私は学校で「社会は正しい」と教えられてきた。
親からも「自立した社会人になりなさい」と教えられてきた。
みんなそうではないだろうか。
でも、それが本当に正しいかというと、どうもそうではないんじゃないか、と思う。
この社会が求める人物像は「考えない歯車」
この社会というのは、資本主義社会だ。
経済的な成長を、正義と考えている。
むしろ、それしか考えていないとも言える。
企業は、金が儲かるなら、顧客がどうなろうが、基本的には心の底ではどうでもいいと思っている。
健康を害するような商品を売ったり、必要のない人にまでサービスを押し売りしたりする。
だから人は仕事にストレスを感じるんだと思う。
やりたくもないことを、金のためにやっている。だから心が傷つく。
心をなくしてしまったほうが、効率よく精力的に働ける。
そして、雇う側としてもそういう心を失った歯車のほうが扱いやすいので、そういう人間を重用する。
組織の目的や命令に文句を言わず従い、金儲けのために必要な行動を何とかかんとか達成し、それでいて良心の呵責なんて感じない、そんな使える歯車だ。
それは、文字通り歯車で会って人間ではない。
人間をやめた没人格の部品。それがこの社会では最も優秀とされている。
狂っている。
教育の問題点
私はよく義務教育と受験社会を批判するが、先生たちは本当に真剣に、子どもたちのことを考えて頑張っているんだと思う。そして、楽しい授業をする先生もいるんだと思う。
しかし、文科省がつくったマニュアルのみに従って授業をしていて、封建的な価値観で凝り固まっていて、授業が本当につまらない先生もいる。
私の人生では、そういう先生が90%を占めていた。進学校だったせいもあるだろう。
受験とは、ただの暗記ゲームでしかない。
頭に詰め込んだ情報を制限時間内にいかにアウトプットするか、というゲームであり、賢さとは関係のない遊びだ。
その遊びで、行ける大学が決まり、就職先の幅が決まる。
その遊びが得意かどうかで生徒の価値を判断する先生がいて、大学がある。
これはこの社会の事実。
子どもは遊ぶのが仕事で、勉強は遊びのひとつだ。
しかし、学校では、遊ぶことを禁じる一方で、受験勉強という暗記ゲームをやれと子どもたちに命令する。
その命令に背くと不良であり、従順に言われたことをやると優等生である。
そう扱われる。
これは、学校がもつ「歯車をつくるための政府直轄洗脳機関」としての性格を、もろに表している。
都合のいい奴隷の才能がある生徒、というのが、優等生であって、それが社会的に正しいと教えているのが学校で、そんな奴隷のような歯車が欲しいのが資本主義社会。
実によくできている。
受験勉強は学問ではないので、学問の面白さに小中高で触れられることは稀だ。
受験勉強は基本的につまらない単純作業なので、嫌いになっても仕方ない。
受験のためのノウハウを習得するための「授業」なのだが、先生が学問という体で話すと、生徒が混乱する。
学問はもっと面白い。そして自由だ。点数化されたりしない。
受験ゲームのせいで、学問をつまらないと勘違いしてしまい敬遠する人が多くなるのだと思う。
先生も不憫で、学問を話していると、保護者から「そんな意味のないことはいいから受験で勝てるようなことをやれ」などとクレームを言われる。
保護者も奴隷養成機関である義務教育に洗脳されているので、もう手の施しようがない。
先生ひとりが頑張るには限界がある。
ではその上の文科省はどうかといえば、本質をとらえ改善する気もなければ、本質に到達できる頭もないように、私には見受けられる。
もうお手上げだ。
だから先生ひとりひとりを責めることはできない。責める気もない。
システムの問題であり、社会が狂っているので、仕方がないといえば仕方がない。
医療・福祉の問題
その奴隷養成課程を立派にこなした歯車候補だけが、医学部や薬学部に行くことができるしくみなので、当然洗脳を色濃く残した人が医療に携わることになる。
誤解のないように言うと、医師や薬剤師の先生方をディスっているわけではない。
尊敬できる先生はたくさんいるし、むしろ受験ゲームが苦手なのに苦労して進学した先生などは、辛苦を知っているだけに優しさと思いやりにあふれていたりもする。
でも、そういうタイプを除くと、基本的には自分たちは一般的な人間より優秀で上質だと思っている。ブランド意識がある。
となると、扱い方として、患者は必然的に身分が下、ということになる。
私たちがクリアできたゲームをクリアできなかった人たちが、お客さんである。
