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【メンタル】あなたは「やらないといけないこと」ばかりやっていないか?

私たちはつい「やるべきこと」を優先する。

問題はその価値が「自分にとって」なのか「誰かにとって」なのか。

選びがちな「やるべきこと」は後者。

 

その後者ばかり選んでいると、人はいつしか虚しい時間を生きるようになる。

 

予定を入れられるのが大嫌い

私は仕事の予定が入っていると、落ち着かない。

本当にやりたいことを始めると、終わるまでやらないと気が済まない。

やりたいことを中断する苦痛は筆舌に尽くしがたい。

その苦痛を味わいたくないので「予定までの時間に終われるかどうか」を気にしてしまう。

私がやりたいことは、挑戦になることが多い。

やったことがないことは、どれぐらいかかるかわからない。

終われるかどうかはわからないので、始めるのをためらう。

そのストレスが積み重なると、もはや何もかもどうでもよくなる。

私のうつ状態はこうして形成される。

 

だから、私は予定をブロックされるのを極端に嫌う。

他人の予定は、私を殺す。

 

自分のために

他人に依頼される予定は、他人のための時間だ。

他人のための時間を優先すると、病んでいく。前述した私のように。

 

自分がワクワクすること、やってみたいと思うこと。

それに時間を使うべきだ。それを最優先すべきだ。

そうでなくては心が死ぬ。

 

損得ではダメだ。

この現代社会を生きる上で何かメリットがあるから、という「やりたい」は本当は「やりたくないけどやるべき」を「やりたい」だと自己洗脳している。

「やるべくこと」は、損得関係なく「やりたい」こと。

その「やりたい」は心と体を自由にして、時間に縛られずに生きているときにしか降りてこない。

よく「怠けている、サボっている」と客観的には見える状態のとき、その人は「やりたい」を探すために全身全霊で他のノイズを極限まで削って必死に探している。

決して怠けているわけでも、サボっているわけでもない。

その人なりに必死に足掻いている。

 

不登校にしてもそうだ。

学校という監獄で「これは私の『やりたい』じゃない」と、奴隷教育に対して心も体も拒絶反応を起こしている。だから行けない。

そしてそれはとても自然で健康な反応だ。

その反応を無視しないでちゃんと「学校に行かない」という行動に移せる時点で、すごい。

私は不登校の人を尊敬する。

私は「こんな意味のない場所」と思いながら自分の心の声を無視し続けて、ついには聞こえなくなった。だから今、こんなにも私の心の声はか弱い。耳を澄ますのが大変だ。

聞こえなくなった声。その存在すら忘れて自分を誤魔化し続けた結果、うつ病になりアルコール依存症になった。

もう同じ過ちは繰り返さない。

 

自分のために、自分の声に従って生きる。

それが最も善い生き方だ。

他の誰かの決めたルールや価値観に従ってはいけない。

 

「遊び」を極める

ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』で示すように、この世の活動は全て承認欲求に基づいた「遊び」で、社会は元来「遊び」で構成されている。

資本主義と合理主義によるマネーゲームは、チープでワンパターンなクソゲー。

競争心を煽り他者比較による承認欲求を満たすだけなので、依存性はあるが真の意味での「楽しい」「歓び」はない。真面目で退屈で不毛。

だから現代社会は劇的につまらなくなった。

そのつまらなさに気づいた賢く鋭敏な人は、社会不適合者になる。

無理に過剰適応すると、私のように精神疾患や依存症を発症する。

クソゲーを楽しいと感じる鈍い人間。それがエリートの正体。

この社会が心地よいと感じる鈍感なエリートがいくら社会をいじってもクソゲーにしかならない。

だから、社会には期待していない。悪くなることはあれど、良くなることはない。作っている人間がつまらないなら、つまらないものしかでき上らない。

クソゲーでありクソ社会である現代社会。

それは外部環境であり変えられないもの。

しかたがない。手放し受け容れるしかない。

つまらない。変えられない。ならどうする?

「無いなら、つくっちゃえばいい」

擬態して適応してるフリをしてやり過ごしながら、自分がワクワクする「遊び」に最大限のリソースを割く。楽しめる部分は楽しみ、既存の評価や価値観を「どうでもいいこと」と認識することが重要だ。

問題はその「遊び」は何か?ということ。

それは自分の心の声を聞くしかない。人による。千差万別だ。

だから、少しでも情熱の炎がチラリとしたら、全力でそれに取り組んでみる。

最も重要視すべき感覚だ。他のことはどうでもいい。情熱を感じる感覚を全身全霊で探す。

三日坊主でも構わない、下手ならなお結構。

とにかく少しでもワクワクするほうへ、足を運んでみる。行動する。

その繰り返しの先にしか、それぞれにとっての本当の「遊び」はない。

 

私は「遊び」を見つけたい。

正直今はもがき苦しんでいる。

仕事はクソつまらない。この社会も壊れたガラクタにみえる、クソどうでもいい。

私のワクワクはこの枠組みには存在しない。ただ金を得るための火葬場。

でも、少しずつ情熱の炎のカタチを掴みつつある。

 

まとめ

これはあくまで私にとっての形。絶対的な真理などない。

私にとってはクソゲーでそれにハマるエリートは鈍い人間に見える。

私は「変えられないもの」があると気づく謙虚さを自覚する程度にしか賢くない。

数多ある砂粒のひとつまみ。

自分の魂が歓ぶ「遊び」を見つけるために、人生は与えられたのだと再定義する。

個々の意識の問題であり、第三者は提案することしかできない。

しかしこの再定義により、病む必要がなくなり依存する必要がなくなるので、依存症は無くなる。これが真の依存症予防啓発。

私の依存症予防啓発は、私自身の人生が体現している。

私そのものを世界に発信するのが、私にとってやりたい・おもしろいことで、同時に価値があること。

同じように、他の人の人生も貴重な物語だ。ひとりひとりが最高に面白い創作物だ。

フィクションでも、ノンフィクションでも、新しい物語に触れると、私はとてもワクワクする。だから、私はそんな話を聞きたい。

そのワクワクを、私の得意な伝達手段でシェアしたい。

だんだんみえてきた。

【哲学】潮が何か運んでくる(トムハンクス主演映画から考える人生論)

これから どうするか?

