月別アーカイブ: 2022年9月

【共依存】違うからおもしろい

私は妻と結婚してよかったなー、と心から思うことがよくある。

今日は入籍記念日。

空は青く澄んで晴れ渡り、鳥の声と虫の音が聞こえる。

秋の訪れを予感させる涼しい風が吹き、まだ夏の余韻を残す暖かい日差しが降り注いでいる。

 

妻と私

私と妻は、全く違うタイプだ。

「なんで結婚したの?」と知人から訝しげに聞かれるほどに。

 

私はASD/ADHDで、人間が基本的に苦手だ。

人の集まりなどは、極力避けたい。近くに人がいるだけで疲れる。

ひとつのことにしか集中できない。マルチタスクができない。

熱中しているときに他人に邪魔されると発狂しそうになる。

しかし、集中すると驚くべき行動力と創造性を発揮すると言われる。

そして愚直で嘘が下手で、論理的な思考が好きだ。

なので、冗談がわからないし言うのが下手だ。

 

妻は、友人にいつも囲まれている。

求められて、よくいろいろな人と交友している。それが楽しいらしい。

抜けているところはあるものの、基本的に同時進行でいろいろなことを片付けていく。

集中する、というのが苦手で、本人は何かに没頭できないことが悩みだという。

しかし、今を最大限に楽しみ機嫌よく過ごすことについてはエキスパートであり、その生き方はとても清々しい。

本人も言っているが、本人の言動の8割は冗談で構成されていて、虚実入り混じるというか、なんとなくニュアンスで伝わればいい、というコミュニケーションスタイルである。

 

私は妻と出会ったとき、なんとなく直感があった。

「このひとなら、ありのままの自分を表現しても否定されないのではないか」

「私に無い世界を見て、私に無い発想で驚かせてくれるのではないか」

その直感は当たった。

私とは全く違う、世界観と背景を持っていて、私には驚きの連続だった。

 

妻も実は同じように感じていたようで「こいつ、変わってんな」と思ったそうだ。

私の印象は「ロボットのようだった」とのちに妻は語る。

いろいろ考えながらしゃべっているので、いつも反応がワンテンポ遅い。

冗談を言うと、毎度真に受けて青ざめる。

それを妻は「おもしろい」と感じたらしく、しつこく交際を申し込んでくる私は特にタイプではなかったが「おもしろそうだから」と交際をOKしてくれたらしい。

当時の私はと言えば「この直感を感じたのはこの人だけだ。この人に交際を申し込んでダメだったら、おそらく今後もダメだろう」と謎の焦燥感を抱えて猛アタックしていた。

おもしろそうだから。

たったそれだけの感覚がきっかけで繋がった縁だった。

それが二人の子宝に恵まれて、今最も幸せな人生の時間を過ごしている。少なくとも私は。

人生とは、数奇なものだ。

 

似ているからうまくいく?

