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【メンタル】神経発達症のためのライフスキル「言いにくいことを伝える配慮」

私は他人に言いにくいことを伝えるのが下手である。

理路整然と話をまとめる技術と、伝わるように伝える技術は、全く違うベクトルだ。

論理的に構成がきれいでも、人間は機械ではないので、受け取り方は様々だ。

いくら理屈っぽく正しそうな話をしても、気持ちが伝わらなければその言葉は無駄になる。

では、どうすれば伝わるのだろうか、伝えたい思いをどう言葉にすればいいのだろうか。

その答えに近いものを発見したので、書き起こしてみる。

 

妻は、伝えるのが上手だ。

私は少なくとも警戒せずに聞くことができる。

多少耳が痛いことを言われても、心の扉をとじないで落ち着いて耳を傾けることができる。

それはなぜなのか、彼女の話の組み立てを分析してみた。

そして、以下の法則があることが分かった。

 

■言いにくいことを他人に伝えるときには話す順序がある

①感謝を伝える

②「助けてほしい」「困っている」と投げかける

③歩み寄り:こちらで対応可能な範囲を提示する

④提案:相手に「してほしいこと」を明確にする

⑤御礼:「話を聞いてくれてありがとう」「話せてよかった」

順番に解説していく。

 

①感謝を伝える

まず、「いつも有難いと思っている」「あなたがいてくれて助かっている」ということから話を始める。

私が今まで体系的に理解してきたビジネスコミュニケーションとは異なる。ビジネスシーンでは結論から話すことが最善とされているが、これは言いにくいことを伝える際には逆効果になる。

いきなり受け入れがたい要求をバーンと提示されると、人は必ず身構える。その瞬間から、私が話す言葉はもう相手の心に届いていない。耳を通過して右から左に流れていく。相手は、どう断ろうか、どう切り返そうか、を頭の中で考えているから、聞いていない。

まずは、私と相手の関係が大切で、私にとってはかけがえのないものだ、という共通認識を持つことからスタートするのがよい。

対話できると信じているから話をするし、大切だからこそ言いにくいことも伝えようと思う。

それを相手に伝えるには、感謝を言葉にすることが重要だ。

 

②「助けてほしい」「困っている」と投げかける

「Youメッセージ」と「Iメッセージ」というのがある。

「Youメッセージ」は「なんであなたは○○なの?」とか「どうしてあなたは○○してくれないの?」と主語が相手になる話し方。

「Iメッセージ」とは、「私は○○だと感じている」「私は○○で悩んでいる」という「私」を主語にした話し方。

「Youメッセージ」では話すと、相手は独断で断罪されているように感じる。境界線を侵害された痛みと混乱で防衛本能が働き「違う、そうじゃない」「私だって○○なんだ」と反発する気持ちが生まれる。

「Iメッセージ」で伝えられたとき、相手は自分を否定されているとは感じない。「ああ、あなたはそうなんだね」と思いながら落ち着いて言葉を受け取ることができる。

相手に言いにくいことを伝える、というのは、何か問題が起きていて、それを解決したいからコミュニケーションを取ろうとしている状況だ。

責任の所在は置いておいて、話し合ってその問題を解決することが対話の目的だ。

したがって、相手を責めても仕方がない。自分が過剰にへりくだっても仕方がない。

「悩んでいる」「困っている」「助けてほしい」その主体はあくまでも私だ。

「私は○○だと、とてもつらい気持ちになる、それで困っている、あなたの力を貸してほしい」

という具合に、まずは抱えている困難は何なのか、Iメッセージで伝える。

そうすると、相手は私がどんな状況で何に困っているのかが、抵抗なく理解できる。

 

③歩み寄り:こちらで対応可能な範囲を提示する

さて、困った状況をどうするか、に言及するフェーズだが、焦って④に行ってはいけない。

その前にやることがある。

それが「これからも良い関係を続けていきたい」という意思表示だ。

「歩み寄り」である。

相互の対等な関係である以上、こちらもできる限り相手に寄り添った形で着地点を探りたい。

私と同じように、相手にも権利と自由がある。それを最大限尊重し合って、お互いに納得できる妥協点を探すのが、コミュニケーションの基本原則だと思う。

一方的にこちらに有利な条件を飲ませよう、というのは、不誠実だ。コントロールであり、過干渉であり、傲慢不遜な相手に対する攻撃である。

私たちが争いたいのではない、話し合いたいのだ。

「これからもあなたとの関係を大切にしていきたい」

「だから、私としては現段階でここまでならできる、こういう工夫ならできる」

「逆に、○○は難しいと感じている」

と、今発生している問題に対して自分ができる事・できない事を提示する。

 

