月別アーカイブ: 2021年12月

【発達障害】発達傾向のある子供たちは希望の光(神経発達症)

私は、世の中のほうが、基本的に狂っていると思う。

だから、発達傾向にある人や、精神疾患、ことに依存症になるような人を「普通」とは違う、異質な人間だとみなす。

しかし、本来は逆で、正常だからこの異常な世の中には馴染めなくて生きづらさを抱えるのだと思う。

 

正常か異常かの境界線は、実はとてもあいまいだ。

 

Is it just me, or is it getting crazier out there?

こんなの僕だけか? それとも世間が狂っているのか?

 

Comedy is sub, subjective, isn’t that what they say?
All of you, the system that knows so much, you decide what’s right or wrong.
What’s real or what’s made up.
The same way you decide what’s funny or not.

お笑いなんて主観さ、そうだろ?
みんなだって、この社会だってそうだ、よく知ってるだろ、みんなは善悪を主観で決めてるん
だ。
何が本当で何がでっち上げかは、笑えるか笑えないかと同じように、自分で決めればいいってことさ。

 

引用元:映画『JOKER』JOKERのセリフ

正常と異常の境界線など誰に引ける?ふとしたきっかけで入れ替わらないと、誰に言える?もうすぐ分かる。狂ってるのはきっとこの世界の方さ。
引用元:映画『COWBOY BEBOP 天国の扉』ヴィンセントのセリフ

 

結局は「なんとなく」そう思っている人が多いことが、正義や正常として「なんとなく」

多数決で決まっている。

ということは、その数のバランスが逆に傾いたら、正誤は真逆になりえる。

正しいことなど存在しない。

あるのは、事実に対する解釈と損得である。

 

マスクを外せないことにしてもそう。

考えなしにサンタクロースを踏襲することにしてもそう。

なんとなく、特に自分の意見もなく、流されるままに物事を取り扱っている。その結果、どこかの誰かが苦しんで最悪命を落としたとしても。「普通の人たち」は意に介さない。その犠牲者が自分のすぐ隣で寝息を立てている愛する我が子だったとしても。「なんでこんなことに」と悲劇のヒロインのように嘆く。誰かの何かのせいにして被害者ヅラをするのだ。

これが喜劇でなくてなんなんだ、と思わないか?

鈍感さを持つ人にとって何の違和感もないこの世界を一つ一つちゃんとひも解いてみると、いかに歪かがよくわかるだろう。

 

と思うんだけど、大人たちにはなかなか同志が見つからない。

同じ神経発達症の子たちの世界観はとても近くて、同じ世界線を生きている感がある。

 

彼らは不当に「困った子」のように扱われている。

なぜなら、学校や社会など、今の「常識」に合致しない立ち居振る舞いを「普通の人」が受け容れられないので、現在の集団のなかでは浮いてしまいがちだからだ。

今の「正しい」にそぐわない。だから「異常」とみなされ、「欠陥」があると思い込まれる。

間違っていると断定される。

それはとんでもなく一方的な勘違いである。

 

むしろ、彼らは希望だ。

「そんなの納得できない、だから従わない」

と堂々と言えるのは、ちゃんと自分の感覚を信じているからだし、自分の頭で考えて結論を出しているから。それは最も重要な人生の姿勢である。

空気を読んで、周りの様子をオドオドビクビク怯えながら窺って、嫌われないように生きるよりはるかに健康的だ。

自分の好きがはっきりしているから、過集中するし、多動衝動で動ける。

むしろ今の「普通の人」はブレーキをかけて余計なことを考えるので、何をしたいのかよくわからなくなっているだけだ。

つまり、今の大多数を占めている人類の欠点を補う凸凹が、発達障害の特性であり、神経発達症の強みなのだ。

社会的な能力が足りていないのではない。逆だ。

複雑になった世界を生き抜くために特化された新しい姿であり、むしろ他人にない強みを搭載した進化系なのだと思う。

それをまだ社会が未熟だから受け容れられていないだけ。多数派が困るから長所と認めていないだけだと思う。

 

これからは貨幣経済社会ではなく、岡田斗司夫氏の提唱する評価経済社会に移行していくだろうと想像している。

貨幣経済社会はもう限界だ。

新自由主義とグローバリズムが人類に何をもたらすか、もうすでにこの「コロナ禍」という悲劇的な喜劇が明らかにしている。

損得による殺人と分断と混乱と腐敗である。

昨今のメガファーマにみられるような利益至上主義により、多くの犠牲を厭わない非人道的行為が実現してしまった。遠くないうちに、大企業の社会的信頼は失墜するだろう。残念ながら富豪たちの目論見通りにこの世は動かせない。現在のこの茶番は、彼らが「他人はコントロールできない」という無力を知り認めるための道程に過ぎない。

もう先が無い。お金の時代は終わる。多くの犠牲を払って。

 

◎評価経済社会

「評価」が通貨のような意味合いで社会に流通する状態のことを言います。

貨幣経済以前は、不動産を借りる時に知り合いだから貸してもらえるような縁故社会でした。その後、貨幣経済になりお金を出せばそれなりの部屋に住めるようになった。お金を持っていれば、オールマイティに強かったんです。

ですが、これから評価経済が浸透してくると、部屋を汚したりゴミをちゃんと出さなかったりする人には誰も部屋を貸してくれなくなります。すると家賃はスライドして、いやな家主の賃貸物件は家賃が下がるし、ルーズな住人の家賃は上がっていきます。これらの評価が透明化されてオープンに流通しているのが、評価経済の第一段階です。

縁故社会が貨幣経済においても残ったのと同じように、評価経済社会になっても貨幣経済はそのまま残ります。評価経済が貨幣経済の上に乗っかるだけです。

お金で評価は買えないけれども、評価があればお金はいらなくなるという優越関係ははっきりします。

貨幣経済社会でもお金さえもっていればいいというわけではないように、評価経済でも紙幣が淘汰されるわけではありません。

引用元:https://canary.lounge.dmm.com/17241/

岡田斗司夫氏は、上のように述べている。

 

私自身は、評価が貨幣のように流通可能な一定の基準を持つとは思っていない。

なぜなら、評価は「人による」からだ。

 

共通言語となるのは、評価というより繋がり。お金・損得によらない繋がり。真の信頼関係とでもいうべきか。

結局は「こいつになら弱っているとき背中を預けてもいい」と思えるかどうか。そういう個人としての人と人との繋がりの原点に、この社会も回帰していくと思っている。

お金や評価に振り回されてボロボロになりがちな依存症当事者が、回復するにしたがって「仲間」や「繋がり」のありがたさに気づく。そのお金では買えない価値に目覚めて豊さを取り戻していく光景を見てきた。

おそらく失望で底付きした社会にも、同じことが起こるに違いない。人は、損得で生きていけないからだ。独りでは生きていけない生き物だからだ。

というわけで。お金さえあれば、学歴さえあれば、社会的地位さえあれば、勝ち組として幸せに生きていけると思われてきたこの社会は、残念ながら近い将来終わる。

大学を出ても、いい会社に就職しても、いくら資産を持っていても、明日どうなるかわからない世の中になる。

そうなったとき、自分の頭で考えて、独自の世界観で突き進んでいける神経発達症の子たちは、実に頼もしく力強い。

今は不遇な扱いをされているが、私はこのような希望にあふれた子どもたちを支援していきたい。この社会の構造とくだらなさとやり過ごし方は、いろいろ経験してわかっている。それを教えて、社会に潰されないように守りたい。彼らはもっと他の圧力に曲げられたりしないで、その特性をいかんなく発揮して自由に生きるべきだ。それを応援したい。