息をし続ける

明日も太陽が昇り

潮が何か運んでくる

引用:映画『キャスト・アウェイ』

 

なんだかトム・ハンクスの映画が目に留まって、続けて観てしまった。

「観てしまった」と書いたが、結果的に観てよかった。

『キャスト・アウェイ』と『フォレスト・ガンプ』がすごく心に響いた。

今観るべき巡り合わせだったんだな、って思った。

 

人生は、なるようになる

 

これは『フォレスト・ガンプ』の主人公フォレストのお母さんが言ったセリフ。

開けてみないと分からない。

食べてみないと分からない。

生きてみないと分からない。

本当に、想定外のことばかり起こる。

奇跡のような巡り合わせがあったり、悪夢のような地獄を経験することもある。

本当にその時になってみないと分からない。

でも、わからないからこそ、コントロールできないからこそ楽しいし、価値があるんだと思う。

私もうつ病になったり、アルコール依存症になったり、ADHDと診断されたり、ACと自覚したりするとは、夢にも思ってなかった。

でも、それらは何かに私が気づけるように、あらかじめ用意されていたかのようだと、今は思う。

世界とは脳の信号が創り出す仮想現実に近い。限られた情報を私の身体が電気信号にして脳に送り、脳が自覚する世界が、この世界の見え方だ。

そういう意味では、世界は捉え方次第であり、自分の「思い通り」になる。

不幸だと思えば不幸だし、幸福だと思えば幸福。

起こったと知覚している現象を「哀しい・つらい・怖い・不安」と意味付けすれば、世界は悪意に満ちていて絶望的な地獄にみえる。

起こった事・起こる事をあるがままに受け容れ、私が善く生きるために何か与えられたものだと思えば、それは「喜ばしい・有難い・かけがえのない」ものになる。それがどんなに客観的に悲劇的であっても。

私は首になりかけてよかった。そのおかげでアルコールの問題を抱えていることに向き合えた。

私はACでよかった。愛情とは何なのか?を真剣に考えるきっかけになった。

私は発達障害(神経発達症)でよかった。人と見え方が違うことで、常識や世間がいかに空虚かに気づくことができた。

私はうつ病になってよかった。うつ病になったのは私が悪いんじゃなくて、社会が歪んでいるからだと気づけた。

私がそう思えば、そうなのである。

私の脳が、物事の意味を定義し、そこから自分なりの何かをつかむことができるように、全ての事象は与えられている。自分の身体も、人との出会いも。

 

人事を尽くして天命を待つ

これも、フォレストのお母さん。いいこというよなー。

なんだかずいぶん有名な映画だったらしいんだけど、観るべきときは今だったのだろう。

私は、今とても失望している。そして苦しんでいる。

 

今している仕事に価値を見出せない。

この会社に所属していて全く誇らしいと思えない。それどころか恥だと思っている。

私がやっていることに、私の良心が拒否反応を示している。

「これは善行ではない」と。

だからなんだか、とてもやる気がしない。熱も込められない。

全て本質からズレていて、私にとってはどうでもいいゲームの一つにしか思えない。

しかし、今の生活、家族を養っていくには、今は辞めるのは得策ではない。頭では分かっている。しかし体が拒否っている。困ったものである。

 

今ある状態、今与えられている状況。

この辛い状況も、何かに気づくために、いや、思い出すために、与えられているのだろう。

全てはもうすでに準備されていて、私は良心に従って勇気をもって生きていきさえすれば、必ずなるようになる。

というか、なるようにしかならない。

できることは、今与えられている状況でベストを尽くすこと。

何よりも自分を大事に、心に正直に、私が今できることを、できる範囲で、やりきる。

ただそれだけ。

やってきたことをやるだけ。やれることをやるだけ。

結果は関係ない。「結果」という意味は私が後からつければいい。

他人は関係ない。他人とは、別の世界。脳が違うから。同じだと思い込んでいるだけで、違う現実を見ている。

「他人とは別の宇宙だ」という言葉を聞いたことがある。

まさしくその通りだと思う。

脳が違うので、違う。世界の見え方も、法則も、何もかもが。だから、比べようがない。定型発達や発達障害など、実は存在しない。

定型発達だろうが、ADHDだろうが、ASDだろうが、LDだろうが、それは人間が勝手に考えた仮説。宗教と同じ。

それぞれが全員、少しずつなのか、実はとんでもなくなのか、生きる世界が違う。

その違いが多数派からみた、偏差値であり、集団生活で問題視されるかどうか。それだけだ。

集団生活で問題視されるかどうかも、その集団がどういう価値観でどういう社会を形成しているかによって、違う。

たまたま貨幣経済社会で、たまたま金になる仕事で働かないと生きていけない社会構造で、たまたま学校というものがあって、たまたま暗記してアウトプットする「勉強」という遊びを皆が真剣にやっているだけだ。

全部、正しさなんてない。だから学歴も社会的地位もフォロワー数もチャンネル登録者数も、私にとってはなんの価値もない。

価値があると思う人には価値がある。それはそれ、違う宇宙の話だ。

 

私は私が「善い」と感じることをすればいい。与えられたすべてをつぎ込んで。

 

まとめ:あまり気負わず、息をし続けよう

これから どうするか?

息をし続ける

明日も太陽が昇り

潮が何か運んでくる

引用:映画『キャスト・アウェイ』

 

冒頭のこれは『キャスト・アウェイ』で主人公が終盤にいうセリフ。

時の流れは、それぞれに流れている。時間は絶対の概念ではない。相対性理論じゃないけど、定量化できるものではないし、過去から未来に流れるのでもない。それぞれが捉えたように、時間すら在り方が変化する。

縁も、何か大きな、私なんぞがわかりもしない力に導かれるように、結ばれたり離れたりする。

人生は、いつまでも続くわけでは無い。明日、いや今夜、唐突に終わりが来るかもしれない。それは誰にも分らない。わからないから貴重で、尊い。

与えられた最後の一片まで、使い切る。味わいつくす。

そのために、息をし続ける。できる限り、やれる限り。

生きている意味があろうがなかろうが、先行きが不安だろうが順風満帆そうだろうが、関係ない。それは次の瞬間にはひっくり返るかもしれない。

「潮が何か運んでくる」というのは、そんな未知と可能性の言語化だ。

何でもコントロールできる、思い通りにできる、という大脳新皮質の驕り。

私はその理性という病をこじらせて依存症になった。だからその貧弱さがよくわかる気がする。気がするだけで、そんなにわかっていないかもしれないが。とにかく、理性や科学というのは、それっぽく見えるだけで、実は宗教と変わりない。

だから、そんなに身構えなくてもいい。

「世間」は尤もらしいことを突き付けてくるかもしれないけど、そんなのは「そういう可能性もあるかもね」というだけなので、「自分は違うかな」と思ったら違うんだ。それで全然かまわない。

自分の「善い行い」「善い生き方」を素直に正直に考えて実践するだけでいい。

あとは自分の力の及ばないことだから、受け容れるしかない。

人生とはそれだけなんだ。悩むほどのもんじゃなかった。

と、仕事がつまらないと愚痴るか細い声の主が書いている。

弱くていい。本来弱いんだ人間というのは。だから、支え合いながら助け合いながら生きている。それに気づいて感謝できれば、その瞬間からあなたは幸せ者の仲間入りだ。

【発達障害】なんであなたは他人といるだけで疲れてしまうのか?

