  6. わたしたちは行きすぎた責任感を持っていて、自分のことに気をつかうより他人の心配をする方が簡単にできる。そうすることで例えば、自分の欠点をよく見ないですむ。
  7. わたしたちは人のいいなりにならずに自分の意見を述べると罪悪感を感じる。
  8. わたしたちは刺激に嗜癖するようになっていた。
  9. わたしたちは愛を哀れみと取り違え、自分が “哀れみ” “救える” 人を “愛する” 傾向がある。
  10. わたしたちは悪夢のようだった子ども時代から感情を抑え込んできて、そうするとひどく傷つくので、自分の感情を感じることや表現することが出来なくなっていた(否認)。
  11. わたしたちは自分のことを厳しく裁き、自己評価が非常に低い。
  12. わたしたちはとても依存的になっていて、見捨てられることを怖れ、見捨てられる痛みの感情を経験しないですむように、人との関係が切れないようにするためになら、どんなことでもしようとするほどだ。その痛みの感情は、わたしたちにとって情緒的に不在だった病んだ人たちと、一緒に生きてきたことから受け取ったものだった。
  13. わたしたちは、自ら行動する人ではなく反応する人である。

これは特徴を述べたものであって、非難ではない。

引用:ACA(アダルトチルドレン・アノニマス)>問題

 

結論から言えば、これらの悩みを手放すには、ACの自助グループに参加し、12ステップ・プログラムに取り組む必要がある。

今回は、取り組んだ結果、どんなマインドで生きることができるようになるかについて話していきたい。

 

「自信がないこと」に自信を持つようになる

プライドや自信というのは、自分らしい挑戦の邪魔になる。

そういった余計なものを抱えていると、何かをやろうとするとき、あるいはやりたいとき、「うまくできるかどうか」を気にしてしまう。

うまくできなければ、他人と比べて下手だったら、バカにされるのではないか。

傷つくのではないか。

生まれた恐れが、踏み出そうとする足を止める。

 

たとえばこの世に、自分以外誰もいなければ、どうだろうか。

比較する対象がないので、優劣をつけられる心配はない。

上とか下とか、そんなランキングもない。

そんな状況なら、好きなようにのびのびと、やりたいようにやれるのではないだろうか。

評価されなければ、評価されるために何かをしなくて済む。

 

他人の目がある状況と、無い状況。

いずれも、自分がやりたいようにやったとして、うまくいくかどうかわからないのは、同じだ。

うまくいったか否かすら、見る角度によっては異なる。

つまり、周りがどうであれ、結果はやってみなくてはわからない。

そして、結果は、やってみて初めて得られる。

他人がいるか、いないか、は関係ない。

 

私も、やる前から、あれやこれやと思案して躊躇してしまうことがある。

結果が不安だからだ。

失敗して他人と比べられ、下に見られる痛みを経験したくない。誰もがそうだ。

自信がない。

 

しかし、今まで述べてきたように、自信なんてものは、実はどうでもいい。

そんなもんは必要ない。

 

私と他の人は、同じじゃない。

あらゆる面で、同じではない。

だからそもそも比較することができない。

生まれた環境も、与えられたポテンシャルも、個性も、全てが違う。

世の中でいう上下や優劣というのは、ひとつの角度から無理やり比べてひねり出したものであって、絶対ではない。

私がやったことの結果、というのは、私が行動することで初めて得られる果実であり、それは私以外誰も獲得できない、唯一無二のものだ。

「私」という人間が、行動を起こさなければ、私の現実に影響を及ぼすことはできない。

私の行動ひとつひとつが、私にしかできないこと。

 

それなら、自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。

そんなものを持っているから、やりたいときに、やりたいようにできない。

そもそも私は、そんなになんでもうまくできるわけじゃない。

やってみないと分からないことばかりだったし、すぐにうまくできることなんて、ほとんどなかった。

ポンコツで結構。下手で結構。むしろ下手こそ、なお素晴らしい。

下手だと分かることは喜びだ。

今の自分にできないことがわかるということは、未来の自分にはもっとできる事が増えるかもしれないということだ。自分のなかに可能性を見つけたという、喜び。

 

他人と比較するかどうかは、私が決められる。

他人がどう思うかは、他人の仕事であって、私が気にすることじゃない。他人が他人のために、私のイメージを他人の心のなかでポジショニングしているにすぎない。どうでもいいうえに、私にはどうしようもない。

であれば、そんな自分には関係のない「他人の評価」を気にして、やりたいことを我慢することは、馬鹿馬鹿しい。

実にもったいない。

まだ自分も見たことがない色の絵の具を試したいのに「他の人が変な色と言わないだろうか」とブツブツ言いながらパレットに出す前にためらっているようなものだ。

変か変じゃないかは、私がパレットに出して実際に画用紙に描いてみて、私が決めるのだ。

他人には変な色でも、私にとって綺麗ならそれは綺麗な色だ。

描いてみないと、どんな色かわからない。気に入らない色かどうかもわからない。

わからないことをずっと考えていても、ずっとわからないままだ。

 