社会福祉士になって、依存症啓発で児童福祉施設で活動して、そんな夢を抱くようになった。

人生とは、わからないものだ。

ついこの間まで、早く死にたかった。それがこうなるんだから、みんなまだまだどうなってもおかしくない。いい意味で。

まだまだ世界は希望にあふれている。

【子育て】サンタクロースという欺瞞

「サンタクロースは本当にいるの?」

という子どもたちの質問に、なんかどっかの新聞社が美しい答え方をしたとか、夢を壊さないようにできるだけ合理的に説明できたとか、そんなツイートが12月になると溢れかえる。

反吐が出るな、と毎年思う。

結局やっていることは偽りと誤魔化しである。それは誰にも否定できない。

私は、12月24日の夜に「サンタクロースが届けてくれた」と称して自分が購入したプレゼントを子供の枕元に置くかどうか、親として嘘をついたり偽善を行なったりしたくなくて、かなり悩んだ。

そんな過程で考えたことをまとめてみる。

 

問1、サンタクロースは存在するか?

解答:存在する。

 

グリーンランド国際サンタクロース協会が実施している公認サンタクロースの資格を取得すれば、協会公認のサンタクロースになることができる。

試験はデンマークで実施される。

■公認サンタクロース 認定試験受験条件

  • 結婚していること
  • 子どもがいること
  • これまでにもサンタクロースとして活動した経験があること(履歴書の提出がある)
  • サンタクロースにふさわしい体型であること(衣装やその他装備込みで体重120kg以上)

 

そして、以下の体力テストを乗り切らないといけない。

■サンタクロース認定試験 体力テスト

  1. プレゼントの入った大きな袋を持って50mを全力疾走
  2. はしごで高さ2.8mの煙突に登り、煙突から家に入って暖炉から這い出る
  3. ツリーの下にプレゼントを置き、暖炉の上に置かれたクッキー6枚とミルク568mlを完食する
  4. 再び暖炉から煙突を登り、煙突から出たところで国旗を振る
  5. 煙突を降りたらさらに50mダッシュ

 

その後、先輩サンタクロースたちの圧迫面接に加えて、「HOHOHO」だけで宣誓文を延々と読まされる体育会系特有の嫌がらせにあう。その試練に耐え抜いたものだけが、サンタクロースになれる。

サンタクロース界とは、意外と縦社会で嫌な世界である。

2020年現在では、世界に180名のサンタクロースが実在し、日本にも1名の公認サンタクロースがいる。パラダイス山元さんという人だ。

まとめると「サンタクロース」というボランティア活動の国際資格はある。

その国際資格を取得した「サンタクロース」は存在するので、するかしないかと問われれば、存在する。

 

問2、では、子どもが想像する『サンタクロース』とはどんな人物だろうか?

解答:見ず知らずの白人・白髪・白髭・デブ・赤と白の服がユニフォーム・ソリに乗って24日の夜だけ上空を高速移動する・家宅に不法侵入をしても許される・自宅に不法侵入して何も盗らずプレゼントを置いていく・何らかの方法で思考を読みほしいものをあらかじめ突き止めてくる

 

こんなところだろうか。

おそらく、当初よりきちんと「サンタクロース」=「グリーンランド公認サンタクロース」の説明をしている保護者は少数だと思われる。

基本的には「いい子にしてたらサンタさんがプレゼントを届けてくれるよ」「サンタさん今年は何くれるかなぁ」などと供述しているパターンが散見される。このことから、多くの保護者が『サンタクロース』=「何かをくれるがいい子にしていないとくれない、保護者である自分たち以外の存在」として説明しているとみなすことができる。

これを踏まえて、前述の「『サンタクロース』は存在するか?」と子供に問われたなら、その答えは「NO」である。

なぜなら、『サンタクロース』の実態は現実には保護者と同一であり、購入予算は世帯主の収入から捻出されているからだ。どこかの誰かが、その子がいい子だからタダでくれるわけではない。つまり、両親が示唆するような『サンタクロース』という都合のいい存在は実在のものではない。

それは完全に噓偽りである。

 

問3、なぜ保護者は『サンタクロース』がいると嘘をつくのか?

解答:保護者が、子どもたちをぬか喜びさせることで、子どもたちの笑顔を見ることができるから。

 

つまり、保護者の為、親の為。

「子どもたちに夢を与えてあげたくて」

「子どもたちを喜ばせたくて」

というが、それは嘘だ。

 

つくりものの夢を与えることを、一般的には「詐欺」「欺瞞」「ペテン」という。

ありもしない幻想を信じ込ませ喜ばせて「親がみていたい笑顔」を搾取している。

だから、嘘をつくのは子どもの為ではない、自分の為である。

 

「人数が少なくて回り切れないから、本物のサンタさんから代行を頼まれたんだよ」というのも、残念ながら筋が通らない。

なぜなら、本当に公認サンタクロースから依頼がきていたとするならそれは事実だが、自発的にあちらから「代行よろしくお願いします」という依頼が発出されていないなら、それはただの妄想である。妄想ではないというなら、客観的な証拠が必要だ。

いやいや「本物のサンタクロースからは、テレパスで指令が送られてきたんだよ」と言うことができるかもしれない。

であるならば「サンタクロースからテレパスで代行の指令を受け取れる」ということを証明するために、子どもが一切情報を伝えなくても、本当に欲しいものを提供できなくてはならない。心を読めるサンタクロースが依頼者なのだ、そうでないとおかしい。

そして、そのプレゼントは無料で提供されなくてはならない。

 

いやいや「本物のサンタクロースが運営資金が足りないというから補助していた」と言うことができるかもしれない。

ダメだ。それはもう、結局サンタクロースはただ指示を出しているだけで予算を出していない指示厨でしかない。結局プレゼントをくれているのはサンタクロースではなく保護者だと認めていることに他ならない。

「プレゼントをくれる」という行為は、予算を出して届けるまでを言うのであって、そのどちらもアウトソーシングしてしまったら、本物のサンタクロースは「あなたのお子さんはこれが欲しいらしいよ」という情報提供だけだ。情報提供はプレゼントをしていることにはならない。

 

「サンタクロースはテレパスでほしいものを教えてくれて、予算が無いから私たちが補填していた」と説明するとしても、サンタクロースの定義そのものの説明を改めなくてはならない。

『サンタクロース』=「何かをくれるがいい子にしていないとくれない、保護者である自分たち以外の存在」ではなく、「何が欲しいかを保護者に教え、こっそり購入することを促すが、いい子にしていないと情報すらくれない、保護者以外の存在」だと説明しなくてはならない。

そんな存在に子供が夢を抱くだろうか。かなり関与が低い。ぶっちゃけあまりいてもいなくても変わらない。結局買うかどうかは保護者次第であり、普通に買ってもらうこととほぼ遜色ない。

唯一違うのは、心を読まれて何が欲しいかを把握されているということだけだ。

子どもにとっては、プレゼントの限度額を最大化させるための駆け引きを不利にする要素でしかない。むしろ、いないほうがマシである。

 

問4、ではなぜ、世の中の保護者の大半が『サンタクロース』を偽装するのか?

