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【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ;ステップ3

3、今までの生き方を支えてきた意志の力への信仰をやめ、他人の評価を恐れることなく、あるがままの自分の心と体を受け容れようと決心した。

あるがままの自分でいたら、どんどん自分を甘やかして、どんどんナマケモノになって、誰にも相手にされなくなるのではないか、という恐怖が襲ってくるかもしれません。しかし、だまされたと思って、とりあえず「今のままの自分でいい」とすべてを認めてみてください。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P210より引用

 

 

前回の振り返りと今回のステップの位置づけ

前回のステップで、私は2つのことを認めた。

①小さい頃から感じてきた寂しさを埋めるために、他人の評価を気にし過ぎたことがきっかけだった。

②今まで自分の意志の力を信じ過ぎ努力してきたことが、私の人生を不健康にしてきた。

意志の力を信じてひたすら自分に鞭打って生きてきた生き方は、それはもう見事に破綻して、実際にアルコール依存症という形で表面化した。不健康そのものだ。

なまじ中途半端に他人よりできたことが災いして、間違った「意志の力への信仰」を強化するという皮肉。他人の評価はコントロールできる、今評価が低いのはコントロールが甘いからだ、という驕り。それが自分にも他人にも厳しい態度を生んだ。世界をどんどん他ならぬ私が狭くしていった。

だから、このやり方はもうやめなくてはならない。やめざるを得ない。

というか、やめる以外の選択肢はない。そうだろう?だって失敗したんだから。

「それをもういい加減認めようぜ」というのがステップ3だ。

 

時はきた

「でもだってほかにどうすりゃいいんだよ?!」って不安になると思う。

なんというか、今まで必死に拝んできたお地蔵さんが砂でできていてバッサリ崩れ去った感じだ。私はこれから何を道しるべに生きていけばいいんだろう?的な。

今までの人生に対する後悔も半端ではない。

何という無駄。なんという徒労。意味のない、間違ったことを一生懸命してきたなんて…。その事実をとてもじゃないけど受け止められない。後悔が重すぎる。

そう思ってもしかたないし、むしろ当然だと思う。

だって、もう本当に、私たちは健気に一生懸命にやってきたんだから。

認められよう、褒められよう、ここにいていいって言ってもらいたい。

そんな悲痛な叫びをぐっとこらえながらただひたすらに努力してきた。その切実さ、内に秘めた怒りはとてもよくわかる。私も同じだったから。

でももう、それは失敗に終わってしまった。いよいよ「失敗だった」「間違いだった」という事実を受け容れるときが来た。

 

実は、薄々わかっていただろう?

こんな事いつまで続けるのだろう。報われない努力をいつまで。

本当に私はそんなにダメなのか?結果が伴わなくちゃ生きていることすら許されないのか?

愛するってそんなギブアンドテイクか?そんなに渇いたやり取りなのか?それで私は本当に癒されるのか?

そんな思いが心のどこかにあったのではないか。

 

努力不足なんかじゃない

なぜそんなに自分をダメだと思うのかといえば、親に愛されていない事実を誤魔化すために自分に矛先を向けているからだ。

「親はもちろん自分をありのまま愛している」ということを肯定するには、親の望む「いい子」になって認められ褒められる必要があった、というのがすでに矛盾していて歪んでいる。

本当は、親がどんな私でも他との比較を抜きにして、ちゃんと見てちゃんと話を聞いてちゃんと正直に話をしてくれれば、何の問題もなかった。

そういう心の交流をしてもらえないということは、つまり愛されていないわけだが、幼い私はそれを認めてしまったら壊れるので、他に理由を探したのだ。つまり自分の能力に責任転嫁したのだ。なぜなら親を愛しているから。健気すぎて泣けてくる。

「私は親を愛している。だから親が私を愛していないはずがない。親が私を愛していないように見えるのは、私が至らないから。両親が私を愛していないわけがない、だとしたら私に原因があるに決まっている」

 

そんな哀しいことってある?と思う。

親には正直人を愛する余裕がなかったと思う。自分を愛していなかったから。

自分を愛していない親は、自分の寂しさや憎しみ、つまり抱えているパーソナルな問題を見ない振りをするために、子供に関わる(過干渉だったりネグレクトだったりする)。

そのとき親は自分しか見えていない。もちろん子供そのものは全然見えていない。

そういう両親のもとで、子供はとてつもない孤独を感じる。見てもらえない、愛されていない事実が肌身に染みる。

だから親が求める模範的な「いい子」になろうとする。あるいは、問題を起こしてそれでも見捨てないかどうか試す。

しかし、今思えば、無理な要求だったのだ。

彼らはまだ人間として未熟なのに子を授かってしまった。そもそも彼らができないことを、私たちアダルトチルドレンは期待していたと言える。

期待することはもちろん悪くない、というか当然のことで、親はそれに全力で応えるのが役割なので、全ては親が親として必要最低限の能力を欠いていたせいだ。

 

悪くない

そう。ここまで読んでもらえたらわかると思う。

私たちが必要以上に承認欲求に振り回される、諸悪の根源は、親の能力不足だ。

あなたが悪いんじゃない。

そう、あなたが悪いんじゃないんだ。

だから、あなたは「今のままの自分」でいいんだ。

他人との対比は関係ない。する必要がない。

比べたとして、そもそも他人は私たちが思うより、大したことない。恐るるに足らない。

他人のほうが自分よりめっちゃすごいと思ってきた。特に先生と呼ばれる偉い人やお金持ちや社会的ステータスがある人は、人間として上質なのだ、と。

それは、思い込みだ。

どんぐりの背比べ。似たり寄ったりだ。人間ひとりの力なんて大差ない。

自信満々そうに見える人も、実は内心怯えていることを悟られないように虚勢を張っているだけだったりする。他人にやたらとマウントを取ろうとする人も私たちと同族である。病んでいる。

本当に自信がある人は、親が成績や実績なんかじゃなくちゃんとありのままの姿を認めてきてくれるまともな親で、健全な家庭育ちだからだったりする。

つまり、親ガチャでちょっとその人たちのほうがラッキーだっただけだ。私たちは親ガチャが残念だっただけ。彼らとの人間的な質の差は特にない。

 

人が創りあげるものは何でも、完璧ではない。だいたい何か足りないところがある。

自分一人の貧弱な能力では足りない何かを埋め合わせるために、どこか足りない者同士の私たちは、身を寄せ合い力を合わせて何とかかんとか今を生きている。世の中ってのはだいたいそんなもんだ。

しかし段々と社会が高度化しシステム化して、人が人でなくても良い社会になってきた。言い換えると、私たちはいくらでも替えがきくような冷たいシステムの歯車として生きているから、どんどんさみしくなっている。

人が創った不完全な社会だから当たり前なんだけど、物質的な豊かさと引き換えに、自ら不安で不幸になるような仕組みに乗っかって、今まさに情緒不安定になっている。

コーヒー飲んだら仕事がはかどるからっていってガボガボ毎日飲んで、カフェイン依存の症状として不眠やイライラに苦しんでいる、みたいなもんだ。

 

「勘違い」から一歩抜け出そう

今、いわゆる「勝ち組」として社会で華やかに活躍しているふうな人を羨む必要はない。

彼らはまだ騙されている。私たちが騙されてきたのと同じトリックに騙されているけれど、気づいていない。

そもそも社会に認められることって実は価値が無い。だって社会がクソだから。

自殺者をこんだけ増加させて、金儲けと出世のために仲間が苦しんでても「知らねーよ」って顔ですっとぼける人間が、国を動かす立場に立てるんだぜ?

それが今の社会のヒエラルキーの正体。

最も権力のある立場に立つ条件は、徹底的にクズになるということだ。

私利私欲を追求して他人が死ぬのを何とも思わないような、KING OF クズになること、それがこの今の社会で最も認められるということ。

嫌でしょ?

私は嫌だね。お金もらえても願い下げ。だってそれはもはや、人間じゃないもの。

だから、勝ち組って言われている人たちは、クズの優等生ってこと。自分たちのクズっぷりが認められて「私はとても幸せで他人よりすごいんだわ!」って言ってる感じ。やばいよね、それってもう悪趣味すぎじゃない?

まあでも「蓼食う虫も好き好き」ということわざがある通り、人間やめちゃってもいいからお金や権力がほしい、と人もいる。そういうのは、悪魔か獣か人外の類だと思って、放っておこう。

まさに冒頭から申し上げている、意志の力への信仰の狂信者もいる。私たちと同じだけど、コントロールに取りつかれていることにまだ気づかないまま狂信者。ガチャ的なラッキーも積み重なってしまったがゆえに、狂った宗教から抜け出せなくなっちゃった人たち。かわいそうに。同情せざるを得ない。

社会的に認められる、競争社会で勝つ、というのは「価値観の一つ」であって、場合によっては「大いなる勘違い」でもある。

価値観が一つではないように、社会で認められるというのは「認められているなら優れている」と錯覚しているだけであって、実際は何の指標にもならない。

なぜなら、人は不完全で、不完全な人間がつくった物差しなど正しいわけがないから。

 

では何を道しるべに生きるのか?

