月別アーカイブ: 2021年5月

【社会福祉士】この世の虚しさについて

なんかめっちゃ疲れた。

最近とても疲れることがある。

何にかというと、世の中や人との関わりにまつわる虚しさに。

 

会社(仕事)の虚しさ

会社での仕事なんてまさにそうで、虚しさの塊みたいなところだ。

昨日社内テストがあって、取り扱っている製品について何時間も解かされて疲れた。

しかも、「○○○○試験において、試験の背景はどうだったか?」みたいなクソどうでもいい内容のテストだ。

なんでクソどうでもいいかというと、そんなのパンフレット読めば書いてあるからだ。覚えなくていい。暗記する必要が無いので、問題にする意味がない。

問題を作っている人の意図は「営業の人たちの理解が深まるように」ではない。

「デキない人だという理由を積み重ねてしかるべきときに楽にリストラできるように」というのが目的だ。

それが見え透いているから、心底くだらねぇなぁと思う。

私はそういう実質的に私にとっても世の中にとっても意味がないものにはやる気がしない人だ。

よくこんな無意味な問題をつくっていて、自分は仕事してる、給料をもらう価値がある、と思えるよな、と思う。

私が問題作成者側だったら嫌になって会社やめるレベル。子どもに胸を張って言える内容ではない。

役員も株主の顔色をうかがいながら、既成事実の捏造のために下に当たり散らして、権力者にはこびへつらう。やっているのはそれだけだ。

美辞麗句を並べ見た目ばかり取り繕って中身がスッカスカ。まるで私の実家のような吐き気を催す邪悪そのものじゃないか。

こんなオママゴトみたいな仕事で、人間本来のライフサイクルから外れたゲスくてつまらない仕事もどきのほうが、実際に食べ物を作ったりお世話が必要な人を助けている人々の仕事より実入りがいいなんて、世の中ってお金って何なんだろうな、と思わざるを得ない。

 

善行 でもそう

他人のためにどうのこうのというのも、同じようにくだらない。

結局、全部自分のためなんよ。

耳障りの良いこと言っているけど、結局は他人の役に立つ自分なら少しは好きになれたり、マシに思えたりするから人助けをしているだけ。

つまり自分を好きになりたいから他人を助けている。

それを見失っている人は感謝や尊敬という見返りが得られないと分かると途端に、「せっかくやってあげたのに」とか「恩知らずだ」とか急に被害者ぶって手助けしていたはずがいつの間にか加害者側に180度反転している。おそろしいことだ。

重要な決定は誰もがしたくない。責任を取りたい人なんていない。

だけどいつか誰かが決めなくてはいけない。

その役割をやってもらっておきながら、文句言いや責任追及だけはいっちょまえにする人がいる。ホント、どんだけ都合がいいんだよ、と思う。

私は何かを決めるときには、良い面も悪い面も責任を持つつもりで決定する。

だから後でなんだかんだと後付けで言われることも引き受ける前提で考えをまとめて、それを私の意見として話す。

いろんな場面でそんなことがあり、結果的に私が提唱した案が採用されて状況が動くこともよくある。

経験しているからわかるんだけど、ほとんどの場合、思うように感謝されたりしない。

全方位的にうまくいくような解決策を制限時間内に定めることはほぼ不可能なので、どこかで負荷がかかるし何かを満たせないことはある意味しょうがない。

だけど代替案も出さないような無責任なやつが往々にして「これが問題だった」「あれが想定できていないからストレスがかかった」などと騒ぎだして、ちあきのやった方法は間違いだったんじゃないか?などと最終的には救おうとした人にまで後ろ指を指される。