解答:親にそうされてきたから。みんながそうしているから。(同調圧力)それを愛情だと信じたいから。

 

それが「当たり前」だという長年の洗脳の結果である。

他の家がそうしているのに、自分の家がそうしなかったら「変に思われるかもしれないから」「子どもが浮くかもしれないから」と他責にする。

騙すことになるかもしれない、などと深く考えない。

周りがそうだし今までそうだったから、自分たちも詐欺に加担している。

自分以外のひとたちがやっていて、「社会」が「世間」がそうするから私たちは悪くない、と責任転嫁をしている。

それを愛情だと勘違いしている。

 

私は子どもの頃、親に嘘をつかれたことがとても哀しかった。

私が信じてきた『サンタクロース』は幻想だった。

そのこともショックだったが、それよりも、両親が、信頼している味方だと思っていた人間が、私を騙していたことがただただ哀しかった。

見ず知らずの私を、友達もいない私の善行を、ちゃんと見ている保護者以外の存在がいるというのは希望だった。しかし、そんな第三者などいなかった。

そんな都合のいい存在などいないことを両親はわかっていた。

わかっていたのに、私に「サンタクロースがいる」と、虚偽の発言を繰り返していたのだ。毎年毎年、何度も騙していたのだ。

その事実に深い失望感を感じ、とても傷ついた。

 

クラスメートから「まだ信じてんのかよw」とバカにされたことがきっかけだった。

クラスメートとは「信じる両親が『存在する』と言っているのに、お前は何を言うんだ、失礼だぞ、私の両親を嘘つき呼ばわりしてバカにするのか」と取っ組み合いの喧嘩になった。

家に帰ってから「サンタさんいるよね?!そう言ってたもんね??!」と確認したときに、父と母の目は大いに泳いだ。

そしてそのあとゴニョゴニョと誤魔化したのだ。

 

情けない。

情けなかった。

 

この情けない両親を信じた私が情けなかった。

そのときの両親の有様が、とても惨めにみえた。

そしてそんな人たちの言うことを信じて戦ってしまった自分が、ただただ惨めだった。

 

 

もし「サンタクロースはいる」という嘘をつくのなら、正確に意義を認識して腹を括るべきだ。

子どもからの信頼を贄として、「大人になると人は他人を騙す」という社会の不条理を疑似経験させるためにやっていたのだ、と。

「他人の言葉や『皆が信じているから』という同町圧力に流されず、事実を洞察できる推理力を養ってもらうための伝統的な儀式」だという位置づけで、世帯主の責任の下、この家でもこの慣習を取り入れたのだ、と言うべきだ。

騙したことが明るみに出たときには、子どもには、非礼を真っすぐに謝るべきなのだ。

もっともらしく「いるにはいる」みたいな言い逃れをしないで。

自分たちが楽しみたくて嘘をついたのだと認めなくてはならない。

それができないなら、騙すべきではない。騙るべきではない。

 

だから、我が家にはサンタクロースは来ない。

クリスマスプレゼントはある。両親から渡す。

得体のしれない誰かからの贈り物だと嘘をつかず。

古代ローマから続く太陽を神とあがめて行われた祭りとして、素直に祝われる。

我が家の太陽。子どもたちは太陽だ。だから愛情の表現の一つとして贈り物がある。

それだけでよい。嘘は要らない。

【社会福祉士】社会不信論

社会が信じているのは金である。

なぜならこの社会が資本主義経済社会だからだ。

金が社会の血液なので、金は命よりも重い。そういうふうにできている。

なので、いくら多様性とか平等とか福利厚生とか人権とか訴えても、根本的に無理なのだと思う。

最近そんな風に社会に対して絶望している。

 

この論考の始まりは、会社に対する不信だった。

会社という組織はとても不可解だ。

どうせ金が目当てなのに、大義名分を欲しがる。

いかにも社会に貢献しています、という「建前」を欲しがる。

欲しがるだけでそんなに大切にはしていない。

結局本音がにじみ出る。

 

だから、たとえば製薬会社でいうと、

「新規処方を〇〇例『獲得』する」とか

「恐怖をあおって病気を『つくる』」とか

「医師の『意識に刷り込む』」とか

常軌を逸したとんでもない表現をしがちである。

結局、患者を金づるとしか思っていないので、そういう言葉がでる。

 

何も製薬会社だけではない。

以前勤めていた会社も、同じようなもんだった。

中国から仕入れた粗悪な製品でシステムを組んで、とにかく納品しさえすればあとはトラブルが起きようが何しようが知ったこっちゃないというスタンス。

実際に取引先で損害が出たとき「そんなのうまくごまかして逃げろ」と遠回しに言われて愕然としたのを、昨日のことのように覚えている。全身の力が抜けて徹夜で現場に一人で張り付きまとめた検証報告書を取り落とした。

他の製品もなんだか技術的に心もとない製品で、案の定技術的なトラブルに見舞われたが、誰もケツを拭こうとしなかった。私は担当として必死に最後まで改善提案をし続け、問題は解消されたが、会社は嬉しそうではなかった。

 

つまり、金さえ儲けられれば、他人が困ろうが人が死のうが、心の底ではどうでもいいと思っている。

会社とはそういう組織だ。営利企業という存在のペルソナは偽れない。

業種・規模・業態に関わらず、全てがそうだ。

あんまり表立って困り過ぎたり死に過ぎたりすると、金儲けができなくなるリスクがあるから、最低限のラインを守っているに過ぎない。すべて自分たちの為だ。顧客の為ではない。

 

なので、会社が偽善で耳障りの良いことを口走ると、私は身の毛がよだつような気持ちがする。思ってもないことを言うな、気持ちが悪い、と思う。

でも、社員の大半は、そのおべんちゃらを信じて、あるいは分かっていて放っておくことができる。

それはとても奇妙で理解しがたい。でもそれが普通らしい。本当に意味が分からん。

 

会社は、どれもこれもそんなふうに腐っている。

なので、その会社で回っている社会は、腐らないはずがない。

結局のところ、社会というのは金である。

テレビばかり観ている人にはわからないかもしれないが、政治もすべて金次第で動いていて、自分の権力の座を奪われないための政治家による政治家の為の椅子取りゲームなのだ。そういう茶番だ、あれは。

官僚というやつも、公僕ではなくて、金の下僕だ。

損得勘定ばかり得意な人間がはびこるようにできている。この社会では誰もかれもがマウントを取り合い陣取りゲームをしている。他人を蹴落としても心が痛まないような、人間性に乏しい人間が昇進できるようにできている。

だから、会社の上司がクソなのは当たり前だ。

なぜなら役職が上に行くほどクズになるのだから、当然の帰結だ。何も不思議ではない。

社会的地位があるということは、より賢いクズだという証明でしかない。残念ながら、私は長いことこの社会的地位を求めて命を削るように頑張ってきたわけだが、骨折り損のくたびれ儲けというわけだ。痛恨の極みである。

そんな社会的地位と名声と権力というクソみたいなコレクションを求めて、政治の世界を志すような上昇志向の強い人が、この世の弱者に寄り添えるはずがない。

だから、社会が社会的弱者のことを考えるのは、土台無理な話なのだ。そんな高度な感性が必要な仕事ができるような人種ではないから。

「どうしようもないダメなやつを賢くて偉い俺様たちが救い出してやるか」みたいな考えで制度を考えるから、使えない制度ばかりつくる。

まともに考えているのは、自分たちにご褒美をくれる「スゴイ人たち」に融通を利かして褒めてもらうことだけ。そのためなら社会的弱者など必要な犠牲その1くらいにしか思ってない。だから永遠に社会は良くはならない。