新しい色を試すとき、失敗はたくさんある。初めてだからしょうがない。

試したことがたくさんあるから、私は失敗が珍しくないことを知っている。

失敗する自信がある。つまり、自信はない。

自信がないことに、自信を持っている。

 

 

「分かりやすい成功」にあまり価値はない

お金がある。

社会的地位がある。

賞をもらう。世間から認められる。

 

目に見える、他人が与えてくれるもの。

それらは、確かなもののようで、確かじゃない。

だからいくら集めても、いつまでも渇きが癒えない。

 

この地球は、今までもこれからも、ずっと続くだろうか。

残念ながら、地球にも寿命がある。

地球のプレート運動は、地熱をエネルギー源としている。

この地熱は有限であり、地球がある程度冷えてしまうとプレートの運動も止まる。

プレートの運動が止まると、太陽からのフレアで、いずれ地球の大気がはぎとられていき、海水は蒸発し、数10年程度で火星の様な不毛の地と化す。

いずれ地球上のすべての生命は消えてなくなる。

私にいずれ寿命が来るのと同じに、万物にはすべて終わりがある。

そのことを考えると、お金をどれだけため込もうと、どれだけ他人が賞賛しようと、それが永久に残るわけでは無い、ということがわかる。

だから、分かりやすい価値に、そこまで価値はない。

いずれ消えるからだ。

 

では、何が価値あるものなのか。

それは、今存在している「私」という役割を果たすこと。

今という時間を生きる一個の存在として、全力で自分らしく生きることが、自分であることを全うする、ということ。

豆粒のような小さな存在。誰もがそう。だから尊いしかけがえがない。

小さな存在こそが世界を覆い、だからこそ世界が成り立っている。

「今」という時間を構成するために、私もあなたも必要不可欠な存在だということ。

それが最も重要な価値あること。

つまり、存在し、自分らしく生きていることそのものが、真の価値だ。

分かりやすく、褒められる必要もない。認められる必要もない。たくさん稼ぐ必要もない。

それは「価値がある」と自分自身を肯定することができないから必要だと錯覚するだけで、まるっと自分そのものを肯定してしまうと、きれいさっぱり要らなくなる。

つまり、他人がつくった「確からしい証明」は、無くていい。

 

生き死にを越えて追い求めるべきもの

親が子どもに莫大な財産を残したとして、果たしてその子は幸せだろうか。

往々にして、2代目・3代目はその財産を食いつぶしたり、要らぬ贅沢をして、一生を終えていく。その歴史を鑑みるに、金銭的な遺産を引き継ぐことは、およそ幸せとは程遠いのではないかと感じる。

何か金銭的・物質的に価値があるとされるものを残さなければ、我が子は幸せに生きられないだろうか?

自分の子どもの可能性をそんなに軽んじてはいけない。

本人の幸せは、本人にしか決められない。

失敗する経験こそが糧となる。試行錯誤のなかで自らを考え行動し成長していく。生命はいずれの個体もその力を充分に持っている。

自分たちの子どもが、自分で自分の生きる道を探せないわけがない。

「きっとできる」

そう信じて任せることこそ、本当に愛するということではないだろうか。

 

自分で自分の命そのものを肯定できさえすれば、生きること自体を楽しむことができる。

逆にそれが親自身にぽっかり抜けているから、何かを残さないと安心できないし、何か結果にならないと子どもを褒められない。

自分を肯定できないから、子どもを信じられない。

子どもを信じられないから、過干渉して世話を焼き、「あなたの幸せのため」と言って「経験」と「失敗」という果実を横取りして、AC(アダルトチルドレン)という呪いを残す。

自分の人生を楽しめない親が、子どもの人生を楽しくないものにする。

他人へ与えられる唯一のギフトは、自分がご機嫌で、希望に満ちて人生を生きていること。

私たちはそんな姿を、子どもたちに見せられているだろうか。

 

「My life is my message.」

「私の人生が、私のメッセージ」というガンディーの言葉。

親が子供に残せるのは、人生の先輩として楽しんで命を生きている姿。生き様。

だから、お金を稼ぐため、家族のため、と自分に言い聞かせて、やりたくもないことをやらないほうがいい。それは逆に家族のためにならない。

他人に認められるために、人の目にビクビクしながら我慢したり遠慮したりしないほうがいい。

ため息をつきながら嫌々生きる必要はない。

自分の気持ちに素直にのびのびと生きればいい。

他人の目など気にする必要はない。

好きなことを言わせて、好きに評価させておけばいい。それはあなたの価値に1ミリも傷をつけたりしない。

自分のご機嫌をとろう。

それが最も大切にするべきことだ。

「自分のことばかりでいいのか」と他人のことを気にかけるヒマがあるなら、自分自身が人生を最高に楽しくご機嫌で過ごすことだ。

それだけが、他人に与えられる唯一の贈り物だ。

 