④提案:相手に「してほしいこと」を明確にする

そのうえで、自分の範疇を越えた、相手にしかできない事を、「してほしいこと」「教えてほしいこと」として提示する、または意見を求める。

「○○のとき○○をしてほしいと私は思うんだけど、あなたとしてはどうだろう?」

「○○なとき私は○○な状態にしたいんだけど、あなたはどう考えているか教えてほしい」

という具合だ。

相手ができそうだと感じるか、難しいと感じるか、尋ねる。

どの範囲までなら協力を得られるのか、教えてもらう。

それで初めて着地点が見えてくる。

もちろん、当初期待したほどの協力を得られないかもしれない。してほしかったことの100%は叶わないかもしれない。

でも、そもそも元の状態を考えてみよう。

相手が全く協力してくれないなら、それは0%。もともと0%だったのだから、協力してくれるというのはそれだけで有難いことだ。

私もあなたも、無理なく継続していくために、お互いが実現できる「協力」がそれぞれなんなのか、お互いに手札をすべてテーブルにさらして検討するのである。

一定の協力が得られないと達成できない事なら、現状二人だけでは達成できない、という結論を踏まえて、別の話し合いになる。

具体的にいえば、結婚生活の継続が達成できないようなら、離婚を視野に入れて関係の在り方を模索する、夫の協力が得られず子育ての継続が達成できないようなら、別居し実家に帰る・お金を払ってシッターなどの民間サービスを利用検討する、などである。

 

⑤御礼:「話を聞いてくれてありがとう」「話せてよかった」

結論は出ないかもしれない。

それでも、時間を取ってお互いの意見を交換することなしに、事態の改善を模索することはできなかった。

相手がいて初めて成立する「対話」という機会を設けられたことに感謝する。

「話を聞いてくれてありがとう」

「話を聞かせてくれてありがとう」

「あなたと話せてよかった」

そういう感謝の言葉で会話を締めくくる。

議論が平行線だったとしても、関係が大切なことには変わりない。その気持ちが相手に伝わる。相手は少なくとも「もう二度と話したくない」とは思わないだろう。

話し合いの機会が持てることは、こちらにとって有難いことであり、相手なくしては叶わない。

 

まとめ:私も相手も大切

全体の工程を通じて共通するのは「自分と相手を尊重する」という姿勢だ。

私の意見も大事。でも相手の意見も大事。

共同生活を送るためには、調整する必要がある。だから話し合う。

基本的に人は独りでは生きていけない。

だから、他人の存在には常に感謝と礼節をもって対応する。

かといって「他人がいないと何もできないのだから、ヘコヘコして機嫌を損なわないように無理をしなくては」というのは、違う。

なぜならそれは、自分を蔑ろにしているからだ。

自分も、かけがえのない大切な存在で、相手だってあなたがいないと困るのだ。あらゆる人は、老若男女問わず完全に対等である。

私は永らく、他人なくして生きていけない自分の脆弱さが許せなかった。

そんな弱いことだから他人と関わらなくては生きていけないのだ、苦労して他人のご機嫌取りをしないといけないのだ、人間になんて生まれなければよかった、来世は石になりたい…などと何度も何度も思った。

何かを成し遂げても誰かのおかげ、生きていることすら他人のおかげ、何もかも全部自分の実績として誇れず、誰かに感謝しながら生きていかなくてはならないのか、重すぎるよ他人の恩…それならいっそ死にたいよって感じだった。

でもどうあがこうと、私は弱いのだった。それはもうどうしようもないことだった。

そして安心したことには、他人も一様に、私と同じように弱いのだった。

全員弱い。

強そうに見える人も、偉そうにしている人も、誰でも他人がいないと生きていけない弱い生き物であることに変わりがない。

だから、ひとりで何でもできるほど強くなくていい。それは私も他人もそうだった。

なーんだ。

誰だって持ちつ持たれつだったんだ。

自分だけで生きていくなんて、人類には不可能なんだ。

だったら恥ずかしがったり負い目を感じたりすることないじゃないか。

そう思って一気に心が軽くなった。

お互いに対等な弱い存在。だから力を貸してくれるなら心の底からありがとうだし、力を貸せないときも「弱いんだからしかたがないよな」と許せる。

基本的に自分が生きるだけで精いっぱいの弱い存在が、何とか肩を寄せ合って生きている。

そういう認識で改めて振り返ると、対話というモノの尊さと有難さをしみじみ実感する。

【AC】「他人の言動を悪くとらえてしまう」という悩み

私の話である。

私は他人と話していて、その言動の裏を勘繰る癖がある。

これは、機能不全家庭で培われた歪んだライフスタイル、ACとしての恐れと不安によるものだ。

言葉の通りに受け取ってきて、痛い目に遭ってきた経験に裏付けられた悪癖。

ADHD・ASDとして、相手の言葉をそのまま受け取ってきたが、多くが言葉通りの意味では無かったり、あとで真意を聞かされて混乱したりしてきた。

そんな私は幼い頃、クラスメートに「変なやつ」扱いされ、爪はじきにされてきたと感じていた。

両親は何かを決めるとき、いつも「自分で選んでもいいのよ」と口では言ったが、常に彼らが選んでほしい選択肢が先に決まっていた。違う選択をした場合は、否定されるか落胆された。

なので、私は「自分で選んでもいい」という言葉の本当の意味は「親の私たちが思い描く正解を当てなさい」だと考えるようになった。

常に他人にとって違和感がない「正解」を当てなければ、思わぬ地雷を踏んで被害を被る。まるで戦場にいるような緊張感があった。

そういう歪んだ関わりと苦い経験に基づいて、私は「言葉をそのまま受け取らず、その真意をよく吟味して咀嚼してから行動する」ようになった。

 

