【AC】私は執着と欠点を手放します!(12ステップ・プログラム:Step6~7)

 

Step6~7では、自分が執着していることやStep4で明らかになった私の欠点と呼べるものをまとめていきます。そして、それを書きだし、手放していく決意をする、というものです。

みなさんにみていただいて、私は「これらの欠点や執着を手放します!宣言」をしたいと思います。

 

■私が執着していたこと・あるいは欠点

・親に評価されようとする
・会社に評価されようとする
・期待された役割に応えようとする
・社会的ステータスに固執する
・他人を評価しようとする
・結果を残そうというこだわりをもつ
・他人を過度に恐れる
・他人に頼ることを恐れる
・断罪しようとする
・他人を満足させようとする
・完璧であろうとする
・他人に完璧を求める
・愛されようとする
・自分が不十分だと思いこもうとする
・失敗を恐れる
・失敗を許せないし許さない
・異質であることを恐れる
・他人の必要を自分の必要より優先する
・他人の事情を酌み他人のケアを優先し自分の感情やケアを後回しにする
・復讐という嗜癖にこだわる
・正直に伝えることを恐れる
・正しくあろうとする
・正しくないことを否定する
・自分の気持ちを正しさでジャッジし感情を無視する
・コントロールされることを恐れる
・嫌われないように本心を隠す
・評価を落とさないように振舞う(道化)
・同じ失敗を繰り返すことを恐れる
・取引関係(貸し借り)で相手をコントロール下に置き安心しようとする
・他人を信用しないで疑う
・自分で物事を決めることと納得すること
・模範的であろうとする
・直接気持ちを確認することを恐れる
・直接気持ちを表明することを恐れる
・やりたくないことをしている状態の責任を他人に押し付ける
・本当の自分は嫌われるという思い込み
・怒りを表出することを我慢する
・哀しいことやつらいことを繰り返し考える
・他人からの要求を拒否してはいけないと思い込む
・寂しいと思う自分を惨めに思い、目を背ける
・自分が死滅しいなくなることを願う
・他人が死滅しいなくなることを願う
・都合の悪い自分を見ないようにする
・必要とされようとする
・他人に奉仕してその褒美として承認するようにコントロールしようとしていた
・権力に従うことを恐れ忌み嫌う
・味方を失い孤立することを恐れる
・見捨てられることを恐れる
・親の行いを全肯定しようとする
・他人が自分を好きになるはずがないと信じる

 

まとめ:私の誓い

私が他人にイラついたり、過剰に反応するのは、これらの「自分の欠点」を相手に覗き見るときです。

つまり、他人は自分を映す鏡、というのは言い得て妙で、自分の見たくない姿や恐れを相手を鏡にしてみていたんだな、と思います。

私が哀しかったり、怒ったり、苦しかったりするのは、自分が自分に刃を突き立てていて、相手に反応しているだけなんだな、と気づきました。

もちろん、人権の侵害や不平等な扱いには、ちゃんと抗議して自分の権利や尊厳を守る闘いをしなくてはなりませんが、私はこれからは、少し立ち止まって、自分が激しい感情にのまれているときに、これらの執着や欠点に引き摺られて、あるがままを歪めていないかどうか、点検する勇気を持ちたいと思います。

その繰り返しのなかで、ひとつずつ確実にこれらの執着や欠点を手放していくことを望みます。

おそらく一朝一夕にはいかず、一歩進んで二歩下がるような遅々とした歩みだとしても、それが必要な時間なんだと受け容れます。

完全に私のコントロール下にはないことに恐怖を感じますが、あらゆる努力をしてこれらの執着と欠点を手放す準備をする努力を惜しまないことを、ここに誓います。

わたしたちは自分の人間らしさをーーーその弱さを言い訳に使わないでーーー理解し受け容れて、自分にできるベストを尽くすだけです。

私たちの心構えは良いものでしょう。

しかしそのことは、時折ちょっとした誤りが起こらないという保証にはなりません。

わたしたちのしなくてはいけないことは、自分の弱さを認め、短所を取り除くことについて神(自分の意志ではコントロールできない、この世の力)の助言を謙虚に求めることだけです。

 

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
100Pより引用

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お求めの際には、ここの名前は出さないようお願いいたします。

 

平安の祈り

神様、私にお与えください。

自分に変えられないものを受け容れる落ち着きを

変えられるものは変えていく勇気を そして

その違いを見分ける賢さを

今日一日に生き

それぞれの瞬間を楽しみ

困難を平和への道として受け入れ

この欠点の多い世の中を、

あなたがなさったように、

自分の思うようにではなくて

そのままに受け取り

自分を明け渡してあなたの意志に従えば

あなたが全てを正してくださると信じ

この世では適度に幸福であり

次の世ではあなたと共に

至上の幸福を味わうであろう

と信じることを。

 

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
105Pより引用

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【AC】12ステップ・プログラムのStep5における「2つの注意事項」

12ステップ・プログラムのStep4を終えた人が、Step5を実践するうえで必要な注意事項について、個人的にまとめてみました。

 

 

今まで、私は「12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録」というタイトルで、ブログに赤裸々にStep4の内容を開示してきました。

共感していただけたり、気づきがあります、とコメントをくださったりして、私のフォローワーさんは優しい人が多く、幸いにもあまりグッサリ傷つくようなことはありませんでしたが、これは極めて危険な打ち明け方だった、と言えるでしょう。

まさに、交戦中真っ只中の戦場に、丸腰で白旗を振りながら、籠城していた城からひょっこり出てくるような行為でした。こわ。

Step5はお察しの通り、「Step4を他の人に実際に話すあるいは書きだしたことを見てもらう」ということなのですが、そのときには注意しなくてはならないことがあります。

 

注意点その①:「Step5を聴いてくれる人を注意深く選びなさい」

Step5を聴いてくれる人を注意深く選びなさい ―― 12ステップ・プログラムを良く知っている人を。その人は次のような人であるかもしれません。

 

■信頼できる宗教の資格を持っている宗教家。いろいろな宗派の聖職者は、しばしばこのような要求に応えてくれます。(教会の牧師など)

■信頼できる友人(同性の人が望ましい)、医師または心理療法家。

■あなたが心を開いて分かち合える家族。配偶者や他の家族を傷つける恐れのある情報は明らかにしないように気をつけなさい。

■12ステップ・プログラムのメンバー。あなたがすでにグループに参加しているなら、信頼はすでにあるでしょうし、Step5をグループの一人のメンバーとともに行うことで、その信頼が深まることを発見するでしょう。ある場合には、グループ全体が聞き手となってもいいものです。

 

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
85Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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つまり、あなたが信頼している、あるいは12ステップ・プログラムについて理解のある「言いっぱなし聞きっぱなしができる人」ということです。

なぜなら、そうでない場合、あなたが勇気を出して話したことに対して、カウンセリングやアドバイスをしたがる人は、あなたの心の安全を脅かす可能性が高いからです。

なので、Twitterやブログに簡単にアップするなど、もはや死亡フラグです。

クソバイス(クソみたいなアドバイス)やクソリプに赤裸々に打ち明けた正直な心を踏み荒らされ踏みにじられ、二度と他人に心を開いたりするもんか、とATフィールドMAXになる可能性が高いので、絶対にやめましょう。

 

そのような背景から、聴き手にも、次のような注意事項があります。

■聴き手として寛容であり、受け入れるようにすること。あなたは、あなたのハイヤー・パワー(回復する力)の代理人として、無条件に受け入れるということはどういうことかを伝えているのです。

■聴き手としてあなたがそこにいるのは、話し手が考えたことを明瞭に表現する手助けするためなのです。情報が二人ともに明瞭に理解できるように、必要な時には質問しなさい。

■秘密保持を遵守すること。あなたが分かち合ったことは個人的なことです。信頼を裏切ることほど正直さを貶め、人間関係に害を与えるものはありません。

■Step5がやり通されたときに、その経験について、両者とも自分の感情を分かち合うこともできます。ハイヤー・パワー(回復する力)がわたしたち一人ひとりに向けられている愛を相互に向けあうことが今や可能です。

 

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
86Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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お互いにやり通した間柄であれば、「やり通したという経験」について感情を分かち合うことができます。

しかし、内容について明瞭に理解するために質問をするのはOKですが、聴き手の主観をもとにして打ち明けられた内容について議論したりアドバイスをしたりしてはいけない、ということですね。

○無我の状態で、ただただ打ち明けられるStep4の内容を聴き、内容を理解することに集中する。

○そしてどんな話であっても、一度それを受け容れ、ハイヤー・パワー(回復する力)の代役を務める。

聴き手としては、このことを常に忘れないでいたいものです。

 

注意点②:「謙虚に正直に、勇気をもって、ありのままを話し分かち合うことだけに集中しなさい」

■考えたことの一つ一つを、最後までやり通すのに充分な時間を割きなさい。その題材に集中してそこにしばらく留まりなさい。余計な説明はしないように。

■Step5は、わたしたちが自分の欠点の正確な本質を認めることだけを要求しているのです。このことを心に留めておきなさい。その欠点がどこから来たのかとか、どう変えていったらいいのか、といったことを議論する必要はありません。あなたはカウンセリングや助言を求めているのではないのです。

■他の一人の人にしたいして自分自身を明らかにすることは、控えめに言っても、相当程度の謙虚さを必要とするものです。私たちは今まさに、自分の、自分を滅ぼすような、害のある、人を傷つけるような性格特質を、あからさまにしようとしているのです。私たちは自分の、肯定的な、役に立つような特質も明らかにするでしょう。わたしたちはこのことを、わたしたちが世界に対して着けている『舞台用の仮面』を取り除くためにやらなければならないのです。このことは、表面を取り繕って後ろに隠れようとする、私たちの必要・欲求を取り除くための大胆な一歩です。

■「恨みと恐れについての課題演習」について分かち合うことから始めて、あなたが書きだした性格特質を分析することによって進んでいきなさい。

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
86、89Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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今回Step4を書きだすにあたり、最も重要だと思ったことは、謙虚であるということと、正直であるということです。

