「たぶん、なんとかなる」
私は今までそう思えなかった。
結果が欲しい。
評価が欲しい。
安心が欲しい。
理解者が欲しい。
他人軸の何か後ろ盾になるようなもの。それが無いと私は私にYESと言えなかった。
だけど、今はそう思わなくなってきた。
今までいろんなことがあった
今まで生きてきて、様々な出来事があり、様々な感情を味わった。
それでも今、こうして生きている。
それは、乗り越えてきたということだ。
今まで生きてきたすべてが、私という今を肯定している。
ニーチェのいう「永遠回帰」があるとしても、私は私の人生をもう一度生きることにYESと言える。
たぶんまた苦しむだろうし、生きようか死のうか悩む局面に出会うだろう。
でも今乗り越えて息をしている。これからも息をし続けることを望む私がいる。
全てのことに私のなかでは意味があり、必要だから与えられたと思う。
発達障害(神経発達症)として生きづらさを抱えたのも、機能不全家庭に生まれてACとしての特性を抱えたのも、社会に過剰適応しようとしてうつ病やアルコール依存症になったのも、生まれた時代がたまたま資本主義社会であったことすらも、全て私が私であるために必要だったから、そうだっただけ。
大谷翔平や鈴木一郎がもてはやされているが、実際人間は大して変わらず、弱くて小さな存在だ。
どんぐりの背比べでしかない。
野球という競技になっているが、元をたどれば暇つぶしの玉転がし遊びであり、それが上手なのは純粋にすごいことだが、それもすべては運だ。
成功には再現性があり、法則がある。そう思うほうが、私たちは希望を持ちやすく不安を見て見ぬフリしやすいので、そう信仰する傾向がある。
ビジネスにも何かしら成功の法則があり、成功者に学べば自分たちもそうなれる、と思って有名人のサロンやビジネススクールに通う。それっぽい理論や前例を学び、信仰を強固なものにする。
しかし繰り返すが、すべては運だ。
先の野球選手の事例でいえば、たまたま野球ができる環境にあり、たまたま努力し続けられる個体に産まれ、たまたま身体的に不具合を持たないで五体満足に生まれて、たまたまそれ以上の個体が野球競技者のなかにいなかった。
だから相対的に順番をつけると上にいて、たまたま周りにいる人たちの見えない協力のおかげで成果も残せた。
実力とはすべてが運であり、成功しているのはたまたまだ。
偽物の自己肯定感
だから、相対的な価値観でこしらえた「自信」は、自己肯定感とは程遠い。
仕事で同僚より成果を出している。
スポーツでいい成績を残している。
偏差値が高い大学に合格している。
他人と比べて頑張っている。
平均より良い暮らしをしている。
「だから自分を信じられる」というのは、自分自身ではなく他人の物差しを信じている、という状態だ。
その偽りの自己肯定感は、そのよりどころである他人の物差しが変われば一瞬で雲散霧消するだろう。
信仰は選べる。
意思だけは誰にも奪えない。奴隷の哲学者エピクテトスの言葉だ。
結果主義・成果主義のストーリーを信仰するのも自由。
自分の無力を受け容れ、無為自然を説く老子の思想を信仰するのも自由。
在り方は、自由自在だ。自分で選べる。
まとめ:なるようになる
唯一確かなのは、それぞれの意思だ。
私は私の意思を信じる。
どうしても自分に嘘がつけない、不器用で愚直な人間として生きてきたこの人生を信じる。
他人が信じるかどうかは関係ない。
成果が出ているかどうかも関係ない。
それは他人の物差しでどうか、ということで、他の宇宙の話だ。私そのものとは関係ない。
どこに価値をおくか、どう思うかは、私が決められる。
いや、私にしか決められない。
こんな私が、今も生きていて、一定の納得のいく思想にたどり着いている。
たまたまそうなった、何か大きな力の支えのおかげで。
ということは、これからなんかあっても、私なら、だいたい何とかなる。なるようになる。
この「なるようになる」というのが、自己肯定感の真の姿だと思う。
私とみんなは失礼ながらどんぐりの背比べなので、みんなもおそらく同じ。
ということは、みんな、だいたいなんとかなる。なるようになる。
みんなのおかげで私がいて、そんなみんなもなるようになるということは、これから先も大丈夫。
成果をコントロールしようとしなくていい。
他人をコントロールしようとしなくていい。
未来をコントロールしようとしなくていい。
だってそれぞれにとんでもないパワーを秘めていて、自分で自由にとらえ方を決められるうえに、この世界は「なるようになる」ようにうまくできているのだから。
これまで肩にのしかかっていた不安や重圧が、一気に軽くなるのを感じないだろうか。
なんにも心配しなくてよかったのだ。
しようとしたってできないことを、無理してしようとしなくていい。
他人の評価もポジションも、全然気にしなくていい。
お金があるかないか、少ないか多いか、も全然気にしなくていい。
だって私たちは、私たちらしく泥臭く素直に生きていさえすれば「なるようになる」のだから。
何か意味があるとしたら、それは私たちがそれぞれに自由に決められる。
この信仰で生きる人は、どこまでも自由で、開放的である。