ADHD・ASDでアダルトチルドレン(AC)の私は、そんなに嫌いでない人でも、他人といるだけでドッと疲れてしまうことに悩んできた。

今までの考察から、私が疲弊する理由は、大きく分けて3つある。

現在ではそれが軽減されてきたので、他人がひしめき合う社交場に出てもさほど疲れなくなったが、それでもやはり疲れることはある。

とりあえず今までの自己分析まとめてみる。

 

過去のトラウマからくる防衛本能

私は今までの経験から、他人とは私を攻撃する存在だと認識している。

その認知の形成には、いじめに苦しんだ暗い過去の経験が影響を与えていると思う。

 

通っていたサッカークラブ。

私は一つのことにしか集中できないので、ボールだけに集中して周りが見えなくなる。

サッカークラブの練習は途中から各自ボールを持って自主練をする時間があり、何人かでグループになってパスを回したり、思い思いに時間を過ごした。

私は他人とできるだけ絡みたくなかったので、壁に向かって蹴ったりリフティングをしたりしていた。

周りになじまずグループに入らない私は奇異に映ったのだろう。

ひとりで黙々と練習している私に、ボールを蹴って当てるゲームを始めるグループがあった。

面白半分に彼らはやっていたのだろうが、私はいきなり横っ面にサッカーボールをぶつけられてとても痛かったしそのたびに驚いた。

やめてほしいと伝えても、彼らは私が鈍いのを馬鹿にしてますます面白がった。

コーチはそういうところまで目が届かなくて、私は自主練の時には攻撃を受けないよう隅っこにいるようになった。壁で自分を守り、じっとしていた。

学校でも似たようなものだった。

私は優しい性格だったので、他人に何か嫌なことをするなんて想像もつかず、自分の好きなように遊んでいた。ひとりで色水を作ったり、木を削ったり、砂で造形を作るのが好きだった。

ずっと一人で遊んでいると、必ず邪魔者が現れた。

水をひっくり返してみたり、気を取り上げてみたり、砂で作った私の作品を破壊してみたり。

「放っておくと、他人は私に危害を加える。厄介で恐ろしい外敵だ」と他人という存在について私は認識を改めるようになった。他人なんて気にもとめていなかったが、私の邪魔しかしない。こんな迷惑なやつら一人残らず死ねばいいのに、と心から思っていた。

なので、私は他人が一定の距離以上に近づくと反撃できるよう、攻撃をかわせるよう、体を硬直させる。臨戦態勢に入るように体が自動的にプログラムされた。

そうなると厄介なことだが、他人がそばにいるだけで交感神経優位になりノルアドレナリン神経系が活発になる癖がついた。他人がいるだけで落ち着かないばかりかとてもストレスを感じるようになった。

サウナ後の外気浴でリラックスしていても、足のあたりを他人が通り過ぎるだけで「足を踏まれるのではないか」と神経がピリつく。まったくリラックスできない。

会議で他人が近くにいると、ソワソワしイライラしてくる。ストレッサーが近くにいるので精神的に摩耗していく。だから話の内容はほとんど頭に入らない。リモート会議になって本当によかった。ここだけはコロナ茶番に感謝している。

他人には近づかないか、近づいてきたら威嚇する。

そういう処世術が身についたのは、成育歴に由来する。

 

会話という行為に対する疲労感

警戒心MAXなのも疲れの主たる要因だが、会話という行為そのものも非常にストレスフルである。

音がうるさい

まず、声がうるさい。

キンキンと高い女性の声は、脳がキリでつつかれるような感じがする。不快極まりない。

興奮すると音量が大きくなるので、とてもめんどうくさい。

伝えたい内容を、できるだけ穏やかな声音で、的確かつ簡略化して話せばいいのに、どうでもいいことばかり大声で喚き散らす。

私はおそらくASDによくある感覚過敏だ。音は特に快不快を感じやすい。

視覚優位なので、聴覚情報が視覚情報の処理を邪魔してとてもストレスになる。

集団で会話していると、同時に複数の人が話始めたりするけど、イライラして口を開いているやつ全員をぶん殴りたくなる。

一度にしゃべったら処理できないだろ、お前ら全員聖徳太子かよ、と。

情報入力ソースとして、音声は私にあまりそぐわないんだろうな、と思う。

人に会うとうるさい音声を出す、だから他人に絡みたくない、という感じだ。

 

会話の作法(マナー)がめんどうくさい

会話がいざ始まると、いつも私を悩ませるのが、社交辞令などの「定型発達の間で交わされているの暗黙の了解」=常識・マナーである。

腹の底では行く気もないパーティーに「ぜひ行きたいですねー」と言ったり。

何かを見せられたとき条件反射的に「かわいい~」「すてき~」と言ったり。

本題に入る前にまったく中身のない世間話をしたり。(=アイスブレイクのこと)

そんなもん誰も決まりとして明文化していないのに、なんで守らなきゃいけないんだ、と思う。そもそもそんなマナーや常識を提唱していながら、内容の精査が甘い。形式ばってアイスブレイクとか言っている暇があったら、もっと内容を詰めるべきだと思う。

だけど、定型発達はみなそうとは思わないらしい。謎は深まるばかりである。

相手の利益のために伝えるべきことを伝える。

聞いてほしいと前置きして悩みを相談する。

相談されたことに対してクリティカルに求めている情報を提供する。

人と人とがわざわざ時間を使って会話をするのは、そういう目的在りきだと思うんだけど。

今まで人と関わってきて、なんだかダラダラグダグダととりとめのない話を聞かされ長時間拘束されることがあった。その経験から学び、私は他人と好んで会話しなくなったのだと思う。

 