よく考えてみれば、Step4で振り返ってきた性格特質は、私たちが今まで全力で『見て見ぬふり』をしてきたことばかりです。

それを認め、見える形にしてまとめる、ということだけでも相当なエネルギーを要します。

言い訳をしたくなります。背景を説明しようとしたりして余計なことを言いたくなります。「私は悪くない」と自己弁護したくなります。必要以上に自分を卑下して書きそうになります。

そういう気持ちを脇に置いて、ただひたすら正直に・謙虚に、私の性格特質はどうであるのか、それによりどんなことがあったのか、それにより誰を傷つけたのか、当時どう思っていたのか、なぜそう思ったのか、どうしてほしかったのか、それはなぜなのか、など、書きだしていくのです。

今まで見たくなかったものが噴出してくるにつれ、書きだすのがつらくなることもあるでしょう。私は、こんな醜いものが私の正体なのか、と絶望感を感じたことすらあります。

しかし、書きだしてそれらをじっくりと眺め、間違いや認知の歪みを認められたとき、心に薫風が吹き抜けたように、爽やかな気持ちになります。

長いこと背負ってきた重荷をようやく卸せたような、そんな気がするでしょう。

だから、勇気をもって、実際にやってみてほしいなと思います。

 

まとめ:自分の問題を打ち明けることにチャレンジする人に敬意を払おう

「絶対に他人に知られたくなかった胸の内を他の人に打ち明ける」ということは、想像を絶する勇気が要ります。

そうして打ち明けた話を、否定されたり、もっとこうすればいいとアドバイスされたり、こういう点が問題だったと講評されたりして、そのままを受け容れてもらえなかったとしたら、どれほど傷つくでしょうか。

 

想像してみてください。

 

例えば、素顔を晒したことのない人に、勇気を出して初めてすっぴんで会ってみたとき。

「あー、すっぴんはかわいくないんだね」

「もっといい化粧水使ったほうがいいんじゃない?」

「目と鼻が残念かな、くちびるは合格だけど」

などと、無残なことを言われたときの気持ちを。

 

もう一生化粧はとらない、むしろ外出したくない、他人に会いたくない、と思いますよね。

このように、ただ言いっぱなし聞きっぱなしで棚卸しを聴くことができない、ということは、勇気を出してStep4を打ち明けた人のアイデンティティそのものを侮辱するようなものなのです。

せっかく、「わたしたちが世界に対して着けている『舞台用の仮面』を取り除くため」に勇気を出し、「表面を取り繕って後ろに隠れようとする、私たちの必要・欲求を取り除くための大胆な一歩」を踏み出そうとしている人の足をひっかけ、二度と仮面を取り除けなくさせる行為です。

Step5はそれほどセンシティブなセッションだ、ということを、話し手も聴き手も理解しておかないといけません。

【ヘルスケア】「少し飲み過ぎる日もあるけど、私はひとよりお酒が好きなだけ」というあなたへ

酒豪の皆様、こんにちは。お酒って飲んでるときは楽しい気分になりますよね。

「飲まなきゃやってらんねーよ」めっちゃ気持ちよく分かります。

酒飲みとアルコール依存症の違いについて考えるチェックリストです。

ちょっと興味ありませんか?

 

いきなりですが、質問です。

基礎チェック:過去に次の経験がありましたか?

1、飲酒量を減らさなければならないと感じたこと     □ある □ない

2、他人があなたの飲酒を非難するので、気に障ったこと  □ある □ない

3、自分の飲酒について、悪いとか申し訳ないと感じたこと □ある □ない

4、神経を落ち着かせたり二日酔いを治すために「迎え酒」をしたこと

□ある □ない

出典:CAGE(ケージ)質問票(Ewing JA:北村俊則訳)

※2つ以上当てはまる方は、特に次の精密チェックをやってみてください。

精密チェック:過去一年間に次のことがありましたか?

1、飲酒したいという強い欲望や強迫感(抑えられない感じ)がある。

例:医師からの断酒・節酒の指示が守れない。

飲酒運転を繰り返す。隠れてでも飲みたくなる。

仕事が終われば待ちきれないように飲む。

□ある □ない

 

2、飲酒の開始、終了、量のいずれかのコントロールが困難である。

例:朝から飲んでしまう。

翌日に支障が出るほど遅くまで飲む。

悪酔いや臓器障害を起こすまで飲む。       □ある □ない

 

3、飲酒を止めたり、減らすと離脱症状が生じる。

例:手指の震え、発汗、不眠、吐き気、イライラ等の離脱症状があり、

その不快さを避けようとして飲酒する。

□ある □ない

 

4、耐性が生じる。(酒量が以前より多くないと酔えなくなった)

例:飲み始めたころの1.5倍以上飲まないと最初の頃と同程度の酔いが得られない。

□ある □ない

 

5、飲酒のために、他の楽しみや趣味が減ってきた。

例:飲んで酔っている時間が長く、飲酒中心の生活になっている。

□ある □ない

 

6、明らかに飲酒が原因で有害な結果が起きているのを知りつつ飲む。

例:飲酒による肝障害等の身体の病気

一定期間の多量飲酒によって生じた落ち込んだ気分状態

周囲の人(家族・友人など)との関係が悪化した等

□ある □ない

出典:WHOによる「ICD-10」の診断基準より

 

 

いかがだったでしょうか?

 

 

精密チェックで3つ以上当てはまった方は、要注意です。

基礎・精密ともに1つぐらいしかなかった、という人も、飲み方の変更が必要かもしれません。

そんな皆さんは、今後お酒と上手に付き合っていくためにも、少し最後まで読んでみることをお勧めします。

 

「酒は百薬の長」と思っていませんか?

お酒は少量なら、「動脈硬化を抑制する作用」「2型糖尿病の血糖値の低下」「骨密度の増加」などの可能性があります。

しかし、これらは他に有効な予防・治療法があり、これらの薬理効果があることを理由に飲酒を推奨することは医学的にはできません。

WHOによれば、上記の図のように発がん性など多くの害をもたらします。

実は、あまり知られていませんが、アルコールに関連して生じる病気や病変は非常に多いのです。

このことを考えると、「百薬の長」とは決して言えませんよね。

「酒は百薬の長」とは、2000年も前の中国の為政者が税収確保のために考案したと言われている言葉で、医学的根拠に基づいたものではありません。

 

アルコールは「脳の変化」を生じます。

多くの人は、日ごろの嫌な気分(抑うつなど)や欲求不満や不安や緊張を取り払うために、付き合いのために、喜びをもっと大きくするために、あるいは単なる習慣として、お酒を飲んでいます。

しかし、アルコールは薬物なので、次のようなことが生じます。

 

1、急性の脳の変化 ―酩酊と離脱―

①「酩酊」は、脳の働きが弱まった状態

少量なら、これらの脳の働きへの影響は小さく、内気な人が感情を伝えたり、緊張や不安を取り、ストレス緩和や人間関係作りに役立ちます。

しかし、多量になると、感情のコントロールがひどく弱まり「怒り上戸」となって人間関係を傷つけたり、「泣き上戸」となって落ち込みから自暴自棄・自殺の恐れが生じます。

また、緊張・不安がなくなって無防備となり、危険な目にあったりします。

 

②睡眠のリズムに悪影響

寝酒は、寝つきはよくなっても、途中で目覚めること(中途覚醒)が多くなり、深い眠りは得られません。

うつ病の人が寝酒すると、睡眠障害をさらに悪化させます。

睡眠薬よりも、アルコールは依存しやすい薬物です。

 

③酩酊から醒めたとき

飲んだ翌日の二日酔い状態は、心も体も調子が悪く、うつ気分になりやすい状態です。

アルコール依存症では、酒が切れてくると、離脱症状の不快さが生じるのでそれを回避するために飲むようになります。

離脱症状:手指の震え、発汗、不眠、吐き気、嘔吐、食欲不振、イライラ、怒りっぽい、頻脈、動悸など

 

2、慢性の脳の変化 ―長期・多量の飲酒はアルコール依存症と脳委縮を生じる―

①アルコール依存症の出現 ―ちょっとした刺激で飲みたくなる―

飲み続けていると、飲酒を思い出させる情景(赤ちょうちん・ビアガーデン・夏の海など)や気分(仕事終わりの解放感・嫌なことがあった日・良いことがあった日・旧友に再会した喜びなど)にすぐ反応して、酔いの快感を生じる脳の中枢(報酬系)が過剰に興奮し、普通以上に飲酒欲求が亢進するようになります。

アルコール依存症についての画像研究はこのような事実を明らかにしています。

お酒を飲み続けているのは、「意志が弱い」せいではないのです。

 

②脳委縮の出現 ―アルコールは神経細胞数の増加も神経細胞の発達も抑える―

日本酒2合以上の飲酒は、脳委縮を10年早めます。

万能細胞から発達した神経幹細胞を使った実験において、アルコール量を加えた培養液では、ほろ酔い程度の量であっても、神経細胞の数が減り、成長も悪く、神経細胞同士が神経突起で繋がり合うことも減ることが分かっています。

 

③体や家庭が壊れるまで飲んでしまう

上記の脳の変化により、リスクのある飲み方の修正が困難となります。

 

飲酒には「危険」が伴います。

①家族関係、家族の心を壊す

…飲酒欲求の亢進の結果、酒中心の生活になり、家族と溝が生じます。

②子供にストレスを与え、トラウマを生じる

…トラウマは、成長後も子供の生き方に影響を与え続けます。

③仕事上の能率の低下・事故・職場を失う恐れがある

…アルコールによる体調不良は、突然の欠勤・病欠・能率低下・ミス・事故につながります。職場の健康診断で、アルコール関連の異常が指摘されます(血液検査の数値異常など)。

④飲酒運転・事故を起こしやすい

…急性・慢性のアルコールの影響による脳の判断能力の低下が違反・事故を引き起こします。

⑤外傷(ケガ)を繰り返す

…酔って、転倒・転落などでケガをしたり、命を落とします。

⑥自暴自棄・自殺願望を強める

…長期多量の飲酒は、気分障害(うつ病)を発症・悪化させます。それゆえ、うつ気分を癒すのに、酒を利用するのは危険です。

⑦妊娠中の飲酒は胎児障害の恐れが生じる

…妊娠中やその可能性のある時は、完全飲酒が推奨されています。

 

「危険」を知らせる心身の兆候

ここまで読んで、ちょっとでも心当たりがあるひと。当人ではないけど、大切なひと(パートナーや妻や夫や子供など)の飲酒に心当たりがあるな、というひとがいるかもしれません。

 

☆心身の兆候7つのチェックリスト☆

□血液検査(γGTP・MCV・ALT・AST・尿酸値・中性脂肪・血糖値の上昇)の異常がある

□顔の傷跡、酩酊時の外傷(ケガ)の経験がある

□軟便、下痢をする

□飲むと抑うつ気分がひどくなる

□飲酒運転をする(二日酔いでの運転は飲酒運転です…)

□離脱症状がある

□救急・時間外の受診経験がある

 

気になる人は、この漫画を読んでみましょう。

ここにあなたが知りたかった、すべてのことが書いてあります。しかもおもしろい!