知ってる。

そうなるって知ってた。

だから静観することもできた。

だけど、それは嫌だからやった。

だから納得してる。

だけど、虚しいわ。正直。

頑張ったよ、俺だって。いろんな方法を考えて、最も最適だとその時判断したことに、誰も異議を唱えなかったじゃん。でも、結局何か言われるのは決断を下した人なんだよな。

頭のなかのもう一人が「そんなに苦しむだけなんだったら、関わらなきゃいいじゃん」という。

そうだよなぁ。その通りだと思う。

でも俺は、見て見ぬふりしてだんまりを決め込むほうがもっと夢見が悪いんだよ。

だから致し方ない。

私はそれ以外を選べなかったし、無責任に途中で放り出すこともできない人間なんだ。

 

社会支援 でもそう

何かしらの啓発だってそうだ。

私は好きでやっているし、やれる範囲でやっている。

これ以上もこれ以下もない。

使命感とやらで無理をしてやっても、最終的には押し付けにしかならない。

自分がやらないと居ても立っても居られない気持ちになり、落ち着かないからやっているだけ。

こうなったらいいな、と思うことは勝手だけれど、その通りになることが必ずしも正しいわけでは無いんだよ。

それぞれがそれぞれに在るように在るだけで、クズはクズでいるのが自然だし、良心がある人は良心に従って生きていくだけ。脅威や侵略をする哀れな生き物(他人の権利を侵害するタイプのホモサピエンス)からは、知恵ある我々が逃れるしかない。必要なら本人が必要な手段で必要な対策を講じるサポートをすればいいだけ。

結局は、本人がどう生きたいか決める。

私たちは、自分が、どう人生を生きるかに責任があるだけであって、それ以外は結局どこまで行っても他人事なんだよ。

あーだこーだ言ったところで、私たちは私たち自身が幸せに生きること以上にできる事など、実は何もない。

正直、私は他人の人生は結構どうでもいいし、割と信頼している。信頼しているというのは、勝手にがんばるし、勝手に幸せになる力を持っている。

助けるというのは本来おこがましくて、その人に手を貸した結果、その人の力で勝手に助かるだけだ。私はただ手を貸すということを、したいからしただけ、余裕があるからしただけ。

余裕がないのに他人の手を掴もうとするのは、逆に奈落に引きずり込んでいる。

まずは自分の足場をしっかり固めないと、一緒に落ちていくだけだ。

そのあたりを自覚しないで、他人とより多くよりしっかりと手を繋いでいることを誇るような支援者や啓発者は、自分が助けているのではなくて、自分がその人たちが困っていることで助けられているだけだ。自らの存在意義を確認するために、その人たちを遠回しに利用しているだけ。

その辺の薄気味が悪い偽善が垣間見えて、なんだか萎える。

 

 

まあ、今日は唯々愚痴を言うだけのブログになってしまったけど、何とか生きている。

こんな感じに落ち込むことはよくあること。というか、酒を飲んでいたころはいつもそういう不快感があったから酒に逃げていただけで、酒が無い今表面化するのは当たり前。

この虚しさを受け容れてもなおできるだけ楽しく生きようとしているだけでも、というかそういう姿勢こそが、回復した証拠だよな、と思う。

前なら死んじゃいたかったからな。つまんなすぎて。

動物も娘もかわいいし、捨てたもんじゃないよな、と思う瞬間があるから、私はまだ虚しくてもやっていけるし、楽しみを見つけるセンサーの感度を取り戻しつつある。

マザーテレサが言うように、他人がどう反応しようとも実は関係なくて、私のなかの最良のものを手渡すことが、自分の為なのだ。他人との間のことは一つもなく、私と私のなかの魂とのやり取りなのだ。

だから、反応が返ってこなくとも、逆恨みされようとも、動揺せずにできることをするだけなのだ。人生はそれだけだ。

そしてそれが一番遠回りのように見えるが、最終的に私がたどり着きたい場所への一番の近道になる。

他人に後ろ盾を求めたり、責任を押し付けたりすることは、もう卒業したからこそ、世の中に蔓延るそれらが浮き彫りになってきただけだ。

そう信じて、休み休み生きていきたいと思う。

【共依存】シリーズ「わたしの共依存」④20万を借りパクしていった君へ

私は「ある出来事」があってから、お金は一切貸さなくなった。

貸すときは、あげるときだ。

返ってこないとしてももう構わないや、と思うときだけ、貸す。

「ある出来事」とは、高校からの知り合いに20万円を借りパクされたことだ。

 