似ている人を好きになったこともある。

しかし、それは長続きしなかった。

似ている、ということは、同じであることを期待させる。

全く別の人間なのだ、違って当然。なのに、ちょっとでも違うと、裏切られたように感じる。

それはなぜかというと、自分の延長線上に相手を見てしまうから。

寄る辺のない自分と相手を「同化」させることで孤独を埋めようとすると、移植した細胞が拒否反応を起こすように、様々な軋轢を生じさせる。

似ていれば似ているほど、期待は大きくなり、それが叶わないとき強い怒りを感じる。

相手は自分とイコールなのだから、自分の思う通りに動いて当然と思い込む。

とんでもない傲慢だが、勝手にそうとらえてコントロールしたがる。

意に沿わない結論を相手が出したとき、「間違った結論」に至った「原因」があると信じ込み、相手の結論を変えようとする。

相手を尊厳ある別人格の個体として尊重していない。

尊重し合えない関係は、互いに怒りと恐れと不安を生む。どんどん不快になっていく。

なので、片一方が精神的に自立した結果、違和感に気づいて離れようとする。

すると、まだ相手が自分と地続きにいると信じているもう一方は、恐れと不安から激しく抵抗する。自分の半身を無理やり引き剥がされるような恐怖の感覚に陥る。

これが当人たちが「共依存」の状態にある証明でもあり、病んだ関係の末期症状でもある。

嫌いなのに、離れられない。好きなはずなのに、一緒にいるだけで苦しい。

終わりを告げる側が罪人扱いを引き受けて切り離さない限り、この地獄は続く。

告げられたほうは、被害者という免罪符を片手に握りしめて、相手に罵詈雑言を浴びせたり、泣いたり謝ったりして憐れみの情を催すよう働きかけたりする。

そして、それでも結論が変わらないことを悟ると、センメルヴェイス反射よろしく、相手のすべてを否定して拒絶する。

つまり、この場合、似ているからこそ、うまくいかなかったといえる。

似ているからこそ「理解し合える」という幻想を信じてしまった。

だから、その幻想を維持できなくなった瞬間、夢から醒めるように関係も終焉を迎える。

そして、修復不可能なほどに傷んでしまう。

 

人間は誰もが不完全だ。

完璧な人間など、この世に一人もいない。

だから、不安にもなるし、寂しくもなる。

誰かに認めてもらわないと、自分には価値がないのではないか、と不安と焦燥にかられる。

理解し合えるもう一人がいれば、と夢想する。

 

しかし残念ながら、他人と「理解し合える」というのは、不可能だ。

共感することはあっても、他人の感情や世界観をそっくりそのまま実感することはできない。

人間が鳥や虫の気持ちを想像することはできても、実際に彼らになることはできないのと同じように。

理解しているつもりになるだけだし、理解してもらえたつもりになるだけ。

すべては妄想だ。

 

違うからこそ、おもしろく、違うからこそ、知らなかった新しい自分を知ることができる。

それは喜びであり、生きていくうえで必要な刺激だと私は思う。

外界との輪郭を得るからこそ、「自分」という認識が成立している。

違う角度から光を当ててくれる光源が、自分とは違う人である。

だから人間嫌いの私も、哲学書を通じて古代ローマの哲学者などの死者が考えてきた思想に、自分の価値観のカタチをみて、ワクワクする。

 

死者は嘘をつかない。生に固執して偽りを言うことがない。

生きている人は、自分を利するため、生き残るために、息を吐くように嘘を吐く。

それは良い悪いではなく、生きている限り当然のことで、私もそうだ。

だから、そういうものだと思っておくのがよい。

嘘を言うかもしれない他人と、いくら言葉を重ねても、最終的に完全な理解に到達することはできないだろう。

言葉には限界があり、表現にも限界がある。

そのなかで互いに意味を推し量り、理解を確認し、なんとか繋がっているのである。

その蜘蛛の糸のようなか細い繋がり。

それをいくら集めても、心もとなさには変わりがない。

むしろ、糸が切れる毎に、儚い細さを実感するたびに、より寂しく孤独感を募らせていく。

 

この終わりなき孤独の連鎖から抜け出す一つの処方箋。

それが、「違う」を「おもしろい」と捉えることだ。

違うから許せる。

違うから自分が見える。

違うから魅力を感じる。

違うから、愛せる。

 

違いを受け容れるから、自分も他人も違っていいんだ、と思える。

目を覆いたくなるような欠点が、眩く光り輝く美点に変わる。

自分とは違うひとを、受け容れ許すこともできる。

そして、他人を赦せる人は、他人からも許される。

 

財布のひもをがっちり引き締めている人に対しては、 愛想の示しようもない。 手は手でなければ洗えない。 得ようと思ったら、まず与えよ。

引用:高橋健二編訳「ゲーテ格言集」新潮文庫

 

 

結局、求めていた承認や安心感というのは、違うからこそ生まれるものなのだ。

同じでいよう、そうすれば傷つかないで済む、と己の保身のために似ていると思い込める他人に近寄っていって、最終的にはそれまでより深く傷つく。そんな不毛なことはもうやめよう。

違ってもいい、合わなくてもいい。

合わなければお互いに距離を取ればいいだけのことで、お互いはそれぞれありのままであればよい。双方には善悪はなく、正誤もない。

 

おもしろそうだから。

たったそれだけの感覚がきっかけで繋がった、私と妻の縁がこのうえない良縁だったのだから、間違いない。

【仕事】まだ「金を稼ぐのが偉い」なんて思ってるの?

