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【発達障害】あんまりイライラしなくなった話

今までわけもなくイライラしていることがあった。

どうしようもない些細なことで、機嫌が悪くなることがあった。

最近はそれがない。なぜなのか。

おそらく3つの要因がある。

 

発達障害を受け入れたから

私は成人するまで発達障害(ASD・ADHD)と診断されずに人生を生きてきた。

生きづらさはたくさんあった。でもそれは「甘え」だと言われて叱責された。

・時間通りに目的地につけない

・忘れ物をする

・興味のないことに集中できない

・他人とのコミュニケーションをどうしてよいかわからない

・素直に本音を言ってしまって嫌われる

・好きなことを丸一日ぶっ通しでやってしまい怒られる

・過集中状態で話しかけられても気づかず怒られる、無視したと勘違いされる

こんなことが日常茶飯事だったので、クラスメートからいじめられ、家でも怒られ、本当に死にたかった。

「普通」であれと言われた。

必死に矯正した。

他人を観察し、反応を模倣し、とにかく周りから異質だと思われないための努力を積み重ねた。

他人から好感を持たれる所作、他人に攻撃されないためのキャラクターづくり、そんなことばかりしていた私の青春時代。

幼少期から青年期にかけて、私は私を偽るために、人生のほとんどのリソースを割いてきた。

それによって今、社会生活を何とか営めるまでに己を訓練でき、合わせようと思えば合わせられるようになった。

無駄ではなかった。

でも必要なかった。

私は、私を偽って外的脅威から身を守る生存戦略を確立する裏で、巨大なストレスを抱えるようになった。

私の生き方そのものが「私は私らしく生きていてはいけない」という呪いになった。

それは外的脅威よりも己を蝕んだ。自己否定は自信を奪う。より周囲に迎合するようになっていく。悪循環だった。

 

唯一の正解は、私が私らしく生きることだった。

他人の評価や好き嫌いは、実は全く関係なかった。彼らの問題にすぎず、私が気にすることではなかった。

そんなことのために貴重な10~20代を費やす必要はなかったのだ、と今ならわかる。

しかし、わかるために私の無駄な努力は必要だった。無駄ではない無駄だった。

 

そうやって、過去の自分が必死にやってきたこともひっくるめて、「自分が思うとおりに素直に生きていいんだ」と他ならぬ私が私にOKを出せてから、他人にイライラしなくなった。

なぜか?

「私だって我慢しているのに」と、自由に楽しく自分の人生を生きている人を妬ましく感じたから。

本当はそれが最もやりたかったことで、でもそんなふうに生きてはいけないと思っていたから。

全部、自分が禁止していただけだった。私も自由に生きてよかった。

そう思ってから、他人の人生に口を出さなくなった。

私は私の人生を一生懸命生きることに集中できるようになった。

 

仕事と距離を置いたから

雇われている人にとって、職場とは、自分らしく生きられない最低の場所だと思う。

私はサラリーマンに向いていない。20年近く勤めてみてやっとわかった。

組織の一員として、没個性的であることは、前段で述べた私の若い頃の生き方にそっくりだ。

周りと違うことをしない、ルールを守って良い子ちゃんでいる、言うことを聞いて褒められるのを期待する。

全部、間違いである。それは人間の人生ではない。奴隷の人生である。

私はそのことに気づいて、組織に肩入れするのを一切やめた。

結局は生活費をねん出するために会社という仕組みを利用しているにすぎない。

あちらも、利益を生み出すために労働力として人間を利用しているにすぎない。

そんな損得勘定に基づいたドライで価値のない関係性に入れ込む必要はないのである。

 

そして、驚くべきことに、多くの企業は社会のことなどまるで考えていない。

自分たちの利益を追求すること。それが会社という組織の目的で、それが資本主義社会では正義。

だから、そんなにまじめにやる必要はない。

誰かのためになる、なんて幻想でしかない。金のためである。

そんなもんなんだ、と理解したので、組織内での評価はどうでもよくなった。所詮は、もっと熱心に奴隷をしてくれるように仕組化された評価制度であり、仕事が評価されたから人間としてレベルアップするわけでもないし、何かを得られるわけでもない。

むしろ、現代社会で認められるというのは、人間として下劣であることの証明だと思っている。

損得しか考えない、心が死んでいる素晴らしい奴隷。そのなかでもトップクラスのクズです。

そう言われていると思って差し支えない。

 