S君

借りパクしたのは、S君という男の子だ。

彼は一人っ子だった。名犬ラッシーのようなフサフサの毛の犬を飼っていた。

ピアノがうまくて、ラフマニノフやショパンが弾けて、割とイケメンだったからモテていた。運動は少し苦手だった。

元いた中学校では成績がトップだったらしく、高校でもそこそこ成績が良く、同じ進学クラスにいたので徐々に話すようになった。

 

彼は、少し落ち着きがなく、どこか陰があった。

なので、高校生の当時、私は彼を少し面白いなと思った。

ピアノが弾けて勉強ができてイケメンなのに、アニメが好きでオタクだったし、先生や学校に従うのを嫌うので、完全な優等生タイプとは少し違っていた。

私は反抗挑戦性障害(ODD)なんじゃないかと今思い返せば疑うほど、先生や学校にたてついていた。学校の備品を破壊したり、高圧的な教師に徹底的に反抗して授業を妨害し職員室に呼ばれたりしていた。

教師をバカにして目をつけられていた。勉強をしなかったので成績が悪くなる一方だったが、スポーツでは表彰され続けていたので、一目置かれてはいた。

S君は、自分より下だったり、どこか欠けている人と付き合う傾向にあった。

私は見事にバランスを欠いていたので、彼にとってはとても興味がある存在だったのだろう。彼から話しかけてきたように思う。

なんとなく教師をバカにしているところが共鳴して、よく一緒にいた。

このままおそらくお互いにある程度の成績で関関同立程度以上の大学に進学し、エリートではないまでも、そこそこのステータスで社会に出るはずだった。

 

しかし、S君は受験に失敗した。

原因は、バカにしていじめていた中学時代の同級生に深く恨まれてストーキングされた挙句、復讐を誓うその子につきまとわれる恐怖で不登校になってしまったことだった。

受験どころではなくなり、彼は統合失調症を患った。

受験でそこそこのところに合格できなかったので、たしか大阪にある駿台か代ゼミか河合塾かなんかの寮に入って浪人していたと思う。

私は現役合格したので、大学生として関西にいた。

彼は私を友達だと思っていたので、よく連絡してきた。

学祭を一緒に回ったり、一緒に酒を飲んだりした。想像に難くないと思うが、そんなちょうしだったので勉強は全然していなかったようで、当然のように受験はその年もその次の年も全然うまくいかなかった。

そして、ゴミみたいな私立大学に入って、彼はもっと精神のバランスを崩していった。

 

学歴コンプレックスが極まっていた。

在学生たちをバカにして、自分より優秀な人はいないと言っていた。

私をおそらく高校時代は下に見ていたのだが、圧倒的に差をつけられて嫉妬と羨望が入り混じったような妙な絡み方をしてくるようになった。

何人もの中学生と同時に付き合って「彼女がたくさんいる」と紹介して自慢してきたり、私より優れているところを見せつけるのに必死だった。

 

タバコを持つ手は常に震え(おそらく統合失調症の治療薬等による錐体外路症状)、うわごとのように昔語りを繰り返すさまは、哀れだった。

 

私の共依存的な関わり

私は、彼が私より下にいることを安心材料にするようになった。

とても恥ずかしいことだが、私はうまくいっていない当時の自分の状況を見て見ぬふりをするために、彼を憐れみ、利用するために関係を続けていたのである。

最低のクズだと思う。

私は大学までは何とかギリギリ及第点だったものの、そのあとベンチャー企業に入ってあまりのブラックさに「これは失敗した」と思って焦っていた。

アルコールの問題も日に日に深刻になり、もともと小さい自尊心を毎日鑢でゴリゴリと削られるような毎日だった。私はみるみる摩耗していった。

そんな私にとって、さらに底辺に近いS君の惨状を見るのは、とても安心できたし、気分がよかった。

「ああよかった、私もたいがいゴミだけど、さらに下でうごめいているやつもいる」

そんな気持ちで、彼が一生懸命女性関係をアピールして私にマウントを取ろうとしてくる様子を心配している優しい友人を装いながら、その実哀れな彼の姿を酒の肴に一杯やっていた。「彼よりはマシ」という優越感を味わうことで、毎日毎日上司にコケにされ馬鹿にされるしんどい日々を頭の外に追いやろうとしていた。