午前中。

会社の会議を聞き流し、畑仕事をしてきました。

いやー、畑楽しい。

サラリーマンより絶対こっちのほうがあってるな、と実感しております。

 

会議では驚きの発言がありました。

「社会の役に立ちたいのであれば、NPOや社会福祉法人で自己満足するのがよいのではないでしょうか」

というものでした。

 

私は製薬会社に勤めています。

製薬会社は、営利団体です。

たしかに株式会社であり、売上と利益を追求する組織でしょう。

しかし、医療用医薬品の売り上げというのは、保険で賄われています。

7~9割は、税金です。

ということは、ほぼ公務員と言っても差し支えない。

であるならば、公益のために働くのが当然でしょう。

しかしながら、中枢にいる幹部社員の頭からは、その認識がすっぽりと抜け落ちています。

 

本音は、社員が、社内のポジション争いに勝ちたいだけであり、昇進してもっとお金が欲しいだけ。

経営層は、役員報酬が欲しいだけ。そのためには株主総会で株主を納得させられる結果がないといけない。つまり、上司である株主には逆らえないのです。

 

つまり、全部自分のため。

社会のため、患者さんのため、というのは嘘です。

本当に考えているとしたら、開発した薬を無理に売ろうなどとは絶対にしない。

必要最低限、必要な人のところに届けばそれで十分だからです。

それ以上に売ろうというのは、単なるエゴでしかない。

それを正当化するためにいろいろと建前を並べます。

とても醜い。

 

冒頭にご紹介した発言も、とても理解できない感覚だなと思って聞いていました。

NPOや社会福祉法人が、自己満足?

何様のつもりなんでしょうか。

経済活動だけが正義だと思っているのでしょうか。

そんなことだから、とんちんかんな指示しか出せないのだろうな、と呆れて笑ってしまいました。

確かに社会は資本主義ですし、成果主義・合理主義が世の中を侵食して久しいので、そのように思い込んでしまう浅はかさもわからなくはありません。

でも、さすがに、いい大人が社会を知ったうえで言うことではないかなぁ。

「自己満足」と見下す非営利団体のひとたちのおかげで、社会はなんとか成り立っている部分があります。

国は全く頼りにならず、社会福祉は穴だらけです。

そういう愛をもった有志の存在が無ければ、とてももたない狂った社会であることを、この会社の人たちは知らないのです。

エリートの私たちには関係ない、とでも思いあがってしまったのでしょう。

哀れなことです。

 

そういう人間性を失った経済人が、この世には蔓延っています。

お金を稼ぐことだけが、絶対的な正義だと信じている。

自分たちの信仰を絶対だと思っている。

他の宗教と相容れない過激派組織。ナチスドイツみたいなもんですね。

「承認欲求を満たすために合法的な人殺しをしたいのであれば、営利団体の替えがきく歯車になり下がり、自己満足するのがよいのではないでしょうか」

と彼には返したいところです。

【仕事】上司哀れすぎ問題2022

私の上司が哀れでならない。

典型的な没人格で、毒を撒き散らしている。

しかしその自覚はない。

私はどうにかしてやる義理もないし、何かしてやることもできないので、遠くから眺めているわけだが、どうも鬱陶しいことには、私にちょっかいをかけたがる。

 

彼は、とにかく他人を管理下に置きたいし、コントロールしたい、と思っている。

そして、上司だから部下を完璧に行動管理すべきだし、そのために部下は「報連相」を徹底すべきだと思っている。

なるほど、それは彼にとって「正しい」らしい。

 

しかし私から見れば、それは「彼の中の正しさ」であって、私にとってはそうではない。

部下であろうと管理しコントロールすることはできない。

他人をコントロールすることは人間にはできないから。

できないことをしようとするからストレスが発生する。彼が私を管理できないからではない、そもそもできないことを彼がやろうとするから、お互い無駄なストレスを抱えることになる。

