褒められると喜ぶ子もいれば、褒められると緊張する子もいる。
いったい、この2つのタイプは何が違うのだろうか。
褒められると喜ぶ子の心理
言葉をそのまま受け取る子。裏を勘繰らない。
「自分は認められた」と感じて、パワーがみなぎる。
褒めてもらうことを心から喜び、欲する。
他人の賞賛が自己肯定感を下支えしてくれる。
そしてそれは「私ならできる」という自信に変わり、挑戦する原動力になる。
もし数回失敗しても、今まで褒められた経験をもとに、自分の挑戦はいずれ成功につながるという再現性を信じる。
信じて何度も挑戦するので、結果的に成果がでる確率が高まる。
そして「やはり私ならできる」という自分という存在への信頼を強固にしていく。
自分自身への信頼が確固たるものであれば、自分がやったことを他人が褒めてくれなくても、「今はまだ認めてもらえないだけ」と、自分の方向性を信じることができる。
自分の意思で物事を決め、光が見えない暗いトンネルのなかも前に進むことができる。
折れない、くじけない。そんな未来を切り開く。
褒められると緊張する子の心理
言葉の裏を読む子。言葉の裏にある「相手の期待」のほうに意識が行ってしまう子。
私はまさにこっちだった。
褒められると「もうこれと同じことで失敗できない」と思った。
なぜなら「できる」という状態を褒められているので「できない」状態にはもう戻れないから。
「できない」状態の自分は認めてもらえない。
できるから肯定してもらえるということは、できない場合は否定されるということだ。
なので、褒められると緊張する。
だから、できるだけ褒められたくなかった。認めてほしいけれど、褒められると逃げ場がなくなるから。
だから、褒められると異常なほど謙遜する。
でも、心のなかでは認めてほしいので、自分以外の他人が褒められていると嫉妬する。
心がザワザワして、他人の成功を目の当たりにすると焦りや不安を感じる。
そのため、客観的にみると謙遜するわりにはプライドが高く見える。
他人の成功は、何かしら理由をつけてケチをつけがち。
成功しなければ認めてもらえない、というプレッシャーのなか、自分にできそうなことにしか挑戦できなくなる。失敗を過度に恐れる。
褒められることを選ぶが、それが自分のやりたいことではないことも多い。
しかし、自分の希望なんかより、他人の期待に応えて結果を出すことが、褒められるためには必要なので、自分の気持ちを無視して物事を決定してしまう。
最終的に、本当はやりたいことではないことを一生懸命やり、ヘトヘトになって他人に認められるために生きる。
そして、認められればられるほど、プレッシャーは大きくなっていく。
大きくなり過ぎたプレッシャーに押しつぶされると、二度と立ち上がれないほど深く傷つく。
自己効力感がない毎日で、やれどもやれども自分の心は満たされない。
結果として、潰れることが多くなる。
結果ではなく行動を褒める
この2つのタイプの何が違うかというと、実は褒める人の「褒め方」が違う。
喜ぶ子の親は、行動を褒める。
緊張する子の親は、結果を褒める。
子どもというのは、まだまだ人生を歩み始めたばかり。
圧倒的に失敗することのほうが多い。
むしろ成功することより失敗することが大切で、失敗により重要なことを学んでいく。
何かに挑戦しているとき、子ども自身はとても不安で、ドキドキしている。
同時に「どうなるんだろう」「できるかな」とワクワクもしている。
その過程を経験しようとアクションを取れたことこそ、その子にとって最も重要なことで、ぶっちゃけ結果はどうでもいい。後からついてくるから。
そのことを知っている親は、まず挑戦したことを褒める。
「よくがんばってやってみたね」
「あなたが挑戦したことを誇らしく思うわ」
そう褒められると、行動したことそのものを全肯定されることになるので、結果がどうであれ、子どもは自分の行いを恥じる必要がない。
失敗して悔しかったり悲しかったりして泣いたとしても、行動したことそのものに恐怖することはない。
なぜなら親は、また褒めてくれる。行動を起こした自分を。
だから、またやってみよう、と思う。
反対に、結果を褒めると、「結果を出した自分」を褒められていると認識する。
前者の褒め方に比べて部分的である。
「行動→成功」となってはじめて親に褒めてもらえると思う。
そして、親は「成功している自分」を期待しているのであって、失敗している姿を望まれてはいないことを読み取る。
親にとって望まれない子どもになる。
それほど怖いものはない。それほど深い絶望はない。
だから、失敗を恐怖するようになる。存在の否定と同じだから。
成功している姿しか見せられない。だから失敗は隠すようになる。
失敗こそ、最も重要なのに。
親という、心の安全基地、ありのままの自分を認めてくれる唯一の居場所が、なくなる。
そうなると、もうその子はどこにいても休憩することができなくなる。
そして、褒められることを誰よりも求めているのに、褒められるほど苦しくなる負のループに迷い込んでしまうというわけだ。
最後に
私は子どもから大人になり、親になってみて、このことはとても大切だと思う。
私は褒められると緊張する子だった。
人生はとても苦しかった。成功してもホッとするだけで、満足感や喜びはなかった。
褒められたいと思って、親が望むことを選択し、ひたすら頑張って得られたのは、他人の期待にそって生きる人生に対する絶望だった。
その子がやりたいことが、最もすべきことだ。
親が「これをやったほうがいいんじゃないか」「あれが向いているんじゃないか」と先回りして提示しないほうがいい。
子どもはその期待を敏感に感じ取って、それを選んでしまうだろう。
でもその先にあるのは絶望である。
期待するなというのは難しいかもしれない。いや、無理だろう。
それだけ可能性は輝いてみえるし、我が子だからこそできるんじゃないかと思うのは当然だ。
しかし、その裏には、親自身が自分に絶望してしまったことの闇がある。
自分ができなかったこと、やって正解だったと思いたいこと、それを子供に背負わせてはいないだろうか。自分の人生のやり直しを子供にさせようとしてはいないだろうか。
我が子と言えど他人である。別の人格を持ち、意思を持つ、権利と尊厳のあるひとりの人間。親と子は本来対等だ。
その対等さを忘れ、自分の所有物のように思い違いをしてはいないだろうか。
幼い我が子の判断はまだ未熟で、自分たちの判断のほうが正しいと、驕ってはいないだろうか。
私が持っている正しさへの認識とは、私の思い込みであって、我が子にとってそれは押し付けられたら迷惑でしかない。
彼には彼なりの、彼女には彼女なりの価値観があり、それは幼かろうが年寄りだろうが、関係なく尊重すべきものなのだ。
それを忘れている親は、この国にはとても多いのではないかしら、と思う。
そんな親も、私と同じように褒められると緊張するようなつらい子どもで、その子どもがそのまま年齢を重ねているからかもしれない。
誰も悪くはない。
でも、自分が味わった辛さを我が子に背負わせないために、同じ呪いをかけないように、親が子どもを卒業することが、必要なんだと思う。