 

こうすればいいとか、ああすればいいとか、そんな希望的観測はこの記事にはない。

このような資本主義経済社会はいずれ崩壊する。もう無理。諦めよう。こんな欠陥システムでは人はどんどん自殺したり餓死したりするだけなので、どこかの時点で転換期がくる。

まあそれで新しい原理の社会ができたとしても、あまり私は手放しに喜ぶ気にはなれない。

今よりはマシだろう。今は地獄だ。マシになるならそれには価値がある。

だけど、仕組みになった時点で効率と合理性に支配されるので、絶対にノイズが発生する。次第に人間側をノイズと考えて、システムが主役になる。だからシステムをつくった時点で、システムはもうすでに終わりに向かって進んでいる。

持続可能なシステムなどない。この完璧に調和しているかのように見える自然界ですら、いずれ太陽とマントルが原因で生き物が住めなくなるのだから。生と死は隣り合わせ、コインの裏表で在り、栄枯盛衰、永遠に続くものなど何一つないのがこの世の常だ。

 

唯一不幸にならない信仰といえば、愛だろうか。

愛と聞くと拒絶反応が起きるというか、むず痒いというか、それこそ建前でおべんちゃらのように聞こえるかもしれない。

しかし、今まで私が出会ってきたなかでは、「愛」これがベストな世界の「通貨」だと思う。

自助グループというのは、非営利で運営されていて、徹底して何の利害関係ももたないように団体の理念が構成されている。

同じような心の穴をもつ人が寄り添い、共感と慈しみによって繋がる。

そこには打算も駆け引きもない。ただただ、弱さという共通点が互いの存在に感謝する心を育み、交流の「通貨」として愛を込める。

まあ、共依存的に歪んだやり取りもぶっちゃけあるにはあるが、それもまた必要だから与えられたものだと理解することができる。謙虚に素直に生きていれば、そんなことを理解できる日がきっとくる。

見返りを求めない、ただただあげっぱなしの愛。

これほど尊いものはなく、価値のあるものはない。

経済的に価値のあるものなど、かすんでしまうほどに、それは光り輝いている。

その生きるために必要不可欠な光が見えなくなってしまったので、人々は病んでいるのだと思う。

陽が陰って澱んだままの部屋の片隅に放置されている、観葉植物のように。

金銭欲や所有欲を貪るのは、水をジャブジャブに植木鉢に注ぐようなもの。

そんなことをすれば草木は根が腐ってしまう。それと同じように、人も性根が腐ってしまう。

 

まあ、もうあーだこーだ言っても、この社会も所属している営利組織も、もう底が知れている。もうダメだ。いっさいは無駄である。

もう、期待するのはやめにしよう。

もっと、大切な目の前にあるリアルな繋がりに愛を注ごう。

損得が無くても関わってくれる人との会話や繋いだ手に、愛をこめよう。

 

【AC】「被害者」として生きる『嗜癖』を手放す

こういうタイトルにすると、なんだか責められるような予感を感じる人がいるかもしれないが、そんなことはないので安心して読み進めてほしい。

それにこのブログの記事は私が私の人生において感じる話なので、誰かの何かを責めるために書いているのではない。

基本的にこのブログはそんな感じのスタンスである。

 

さて、私は「被害者」として生きているほうが、自分の生きづらさをみないためにはとても都合がいいので、いつも誰かを責めたり、誰かの粗探しをしていたように思う。

その結果、私は他人を自分を見ないための道具として扱っていて、だから他人と深く付き合えなかった。なので、友達ができなかったし、親友がいないのだ。他人に好意を持たれなかったのは、私が他人を道具扱いしていたからだと思う。

全部、他人がどうのこうのというより、自分の在り方の話だったのだ。今振り返ると、そう思う。

でも、それはしょうがなかったと言えばしょうがなかったんよ。

だから「同じようにやっちまってたなぁ…」と思う読者がいたとして、私は「私も同じように、やっちまった人間だから、わかるよウンウン」と言いたい。

ベストなのはそりゃ最初から他人にアサーティブに道具扱いせずに接することができるほうがいいさ。

でも、私はACとしての課題を抱えていて他人とまごころから接することなんてとてもじゃないけどできない状態だった。

理想なんてわかってても、できなかった。それは誰のせいでもない。

 

もちろん、親が未熟だったのでACとしての私が爆誕したわけで、割と親のせいで苦労したというのはある。

もっとありのままを尊重してくれて、私の感性を正論で否定しないでくれたなら、別の人生もあったかもしれないと思う。だからこそ、私のペンネームは「ちあき」という名前なのだ。「ちあき」にしようか、今の本名にしようか迷って、結局「ちあき」は取り下げられた候補だったそうだ。もしも「ちあき」だったなら…という人生の分水嶺的な意味で私は人生の面白味を感じて、この名前を名乗っている。いわば、ブログのなかの私は、もう一つの世界線の私でもある。

 

話がそれたが、私は親を長らく心のなかで責めてきたし、恨んできた。

今もそんなに仲良くする気はない。私の目の届かないところで早く死んでほしいと思っている。彼らの生き方はあまり変わらないようなので、それなら私はあまり関わらないことを選ぶ。それだけの話だ。

こういう正直な親に対する感情をうっかり何も知らない他人に話してしまうと、だいたい中年以降の人々だが、よってたかって私にクソバイスをする。

 

「まだ若いから。親の気持ちがいずれ分かるわよ」

「でも、見えないところで親の努力のおかげで育ってきたのよ」

「親は本当にすぐボケて会話できなくなるから、早めに和解したほうがいい」

「親がかわいそう、仲良くしてあげてよ」

 

うるせぇ。(笑)

親になり親の気持ちはなんとなくわかってきた。仕方なかった部分もあることも。

しかし、親がやってきたことをどう思うかは、子どもの私にしか決められないし、他人が否定するものではない。

ぶっちゃけ、子どもの私が「地獄のような家だった」と思うなら、それが真実なのだ。外見的にどれだけリッチで幸せそうだろうが、親の愛情が深かろうが。それは子供には関係ない。子どもがどう思うかは、子どもの権利だ。それを否定するのは、人権侵害である。

 

そして、親が子供を権利あるいっこの人間として尊重して育てるのは、当然のことだ。

「子どもの権利条約」 一般原則

・生命、生存及び発達に対する権利(命を守られ成長できること)

すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう、医療、教育、生活への支援などを受けることが保障されます。

・子どもの最善の利益(子どもにとって最もよいこと)

子どもに関することが決められ、行われる時は、「その子どもにとって最もよいことは何か」を第一に考えます。

・子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)

子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します。

・差別の禁止(差別のないこと)

すべての子どもは、子ども自身や親の人種や国籍、性、意見、障がい、経済状況などどんな理由でも差別されず、条約の定めるすべての権利が保障されます。

引用元:ユニセフHP>HOME>世界の子どもたちを知る > 子どもの権利条約

 

 

ユニセフの「子どもの権利条約」にもあるように、これらの権利は当然与えられるべきものだ。それが子供をつくった親たちの責務であり、社会の責務だ。

そんな責務を果たすのは当たり前なのに、子どもに対して恩着せがましく「育ててやった」みたいに言ってんじゃねーよ、と思う。

生んで育てたことを担保にして感謝と献身を引き出し搾取しようとするのは、詐欺みたいなもので、とても質が悪い。

子どもが仲良くしてくれないのは、そういう詐欺を親がいい年こいて今もなおやろうとするところが忌避されているだけだし、それに気づかないで死んだりボケたりするのは「ああ、理解が間に合わなかったね、どんまい」で終わりなのである。子どもにしりぬぐいをさせようとするのはお門違いである。