しかし、このスタイルは私を生きづらくさせてきた。

今も健全な人間関係の構築を阻害している。

ACとして問題を抱えている、と思う。

私はこの問題を手放し、もっと率直にアサーティブに人と接することが必要だし、またそうしたい。

私の願いは問題解決だ。だから今回はこの問題について深く考えようと思う。

 

自分が敵だと思うから相手が敵に見える

たとえば妻は「基本的に他人は私に悪意を向けていない」という前提で他人と接する。

私とは逆のスタイルだ。

そして妻は私から見れば、仲間に囲まれ、善意と好意に包まれて幸せそうに見える。

本人も「そのほうが楽しいから」と問題を感じていない。

つまり、私にとっては理想的な関係性を構築している。

 

これは井上雄彦先生の『バガボンド』にも同じような描写がある。

それこそがお前の殺気 わし始め他人はそれを映す鏡にすぎぬ

今まで何人打ち殺してきたか・・・さぞかし多くの敵に囲まれ生きてきたことじゃろうな

だが それはお前自身が仕立てあげた敵にすぎぬ お前自身の殺気が出会う者すべてを敵にする

あと何人斬り殺す?そういうのは強いとはいわん 不細工じゃ

引用:『バガボンド』井上雄彦 第4巻「不細工」より 宝蔵院胤栄

武蔵が宝蔵院胤栄と初めて畑で出会った時のシーン。

胤栄が鍬をもって畑を耕していて、襲いかかってくるように感じて身を固くする武蔵。

そんな武蔵に対して「殺気が不細工」だと言う胤栄。

自分自身の殺気が、出会う者すべてを敵にする。

これはとても耳が痛い台詞である。

私は多くの他人を「敵」として捉えて生きてきて、不細工な殺気を纏ったこのときの武蔵のように、出会う者すべてを敵にしていたと思う。

妻は、出会う他人を「味方」と捉えて生きているので、自分にも相手にも「味方」に見え、実際にそうなっていく。

妻という存在、私という存在がその確かさを実証している。

私が他人を「敵」と捉えなければ、世界に「敵」はいなくなる。

ではなぜ「敵」と捉えることを私はやめられないのだろうか?

 

傷つくことへの恐れと不安

結論から言えば、他人を「敵」と想定して行動することに「メリット」があったからである。

他人を「本当のことを言わない、油断すれば加害を加えてくる脅威」として認識しておくことで、どんなメリットがあっただろうか。

・親の機嫌を損ねずに済んだ、そうしていれば親から愛されないかもしれないという不安を感じなくてよかった

・いじめなど、うかつに信用して危害を加えられることを未然に防げた、同じような辛い気持ちを味わわないでよかった

つまり、今までに経験した出来事、それにともなう負の感情を再び味わうことへの恐れと不安が、私が最も避けたいことだった。常に猜疑心をもち、他人を敵と同定する思考方法により、それらを避けられる、ゆえに傷つく頻度を最小化できるという信仰があった。

この信仰は、当時の幼い私にとっては、自分を守るために最も有効でメリットのある対応の仕方だった。

それ自体を否定することはできない。するつもりもない。一生懸命生きてきた。生きるために必要な防衛本能だった。

 

しかし、その信仰は今も有効に機能しているだろうか?

今は有効に機能しているとは言い難い。いや、素直に認めよう、有効どころか有害である。

他人の言葉の裏にありもしない悪意を探して、勝手に勘違いして傷ついたり腹を立てたりする。とてつもなく不毛で、相手に対して失礼な態度を生み出している。

善意を悪意と勘違いして、不必要なほど距離を取ったり、アサーティブでない形で「牽制」という大義名分で言葉の加害を加えることが、人を遠ざける。結果、私の孤立を深めている。

いじめもそうだが、この世にあるのは事実ではなく解釈である。

当時にタイムスリップしてみないと分からないが、もしかすると、「いじめられていた」という私の解釈は、歪んでいたかもしれない。実は相手にはそんなに悪意はなかったかもしれない。あるいは予想通り悪意に満ち満ちていたかもしれない。

それは確かめようがない。そして過去は変えられない。人の本心はどこまでいっても永遠に分からない。

なら、あるのかないのかわからないようなものは「あった」と信じることも「なかった」と信じることもできる。

背景をどう規定するかは、私自身に権利と自由がある。

私は好んで「悪意がある」と信じるほうをとっているけれども、それは別の問題を生み出してはいないだろうか。

出会う人すべてを敵にして、孤独にさいなまれ、独りで何でもやろうとするのでしなくてもよい苦労をしていないだろうか。

 

「他人」という呪縛から自分を解放する

そもそも、他人とはそこまで重要な存在なのか?ということを再考してみる。

もっと言うと、他人の評価や、行動である。

 