ありのままでいられないストレス

会話の形式もさることながら、内容も非常に気を遣う。

幼少期に思ったことをそのまま言葉にしていたら、なぜか相手が泣いたり怒ったりすることがあった。

私としては自分の本心なので、噓をつくよりよっぽど誠実に他人と向き合っていると胸を張って言葉をかけていた。

それが仇となり、私は盛大に集団いじめにあった。

私が私らしくしていると、他人は不愉快そうに攻撃を仕掛けてきた。

まったく迷惑な話である。しかし脅威ではあった。降りかかる火の粉は払わなくてはならない。自分らしくいるより、この不可解な集団に同調して擬態しておいたほうが、デメリットが少ない。

そう思った私は、自分の思いをそのまま話すのをやめ、周りを観察した。

こういうときはこう反応する。

この話にはこう切り返せば笑いをとれる。

こういうときにはあまり言葉を挟まないほうがいい。

定型発達者同士の会話のやり取りを分析し、因数分解して応用する。

意図した反応が得られれば成功、反応が芳しくなければ失敗。

私が自己防衛のために構築してきた会話方法は、地味な科学実験の賜物だ。

はたしてストラテジーの構築が完了し。最もリスクが低い(=定型発達に違和感を持たれない)応酬話法が可能になった。

しかし、困ったことが起こった。とても疲れるのである。

まったく楽しくない。ただの作業。工場のライン作業のようなものである。自動迎撃システムのようでもある。つまらなすぎて対応を間違えることも増えた。

自分の言いたいことを言えない。なんの面白みもない繰り返し。

それはとてつもなくストレスフルな行動だった。だから、結果的に会話をできるだけ避けるようになった。必要最低限の場面で最低限しかできなくなった。

 

まとめ:経験不足を補うための自助グループ

そうなると、当然会話の経験が少なくなる。

本来人と人との会話というのは、実はこうではなくて、みんなちょっとずつ本心をさらけ出しながら、その摩擦により距離感を学んでいたと、つい最近になって気づいた。

圧倒的に真心でぶつかり合って研磨するという経験が不足していた。気づいた時にはもう大人になっていた。しかし大人になってからではもう得難かった。

それが孤独を深め、孤立を深めた。

依存症になる人も、こうした他人との関係の不健全さと経験のなさが大いに関係している。

他者との関係構築が下手くそなので、交流によって癒されることを知らない。だからその癒しを物質や行為に求めて、泥沼にはまる。

糖質と脂質とたんぱく質をバランスよく摂取しなくては体調が崩れるのと同じに、他者との適度なコミュニケーションは心に必要な栄養であり、それが欠乏すれば心が病むのは当たり前。

私は自助グループでこの経験不足を補う機会を得た。

断酒会やAAやACAは、人間関係のへたっぴ同士の集まりだ。心理的安全性が担保された環境でみんなで言いっぱなし聞きっぱなしをして、失われた経験を取り返していく。その経験は心が子供から大人になっていくのに必要な試練である。

その過程で摩擦や衝突はつきものだが、霊的な道具である12ステッププログラムがセットであることを忘れてはならない。

私がそうであったように、不健全な関係で身に着けた歪んだやり方が、問題として顕在化されてくる。認知の歪みを自覚すること、それを取り除こうと棚卸しをすること。それによって、他者との健全な関係構築の精度は高まっていく。

逆に言えば、ただ自助グループに行っていても変わっていかない。自らを省みて変化するためには霊的な道具とそれに沿った謙虚な行動が必要だから。

それでも反応してしまう場合、私でいうトラウマが根強くある場合は、トラウマセラピーによって心理的に自動化された反応プログラムを解除する必要がある。PTSDなど過去に経験した強いストレスでどうしようもなく拒否反応が出る人は少なからずいる。

このように、今まで形成された歪んだ認知、つまり自分を守るために刷り込んだ思い込みを、絡まった糸を一本一本解きほぐすように、丁寧にひとつひとつやっていく。

そうすれば、少しずつストレスは軽減されていき、人との交流を楽しむという新たな感覚に出会える。

私はまだ途中だが、当初から考えるとかなりストレスは軽減できていると思う。無理せず、しかしあきらめず、自分がありたい姿を思い描いて、行動を積み重ねていくと、変化は訪れる。

希望を持ってほしい。

【依存症】依存症になってよかったマジで

私は、アルコール依存症だ。

断酒して5年が過ぎ、もうすぐ6年になろうとしている。

本当にいろいろあった。

「お酒をやめて良かった」と思っていることはもちろん、

「依存症になってよかった」と思っている。

 

そんなわけねーだろ、と思うだろう。

5年前に未来の自分がタイムスリップしてきてそんなことを言いだしたら、私も「なめてんのかコノヤロウ」と確実に殴りかかっていると思う。

それくらい信じがたい、心境の変化だと言える。

 

お酒というドラッグの要らない世界

お酒を嗜む人からすれば「お酒を飲めないなんてかわいそう」と思うだろう。

私は飲んでいたころそう思っていた。下戸の人を、可哀想だと思っていた。

私は断酒してから、よく「人生の半分損してる」とか「楽しみが減って可哀想だね」とか言われた。

全然かわいそうじゃないから、安心してほしい。

むしろ飲んでいる人のほうが可哀想だ。人生の半分がお酒なんかで占められているだなんて、昔の私みたいですね、と思って逆にマジで可哀想だなと思う。いやまてよ、私は9割がお酒だったわ、レベルが地獄で草。多分昔の私よりはかわいそうじゃないわ。

お酒を飲んでいるときは、アルコールでラリっているので、脳がドーパミンによって「楽しい」と勘違いする。いわゆるキマっている状態だから、その場の状況を錯覚する。

この間シラフで職場の食事会に参加してみたが、びっくりするほどおもしろくない場だった。

仕事の愚痴ばっかりだし、大した話もしていないし、知的な刺激が全然ない。それなのに1時間も着座して話を聞いているのが、とてつもなくしんどかった。こんなしんどいこと、そりゃ酒でも飲まなきゃやってられねぇよな。どんなもんなのか試しに行ってみたけど、途中で帰った。もう行かないだろうな。

今私にお酒が要らなくなったのは、お酒が無くても楽しいからだ。いや、むしろ無いほうが楽しいからだ。

お酒を飲んでいたのは、人生がつまらなすぎたから。早く終わりにしたい、でも終わりにできない、という絶望を少しでも紛らわせるには、薬物が必要だった。私が合法的に手っ取り早く仕入れられるドラッグが酒だった。ただそれだけ。

生まれた国が違って、モルヒネやコカインやヘロインが手に入る環境なら、それに手を出しただろう。

違法か合法かなんて関係ない。記憶をぶっ飛ばせればそれでいい。仮死状態になれるならなんでもいい。そんな感じだっただろうと思う。

現実が嫌すぎて、何かで紛らわせていた。その必要がなくなった。その変化は何だろう?