「自分は違うかなー」って思ったひとも、これから安心して飲み続けるために、一度読んでおいて損はないですよ☆

 

 

【依存症】再飲酒(スリップ)を活かすために

アルコール依存症の治療には、再飲酒はつきものであると言ってよい。

飲酒すると確実に病気は悪化するし、失うものも多い。

しかし、この病衣期は何回か失敗しないと、本当に酒をやめる気にはならないものである。

大切なことは、飲酒を今後のために活かせるかどうかである。

飲酒した場合には、自分のどこに問題があったかを考えて、それを改めるようにしていくとよい。

次にチェック項目を挙げてみよう。

 

①アルコールに対してコントロールが効かないことを認めているだろうか?

量を過ごさないように飲めばよいと思っていれば、その考えを改めない限り、何回でも酒による失敗を繰り返すであろう。

アルコール依存症とはどんな病気であるかよく学び、他ならぬ自分がその病気にかかっているということを認めることが大切である。

 

②自分ひとりの力でやめ続けられると考えていないだろうか?

AAや断酒会に出席しない限り断酒継続は難しい。

自力に頼っている間は、しばらくはお酒をやめることはできても、長期の断酒はできないと思ったほうがよい。

この分野では、なぜAAや断酒会が発達してきたのかを考えてみよう。

 

③友人の整理はついているだろうか?

飲み友達が訪ねてきたり、あの人は酒が好きだからといって、親せきや職場の同僚が酒を勧めに来るようでは断酒はできない。

絶対に酒は飲まないということを、周囲にもわかってもらうべきである。

そのためには飲み友達とは付き合わないようにし、自分は一滴の酒も飲まないということを周りの人にはっきり告げる事である。

 

④家族は治療に参加しているだろうか?

アルコール依存症は家族全体がやられていく病気である。

家族自身にも多くの問題点があり、それを直していかないと、アルコール依存症者の断酒も難しくなるし、たとえ断酒したとしても家庭の平和を取り戻すことはできないのである。

家族自身が病院の家族教室や、自助集団の家族会に出席することが大事である。

 

⑤感情の動揺を飲酒で解決しようとしていないだろうか?

腹が立ったらすぐに酒に走るとか、イライラするので一杯飲んでスッキリさせようという類のことである。

不快な感情をアルコールや酒に頼ることなくやり過ごすにはどうしたらよいか考えてみよう。

 

⑥もう治ったと思っていないだろうか?

これは1年以上断酒した人に多く見られる。

長いこと飲んでいないから、コントロールの効かない体質もよくなったのではないか、と思って少量のつもりで飲み始める。

しかし、たちまちのうちに以前と同じ問題飲酒の状態になるのである。

20年以上経って飲酒してあっという間に元に戻ったという人もいるのである。

 

⑦すべてがわかっていても失敗することがある

頭ではわかっていても断酒を実行するのは大変なことである。

回復の途中で、ふとした気のゆるみなどで、何回かは飲酒してしまうこともあるだろう。

この場合は、失敗をいつまでも悔やまず、再度挑戦すればよい。

 

 

まとめ:失敗しないほうがいいけれど、失敗したって道はある

一度飲酒してしまうと、無事に酔いが醒めるかどうかは全くわからない、アルコール依存症はそういう難しい病気である。

だから、もっともよいことは、一回で気が付いて失敗することなく回復の道を歩み続けることである。

また、飲んでしまったけれども、幸いにアルコールが切れた場合には、そのことを最大限に活かすように努めるべきであろう。

大丈夫。

私は何度も再飲酒している。そのつらさや苦しさは、少しはわかるつもりである。

そして失敗しても道はある、ということを、私はこれからの人生をかけて示していきたい。

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【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑫(見捨てられ不安)

今回は、見捨てられ不安 について棚卸していきます。

 

見捨てられ不安 とはどんなもの?

■見捨てられ不安■

見捨てられ不安は、わたしたちが幼時期に経験した、情緒的あるいは身体的な(両方の場合もある)両親の不在に対する無意識の反応です。

子どもの頃わたしたちは、応答してくれない・責任を取らない、情緒的にそばにいてくれない大人たちの、予測できない行動を観察してきました。アディクションがどんどん激しくなるにつれて、彼らは親らしいことをすることが、ますますできなくなりました。

子どもの頃わたしたちは、彼らの与えることのできる以上の配慮を求めました。彼らの興味の対象は他にあったのです。

成人としてわたしたちは、同じように情緒的にそばにいてくれないパートナーを選ぶ傾向があります。見捨てられることの現実と痛みを経験しないですむように、わたしたちはパートナーの必要・欲求に全て応えることによって、自分の「愛」の必要・欲求を満たそうとします。

「楽しませる」こと、そのことによって見捨てられる可能性を減らすことが、人間関係での問題や葛藤に先行してしまって、ほとんど交流のない緊張した環境を生み出します。

見捨てられることを恐れていると、わたしたちは次のようであるかもしれません:

●安全でなく感じる
●他人を楽しませる人になる
●一人になることを避ける
●過度に心配する
●自分のために立ち上がろうとすると罪の意識を感じる
●共依存する

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
65Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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最も認めるのが困難だったセッション

私がこの「見捨てられ不安」を最後に残していた、ということには意味があります。

残していたことそのものに意味があるというか。

私は、「見捨てられ不安」が自分にあるとは認めたくなかったのです。

私は常に「別にこっちを見てくれなくてもいいよ」「そんなこと気にしてないよ」という態度をとっていました。

それは、自分が不安であることを認めるのが怖かったからにほかなりません。

今こそ、12回目のこのSTEP4の最終段階において、認めるべき時が来ました。

 

私にとって両親の「愛情」は「支配」だったということ

なんで怖かったのかな?と考えを巡らせてみれば、やはり、認めるということは「見捨てないでください」という願いを白日の下にさらすことだったからではないかと思います。

その願いが聞き届けられなかった時の私のダメージは計り知れないからです。立っていられないかもしれない。そう思っていました。まさに生き死にに関わる認識の一つでした。

あるいは過去に聞き届けてもらえなかったのでしょう。

子どもの頃わたしたちは、応答してくれない・責任を取らない、情緒的にそばにいてくれない大人たちの、予測できない行動を観察してきました。

アディクションがどんどん激しくなるにつれて、彼らは親らしいことをすることが、ますますできなくなりました。

子どもの頃わたしたちは、彼らの与えることのできる以上の配慮を求めました。彼らの興味の対象は他にあったのです。

まさにこの部分ですね。

彼らの興味は別にありました。

あるときの父は他の女性だったし、あるときの母は自分の父親でした。

父の最大の関心事は仕事だったし、母の最大の関心事は、実は自分自身の心の平穏でした。

皆、そのままの私を見ていてはくれていなかった。私以外の物に興味があり、私の「私を見てほしい」「見捨てないでほしい」という願いは見事に無視されました。

彼らは「いいや、私たちは一生懸命愛情をもって育てた、無視などしていない。何度も問いかけたではないか。それにたくさんの本やモノを買い与え、習い事など機会を与えた。つまり私たちの愛は時間的金銭的投資で証明されている。」というような主張をするでしょう。

しかし、ここでいう無視とは、そういうことではないのです。

私は、ただ、私のそのままの気持ちや言葉を、「そう思うんだね、なるほどね」と聞いてほしかっただけでした。

私は、ただ、好きなものを否定しないで「失敗してもいいから」と自発的に挑戦して結果を得るプロセス、これを経験するチャンスをこそ、与えてほしかった。

それらを根こそぎ奪ってコントロール下に置いておいて、自己満足でやることは、オナニーです。「愛情」ではなく「支配」です。

だから、私は

「あなたたちは私を愛していたかもしれないが、愛する方法を間違えたし、事実私は、とてもさびしかった。『望まれる私でなければ』あなたたちに見捨てられるのではないかと不安になるくらいには。」

と堂々とここに、両親に対して異を唱えたい。

 

私がアルコール依存症になったすべての元凶

私が人生のなかで最も違和感を覚え、悩み苦しみ、結果アルコール依存症を発症するにいたった私の特性。

それは、「自分より相手を満たそうとしてしまう」という特性です。

 

見捨てられることの現実と痛みを経験しないですむように、わたしたちはパートナーの必要・欲求に全て応えることによって、自分の「愛」の必要・欲求を満たそうとします。

「楽しませる」こと、そのことによって見捨てられる可能性を減らすことが、人間関係での問題や葛藤に先行してしまって、ほとんど交流のない緊張した環境を生み出します。

 

まさにここに書いてある通りです。

 

私は、見捨てられないように、この特性を身に着けたのだと、今まさに分かりました。

私は、できるだけ出会う人に嫌われないように嫌われないようにと、びくびくしながら暮らしてきました。

頼みごとが断れないのも、そうです。場が嫌な空気になると自分が犠牲になろうとするのも、そうです。好きでもない人のご機嫌取りをしてしまうのも、そうです。

全部、『見捨てられることの現実と痛みを経験しないですむように』私は能動的にその行動を選択していた、ということを認識します。

楽しませなくては、いい気分にさせなくては、好かれなくては、正しくなくては、優しくなくては、魅力的でなくては、、、

『私は見捨てられてしまうのではないか?』

と不安だから、取り繕い、道化を演じ、自分自身そのままでは、他人に相対することができませんでした。

その結果、『ほとんど交流のない緊張した環境を生み出し』、アルコールで脳を麻痺させなくては人と交流できないほどの耐えがたい緊張を自らに与えていたのです。

これが全ての元凶です!!! 