まず評価から言及する。

他人のなかで自分がどう位置付けられたかは、私の価値に直接影響しない。心の中で馬鹿にされたり、あるいは裏で誹謗中傷をしていても、そしてその言葉を信じる人がいても、それは私の問題ではなく、他人の問題である。他人の解釈の問題であり、私が事実と認識しない限り事実ではない。

私は私らしく生きている限り、私は私であり、またそうでしかありえない。

「他人が私をどう思うか」が私自身に影響する、と信じているから、他者評価を重要視する。

なんら影響しない、と信じている場合は、なんの重要性もない。

つまり、他人の評価は私にとってどうでもいいことに分類することが可能だ。

 

では行動はどうだろうか。

不愉快な干渉や攻撃があれば、そのときに「それはやめてほしい」というだけでよい。

それ以外の行動の裏に、その因子を見つけ出そうとする努力は、しなくてもいい努力だと言える。

どれだけ注意深く他人を観察したとしても、分かることは限られている。そして、できる事も限られている。コントロールすることはできない。

悪いことをする人はどこにでもいるし、いつの時代もいなくならない。

降りかかる火の粉を降りかかったときに払えばよく、そんなに他人の一挙手一投足に注意を払わなくていい、ということだ。

引っかかることを言われたら「それってどういう意味?」と切り返す。

嫌なことをされたら「嫌なんだけど、やめてくれない?」と物理的に距離を取る。

そういう反射的な対応さえ身につけ実践すれば、成人した今では、そこまで困ることはない。

もちろん何も考えずただ信じる、というのでは、昨今の医療詐欺や食品詐欺を考えた人たちに私の大事な身体を傷つけられる可能性がある。

落ち着いて情報を調べ、自分の頭で考え、判断すればいい。唯一の自由である「意思」を他人に明け渡しさえしなければ、どう受け取るか、どう行動するかは、自分で決められる。

他人の行動はコントロールすることはできない。する権利もない。

相手が私をコントロールしようとすることも、止めようがない。

私には相手の不当な要求を拒否する権利があり、自由がある。

ただそれだけのことなのである。

だから、他人の行動は重要ではない。自分がどう行動するか、それのみが重要である。

 

まとめ

他人はそれほど脅威ではない、ということだ。

評価は勝手につけていればよく、行動も私の迷惑にならなければ特に干渉する必要もない。

脅威としての存在感が小さく、むしろ協力者としての存在感が大きいのが実際だ。

人は独りでできる事は限られている。

何かを成し遂げたいと思ったとき、力を貸してくれる仲間がいるというのは、とても有難いことだ。

私は極力他人を頼りたくないと思いがちだ。

なぜなら借りを作ることになるから。借りとは負い目である。何かの形で返さなくてはいけない、つまり心の負債となる。だから避けてきた。

しかし、よくよく友好的な人々を観察していると、どうやら見返りを求めないらしい。愛というのは見返りを求めない。

今まで私が受け取ってきたものは、本当は愛だったかもしれないのに、負債だと思って受け取っていた可能性がある。返す必要がないのに、返さなくてはいけないと思っていたということ。まるでアホである。

返さなくていいなら、どんどん頼ればよかった。苦しい、助けて、と言えばよかった。痛いなら痛いと言えばよかった。居たいなら居たいと言えばよかった。

なのにそうしなかった。それは私に「愛を受け取る勇気」がなかったからだ。「愛されるべき存在だ」と他ならぬ己自身が、己を肯定していなかったから。

私が助けを求めたとき、損得を考えず駆け付けて力になってくれる人。それが仲間であり、友達であり、そんな人には私も無償でできる限りのことをするだろう。

それが健全な協力関係で、実はそんなふうに弱さを曝け出して助けを求める勇気さえあれば、他人とは、最もありがたくて愛しい存在なのかもしれない。

そう思って感謝しながら生きていけるとしたら、それほど幸せな人生はない。私はそんな風に生きていたい。

だから、私は今、無償で力になりたいと思うことに力を入れている。ワクチン後遺症の支援や国内の農業を守る活動にも携わっている。そういう「助けて」に損得ではなく良心で手を差し伸べること。それが私が人との健全な繋がりを取り戻すために、まずやれることだ。

世界はどんな風に色を変えるだろうか。楽しみだ。

生きるのが楽しみだと思えるのは、今まで生きてきてなかなか味わったことがない感覚だ。

生まれてきてよかった。

 

【仕事】もう営業やりたくない

私はもう営業職を楽しいと思えなくなってしまった。

ものすごくつまらなくて虚しい。

14年間やってみて、私が本当にありたい姿ではなかったとわかった。

 

営業というのは、きれいごとをいくら並べようと売上がすべてである。

売上を上げるために、他人に要らぬ過干渉するのが仕事である。

良いものは自然に売れる。自然に売れないということは「どうでもいいもの」だからだ。

「どうでもいいもの」に価値があるかのように見せかけて、金を引き出すのが、営業の存在意義と言っても過言ではない。

自分の目的(給料や社内ポジション)のために他人を思い通りに動かそうというのは、実に浅ましい態度である。

もはや歩くコントロール欲求。コントロールを手放すどころの騒ぎではない。全身全霊でとらわれまくりである。

 