こう思えるようになると「他人の目を気にしてやりたいことができない」という悩みは、消えてなくなる。

【仕事】「底辺の仕事ランキング」問題からわかる現代社会の病

このニュースが話題になっていたので、ちょっと書いてみる。

就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

 

「就活の教科書」というサイトに掲載された『【底辺職とは?】底辺の仕事ランキング一覧』という記事が炎上したという話。

引用:「就活の教科書」HP

 

問題のランキング表はこちら。

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

 

なぜこのランキングが生まれ、なぜ人々が反応したのか。

そこから現代社会の病が見えてくる。

 

①資本主義・新自由主義が生む「損得マシーン」の世界

②自己肯定感を失った寄る辺ない心

③共感性・想像力を失う「言葉の自動機械」化

④正義という暴力 現実逃避のための憂さ晴らし

 

この4つに分けて、抱える病について話していきたい。

 

①資本主義・新自由主義が生む「損得マシーン」の世界

経済で社会を構成しよう、というのが資本主義。

できるだけ公的介入を少なくして、自由に競争させることで資本主義経済を最適化しよう、というのが新自由主義。

現代社会は資本主義社会であり、新自由主義社会である。

儲かるか、儲からないか。つまり、損か得か。

そういった合理的な判断をもとに、計算可能性・投資可能性で人がやることを決めるのが、今の社会のルールとなった。

そのルールのもと、人間は「損得マシーン」になっていく。

そうなると、就職活動も結局は「楽して稼げるか」という観点で就職先を選ぶのが、最も合理的という判断にならざるを得ない。

底辺職の特徴について、

(1)肉体労働である

(2)誰でもできる仕事である

(3)同じことの繰り返しであることが多い

—- と解説しており、

デメリットについては、

(1)平均年収が低い

(2)結婚の時に苦労する

(3)体力を消耗する

—- を挙げた。

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

だから、デメリットの箇所のような思考になる。

投資する労力に対して、金銭的なメリットが大きいかどうか、婚活において市場競争力があるか、という「効率」でしか仕事を評価していない。

つまり何もかも「コスパ」で考えてしまうそもそものこの社会における価値判断が、大きく歪んでいるのである。

画一的な価値観を刷り込まれている。その歪んだ思考回路に気づいていないのが、病。

 

②自己肯定感を失った寄る辺ない心

なんで「ランキング」をつくるのか。

なぜそれを人々は嬉々として、あるいは戦々恐々として見に行ってしまうのか。

それは、順位をつけて上か下かを見て、安心したいからだ。

裏を返せば「相対的に他人と比べて上か下か」しか自分を肯定する材料がない、ということだ。

しかも、収入というごく一部の側面での、優劣でしか、自分を測れなくなっているということだ。

元々狩猟採集民族であった人類は、「目標」というものに弱い。

命を繋ぐために100万年以上「目標」を達成してきた私たちの遺伝子には、「目標」を達成しようとする精神神経回路が強烈に組まれている。

なので、競争の勝ち負けに人間の脳は引かれやすくできている。

ゲーム開発者はハマりやすいこの回路に働きかけて、よりゲームにハマってたくさん時間を使ってもらえるように、ゲーム内のランキングという「目標」をあえてつくっている。

本来、自分に合った仕事を誠実に行っていれば、それだけで有意義だと感じられるはずだ。仕事を通じて感謝され、自己実現が叶うのなら、それはその人にとって最良の仕事だといえる。

しかし、そういった自分の内面から湧き上がるような意思を持っていないと、与えられた「目標」に引っ張られる。それが、「お金=収入」という社会が与えた「目標」だ。

他人が考える他人が良しとする他人の為の目標。それに引っ張られて、自分が本当に成し遂げたい目標が無い。

つまり自分がない。空っぽだ。

自分の心から出発するものではないから、いくら他人から賞賛されても、いくら稼げても、その胸のうちは空虚で飢えている。

自己肯定感は、自分が自分として生きる過程でしか育まれない。そして、成功ではなく失敗からしか、実は自分のありのままを肯定するエッセンスは得られない。

失敗しないように、他人に認められるように、と生きていればいるほど、自己肯定感は養われない。

そうやって、空っぽになり穴を抱えた寄る辺ない寂しい心を「ランキング」で慰めるのは、実に空虚な行いだ。

 