 

薬をやめたから

「学校の成績が良くなり進学ができる」

児童精神を診ている発達障害専門の医師が、これをゴールに掲げていると言ったら、みなさんはどう思うだろうか。

私は、ゴールを間違えている、と思う。

義務教育学校は、国がこしらえた奴隷養成施設である。

そこで成績が良くて、何が回復なのだろうか。

学歴社会に置いていかれないようにするなんて、どうでもいい。

そもそも学歴社会が破綻しているのだから。

このような「専門家」が、訳知り顔で医療行為と称して子供のユニークな個性を殺し、奴隷に貶めているとさえ思う。

 

たしかに学歴は新卒採用時に有利なカードとして使える時代があった。

私が就職活動をしていた時代などは、学歴で足切りがあった。

しかし今の時代、グローバルで考えると、東大を出ようがFラン大学を出ようが、あまり学校の価値に差はない。

エントリーシートに学歴を記載する欄を設けない企業が増えてきた。

学歴より経験。何をしてきたか、何を感じたか、が重要になっている。

「学校の成績が良く難関大学に合格できた」

これは、先生の言うことを聞くことで内申点を稼ぎ、親の言うことを聞くことで自分で考えず準備されたレールに乗り、嫌だと思うことをやれと言われたから一生懸命やった、という意味である。

つまり「私は己を殺して命令を遂行できる、優秀な奴隷です」と自己アピールしている。

そんな歯車はもうこの世に腐るほどいる。そしてそのような鉄の檻から出られない没人格化した人間が、社会をダメにしている。

だから、発達障害にかかわるうえで本来重視すべきは、その子の「好き」を奪わないこと、義務教育という型にはめないこと、その子らしさを受け容れてどう生きていくか一緒に考えること、だ。

そう考えると、特性をあえて打ち消すようデザインされた医療用医薬品を投与すべきではない。

二次障害としての気分障害や不安障害は、一時的に介入する必要があるかもしれないが、それも早期に減薬・断薬して、本来の自分で生きていくことを大切にすべきだと思う。

本人ではなく社会が変わらなくてはいけないが、そうそうこの腐った社会は変わることはないので、ある程度の落としどころをつけつつ、その人らしい人生を応援する。

医療用医薬品はそのためにつかうドーピングであり、それが必要ないほど人生観が確立してくれば、必要ない。

なので、私は抗うつ剤もやめ、ADHD治療薬もやめた。

それで今一番調子がいい。薬を飲んでいた時は、イライラしていた。

 

私がイライラしなくなった背景は、こんな感じ。

【AC】生きてるだけでえらい

「生きてるだけでえらい」

こう言われて、あなたはどう思うだろうか。

そんなわけないじゃないか、と思うだろうか。

私もそう思って生きてきた。

 

なんだか馬鹿にされたように感じることもあった。

「お前は生きているくらいで能力の100%なんだから、身の程をわきまえろ」みたいなニュアンスでとらえるくらい、私の心は歪んでいた。

というより疲れていた。自分の状況をを他の人のそれと比べて責めていた。

 

「生きる」というのは、基本的に苦しい。

つらくてくじけそうになることが多い。

他人はうっとおしいし、仕事はつまらないし、世の中に流通するありとあらゆる商品やサービスが毒である。

やりたいことを考える前に、やらなければならないことが雪崩のように押し寄せて、身動きが取れなくなる。

「やりたいことをすればいい」なんて言われても、それすら埋もれて見えなくなっている。感じようにも感じられない。わからない。

世の中でもてはやされているのは「ポジティブ思考」で、「生きていたくない、生きるのがつらい」なんて言ってはいけないような風潮だ。

なんとなく禁じられているように感じて、抱えた暗い気持ちを誰にも話せないまま、外側はポジティブであるかのように振舞う。そうやって、少しずつ心が狂っていく。

とても共感できる感覚だ。私はそういうふうに世界が見えていた。

 

「みんな頑張っているのだから」

「私より苦しい人も貧しい人も大勢いて、それなのに今日を生きているのだから」

そうやって、居もしない他人と比べて自分を叱咤激励していた。

私は私の限界以上に頑張っていたと思う。

だから無理が祟った。アルコール依存症になり、うつ病にもなり、睡眠障害にもなった。

みんなって誰だ?

私より大変だから、私の苦しみは軽いのか?