 

とまあ、ボロクソに書いたが、親側が勘違いしすぎな感がある。

子どもに「お父さん、お母さん、育ててくれてありがとう」と言われたい気持ちはわかる。

気持ちは分かるが、それを言わせるために洗脳したり抑圧したりするのは、

『子どもを道具に使っている』のだ。

 

ん??どっかで聞いたような。

 

そう、冒頭の話に帰ってくる。

「他人」を「自分を見ないための道具」に使っている。

 

それは、私そのものだ。この態度は、親から学んだものだったのだ。

親が私を「自分を見ないため道具」として使ったことをしっかり経験的に学んでいて、私は他人との関わり方をそのように徹底したのだ。なんて素直で勉強熱心な息子だろう。涙が出そうだ。(笑)

 

そうした何らかの目的のために特定の何かをやりがちな状態を「嗜癖にしている」という。

「嗜癖」とは英語で「addiction」ともいう。つまり「依存症」、有害な習慣を意味する。

 

親も結局、この他人を道具として扱うことをやめられないために、子どもとの関係が破綻したと言える。親の在り方次第だったのに、いまだに子供に対して親に歩み寄る努力を求めている。この不自然さ、不健全さがわかるだろう。

先の私にクソバイスを言う人々は、依存しているのだ。子どもに。

自分の問題をみないために、自分の心の穴を満たすために存在する道具扱いしている。それにまだ気づいていない。

むしろ親として正当なことだと思っている。だから子供はますます病むし、親に失望し心がだんだん離れていく。いつになったら気づくんだろうなぁ。否認を解くのはとても難しいんだな、と思う。

 

親は、親自身の課題に全集中するのがベストだ。

というか、親に限らず、人は全てそうだ。

自分自身の生きづらさや人生の課題について、プライオリティを第一において取り組んでいる限り、最も豊かな人生を送ることができる。

他人をコントロールしようとせずそのままを尊重し、全ては無理でも一定数を愛することができる。なぜなら他人は自分と同じ世界の一部だから。

 

最近、自分の人生を一番に生きるようになって、他人と少しずつ深く語ることができるようになってきたと思う。

例えば私が自殺しようとしていたこととか、アルコール依存症になった経緯とか、素直に率直に話す内容を受け止められる人は、同じく率直に自分自身を語ってくれる。

そうやって、他人はそれまで知らなかった辛いことや哀しいことを、なんとか乗り越えて生き延びてきたことを知る。

それは、私とは違う人生だけれども、懸ける思いは同じだったのだと。

得も言われぬ、人生への深い愛と真摯さが根底に流れていて、それで自分と他人は繋がっていたんだと気づく。独りではないと気づくというのは、そういう感覚だ。

 

この繋がっているという感覚。自己開示しなければ得られない繋がり。

繋がっているという実感がないからこそ、寂しくて独りぼっちで、何かに「嗜癖」していなければ生きていられないほど辛い。

しかし、拒絶されることが恐ろしいので、自己開示できないから、最終的に欲しいものをいつまでも手に入れられず(実感できず)に、苦しみ続けている。

 

それが、子どもを道具に使おうとした私の親と、他人を道具に使おうとした私自身の、真の姿だった。

 

その姿を隠すためには「被害者」である必要があった。

「私は悪くない」と他人に言い訳するための隠れ蓑が必要だったから。

全部、本当は自分のことしか考えていない。

そうやって「被害者」として独りぼっちで自分のことばかり守ろうとして、自分を自分に閉じ込めたまま生きているから、苦しい。

 

変えられないものを受け容れる落ち着き。

変えられるものは変えていく勇気。

それら二つのものを見分ける賢さ。

 

それらが与えられますように、と祈ろう。

そして、勇気を出して「被害者」として生きる嗜癖を手放そう。

その先に、本当に欲しかった繋がりがあり、真の安らぎがある。

それが、本当の意味で子どもを愛することに繋がる。

やらない手はない。

【仕事】製薬業界(MR)から異業種へ転職したい人への注意点

国内MR数 1年で2300人超減少 新型コロナの影響はこれから ミクス調査 

中堅企業の人事担当者からは、「今回回答したMR数に新型コロナの影響は入っていない。MRの存在意義が問われており、今後の数は読めない」との声が寄せられた。新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けて、デジタルによる情報活動は増加し、MRの医療機関への訪問回数は減少すると見る向きは多い。MRの役割や活動がポストコロナに再定義されたとき、業界のMRの規模もみえてきそうだ。

 

こんな記事に不安になったり、いつまでも在宅勤務で医療機関への訪問ができずに歯ぎしりしているMRは全国にたくさんいそうだ。

特に若い20~30代の世代は、「このままこの業界にいていいのだろうか?」「このままいつまでも外に出られずに気がついたら転職できない年齢になりリストラされるのでは?」と将来が不安になっているかもしれない。

国内の大手製薬企業にストレートで受かってくるような人だから、それなりの学歴で、自分自身をそれなりに優秀と思っているだろう。

しかし、人材としての市場価値があるかどうかは別問題だということと、現状の有難みを理解していないと、決断を急いで悔いを残すことになると思う。

異業種から製薬業界に転職してきた身として、業界の特殊性から転職を考える上での注意点をいくつか紹介したい。

 

①見積書や請求書を取り扱っていない異質さを自覚しよう

MRを一生懸命やってきたひとほど、「私は今まで『営業』の経験を積んできました!」という自負があるだろう。

しかし、実際はMRは営業をしているとはいいがたい。

やっていることは、情報提供。それだけだ。

見積を出し、納品し、請求書を渡しているのは卸のMSだ。私たちは医薬品卸に購入していただいて売上をあげているわけで、実際金品をやり取りしているのは卸だけだ。

特約店担当者だけが、会社の窓口として自社製品に関する生々しいお金の取引をしている。

実際、営業として異業種で働く場合、交渉がどれだけ上手で論理的で話術が巧みであっても、見積の出し方や他社との駆け引きによっていくらでも覆る。

決裁権が誰にあるか、顧客の部門予算は何月〆なのか、会社の体力を考えると何%まで値引き可能なのか。

社外だけでなく社内と常に交渉しなくてはならない。社内が動かないから、という言い訳は通用しない。結局顧客のニーズに合致する金額を社内から引き出せなければ他社に負けるし、いくら動いても売り上げが無くては利益が生まれない。

営業活動も、活動効率を考えなくては、粗利益からどんどん経費が引かれて純利益がなくなっていく。そうした経営者的な感覚で利益を生み出すべく動くことができる人間が、「営業」と名乗っている。

社用車が与えられて、ガソリン代を湯水のごとく出してもらえて、1日得意先を訪問しただけで「日当」という名目で非課税の2000円相当の経費がもらえる会社など、製薬会社以外ありはしない。そうした経費を勘案する必要のない恵まれた職場環境だったという異質さを認識しておくべきである。

 

②営業は売る方法や手段を自分で考える世界だと知ろう

製薬会社が恵まれているのは、発表用のスライドや宣伝資材がすでに完璧に用意されていることだ。

異業種から来た私としては中身をいじることができない、というのは逆に縛りがきつくて窮屈に感じてきたので、その面ではある程度営業活動に自由が利くことにMRはある程度喜びを感じるに違いない。