報連相であっても、大してやる必要を感じない。やる価値がないことはしなくてよい。

この上司の場合、損得でしか物事を捉えられない。

だから私が活動したことについて有益なアドバイスはまず見込めない。

さらに、損得であれやこれやと意味のないタスクを増やす傾向がある。

つまり連絡自体がリスクとなる。

そのため、連絡は自然と最小限になる。

 

さらにまずいことには、無理にコミュニケーションを取ろうと彼方からしつこくメールや電話をしてくる。

ウザいから別れようかなと思われている残念な彼氏が、特に何か行動を改めるでもなくしつこくLINEを送るみたいなもの。

本来なら着拒案件だ。

まだ気を遣って着拒しないだけありがたいと思ってもらいたい。

 

こんなにバッサリと見限ったのにも、背景がある。

私は、最初はちゃんと話を聞き、話をしていた。

彼の価値観を理解してできる限り譲歩しようと思ったし、私の価値観にも最低限配慮できる人だと、当時はまだ信頼していた。

話してみて、ああ、これはダメだ、と悟った。

まるで人の話を聞いていない。

耳を通過してはいるが、配慮する気が毛頭ない。

私は、以下のことをあらかじめアサーティブに伝えていた。

・管理されたり監視されたりすると、極端にパフォーマンスが落ちるので、できる限り信頼して任せてほしいこと

・必要なことは期日までに相談するので、あれはどうなったコレはどうなったと過干渉しないでほしいこと

・基本的に他人と話すことは私にとってかなりのエネルギーを使うので、会議やミーティングは最小限にしてほしいこと

 

全無視である。

彼は、自分のやり方を1ミリも変える気がなかった。

自分のほうが偉いと心の底では思っているから。

従うのが当たり前だと思っているから。

部下の発言やお願いなど、軽視しているのである。

だから、自分が逆に軽視されるとも知らずに。

 

彼からすると、なぜ私が思うように従わないのか、とても腹立たしく、理解できないと思っているだろう。

それは、残念だけど、彼には一生わからないと思う。

 

自分が他人にしたことは、報いとして己に返る。

私は私を軽視する人を重視しない。

聞く気がない人間に話すほど暇じゃない。

私のことを考えていない人の指示には従わない。

私は、私の心からの命令にのみ従う。その権利は誰にも奪えない。

被雇用者だろうと、部下だろうと、できないものはできない。

不服なら給与を下げればよく、要らないなら解雇すればよい。

私は私が働けるように働く。

私の働き方をうまく活かせるように考えるのは会社の仕事。

私は今の会社が合わないなら他で働くだけだし、なんなら独立して事業をする予定なので、特に社内の評価にはこだわっていない。というか、どうでもいい。好きにつければよい。

私の価値がわからないようなら、そこまでの会社だということ。

 

彼は、会社の評価を恐れているし、正しさを恐れている。

だからそれを意に解さない私をみると心がざわつき、余計に言うことを聞かせたくなる。

自分の価値観が否定されたように感じ、世界が崩れるような不安を感じるからだ。

そうやって「こいつが間違っている」「こいつが馬鹿でダメなんだ」と思って過干渉している。

躍起になって穴を探そうとする。

 

 

無駄なことをしているなぁ…と呆れる。暇で羨ましい。私は彼との無益な関わりを削減し、もっと楽しいことにリソースを使いたいから、申し訳ないけど適当にあしらっている。

早くあきらめて自分の人生に目を向けられるといいな、と陰ながら応援しつつ。

私も好きなように思っているから、彼も私を好きなように思えばいい。

私の価値は、この上司がどう思おうが、会社の社内評価がどうなろうが、1ミリも揺らぎはしない。だからどうでもいい。

彼は「なぜこんな冷え切った関係になってしまったのか」と内省できる謙虚さが足りないなぁ…と思う。

でも私にはどうしようもない。彼が気づき改めない限り変化は見込めない。

自分には至らないところなどなく正しいと勘違いしているから、その可能性に思い至らない。

残念なことだ。

実に哀れな人生だな、と同情を禁じ得ない。

でも私には関係ないから、気にすることもなく、ただ一切は過ぎていくのである。

諸行無常。諸法無我。

お互いにそれぞれ、善く生きることに集中しよう。

生きる世界が違ったね、という話。

 

【哲学】豊かさとは何か

「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

ウルグアイ第40代大統領ホセ・ムヒカ

 

この世は、物質的にはかつてないほど豊かになった。

街にもネットにも商品が溢れている。

SNSもyoutubeも、観ているだけでweb広告がひっきりなしに眼前に提示される。

「物質的な豊かさが人生の幸せなんだ」そういうふうに語りかけてくる。

しかし、私たちは本当に幸せだろうか?

