【哲学】自分の死とはなにか

解剖学者の養老孟司先生は、「自分の死」は「論理的に意味がない」と言いました。

 

「死」とは、自分のものではない、ということです。

「死」という概念は、その人の親しい人の死で構成されています。

親の死。子どもの死。恋人の死。友人の死。会って話したことのある人の、直接の死。

知らない他人の死は、どこか遠くで起きている出来事のようで、つまりみんなどうでもいいと思っているんですね。死のうが生きようが知ったこっちゃない。

客観的に、自分の死体というのは知覚することができません。

死んだら、自意識は存在しないから。

つまり、自分の死というのは、想像の産物です。

想像の産物をいくら考えても、仕方がないし意味がない。

それでもなぜ考えてしまうのか。

「終わり」ということへの、恐れと不安があるからです。

つまり、自分の「死」というのは、「恐れと不安」に因数分解されます。

何に対する恐れと不安なのか。

それは、自分の生に価値があったのか、結論を出すことへの恐れと不安です。

「自分は人生において価値を残せないまま終わるのではないか?」という恐れです。あるいは「感じるべき喜び・本来やるべき責務を残したまま終わりを迎えるのではないか?」という不安です。

 

漫画『バガボンド』で、槍の名手である宝蔵院胤舜は、武蔵と闘った末に生と死のはざまをさまよいます。その際、自分の人生を走馬灯のように振り返ります。

そして、己が強さと勘違いしていたものは、弱さを覆い隠すための「偽りの強さ」であり、自分の弱さを隠すことに必死で精いっぱいだったために、自らを孤独にしていたことに気づきます。

 

俺は強くなったはずだった

 

強くなろうと思って

懸命に砂をかけていたのか

 

罪を 弱さを 覆い隠す為に完全無欠の強さを求めたのか

 

俺はここから一歩も動いちゃいなかった

俺自身も覆い隠し 誰に何も与えもせず

 

孤独

 

孤独のまま

もう誰にも手の届かない場所に

 

生きたい

 

引用:『バガボンド』第8巻 砂遊びより

 

死への恐れと不安、未練ともいうべきか。

死に直面してはじめて彼は、深くカギをかけて向き合ってこなかった現実に気づきます。

友がいたこと、愛に包まれていたこと、孤独ではなかったこと、自分の弱さ。

真の「孤独」とは、それらの周りの愛に気づかないまま、己の弱さを直視しないまま、誰とも繋がらないままに生きてしまうことで生まれるのではないでしょうか。

己の弱さを認めて受け容れることができない限り、本当の強さには到達しえない。

本当の強さとは、「自分が弱い」という事実を知り受け容れていることです。

だから、強い人は優しい。

 

武蔵……

優しくなった

強くなっているんだな

強い人は皆優しい

引用:『バガボンド』第25巻 より

 

命が終われば、一切は関係がなくなります。

どれだけ賞賛され財産を蓄えようとも、それはこの世界からの借り物。

我々は受託者であって、所有者にはなりえない。

なぜなら、いつかその人生には、終わりが来るからです。誰にも等しく、借りていたものを手放すときが来るからです。

大好きなあの人も、憎くてたまらないあの人も、認めてくれたあの人も、認めてくれないあの人も、誰もかれもが、いつか必ずこの世界から姿を消します。

死後のどんな名声も悪評も、死んでしまったら、自分自身には何の損得もありません。自分の肉体は既に朽ち、知覚する意識も身体的機能も土に還っているから。

だから、誰かに認められようとか、誰かに気に入られようとか、誰かに復讐してやろうとか、そういう感情も対象も、いずれは何もかもが消えてなくなるということです。

もっと巨万の富を得ようとか、もっと社会的権威を得ようとか、そんな行動には意味がないということです。

そんな意味のないことに費やす時間。とてももったいないと思いませんか。

 

今そこにある現実だけがすべて。

ということは、与えられるべきものはいつでも、全て揃っているといえるでしょう。

終わり(死)というのは、いつも傍にある、ということです。

常に誰の隣にもひっそりと確実に寄り添っていて、当人がそれを身近に感じるか、遠く感じるかの違いでしかない。等しく終わりはある。

それが救いでもあり、恐れと不安の源でもあるんだなぁ、と思います。

 

限られているからこそ、その一瞬一瞬には価値がある。

桜を美しいと思う心があるように、その輝きが有限であるからこそ、人は美しいと感じるのです。

限りがあるからこそ与えられたものを有難いと感じ、生命感があるからこそ、深い歓喜を味わうこともできるのだと思います。

 

今与えられているものに不満がある、というのは、不自然な欲望に目が眩んでいるから。

哲学者エビクロスが分類した欲望には、自然な欲望と無益な欲望の二種類があります。

無益な欲望は、富・名声・権力などです。

自然な欲望には2種類あります。

必須ではないものは、豪華な食事・性愛など。

必須なものは、衣食住・友人・健康など、です。

 

日本の三大随筆『徒然草』で兼好法師も次のように言っています。

人間にとって必要なものは、衣食住に薬。

その四つが満たされていない状態を、貧しいというべきであって、これらが満たされているのなら、その人は充分に豊かな生活をしているといえるだろう。

そして、この四つ以上のことを追求することを、贅沢と考えることだ。

引用:『徒然草』兼好法師

 

結局、名誉や欲望に囚われて心静かに過ごす暇もなく死んでいくというのは、とても苦しい不幸なことだということです。

財産や名声を失うことを恐れ、満たされない欲望に不安を感じながら、業火に焼かれるように生きる。そんな苦しみに満ちた人生は、豊かな人生と言えるでしょうか。

「足るを知る者は富む」という言葉がありますが、あるものに感謝できて平穏な心で「今」を生きることができる、それが真に豊かなことだと思うのです。

 

そんなふうに穏やかに強く優しく生きている人は、他人に施すことができます。

見返りを求めず、自分が大切に想うものを差し出すことができます。

それを、愛といいます。

愛を譲りうけると、その人と繋がることができます。愛によって、ひとは他人と繋がります。

そしてその繋がりは、死してなお、生きている人を勇気づけます。

肉体が滅びようとも、今を生きる人のなかに、あたたかな支えとして在り続けることができます。

その支えで生きた人が、また愛をこめて他人に関わると、それは次世代に引き継がれていきます。

「いつまでも生きていたい」という欲望のために、他人を使おうとしたり操作しようとしたりする人がいますが、それは永遠とは最も遠いところにある行いだといえるでしょう。

唯一、私たちが死を越えて残せるとすれば、それは愛しかない。

逆に言えば、大切な人に無償の愛を捧げた人は、死なない。

 

存在しない「自分の死」。

その妄想に目を眩まされることなく、今を生き、愛を行う。

それしか、私たちにできる事はなく、それこそが、死を乗り越える唯一の方法だといえるでしょう。

 

愛するということについては、フロムの技術体系をこちらにまとめています。

【メンタル】失われた「愛する」という技術(エーリッヒ・フロム)

 

 

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