私は、これが知りたかった。ずっとずっと知りたかった。

なぜこんなに生きづらいのか、なぜ私は人に媚を売るような真似ばかりするのか、気になって気になって、自分が惨めで嫌いでたまりませんでした。

 

 

見捨てられ不安からの回復 とはどんなもの?

□見捨てられ不安からの回復□

わたしたちが、常にそこに存在しているハイヤー・パワーの導きと愛に、より多くを頼り任せることができるようになるにつれて、自分の環境の処理能力に対する自信が増加します。

わたしたちの見捨てられ不安は減少していき、ゆっくりと、自分は生まれながらに価値ある、愛すべき、貴重な人間であるという感情に置き換わっていきます。

わたしたちは、自分自身を愛し、大事にしている人たちと健康な人間関係を求めます。感情を表したり、人間関係での問題について話したりするとき、もっと安全に感じるようになります。

わたしたちは古い恐れをハイヤー・パワーと、わたしたちに関心を持ってくれる人たちへの信頼に置き換えます。

わたしたちは、自分を取り巻く社会の中での育み愛する友情関係を理解し、受け入れるようになります。

ハイヤー・パワーがわたしたちの生活のなかに在れば独りぼっちになってしまうことはもう絶対にないのだ、ということを理解し始めるにしたがって、わたしたちの自信は成長していきます。

見捨てられ不安が小さくなるにつれて、わたしたちは次のようになり始めます:

○自分の感情に正直になる
○一人でいて快適に感じる
○自信を表現する
○人間関係において自分の必要を大事にする
○人間関係での問題について話し合う

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
66Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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私は見捨てられることに怯えなくてもいい

ゆっくりとではありますが、私は自分の気持ちに対する正直さを取り戻しつつあります。

私はアルコール依存症になりました。

酒をやめること一つ、私は自分の力ではできなかった。その無力を知りました。

そして、回復しようとする力(ハイヤー・パワー)が己のなかにも、そして仲間のなかにもあることを知りました。

どんな生い立ちであっても、どんな環境であっても、人はより良くなろうとする重力を、生まれながらに持っているのです。なんてすばらしいことでしょう。そして、それは社会的な形で報われるかどうかはわかりませんが、確実にそのひとを、人間として成長させてくれる、ということは、どうやら確からしいのです。

ということは、私たちは、自分にはコントロールできないが確かに存在する大きなエネルギーに支えられていることになります。

そして、そんな天然の永久機関ともいえる我々一人ひとりは、このうえなく素晴らしく、生きているだけでものすごく価値がある生命体です。

それゆえに、どんなひとも「生まれながらに価値ある、愛すべき、貴重な人間である」といえるのでしょう。

そんな自分なら、幸せになる権利も価値もあると思いませんか?

私たちは、生きていてもよかったということです。

私たちは、自分の幸せを追求してもよかったのだということです。

人の顔色をうかがって嫌われないように背を低くして生きていかなくてもいい。

そんなことをしなくても、私たちは見捨てられない。ないがしろにもされない。

なぜなら、私たちは、誰が何と言おうと、人間である限り、価値ある存在だからです。

 

ということは。

たとえばそんな自分を「好きだ」と言ってくれる人がいます。

今までは「こんな私を好きなわけがない」「何の目的だろう」「本当の私を見ていないに違いない」と、愛情を受け取ることを拒否していたでしょう。

それは、受け取ってもし違ったら、見捨てられるのではないか、という不安が先に立つからです。

 

これからはどうでしょうか。

私たちは、生きているだけで、価値ある存在だと分かりました。

そんな自分を「好きだ」という人が現れたとして、それは素直に受け入れられることのように感じます。

好意をそのまま受け取り、「ありがとう」と言い、そんな関心を寄せてくれる人を信頼します。そして、その人のなかにもある、より良くなろうとする重力(ハイヤー・パワー)を信じて交流することで、私たちはやっと、喉から手が出るほどほしかった『真の信頼関係』を築くことに成功します。

もう好かれようと自分を犠牲にしたり、我慢したりしなくてもよいのです。

私たちが私たちのまま、健康な人間関係を築くためには、まず自分自身のより良くなろうとする重力(ハイヤー・パワー)を感じて、自分自身をこそ愛することが必要だったのです。

私はそのために、アルコール依存症になったのだと思います。

わたしたちは、自分自身を愛し、大事にしている人たちと健康な人間関係を求めます。感情を表したり、人間関係での問題について話したりするとき、もっと安全に感じるようになります。

わたしたちは古い恐れをハイヤー・パワーと、わたしたちに関心を持ってくれる人たちへの信頼に置き換えます。

わたしたちは、自分を取り巻く社会の中での育み愛する友情関係を理解し、受け入れるようになります。

ハイヤー・パワーがわたしたちの生活のなかに在れば独りぼっちになってしまうことはもう絶対にないのだ、ということを理解し始めるにしたがって、わたしたちの自信は成長していきます。

 

まさにここに示されている通り、私たちは『古い恐れ』を置き換えることができます。

この原理原則を理解してさえいれば、たとえ物理的には独りだったとしても、私たちはもう独りじゃない。

昔のように古い恐れを抱いて、誰とも心を交わさず、人を愛さず、己を愛さない、閉じた絶望と暮らす日々には、もう戻らないでいい。

 

まとめ:とはいえ、私はまた忘れることも知っている

今日、とてもよい気づきを得たとしても、私はまた、絶望のうちにいるときもあるでしょう。

世界中の誰も信じられない、己すら信じられない、と落ち込み、全てを投げたしたくなるときが、きっとあるでしょう。

それは、今までの人生で幾度もあった危機だからです。これからも繰り返されることは、おそらく確実です。

でも、ここでわたしたちは思い出さなくてはなりません。

何度もその危機を乗り越えてきたからこそ、いま私たちはこうして息をしているのだということを。

そう、私たちは不屈の重力を有しています。何人にも奪うことができない、回復しよう・より良くなろうとする重力。これは、命ある限り動き続ける力で在り、私たちを見えるところでも見えないところでも常に支えてくれています。

だから、いま私たちの仲間がどん底にあるとしても、信じています。

私たちは己の思い込みなんかには負けない。信じてくれる自分自身や信頼できる人がいる限り、何度失敗してもまた立ち上がることができる、と。

これを教えてくれたのは、他ならぬ最愛の人です。心から感謝を込めて。

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑬(抑圧された性)

今回は、抑圧された性 について棚卸していきます。

 

抑圧された性 とはどんなもの?

■抑圧された性(セクシュアリティー)■

気がついてみると、わたしたちの他の人たちーとりわけ親しい人たちや、情緒的に親密になりたいと思っている人たちーに対する性的な感情は、混乱していて不確かです。わたしたちは、自分の性的感情が、不自然で異常であると考えるようにトレーニングされてきました。

自分の感情を他の人たちと分かち合わないので、わたしたちは自分の性(セクシュアリティー)について、健康な態度を育てていく機会がありませんでした。わたしたちが小さい子どものとき、子ども同士で身体的な性的探検をして、厳しく罰せられたかもしれません。与えられたメッセージは「性は汚い、話すべからず、避けるべし」というものでした。またわたしたちは、コントロールを喪失していた親か近親者に、性的に辱めらていたかもしれません。

その結果、わたしたちは、自分の性的役割について居心地が良くありません。私たちは、誤解されたり、見捨てられたりするのではないかと恐れて、パートナーと性について自由に話しません。わたしたちは愛をセックスと取り違え、無差別に自分の体を与えたり、あるいはハグ(抱擁)が欲しいだけなのにセックスに同意したりするかもしれません。

親として、わたしたちは性について自分の子供に話すのを避け、そうすることによって、彼らが性的同一性を発展させるためには指導やモデルが必要なのだ、ということを否定しているのかもしれません。

抑圧された性によってわたしたちは次のようであるかもしれません:

●罪と恥を感じる
●道徳観を失う
●自分の性的同一性について混乱している
●好色である
●嫌な気分を避けるためにセックスを使う
●冷感症または不能症を経験する
●誘惑するような行動で人を操る

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
77Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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水責め

私の性的欲求は、実に倒錯しています。

特に「管理」ということに性的興奮を感じます。

 

たとえば、水責め。

私は、高校生のとき拘束されて溺れさせられるAVを見たことがあります。

複数人に足をつかまれて、何度もプールに沈められます。飲み込んだ水を吐くので精一杯で、呼吸できず、やがて失神します。

身体がチアノーゼで紫色になり、水をホースでかけると痙攣します。その姿を見て、AV男優たちが笑っています。

「もうやらないからね」と言いながらストーブのある部屋で少しだけ優しくされます。

そこで涙を流しながら「怖かった」と縋り付いているところに、再びAV男優が来て、「嫌だ嫌だ」と泣き叫ぶAV女優を再び水責めにします。そしてまた苦しみぬいて失神します。

もはや、拷問です。

 