 

余計な荷物がなくなった

私は余計なものをたくさん抱えすぎて、歩くのもしんどくて、でも歩くしかなくて、酒を浴びるように飲んだ。

余計なもの、というのは、私の心の中にあるゴミのような価値観と強迫観念だった。

「親の期待に応えないといけない」そうしないと愛してもらえない

「いい大学やいい会社に行かないといけない」そうしないと愛してもらえない

「一流のビジネスマンになって活躍しないといけない」そうしないと捨てられる

「善良で正しくなくてはいけない」そうしないと愛してもらえない

全部、そんなことはなかった。

 

親の期待は勝手に親が持っているだけで、別に応じる必要はない。

親になってわかったが、正常な親は、子供が元気に自分らしく生きていさえすればそれでいい。

恩返しも必要ない、生まれてきてくれただけでもう十分に親孝行だから。

私の親が異常だから、私をコントロールしたかっただけで、私は親の顔色を窺う必要など全くなかったことが分かった。

なので、この思い込みは余計だったから捨てた。

 

 

いい大学、良い会社、一流のビジネスマン。

そんなものは何の価値もないことが、自分の頭で考えて物事や社会を観察していたらわかった。

使い潰しやすい人的資源を確保するための、政府や企業にとって都合がいいブランドイメージだ。本質的な価値はそこにはない。

だって、本当に価値を測れるなら学歴と職歴が輝かしい人はみんな素晴らしい人格者のはずじゃん。

でも実際は違うよね?みんなも薄々わかってるでしょ?

良い大学を出ていてどんなに優秀な成績を収めていてもクズみたいな人間はゴマンといる。優秀とされている官僚や政治家や医師が、このコロナ騒動でどう立ち回ったかをみてみてよ、一発でわかるでしょうよ。

一流のビジネスマンは私からすると「詐欺がよくできるだけのスーツ野郎でしょ?」というイメージ。

ビジネスとは所詮騙し合いの椅子取りゲームであり、それが人より得意なだけ。ゲームの得意不得意は人間性や人間的魅力とは相関しない。

私はクズや詐欺師にはなりたくない。だから、私にとって追いかける価値のない物差しだとわかった。

これも余計だったから捨てた。

 

 

善良さ、正しさ、というのは自分の良心で判断するしかない。

それを「他人に○○と思われよう」としている時点で、そもそもズレていた。

私は大いにズレていた。

他人が思う善良さや正しさは、他人の物差しであって、それは他人の数だけある。そんな千差万別のものさしすべてに対応するなど不可能。つまり、全員に好かれ評価されることなんて、できるわけがないってことだ。

自分を否定されて傷つくのが怖いから、他人に悪く思われたくなかっただけだ。

裏を返せば、傷つかなければいいだけだった。

他人は私のことをそんなに真剣に見ていない。表面を切り取ってあーだこーだ言っているだけだ。または、自分の内面を私を鏡に使って映し出して何かを言っているだけだ。

だから、他人が下す私の評価というのは、とるにたらない。勘案するに値しない。そんな大した影響力の無いもののためにオドオドしながら顔色を窺って生きるのは、とてももったいない。

言いたい奴には好きに言わせておけばよい。それで私の価値は一ミリも棄損されない。

これも余計だったから捨てた。

 

 

ぜーんぶ、私が大事だと信じていた価値観は、余計だった。だからぜーんぶ捨てた。

そしたら、とても身軽になった。

ちゃんと自分の心の声が聞こえるようになった。

今まで余計なゴミに埋もれて聞こえなかっただけだった。

私の心は死んでなかった。ちゃんと叫んでいた。叫んでいたのに気づかなかった。だから心が病んで動けなくなったのだった。

自分の心の声をちゃんと聴くようになったら、やりたいことや楽しいことや嬉しいことがなんなのか、わかるようになる。

そしてそれを素直に聞いて、素直にやっていれば、私は私をどんどん好きになるし、世界もどんどん輝いてみえてくる。

やりたいことをやれる世界。楽しいことや嬉しいことに満ちた世界。

そんな世界を、薬物キマってぼんやりした脳で過ごしたくない。もったいなさすぎる。ちゃんとクリアな五感で楽しみたい。酒?そんなもん飲んでる場合じゃない。

だから、私にはお酒が要らなくなった。

というか、私の世界から無くなった。必要ないから。

 

依存症という宝

私は、酒を憎んでいるわけでは無い。

むしろ、地球上にあってくれてありがとう、と思っている。

私のためにあったのだとさえ思う。

だって、酒に頼って失敗しないと、私は本当のことに気づかなかったから。

私は酒でごまかして生きてきて、運よくしっかりうまくいかなかった。大きな挫折と痛みをもらった。

上手くいかなくて悩んで苦しんで、運よく死なないうちに問題に向き合うチャンスをつかんだ。

「自分の力だけではどうにもならないことがある」という事実を知るチャンスを。

それほど、酒をやめる前の私は傲慢だった。

成績も、業績も、年収も、他人からの愛情も、人生も、全部コントロールできると思っていたのだから。

なんてやべーやつなんだ。そんなんできるわけないだろ。

努力次第でなんとかなる、今評価されないのは自分がまだまだだからだ、と信じていたので「もっと頑張らなきゃ」「もっとちゃんとしなきゃ」と思っていた。

あのねー、そんなに人間万能じゃないんよ。

頑張ったってたかがしれとるし、ちゃんとできないことだってあるんよ。人間だもの。

私はたまたま、ちょっと受験勉強ゲームで点数が取れて、ちょっと運動できる体だったから勘違いしちゃってただけで、人間はどれもこれもが本来どんぐりの背比べ。大した差など無いし、個体ごとに多少能力値に差があるのはしかたがない、埋めようがない、努力は万能じゃない。自分を買いかぶりすぎただけ。