そういう疑問を持つことすらよくないと思い、蓋をした。

蓋をしたその思いを飲み下すために、酒を浴びるように飲んだ。

アルコールで意識を失いたかった。願わくばそのまま消えたかった。

 

あなたも、充分に頑張っていると思う。

他人は他人でしかない。自分と同じではない。

生物学的分類が同じだけで、感じ方も違うし、ポテンシャルも違うし、生きてきた背景も違う。

全然違う存在だ。

そんな違う存在が何かを成しているからと言って、私たちも同じことができるわけではない。

「働くのが当たり前」というのは国がそう決めているだけで、働くなんてできない人も当然いる。

「社会人だから当たり前」というのも、世の中という幻想が求めている虚像であって、社会人である必要はない。実際、年齢を重ねても精神的に幼いひとはいる。結構すました顔をして生活しているけど、ちゃんと人生に向き合っている人はそんなにいない。

何かに依存し、誰かに依存し、見て見ない振りをして、なんとなく生きている人が大半だ。

たまたま経済的に恵まれて、チャンスに恵まれて、五体満足で生まれたから、たまたまそれっぽく暮らしているだけ。

私もその一人だと思う。

何か一つでも欠けて、何か一つでもすれ違っていたら、今この生活はなかったかもしれない。

それくらい今というのは、初冬の湖に張っている薄氷のように危なっかしい。でもそれに気づいてしまうと恐ろしくて前に進めないので、みんなその事実を認識の外に追いやる。そしてなんとか生きている。

 

私は社会に出るまで、大人というのはとても崇高で、あたかも全知全能の存在のように思っていた。

社会的地位のある人というのは、人徳を備えた質の高い人間だと思っていた。

しかし、それは大いなる勘違いだった。

大人はそんなに大したことがなかった。体が大きいだけで、基本的に頭は良くないし、感性も鈍い。

社会的地位がある人などは、それがよりひどくなったようなものだった。人の痛みをあまり感じないので金儲けに特化しやすいだけだったり、他人に褒められたい欲望が強いから汚いことができるだけだったり。

社会で認められる、というのは、あまり名誉ではないことを知った。

「社会で認められる立派な人になれ」という両親や教師の教えは、全くの間違いだった。

こんな狂った社会で認められる人は、立派でもなんでもない。

人をモノのように扱うことができる、幸運な人でなし。それに成れと言われていたのか、と思う。私は絶対になりたくない。

 

この社会は、基本的に狂っている。

働いても働いても生活は苦しいままで、それは一部の権力者が美味しい思いをするために仕組化されているから。

国民の生活をより良くしようなんて思っている施政者などいなくて、私腹を肥やし自分たちのお仲間だけが裕福ならそれでいいと思っている。

そういう真実から目を背けさせるために、酒を売ったり薬を売ったりゲームを売ったりコンテンツを売ったりする。

何かに依存させて目隠しをするついでに、さらに絞り取ろうとしているだけ。

そんな修羅の国、日本。世界もそうか。

 

そんな地獄のようなところで、あなたも私も、よく生きていると思う。

よくぞ生き延びた。今まで。そう思う。

「生きてるだけでえらい」というのはそういう意味だ。

寄ってたかって殺そうとしてくるこの社会で、何とか今日も生きている。

それは、とても難しいことだ。

とくに、自分に素直で真実から目を背けられない、純度が高く上質な人間性を持つ人であればなおさら。

精神を病む人というのは、敏感で繊細だから、この地獄をまともに見てしまうので、疲れ果てるんじゃないかと思う。

この狂った社会で病まないほうが、狂っている。

ちゃんと病んでいる私たちは、正常だと思う。

病んで動けなくなるくらい、本物の人間にとっては、この世はきつい。

 

疲れ果てて仕事ができない時期があってもいい。

学校に行きたくなくなるなんて、正常な反応だ。

活躍している他人と自分を比べて落ち込んでしまう必要はない、彼らは狂っているのだから。

何の役にも立っていないなんて、思わなくてもいい。役に立つ必要はない。いるだけで世界の役に立っている。存在しているというエネルギーは計り知れない。糞をするだけでバクテリアの役には立っている。人間が認識できる「役割」なんてごく一部。それに当てはまらなくても一向にかまわない。