私は、いじめられていました。

何人もの男子生徒に手足を羽交い絞めにされ、トイレの便器に顔を沈められたことがあります。

鼻に入ってくる汚水。呼吸ができなくて、「やめて」と叫んでもゴボゴボというだけで届かない。相手が飽きてくれるまで、決して終わらない地獄。

 

その時の苦しみを、私は快感に変換しないと耐えられなかったのではないか、と思います。

息をすることを「管理」される恐怖。生きることも死ぬことも相手に委ねなくてはならない絶望感。そういう不自由を強いられることに、性的興奮を感じます。

 

拷問

私は、ドMなのかといえばそうでもなく、ドSの側面もあります。

 

たとえが難しいのですが、漫画に似たような描写が2つあります。

 

ひとつは『幽☆遊☆白書』で、飛影が躯に送ったバースデープレゼントです。

 

 

 

もう、最高のバースデープレゼントですよね。

プレゼントしたものは、昔、躯を奴隷にしていた奴と、鞍馬から貰った寄生植物と融合させて作った花(笑)です。

切ってもすぐ再生して死なないが、痛みは感じるといったかなりエグいものです。脳を破壊しない限り、半永久的に、対象に生き地獄を味わわせることができます。

一家に一鉢ほしいところです。

 

 

もうひとつは、『天上天下』の颯又左が、兄を「飼っている」シーンです。

妾の子として颯家にきた又左は、兄にいじめられ、しょんべんをかけられて馬鹿にされたりします。父親は実子である兄のほうをかわいがり、又左は存在を認めてもらえませんでした。

ある日、幼い又左は憎しみに耐えかねて兄を襲撃しますが。父に阻まれます。

その後は、性格および性癖は異常かつ残忍に成長。自らに従わない高弟達を惨い方法で殺したり、従うことを拒否した「八楰」を拷問した上で火あぶりにして殺したりします。

そうして邪魔者をすべて殺して当主となった又左。

憎き兄を、地下室に指を爪ごと一本一本釘で拷問椅子に打ちつけて管理しています。手足の指を骨に沿って限界まで割いた状態で固定し、経管栄養で生かしておいている兄が、いまなお8年経っても、言葉にならないうめき声をあげて苦しんでいるシーンがあります。

それぐらい、しますよね。うんうん、わかるわかる!とすごくスカッとする爽やかなシーンだと思います。

殺すなんて生ぬるい。死にたい、死なせてくれ、と哀願するくらいに追い込んでからが勝負。死ねない地獄を味わわせるところからが本番、ということをこの作品はよくとらえていると思います。

 

 

興奮して話がそれました。

つまり私は、生死与奪を「管理」される、という苦しみを快感だと思っている節があります。

 

「管理」を性的欲求に変換した理由

なぜなのかな?と思い思考を巡らせます。

性的虐待を受けていたわけではありません。

両親が変態だったわけでもありません。

しかし、ここには心当たりがあります。

自分の感情を他の人たちと分かち合わないので、わたしたちは自分の性(セクシュアリティー)について、健康な態度を育てていく機会がありませんでした。

 

私が本当に感じる性的快感や、興奮する事柄についてひたすら隠してきました。

おそらくこういうものが一般的に興奮するんだろう、ということで、友人が貸し借りしあっていたAVを試しに借りてみても、興奮できませんでした。

愛のあるSEXを映像化したようなノーマルなものには私の性的センサーは反応しませんでした。

それを話すと、仲間外れにされると思いました。だから、分かる振りをしていました。

 

父と母が性交している場面に出くわしたとき、両親はひどく狼狽して、その場を誤魔化し、とても情けなくみえました。

私はとてもよくないことを目撃してしまったような気がしました。そのことについて特に翌日何もなく、私はあまり両親が性的なパートナーであるということは触れてはいけないことなのだと思うようになりました。

与えられたメッセージは「性は汚い、話すべからず、避けるべし」というものでした。

まさにこれ、ですね。

 

その結果、たしかにわたしは、自分の性的役割について居心地が良くありません。

「管理」というキーワードで、法に抵触するような性的欲求を持っていて、それは常に満たされることはありません。

オーガズムに達することはできますが、最もやりたいプレイをしているかといえば、そうではないという感覚があります。

呼吸や生死をコントロールされる、ということへの性的興奮は、おそらく、幼少期に「耐えられない」と感じた苦痛を快感に変換して、無理やり緊急対応したのではないか、と思います。

 

私は母親の過干渉で、何もかも決められ、私の意志は尊重されませんでした。あらゆる決定は自由にできませんでした。まさに「管理」です。

いじめにより、実際に呼吸ができない恐怖を味わいました。力に屈服させられる経験。これもまた悪意のある「管理」です。

そういった「管理」による苦しみは苦しみとしてとらえると耐えられないものだったのでしょう。私は、その苦しみを、快感に置き換えてしまい、性的倒錯を引き起こしたということなのではないか、と分析しています。

 

 

抑圧された性からの回復 とはどんなもの?

□抑圧された性からの回復□

自分を愛する気持ちと、自分を気遣う能力を増大させてくるにつれて、わたしたちは自分の体と自分の性的な欲望を正常で自然なものと認め始めます。

他の、自分自身を愛し、大事にしている健康な人たちを得ようとするときに、わたしたちは愛や好意をより適切に表現し、また求めるようになります。

何かや誰かに関わることを恐れる度合いが小さくなり、情緒的、精神的、性的に、健康な人間関係に入っていく準備が、以前より良くできています。

感情や欲望や弱さを分かち合うとき、もっと安全に感じるようになります。自分に対する信頼感が成長し、自分が傷つきやすくても許せるようになります。

わたしたちは、自分や他の人が「完全」でなければならないという必要・欲求を放棄し、そうすることによって自分自身を成長と変化に向けて解き放ちます。

わたしたちは自分の性(セクシュアリティー)について、子供たちに正直です。わたしたちは、彼らの健康な性的同一性に対する必要と同様に、情報に対する必要をも受け入れます。

自分の性(セクシュアリティー)を受け入れると、わたしたちは次のようになり始めます:

○自分の性的な必要について適切に対話する
○親密な感情を分かち合う
○自分自身の性的な必要を考慮する
○性的な自己を受け入れる

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78Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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私はこの性癖を、後ろ暗い、あまり話すべきではないものだと思ってきました。

しかし、自助グループで勇気を出して性癖について打ち明けてみて、わたしだけが倒錯した性的欲求をもっているわけではないんだ、ということがわかり、とても安心しました。

 

感情や欲望や弱さを分かち合うとき、もっと安全に感じるようになります。自分に対する信頼感が成長し、自分が傷つきやすくても許せるようになります。

わたしたちは、自分や他の人が「完全」でなければならないという必要・欲求を放棄し、そうすることによって自分自身を成長と変化に向けて解き放ちます。

 

まさに、この通りでした。

 

性について話してはいけないものではなかった、ということを理解すると、私は、自分が醜い特殊で異常な性癖をもった『劣悪な人間』だという自己否定をせずに済みます。

私が性的に興奮することについては、由来があるもので、私の人間としての質を下げるものではないということは、私を安心させます。

 

性においても、我々は『理想的で完璧でなくてもよい』のです。

だから、私は安心して、子供が何に興奮しどんな性的欲求を持っていたとしても、否定せずに傾聴することができそうです。

わたしたちは自分の性(セクシュアリティー)について、子供たちに正直です。わたしたちは、彼らの健康な性的同一性に対する必要と同様に、情報に対する必要をも受け入れます。

そして、彼らが興味を持ったとき、隠したり誤魔化したりすることなく、丁寧に情報提供する必要を受け容れ、保護者としてできるサポートをすることを認めることができます。

 

まとめ:性癖はいろいろあってもいい

この記事を書くにあたり「異常性癖」と調べてみると、実に様々な性癖が出てきます。

参考:異常性癖-アンサイクロペディア

 

なんだ、自分だけが変なんじゃなかったんだ、って思いません?

いろいろな性癖があっておもしろいし、当然なんだなと思います。

だってこれだけたくさんの人がいて、顔かたちや異性の好みだって様々なんですから、一緒なわけないですよね。

そういう安心感を、このセッションでは感じられた気がします。

 

性癖に限らず、「これって自分だけで変なことなんじゃないか」と思うことも、話してみると意外に受け入れられたりするもので、そういう風に打ち明けてもらえると、他の人が話しやすくなるのかもしれません。私は他の人の話を聞き、話しやすくなった人の一人です。

自分が性的なマイノリティーで、差別されるのではないか、と考えると怖いのは、ものすごくよく分かります。

だから、心の安全が担保される場所で、信頼できる仲間にだけ、まずは話してみることをお勧めします。

 

 

【AC】「え?」と聞き返されて、悲しくなりイライラする理由

私は、「え?」「なに?」と、話している最中や話終わった後に、話し相手から聞き返されるのが嫌いです。

話をしているとき、それが続き、話す気をなくす時もあります。

今日はそんな会話における私の負の感情を掘り下げます。

 

私が嫌なこと①:「え?」「なに?」と聞き返されること

話をよく聞き返されます。

私の声は騒音にかき消されやすく、高くもなければ低くもありません。たぶん、聞こえにくい。

こちら側の責任です。だから一生懸命しゃべります。

話の最中に聞き返されると、私の話を軽視しているのではないか?と疑念がよぎります。

つまり、私の話を重要だと思っていないから、最後まで聞かずにかぶせて話すのではないか、という疑念です。

これは話終わってから「え?なに?」と言われる場合も同様です。

一生懸命しゃべったのに意味が通らないのは、集中して聞いていないからではないか?という疑念に繋がります。

どちらにしても、私の話が重要ではない話と思われているように感じます。

だから悲しくなります。

 

私が嫌なこと②:嘘や隠し事

私はそんなに頭が良くないので、隠し事は不得手です。

世の中の人々は、よく嘘や隠し事を場面や人により使い分けていて、私は大変感心しています。私には難しいことだから。

私は仲間だと思うと、なんでも話してしまいます。

私の『そのまま』を見せられること。それが私にとっての仲間の定義だからでしょう。

だからかもしれません。私が真摯に聞いてきたその人の話が『そのまま』ではないと知ったとき、私はとても辛くなります。

隠し事をされていると知った時も、同じように胸が痛みます。

『お前は仲間ではない』と言われているような気持ちになります。

もちろん、嘘や隠し事がない人間など、社会的な生き物である我々には不可能なことは、今まで生きてきてよく分かっているつもりでした。

それでもなお、私は痛みを感じます。

 

私が嫌なこと③:誤魔化されること

②に似ています。②は、間接的に話してもらえない悲しみです。

これは、直接的に『真っ直ぐ返ってこない』ということに対する哀しみです。

たとえば謝ったとき、伝えようと言葉を尽くしたとき。

Do you 〜 ? という形で質問されたら、YES or NO が回答の頭に来ますよね?