たまたま受験できるだけのお金が出せる両親のもとに産まれた幸運。

たまたまお客様が契約してくれたから業績が出た幸運。

たまたま五体満足に生まれてきた幸運。

ていうか、この時代・この国に産まれたという幸運。

全部、運である。実力は運である。

たまたま運がよかっただけだ。自分の頑張りは、たまたま生まれた結果を後付けで自分の功績だと解釈したにすぎない。

プロスポーツ選手にしても芸術家にしても、たまたまそれに没頭できる環境と、たまたまそれを上手にできる才能があっただけだ。全部、運です。

だから、やれることはそりゃやるけど、なるようにしかならんし、そもそも何かで結果を出すのは遊びであって、人生の本筋じゃないから、楽しくないならやらんでいい。

前の自分より、上手くなりたい、かっこよくなりたい、それがおもしろいからやるんだよ。

あくまでも比較対象は過去の自分。他人じゃない。他人は違う宇宙。前提が違うから比較しようがない。

それで一喜一憂するのは、走り幅跳びの選手がマラソン選手に100m走を挑んで勝った負けたと嫉妬したりマウント取ったりするのと同じくらいくだらない。

好きなように走り幅跳び楽しんで極めりゃいいじゃないの。

自分が楽しいことを極める。人生はそれだけよ。

 

 

何でもできるわけじゃない。

人それぞれに長所も短所も違う。

 

私はそんな当たり前のことも、競争社会で洗脳され過ぎて忘れていた。

とにかく競争で勝って生き残らなくちゃいけない。だから頑張らなきゃいけない。

テメェの人生は仕事かよ。全然つまんないよそんなの。そりゃ飲むよね、っていうね。

他人にとって当たり前のことが、私にはできない事もある。それが当たり前で、それでいい。

だから誰かと比べて自分を嫌いになる必要なんてなかったし、できないことは悪いことじゃなかった。

できないのに助けてと言えない、私の弱さが、私を追い詰めていただけだった。勝手に苦しんでただけ。独り相撲ってやつです。

 

弱くていい、ダメでもいい、他人を頼ってもいい、他人のために生きなくてもいい、私は私で良い。

そういうことに気づくために、私は依存症という病気が必要だった。

 

この病気が無かったら、私は私の生き方に何ら疑問を持つことなく、そのままおじいちゃんになって死んでいただろう。

そう思うと心底ぞっとする。ずっと「なんでこんなに楽しくないんだろ?でも満たされているはず、私は幸せなはず」と自分を誤魔化し毎日毎日小首をかしげながら、せっかく与えられた時間をクソつまらん競争に投資して、後悔しながら人生を終える。

そんな世界線もあったわけだ。その悪夢のような世界線から、私を分岐してくれた依存症。

ああ、依存症のおかげで、私は一度死に、もう一度生きるチャンスを与えられたのだ。

だから、私は本当に心からこう思う。

依存症になってよかった、と。

うらやましかろ^^

【仕事】起業とか転職とかいろいろ思うこと

おそらく今いる会社には、そう長くはとどまらないと思う。

 

生きていくのに必要なお金を調達できさえすればいいので、組織内でのキャリア形成や社会的評価はどうでもいい。

私はやはり、組織で働くのは向いていないんだろうなぁ。

というか、雇われて働くのが向いていないんだろう。

そうなると、自分で事業を興すしかない。

なので、個人事業主に妻をたてて副業をスタートしたわけだが、今までの年収をカバーしようと思うと、かなり時間がかかりそうである。

 

機能不全家庭に育って、高学歴高収入を目指せと言われ、言われたとおりにレールの上を走ってきた。心を殺して無理をしながら。だから依存症になるほど心が追い詰められていった。

資本主義社会・学歴偏重主義社会にありがちな、典型的な量産型歯車要員。

現在の年収や待遇は、おそらくこの日本ではかなり恵まれていて、生活には全く困らない。家族を養っていける。

しかしこのまま良心の呵責を無視して勤め上げられるほど、私の心は鈍感ではない。

私の人生は、歯車として摩耗するためにあるような、無価値な代物でもない。

 

残念ながら、特に何か秀でた技術や才能があるわけでもない。

コンプレックス克服のために苦手な営業職にあえて突っ込んで行った結果、向いていない営業のスキルばかり身について、何か他に活かせるかというと、正直頭を抱えてしまう。

人生にタラレバはないので、ことこの期に及んでは今のパラメータで市場価値を示すしかないわけだが、これがなかなか難しい。

手に職、というのは実に羨ましく私の目には映る。輝いてみえる。

しかし無いものはない。しかたがない。

 

資本主義経済において市場価値のある私の特性とは何だろう。

プレゼン資料の構成・文章力には多少自信があるが、chatGPTには及ばない。先に触れた技術にしても、作曲・作詞・翻訳・ライター・SE・イラストレーターなどは、今後AIの台頭によりレッドオーシャンになるに違いない。私がこれからライターやブロガーとして生きていくという選択は現実的ではない。

対人関係構築は、ノウハウこそ知っているものの、おそらく不得手な部類だ。何より楽しくない。そんなに他人に興味を持てない。一時的に仲良くなっても、いずれ心理的にも物理的にも離れていく。

「疑り深くひねくれている」という短所の裏返しで、「課題の本質を自分の頭で深く考える」という特性がある。

これは、おそらく人工知能ではできない。なぜなら、AIは人間が明確な課題を提示しなくては答えを出せないから。潜在的な課題の抽出とそれに至る着想、人のなかの見えない想いを整理して可視化・明確化することにおいて、私は長けていると思う。活かすとしたらここだろう。

だからこそのカウンセリング事業であり、かつ対人援助の表に立たないアドバイザー的な在り方が最も向いているポジションだと思う。

逆に妻は、対人関係構築がとても上手で、境界線を守りつつ長く良好な関係を維持することができる。良い意味で楽観的、反面深く考えない。全く正反対の二人だからこそ、良いタッグになる。

 

私一人でなんとかしなくてもいい。

私に足りないところを、妻が補ってくれて、妻にかけている部分を、私が補う。

なぜか妻とは「全く違う」からこそ興味が尽きないし、尊敬し続けることができる。

そうであればこそ、私は苦手な他人との協業にもかかわらず、妻とだけは事業を運営していける自信がある。

 

とはいえ、軌道に乗るまでは、私のWワーク状態は続いていくだろう。

シリコンバレーバンク銀行の破綻。これはおそらく世界恐慌になる。西側諸国主導の経済システムは、もうそろそろ終わる。

そうなると、グローバルユダヤ資本の傘下である日本の大企業の多くが、近々大規模なリストラを国内でも始めるだろう。経営の観点で最もコストがかかるのは人件費であり、人員削減は株主にとって嬉しい経営判断であり、株価を下げたくない雇われ社長は必ずその決断をどこかでする。

私はできるだけ多くの退職金を得られるタイミングで希望退職者に手をあげジョブチェンジしなくてはならない。これは確定事項である。

そうなったとき、既存の産業構造のなかで、私は今何ができるのか。

 