つまり、「義務」など、あるように見えて、何も無い。

抱えている「○○しなくちゃいけない」は、実はしてもしなくてもいい。しなくちゃいけない、と思っているだけ。

唯一「義務」があるとすれば、「全力で味わうこと」だ。

喜びも悲しみも、楽しさも苦しさも、体全部を使って心全部で受け止める。

それだけで、100%よくやっている。

そして、それが「生きる」という行動そのものでもある。

生活していくとか、結果を残すとか、そんなものはオプションに過ぎない。

全力で今を感じる。表現する。伝える。

対面している生命をよく見聞きする。できるだけわかろうとする。

最もこれを徹底して実践しているのが、こどもだ。

子どものように、純粋に今を全力で味わう。原点回帰。

大人になるというのは、この原点を忘れる、と言うことに他ならない。

大人になんてならなくてもいい。つまらない。

つまらないことはしなくていい。

100点満点は既に達成されている。生きてるだけでえらいんだから。

それ以外のことは、追加のオマケである。

【依存症】ありのままの自分

ありのままの自分でいるのは楽じゃない。

そもそも、ありのままの自分がわからなくなっている人のほうが一般的だろう。

この現代社会では。

 

周りに合わせてヘラヘラしながらなんとなく過ごしているほうが、楽だと思っていた。

でも、これも結構楽じゃない。

自分の本当の気持ちを裏切って生きていると、どこかで必ずそのツケは己に返ってくる。

心身の不調をきたしたり、他人に些細なことであたってしまって、関係が悪化したり。

自分への裏切りは、必ず自分に返ってくる。そして苦しくなる。

 

どちらにしても楽じゃないと考えると、自分らしく生きるほうがマシだ。

他人と違っても、損をしても、他人に何かを言われたとしても、自分の本心に従って決めたことなら、結果がどうであれ受け入れられる。納得できる。

 

「これを言わなきゃ嫌われなかったかも」

「態度に出さなければ気を遣わせずに済んだかも」

などと思って他人の顔色をうかがいながらビクビク生きてきたが、いいことはなかった。

そうやって自分の判断や決定を他人軸で考えるとき、結果を他人のせいにしている自分がいた。

「私は本当はこうしたくなかったけど、○○さんがさせてくれないから」と誰かに責任転嫁して、自分で決断することから逃げる癖がつく。

だから、なんだか自分の人生なのに、どこか他人事になり、空虚で飢えやすくなる。

余計なものを買ったり、余計なものを摂取したり、自分を安売りして求められようとしたり、何かでその虚しさを紛らわせようとして、さらに孤独の色が濃くなる。

 

私は小さい頃から「自分そのままで生きていては社会に受け入れられない」という思い込みを続けてきた。

それは親から「周りの子みたいにおとなしく良い子でいなさい」と比較されながら育てられたことや、クラスメートから「お前は変だ」と言われていじめられてきたことに起因している。

うまく擬態して、うまく周りのように空気を読んで、異質だと認識されないように、隠れるように生きる。それが「ちゃんとした社会人」であり、賢い生き方だと思って必死に頑張った。

けれども、得られたのはアルコール依存症という病名だけで、最終的にはにっちもさっちも行かなくなった。

毎日が「消えていなくなってしまいたい」であふれていた。いつも死にたかった。

生きることは苦しいことだった。こんな苦しいこと、80年も継続するのは不可能だと思った。

 

親の接し方はまずかった。親を許す必要はないし、クラスメートにも恵まれなかったと思う。

それはそれで私の中の事実。

しかし、その不運を引きずって生きるか、受け容れて生きるか、は選べる。

もう親の扶養のうちにいるのではないし、クラスメートはもういない。

これからの生き方は、今ここからの自分が決められることだ。

今は、自分で決められる。自分で決めていい。

それを「過去にこうだったから」「親に言われたから」と放棄するのは、ありのままの自分を生きたいという本心を裏切っている。

誰のせいでもなく、自分で自分を裏切っている。誰かのせいにして、怖いから逃げているだけ。

 

私の場合はアルコールが唯一の逃げ道だった。

アルコール依存症になって、まともに出社できなくなり、問題を起こして懲戒解雇になりかけた。

親に電話してそのことを恐る恐る伝えたとき、親は「そんなふうに育てた覚えはない、そんなのは私たちの子供じゃない」と言った。

そのあたりから「自分の人生は自分で決めないとダメなんだ」と悟ったように思う。

 