「良心」だ。

自分は、こんな善い自分でありたい。

この人を尊敬しているから、こんなことをしてあげたい。

そういう自分の心の奥深くから湧き上がる尊い気持ちに従って行動すれば、それだけでいい。

それが最も私が私らしく生きる法則であり、この世の誰にも否定する権利が無い人生になる。

そもそも正しい人生なんてない。間違っている人生もない。それを他人が決めるなんておこがましい。

法律も、ただ人間が勝手に決めただけだ。ルールを設けてみんなが生きやすくしようね、という取り決めで、絶対的に正しいわけじゃない。

自分の心に問いかけよう。

それこそが真実だ。それしか真実はない。誰も教えてくれない。

人生の答えは、あなたのなかにしか、存在しない。

 

 

【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ;ステップ2

1、私は、◯◯することへの執着は、他人の評価を気にしすぎるところから始まり、自分の意志の力を信じすぎたことでひどくなったことを理解した。

あなたの力には限界があり、到底何もかも思い通りにはできません。がんばってもがんばっても、他人はおろか、自分さえも思い通りにはできないのです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P209より引用

 

 

 

2つの問題

「私は、人に認められること=承認欲求への執着は、他人の評価を気にしすぎるところから始まり、自分の意志の力を信じすぎたことでひどくなったことを理解した。」

 

問題は2つ。

①他人の評価を気にし過ぎたこと。

②自分の意志の力を信じすぎたこと。

 

①について考えてみよう。

なぜ気にし過ぎたのか?

そのままではダメだと思った。

どうダメなのか?

受け容れてもらえない、生きていけないからダメだと思った。

それはなぜか?

元もとの自分は取るに足らない存在だから。

ほんとうに?

「評価されなければ愛されない」「評価されなくてはココにいてはいけない」という強迫観念から、努力を重ねてきたという事実。

私そのものの価値を認めてくれる親。親に愛されていると信じたいと思った。

愛されているのは、よくできるときの自分だった。

私は愛されているはずなのだから、つじつまを合わせるために、私は親から見てよくできる人間でなくてはいけない。そう思い込んだ。

今、期待通りにできないのは、私の頑張りが足りないからだ。

だって私は愛されるはずだから、よくできるはずだから。

そうやって努力してきた。

 

意志の力

その行動は、私を②の「自分の意志の力の信仰」に導いた。

自分の意志の力で何とか出来る、と信じてきた。

それがそもそもの間違いだったと認めるときが来た。

私の意志の力は万能ではなかった。

他人より優れるということは、意志の力でコントロールできるようなものではなかった。

何とかできると思うから、極端に自責したり、極端に己を恥じたりする。

どうにもならないことを何とか出来るはずと思っているから、いつまでも自分の努力が足りないことになる。

雪だるま式に大きくなる強迫観念。

他人が認められているとき、発狂しそうなほどの黒い嫉妬と醜い憎しみに駆られる。

自分を痛めつけるような努力に身を投じる。そして疲弊する。

そして私は酒を頼ったのだと思う。

 

意志の力は、わりと強いほうだと思う。

結構粘り強いし、簡単には諦めない。悪く言えば一生根に持つほど執念深いタイプ。

だから今まで何とかなってしまったのだろう。

そしてますます信仰を深めたのだ。

やればできるはず。だから今できないのは自分の怠慢だ、と。

 

しかしこの世にはすごいひとはいっぱいいるし、負けることなど日常茶飯事なのだ。

それをいちいちあれやこれや比較していたら、勝ち続けることなど不可能だ。

そんなに他人はしょぼくない。それぞれに良さがあるし、磨いてきた技術がある。経験してきたことも違う。

それなのに、意志の力さえあれば勝てると思うこと自体が、不自然だった。

それを認めるときが来た。

 

私は何がしたいのだろう。

自分そのものとして社会に認められたい、と思ってきた。

なぜなら私は、社会に馴染めなかったから。

幼少期。のびのびとそのままでいた時期に仲間外れにされて哀しかった。

受け容れてほしい。

そう思ってきた自分がいる。

それを、承認欲求というかたちで今まで満たそうとしてきたのではないかしら。

人に認められて、すごいね!ありがとう!と言われて、私はここにいていいと思いたい。確かめたい。

でもひとりでは特別なものは何も生み出せない。

ここにいてはいけないことになる。それは嫌だ。

だから、他人にこびへつらった。他人に望まれることをして、褒めてもらおうとした。

卑屈な笑顔の下にある私の本性はそれだ。

コントロール。

 

失敗に終わったことを認める

不安と強迫観念に気づかぬために、他人の評価をコントロールしようとした。

意志の力を信じてますます努力した。

 

でも、その生き方は幸せではなかった。

結果、今、破綻している。

一流企業に転職しようと、国家資格を取ろうと、依存症から回復しようと、いつも他人と比べてしまう。他人の目に怯えた自分がいる。

結局、己の手では何も創造することができない。個として価値を生み出せない自分を、嫌いになりそうになる。

この生き方は、どこまでいっても渇いている。

いつまでも満たされない。

つかの間の賞賛で喉を潤しても、もっと高くもっと多くと、依存していく。永遠に欲しがる。

そして、何もかもが認められるためだけの道具になり、人生がつまらなくなる。

今、まさに。だからつまらないのだ。何をしても。他人に褒められないと意味がないと思っているから。

 

人に認められても、つまらない人生を生きたいか?

私はその問いにNoと答える人間だと思う。

本来、楽しむために産まれてきたのに。なぜ他人に認められる、なんて不毛なコントロールできないことのために生きなくてはいけないのか。

そんな徒労をもう終わりにする時が、今ようやく来た。

そのために私は、今までのやり方が失敗だったと潔く認める必要がある、ということだ。

 

①小さい頃から感じてきた寂しさを埋めるために、他人の評価を気にし過ぎたことがきっかけだった。

②今まで自分の意志の力を信じ過ぎ努力してきたことが、私の人生を不健康にしてきた。

ということを。

 

私は何かを生み出せなくても、胸を張って生きていていい。

私はたとえ他人に認められていなくても、無価値ではない。

他人に評価されない考えだとしても、私が感じて考えたことや生み出したものには価値がある。

 

承認欲求に振り回されてきた人生。

その生き方をやめたい。

私が今までやってきた生き方が、より苦しみを生み出していたことを理解した。

 

【共依存】シリーズ「わたしの共依存」③同僚

私は今でこそ必要最低限の仕事だけできたら後は明日にして帰ることができるのだが、昔は体力が尽きるまでやってしまうタイプだった。

以前勤めていた会社はブラックで、いくらでも仕事ができた。

私は寝袋を持ち込んで会社に泊まりこんでは、とにかく仕事か飲酒か睡眠か、というような不健全な生活をしていた。

そんななか、同じブラック企業に勤めていた同僚のなかに、毎日定時に帰る人がいた。

私はいつもその人を見ると何故かイライラした。

トラック運転手であるその人(Sさん)は、営業兼現場監督をしている私とは就業体系が違うので、定時で帰るのは当たり前と言えば当たり前だった。

それを差し引いても、「仕事より家族」と言い切って仕事も満足に終わっていないのに(と私からは見えた)早々に切り上げる背中がなぜか苦々しく見える日々だった。
とにかくSさんのことが面白くなかった。

私は夜となく昼となく働いているのに、評価されない。給料は同じか、私が低い状態だった。

もっとも、それは私がアルコール依存症真っ只中で、定期的に遅刻や体調不良を繰り返していて評価できない人材だったからだが。

結果に貪欲でないSさんに、仕事中心の私はイライラした。

「年上で先輩で俺より給料もらってんだからもっと働けよ、もっと苦しめよ」

「俺のほうがやっているのに俺がキレられて、何でのらりくらりとやっているようなあんなのが許されるんだ」

「俺はこんなに苦しんでいるのに、なんであんなに楽そうなやつが生きていけるんだ。不公平だ」

「ダッサ。何が家族だよ、仕事やらない理由にならねーよ。できない言い訳すんなよ」

そんなことばかり思って、奥歯をギリギリ言わせていた。

 

今なら思う。

これは、私が「苦しい」「つらい」と言えなかっただけ。

Sさんに対する思いとして、彼を鏡にして、「私自身の歪み」が、感情となって表出していただけのこと。

 

昨夜のお前が見てたのは俺じゃない

会わない数年の間にお前の頭の中にこしらえた「俺」

お前の頭ん中の「俺」 お前の頭ん中の物語

その物語こそがお前自身を映してる

今のお前を映しているよ

出典:『バガボンド』第25巻 樹上ニテ想フ より

 

 

 

人はそれぞれ違うのだから、生き方の違いはあっていい。

大切にするものの違いもあるだろうし、限られた人生だから時間の使い方も、違いはあって当然だろう。

最近、自分の判断で仕事に割く時間のウエイトを決めて人生をドライブし始めた。会社の指示だったとしても、筋が通らなければ論理的に反駁して是正を依頼する。

同僚や上司の反感を買うこともある。

「ちあきはオトナじゃない、物分かりが良くない」と下に見られることも多々ある。

それは、まるで前職にいたときの「かつての私」そのものである。

仕事をしたくないのに、しなければならない。

それが本当は嫌だったのに、嫌だと思うことすら自分に許せなかった。

だから私は望んで「人生において仕事に最も傾注することが正しい」という信仰を頼った。

「私は正しいことをしている」という束の間の安心感を得るために。

本当はやりたくないことを我慢してやっているから、やらない人を受け入れられない。

自分の力で変えたくなるし、従わせたくなる。

なぜなら、自分が本当はやりたくないことに気づいてしまうからだ。

気づいてしまったら、もうそれ以上がんばることができなくなってしまうからだ。

それはまずい、と感じているからだ。

なぜか?