ある種のゲームとして、この仕事を楽しめる人は実在していて、そういう人種にとってはこのうえなくやりがいのある仕事なんだと思う。

手練手管を尽くして、数字というわかりやすいゴールに向かって試行錯誤し、報酬を勝ち取る。心の底では他人がどうなろうが知ったこっちゃないと思える自己中心性がないと、このゲームに没頭することは難しい。

横並びに比較されてランキング形式で競わされる。承認欲求を満たすために「成果出そうレース」に人生のリソースのほどんどを投下する。ほかのプレイヤー(同僚)の上にいるとか下にいるとかで一喜一憂する。

なるほど、営業職というのは、ゲーム依存・SNS依存を構築する要素がふんだんにちりばめられた、依存性の高いゲームだと言える。

①結果の不確実性(ギャンブル要素)…あたかも再現性のある成功方法がありコントロールできるような錯覚を起こすが、そんな法則はない。そもそも相手ありきのゲームなので、コントロールできない。アウトカムは運次第。ギャンブル要素があると、人はその不確実性にのめりこみやすい心理構造をしている。

②ランキング形式…常に他人と比べられると、ひとは危機感を煽られ、緊張状態に陥る。実際は環境も条件も全く違うので比較に何の意味も価値もないが、人事評価・報奨金というニンジンをぶらさげることで存在価値とリンクしているように錯覚させる。他人より優れていたい、という承認欲求を巧みにくすぐり、ゲームに没頭させる。

③チームプレイ…江戸幕府が強制施行した庶民の隣保組織「五人組」のように、必ずチームで行動させ連帯責任を負わせる。これにより、連帯責任を発生させてゲームにある一定の力を注がざるを得ないような同調圧力を発生させる。特に日本では同調圧力が強力なので、途中でやめにくく、力を抜きずらくする。激務で鬱積したルサンチマンは結果を残せなかった同僚を迫害することで発散させるので、支配層にとっては組織運営もしやすい。行政官僚制の計算可能性を実現するための支配構造。

すべて、GAFAMやオンラインゲームがやっていることと同じ。

「いかに課金してもらうか、いかに長くプレイしてもらうか」を考え抜いて実装した、人類史に基づいた本能に訴えかける彼らのシステムと酷似している。

「いかに会社のために人生の時間的リソースを割かせるか、いかに仕事だけをさせるか」がよく考えられているのが「営業職」であり、社畜化しやすい職種だということ。

今まではそうしたデジタルでの依存性コンテンツが存在しなかった。男たちは、アナログの「仕事という依存性の高いコンテンツ」に没頭してきて、それを社会的に良しとされてきたので、基本的にワーカーホリックだらけである。女性から見て男がガキっぽいのは、ビジネスマンなんて所詮ゲームばっかりしているガキみたいなものだからだ。

そんなのに囲まれていると、頭がおかしくなりそうだ。

自分の人生に向き合わず、ゲームばっかりやっている子供の群れ。しかも、同じようにゲームに熱中しろと口うるさい。好きでもないMMORPGに毎日ディスコードで呼ばれてやりたくもないクエストに参加させられる気持ちを想像してみてほしい。反吐が出るだろう。

 

なぜ私がこのゲームを楽しめないかというと、短絡的で自己中心的で底が浅いからだ。

他人に勝ってうれしい。

認められてうれしい。

お金がたくさんもらえてうれしい。

この3つの「うれしい」を嬉しがるくらいしかやることがない。

他人のため、社会のため、なんて建前で、誰もそんなことは思っていない。

ただただ自分のためでしかない。

 

それが私にはつまらなすぎる。

他人に勝ってうれしい?は?なんじゃそりゃ。

他人と自分の価値は比べるべくもなく、それぞれがただそれぞれにあるだけ。エリートたりえたのは運であり、資本主義社会における実力とは虚構。すべては運のうちだ。たまたまいい大学に入れる経済力を持つ親の元に生まれて、たまたま五体満足に生んでもらって、たまたま今の成果っぽいものが与えられているだけ。それを自分の力だと思いあがるのは、精神的に未熟だからだ。

認められてうれしい、というのも、失笑ものである。

価値を他者評価にゆだねた時点で、自分の人生を他人に譲り渡したようなものだ。第三者評価はいかにも客観的で合理的な評価のように思うだろうが、結局は誰かの主観であり、自分の価値を規定するのは自分以外にありえない。つまり、他人がどう思おうが、本人の本質的な存在価値に何の影響も及ぼさない。一ミリも関係ない。だから他人に認められるかどうかは大切なことではない。馬鹿にされることも、差別されることも、他人の認知の問題であって、本人の尊厳を少しも傷つけることはできない。

お金がたくさんもらえてうれしい…

代えのきく使い捨ての歯車に成り下がって、ケツをなめ靴をなめ、その人生を小銭に変えられれば満足なのか。なんとも殊勝な心掛けだ。涙が出る。貨幣は結局それそのものに何の価値もない。金銭的な価値基準にとらわれている限り、本当にあるべき姿は見えてこない。私はお金は最小限でいいので、もっともらおう、たくさんもらおう、他人より多くもらおう、とは思えない。そんなくだらないことのために人生の時間をたくさん使いたくない。