③共感性・想像力を失う「言葉の自動機械」化

再びこの引用箇所を読んでみてほしい。

底辺職の特徴について、

(1)肉体労働である

(2)誰でもできる仕事である

(3)同じことの繰り返しであることが多い

—- と解説しており、

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

決定的に、想像力が足りないことに気づくだろう。

たとえば11番目に挙げられた、保育士。

この仕事は、肉体労働という側面だけではない。神経発達症や学習障害をもつ子の療育について専門書を読んで学ぶ必要もあるし、子どもだけでなく親についても学ぶ必要がある、実に専門性を問われる性質を持っている。

誰でもできるわけではない。子どもを複数人同時に見守る、ということは、そう簡単にできる事ではない。子育てをした経験がある人なら、容易に想像できるはずだ。

毎日が同じことの繰り返しであるはずがない。子どもたちは日々成長するし、その子ごとに日によって遊びたい内容も気分も違う。喧嘩が起こる日もあれば、急な体調変化で対応に迫られる日もある。

つまり、この記事を書いた人は、保育士という仕事のリアルを知らない。

なぜリアルを知らないのに底辺の仕事と位置づけたかというと、給与水準・平均的な学歴といった、データでしか仕事を見ていないからだ。

実際に体験したことのない、あるいは体験した人の話を聞いたことすらない、共同身体性を伴わない平坦な言葉や数字だけの情報を鵜吞みにしてしまう思慮の浅さ。これこそが「言葉の自動機械」化であり、問題の本質だ。

 

④正義という暴力 現実逃避のための憂さ晴らし

「職業に貴賎なし」

この正義の名のもとに、問題の記事を書いた人、掲載した会社を断罪するツイートをよく見かけた。

ごもっともだし、正論だ。正論には力がある。

その力を借りて、自らの残虐な嗜虐心を正当化してはいないだろうか。

人間が最も残虐になるのは、悪に染まったときではなく、真偽どうあれ「正義の側に立った」と思ったときだ。

「自分は正しい」という免罪符を手に入れて、正義という名のこん棒で悪とみなしたものの頭を打ちのめす快感に溺れる。

何かの漫画の一コマで有名な一節である。なんだったっけ・・・。

 

言いたいのは、この記事を書いた人と同じ、加害者になっているということ。

正義で他人を叩き殺す快感で、何を忘れたいのか。

それは「うまくいかない自分の現実(リアル)」だ。

自分の仕事の報われなさ、虐げられた記憶で同調し、その憎しみをぶつけることで、憂さを晴らす。そのために、このネタを使っているに過ぎない。

 

「自分はそうはならない」と心のなかで思っている。

それはわからない。私たちは誰もが、何もかも知っているわけではない以上、見えない差別(アンコンシャス・バイアス)で誰を傷つけてもおかしくない。

自分も叩かれる側になる日がくるかもしれない。その想像力にかけている。それは誰もが同じなのかもしれない。

その共感性と想像力の欠如こそ、この社会が抱える問題であり、議論すべきことではないだろうか。

そして、こうした「尊い仕事の給料が低いこと」が解決すべき課題であり、本来目を向けて皆で解決していかなくてはならない問題の本質ではないか。すなわち新自由主義的な社会が構造的に間違っている、それをどうするか、という問題だ。

暴力を暴力で解決しようとするのでは、同じになってしまう。いつまでも形を変えて同じ悲しみが繰り返されるだけ。

 

私が就活生に声をかけるとしたら

この社会は、いずれ崩壊する。

行き過ぎた資本主義が行きつく先は、ごく一部の富裕層による全体主義化だからだ。

99%の人間が不幸になる。そしてその不満が頂点に達したとき、カタストロフが起こる。歴史は繰り返されてきた。

潰える運命のこの社会の常識。それにどれほど価値があるだろうか。

常識はいずれ非常識に裏返る。そのとき私たちは何を寄る辺として立つのだろうか。

 

本当に価値あるものは、自分のなかにしか見いだすことができない。

ランキングなど、ただの低俗な遊び。気にする価値もない。

自分に問いかけよう。

本当に価値があると心から思えることをしよう。それが天職だ。

そして志を同じくする、損得ではなく心で通じ合える仲間を持とう。

金の切れ目が縁の切れ目。金で繋がる縁など、本当の繋がりではない。本当に困ったとき、手を差し伸べられる、手を差し伸べてくれる友人こそ、最も大切にすべきものだ。

経済も社会も崩壊したとき、本当に頼りになるのはそれだけだ。逆に言えば、その繋がりさえあれば、愛で繋がるコミュニティーに属していさえすれば、助け合って生きていける。

 

私が就職活動をしている学生にアドバイスをするとしたら。

 

何度失敗してもいい。まずはやってみること。そうでなくては見えない世界がある。

自分でつかんだ経験と哲学に照らし合わせ、自分の内なる声を聞き、望む道を見出すこと。

その道で出会えた心から尊敬できる仲間を大切にすること。

 

そんなところだろうか。