頑張れなければ、認められなければ、生きていけないと思い込んでいるから。

その生存を脅かされるのではという恐怖が、不安と怒りになって、私自身に向かっているだけ。

全ては、その人の内なる神とのやりとりなのだ。結局は、自分の問題でしかない。

他の人が影響しているようで、実は自分の中に真実があり、それを否認するときに心は泡立ち、気持ちは揺れる。波が立つ。

ただそれだけのことだった。

 

自分がこれでいいのか。

不安になることも、他人と比べてしまうことも、しかたがない。

そして、それらは全て己の心という水面に映る問題に過ぎないのだから、結局は気にして精神をすり減らしても、しょうがないこと。

今、私を下にみて安心したい現同僚の彼ら。

彼らにも、いつか彼らの本心が見つかるといいな、と祈らずにはいられない。

この歌を泣きながら聴いていた日々の痛みが、今、私に爽やかな優しさをくれる。

 

【共依存】共依存症者にとって12ステップを学び続ける理由とは

いろいろとステージが変わってきたんだな、と思う。

今までは、他人に嫌われたり離れられたりするのがとにかく怖くて嫌だから、予防的に自分を制限して振る舞ってきた。それゆえに、ストレスを抱えていたと思う。

できるだけ争いが起きないように立ち回り、もし争いが起こってもなかったように振る舞い、偽りの仲良しを装ってきたのが、私の「人付き合い」という作業だった。

しかし、12ステップやアサーティブを通して「自分は自分でいい」「感じたことは良いも悪いもなく大事なもの」「他人のそれもまた大事で且つ変えられないもの」・・・そういうことを学んできた。

 

振り返ると、わたしの実父母は、「家族」という共同体において、その対極にある在り方を採用していた。

私の実家、つまり共依存的な機能不全家庭では「和を乱すこと」は常に良くないことだった。

私が結婚することになって、久しぶりに実家を訪ねたとき、今後は妻がくっついてくるから、家族4人で水入らずなのは最後だ、と思い詰めて出迎えられた。無理に楽しく明るく過ごそうとする緊張感に満ちた母や妹が、とても奇妙だったことを覚えている。

些細なことで言い争いになり、ふたりともが泣き出して「最後の日くらい楽しく過ごしたかったのに!台無しだ!!」と互いを罵り合い、泣き崩れる姿を見て、心底ドン引きした。

この家族は、気持ち悪い。

そう思った。

 

人間関係のベースが共依存的だと、他人が離れていくこと、他人に見限られたと感じることは、とてつもなく怖い。

なぜなら、共依存症者は「他者との繋がり」をアイデンティティに癒着させてしまっているから。人から離れられることに対して、今ある人格を無理やり千切られるような印象を持つ。そのようなイメージを持っている人からすれば、他人との繋がりは脅威であり、恐怖を伴って当然だろう。

だから、必死にコントロールしようとする。

だが、相手があることなので、そもそもコントロールできないし、コントロールしている状態だとしたら、その状態は不自然なのだ。

そして、コントロールできないものに目を奪われて今を、自分を見失い、こちらがコントロールするつもりが、いつの間にかコントロールされている。

 

結論としては、合う人とは合うし、合わない人とは合わない。そんなもんだと思う。

考え方や価値観は人それぞれで、どちらが良いも悪いもない。正しいわけでも間違っているわけでもない。自分とは違うもの、よくわからないものを、それはそれとして心を乱すことなく視界に置いておくことができる。それが最も安定した状態だ。

つまり、できる限りのことをしたら、それ以上の状況は見込めない。諦めではなく、執着を手放す。それが精神的自立の理想像だと思う。

そうした在り方が自然にできる人が、稀にいる。

自分の気持ちを大切にできて、同じように他人のあり方を尊重し、恐れや怒りに目を眩まさせれることなく、ただ在るようにある。それが一番自分も相手も安心できる。ありのままでいられる。最も不安定なようで最も安定している。私はそうでありたい。

 

嫌われても好かれても、私は私。

誰と一緒にいるのか、誰と離れたのか、誰に認められたか、誰に認められてないか。

これらは、私そのものには一切関係がない。それぞれ在りたいようにあればいい。

皆がそうなら、私たちはみな幸せなのだが、誰しも未来や過去を思う。想像すると不安だから、よくわからないものをわからないままにするのが恐ろしくて、レッテルを貼る。あるいは比べて下に位置づけたりする。

そうして分かったような気になる。安心したがる。

しかし、そうすることによりそのものをそのまま見ることができないでいるために、かえって現実とのギャップを感じて理解に苦しむことになる。

 

 

引用:『バガボンド』第7巻より

 

 

「我が剣は天地とひとつ」というのは、「『剣』とは一つの共通言語」だという意味なのだろう。

己の力や存在価値を証明するために、他人に振りまわすような小さいものではなく、この世の理を知り、他の宇宙(他人)と繋がるためのひとつのツールだという意味だと思う。だから、最終的には刀すら要らなくなるのか。

アサーティブや12ステップも似たようなもので、共通言語としてのツールであり、それを世界と繋がるための媒体として、己のなかに内包・同化することが、真に回復した姿なんだと思う。

すなわち、真の回復状態とは、息をするように、心臓が鼓動を打つように、自然に自分の中にある12ステップやアサーティブという「生き方のツール」に立ち返り、常に世界と向き合うことができる状態。私は以前に比べれば、その状態に近づきつつあるのだと思う。だから、基本的にそこまで他人に対して心を執着させることがなくなってきたんだと思う。

 

「小次郎 俺たちは 抱き締めるかわりに斬るんだな」

引用:『バガボンド』第20巻より

 

人間との関わりや摩擦はそれで、真剣に立ち合えば立ち合うほど、お互いを切るような痛みや血は避けられない。武士の立ち合いとなるといわゆる順縁ではなく逆縁のパターンだが、しかし共通言語を持った者同士の真剣で素直な関わりであり、その瞬間に最も繋がることができる。

プラスでもマイナスでも、真っすぐでなくては真に人と繋がることはできないのだと思う。そしてその繋がりに固執するのではなく、コントロールせずに流れのままに揺蕩うことができるかどうか、それが強さなのだ。

私たちはお互いに、本性は抜身の刀である。不用意に扱えば人を傷つける者同士だ。

『刀は刀であることをやめることはできない。』けれど、傷つけあうことを望むわけでは無い。

 

「道を極めたなら、刀は抜くまでもないもの。そう師に教わったよ。いかに鞘から抜かずにおくか。そのために我々は死にもの狂いで剣を振っとるのだ。(柳生石舟斎)」

引用:『バガボンド』第27巻より

 

 

我々が12ステップやアサーティブをやり続け、学び続けるのも、これが理由だと思う。

極めたなら、刀を抜かなくてもよくなる。それでいて、自然に在ることができる。

いかにありのままでありながら、自分を、他人を、無為に傷つけずに繋がることができるか。

そういう挑戦を諦めないために、わたしはこれからも学び続けていきたいと思う。

【共依存】世間というのは、君じゃないか

最近、特に世の中が好きではない。

不倫を叩いたり、飲酒運転を叩いたり、違法薬物所持を叩いたり。

『世間』とは、何様なのだろう。

 

堀木は、いよいよ得意そうに、

「世渡りの才能だけでは、いつかは、ボロが出るからな」

世渡りの才能。……自分には、ほんとうに苦笑の他はありませんでした。

自分に、世渡りの才能!

しかし、自分のように人間をおそれ、避け、ごまかしているのは、れいの俗諺の「さわらぬ神にたたりなし」とかいう怜悧狡猾の処生訓を遵奉しているのと、同じ形だ、という事になるのでしょうか。

ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。

~中略~

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

世間とは、いったい、何の事でしょう。

人間の複数でしょうか。

どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。

けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

汝《なんじ》は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣《あくらつ》、古狸《ふるだぬき》性、妖婆《ようば》性を知れ!

などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、

「冷汗《ひやあせ》、冷汗」

と言って笑っただけでした。

出典:『人間失格』太宰治 P43

 

 

「世間というのは、君じゃないか」

これはあまりにも有名な多くの人が知っているセリフだが、今、私が最も言いたいのはこのことだ。

この14文字に集約されている。

この大庭葉蔵の、表には出てこないが深く水底に揺蕩うような人間に対する恐れ・怒り・憎しみ・嘲り・淋しさは、よくわかる。

そういうものと一緒に連れ添ってきた人生だったように思う。

そしてそれは、この世で生きている限り、非常に逃れ難いものでもある。

 

例えば、ワイドショー。

素人のコメンテーターに何の根拠もないことをベラベラとしゃべらせ、街の人の声と言いながらカンペを出してしゃべらせた音声を集めて、あなたが泣いても謝っても病んだ状態から回復しようとしても「世間が許さない」と言う。

例えば、警察庁。

「サギ集団に一度加担すれば、あなたの人生はもう終わり。」と脅して、あなたが生きていることを「世間が許さない」と言う。

 

世間というのは、そういう「お前たち」だろう。

お前たちが許したくないだけだろう。

そしてちゃんと当事者のことを知らないくせに、訳知り顔で語るお前たちが好き勝手に石を投げるから、独りで寂しく苦しんで死んでいく命が後を絶たない。

もういいや、こんなごみ溜めのような場所なんじゃ、生きてたって仕方ないや。

そう思うのも無理はないと思う。

 

レオ・レオニの『スイミー 小さなかしこいさかなのはなし』は、小さな魚が集まって力を合わせることで、大きな魚の脅威に対抗するという素晴らしいストーリーだ。

 

 

だが、私は小さい頃、この絵本を読むたびに恐ろしさを感じてきた。

私はよく、虐められて独りだった。

大勢の人間が徒党を組んで、独りを虐めることで平和を保つことは、子供社会でもよくあることだった。

そんな私にとって「追い払われたほうの大きな魚」の気持ちのほうがしっくりきた。

小さい細々としたものが、大きなうねりとなって脅威に膨れ上がる。

そういう集団の持つ圧力や恐怖を目の当たりにしてきて、私はどうしても気持ちよくこの話を聞けなかった。

 

仲間を持てない私は生きていてはいけないのか?

独りぼっちの私は生きていてはいけないのか?

なんで群れるほうが偉いんだ。なんで群れるほうが正しいんだ。

人と仲良くしなくっちゃいけないのか?

人と仲良くなれない私は、生きていちゃダメなのか?

 

そう思った。

そんな話をお母さんに聞いてほしかったが、それどころではなかった。

私の母は。

 

私の母。

 

私の母は、こんな風だった。

いつも「ちあきのためだから」と言っていた。

あれもしてあげた

これもしてあげた

お母さんはお母さんの人生を犠牲にして尽くした

だからお母さんを愛して当然よね

だからお母さんを一番大事にして当然よね

お母さんを幸せにして当然よね

なのになんでそうしてくれないの?

 

これは通訳すると

「あんなに欲しがっている(ように母親からは見えた)ものを私が与えてあげたのに、なんで感謝しないの?なんで私の思い通りにならないの?」

と言っていることに、数十年経って気づいた。

他人に対して受動的に立ち回り、譲れない部分で自分が返してほしいと思ってきた期待を裏切られそうになったり、コントロールしたい将来像の方向性に反した動きをしたり思いを語ったりすると、母は態度が豹変して、私を責め・悲しみで攻撃した。

母のような人の胸の内は、これだ。

「いいよいいよ、やってあげるよ」と相手に譲っているようで、実はこっそり自分の「望み」を無理やり貸付けようとする。

善意という貸付金を相手にわからないように勝手に上乗せして、やがて限度額がくると我慢の限界に達して、ものすごい剣幕で「贖罪としての善意」の返済を迫る。

まるで闇金融のようだ。

 

望みどおりにならなさそうだと感じ取ると、悔い改めろと私に詰め寄り、思い通りの方向に他人をシフトさせよう、思い通りにコントロールしようとあの手この手で奮戦する。

それにより、子供の私は最終的に謝らざるを得なくなり、意思を曲げて従ったりする。

母親は子供(私)に対する影響力を確認できる。

幸せの青い鳥は、まだかごの中で飼い殺しにできる、と胸を撫で下ろす。

子供に尽くすフリをしていれば、直視するのが不安な自分のすっからかんの人生を見ないで済む。精神安定剤になる。

 

私は、母親の、あんたの精神安定剤じゃない。

幸せの青い鳥でもない。

私は、いっこの人間だ。

私にだって意思があるし、眩い輝きを放つ願いも夢も、あったはずなんだ。

それを「あなたのため」という言葉で飾り立てて、本当の私を、イキイキと笑う本来の私を、やんわりと真綿で徐々に絞め殺していったのは、あなただ。

よくも私を殺したな。

あんなに健気で純粋に好意を持っていた私を、よくも殺したな。

おかげで私のインナーチャイルドは、いくら話しかけても、もう息をしていない。

 

全部、自分のためじゃないか。

自分を安心させるため。

自分が楽をするため。

自分が責められる側に回らないため。

だから、子供に形の上では決めさせて、子供に譲って与えたふりをして結果を盗む。

 

それは、優しさじゃない。

卑怯さであり残酷さだ。

 

自分の人生に、気持ちに、行動の結果に、全面的に責任を取ることを恐れるが故に、子供の人生をマリオネットのように操って遊んでいる。そのほうが楽だから。

自分の保身しか考えない残酷な心だ。

私は、人形じゃない。

 

 

お母さん、あなたの行動の責任は、あなたにしか取れないんです。

お母さん、私は肩代わりしようと一生懸命になって、でももうそんな役割はしたくないんです。

私はお母さんが好きだったけど、お母さんは私が好きなんじゃなくて、「お母さんに都合のいい私」が好きだったんだね。

私は、それがいつも悲しくて、葉蔵のように道化を演じる子供になっていったんだよ。

 

いつまで私を縛るつもりだ。

もう30年以上経った。いつまで人形遊びをしているつもりだ。

あなたは、しっかりあなたを生きてください。

 

そう思う。

 

随分と話がそれた気がする。

が、そう主題は変わっていないような気もする。

 

ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。

 

結局のところ、人間関係と言うのは、徹頭徹尾これなのだ。

近いようでいてものすごく遠い。

一番近いはずの母が、最も遠いところで私を見ていなかったように。

生みの親がそんなふうなのだ。誰ができるのだろう?と思うことは不自然だろうか。

あるのかないのかもわからない、人と人とのつながりという「幻想」を信仰できるかどうか。

確かなのは、己の愛のかたちであり、己がどう感じたか、どう選び取るかだけだと思う。

 

確かにある、私が他人に抱く愛。

それを他人が抱いているかは、検証しようがない。

心は可視化できないし、確かめようがない。

 

私が思う他人が、世の中を歩いているのだ。

世間とは、わたしでもある。

私が信じるように、世界は見えていて、すなわち世界を変えるには、私が信じるしかない。

 

中村光先生の『荒川アンダー ザ ブリッジ』の主人公「市ノ宮行(リクルート)」とものすごく他人の恩についての考え方が似ている。

 

命の恩人っていうのはつまり

これから先

俺がケーキを食ってうまいと感じてもこの女のおかげ

カンパニーを継いで社長イスに座ってもこの女のおかげ

俺のこれからの人生全部この女のおかげ

重い!!重いぞ命の恩人ー!!!

市ノ宮行(リクルート)

 

 

恩とは、借りだと、ずっと考えてきた。

そう思うのは、最近分かったのだが、『私が善意の貸し付けをしているから』だ。

恩を、好意を、貸し付けしている。つまり、母親と同じことをやっている。

ああ・・・

だから母親のそういうコントロールを思い出すと、頭を掻きむしりたくなるほどイライラするのだ。それは、他ならぬ自分の恥部であり、暗部だからだ。

 

他人の善意を受けるとき、借りを作るように感じるのは、そういうことか。

全部、自分。

自分が貧しく乏しく、そんなだから、世界もそう見えるのだ。

私が世界を寂しくくだらなくしている。

 

「世間というのは、君じゃないか」

 

そうさ、私だ。

この、みすぼらしい私の精神の姿だよ。

世間というのは、鏡だったのだ。

一生懸命やってきて、少しはましになったと思った。

それはどうやら、思い過ごしで買いかぶりだったようだ。

 

もう何もかも燃えつきてしまえばいい、と思うところは、酒を飲んでいたころと何一つ変わらないんだから。

世界の見え方はいまだ変わらない。

【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ;ステップ1

1、私は、◯◯することへのこだわりから離れられず、この執着のために日々の生活がままならなくなっていることを認めた。

これは、〈認知のステップ〉で、一種の「敗北宣言」です。とにかく自分は「困っている」。いろいろやってはみたがどうにもならず、もうお手上げ状態である…と認めることから、このステップは始まります。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P208より引用

 

 

 

人に認められること=承認欲求

「私は、人に認められること=承認欲求へのこだわりから離れられず、この執着のために日々の生活がままならなくなっていることを認めた。」

私は、人に絶対に負けたくないし、認められたい、評価されたいと強く思う傾向がある。

そのため、攻撃的な態度をとったり、人との関係に軋轢を生んで孤立したりする。

今までそうした自分の問題で、人を遠ざけてきたように思う。

私の問題だった。人が冷たいわけでも、私を阻害しているわけでもなく、私が人を遠ざけたのだと思う。

そして、私はそのことで苦労してきた。寂しさを感じてきた。恨みや憎しみを己の中に育ててきた。

生き方が、歪んでいると思う。

 

たしかに私はASDとして当初社会から受け入れてもらえなかったことは事実だと思う。

虐められ孤立させられたことで人への不信感が膨張していったことは、確かに外的要因だ。これは当時「変えられないもの」だったと思う。

だからこそ今、この腐りきった社会に少しでもいい影響を与えていきたいというモチベーションになっているというのもある。

しかしながら、今フラットに存在を否定されることなく対話できる人々に囲まれて、はたしてそのまま恨みや憎しみを引きずる必要があるだろうか。

今、このライフスキルは必要ではない。

昔のように疑心暗鬼になって、意味もなく言葉の裏を読んだり、悪意を勘ぐったりしなくてよいのに、私が、そうして生き方のスタイルを変えていないから、私の周囲の見え方も変わらない。

私の問題だというのは、そういうことだ。

 

なぜ認められたいのか?