この人たちが求めるように、指し示すとおりに、歩んできたつもりだった。

いい学校に行き、いい会社に行き、良い子でいようと無理をし自分を殺して生きて。

その結果、報いていたはずの親から拒絶されるのなら、私が良いと教えられてやってきた何もかもは、実はとことん間違っていたんじゃないかしら。

そう思った。

この人たちは親だけど所詮は他人だ、私の人生の責任を取ってくれるわけじゃない。

あれこれ口は出すし手も出すけど、結局望むカタチにならなかったらポイっと捨てる。

それなら、言うことを聞く必要なんてなかったんじゃないか。

口を出されても手を出されても、その邪魔をはねのけて、したいようにやればよかったんじゃないか。信じるようにやればよかったんじゃないか。

そう思った。

 

どうせ生きるなら、自分で思うように生きよう。

それで選択を間違って途中で死んだとしても、自分で決断して選んだ道なら納得できる。

むしろ、自分で選んで間違うことが重要なんだ。それが血となり肉となる。

いつでも正しく在れるわけではないこと。

いつでも正解が用意されているわけではないこと。

自分にはどうしようもないことのほうが、世の中には多いこと。

そういうことを実感してはじめて、人は本当の意味で他人を尊重し、よく見聞きすることができるようになる。

自分でやって初めて、他人がやっていることにも共感できるし、間違いを許せる。

自分らしく生きることは楽ではないが、楽しい。

他人の言いなりになって、呪縛に縛られたままで生きるより、段違いに楽しい。

どうせ楽ではないのだ。楽しいほうを選ぼう。

楽しむために生まれてきたのだ。生まれた意味などないが、せっかく生まれたのだから楽しむべきだ。人生は仕事ではない。

 

同じように生きてきた、まじめで不器用な「いい子ちゃん」に届くといい。

不良で構わない。不器用ならなお結構。人生はもっと面白くできる。あなたの手で。

【AC】他人を見下さないって難しい

他人を見下さないって難しいな、と思う。

私の「私は正しい」という思い込みは根強い。

なんか反省した。

 

対等でアサーティブなコミュニケーションは簡単じゃないなぁ、と常々感じる。

 

「正しい」「間違い」はなく、ただそれぞれがあるようにあるだけなのに、正しさで白黒つけてしまう自分がいる。

妻はそのバランス感覚がすばらしく、白黒つけずに「そういう考え方なんだね」とある程度聞き流しながら上手に会話をさばいていると感じる。

それが、私にはまだまだできないんだよなぁ。

 

他人が、自分の中では一度検討し解決済みの問題を抱えていたりすると「なんだ、まだそんなところにいるのか」と、見下す気持ちがわいてくる。

他人が、自分と異なる意見を持っていると、自分が正しいという無意識の大前提にのっとり他人の意見は「誤り」であると断定し、なぜそんな間違いをするのかという原因分析的な思考回路でその人の発言を聞いていることがある。

 

自分が正しいかどうかなんてわからないのに、実に傲慢なことだ。

あくまでも「私としてはこう思う」というだけで、正しさなんてどこにもないし、何の保証もありはしない。しかし、私は自分が考えたことがこの世で一番正しいと思う節がある。

 

こんな気持ちを持っていたら、アサーティブなど程遠い。

会話する前から対等ではない。姿勢が対等でないと、相手は話始められない。私の話も相手の心には届かない。

 

変えられないものを受け容れる落ち着き、変えられるものと見極める賢さがまだ甘いんだろうな、と思う。つまり、私の課題だ。

相手はそう思う、私はそう思わない、ただそれだけで、そこに上下はない。

やりたい人はやればよく、やりたくない人はやらなければいい。

たとえば会社や組織なんかでは、組織運営の観点で方向性を統一したがるので、やりたくないからやらない、では軋轢が生じるケースが多い。

その場合は、取り入れるにしろ「ここまではやれる」という範囲で良いし、逆に言えば「ここまでしかできない」ということを率直に伝える必要がある。

要は、自分の判断や決定を捻じ曲げられるのではないか、という恐れを抱いているから、見下して相手という脅威を矮小化したがる。

これは、実際の経験が影響している。

幼少期は親という権威に自分の判断や決定を軽んじられ、敷かれたレールの正当性に反駁できず従わざるを得なかった。それによって、私は多くを失い、大きな怒りを抱えることになった。

成人してからは会社や上司という階級構造に取り込まれ、巧みに会議という場で合意を取り付けられ、やりたくもないことを一生懸命やる羽目になり、苦しんだ。

その苦々しい体験たちが、私に警告を発するんだろう。

「気をつけろ!ぼーっとしているとまた正しさを振りかざしてやり込められるぞ」と。

相手に私の素直な気持ちを騙され変えられてしまう、という恐れと不安。

 