そういう意識があると、指導的・高圧的なスタンスを取ってしまいがちだ。
表立って態度には出さなくても、滲み出てしまう。
「ダメなこの人をなんとかしてやろう」
「間違っているから正してやろう」
という上から目線になる。
そうなってしまうと、もう患者さんのことは見えないし分からない。
机上の空論でしか物事をとらえられなくなって「エビデンスがエビデンスが」と頓珍漢なことをやりかねない。
これは福祉の分野でも同じことが言える。
病んでいて、社会になじめない人が支援の対象なので、社会に馴染めていて支援する立場の自分たちを上だと錯覚してしまいがちだ。
「可哀想なこの人たちを助けてやろう」
「社会に馴染めている私たちが、正しいことを教えて社会に戻してやろう」
こんな狂った社会に馴染めている時点で狂っているのは支援者のほうなのだが、心から善意でこんなことを思っている場合がある。
可哀想、と思うことは、侮辱である。
同情や憐れみというのは、相手を下に見ている。
そもそもこの社会に馴染めないほうが正常であり、「今だけ金だけ自分だけ」がスローガンの現代社会に馴染めている時点で何かを失っている。
だから、支援者はむしろ援助対象に学ぶべきことがあるという意識で対等に関わるのがベストだ、といち社会福祉士としては思っている。
他人として失ってはいけないエッセンスを、彼らは持っている。だから病んでいる。
親子の問題
家族としての在り方も、崩壊して久しい。
「子どもがゲームばかりしているので、やめさせたい」と相談を受けてよく話を聞いてみると、親のほうに子どもと一緒に遊ぶ余裕がなくて、子どもと一緒に何かをしたことがあまりないケースが散見される。
「家で遊ばせる」という状況のなかに、親の存在がいない。
ひとりで勝手に遊んでいてほしい、自分の時間を奪わないでほしい、そういう印象を受ける。
子どもは当然、一人遊びはつまらない。飽きる。限界がある。
その結果、ひとり遊びとして面白いゲームやYoutubeに行きつくのは当然だ。
なんせ、様々な技術者が腕によりをかけて「どれだけ時間を使ってもらえるか」を考え尽くして完成したコンテンツである。
どれだけ依存させられるか、どれだけ金を巻き上げられるか、そういう意図で没入するように仕組化されているコンテンツに、子どもが抗えるわけがない。
やめさせたいのなら、もっと面白い現実の遊びを提案するしかない。
それは、生身の人間同士の触れ合いだったり交流だったりするが、親は時間を取りたくない。いや、取る余裕がない。
なぜなら、歯車としての役割を演じる「仕事」で、毎日が精いっぱいだから。
生活するために必要なお金のための「仕事」で忙殺された結果、本来最も大切な子供との時間を削っている。
そしてその最も大切なことを犠牲にしている罪悪感を、子どもに押し付ける。
「あなたたちを育てるためにはお金が必要だからしかたない」
「おまえたちのために働いているんだ」
そう言って、子どもや配偶者のせいにして、自分が責任を果たせていない状況を正当化する。
余裕がないのは、しかたがない。この国は貧困国だから。
年収の中央値は276万円。
日本で働く人の所得ピラミッド。
中央値は276万円。 pic.twitter.com/y7ZgosmNLO— 舞田敏彦 (@tmaita77) July 20, 2022
共働きしなければ、一般庶民は生活できない。
そして就職先の営利組織というのは、金のために奴隷のように社員を働かせる資本主義の権化なので、できるだけ時間とエネルギーを搾取してくる。
社会の仕組みとして、もうすでに破綻している。
だから家庭もシステムとして崩壊する。当たり前のこと。
もはや、この社会システムに頼らず営みを構築するしかないように思う。
経済とは切り離した生活基盤をもつしかない。
隣人同士で助け合ったり、物々交換で貨幣を通じずに価値を循環させたり、家庭菜園で自分たちの食糧を確保する。そういうふうにして貨幣経済に由来する交流を最小限に圧縮していくことが、自分たちの時間と自由を取り戻すために必要になっていると思う。
だから仕事なんてそんなに命かけてやらなくていい。
配偶者や子どもと一緒に時間を過ごし、関わる人には感謝と愛を伝え、家庭を中心とした手の届く範囲の世界の平和に力を尽くしたほうがいい。
「今だけ金だけ自分だけ」
経済社会の呪いと洗脳。
この歪みに境界線を引こう。望まない強制にNoと言える一歩引いた態度を心がけよう。
医療にしても、福祉にしても、学べば学ぶほどそんなことを思う。