西側諸国の経済システムが終わるとなると、テック系はもうダメだろうと思う。

シンギュラリティ、メタバース、トランスヒューマニズムなど、グローバリストが思い描いてきたグレートリセットは、残念ながら実現しない。

メタの大規模人員削減は、メタバースの開発スタッフが中心だったことからも、彼らの青写真は崩れかけていると感じる。

もちろん医薬品業界・医療業界も、このコロナ詐欺で産業としては成り立たないほどに信頼を失うだろう。コロナワクチンの薬害による疾病の増加でがん・神経変性疾患・心血管疾患・精神疾患の領域はしばらく潤うだろうが、その後は焼け野原になるとみている。

介護業界は今度の介護報酬改定で厳しい予算案が通る予定だ。3~5年激務なのに薄給という悪夢のような状況のあと、コロナワクチンの薬害で高齢者はほぼ死に絶え、利用者すらいなくなるだろう。後遺症で心身を痛めた人々は介護を必要とするだろうが、元気に働ける介護職は減ってしまう。限られた人数で対応するなど不可能な阿鼻叫喚が生まれる。しかしそれでもこの国が今更、報酬を手厚くして介護職の人員を確保し、政府としてケアに力を尽くすことはないだろう。この国はそんな善良な国ではない。

コロナワクチンによる不妊化で、少子化はますます加速する。なので、教育・児童支援の業界も、先細りになる。

学校教育などは、もうすでに奴隷養成所であり、そこで働いている教員ももはや限界を超えた劣悪な労働状況でリタイア寸前なので、仕組み的に続くはずがない。前時代的な詰め込み式の教育や、プログラミングを共通テストの必修科目に今更、しかもこれから導入しようとしている時点で笑ってしまう。

児童支援は、先細りするにはするが、神経発達症・不登校・いじめ・自殺企図など、ますますニーズは高まるだろう。

しかし、この狂った社会常識に盲目的に従うような愚かな大人が問題の本質だ。彼らを中心に構成された家庭環境・学習環境が地獄すぎる。生まれた時から周りがすでに終わっている。

抱えている問題の真因が子どもではないからこそ、ある程度年齢を重ねてしまってからのソーシャルワークの実践は、かなり複雑かつ困難を極めると思う。というか実際現場でそんなふうになっている。はたで見ていて、本当に大変だな、と胸を痛めるほど。

そうなると、せめて未来ある、まだ幼い子どもたちだけでも、手を差し伸べたくなる。

このディストピアで自分らしく生きていけるような居場所を彼らに提供することこそ、本当に世界にとって価値ある行いだと思われる。

大人はもはや救いがたい。腐ったミカンは元には戻らない。他のミカンが腐らないようできるだけ避けておくしかない。

やっぱそれだな。

 

正直、依存症は、支援をやっていてぬぐえない徒労感を感じる。対症療法的でしかないことに、虚しさを覚える。

健全な大人になれなかった大きな子どもをいくら手当てしても、世代間連鎖はすでに継承されていて、キリがない。絶えず来る相談を受けてアプロ―チしていると、承認欲求は満たされるし、やっている側は救ってる感で充実するだろうが、自己満足に過ぎない。際限がなさすぎるのは「社会そのものが狂っている、だから順応なんてしなくていい」という大前提があるからで、それを鉄板の共通認識にしない限り、いつまでも誰もかれもが病み続ける。

私を含めた今の大人たちが盛大に「失敗」したこと、そのせいでこんな狂った世の中になっていることを隠して、偉そうに立派な振りをして居座り子供たちに場所を譲らないから、また同じことの繰り返しになる。

いずれ信用を失う政府とマスメディアと連帯した、既得権益のリソースを通じてやってしまった時点で最初から根本的にダメだったんだよ。それはもう認めるしかないよ。すみませんでした、というところからスタートじゃないかと思う。

もちろん、先人たちの取り組みのおかげで成り立ってきた様々なことがあり、それに対してはとても感謝している。

でも、古代ギリシャ哲学や東洋哲学ですでに優れた生き方の見本が示されていたにもかかわらず、教育からすっかり抜けていたのは、許されざる過失だ。それを思うと、大戦から高度経済成長期にかけてうつつを抜かしたアホすぎるご先祖には、どうしても呆れずにはいられない。命ともいうべき人生哲学を忘れさり、物欲と名誉欲に夢中になってしまって、大事なエッセンスを後世に継承できなかった事実。それがヒラメきょろめ同調圧力MAXの、さもしい日本人の劣等性なのだと思い至るに、深い諦観を覚える。なんかこんなしょぼい国に産まれるなんて結構ハードな運命だな、と思うよね。(笑)

国民性なら、もうそもそも無理じゃね?とも思うことがある。

特にマスクもろくに外せない今の状況をみると、何もかもやるだけ無駄なんじゃないかとすら思う。

 

しかし、希望を捨てきれない。他ならぬ我が子の輝く姿が、そうさせない。

日本社会はこんなにもゴミなのに、大人たちはこんなにもクズしかいないのに、プロパガンダと奴隷教育に洗脳される前の子どもたちの眼の光、なんと美しいことか。

やはり彼らに関わるしかないと思えてくる。本当に唯一の希望。

書いていて思ったが、私は給料が低かろうが、他人に馬鹿にされようが、児童福祉支援、特に保育のフィールドでこそ、生きる意味を見出せるのではないかと思う。

まだ幼く凝り固まっていない、ちゃんと自分の頭で考えられる幼少期に、依存症にしても哲学にしても世の中の狂気にしても、まだ吸収できる余地がある。共同身体性と感性を養う、いや、養うというより、彼らがまだもっているそれらを守る、そのチャンスは療育者によって与えられるべき当然の栄養だと思う。

保育士はやはり取ろう。

おそらく私は変なので既存の組織には受け容れられないだろうから、いずれは自分でエピクロスの園のような認可外保育施設を立ち上げるしかなくなるだろうが、今の会社を離れなくてはならない状況になったら、経験を積むために保育施設や児童福祉支援施設で働こう。そうすれば実務も内情も、知らない部分も見えてくる。