若くして自殺する人は、この国では少なくない。

就職して結婚して子供を授かり、お金が足りないとあくせくしながら、義務に追われるように生きている。

やりたくもない仕事や家事に追われ、気づいたら1日が終わっている。

いつか自由になったらやろう。ボロボロになるまで我慢して働いて、気づいたときにはやりたいことができないくらい老いていて、時間も体力もない。

そもそも、やりたいことが何だったのかさえ、自分にもわからなくなっている。

こんな人生は、本当に幸せだろうか。

あなたは子供の頃から、そんなふうに生きていきたいと、心から願っていただろうか。

 

元々は、もっと自由に、やりたいことが山のように浮かんで、夜寝るのは惜しく朝が来るのが楽しみだったはず。

それが、物に埋もれ、義務に埋もれ、金に囚われ、世間体に囚われ、いつのまにか雁字搦めになり身動きが取れなくなってはいないだろうか。

その束縛が解けないまま、時間が矢のように過ぎていく。

そんなふうには、未来を描いていなかった人がほとんどではないだろうか。

 

欲望を削減する

ガンディーが弟子たちに示した戒律に「不盗」がある。

「不盗」とは、盗まない、ということ。

窃盗や万引きだけを言っているのではない。

必要量以上のものを受け取ることは、盗みだという。

「あの人の〇〇が羨ましい・妬ましい」と他人の何かを欲しがることを、人間の精神を貶める、最も陰惨な盗みだという。

欲しがるのは、今あるものに目を向けず、他人の何かを思い焦がれて欲望にうつつを抜かす。それはあなたの心を、あなた自身が盗んでいるということになる。

お金や物だけでなく、時間・エネルギー・機会もまた、奪ってはならない。

そもそも、この世のあらゆるものは一次的に預かっているもの。身体ですら、借り物であるといえる。

誰のものでもない物や金を不必要な分まで余計に蓄えるというのは、足るを知らないということであり、満たされない心が同時に蓄えられる。

つまり、借り物の物と金とセットで、その人は不安と恐れを溜め込む。

失う不安、奪われる恐れ。

だから、物質的・金銭的な豊かさは、不安と恐れが豊かなのであって、幸せとは対極にある在り方だ。

 

まとめ

無限の欲を駆り立てる現代社会。

金という幻想に左右される人間。

全て、今を生きていない。

欲と幻を追いかける虚構の世界のことわり。それを人々は「常識」とか「普通」と言って信仰する。

でもその宗教では、誰も幸せになれない。なれなかった。今どん詰まりにたどり着きつつある合理主義・資本主義・勝利主義社会が、それを証明したといえる。

 

幸せとは、あなたの心のなかにしかない。

誰かに与えられるものでもないし、一定の条件を満たさなければ見つからないものでもない。

ちゃんと耳をすまして聞いてみよう。

あなたの心が答えを知っている。おそらく、ずっと叫んでいるはずだ。あなたが耳を傾けていないだけ。

物や金の先に、幸せは無い。

あったと思っても、それは酒を飲み過ぎた夜にふと目にチラつく幻覚のようなものだ。

 

一切合切何もかも制約がないとしたら。

あなたがやりたいことは、なんだろう?

あなたの心が喜ぶ行いは、なんだろう?