私はとことん、他人の思い通りに動かされるのが大嫌いだ。

私が納得したうえで方向性が同じだから一緒にやろう、ならいいが、納得を置き去りにして力関係や上下関係や労使関係でやれと言われると、絶対にやらない。というかやろうと思ってもやれない。酒の力を借りて頭をラリらせて無理やりやった結果、精神疾患のデパートみたいになったから、もう二度とやらない。

やりたくなくてもやるのが大人、という考え方を耳にしたことがあるが、それは奴隷としての最適化であって、大人でも何でもない、と私は思う。

そうやって自分の気持ちを殺して生きるのが大人なら、大人になんてならないほうが正解だ。

私は、私の意志で、私の納得するように生きたい。

そうでない生き方がどんな末路をたどるか、経験してきたからだ。そのせいで一度死んでいる。もう一度拾った命で第2の人生を歩んでいるのに、なんで同じ死に方せにゃならんのだ。絶対にヤダ。

とにかく人に使われるのは向いてなさすぎる。サラリーマンなんて、自分でもよくやっていると思う。

まぁ、そもそも集団で行動のベクトルを揃えようとするから軋轢が生じるんだけどなぁ。

そもそもが組織化すること自体不自然で、ストレスがかかるもので、人と関わらなければ何かを成し遂げることができないこの世の摂理を呪いたくもなる。

 

しかし、生きとし生けるものすべてが、単独では存在しえず、うまいこと間を取って手と手を取り合って生きていかなくてはならない。それは存在そのものを通じて「異なる意見も自分の意見と同様の重みをもつ現実」を顕在化していると思う。

折り合いをつけて、心がいつも真ん中で、相手も自分もまるっと受け容れて。

どこに偏るでもなく、こだわりすぎるでもなく、でも納得して穏やかにいられる。

そんなふうに自分をポジショニングしていけたらいいな、と願う。

相手は変えられない。相手が私を「コントロールしよう」とすることも変えられない。相手の課題だから私の範疇を超えている。

私にできることは、Noと伝えることと、代替案を提示すること。できることとできないことを率直に丁寧に伝えること。

相手が相手らしく在っていいように、私は私らしくある権利があり、道を違えたとしても誰も悪くはなく、どちらが正しいのでもない。

運よく同じ方向を目指していけるとしたらそれは素晴らしいことだし、そうでなくてもまたしかたのないこと。

この辺りはゲシュタルトの祈りに似ている。

I do my thing, and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by the chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped.

わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれば、それも仕方のないことだ。

「ゲシュタルトの祈り」

 

そのためにも、サラリーマンは良い環境ではないかもしれん。

常に金、金、金。

雇う側は金で圧力をかけて雇われる側に言うことを聞かせようとする。

会社という組織では、アサーティブは無理だと思う。

話す相手がすでに上から来ていてアサーティブとは根本的に程遠いのに、こちらだけアサーティブを貫くには無理がある。アサーティブでいない権利も、私たちはそれぞれが持っている。

私は私ができる時だけ、できる相手だけにアサーティブでいて、他とは距離を取るしかない。

つまり私にとっては、「会社」というコミュニティーにはあまり関わらないのが一番だ。

 

まあ、資本主義社会では、常に金の呪いにつきまとわれるので、この社会そのものに向いていないともいえる。いえるけど、そういってしまうともう死ぬしかなくなるから言わない。

できるだけ影響が少なくなるように、また、お金から距離を取って生活できるように、独立の準備に勤しもうと思う。

【AC】見返りを求める

「見返りを求める」

現代社会においてだいたいの人間関係はそんな感じだよな、と思うことがあります。

何でもギブアンドテイク。

だから、人と接するとイガイガ・イライラするんだなと思います。

心が荒むっていうかね。

 

「やってあげたのに」とか

「してもらったのに」とか

他人がやることは他人の自由だし

自分がしたことは自分の選択だし

別に何かを返す義務などない。

だけど、求めたり求められたりする。

そして「その程度の関係だったのか」とガッカリする。

 

