「あんまりイライラしなくなったね」って妻に言われるようになりました☺️
— ちあき🏳️A4C (@chiakiA4C) November 28, 2022
今までわけもなくイライラしていることがあった。
どうしようもない些細なことで、機嫌が悪くなることがあった。
最近はそれがない。なぜなのか。
おそらく3つの要因がある。
発達障害を受け入れたから
私は成人するまで発達障害(ASD・ADHD)と診断されずに人生を生きてきた。
生きづらさはたくさんあった。でもそれは「甘え」だと言われて叱責された。
・時間通りに目的地につけない
・忘れ物をする
・興味のないことに集中できない
・他人とのコミュニケーションをどうしてよいかわからない
・素直に本音を言ってしまって嫌われる
・好きなことを丸一日ぶっ通しでやってしまい怒られる
・過集中状態で話しかけられても気づかず怒られる、無視したと勘違いされる
こんなことが日常茶飯事だったので、クラスメートからいじめられ、家でも怒られ、本当に死にたかった。
「普通」であれと言われた。
必死に矯正した。
他人を観察し、反応を模倣し、とにかく周りから異質だと思われないための努力を積み重ねた。
他人から好感を持たれる所作、他人に攻撃されないためのキャラクターづくり、そんなことばかりしていた私の青春時代。
幼少期から青年期にかけて、私は私を偽るために、人生のほとんどのリソースを割いてきた。
それによって今、社会生活を何とか営めるまでに己を訓練でき、合わせようと思えば合わせられるようになった。
無駄ではなかった。
でも必要なかった。
私は、私を偽って外的脅威から身を守る生存戦略を確立する裏で、巨大なストレスを抱えるようになった。
私の生き方そのものが「私は私らしく生きていてはいけない」という呪いになった。
それは外的脅威よりも己を蝕んだ。自己否定は自信を奪う。より周囲に迎合するようになっていく。悪循環だった。
唯一の正解は、私が私らしく生きることだった。
他人の評価や好き嫌いは、実は全く関係なかった。彼らの問題にすぎず、私が気にすることではなかった。
そんなことのために貴重な10~20代を費やす必要はなかったのだ、と今ならわかる。
しかし、わかるために私の無駄な努力は必要だった。無駄ではない無駄だった。
そうやって、過去の自分が必死にやってきたこともひっくるめて、「自分が思うとおりに素直に生きていいんだ」と他ならぬ私が私にOKを出せてから、他人にイライラしなくなった。
なぜか?
「私だって我慢しているのに」と、自由に楽しく自分の人生を生きている人を妬ましく感じたから。
本当はそれが最もやりたかったことで、でもそんなふうに生きてはいけないと思っていたから。
全部、自分が禁止していただけだった。私も自由に生きてよかった。
そう思ってから、他人の人生に口を出さなくなった。
私は私の人生を一生懸命生きることに集中できるようになった。
仕事と距離を置いたから
雇われている人にとって、職場とは、自分らしく生きられない最低の場所だと思う。
私はサラリーマンに向いていない。20年近く勤めてみてやっとわかった。
組織の一員として、没個性的であることは、前段で述べた私の若い頃の生き方にそっくりだ。
周りと違うことをしない、ルールを守って良い子ちゃんでいる、言うことを聞いて褒められるのを期待する。
全部、間違いである。それは人間の人生ではない。奴隷の人生である。
私はそのことに気づいて、組織に肩入れするのを一切やめた。
結局は生活費をねん出するために会社という仕組みを利用しているにすぎない。
あちらも、利益を生み出すために労働力として人間を利用しているにすぎない。
そんな損得勘定に基づいたドライで価値のない関係性に入れ込む必要はないのである。
そして、驚くべきことに、多くの企業は社会のことなどまるで考えていない。
自分たちの利益を追求すること。それが会社という組織の目的で、それが資本主義社会では正義。
だから、そんなにまじめにやる必要はない。
誰かのためになる、なんて幻想でしかない。金のためである。
そんなもんなんだ、と理解したので、組織内での評価はどうでもよくなった。所詮は、もっと熱心に奴隷をしてくれるように仕組化された評価制度であり、仕事が評価されたから人間としてレベルアップするわけでもないし、何かを得られるわけでもない。
むしろ、現代社会で認められるというのは、人間として下劣であることの証明だと思っている。
損得しか考えない、心が死んでいる素晴らしい奴隷。そのなかでもトップクラスのクズです。
そう言われていると思って差し支えない。
薬をやめたから
「学校の成績が良くなり進学ができる」
児童精神を診ている発達障害専門の医師が、これをゴールに掲げていると言ったら、みなさんはどう思うだろうか。
私は、ゴールを間違えている、と思う。
義務教育学校は、国がこしらえた奴隷養成施設である。
そこで成績が良くて、何が回復なのだろうか。
学歴社会に置いていかれないようにするなんて、どうでもいい。
そもそも学歴社会が破綻しているのだから。
このような「専門家」が、訳知り顔で医療行為と称して子供のユニークな個性を殺し、奴隷に貶めているとさえ思う。
たしかに学歴は新卒採用時に有利なカードとして使える時代があった。
私が就職活動をしていた時代などは、学歴で足切りがあった。
しかし今の時代、グローバルで考えると、東大を出ようがFラン大学を出ようが、あまり学校の価値に差はない。
エントリーシートに学歴を記載する欄を設けない企業が増えてきた。
学歴より経験。何をしてきたか、何を感じたか、が重要になっている。
「学校の成績が良く難関大学に合格できた」
これは、先生の言うことを聞くことで内申点を稼ぎ、親の言うことを聞くことで自分で考えず準備されたレールに乗り、嫌だと思うことをやれと言われたから一生懸命やった、という意味である。
つまり「私は己を殺して命令を遂行できる、優秀な奴隷です」と自己アピールしている。
そんな歯車はもうこの世に腐るほどいる。そしてそのような鉄の檻から出られない没人格化した人間が、社会をダメにしている。
だから、発達障害にかかわるうえで本来重視すべきは、その子の「好き」を奪わないこと、義務教育という型にはめないこと、その子らしさを受け容れてどう生きていくか一緒に考えること、だ。
そう考えると、特性をあえて打ち消すようデザインされた医療用医薬品を投与すべきではない。
二次障害としての気分障害や不安障害は、一時的に介入する必要があるかもしれないが、それも早期に減薬・断薬して、本来の自分で生きていくことを大切にすべきだと思う。
本人ではなく社会が変わらなくてはいけないが、そうそうこの腐った社会は変わることはないので、ある程度の落としどころをつけつつ、その人らしい人生を応援する。
医療用医薬品はそのためにつかうドーピングであり、それが必要ないほど人生観が確立してくれば、必要ない。
なので、私は抗うつ剤もやめ、ADHD治療薬もやめた。
それで今一番調子がいい。薬を飲んでいた時は、イライラしていた。
私がイライラしなくなった背景は、こんな感じ。