認められたい、負けたくない。

その根本はなんなのか?

おそらく由来は、機能不全家庭での経験にある。

私は結果を出さないと認めてもらえない、愛してもらえないという不安とともに幼少期を過ごしたように思う。

スポーツで、学業で、周囲の子よりも優れていることが、親を喜ばせ悲しませないための唯一の方法のように感じていた。

親を悲しませないために、私は行動を選び、考え方を選び、人生を選んでしまった。

その生き方はまるで操り人形のようで、生きている実感がまるでなかった。誰かの他の人生を生きているようで、成功しても嬉しくなかった。ただただ失敗だけが恐ろしかった。

その苦しさは今も私の中に大きな爪痕を残している。

比較されることは、生きるか死ぬかのゼロサムゲームのように感じる。

だから、例えば対戦ゲームなどは全然楽しめない。

負けることは許されない。負けている状況はあってはならない。だから、簡単に対戦相手に勝てないなら、対戦相手をゲームに参加できなくしよう、排除しなければという焦燥感にかられる。たとえばPCを攻撃してサインインできなくしたり、直接暴力を加えて別の形で報復したりしようと考える。

抱えきれない怒りでコントローラーは壊すし、感情を全く制御できなくなる。

そのことを、私はとても恐れている。

承認欲求を見て見ぬ振りをしてみようとしたこともある。

私はそんなものは欲しいと思っていない、と一生懸命自己洗脳しようと試みたり、大した価値がないという証拠を集めようとしたり、さまざまなそうした抵抗は、大きすぎる感情の揺らぎの中に飲み込まれて、ことごとく失敗してきた。

見ないようにしようとすればするほど、それは大きく重くなって背後から追いかけてくるのだった。

「いろいろやってはみたがどうにもならず、もうお手上げ状態である」とあるが、まさにその通りである。

結局私は、人に褒められたいし、認められたいし、人より優れていたいのだ。

それはまぎれもない本当の気持ちで、それに蓋をせずに認め、その欲求に振り回されて問題が起きていて、それを自分ではどうすることもできなかったことを認めるべきだ。

それこそがスタートなのだと思う。

勝っていること。

認めてもらっていること。

そういう他者評価でしか、自分の存在価値を自認できていない。

なぜか?

自分で自分を認められていないから。自己肯定感が低いから。「自分が認める自分」を信じていないからだ。

自分の価値観やこれでよいという人生の指針を本当に信じることができれば、それをこそ人生の柱に据えて、堂々と生きていくことができるのである。

そのためには、自己効力感を持ってさまざまなチャレンジをして、成功も失敗も味わう経験を積み重ねることで、自分は乗り越えていくことができるという真実を体得していく必要がある。

それを幼少期に過干渉な両親から取り上げられて、健全な自我を育めなかったことが、この自信のなさの根源である。

しかし、今、親から離れて自立して生きている。それだけで私は私を褒めてあげてもいいのに、それを褒められずに自分にも他人にも厳しくあたり、完璧を求めて責め立てている。それは不健康なやり方を必要がないのにまだ続けているということだ。

過去は変えられない。未来はわからない。

しかし、今なら影響を及ぼすことができる。今の生き方なら自分で選ぶことができる。

 

 

まとめ;「もう自分には手に負えない」と認める

アルコール依存症でもそうだったが、「私は酒に対して無力であり、自分にはどうにもできないこと」を認めることから、問題に取り組む前提が整う。

無力であると認めることは、コントロールできないと認めることであり、認めがたいものである。

なぜなら、風に舞う枯れ葉のように、とても弱い立場にたつことを許すことになるように感じるからだろう。

でも、私は承認欲求に悩まされ、それに全く太刀打ちできなかったことを認めざるを得ない。

本気でこのコントロールを手放すには、まずこの立ち位置に立たなくてはならない。

続けてステップを踏んで己から逃げずに見つめ直していきたい。

 

【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ:Prologue

他人をコントロールし、自分をコントロールし、自分の運命をコントロールしようと努力しつづけた人間は、必ずその限界にぶちあたります。

(中略)

嗜癖者は、「意志の力」を信じています。自分の困った事態を、自分の力でなんとか治せると思っています。けれども、意志の力を信仰すればするほど、自分でコントロールできない部分が多くなっていき、自分の中から自分への反乱が始まります。川の流れを、あちこちせきとめて、思い通りにコントロールしようとしても、ひと雨降ったら氾濫してしまうようなものです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P201〜203より引用

 

 

パワーゲームを生きてきた私たち

パワーゲームとは、支配する・支配されるというコントロールの関係性のことだ。

私たちは無意識のうちに、親子関係に始まり人間関係のパワーゲームに否応なく巻き込まれてきた。

人間関係のパワーゲームは、お互いのコントロール合戦である。

他人の思い通りにしなかれば生きていけないと感じ、他人のいうまま・されるままになるとき、人間は自分の無力さを感じ、自尊心を失います。

そうはなりたくないので、逆に相手を支配し、自分の思うままにコントロールしようとします。誰かをコントロールできている間は、自分の無力を感じずにすむからです。親の思うままにコントロールされていた無力な自分を忘れることができ、自分が他人をコントロールできるほどに力をつけたと感じることができるからです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P125より引用

 

つまり、自分の無力さをみたくない、そんな怖いことは認めたくないので、他人や自分をコントロールしたいのだ。

どうせなら、コントロールされるよりコントロールする側に回ろうとする。

この上下関係のコントロール合戦に参戦している限り、どちら側に属していても苦しいままだ。

なぜなら、冒頭にあるように、他人はおろか自分すらコントロールできないのが、この世の理だからだ。

意志の力=理性を崇拝する『理性教』の信者として懸命にコントロールできるようにあれやこれやと試行錯誤をしてきただろう。私たちはその試行錯誤について飽き飽きするほど繰り返しやってきたはずだ。

それを突き詰めれば突き詰めるほど、極めようとした人ほど悟る。そんなことは土台無理な話だったのだ、という真実に気づける。そして気づいて、愕然とする。

 

子供の世界に不法侵入する親

私を育てた両親や、周囲にいた大人たちは、その真実にたどり着けずにいた人たちだった。

自分や他人をコントロールできる、という信仰にすがり、ついぞその邪教を捨てられなかった悲しい人たちだったとも言える。

子供は親に見捨てられては生きていけないので、簡単に支配できる。

そして、「あなたのため」という都合のいい言葉で自分の世間体を守りながら子供の人生をコントロールすることができる。

親には、それができる。そして、それは親が最もしてはならないことだ。

子供の人生は、親の生き直しのためにあるのではない。

その子の人生は、その子が思い描いた人生を描き出すためにある、その子専用のキャンバスだ。

それなのに、親は、あれやこれやと転ばぬ先の杖を無理やり持たせる。「今の時代英語はしておかないと後悔するから」「ある程度の学歴がないと将来苦労するから」「間違った道にいかないようにしっかり躾けないと」などと、自分の価値観を押し付けて、勝手に他人のキャンバスに色を塗り始めてしまう。

そういう横からの妨害を受けて、子供は人生観を歪ませていく。

「こうでなければならない」「お母さんのいうとおりにしなくてはならない」で何も自分では描き出すことができずに、親が勝手にペインティングしていく様子を眺めるほかない。

なぜか?