 

ここまで書いて気付いたのだが、私は営業をもうしたくない、という背景に、お金儲けはもうしたくない、と思っているらしい。

とにかく金と資本主義社会での労働から遠ざかりたい。

生物としての営みに集中したい。

まったく無駄な時間だ。金儲けのための労働時間というのは。

本質的なことは近代化の真逆のベクトルにある。

科学が今まさに信頼性を失いつつある。

これから社会がもっともっとゴミになれば、もっともっと人そのものが輝く。

生命としての輝きであり、知的生命体としては哲学が道しるべとなる。

美しい輝きと、その奇跡に対する愛と感謝。それを全身で味わいながら生きて、死んでいきたいのだ。

そのためには、ごちゃごちゃと邪魔くさいものがこの世には増えすぎた。

金にまつわる欲と罪で雁字搦めになっている。生きづらいったらありゃしない。

もっとシンプルに、生きたいように生きるべきだ。

自分で田畑を耕し、周りにあるものや命に感謝して、自然にあるものを少しだけいただきながら、生きていることそのものに思いをはせる。

私はやはり宮沢賢治のような生活にあこがれる。物質的・経済的な豊かさより、精神的な豊かさが最も重要だと思う。

 

とにかく仕事はできるだけ最小限にして、資本主義経済社会に頼らない生き方にシフトすべく、鉄の檻の外側でいかに快適に生きていくか模索を続けていきたい。

 

 

 

【雑談】日本という植民地に生まれて

私は青かった。

「先進国で民主主義国家の日本に生まれてなんて幸せなんだ」

今までそんなふうに思っていられた私の頭は確かに幸せなお花畑だったな、と自嘲せずにはいられない。

 

愛知県知事選挙。たった今、現職の大村秀章知事が当選を確実にした。

ありえない。

スパイクたんぱく質そのものに毒性があることが科学的に明らかになり、そんなスパイクたんぱく質を体内で大量生産するmRNA遺伝子製剤を「打って打って打ちまくるしかない」と喧伝した人物が再当選を果たす、この国の選挙とは何なのか。

この国の民主主義は機能していない。選挙で民意は反映されない。ただのガス抜きイベントである。

そもそもこの日本という国は、近代国家にすらなりきれないまま、体裁だけを整えて国家のふりをしてきた、植民地でしかない。先進国などではないのは言わずもがな。唯一の同盟国はアメリカだけで、それはつまりアメリカの属国ということだ。正確に言えば、欧米諸国の、である。戦後からずーっと、この国は彼らに植民地支配されていたといえる。

昨今の新型ウイルス感染症に関してこの国でやられてきたことと海外の動向をみていて、私のようにようやく気付いた人も多いのではないだろうか。

 

まったく意味のない感染対策を強行する行政府。それに唯々諾々と従う国民。

報じられている情報の真偽を調べようとせず、テレビだけを漫然と眺めている。

海外ではすでに訴訟が起きていたり、推奨されなくなったりしていることを全く知らずに「ルールだから」「国が決めたから」と思考停止。

そりゃ滅びるよなと思う。義務教育により物言わぬ家畜としてしっかり調教してきた成果が顕著に表れている。

かつて、社会学者の宮台真司氏が「日本人の劣等性」について論ずるのを、正直忌々しい気持ちで聞いていた感覚があった。

「日本人を馬鹿にするな、私たちはそんなふうに劣等種族と馬鹿にされる存在じゃない」という反骨精神というか、抵抗感があった。

しかし、今となっては彼の主張に同意せざるを得ない。

現実がそうだからもう反論の余地がない。

かといって私は欧米諸国が優越性をもっているとは思っていない。しかし、厳然たる事実として、日本の民衆のこの有様はとてもじゃないけど優れた先進的な国家とは言い難い。

 

今、世界は第三次世界大戦の最中にある。

しかしそう思っている人が、この国にどれほどいるのだろうか。

ウクライナの凄惨な状況は、ロシアのせいだと思っているのだろうか。そして、遠いところのまったく関係ない出来事だと思っているのだろうか。そう遠くない未来の日本だとは、想像しないのだろうか。

日本は同じような災禍にみまわれると予想している。

経済制裁の名のもとにロシアのエネルギー資源を断ち自らの首を絞めて滅びゆく欧米諸国の、一時しのぎの悪あがきのために。彼らはもはや軍需産業で経済を支えるしかないから、武器を消費するために今度は中国にケンカを売るだろう。この極東の植民地が戦火に飲まれるのは目に見えている。

だからこその「マイナンバー制度」であり「緊急事態条項」であり、回転ずしチェーン店の炎上騒ぎである。

超監視社会の実現、全体主義の徹底により、人的資本としてしっかり金儲けに役立てられるよう、原住民はよく躾けて管理しておかなくてはならないからだ。

この国はそう遠くない未来に国家として成り立たなくなる。つまり滅びる。

 