しかし、自由には責任がつきまとう。

どこかが責任をもってつくってくれていた資材を使うのとは違い、自分でつくり、会社に確認して、会社から了解をもらうという工程を踏まなくてはならなくなる。

実は自分が使う武器をいつも他の部署にアウトソーシングしていたということに気づくだろう。

そして、そうやって作ってもらっているものに文句を言ってばかりで、自分の責任でつくって実績を生み出したことが無いことに気づくだろう。

 

売る方法についても同様である。

マーケティングの部門がボストンコンサルティングやマッキンゼーに高いお金を払って市場分析してくれて、オピニオンリーダーにヒアリングまでして、「こうすれば売れるのではないか」という仮説を立てて、会社として推奨してくれるのは、製薬会社がリッチであることを象徴している。(だいたいその仮説が的外れなので、いつもがっかりするが。)

よくある一般的な企業には高いコンサル料を払う体力はないので、自分で売る方法を考えなくてはならない。

今まで売れなかったものを売る手法を独自に考えることは、誰も正解を知らないのでトライ&エラーの連続だ。失敗の責任はマーケティング部門のせいにはできない。売上の責任はすべて自分にかかる。

月末や年度末に薬剤部にお願いすれば買ってくれることなど無い。あんなのは粉飾決算である。返品ありきで購入してもらうなど、他の業界ではまずありえない。

本当の営業職は会社から言われたことをやっていれば給料をもらえるわけではない、ということに気づかされるだろう。

 

③福利厚生や年収は今よりダウンすることを覚悟しよう

正直、この仕事量でこんなに給料をもらえる仕事は他にはないだろう。

こんな楽な仕事はないと思う。めっちゃ楽だよMR。

接待やイベントへの参加が難しくなってきた今、ほとんどのMRは、毎日数軒の得意先を訪問するかWEB面談をしたりして、海外の論文をいくつか読み、英語の勉強でも隙間時間にしつつ、夕方になったら日報を提出して業務終了するような生活ではないだろうか。

営業は、粗利益で3人分の年収を稼ぐくらいで、一人前だと言われている。

そして粗利率は業界によって大きく異なるものの、数百万の取引では約15~20%程度。

つまり、今の年収を3倍して、その5倍の金額を年間で売り上げることができるかどうか、というイメージである。

例えば年収600万くらいだとすると、転職先の製品を約一億売ることができなくてはならない。その実力があるということを証明できる経歴だろうか。今のビジネスのノウハウで本当にそれだけの売上を達成できるだろうか。面接において、転職希望先の採用担当者を納得させられるキャリアのプレゼンができるだろうか。

考えてみてほしい。そういう視点で自身のキャリアを振り返ってみることがとても重要だ。

医薬品というのは、日常的に処方される。定期的に売れることが当たり前だ。

だから、今MRをしていて、毎日数十万売れていくのは当たり前だと思いがちだが、製薬業界の特殊性はここにもある。

一度処方を決めたらしばらくは毎日飲んだり定期的に投与したりする医薬品のような製品は、ベースの売上を構築しやすく、ビジネスモデルとしてはとても優れている。

そうした売上システムのサービスは、異業種だと携帯電話キャリアの定期契約だったり、機器のリース契約やレンタル契約に近い。いわゆる『定額制ビジネス』だが、これはとてもうまみのある、安定して収益が上がる構造なのだ。

しかし、物販だったり工事契約だったりすると、受注して支払いを確認したら、次をまた一から探さなくてはならない。商売の匂いを嗅ぎつけてあの手この手で群がる営業のなかで、コンペを勝ち抜き、高い勝率を保ち続けなくてはならない。

今日売れても明日売れる保証はないのがデフォルト。

そして、売れなければ居場所はない。

 

それに、製薬会社は、これから転職する会社より「法定外福利厚生」が充実している傾向にあると考えておいたほうがいい。

信じられないかもしれないが、企業型確定拠出年金(DC)すらない会社もある。家賃補助や交通費・家族手当などは無くなることを覚悟したほうがいい。というか、MRはかなり恵まれていて、ぬるま湯だったということを自覚すべきだと思う。

 

 

まとめ:安易にMRから異業種への転職を考えると痛い目に遭う

なんとなく、今まで積もり積もってきた愚痴というか鬱憤を吐き出しただけのような文章になってしまったが、感覚としては間違いないと感じる。

ずっと業界に違和感を感じてきた。

「世の中の仕事はMRよりもっと楽なもんだ」と思っている社員が、多いこと多いこと。

MRのほうが楽だから!こんなに給料もらえること自体がおかしいから!

と声を大にして言いたい。

 

現状に不満があるから異業種に転職したい?このコロナ禍で?

世の中を舐めるのもたいがいにしたほうがいいよ。

MRの経験だけで雇ってくれる一般企業なんて、今はほとんどないよ。

金銭感覚まずおかしいから。1個2000円とか3000円の弁当提供するのが当たり前の業種なんてありえないから。そんなふうに経費使ってサービスするときなんて、受注が確定した時だけだから!笑

そんな弁当をもらっておいて味に文句を言う取引先もあるので、たまげたが。そうした一部の医療関係者の金銭感覚に業界全体が引っ張られてきたというのもあるんだろうけど、浮世離れしていることを自覚しないと、本当に転職してから後悔すると思う。

そして、今は諸先輩方がやってきたような弁当や謝礼で釣る関わり方はもうできなくなっている。正直、やっていることは大したことがなくなってきた人が多いと思う。本当に存在意義が問われている。今、MRのままで自分のスタイルを改革するくらいの気概がないと、結局どの業種でも生きていけない、ジョブホッパーになってしまう瀬戸際にいると思ったほうがいい。

「そんなことはない、自分たちは医者と渡り歩いてきた経験があるし、薬学部を出るくらいには勉強もできたし、世の中のある程度の人間より優れているはずだ」と思うだろう。

ところがどっこい、お勉強ができてテストで点が取れて世の中に優秀な人材として求められるのは、「新卒というスペシャルカードがあるときだけ」なのだ。

勉強ができてもテストで点が取れてもたくさん暗記ができても、営業で生きていくからには今までとは違うサービスを生み出すクリエイティビティが必要不可欠だ。暗記や計算はもはやCPUのほうが早くて正確だ。そういうのは求められていない。

MRが本来強みとしていて、大切にしていたのに無くしてしまったものが、もっとも重要なものだったのだ。それは顧客のニーズととことん向き合い傾聴し、他の営業よりも早く、質の高い提案をもっていくということだ。以前は接待という名の深い付き合いのなかで信頼関係を構築し、先生方の右腕として陰ながら活躍してきたのが、MRだったんだろうと思う。

そうしたつながりは希薄になってしまったが、だからこそ今のこの難しい状況で転職に逃げずに創意工夫することにチャレンジできないMRが、他の業界に移って「優秀でデキる営業として即活躍できる」とは、私には思えないのだ。

 

現代のMRの強みとして、①論理的思考能力、②社内外で嫌われないための責任回避・危機回避能力、③英語力(海外文献を読み込み日常的に英会話を勉強しているMRのみ)④自動車運転の慣れ、が挙げられると思う。正直これだけってのはかなり心もとない。