 

ちゃんと耳をすまして聞いてみよう。

 

【社会福祉士】スーパービジョン

相談援助における記録の意義と具体的な記述方法について、実地研修するなかで学ぶことができた。

特に居宅支援事業所と在宅支援事業所でケアマネージャーや社会福祉士がどのように記録を行っているか、実際に見せていただいた。実に詳細にクライエントの経歴・趣味趣向・職業遍歴・家族構成・病歴・服薬状況・食事と排泄の状況(口腔含む)・認知機能・ADLと実に様々な個人情報が記録されている。特に記録の方法として専門的なのは、ジェノグラムである。一目で家族構成が分かり、誰がキーパーソンかも一目でわかるため、非常に実用的であると感じた。

特別養護老人ホームなどでは、看護師と介護士がそれぞれに医療側と介護側のその日の利用者の情報を記録し、日勤と夜勤の交代時や朝礼などのミーティングを通じて「申し送り」という呼称で情報共有をしている。生活の変化や、褥瘡や転倒などの事故を防ぐために細やかな状況まで記録する。それがターミナルに入り看取りが終わった段階で「サービスに改善する余地はなかったか」という視点で再度すべて振り返りが行われるのである。

ITも積極的に導入されており、情報共有のために専用のソフトがPCにインストールされていて、やり取りされたクライエントのアセスメント票の情報や担当者会議により決定したケアプランの内容などはすぐさまデータ化してセキュリティに守られたデータベースに記録される。それにより、安全に管理できクライエントに関わる人がいつでも最新の情報にアクセスできるようになっている。今日的課題として、ITで共有される個人情報の保護、という問題がある。近年のネット犯罪は高度化しており、セキュリティソフトや対策を導入してもすべてのハッカーの攻撃を防ぎきるのは不可能とされている。そんななか、アセスメント票のように財産にかかわる情報まで記載されている情報が漏洩してしまうと、犯罪に発展しかねない。今後さらにITの面で医療レベルにまで介護の業界も情報リテラシーを高めていくわけだが、その際にはネットセキュリティについてもさらなる強化と教育が必要な時代になってきた。

デイサービスやショートステイ、特別養護老人ホームなどでは、看護師がバイタルチェックをしており、脈・血圧・酸素濃度・呼吸回数・体温を毎日測定する。酸素濃度はSPO2という機器で指先から簡単に測定することが可能になっている。高齢者においては、自身の体調の変化に鈍感になっており、本人に認知症があれば季節感なども自覚がなくなってしまうので、体調管理や水分補給には気を配らなくてはならない。そのために、バイタルを定期的に測定し変化があればすぐ医療につなぐことができる、というのは、介護において欠かせないとても重要な記録であると感じた。

スーパービジョンの目的、機能、あり方についても言及してくださった実習先の社会福祉士の先輩方には感謝してもしきれない。

誰もが最初から同じように相談援助ができ理想的なコミュニケーションをとることができるわけではない。それぞれに経験したクライエントの数だけ実体験のケーススタディが存在している。そんな経験値の乖離をできるだけ早期に埋める目的でスーパービジョンは実施される。

機能としては情報や対処方法の共有・指導と合わせてそれを超えた仕事を通じての生きる上での悩みや課題と向き合うための支援という側面がある。なかには合わない利用者やクライエントとも関係構築を行わなくてはならないなかで、いかに傾聴し、質問し、ニーズを引き出し自覚を促すのか、そのコミュニケーション方法は一朝一夕には習得しえないノウハウであり、継続的なサポートによって体得しえる援助技術である。それらの技術の伝承は、スーパービジョンにより時間をかけて実施されるべきである。また、仕事を通じて倫理的葛藤や仕事に対する姿勢について悩み苦しむ時間が人を育て仕事をより良くする。そのような悩みを抱えた成長するチャンスを逃さず、機会に変えていくことが、スーパービジョンを受けた人の人生をも豊かにする。

つまり、スーパービジョンの在り方とは、その人にただ単に必要事項を伝達し管理監督する、という単純な指導責任者ではなく、担当する新人の人生の充実を視野に入れたある意味での相談援助の一環としてとらえ、長期的視野をもって寄り添っていくということである。それを実現するためには指導する側の成長もなくてはならない要素であり、非常に難しいことだが、もしそのような在り方を実現できたなら、指導を受けた新人だけでなく、指導する先輩にとっても大きな財産になるだろう。