超過死亡がとんでもないことになっている。

しかしマスメディアではそんなことは報じない。広告主の不利益になるようなことは言わない。というか言えない。

 

一時期、依存症の偏見を是正したいとメディアに集団訴訟をすることで、偏向報道に声を上げるべきではないか、と考えていたことがあった。なんて青臭い発想だろう!穴があったら入りたい。とても恥ずかしい。世の中のことを何も知らなかった。

既存のメディアはどれも基本的に「報道機関」ではない。広告塔だ。そんな高貴な役割を期待してはいけなかった。私はまずそれを理解すべきだった。

そんな、ただの広告媒体にいちいち目くじらを立てなくてもよかった。わかる人にはわかる。マスメディアを鵜吞みにして信じるような思考能力の低い人たちに、本質的なことを理解する能力は期待できない。わからないなら勘違いさせておけばいいだけの話で、そんなくだらない人々に誤解されていても痛くもかゆくもない。

だから裁判で訴える必要すら、元からなかったのだ。どうせ損得で世迷言を垂れ流しているだけの紙屑なのだから。信じるバカは放っておけばよかった、それだけの話だ。

子供に「お前は○○だ」と突っかかられて、本気で腹を立てる人はいないだろう。何も知らないのだから仕方がない、と本気で受け取らない。

大人に「お前は○○だ」と突っかかられて頭にくるのは、その言い分が真っ当であるはずだという信頼があるからだ。つまり、言われていることを事実と認めているから、腹が立つ。

メディアという広告塔が広告として報じている内容を事実だと思う己の誤認から、メディアに人権侵害をされたと感じてしまうだけで、出鱈目をいっている子供だとわかっていれば、本気で受け取らないし、腹も立たない。

世の中のことをある程度見えている人には、わかってもらえているのだから、それだけでよい。元来、それ以上は望むべくもない。

 

超過死亡の話に戻ろう。

この国では今、あの東日本大震災があった時期よりも大量の人間が、死んでいる。これからさらに増えるだろう。原因は言わずもがな。数年前から国民がこぞって注射したmRNA遺伝子製剤に他ならない。ウイルスによる感染症が原因ではない。説明がつかない。

そういう現状を踏まえても、物理的にこの国は人口減少が進み、機能不全に陥ると考えている。

そうした状況に危機感をもち、京都大学名誉教授の福島雅憲先生や大阪市立大学名誉教授の井上正康先生らが、厚労省に対して訴えを起こしている。

まだこの国を見限っていない、本当に心が清い人々だな、と思う。

損得ではなく良心に基づいて行動できる人というのが本当の賢者だが、福島先生や井上先生がまさにそれである。

こういう大人でありたいなと思う。

 

陰謀論者だと馬鹿にする人もいるだろう。

勝手に馬鹿にすればよい。

この国が言っていることより、陰謀論と揶揄される類の考察のほうがはるかに信ぴょう性がある。

陰謀論とレッテルを貼られて嘲笑を浴びてきた人々の言うとおりに、ディストピアに向かってこの世界は転がり落ちているではないか。

つまり、陰謀論とはもはや誉め言葉である。隠したいことが明るみにならないための印象操作として貼られるレッテル。

 

私は最近、世界が裏返ったような感覚をもつことがある。

私が今まで教えられ信じていた常識や世間や社会情勢というのは、基本的にまるっと虚構でしかなかったと思う。

当時尊敬し畏怖した大人たちは、無自覚かつ静かにこの社会を腐らせていたにすぎず、この地獄を残しただけだったのではないか、と失望したりする。

社会に適合できない自分がダメなんだと思っていたけれど、こんな腐った社会に適合できるほうがどうかしていて、私はまともな感性を失わなかったから、うつになったり依存症になったりしたんじゃないかと思う。

日本という植民地に生まれて、私はこの気づきを得た。逆境を経験して突き抜けることができた。

そういう点では、この国に生まれてよかったと思う。この地獄のような環境に感謝するとすれば、そこだろう。

【依存症】私は己の高慢さと無知から他人を遠ざけ勝手に孤独になった

私には反省すべき点がたくさんある。

特に人間関係の構築はとても不得手で、他人とのかかわりをストレスに感じることが多い。

それはなぜなのか。

なぜなら、私が高慢で狭量だからである。

 

妻を見ているとよくそう思う。

妻は「私は知らないことばかりだから」と口癖のように言う。

「知らない」ということを知っている。哲学の父ソクラテスの無知の知である。

教えてくれること、その主体である他人という存在に素直に感謝できる。それは実はとても難しいことだと私は思う。

そして他人を簡単にジャッジしない。

「あの人は○○だから○○」と簡単にレッテルを貼らない。

「この人には私が知らない面がたくさんある」と思いながら、他人の在り方をそのまま受け容れたうえで接する。

だから他人は否定されていると感じないで快く接することができる。ジャッジされる緊張感で在り方を偽る必要がない。だから、一緒にいて居心地が良いと感じる。

友人が多い人というのは、こういうフラットな在り方が自然に行える人なんじゃないかと思う。そして、出会った人を「友か友でないか」と線引きしないので、ほとんどが「友人」という定義に合致する。だから必然的に「友人」と認識する人数は多くなる。そう思われている相手もそう認識する。友人関係というのは相互認識で、明確な定義などないため、「友人と思っているかどうか」という認識がすべて。