そうでないと愛してもらえないと思うからだ。

本当はいやだけれど、そうすることが愛だと信じたい。私のためにやってくれているはずだ、なぜなら私は両親に愛されているはずなのだから、と必死に思おうとする。

親は「ほら、あなたのためにやってあげたのよ」「こんなに綺麗な絵になって幸せでしょ」という。

子供は、それが愛情だと信じたいから、感謝しなくてはならないと思い、引きつった作り笑いで必死に「ありがとう、お母さん」という。

そんなのが、昨今の母と子の麗しき地獄絵図であり、いわゆる「幸せな一般家庭」で行われている精神的虐待である。

 

眼を醒すべき親のひとりとして

親が、寂しいからだ。

自分が必要とされたい。自分を絶対的に必要とする存在が欲しかったから、子供をコントロールして自分が安心するために都合よく利用したのだ。

「あなたのためだから」という建前を盾にして、子供の人生を勝手に無茶苦茶にした。

それは、親が、親自身の人生を責任を持って生きていないからだ。

 

 

いい加減、私たちは降りなくてはならない。このパワーゲームという無限螺旋を。

この不毛なマウント合戦をやっている限り、負の世代連鎖は止まらないのだから。

 

ここまでの話を読んで、以下のような感想を持った人はいないだろうか。

「でもそれが親の役目でしょ?」「それが親の愛情というものだ」「子供は判断がつかないんだから親が導いてあげるのが当然でしょ」

 

これこそが、まさしく『否認』している人の反応である。

何を否認しているかというと、自分がしていることが「自分のためである」という本人にとっては認めがたい、耳が痛い真実を、否認している。

あなたがしたいからしている。

それは、子供のためではない。あなたのためだ。あなたの寂しさを埋めるためだ。あなたの人生の寂しさを埋めるために、子供を利用しているのと同じなのだ。

親が親として最もするべきことは、2つだ。

「子供にとって掛け値無しに存在を肯定してくれる安全基地であること」と「自分自身をハッピーにすること」つまり、自分自身のセルフケアを行い、人生を謳歌していることだ。

人生の先輩として、この世で生きていくことは素晴らしい楽しいことなんだと、背中で語ることは、最も手本となる大人の姿だ。

「私はあなたが残す結果がどんな結果だろうと、どんなに失敗しようと、あなたがあなたである限り愛しているわ」

こういってくれる安全基地があるからこそ、人は冒険ができる。親元を巣立って外の世界に飛び込むことができる。子供がいつまでも家や家族から離れられず巣立っていかないのは、その子にとって家庭が安全基地ではないからだ。

 

「私はあなたを尊敬しているしいつも愛している。でも、私は私の人生を楽しむことで、手一杯なの。あなたはあなたが生きたい人生を自分で選んで楽しんで頂戴」

そういう、親が精一杯誠実に人生を生きている姿を見て、子供は自分の人生を選び取っていく。

なりたい自分を、親に褒められるかどうか、社会的に褒められるかどうか、などというものと関係なく決めて責任を持つことができる。

 

そうなるために、私は私のために、これから『パワーゲームを降りるための10のステップ』を進めていきたいと思う。

興味がある人は、私と一緒にやってみてほしいと思う。

【共依存】組織における最適化と個としての最適化の違い

会社こそ、おおかたの日本の男たちにとっての母なのです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P93より引用

 

私は長らくサラリーマンである。

長く組織の人間として働いてきて痛感するのは、冒頭の斎藤学先生の言葉がまさにその通りだということだ。「自己犠牲」を美徳とする日本人の心根にびっしりとこびりついて離れない「共依存」という寄生虫。

この寄生虫は、心根に宿り、自我を喰らって成長する。

そして、自我を喰いつくされ空っぽになった宿主のなかにどっかりと胡坐をかく。

そういう恐ろしさと気持ちの悪さを、私は組織で働いていると感じることがある。

 

組織としての最適化

整理しよう。

組織で働くうえで歯車であり続けるために最も必要なものは、何か?

それは「忠誠心」である。

私心を滅して公に奉ずる、滅私奉公の精神で命令を遵守し、指示したことを的確にこなすことが「いい歯車」として重宝されるために重要なことだ。

そのためには、私心は邪魔でしかない。

メンバーは「組織の目的」を達成するために、個の目的よりも組織の目的を優先する事を良しとされる文化に徐々に染まっていく。

やがて、大きな生命体としての組織の一細胞として、個としての自己実現を果たすことなく、老朽化して排泄される。

 

個体として戦えないからこそ、私たちは組織をつくって共通の強大な敵に対抗してきた。

戦争で私たち日本人が「忠誠心」という狂気を発揮し世界を震撼させたことは、記憶に新しい。日本は、その類い稀な組織力・同調圧力で戦争を戦ってきた。

『神風特別攻撃隊』が特に象徴していると思う。

海外から「狂信的な自爆戦術」と恐れられた、通称『kamikaze』。

エチルアルコール(酒)を一発キメてさせてから、片道分の燃料しか積まれていない戦闘機に乗せ、「御国の為」に敵の戦艦に突っ込ませる。それをあくまでも自発的に促し、やり遂げた兵士の死を美談として語り、国のために死んだ勇敢な愛国者だと褒め称えて、他の者にも「国のために死ぬことが良いこと」だという圧力をかけていく。

そうやって組織の為ならば自分の命すら捧げる、という狂った献身を奨励した。

 

その狂気の正体は何なのだろうか。

 

自分の考えなど持たないことが推奨されているのですから「個人の責任」という感覚は育ちようがありません。お母さんの言うとおりにやってきた子供と同じに、会社のいうとおりに生きていく、会社という「家族」にとっての「よい子」ができあがります。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P94より引用

 

 

 

自分なりの良心や正義より、「世の中はそういうもの」と悟ったふうに「個人の責任」を見て見ぬふりをして、誰かの言うとおりに生きていくことを、家庭でも会社でも奨励されるのが、日本の社会的道徳観だ。

そして、狂気の正体は、まさにこの社会的道徳観である。

会社に勤めている「自分は成功者だ」と信じて疑わない多くの人が、気づいていない。

自分たちが、組織として最適な行動を選ぶように飼いならされて、限界まで「個性」という筋肉をそぎ落とされている。その結果、彼らは自分ではまだわかっていないが、もう自分の足で立てないほどに筋力を失っている。

だから、組織に見限られるのが怖いし、そうなっては生きていけないから、より組織に貢献する「良い子」であろうと努力する。「良い歯車」だと判断されるための条件は、会社にとっての「良い子」であることだから。

そうして努力すればするほど、どんどん足はやせ衰えていく。

 

個としての最適化

そのように、組織の規律や世間や常識などの「自分の本心以外の何か」に隷属することが美徳とされる共同体での在り方とは対極に位置するのが、個としての最適化である。

個としての幸せの実現には、自分の感情や欲望に素直であることが前提条件だ。

「自分はどうありたいのかを最優先する」

「嫌なことを嫌という」

「ほしいものを欲しいという」

そしてそれらは流れる水のように流動的で、コントロールできないし、とらえどころがない。

そういう在り方そのままを受け容れて、社会・他人との境界線で押し合いへし合いしながら生きていく。

己の良心と正義に則り、己が信じる最良の実現に向かってうねりながら熱を迸らせる道のりこそ、手づかみ感のある幸せの具体的なかたちなのだ。

 

組織としての最適化とは、まるで逆なのである。

組織からすると、水のように流動的でコントロールできないのは困る。手足が勝手に動いては、求める体全体のバランスが保てないし、目的が達成できないからだ。

つまり、組織は、個が幸せを求めて動いてもらっては困るのである。

 

だから、「共依存」させることにより、支配してコントロール下に置こうとする。

男たちにとっての母、というのはそういう意味合いだ。

言うとおりにやっていれば、褒めてくれて、大事にしてくれて、責任から守ってくれる。

組織や共同体を優先することを、素晴らしいことだ、私たちは間違っていないんだ、と盲目的に信じて疑わないように、繰り返し繰り返し刷り込まれてきたのである。

例えば学校で。

例えば家庭で。

今まで歩んできた社会生活そのものが、組織の人間として最適の部品になることを奨励していて、共依存になるための英才教育だったと考えられる。

だからなんとなく皆が、この美しいと教えられてきたこの社会に対して、一種の気持ち悪さがぬぐえないのである。

 

勤め人が病んでいく理由

この「組織における最適化」と「個としての最適化」が拮抗しているので、私たちは悩み苦しんでいるのではないだろうか。

社会に否応なく育てさせられた共依存的な性質から、組織に奉じ、家族に奉じ、それで間違いないはずと最適化をすればするほど、個としての幸せは失われていく。

自分ではなく皆を優先させられるようになった自分は「大人になった」「成長した」と考えているし、皆そういって褒めてくれるけれども、その実自分の足で立っているとは言い難いということがなんとなくわかっているから、常に不安がつきまとう。

違和感に気づいて「個としての最適化」を進めようとしても、今度は社会そのもの「世間」が邪魔をする。

「いい大人になって聞き分けのないことを言うな」

「家族がいるのに何を勝手なことを」

「まともに育っていたらそんなことをするなんてありえない」

と口々に罵る。

共依存真っ只中の社会の構成員たちは、独りだけ抜け駆けして個の最適化にまい進する裏切り者をみると、許せないからだ。

お気づきの通り、「世間」というものの声は、共依存のそれだ。

一言でいえば「私は我慢してるのに、お前だけ我慢しないのは許せない」だ。

組織としての最適化を「大人の義務」「大人とはこういうもの」という倫理観や道徳観で正当化してきた自分が間違っている、本当は「個の最適化」が望みだったのだ、と知ってしまったら、頼りない自分のやせ細った足に向き合わなくてはいけないから、必死にそれを見ないために、真実に気づいた他人やきっかけをつかんだ他人を攻撃する。

そうやって、足の引っ張り合いをして、なんとかこの共同体を維持しなくてはならないという苦しみに対する怨嗟の声が「世間の声」だ。

 

では、私たちはどう生きるべきか?