なんで人は、他人に期待し、自分に報いることを求めるのか。

それは自分のなかの「当たり前」を押しつけているから。

他人の行動や態度が、自分の「当たり前」からズレることに対して、怒りや不安を感じる。

つまり勝手にルールを設定して勝手にキレている。

そういうことなんだよな、と思います。

が、ついつい忘れます。

 

「自分が正しい」と無意識に思い込んでいるから、自分の勝手な「当たり前」をこの世の摂理のように思い違いをしている。

だから他人にイラつき、他人に自分の当たり前をさせようとする。

それは、傲慢なことです。

相手の尊厳と権利を侵害し、境界線を踏み越えている。

だから傷つけ、傷つく。

 

「したことに見返りを求めるなら、それはあなたが本心からしたいことではない」

ということを、私自身忘れないようにしたい。誰かのせいにして、自分で選択し決定することから逃げているのだと、常に自覚していたい。

また、他人が私にその人の当たり前を押しつけてきても、私は落ち着いて毅然とした態度で要望をお断りし、その人を許したいと思う。

だって私も「もっと感謝してくれたっていいじゃん」とか思うことあるし、親に「もっとこうしてくれてたらよかったのに」って思うことあるし。

それも私。

私だってそうじゃん、と。

だから他人は私のように、愛嬌がある憎めないもののようにも感じる。

やったことに返してくれたら嬉しいって思うし、どうしても期待するし、なんでやってくんないのさ?!ってムカつくときもあるし、そんな素直な気持ちすべてをひっくるめて自分。

親が機能不全家庭でやってきたことに傷ついた私がいるのも、哀しい気持ちや苦しい気持ちに苛まれているのも、本心。

それらを「正しくない」とかレッテルを貼って、無かったことにしようとか、しちゃいけない。全部ちゃんと自分なんだから。全部大事なこと。

いずれ蓋をしたそれらの本心は、形を変えて必ず顔を出す。もっと歪んだ醜さを纏って。

人はそんなに強くない。だから、間違ったり傷つけたりするのも、お互い様。

そんなもんなんだから、他人だってそういうときもあるよな、と思う。

だから、自分を受け入れるためにも、他人の弱さと過ちを赦す、そして手放す。

それが「優しさ」なんかな、と思います。

そんなことを最近思ってます。

【発達障害】話し方がムカつくと言われる話

私の話し方はムカつくらしい。

妻からそう言われることがある。あの妻に言われるくらいだ。相当ムカつくんだろう。

思い出してみたら、私が話していると、なぜかムキになってくってかかられることがある。

 

私としては、できるだけわかりやすく論理的に、単純明快になるように話しているつもりなのだが、それが癪に障るらしい。

正直、それだったらもうどうしようもない。黙るよりほかに手段はない。

 

思えばいつも、コミュニケーションは難解で面倒な行為だった。

「雑談」というのも習得するのに時間がかかった。

どうでもいいことを話す、というのは、私にとってとても難しかった。

何とか他人の「雑談」に聞き耳を立てたりしながら分析と検証を繰り返し、編み出したのが「相手が関心がありそうなトピックスをいくつか頭に入れておいて、その話題を振る」だった。

相手のことを全く知らない場合は、季節のこと、食べ物のこと、なんでもいいから共通点が見出せそうなトピックを選んで、相手に質問する。そして答えてきた解答について、同じような見解や趣味趣向がある場合は、同意する。「私はあなたと似た者同士で、敵ではないですよ」と警戒心を解くのが目的の「雑談」。

「雑談」はとても疲れる。

楽しくなんかない。

どこに地雷があるかわからないベトナムの荒野を裸足で一歩一歩踏みしめるような作業だ。

相手がどう思っているかなんて、その時々で変わるし、趣味趣向だって年代を経ると変化したりする。

そんなあやふやなことをいくら話し合っても、身になることは何もない。

 

「相談」なのか、「ただ聞いてほしいだけの愚痴」なのかも、判別するのが難しかった。

「相談」だと勘違いしてアドバイスなんてしようものなら、逆鱗に触れる。

「ただ聞いてほしいだけの愚痴」なのかと思って相槌だけ適当にしていたら、聞いていないと怒られる。

「相談」だったとしても、まずは相手の気持ちを受け止める工程を挟み、共感してから、隣に寄り添うように自分の意見を言わなくてはならないのだ、とわかったのは、つい最近のことだ。

こういうことを国語の授業でやるべきだと思う。古文や漢文をやってる場合じゃない。こういう大事なことを義務教育で教えといてくれよ。えらい苦労したよ。

 