もし今のこの強みしかない状態で転職するとしたら、同じ製薬業界内にしたほうがいいような気がする。

MR経験を活かしてオーファンドラッグベンチャーのMRに転職するとか、薬学知識と英語力を生かしてMA(メディカルアフェアーズ)やMSL(メディカル・サイエンス・リエゾン)として専門性をとがらせるほうがよっぽど現実的だと思う。地域包括ケアシステム構築のために必要不可欠なかかりつけ薬剤師として、患者さんに選ばれる地域の頼れる薬剤師を目指すのも素晴らしいことだと思う。

もしMRから異業種への転職を逃げ道に考えてフワフワしているとしたら、ちゃんと現実を見たほうがいい。

このままだと、多くの製薬会社の人間がどこにも行けない。

そうしたことは転職エージェントは商売をみすみす逃すことになるから言わないだろうし、面接でも直接教えてくれることはないだろうから、老婆心ながらちょっと書いてみた。

 

いずれにせよ、ここだけの話だが、製薬業界自体、もうかなり腐っている。

元々腐っていたが、もう回復の見込みがないほどの腐りっぷりだ。

このコロナ禍で、本当にはっきりした。絶望しかない。

今回のmRNAワクチンを世に出してしまったたことで、もはや後戻りできない一線を越えてしまった。これを理解していない人は多いが、もう決定的に道を誤った。

私は、もう製薬業界は終わったと思う。

これから就職する人は、絶対にやめておいたほうがいい業界である。

MRとして、製薬会社の人間として、生き残ろうというのはもうすでに破滅の一途をたどる道となった。未来はない。

そりゃ今の居場所に旨味はあるので、居れるだけはいるけど、絶対に長続きしないだろうから、泥船が沈む前に撤収するだろう。

そのために私は次に繋がるように働いているし、並行して勉強し他の業界で生き抜けるように工夫している。

だって、毒を売る会社が長続きするわけないじゃない。信用されるわけないじゃない。そんな会社に入りたい人が今後現れるわけないじゃない。

メガファーマのFとか、MとかTとかAとかは、遅かれ早かれ薬害訴訟だらけになると思う。

そして、誰も信用しなくなるだろう。『バイオハザード』シリーズのアンブレラ社のように。

もう、この業界からは、いつ足を洗うかというステージに来ている。時間は既に、ほとんど残されていない。

 

 

許しがたい罪は、いつの時代も、いつか贖われる運命にある。

人を殺めた大きな隠し事は、いつか白日の下にさらされ裁かれる運命にある。

オオカミ少年が、自分の嘘で己を追い詰めた。身から出た錆。

コントロールを手放せないACは、いつか底つきをする。

どうにもならなかったことを認めざるを得なくなる。

それは、必ず訪れる。

 

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

現代語訳:祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという物事の道理を示している。おごり高ぶっている人(の栄華)も長く続くものではなく、まるで(覚めやすいと言われている)春の夜の夢のようである。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまう、まったく風の前の塵と同じである。

引用:平家物語『祇園精舎・冒頭』

 

 

【社会福祉士】現代社会が病んだ理由は「理性」

「理性的」というと、一般的には、とても聞こえがよい。

なんだかとてもスラッとしてスマートで無駄が無くてクールな感じがするだろう。

他人を尊重できて、礼儀正しくて、リッチな感じがするだろう。

理性で動くということは、この現代社会において肯定的にとらえられている。

 

「理性」=前頭前野

では、理性とは何か。

理性とは、脳の前頭前野(前頭葉)のことである。

 

引用元:http://www.matsusen.jp/ondoku/ondoku2-3.html

 

大雑把に言えば、感情をコントロールして、脳というチームの中間管理職的な働きをする。

人間は、他の動物に比べて前頭前野がとくに発達している生物である。

それゆえ、言語を持ち、道具を使い、文明を発展させてきたともいえる。人が「人らしさ」を体現しているのが、まさに前頭前野だと言える。

 

引用元:https://www.scj.go.jp/omoshiro/kioku1/kioku1_3.html

 

たとえば、アルコールを飲むと、人は「理性」を失う。

それは、アルコールという物質が脳の前頭前野を鎮静(麻痺)させてしまうからだ。

セクハラをしたり普段言わないことを言ったり、いつもより泣いたり笑ったりするのは、脳が麻痺しているから。その人の本性がダメなわけでも、意志が弱いのでもない。鎮静系の薬物(というか毒物)を体内に入れて「理性」という機能を停止させれば、誰でもいつでもそうなる。それだけだ。

感情をコントロールしたり、記憶に基づいて損得勘定したりすることができなくなってしまうので、その場の欲望に素直になるし、感情的になる。飲み過ぎると記憶もなくなる。

そういう薬物が、アルコールという薬物である。

私は文字通り死ぬ一歩手前で飲んだので、よく知っている(笑)。詳しくは、私のアルコール依存症の過去記事を参照されたし。

 

 

とまあそんなわけで、前頭前野こそ人間様の象徴、理性の源。

まさに前頭前野バンザイ、というわけだが、私はあまりこの理性万能主義とでもいうような現代の流れというか文化的風潮を、よく思っていない。

たしかに人間らしさは突き詰めると前頭前野であり、人間のなかでも前頭前野がより発達しているとすれば「より人間のなかでも人間らしい」個体ということで、他人に比べて優越性を感じるだろう。他者評価というのは常に不公平な相対評価である。

それはわかる。理屈は通っている。

 

引用元:http://www.matsusen.jp/ondoku/ondoku2-3.html

 

しかし一方で、とてもバランスが悪い。

前頭前野だけで考えて「正しい」「優れている」などと考えて決めるのは、早計すぎやしないか、と思うことが、現実には多々あると思っている。

何を言っているかというと、実際に五感をつかってその物質に触れてみて匂いをかいで…経験を経て持つ「実感」と、理屈だけ覚えて分かった気になっている「想像」とでは、大きな乖離がある。

だから前頭前野でばかり物を考えたり決めたりしていると「ズレて」くるということだ。答えが偏るし、ベストだと思った選択が必ずしもベストではない、ということが頻発する。

そういうわけで、その境界線を「肌で感じる」ことをしないで、脳内の仮想空間で分かったつもりになり、経験したつもりになり、とても狭い情報に基づいて可能性や魅力を計算してしまうことは、とても危険だ。

生身の感覚をともなって触れる世界こそが、本当に実在する世界であり、自分との境界線である。、

頭でっかちで自ら不幸になっていく種族、人間。

思えば、自然のなかで遊ぶことが本当に少なくなった。

コンクリートジャングルは、前頭前野の産物である。脳の世界を体現した、まさに「脳の檻」。

その檻の中に己の肉体を閉じ込めて、温度と湿度が管理された空間で季節を感じることもなく、朝から晩までPCやLEDの強い光に煌々と照らされて、私たちは毎日を過ごしている。

そのおかげで、自律神経はおかしくなり、うつになったり不眠になったり。その不調を治すためにはお金がいるので、さらに「脳の檻」のなかでほしくもないお金を求めて働かざるを得ない。

そんなの、生き物として不健康に決まっている。

 

人と人との繋がりは、どんどん希薄になったと思う。

実際に出会って手と手で触れて、同じものを見たり同じものを食べたりすることが、とても少なくなった。そういったことは「コスパが悪い」と言って切り捨てられた。

感情を表出することは「損をすること」で「未熟な人がすること」という『理性教』の偉大なる教えのもと、金銭的な不利益をこうむりたくないという損得もあいまって、人は気持ちに向き合うのをやめた。