それが他の形で返答されると、私が発した疑問やメッセージは、ちゃんと受け取ってもらえたのだろうか?と不安になりますよね。

それと似ていて、日常会話で喩えるならば

妻「晩ご飯なにがいい?」

夫「君はなにが食べたい?」

と質問で返してくる違和感と似ているでしょう。

なにがいいか?という問いかけに応えてから、質問をするべきです。問いかけは、実質無視されています。

これが妻側にとっては静かに着実にストレスになります。これを私は「誤魔化し」ていると認識します。

なぜか?

自分の答えや考えを表明するリスクを避け、無意識に相手に責任を負わせる卑怯な行いだからです。

自分の気持ちが見えないという課題を見ないために、誤魔化すためにあえて他人に振る。

向き合おうとしていません。自分にも、相手にも。

だから私はそのような人と会話していると、虚しくなります。

 

私が嫌だと感じた背景は?

ここまで読んで、聡明な皆様はお気づきかもしれません。

そう、これらは、私には『変えられないもの』です。

だから、悩んだり嫌がったりしても、どうしようもない事柄。

なぜそれをコントロールしたいと思ったのか?そこにフォーカスすると、私の認知の歪みが顕在化します。

母親です。

また母親かよ、と思うかもしれません。しかし、母親です。

 

母親は、聞き返されるのが嫌いでした。

聞き返すとひどく怒りました。

だから私は、母が話し始めたときには、できる限り聞くことだけに集中するようにしました。

それは私にとってストレスでした。

いつどこから始まるかわからない、相手のペースで唐突に始まる、私にとって重要かどうかもわからない話。

それを、今熱中してやっていることを中断して(これはASDには耐え難いくらい辛いのですが)聞かなくてはならない。

それだけの努力を不意に常に強いられることが、不満だったのでしょう。私は他人にも、その努力を求めるようになりました。

私がこれだけの熱意を持って話しているのだから、相手も熱意を持って話を聞くべき、という認知の歪みです。

 

まさにコレです。

無意識に押し付ける暴力の連鎖。

私は、私が母親に受けた傷を見て見ぬ振りをした。だから、相手にも求めてしまいました。

 

②と③について。

母親は、私に真っ直ぐ本当のことを話してくれていない、と私は感じてきました。

父との関係も、親戚や実家との関係も、後ろ暗いところは背中に隠して、何も問題ないようなフリをしていました。

私が尋ねても、誤魔化すばかりでした。

私は、そのときの悲しみの味を知っています。同胞と認め自分の真心を差し出した相手が、それを受け取らず、また真摯に返してくれないときの痛みの味を知っています。

不安でした。

私の声は届いていないのではないか?私が悪いのではないか?

なぜなら、母親は私を愛しているはずで、私の声をちゃんと聞いているはずで、それなのに届かないのは、私の言い方や声の大きさやタイミングが悪いに違いない。

そうでなくては、私は愛されていないということになってしまうからです。

私は愛されるために一生懸命声を枯らし、喉が裂けるほど声をかけて、取り合ってもらえなかったあの日の無力感と不安感と焦燥感。

もう二度と味わいたくない…だから私は、そういう対応をされたとき、必要以上に焦りイラつき、哀しくなります。

 

まとめ:母も他人も『変えられない』けれど

私の感情を、私自身が真っ直ぐ振り返るとき、ようやく報われた気持ちになります。

他ならぬ私自身が、あのとき辛くて、腹立たしくて、悲しくて、愛してほしかった。

このことを認められずにいるから、私は他人にも自分が受けたのと同じ暴力を押し付けてしまったのだということ。

私が受けた傷は、確かにあった。

私は他人に求めることを手放せる気がしています。

不安になり「愛されていないのではないか?」と思う必要はもうないということを、私は今の私に穏やかに諭すことができます。

 

世の中にどれほどいるでしょうか。

率直に自分の醜さをさらけ出す人が。

それを真っ直ぐ受け止め、真剣に投げ返してくれる人が。

私は期待しすぎていました。そして、それは私が頑張りすぎていたからなのです。

真っ直ぐ聞けないときだってあるし、嘘や隠し事が全くない人なんていない。誤魔化したいときだって、私にだってあるじゃないか。

それって実はすごく難しいことなんだよなっていうことを、すっかり忘れていました。

 

相手が、できるか、できないか。それは変えられない。なぜなら、相手の能力だから。相手の能力は、相手の人生の中でしか磨かれない。私たちはタッチできないことです。

だから、貴方のせいじゃありません。

聞き流されても、嘘をつかれても、隠し事をされても、誤魔化されても、貴方に非はありません。

貴方が至らないからではない。

貴方がしているからされて当然なわけでもない。

 

相手がまだ未熟だから、そうしてしまうだけで、貴方には何も悪いところはない。

だから、哀しくて当たり前だし、怒って当たり前です。

嫌いになったって仕方ないでしょうし、要するに、貴方が感じたことを、我慢する必要なんてない。貴方が感じた感情は、確かにある大切なものなんだから、隠さないで認めてあげてください。

それが、他人の「え?」「なに?」に悲しみイラつく日々から抜け出す一歩目になる。そんな気がします。

 

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑪(権威ある人を恐れること)

今回は、権威ある人を恐れること について棚卸ししていきます。

権威ある人を恐れること とはどんなもの?

■権威ある人たちを恐れること■

権威ある立場の人たちを恐れることは、親たちの非現実的な期待ーわたしたちがそうできた以上のことを求めたことーの結果であるかもしれません。

彼らの裁くような、批判的な、責めるようなやり方と、つじつまの合わない怒りは、わたしたちの他人との関わり方に影響を与えてきました。

私たちは権威ある人たちを、その人たちがわたしたちに非現実的な期待を持っているかのように思ってしまい、彼らの期待に沿えないのではないか、と恐れてしまいます。

他の人たちが単に何かを主張しただけなのに、私たちはしばしばそれを怒り、またはコントロールと誤解してしまいます。

このことで威嚇されたように感じるかもしれないし、さらにそれに対して、わたしたちの過剰に敏感で脆弱なやり方で反応するかもしれません。直面や批判を避けるために、私たちは自分の統合や価値を犠牲にして、力を持つ人のそれに合わせていくのです。

自分がどれくらい有能であるか正当に評価できなくて、他の人と比べ、自分は不十分で不適当であると結論するのです。

権威あるひとたちを恐れることは、わたしたちに次のような問題を引き起こしているかもしれません:

●拒絶や批判を恐れる
●ものごとを個人的に受け取ってしまう
●ごまかすために傲慢に振る舞う
●自分を他の人と比べる
●自分が正しいことに固執する
●不適当、または無能であると感じる

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わたしは『厄介な社員』です

私は、会社の本部が嫌いです。

私は、上司、というものが、虫唾が走るほど嫌いです。

会社が『指示』してくる、というのが、もうそれだけでNo!と言いたいぐらい嫌いです。

会社・組織・先輩・上司。組織のヒエラルキー構造、上の立場にいる評価者。

それらに対して反射的に否定的な態度を表明する傾向にあります。

私たちをコントロールしようとしているのではないか?と身構えます。「俺たちに○○しろって言いてぇのか?」と胸ぐらをつかみかかりに行きます。

これは、弱い犬ほどよく吠えるという言葉にもある通り、私が権威ある人を恐怖している、弱い側の存在だからです。これを認めることは、正直今とても抵抗感があります。「実力がない」「弱い」。そんなふうに判断されることは、私にとって耐えがたいことです。

『威嚇』というのは、言い得て妙で、実にぐっさりきます。

 

その割には、「評価」に対して過剰反応します。

これについても、とても嫌だな、と思います。

評価されたいと思っています。自らの有能さを正当に評価できない私は、おっしゃる通り、他の人との比較でしか安心できないのです。

特に、憎んですらいる、権威ある人からのお墨付きを欲しているところがあります。つまり、自信がないのです。自分が誇る自分に、自信がない。だから、外部の評価や権威に寄りかかろうとします。

そんな自分は、ひどく卑しい下賤の輩だと自己卑下しています。だから、他の人との比較において優秀な成績を収め、賞賛されたことに対して素直に喜べません。心の底ではほしくてほしくてたまらないと渇望しているくせに、「そんなもの欲しくもなんともないけどね」という顔をしたがります。欲しいと認めることは、隷属に近い屈辱感があります。

しかし、このように他人に評価されたいという欲求(承認欲求)に支配されているということを、認めざるを得ません。そういった認知の歪みが、確かに存在します。

 

 

 

 彼らの裁くような、批判的な、責めるようなやり方と、つじつまの合わない怒りは、わたしたちの他人との関わり方に影響を与えてきました。

これに関して考察を深めてみます。

私は、両親にそうした扱いを受けてきたのだろうか?それは、他人との関わり方に影響を与えてきたのだろうか?

