私の話である。
私は他人と話していて、その言動の裏を勘繰る癖がある。
これは、機能不全家庭で培われた歪んだライフスタイル、ACとしての恐れと不安によるものだ。
言葉の通りに受け取ってきて、痛い目に遭ってきた経験に裏付けられた悪癖。
ADHD・ASDとして、相手の言葉をそのまま受け取ってきたが、多くが言葉通りの意味では無かったり、あとで真意を聞かされて混乱したりしてきた。
そんな私は幼い頃、クラスメートに「変なやつ」扱いされ、爪はじきにされてきたと感じていた。
両親は何かを決めるとき、いつも「自分で選んでもいいのよ」と口では言ったが、常に彼らが選んでほしい選択肢が先に決まっていた。違う選択をした場合は、否定されるか落胆された。
なので、私は「自分で選んでもいい」という言葉の本当の意味は「親の私たちが思い描く正解を当てなさい」だと考えるようになった。
常に他人にとって違和感がない「正解」を当てなければ、思わぬ地雷を踏んで被害を被る。まるで戦場にいるような緊張感があった。
そういう歪んだ関わりと苦い経験に基づいて、私は「言葉をそのまま受け取らず、その真意をよく吟味して咀嚼してから行動する」ようになった。
しかし、このスタイルは私を生きづらくさせてきた。
今も健全な人間関係の構築を阻害している。
ACとして問題を抱えている、と思う。
私はこの問題を手放し、もっと率直にアサーティブに人と接することが必要だし、またそうしたい。
私の願いは問題解決だ。だから今回はこの問題について深く考えようと思う。
自分が敵だと思うから相手が敵に見える
過去の経験をもとに認知が形成される。経験は恣意によって受ける印象が変わる。
たとえば人間関係において、他人の意図を悪意と捉えると、辛い経験になる。その認知が今の人間関係に影響する。
どのみち他人の意図は永久に分からない。なら、善意と思い込んでしまった方が人生は気楽で快適である。
— ちあきA4C🤎🤍 (@chiakiA4C) February 23, 2023
たとえば妻は「基本的に他人は私に悪意を向けていない」という前提で他人と接する。
私とは逆のスタイルだ。
そして妻は私から見れば、仲間に囲まれ、善意と好意に包まれて幸せそうに見える。
本人も「そのほうが楽しいから」と問題を感じていない。
つまり、私にとっては理想的な関係性を構築している。
これは井上雄彦先生の『バガボンド』にも同じような描写がある。
それこそがお前の殺気 わし始め他人はそれを映す鏡にすぎぬ
今まで何人打ち殺してきたか・・・さぞかし多くの敵に囲まれ生きてきたことじゃろうな
だが それはお前自身が仕立てあげた敵にすぎぬ お前自身の殺気が出会う者すべてを敵にする
あと何人斬り殺す?そういうのは強いとはいわん 不細工じゃ
引用:『バガボンド』井上雄彦 第4巻「不細工」より 宝蔵院胤栄
武蔵が宝蔵院胤栄と初めて畑で出会った時のシーン。
胤栄が鍬をもって畑を耕していて、襲いかかってくるように感じて身を固くする武蔵。
そんな武蔵に対して「殺気が不細工」だと言う胤栄。
自分自身の殺気が、出会う者すべてを敵にする。
これはとても耳が痛い台詞である。
私は多くの他人を「敵」として捉えて生きてきて、不細工な殺気を纏ったこのときの武蔵のように、出会う者すべてを敵にしていたと思う。
妻は、出会う他人を「味方」と捉えて生きているので、自分にも相手にも「味方」に見え、実際にそうなっていく。
妻という存在、私という存在がその確かさを実証している。
私が他人を「敵」と捉えなければ、世界に「敵」はいなくなる。
ではなぜ「敵」と捉えることを私はやめられないのだろうか?
傷つくことへの恐れと不安
結論から言えば、他人を「敵」と想定して行動することに「メリット」があったからである。
他人を「本当のことを言わない、油断すれば加害を加えてくる脅威」として認識しておくことで、どんなメリットがあっただろうか。
・親の機嫌を損ねずに済んだ、そうしていれば親から愛されないかもしれないという不安を感じなくてよかった
・いじめなど、うかつに信用して危害を加えられることを未然に防げた、同じような辛い気持ちを味わわないでよかった
つまり、今までに経験した出来事、それにともなう負の感情を再び味わうことへの恐れと不安が、私が最も避けたいことだった。常に猜疑心をもち、他人を敵と同定する思考方法により、それらを避けられる、ゆえに傷つく頻度を最小化できるという信仰があった。
この信仰は、当時の幼い私にとっては、自分を守るために最も有効でメリットのある対応の仕方だった。
それ自体を否定することはできない。するつもりもない。一生懸命生きてきた。生きるために必要な防衛本能だった。
しかし、その信仰は今も有効に機能しているだろうか?