そんなこと言ったって、国や家族や組織が崩壊すれば困るではないか。

結局、生きていけないではないか。

そう思うひともいるだろう。

 

それも確かに真実で、私たちは弱いからこそ共同体を創り、自然の脅威や命を狙う者たちから身を護ってきた。

社会の構成員としてのアイデンティティをなかったことにはできないし、一部保有していなくては、私たちが完全なる個として命を繋いでいくのは難しいかもしれない。

 

結局最も重要なのは、「あなたはどう生きたいか?」ということだ。

共依存しているのが居心地がいいし、子供が苦しもうがパートナーが苦しもうが、私はここから苦しい思いをしてまで動きたくない、というのであれば、それがあなたの生きたい姿のはずだ。

でも、本当にそうだろうか?

今まで本当に居心地がよかっただろうか?

毎日苦しかったのではないだろうか?

 

それを変えることは、自分にしかできない。

自分の感情や欲望は、自分しか知らないんだから。

あなたのことは、あなたしか知らない。

【恋物語】最終回の貝木さんマジカッコイイ

私にあなたの何がわかるのか?と問われれば、私はこの貝木泥舟の言葉を返したい。

色々調べた。だが、そうだ。何も知らない。

重要なことは、何も知らない。

お前のことは、お前しか知らないんだから。

だからお前のことは、お前しか大切にできないんだぜ。

そしてお前の夢も、お前にしか叶えられない。

 

組織としての最適化には、様々な理論がある。なぜならそれが「正論」だからだ。だからHowtoは世の中にいくらでも転がっている。

誰もが知っている。どうすればいいのか、何が正解なのか。それ自体は、実はとても簡単なことだ。

しかし、個としての最適化を求めることは、自分にしかできないし、答えは自分のなかにしかない。攻略方法もないし、王道もない。誰かに聞いても、その内容を自分の脳みそで考えなくては、答えには繋がらない。

 

どちらかだけの最適化だけを考えるのではなく、バランスなのだと思う。

組織に属していないと生きていけないなら、ある程度のラインを定めて従順な振りをしておいて、組織を利用するくらいの気持ちでいればいい。

相手は利用しようと思って私たちに関わっているのだから、逆に使って悪いことはない。

私は、優先すべきは、本来「個としての最適化」だと思う。

個人として人生の目的達成のために、ある程度社会を利用して、自己実現していく。

それこそが、イライラしたり誰かのせいにしたり言い訳したりしないで、堂々と人生を謳歌するための秘訣であるように思う。

【共依存】コントロールを手放せない私たち

最近困っていることがある。

会社や仕事に対して、違和感がぬぐえなくなってきた。

それが何なのか、書きながら考察してみたい。

 

コントロールが当たり前の資本主義経済社会の狂気

アサーティブコミュニケーションや12ステップ・プログラムを学んでいる。

これらの根幹は、自分と同じように相手を尊重するという考え方で構築されている。

相手をコントロールしようとせず、相手が自己決定した方向性や決断を尊重して委ねる。

私は最もこのような姿勢で他人から接してほしいし、私自身他人と接していきたいと思うようになった。

 

そしてそれは、今この資本主義社会で企業が展開するマーケティング戦略とは、ベクトルがまったく正反対のアプローチだ、ということに気づいてきた。

 

企業が経済的に成長するためには、マーケティング戦略は重要なファクターである。資本主義的な考え方としては文句なしの正義である。

「何を誰にどう売れば、最も多く売ることができるのか?」

これはとても重要な考え方で、私は今まで売上を最大化できるはずのこの法則を理解して自由自在に操れることが、この世界で絶対的に正しいことだと思ってきた。

しかし「お金を稼ぐ」という点において重要なことであるだけで、『生きる上で最も重要なこと』ではなかった、ということに気づいた。

そして、他人に介在する時点で、「変えられないもの」であり、コントロールが不可能なものをコントロールしようとする根本的に矛盾した考え方だということがわかってしまった。

 

本人の意思決定を不自然に捻じ曲げることを目的とした行動戦略、それがマーケティング戦略なのだ。つまりここからして、土台無理なことをしようとしているのである。

そもそも、相手の欲求を誘導してそこまで要らないものを買わせようとすることは、イネイブリングに他ならない。そして、顧客だけでなく社員をイネイブリングして、コントロールしようとするのが企業の鉄板だ。

例えば社員教育だ。与える情報を制限し、繰り返し特定のメッセージを刷り込んで洗脳し、会社にとって最も都合がいい動きをしてくれるようにコントロールしようとして行われるのが社員教育だ。

国が行う義務教育と全く同じ考え方である。何も考えず先生が言うことを聞く奴隷を量産するための教育。哀しいかな、それがこの日本で行われる教育のスタンダードになっている。教育者である私の父と母が、それはもう立派なイネイブラーだったことからも確定的に明らかである。(笑)

 

我々は、そういう「コントロール」を目的とした接し方に、幼少期からどっぷり漬かって生きている。もはや社会が人々をイネイブリングするうねりを創っている。

恐ろしいのは、多くの人がそのことに無自覚であるということだ。

自分ですべて選択したような気持ちで生きている。しかし、その実様々なものにコントロールされて、行動を捻じ曲げられて、考え方や思想すら、誰かに操作されている。

我々は見えないところからあらゆるひとにイネイブリングされコントロールされて育ってきた。だから自分も他人を「コントロールできる」と信じられる。信じてしまう。

だから「コントロールすること」に違和感を抱けないのだ。

みんな、こんな気持ちを抱えてはいないだろうか。

何となく満足できなかったり、自分でやったはずなのに、どこか喜びも悲しみも乏しくて、行動から確かな実感が何も得られない。

 

世の中は何となく不幸で、満たされない人であふれかえっている。それは、コントロールを手放せていないからだ。

自分の認知の歪みの根本に気づけないまま、見て見ぬふりをするために何か他のものや他の人に過干渉して、コントロールし返すことで留飲を下げようとしているのだ。

コントロールに対する認知の歪みの悪循環。

これこそが、この世界の「狂気」の正体である。

 

否認を認めてコントロールの連鎖から抜け出すこと

この狂気の連鎖から抜け出し、自分の人生を生きるためには、どうするべきなのだろうか。

それは、ひとつだけだ。

「コントロールを手放す」ことである。

 

・仕事で結果を出さなくてはいけない

・社会的に認められなくてはならない

・うまく部下をコントロールしなくてはならない

・子供を一人前に育てなくてはならない

・子供が一流の人間になれるように育てなければならない

 

これらの「~でなければならない」は、資本主義経済的には必要だと教えられ、実際にすこしは必要なのかもしれない。

しかし本当は、根本的には必要ない。実はこれらは『やらなくてもよいこと』に該当するのだ。

 

そんなわけないだろう?生きていかなくてはいけないし、お金を稼がなくては食べていけないんだから?!家族だって養わなくてはならないんだ!!だから私は我慢してがんばらなきゃいけないんだ!!

 

そういう声が聞こえてくるが、はたしてそれは本当にそうだろうか。

確かにこの資本主義経済社会では、社会生活を営むために貨幣が必要である。

特に、子どもを進学させたり食べさせたり、何より自分が食っていくためには、一定程度のお金が必要だ。

自分の限界以上にやりたくもない仕事に就いて働いて「我慢して頑張らなきゃいけない」なら、逆に考えてみるとしよう。

 

それらは、そもそも『やりたくなかったこと』ではないのか?

 

「いや、そうではない。」と答えるだろう。

それはそうだ。配偶者とは家族になりたくてなったし、子供と暮らしたくて生むことを決めたのではなかったか。そうして、「やりたいと思って自分で決めたこと」をやっているはずだ。

 

それが「我慢してがんばらなきゃいけない」ものになったのはなぜだろう?