 

そうでした。

 

「どうして○○できないの?」

「なんでこんなこともわからないの?」

「できなかったら、○○は買ってあげないからね、できない子には何も買ってあげません」

「○○できるまで、寝ることも食べることも許しませんからね」

 

これらは言われた記憶があります。

私は家という場所を、一時期は『牢獄』と同様のイメージに感じていたことがありました。結果を出さなければ処罰される場所。要求を満たさなければ権利がはく奪される場所。

そして、看守的立ち位置である母は、情緒不安定でした。

同じことをしていても、あるときはぶちギレ、あるときは、何の反応も示しませんでした。わたしは安心して生活することができなかったように思います。常に顔色を窺いながら、これをやっていいのかどうか、内心ビクビクしていました。

 

「非現実的な期待」とはなんだったのか?

非現実的な期待とは、私のなかではこのような期待だったように思います。

期待というよりは、義務ですね。

 

「常識的・ふつう・良い子 でなくてはならない」

「正しくなくてはならない」

「完璧でなくてはならない」

「第三者から評価されなくてはならない」

 

私たちは権威ある人たちを、その人たちがわたしたちに非現実的な期待を持っているかのように思ってしまい、彼らの期待に沿えないのではないか、と恐れてしまいます。

 

これらの期待に沿えないことはとても恐ろしいことでした。

なぜか?

裏切ったら、私の存在はいないもの、必要のないモノと判断され無視されるから。

無視される恐怖、無関心に対する恐怖です。

 

必死で叫んでも声を聞いてもらえない。

どんなに訴えても心に届かない。

わかってもらえない。見てもらえない。守ってもらえない。

 

それは、親・先生・クラスメイトとの交流の記憶です。

 

親は私が優秀であることを期待しました。迷惑をかけなくて、学業・スポーツ共に優秀で、良好な友好関係を築く自慢の息子。いいですね、そんな人間なら。

でも私は最初、そうではありませんでした。だから失望されました。いつも悲しそうな顔を向けられました。

クラスメイトは、私が劣っている点を挙げて、ことあるごとに馬鹿にしたりいじめたりしました。私は、別に彼らが好きに生きていることに特に異論はなかったのに。私が好きに生きることは、彼らの良しとするところではありませんでした。

先生は、そんな私を守ってはくれませんでした。「正しい行いをしなさい」と偉そうなことを言っておきながら、何もできないことに、腹が立ちました。

「あなた方が正しいというのなら、どうして私を守ってくれなかったのか。」

『るろうに剣心』(第16巻)で、瀬田宗次郎が緋村剣心に語った言葉が私の胸に蘇ります。

不殺とか 弱いものを守るとか あなたは言うけれど

それは間違いなんだ

何故なら

あの時あなたは 僕を守ってくれなかったじゃないですか

あなたが正しいと言うなら なんで守ってくれなかったんです

 

「弱きを助け強きを挫く」という正義を行うことができない先生や学校に失望しました。思えば、そこから組織や上司に対する不信感は醸成されてきたのでしょう。

頼りは、己の力のみでした。

親も、先生も、正しさを振りかざす割には、徹頭徹尾正しいわけではない、中途半端な存在。そのつじつまの合わなさが、私には耐えらえれないほど腹立たしいことでした。

 

両親が教師であることの歪み

さて、両親は教師です。

そう、私は当然、先生と同じだ、ということを連想します。

この人たちは、親であるけれども、あの頼りにならない偽善者と同じ人種だ、と私は認識しました。

正しい人たちの代名詞『先生』。それがどれだけ空虚で実のない存在かを知っています。

それなのに、私に正しさで制限をかけてきます。正しさという隠れ蓑に隠れて自分は血を流さない卑怯者。それは唯々邪魔な存在であり、私が生きる上でこのうえない脅威でした。

彼らはいわゆる看守であり、私は囚人だったといえます。

 

つまりここにきて私は、「管理者」に対して、恐怖しているのだ、と自覚せざるをえません。

(この「管理」について、私はこの窒息しそうな閉塞感を快感に変換しようとして性癖を歪ませるわけですが、それはまた今度分析したいと思います)

 

 

権威ある人を恐れることからの回復 とはどんなもの?

□権威ある人たちを恐れることからの回復□

権威のある立場にいる人たちと、一緒にいて楽に感じるようになり始めるにつれて、わたしたちは批判をもっと積極的にとるようになり、批判は学ぶための手段となりうることを発見するようになります。

権威ある人たちも私たちと同じような人間であり、彼らなりの恐れや防御や不安感を持っているのだということがわかります。

物事を個人的に受け取ることをやめたとき、彼らの行動は、私たちがどのように自分自身について感じるかを決定しはしないのだ、ということを実感するでしょう。

わたしたちは単に他者に反応するのではなくて、状況を判断し、自分の行動を選択し始めます。わたしたちは、究極的な権威は、常に私たちと共にいるハイヤー・パワーであることを再認識します。

権威ある人たちと一緒にいて快適であるようになってくるにつれて、わたしたちは次のようになり始めます:

○高まった自己評価を持って行動する
○自分自身のために立ち上がる
○建設的な批判を受け入れる
○権威ある人たちと楽に交際できる

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
68Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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忌まわしい管理者である親や先生も、また人なり。

彼らもまたどうしようもなく不完全で矛盾した人間であり、正しさの権化ではないのだ、と知ります。

「役割」として正しくあらねばならないと虚勢を張っていた、彼らの苦しさや弱さについて確認すると、そのような「管理者」に対して、私は必要以上に恐れる必要はない、という安心感を持つことができます。

すなわち、私の自己評価について、彼らは決定権を有していない、という安心感です。

私は彼らに認められなかったからと言って、自分の評価を落とさなくてもいい。

つまり、どれほど権威ある人が否定的な評価を下したとしても、私には直接的には何の関係もないことで、「私は生きていないほうがいいのかもしれない」と思い悩まなくてもいい、ということです。

あくまでも彼らの私に対する第三者評価は彼らの物であり、私になんの攻撃性も有していない、と確認するとき、私は安心してその批判的な内容を冷静に吟味することができます。

そして、取り入れるべき批判については、気づきを与えてくれたことに感謝して真摯に聞くことができるでしょう。

取り入れるべきでない、と思う批判は、ごみ箱に捨ててもいいのだ、という安心感をえました。

そのすべてが攻撃に見えていた彼らの批判は、学ぶための手段となりうることを発見することができました。形は歪でも、彼らなりのヒントをくれていただけだったということです。それは善意であり、悪意であっても扱い次第で私は主体的に役立てることができる。

そういう、自分自身の生きていく力を信じ、耐えがたいほど辛いこともいつか好転していくというハイヤー・パワーを実感することができたセッションではないかと思います。

【AC】他人からのアドバイスを無意識に警戒してしまう理由

わたしは、アドバイスを素直に聞くのは苦手です。

「○○したほうがいいよ」

と言われると、何も知らないくせに知った風な口を聞きやがって…と、心が反発しがちです。

他人から提示された情報に非常に懐疑的です。

本当に真実なのか?他人の欲や意図やバイアスに歪んでいないか?を確認しないと信じることができません。

わたしは、人を信じられない、心の冷たい、器が小さい人間なのだろうか?と凹むことがよくあります。

そもそも、なぜなんだろうか?と考えてみました。

 

理由①:「間違えてはいけない」という強迫観念

まず、わたしは、極力間違えてはいけないと思っている節があります。

間違えることは他人から非難され嘲笑される、取り返しのつかない恥ずかしいことだと思っているのです。

なぜなら、ASD(自閉症スペクトラム)で、いわゆる『常識的なこと』でわからない点をよく尋ねてきました。尋ねた人には、よくバカにされてきました。

「なんでそんな当たり前のことがわからないの?」

「どうしてあなたは普通にできないの?」

と言われました。親にも悲しい顔をされてきました。

私の「わからない」という気持ちに、だれも寄り添ってくれなかったし、誰も助けてはくれなかった。その悲しみと怒りが今もまだ腹の底にあります。

つまり、私のことを根本的に理解していないと思っています。

それなのに、わかったようなことを言われるのは、我慢がなりません。そのわかったようなことは、基本的に間違いだと考える傾向にあります。

心のうちを打ち明けあい、私がさらけ出した醜い部分をみても否定しないこと。自分の醜さも打ち明けてくれること。

この双方向でのやり取りで信頼関係を構築しない限り、他人から言われたことはほぼ100%疑ってかかる傾向にあります。

わたしは聞くのが怖くなり、聞いてくれなかった他人を憎み信用しなくなりました。

わからないことを素直に聞けない。でも間違えてはいけない。そういう強迫観念を持っています。

だから、素直に受け取れないのだと思います。

 

理由②他人に従うことに対する恐怖

次に、闇雲に親の言う事を信じた結果、痛い目をみてきた経験から、人に従うのは危険で怖いことだと感じている、ということです。

過干渉によりストレスを与えられ続けた私は、長いこと学習性無力感に苛まれてきました。

正しさというカンナで丁寧に削られ続けた自己効力感は、もはや雀の涙ほどもありませんでした。何も確認しないで親の期待に身を任せて生きてきて、自分の人生を生きている実感を失いました。

その実感を取り戻すのは、至難の業で、未だ判然としません。

私はまたこの失敗を繰り返すのは、死んでも嫌です。

だから、提示されたアドバイスの内容が、本当に私が受け入れるべき提案なのかどうか、そして、今やるべきことなのか、という2点で、かなり慎重に検討することになります。

 

しかし、そういう私の態度を見てとると、アドバイスしてくれた人は苛立ちます。

「正しいことを言っているのになぜやらないんだ?!」

「せっかくアドバイスしているのに聞こうともしない。全然素直じゃない!」

発言者にとって正しいことが、私にとって正しいかどうかは、私が決めることです。

アドバイスや助言はありがたいですが、その情報を活用し行動に移すかどうかは私の自由でいいはずです。

しかし、アドバイスしてくれたのだからそのひとに対して配慮しなくてはならない、と思うと、ただでさえ遅い決断がさらに難しくなります。

 

疑り深さというマイナス要素は、慎重さというプラス要素と表裏一体

性質について考えを深めるにつれ、私の欠点は果たして欠点だから消さなければならないものなのか?と私は自分自身に問いかけます。

私には、利点でもある、とも思えてきました。

私はたしかに、人の善意を無闇に警戒する認知の歪みを抱えています。

それが原因で、私は他人に関わるとひどく疲れます。

「私にはそう言った認知の歪みがある」と認識しておくと、『あ、今これはもしかして思い込みかな』と客観視することができます。

そうであれば、この特性は「慎重さ」という利点です。

不用意に誤った情報や判断に流されたり、他責にしたりすることなく、世の中を生きる『誠実さ』にさえ繋がる長所でもあります。

 

根源的なもう一つのバイアス

ここで、はた、と気づいたことがあります。

「わたしはそもそも何故『素直であらねばならない』と思っているのか?」

ということです。

愚直であることは、決して美徳ではありません。

昨今のコロナウイルスの情報を盲目的に信じる人々がマスクやトイレットペーパーの買い漁っています。

真偽が定かではない情報に踊らされる姿は、かくも滑稽で社会悪です。

このことは、皆さんも肌身に感じていることかと思います。

素直というのは、毒にも薬にもなる、ただ単なる特性でしかない。

良いも悪いも、裏返る。

ではなぜ、それを良いと断定したか?