今は有効に機能しているとは言い難い。いや、素直に認めよう、有効どころか有害である。
他人の言葉の裏にありもしない悪意を探して、勝手に勘違いして傷ついたり腹を立てたりする。とてつもなく不毛で、相手に対して失礼な態度を生み出している。
善意を悪意と勘違いして、不必要なほど距離を取ったり、アサーティブでない形で「牽制」という大義名分で言葉の加害を加えることが、人を遠ざける。結果、私の孤立を深めている。
いじめもそうだが、この世にあるのは事実ではなく解釈である。
当時にタイムスリップしてみないと分からないが、もしかすると、「いじめられていた」という私の解釈は、歪んでいたかもしれない。実は相手にはそんなに悪意はなかったかもしれない。あるいは予想通り悪意に満ち満ちていたかもしれない。
それは確かめようがない。そして過去は変えられない。人の本心はどこまでいっても永遠に分からない。
なら、あるのかないのかわからないようなものは「あった」と信じることも「なかった」と信じることもできる。
背景をどう規定するかは、私自身に権利と自由がある。
私は好んで「悪意がある」と信じるほうをとっているけれども、それは別の問題を生み出してはいないだろうか。
出会う人すべてを敵にして、孤独にさいなまれ、独りで何でもやろうとするのでしなくてもよい苦労をしていないだろうか。
「他人」という呪縛から自分を解放する
そもそも、他人とはそこまで重要な存在なのか?ということを再考してみる。
もっと言うと、他人の評価や、行動である。
まず評価から言及する。
他人のなかで自分がどう位置付けられたかは、私の価値に直接影響しない。心の中で馬鹿にされたり、あるいは裏で誹謗中傷をしていても、そしてその言葉を信じる人がいても、それは私の問題ではなく、他人の問題である。他人の解釈の問題であり、私が事実と認識しない限り事実ではない。
私は私らしく生きている限り、私は私であり、またそうでしかありえない。
「他人が私をどう思うか」が私自身に影響する、と信じているから、他者評価を重要視する。
なんら影響しない、と信じている場合は、なんの重要性もない。
つまり、他人の評価は私にとってどうでもいいことに分類することが可能だ。
では行動はどうだろうか。
不愉快な干渉や攻撃があれば、そのときに「それはやめてほしい」というだけでよい。
それ以外の行動の裏に、その因子を見つけ出そうとする努力は、しなくてもいい努力だと言える。
どれだけ注意深く他人を観察したとしても、分かることは限られている。そして、できる事も限られている。コントロールすることはできない。
悪いことをする人はどこにでもいるし、いつの時代もいなくならない。
降りかかる火の粉を降りかかったときに払えばよく、そんなに他人の一挙手一投足に注意を払わなくていい、ということだ。
引っかかることを言われたら「それってどういう意味?」と切り返す。
嫌なことをされたら「嫌なんだけど、やめてくれない?」と物理的に距離を取る。
そういう反射的な対応さえ身につけ実践すれば、成人した今では、そこまで困ることはない。
もちろん何も考えずただ信じる、というのでは、昨今の医療詐欺や食品詐欺を考えた人たちに私の大事な身体を傷つけられる可能性がある。
落ち着いて情報を調べ、自分の頭で考え、判断すればいい。唯一の自由である「意思」を他人に明け渡しさえしなければ、どう受け取るか、どう行動するかは、自分で決められる。
哲学者エピクテトスは「意思は何人たりとも奪うことができない、意思は例外なく誰もが平等に享受する唯一の自由である」と言った。
その唯一の自由「意思」を他人に明け渡してしまったら、いくら経済的社会的に恵まれたとしても、最も貧しく不自由な人生になる。
— ちあきA4C🤎🤍 (@chiakiA4C) February 23, 2023
他人の行動はコントロールすることはできない。する権利もない。
相手が私をコントロールしようとすることも、止めようがない。
私には相手の不当な要求を拒否する権利があり、自由がある。
ただそれだけのことなのである。
だから、他人の行動は重要ではない。自分がどう行動するか、それのみが重要である。
まとめ
他人はそれほど脅威ではない、ということだ。
評価は勝手につけていればよく、行動も私の迷惑にならなければ特に干渉する必要もない。
脅威としての存在感が小さく、むしろ協力者としての存在感が大きいのが実際だ。
人は独りでできる事は限られている。
何かを成し遂げたいと思ったとき、力を貸してくれる仲間がいるというのは、とても有難いことだ。
私は極力他人を頼りたくないと思いがちだ。
なぜなら借りを作ることになるから。借りとは負い目である。何かの形で返さなくてはいけない、つまり心の負債となる。だから避けてきた。
しかし、よくよく友好的な人々を観察していると、どうやら見返りを求めないらしい。愛というのは見返りを求めない。
今まで私が受け取ってきたものは、本当は愛だったかもしれないのに、負債だと思って受け取っていた可能性がある。返す必要がないのに、返さなくてはいけないと思っていたということ。まるでアホである。
返さなくていいなら、どんどん頼ればよかった。苦しい、助けて、と言えばよかった。痛いなら痛いと言えばよかった。居たいなら居たいと言えばよかった。
なのにそうしなかった。それは私に「愛を受け取る勇気」がなかったからだ。「愛されるべき存在だ」と他ならぬ己自身が、己を肯定していなかったから。
私が助けを求めたとき、損得を考えず駆け付けて力になってくれる人。それが仲間であり、友達であり、そんな人には私も無償でできる限りのことをするだろう。
それが健全な協力関係で、実はそんなふうに弱さを曝け出して助けを求める勇気さえあれば、他人とは、最もありがたくて愛しい存在なのかもしれない。
そう思って感謝しながら生きていけるとしたら、それほど幸せな人生はない。私はそんな風に生きていたい。
だから、私は今、無償で力になりたいと思うことに力を入れている。ワクチン後遺症の支援や国内の農業を守る活動にも携わっている。そういう「助けて」に損得ではなく良心で手を差し伸べること。それが私が人との健全な繋がりを取り戻すために、まずやれることだ。
世界はどんな風に色を変えるだろうか。楽しみだ。
生きるのが楽しみだと思えるのは、今まで生きてきてなかなか味わったことがない感覚だ。
生まれてきてよかった。