やりたいことでないならば、遅くはない。やめてしまってもいい。

自分で決めたことが間違っていた、本当はやりたいことではなかった、と認めてもいい。

だってそうなんだから。

倫理的に許されない?許されなくても、現にそう思っているから、「我慢してがんばらなきゃいけない」と思っているのは、あきらかだ。

世間的に許されない?世間に許されなければ、人は生きていてはいけないのだろうか?そんなことはない。世間は別に命の補償をしてくれるわけではない。脅威ではあるが、許しを請う相手ではない。

 

実は、結婚や子育てすら、『本当は私はしたくて始めたわけではなかったのかもしれない』という本音を見るのが怖いのではないかしら。

「世間体を気にしているから」

「親が結婚しろと言ってうるさいから」

「子供ができてしまったから」

そういうもっともらしい建前で、「本当は私は○○したくなかった」という本音を覆い隠して、楽な方向に逃げてきたのではないかしら。

自分の本音を見ないで済む、深い傷を負う覚悟が必要ない方向に、逃げてきたのではなかったろうか。

 

そんな卑怯で臆病な自分の本当の姿を見るのは、誰でも怖い。

当たり前のことだ。

 

 

まとめ:すなおに生きること

生きていたい。そして願わくば幸せになりたい。

 

ただそれだけだったはずだ。

本当は、それだけだったはず。

それをいろいろな「最もらしい理由」の鎧を身にまとって自分の傷つきやすい心を守ろうとするうちに、重ね過ぎた鎧の重量でもう歩けなくなったのだ。

 

別に今ある全てを偽りだから投げ出してしまえ、と言っているわけではない。

・自分を犠牲にしてまで誰かのために何かをしなくてもいい

・自分のことをもっと大事にしてもいい

・誰に対してであっても、嫌なことは嫌だと言ってもいい

・つらくてどうしようもないときはやめてしまってもいい

・お金が思うように稼げなくてもいい

・子供や配偶者の人生の責任を、他人の私が背負わなくてもいい

こういう「~でもいい」を増やすだけでいい。

「~でなければならない」の鎧をひとつひとつ外して手放せばいい。

 

そして鎧の重さに苦しんでいる人が八つ当たりしてきたときには、それはその人の課題だから、あなたが一緒になって苦しまなくてもいい。

その課題は、その人が解決するものだ。一緒に背負わなくてもいい。

子どもの将来も、配偶者の問題も、本人がきちんと解決する力をもともと持っている。それをわざわざみくびってまで、手出ししなくてもいい。

 

そうしてすっかり素直になった気持ちで、自分の心だけを見つめてみよう。

実は、あなたがやらなければならないことは、実はたったひとつなのだということが、あなたにもわかるはず。

『あなたが心からやりたいと思うこと』。

本当にこれだけなのだということに気づくはず。

 

私が仕事に対してぬぐえない違和感の正体はそれだった。

みんな、素直に話をしていない。素直に話ができない。

誰かが、誰かをコントロールしなければとあくせくして、他人のほうばかりを見ている。

誰も自分自身をちゃんと見ていない。

世の中の多くの人は、そんな状態だ。ことに「仕事」という枠組みで視野が固定されているひとは。他ならぬ私が、いつも今までそうだったように。

会話がすれ違い、議論が常にかみ合わないのは、彼らが「コントロールすること」「~でなければならない」にとらわれて自分のなかの事実に到達できていないので、彼ら自身ですら本心でどう思っているか、わからないからだ。

本人がわからないのに私がわかるはずもないし、本人が見つめ直さない限り、永久に満たされるはずもない。

私は自分が信じたように仕事をして、その結果を受け止めて、生きていくためにお金を一定程度稼ぐことと、人生を誠実に正直に生きることとを、区別して日々を過ごしていきたい。

【共依存】シリーズ「わたしの共依存」②妻

私は、妻と出会って付き合おうと考えた当時、共依存的な関わり方をしていたと思う。

 

救えるという思い上がり

妻は、私と出会ったとき、アルバイトをして実家で暮らしていた。

家は全体的に裕福とは言えず、仕事も昼間から日付が変わるまで立ち仕事で、かなり厳しい労働環境だった。

元カレと一緒に九州まで行ったが、モラハラに耐えかねて別れて帰ってきたばかりだった。

 

私は、出会ったとき、妻の率直で屈託のないところに惹かれた。直感的に「この人は嘘をつかない」と思った。「この人ならちゃんと話を聞いてちゃんと返してくれる」と期待した。長い付き合いのなかでそれは紛れもない事実だったと判明したし、今も変わらない。

 

しかし、それだけでなく、私は卑しくも、この人なら『救える』のではないか、と内心舌なめずりをしていた。

一緒にいることで金銭的なメリットが提供できるから、『好きでいてもらえる』と思った。

金銭的に私のほうが稼いでいたから、よりよい生活をさせてあげることができると思った。

仕事をしなくても生活できる環境を与えられれば『感謝してもらえる』と思った。

何かを差し出せるから、交換条件として好いてもらえる、という打算を働かせていた。

 

つまり、好条件だと思った。

私なんかでも、わたしみたいな欠陥品でも、必要としてくれる人だと思った。

 

それはとても失礼な考え方だったと思う。

 

相手をリスペクトして好意を寄せるのではなく、コントロールできそうだからという条件を好きになるというのは、相手からしたら「ふざけんなよ」と憤って当たり前だと思う。

かわいそうだから助けてあげよう?

お互い喜ぶじゃないか、これは良いことだろう?

「おいお前、嘘をつくなよ」と自分の胸ぐらを掴んで吊り上げたい。

「承認を求めようとすること」「見捨てられ不安」由来の満たされなさ。

その満たされなさから「世話焼き」をして自分の問題から目を背けただけだ。

その人そのものの生きる力や人間性を本当の意味で尊重していない、下にみている。

そんな卑しい自分の姿を発見した気がする。

 

 

一緒に暮らすにつれて、自分の未熟さや至らなさのほうが浮き彫りになっていった。

救うはずが、その実救われてばかりだった。

妻は自立した、はるかに自分よりも立派な「大人」だった。

私のほうだったと気づいた。救われたかったのは私のほうだった。

妻はACではないので、自分の価値観を持っていた。そして自分を自分で褒める技術を持っていた。人と比べなくても自分を楽しむスキルがあった。それは私にはないものだった。

私が持っていないものを持っているから、私はこの人に惹かれたんだな、という本心にも気づけた。

同じであるからこそシンパシーを感じて行為を抱くことがあるように、異質であるからこそ尊敬して、眩しく感じることもある。

妻に対して私が感じた感覚はまさしく後者であり、共依存的な思考で近づいたことは否めないが、とても魅力的に感じた理由はそれだけではないということもわかった。

 

私が共依存的に関わったが、共依存ではなかった妻は取り合わなかった。

私の歪んだ関わり方を、妻はしっかり拒否したし、それによって見限ることもしなかった。

だから今、お互いにアサーティブに話そうとしたり、謝罪をしあったりすることができる。

私の歪んだ感じ方や関わり方について正直に話して、それを相手の受け取り方に委ねることができる。

 

相手のニーズを先回りしてコントロールしようとすること

私は、相手の望んでいること、ことに負の感情の揺れ動きに敏感である。

それは、母親がヒステリックで常にご機嫌をうかがって生活していた経験が大いに関係していると思う。

今何で不機嫌になっているのか、何に対して不満を持っているのか、という情報から、自分がどう振舞えば相手が笑顔になるのかを考えて幼少期を過ごしてきた。

私は、そういう幼少期の生きるすべを大人になった今でも適用して、相手のニーズを先読みし『コントロール』しようとしていたのだ。

それがとてもつらい。

なぜかといえば、それは母が用いた手法で、私が最も忌避するものだからだ。

『コントロール』されたほうは、生ける屍に成り下がる。私はそうだった。

失敗しないように、損をしないように、周りとズレないように。

そういう「母親の望む未来」にたどり着けるように、母親は私をコントロールしようとしてきた。

何とも言えない、充実感の無さ。

自分で生きていないからだ。自分を生きていないからだ。

そういう活力を、最も重要な喜びを、己の欲で他人から取り上げるというのは、最も卑劣なことだと思う。

その卑劣な行いを、自分自身がやっていた? にわかには信じがたく、信じたくなく、目を背けたい事実がそこにあった。

 

幼少期に鍛錬してきたからこそ、その妄想にも似た予測は、現実によく当たってしまう。

自分のことより、他人の心の動きばかり追ってきたから、その観察眼には磨きがかかっているように思う。

これは悪いばかりではなく、良い作用もある。

相手のニーズを推し量れて、今の心の動きをつぶさに観察できるという能力が磨かれた結果、営業として今飯を食えているわけで、他人が望んでいることを理解し共感すること自体に罪はない。

罪は、コントロールしようとすること。

コントロールすることにばかり熱中して、自分の心の声を聞かなかった振りをすることだ。インナーチャイルドが声を枯らして叫んでいるのに、知らない振りをすることだ。

 

自分の本当の声に、耳を傾ける

共依存的な関わりをしていると自覚できるようになってきた今、私は、私が「正しい」と思って関わってきた関係を冷静に見直す時期に来ている。

その試みは、正直、私にとって世界の底が抜けるようなインパクトがある。

とても怖い。

しかし、やはり見直さなくてはならない。

気づいてしまったら、徹底的にしなければ。そうしなければ気が済まない。私はそういう風にできている。

苦しみぬくとしても、己のなかの本物と対峙して出した答えでなければ、私自身が納得できない。

少しずつ、ゆっくりでも、確実にやっていこう。無力を受け容れている限り、私にはそれができるはずだ。