それは、『世間的に良い』とされている、機能不全家族の父母が愛した「常識」という忌まわしい物差しが、私のなかに深く根を張っていたからです。

そして①の、「間違い」と他人に思われる、いわゆる常識外れが怖い真の理由は、「そうでなくては嫌われて、またひとりになるかもしれない」という不安からです。

「見捨てられ不安」です。

それに縛られているから、わたしは間違えてはいけないと思っているし、素直でいなくてはならない、と制約をかけていたのです。

この根こそ、そもそもの認知の歪みの始まりだったのだと気づいて、『じゃあ素直に聞けなくたっていいんじゃん』と思えました。

「素直である必要」は、実はどこにもなかった、ということになります。

まとめ:あなたはそのままでいいのかもしれない

私はこのままでいいのかもしれない。

ということは、あなたも、そのままでいいのかもしれません。

今、「これが私の悪いところだ」と思っていることは、いくつありますか?

そのいくつかは「こうあるべき」という「常識」という歪んだ物差しで断定しているものではありませんか?

そのいくつかは「そうでないと嫌われるかもしれない」という見捨てられ不安で回避したいものではありませんか?

もしもそうなら、それらの罪悪感や劣等感は、抱え切れないほどいっぱいのその両手から手放してよいものなのかもしれません。

【AC】なぜ長男はそこまで妹を憎んだのか?

兄弟の喧嘩が激しすぎて大変だ、というツイートを見て、「そういえば、妹とは激しい喧嘩などしたことないなぁ…なんでだろ?あんまり好きでもないのに。」と思いました。

実は私は、今まで妹に対してそんなに良い感情を持ったことがあまりありませんでした。

そのことについて考えてみました。

 

 

妹はあのとき、私から親を奪う脅威だった

生まれてきたときは、本当に嫌でした。

厄介なやつが家に突然やってきた、と恐れおののいたものです。

突然生まれて家に入り込んできた、小さくてなんだかよくわからない「妹」という生き物にばかり愛情が注がれて、今まで私に注がれていた親からの愛情は「妹」に奪われたように見えました。

私は、この生き物に母親を奪われたと感じました。

こんなやついなくなればいいのに、と思っていました。

 

お兄ちゃんなんだから、譲りなさい、我慢しなさい!

お兄ちゃんなんだから、妹の面倒をみてあげなさい!

お兄ちゃんなんだから、妹に優しくしてあげなさい!

 

私は、お兄ちゃんになんてなりたくてなったわけではありません。

この生き物がきてしまったから、「お兄ちゃん」にならざるを得なかっただけで、私がしたいのは、この生き物の世話じゃない。

しかし、そんなことを訴えたら、哀しい顔をされたり、なぜそんな心無いことを言うのか?と責められ、見限られるだけだと思いました。

 

『「我慢する」「面倒見のいい」「優しい」兄』。

そんな「お兄ちゃん」だったら褒められるけれど、それ以外なら私に価値はないのか?
何が哀しくてこんな憎いやつを私が世話しなきゃならんのだ…

 

と、思っていました。

思えば、演技しなければならないと心を決めたこの危機感を感じていたのは、幼稚園の年長の頃(妹とは4歳差)のことでした。

 

歪んだ偽物の「優しい兄」

本心はどうあれ、私だって親に見捨てられ嫌われるわけにはいきません。

愛情が欲しい。それなら、親たちが望む「お兄ちゃん」をやらなくてはならない。

妹には嫌々なのはおくびにも出さず、あくまでもポーズで優しく接するようになります。

そうしていたら、何も知らない妹は、偽りの優しさだとは気づきもせず、後ろをついてくるようになりました。

これが、鬱陶しくて仕方がなかった。

でも、「どこかにいけ」「独りにしてくれ」と言ったら、やつは泣きます。

ひとたび泣かれたら、俺が悪いことになり、父も母も俺を責めるのは目に見えています。マイナスしかありません。

だから、「離れてほしい」とは言えない状況でした。

 

私が小学生、妹が幼稚園に上がった、ある休日のこと。

木を掘りたくなりました。

玄関に胡坐をかき、太めの枝の端っこ彫刻刀で彫ってたら「私もやりたい」と言って近寄り、私が「いいよ」とも言っていないのに、私の彫刻刀を勝手に使って、反対側を削りだしました。

そのとき、自分がしていることを邪魔されたのが尋常じゃないくらい腹が立ちました。

私は、わざと木をいきなり動かせば、妹が自ら誤って指を切るのではないか?と思いつきました。

実行すると、見事に爪ごとザックリ人差し指を切り、妹の指はみるみる血まみれになりました。

号泣しながら母親の下へ退却して行った妹の後姿をみたとき、気の毒なことをしたとはわかっていましたが、スッとしている自分がいました。

妹が彫刻刀の扱いを誤り、勝手に指を切ったことにすれば、私は責められない。うまい具合に追い払い、ついでに報復もできた、よしよし、と思いました。

妹に対して、そういう陰湿な仕返しをしていたひどい兄であることを、今ここに、認めます。

 

じゃあ、私はどうしてほしかったのだろうか?

妹が嫌いで嫌いで、いっそのこと死んでほしかったのか?

といえば、そうでもないのです。

妹がいじめられていたことを知ったとき、自分と同じようにいじめられた心の痛みに共感した私は、そのいじめっ子のクラスまで行ってぶん殴りに行ったので、職員室で指導くらって「何が悪いんだ」と悔し泣きしたことがあります。

妹も私も硬式テニスをしていましたが、妹の試合を観戦していたときは、わりと真剣に勝ってほしいと思って真剣に応援していました。

たぶん、人としてはそんなに嫌いじゃないし、肉親として愛情もあったはず。

何が歪ませたのか?と思うと、やはり親なのかなと思います。

妹ができて、私に注がれる愛情は条件付きになった、と私は当時、感じたのでした。

そう、妹ができて親が期待する私にならねばならなかったからです。

無理して笑い、明るく振る舞い、いい兄を演じる必要性が生じました。

ASD(自閉症スペクトラム)で幼少期に手のかかった私は、母や父が私に関わると哀しそうな辛そうな顔をする様子ばかり見てきました。

私が思うようにすればするほど、両親の顔は曇っていきました。それが、私にはとても悲しかったし、なぜ私が楽しくしていると二人とも哀しい顔をするのだろう?と思っていました。

そのままでは受け入れられないのだと知りました。

私はそんなふうに二人に悲しい顔をされたのに、私に比べて比較的大人しかった妹は「○○ちゃんは、いい子だねー」と言われ、父母から可愛がられていました。

その光景を見たときの私の絶望感と危機感は、それはそれは強いものでした。

「ああ。俺の『そのまま』がダメだからか。だから俺はこんな扱いなのか」

そして、表しようのない怒りと、素朴な疑問。

「なぜ、俺の『そのまま』はダメなのに、妹の『そのまま』は良いんだろう?そんなの、不公平じゃないか?」

 

まとめ:親を憎む代わりに妹を憎んでいたことに気づいた

実は、私の『そのまま』を受け入れてもらえなかった悲しみを、妹への憎しみに置き換えていたんだな、ということに気づいたのでした。

憎む対象を、親にはしたくなかった。親を憎んでいるとは信じたくなかった。

小さい頃、私にとって親は世界でした。

世界を否定することは、自分を否定することでした。

とても怖かった。私は愛されているはずだと思いたかった。

『そのまま』の自分を、最も認めてほしい親に、受け容れてもらうことができないだなんて、とてもつらくて耐えきれなかったから、信じたくなかったのですね。

その代償に、妹につらく当たってきたことを、本当に申し訳なかったな、と今思っています。

本当に、申し訳ありませんでした。

しかし、憎む対象を親だと認められなかった、それを認めたら生きていけなかった、という当時の自分も、ちゃんと許したいと思います。あのときは、私が生きるには仕方がなかった、ということも、事実であり、子供だった私には酷なことでした。

実は、私は親になって、もし子供が増えて兄弟げんかが起こったら、どうしようかと思っていました。

私はどうしてほしかったか?ということが見えなくては、私は子供同士が憎しみあい殺し合うのを、指をくわえてみているしかないのかな、と思っていたからです。

しかし、子供たちそれぞれの『そのまま』をちゃんと見て、子供の話をきちんと聞いていれば、妹(下の子)を憎む心配もないし、その上でのケンカなら、殴り合いでもつかみ合いでも好きにやればいい、と思います。おそらくお互いに痛めつけ合って、程度や加減を覚えていくのでしょう。そういう関係のほうがよっぽど健全であると思うのです。

だから私は、ちゃんとケンカしている兄弟姉妹を見ると、安心してしまうのでした。