この「相談なのか愚痴なのか問題」は、私も逆の立場で不愉快になったことがある。

妻に仕事の愚痴を言っていたら「あなたって○○だからそうなるんじゃない?」と言われて、落ち込んだことがある。

つまり、俺が悪いってことね、と思うと、もう話す気も失せる。

聞き飽きているから終わらせたい、というニーズが妻にはあったのかもしれない。「私だって家事育児で疲れているし、そんなつまんない話聞く元気がない」というメッセージだったんだな、と後になって理解した。

もう仕事の話なんてしないようにしよう。

話して思い出してもいいことなんてないし、他人はどうにもならないし、ウザがられるくらいなら話すほうがストレスだ。

記憶の闇に葬り去るしかない。

 

会話して元気になる、という人の気が知れない。

疲れるだけではないだろうか。

私はとても疲れる。人に会うだけでもうヘトヘトだ。わざわざ疲れているときに会おうなんて、狂気の沙汰だ。

話すのが好き、という人をとても真似できないな、と思う。

私にとっては、話すというのはリスクだし、聞くというのはストレスだ。

 

私の話し方。

ブラック企業時代、上司に「日本語の話し方がなってねぇから、お前話し方講座にでも行ってこいよw」とバカにされて、真面目に受け取って自腹で学びに行った。

思い起こせば、あいつは私より話し方が下手だったと思う。身の程をわきまえず偉そうにのたまいやがって。いつか不幸になってほしい。

私は社会人になり、会話の構成に関する書籍を読み、分かりやすいプレゼン方法のHOWTO本を読み、要点をまとめてわかりやすく伝えられるように頑張ってきた。

しかし、肝心の何かが欠落している。

だから私が話すと、他人はムカつくのだろう。

その肝心の何かとは、概念化することができない共感覚というか、いわゆる『阿吽の呼吸』的なマナーなのかもしれない。

そして、私の「会話という行為に対する認識」に決定的に欠落しているのは「楽しい」という感覚だと思う。

会話が好きな人は、楽しんでいるからスムーズであり、共感覚が働くように、はたから見ていると思うことがある。

繋がることを喜び、楽しむという基本姿勢が、円滑なやり取りを可能にしている。

 

私にとっての「繋がる」は、見えない鎖で拘束されるようだと感じることが多い。

他人の欲、他人の思惑、他人の都合。

そういうものがべっとりと纏わりついた、忌まわしい呪いの鎖。

それでお互いの身体をぐるぐる巻きにされるみたいで、不快極まりない。

仕事では特にそうで、損得しか考えていないクズ野郎たちの欲と都合に振り回されるので、あまり他人と関わって仕事したくない。

しかし、人間は社会的な生物なので、その鎖の拘束がなくては、生きていくのは難しい。

自分だけで生きていければ平和でストレスフリーだが、そうはいかないので、生きていくために呪いとストレスを背負う。

生きるって、しんどいなって思う。

私の話し方がムカつくって、俺からしたら全員の話し方がムカつく。話そのものがムカつくよ。それでも我慢してんだから、そっちだって我慢しろよ、と言いたい。

こっちだって関わりは最小限にしたいよ。

できるだけしゃべりたくもないし、そうそう他人に伝えたいことも無くなってきた感すらある。

だって、他人は結局好きなように生きるんだもん。俺がいようが居まいが。

俺だってそうだし。他人がなんて言ってようが、自分が思うように生きるし、そういう風にしか生きられない。

寂しさや焦りがあったのは「陽キャであるべき」というべき論に囚われていたからだ。

陽キャだろうが陰キャだろうが、自分らしく生きていればそれで100点満点だと知った今、他人はさらにどうでもいい存在になった。

そんなどうでもいい存在に、とやかく言われたくない。話し方が気にくわないなら、話を振ってくるな。俺も話さないから。

なんかもう、人口1/10くらいになって、たまにしか人間に出会わない世の中になればいいのに、と思う。

多すぎるよ、有象無象が。嫌でも視界に入ってくるし、有難みが感じられない。

しかも口を開けば似たようなことしか言わなくて、内容がつまんないんだよな。

それで楽しめなんて無理がある。内容をもう少し煮詰めてから雑談に興じてほしい。

まあ、他人の問題なので、私がどう思おうが他人にしか変えられない。

 

別に私は悪くないのに、とかくこの世は生きづらい。

疲れたなぁ。