うん、これだ。やはりこれだ。

それまでに、保育士を取って、副業を軌道に乗せて、ダブルインカムで子どもたちが好きな国に留学できるくらいの資本力を維持できさえすればいい。

物質的に欲しいものなどもう無い。家も両親が近々コロナワクチン後遺症で死ぬだろうから、本家と分家の2軒空くので最悪あてはある。

マイナンバーカードの激推しの背景には、超監視社会を構築する意図があるのはもう皆さんご存知の通りである。

日本は愚かなので、おそらく西側が倒れるにもかかわらず、世界から取り残されて、ある程度までディストピア化は進んでしまうだろう。そうなると有事を理由に捕捉された財産は取り上げられる危険性が高い。だから所有する財産を守るためにも、負債を抱えることだけは避けたい。

なぜなら、個人が負債を抱えていれば政府が抵当権を行使して、マイナンバーで捕捉できていなかった財産を合法的に取り上げられるから。その後、働く自由を奪われてベーシックインカムで飼われる奴隷に成り下がることになる。このタイミングで新築物件を買い住宅ローンを組むなど自殺行為。できる限り借金は今すべきではなく、資産を政府に捕捉されるべきではない。

そう考えると、現時点で設備投資や初期投資はできないので、虎視眈々と耐えて、時期を待つしかない。

おそらくこれから起こるであろう「台湾での戦争」あるいは「自然災害」で緊急事態条項を発令し、全体主義の最終仕上げに乗り出した後だ。

どうせそれは失敗に終わり、巨大なカタストロフのあと、小さな共同体、その土地ごとの「空き地」ができる。

そのときこそ、夢を実現するタイミングだと思う。

それまで、信頼できる人との繋がりを大切に、自分たちで生き抜く生活の知恵を学び実践し、クソくだらない社畜のふりをしながら、今を楽しんで生きていく。

それが、いずれ経済が崩壊した後に、何物にも代えがたい本物の財産となる、

【哲学】楽観的虚無主義のススメ

諸行無常

世のすべてのものは、移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないということ。 人生は、儚く虚しいものであるということ。

諸法無我

全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないということ。

 

『徒然草』『方丈記』を読んでいて、やはりこの世は虚無なんだろうな、と思う。

人の負の感情は、この世に期待しすぎていることから生まれている。

 

対人関係において。

「当たり前だ」と思う心が、今目の前にいる存在への感謝を忘れさせる。

感謝を忘れて、不満を抱えるのは、自分の心。心のありよう次第。

自分の思い描いたとおりに、他人は動かない。それこそが当たり前。

期待とは自分の勝手な思い込み。

信頼を裏切られた、と私たちはよく感じるが、そもそも人間は信頼できるようなつくりをしていない。

いい加減だし、気分で言うことは変わるし、ズルくて残酷で、基本的に終わっている。

信頼に値しない存在として過度な期待をしないでいれば、善行に心から感謝できる。

 

組織において。

基本的に、行政官僚制組織は腐敗する。

損得マシーン・法の奴隷・言葉の自動機械。

終わっている人間が、さらに終わった人形に成り下がるシステムに取り込まれているのだから、もう期待のしようがない。

資本主義経済のこの世では、会社は営利目的の詐欺団体であり、政府は既得権益の保存機関であるのが、むしろ自然なレゾンデートル。悪であることが当たり前なんだと思う。

だから、善良な人ほど仕事は疲れるし、しんどい。悪を行なっているから。

わかりやすく稲盛和夫の『生き方』を読んで、尤もらしい顔をして「人として成長するために仕事がある」などと鼻息を荒くしていた20代。

当時を思い出すだけで恥ずかしくて穴があったら入りたい。

資本主義社会での仕事は、単なる暇つぶし。金のためにやることで成長することなど無い。

この虚しい世から目を背け何とかやり過ごすための、奴隷としての精神が培われる。

つまり「調教」されることはあるだろうけれど、いずれ本質的な生の概念に近づくと、本来の姿である毒に裏返る。自分を騙し続けて「生きづらさ」として抱えた負債は、心身の病となってあわられる。

仕事に正義や愛を求めることは、悪質な高利貸しに募金を求めるようなものだ。

どだい、無理な話である。

だから、会社に、仕事に期待をしなくなった。

企業が利益追求の巨大な捕食者であるという「変えられない事実」を認め、組織本来の存在定義を受け容れ、共存する方法を模索する。

私にとっての悪もあってのこの世。

悪をときには利用し、ときには遠ざけて。

かつて人類が「火」を手にしたように。

欲望の傀儡と化した営利組織という集合体と、智慧ある私たちのほうが、距離とバランスをとっていくよりほかはない。

彼らの在り方は変わらないし、私たちは生きていきたいのだから。

生まれた瞬間から、子々孫々にわたっての共犯関係である。

 

家族において。

そもそも、無理なことをしているという自覚はとても重要である。

人間は基本的に相容れない。

それなのに、同じ屋根の下譲り合って暮らしている。それはまさに奇跡である。

力を合わせて生活を成り立たせている。

相手がいるのは当たり前でなく、家族がいることは当たり前ではない。

我が子が存在することももちろん当たり前ではない。

今のこの瞬間は、偶然にも与えられた非日常である。

だから、洗濯物を取り込むこと、ゴミを出すこと、皿洗いをすること、どんな些細なことも、すべてが本来自分でやらなくてはならなかったことで、やってくれただけで感謝しかない。

金を稼いできているからといって「家事育児は妻がやって当然」などと言うのは、とても愚かな考えである。

パートナーがいるから、生活が維持できている。いつ離れても不思議ではないのに、なぜか一緒にいてくれている。それが本来だが、当たり前だと思い込んで、感謝を忘れる。

お互いに損得と使役の関係になったが最後、それは小さな行政官僚制組織になり果てる。

つまり、クズの巣窟となる。

崩壊(離婚)するのは、当然の帰結。なぜなら、行政官僚制を布いた時点で、マックスヴェーバーの予言を再現するだけ。つまり「破綻」は運命づけられている。

 

いずれすべてが無に帰す

 

何もかもはコントロールできない。

自分自身すら、思い通りにはならない。

できることを、精一杯するだけ。それで100%である。

結果を期待しない。そして、恐れない。

自分のまごころが善だと感じることを、ただただ行うのみ。

本来それだけで、尊くて美しい。

それ以上のなにかは総じて虚飾である。不純物であり、オマケであり、娯楽である。

善行という生の本質から離れることなく、浮世の遊びとして楽しむ程度がよい。

借りものの身体を通じて、魂が震える体験をするための享楽。

その享楽にのめり込み過ぎて溺れると、苦しみと悲しみの多い人生になる。

エビデンスも法律も、しょせん言葉遊び。

良心だけが、唯一の羅針盤である。

この世界の計り知れない大きな流れに身を任せる。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」