自分の気持ちも他人の気持ちも、恐ろしいので目を逸らしている。

だから皆、さびしくてたまらないのである。

だから、怖くなったら簡単に終わらせることができるインスタントな繋がりにその寂しさの埋め合わせを求めて、お金で買える関係性(キャバクラ・ホスト・パパ活など)やSNS・Vtuberなどの仮想空間での関係性に群がる。

しかし、抱えた心の穴によってお互いを傷つけあい摩擦を起こしている。とても哀れだ。

喉が渇いていて水を求めているのに、水を飲む映像をいくら見ても渇きは癒えない。実際に水を飲むしか解決策はない。そんな感じだ。しかし、水を飲み込むのが怖いので、水を飲む映像を四六時中みながら涙を流して「喉が渇いた」と嘆いている人々。

 

これが、みんなが目を背けている、現実である。

 

前頭前野=理性を神と崇め奉り、人として最も優れた重要な特性なのだと信じて突っ走ってきた人類史のどん詰まりである。

幸せってなんだっけ?と思わないか。

もっと何もなかった時代のほうが幸せだったのではないか。

草木を愛で、山河に感謝し、朝日や月に祈り、ともに暮らす人を愛して生きていた時代と比べて、人は進化したのだろうか。退化したのではないだろうか。

その元凶が、理性至上主義・論理的思考ではないだろうか。

 

理性とは、世界のとらえ方の一つに過ぎない。

「はい論破」

論理で相手を言い負かしマウントを取るこのセリフが、子供たちの間では流行ってるという。

そんな児戯で天狗になりニヤニヤしているような人間は本当に「安い」。

人としての有り様がチープだとしか言いようがない。薄っぺらい。

「論理的思考というのはレゴのようなもの」だと岡田斗司夫さんが語っているのを聞いたことがある。まさしくそうだと私も思う。

しかし、こういう幼い人が、社会においては「優秀な人」「デキる人」「勝ち組」である。

私はこんなクズどもを結婚相手に選ぶとか趣味が悪いにもほどがあると思うけど、みんなこういう人がいいらしい(笑)。

 

理性とは、ものの考え方であり、捉え方の一つでしかない。

実際に体験して掴み取った実感が、あなたにとってのこの世界の真実であり、あなたの世界のカタチをつくっていく。

礎となる体験がないまま頭でわかった気になっても、実際は少しの拡がりもない。

成果や結果は運である。自分の能力で影響して予想した通りに動かしたように見えたとしても、それは思い込みである。

世界には世界の大きな理があり、それは人類なんかには到底コントロールできないものである。それを知らずに「コントロールできる」と得意になっているのは、お釈迦様の手の上の孫悟空そのものだ。

しかし、この前頭前野が発達していると自称する全てのエリートたちは、そろってみんな思い違いをしている。

「世界を持続可能にするため」

「もっと良い社会をつくるため」

「みんなを幸せにするため」

という共通のうわ言を言いながら、本当にこの理性だけで世界を改変しようとするから驚きである。

その改変は、総じて改悪にしかならない。

なぜなら、原理原則である「実感」が伴わない限り、頭のなかでの思考は「ゲーム」の域を出ないからである。

今人々がやっているのは、生きることではない。ゲームなのである。

世界のどこかで遊び半分でお金をもっともっと集めようとするプレイヤーが、世界のどこかで負けたプレイヤーを現実に餓死させたり自殺させたりしている。それがこの資本主義経済社会。新自由主義、グローバリズムを加速させて「進化した現代社会」である。控えめに言って地獄である。退化の間違いでは?

このゲームが好きなプレーヤーたちは、もっと効率的に、もっと自分たちがゲームしやすいように、ゲーム設定までいじろうとしている。

ゲームはゲームであって、他人の命を取る権利は、誰にもない。

前頭前野が他人より大きく発達しているから人殺しをしてもいいというのであれば、それは動物以下の行動原理ではないか。

 

最も持続可能な世界の原理原則は、愛。

なんでこんなにもこのゲームはつまらないのだろうか。

それは、最も重要な生命の行動原理、生命の象徴である「愛」がゴッソリ抜けているからだ。

 

愛情のホルモンであるオキシトシンは、脳下垂体後葉から分泌される。

 

引用元:https://www.chugai-pharm.co.jp/ptn/medicine/karada/karada021.html

 

引用元:http://dogwan.jp/information/index.php?%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B3%BB%E3%81%AE%E7%96%BE%E6%82%A3%2F%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E6%A9%9F%E8%83%BD

 

脳下垂体(下垂体)は、前頭前野を含む大脳皮質よりもずっと古くから生物に存在してきた、ベースの脳部位である。

つまり、新参者の前頭前野よりも、よっぽど長く生命を支えてきた脳の根幹だ。

そこから分泌されるオキシトシンは、幸せや安心を感じるホルモンである。

オキシトシンは、長期的なこの内因性オピオイド(エンドルフィンなど)の分泌を促し報酬効果を増強する作用があるといわれています。また、オキシトシンはストレスホルモン(コルチコステロイド)を抑制する作用もあります。

つまり、ずっと幸せに生きるための脳内麻薬の効きを良くしてくれてストレスを感じにくくしてくれる、安心と幸せのホルモンなのです。

引用元:【メンタル】知ってるつもりでよく知らない「ホルモン」のトリセツ③(セロトニン・オキシトシン・エストロゲン)

 

この愛を失ってしまって、人は代替的に様々なことを試してみたけれども、全然うまくいきませんでした、というのが、今の現状なんだと思う。

それを理性を基にひねり出したテックやらでなんとか誤魔化そうとまだ否認を続けているのが、現代の人間たちだ。

アルコール依存症の当事者が「オレはまだアル中じゃねー!減酒でイケる!」とか言ってなんとかしようとしているのと同じだ。そういう人は否認していることを認めるまで、何回でもズタボロになって入院しにくる。否認の病、とはよく言ったものだ。

そんなふうに「まだ理性でなんとかイケる!他の人間はバカだから無理だけど俺なら優秀だから理性で世界を変えられる!アホどもと一緒にすんじゃねー!!」とか言って世界をこねくり回して何とかしようとしている人たち。

「愛なしにはすべて無理だったんだ」と悟るまで、あと何回人を殺して、あと何回失敗するのだろう。

アルコール依存症では「底つき」と言って、仕事も家族も生きる希望を何もかもすべて失ってはじめて「自分ではどうにもならなかったこと」を認める。

無力を認める、ということは、本当に難しい。

勇気と謙虚さを持つものにしかできないことだからだ。簡単ではない。

自分の無力を認めて、世界のあるがままに委ねる。

そういう真の賢さを持つ人が、理性の信者に代わって、この世に残るだろう。

それはごく少数かもしれない。それまでにとてもたくさんの命とかけがえのないものが失われるかもしれない。

もはやすでに残された時間は、ほんのわずかになってから立ち返るのかもしれない。

でも、それも人類という種族の宿命だったのだろうと思う。

「恐竜がでかくなりすぎて氷河期に絶滅したように、次は愚かな人間という生き物が一世を風靡したんだけど、前頭前野をアホみたいに信じまくって突っ走った結果、もっと生きられただろうに早期に自滅したんよ( ̄∇ ̄;)ハッハッハウケる」というような歴史を、のちに現れた知的生命体がシェアしている。

そんな未来も近いのかもしれない。