 

私はどうかと言えば、残念なことに真逆をいっている。

「友人が少ない」という認識は、自分が他人のことを拒否しているからだ。友人だと思っていないなら、その数は少なくなるのも当たり前。

なぜ他人のことを拒否するかと言えば「わかったつもり」になって自ら遠ざけるから。

「あの人は○○だから○○」と簡単にレッテルを貼る。そして関係を継続する価値がないと判断する。そして関係を断つ。浅い関係でそれなりに対応する。相手もそれを感じて、距離を取る。だから周りに誰もいなくなる。

なぜ他人を早期に判断するのかといえば、自分がその人のことをまだほんの一部しか知らない、ということを認識していないから。

もっと言えば、自分が知っていることなどほんの一部であることを、心から認めていないから。

私は他人よりもよく物事をよく見聞きし分かり「正しい判断ができる」と思いあがっているからだ。

実に乏しい人間である。

 

私のように高慢で不遜な人は、他人にどれだけ助けられて今があるのかを忘れている。

顔も見たことがない、声も聞いたことがない、この世に生きるいろいろな人がいて、私は今の生活を送れている。

確かに悪意にさらされて傷ついた経験は今でも心にずっしりと残っている。

しかしながら、そんな人々もまた誰かの大事な人であり、何か世界に影響を与えていたと考えると、巡り巡って私を支えていた可能性がある。

悪意をもって私に接した背景には、彼らなりの苦しみと生きづらさがあり、表出した一部を私が体験しただけかもしれない。

簡単に、表出した一部だけを切り取って、その人そのものを語ることはできない。

過去の悪事を切り取って、その人の人生をすべて否定することはできないように。

そう考えると、たまたまその瞬間においては「私」と「その人」は良い関係ではなかった、というだけである。それを一般化して「他人なんてくだらない」と断ずるのは短絡的だ。論理的に飛躍しすぎている。

なぜ短絡的にレッテルを貼ろうとするかというと、これ以上傷つくのを恐れているからだ。同じような経験をして痛みを感じるのを恐れて、カテゴライズし予測可能性を見出したくなる。予測可能性があれば、投資可能性があり、自分の行動で結果をコントロールできると思い込める。実際には世界のほとんどの事象において、コントロールすることなどできないのに。

恐れによる認知の歪みはこうして起こる。

 

人と人の関係というのは、すべてがオーダーメイドなのである。

あるカテゴリ、あるレッテルをもとに語り始めた途端、その人そのものから遠ざかっていく。

そしてほんの一部だけかじって、終わりにする。

それはとてももったいないし、第一つまらない。

私の人生がつまらなかったのは、私がつまらなくしていたから、という事実を認めなければならない。

妻は友人に囲まれ私よりはるかに楽しそうに生きている。ように私には見える。

実際楽しいからまだ死にたくない、と言っている。

私はと言えば、死にたいと思っていることが人生の時間の大部分を占めてきた。終了させてもらえるなら今すぐにでも終了させてほしい、そう願いながら生きていた。

この違いである。

「アディクション(依存)の反対は、コネクション(繋がり)」という依存症の世界では有名な言葉があるが、まさにその通りである。

人との繋がりを自分からつまらなくした、あるいは過去の経験によってつまらないと思うことで自分を守った結果、それ以外のものに依存しなくては、立っていられなかった。命を継続することが困難だった。

それが、依存症になる人が抱えている、生き方の根本的な機能不全のひとつだと思う。

 

では、この場合、生き方の機能不全をどう対処していけばよいのだろうか。

「変えられるもの」は他人ではなく自分の在り方なので、恐れに向き合い、恐れを受け容れ、傲慢と偏見を一度捨てて、他人との関わりに挑戦することが大事だ。

挑戦できるようになるまで、恐れについて徹底的に棚卸をする。安心安全な場所(自助グループ)にアウトプットして、供養する。自己憐憫に陶酔する時期もあるだろうが、飽きるまで徹底的に吐き出す。

もう言っているのが馬鹿らしくなるくらい話しつくすと「まぁいつまでも言ってても仕方ないし、これからどうしようか」と思えてくる。そう思えるまでの時間は人それぞれだが、それは短いからよいとか長いからダメとか、そういうものではない。それはジャッジだ。その人には、それだけの時間が必要だった、ただそれだけ。

そこからはじめて、ひとは前に進める。そして、前に進むことができるのは、自分で進みたいと思った時だけだ。

ニーバーの祈りにある「変えられるものは変えていく勇気」が己の心に降りてくる瞬間。

その瞬間から世界の色が変わっていくのだろう。他人という脅威が恩恵に感じる世界へ足を踏み入れるのだろう。

このような認知の転換は、奇跡であり、どんな経済価値にも代えがたい、宝である。

損得やコスパを超えた人間として生きる面白みがここにある。

だから、何度でも生き直せるし、ひとは輝く。