 

これは、明らかに共依存的な関わり方だったと思う。

共依存とは、自分自身に焦点があたっていない状態のこと。

私もS君も、お互いを見ることで自分の苦しさを見ないようにした。

まさに、自分の人生に焦点が当たっていない。むしろ意図的にずらそうとしている。

 

ついに、S君は金に困るようになり、金を無心してくるようになった。

私は、表向き「彼は大切な友人だから助けてあげなくちゃ、そしてまともに生きていけるように俺がしっかり言って聞かせなくちゃ」などと自分に言い聞かせて、なけなしの貯金から20万円を貸した。

私が望んでいたものは、それによって私が決定的にS君の上に立つことだったと言わざるを得ない。

当時の私の醜さは、今振り返るとみるに堪えない。

金を貸したのは、「俺のおかげで」問題を解決できた、という既成事実をつくりたかっただけだろう?彼の為でもなんでもない、自分の為じゃあないか。

「私は働いている。友人が困ったときに手を差し伸べられるくらい素晴らしいんだ」とブラック企業で死にそうになりながらこき使われている惨めな自分にも、少しは価値があると思い込みたかっただけ。自分の問題から目を逸らしたかっただけだろう?

何を「その人のためだ」などと偉そうなことを。

その後彼が結局借りた金を返せないことも計算ずくで、また息詰まるのを舌なめずりをして待っていたくせに。

そのときに「借りた金を返さないとはどういう料簡だ」と正論を振りかざして「そんなんだからダメなんだ」と彼を責めてサンドバックにするために。

「厳しいことを言うようだけど」などともっともらしく前置きをして神妙なふりをして、実際は相手の話や状況を想像するのをサボって自分が正しいと信じ込んでいるだけ。

言っていたことはひどい有様だった。

「統合失調症だと?病気を言い訳にすんなよ」

「返す気がないから働かないんだろ?俺は毎日終電逃しても働いてるよ」

偏見にも程がある。冷たいにも程がある。

自分が言われた傷つく言葉を、言う側になって溜飲を下げたいだけ。

自分の言いたいことを自分の言葉で素直に伝える勇気がないだけ。

弱さや不安を正しさで取り繕っているだけ。

自分を慰めるために金で囲ったようなものだ。

それは友人に対して、人間に対してすることでは無い。

S君に謝らなくてはならないこと

S君、私は、君のことを本当の意味で友人として大切にしていなかった。

友人として、とても恥ずかしいことをした。

君を尊重しているのなら、君が自分で人生を選び取ることを信じるべきだった。それが友達のすることだった。

だから、あのとき金を貸さないことが、君のために最もすべきことだった。

そして、同時に、私が私を大切にするためにすべき選択は、君の問題に首を突っ込んで共依存することではなくて、自分に向き合うことだった。

それから逃げるために君を使い、君をイネイブリングしたことを、心から謝罪したい。

君をバカにして、本当に申し訳なかった。

私は後悔している。

君に当時伝えたかったことは、本当は少なくて良かった。

「私も頑張る、君も頑張れ。信じている。」それだけでよかった。

変に上から目線で言ったことは、すべて私の弱さと醜さだった。

君は君で一生懸命に生きていたのに、私はとんでもなく失礼だった。

 

もう今はS君がどこにいて何をしているか分からないけど、彼が幸せでありますようにと思う。

20万ぽっち、安い授業料だったよ。私は私の問題に気づくために、S君と出会ったのだと思う。

お金はもう返さなくていいから、元気でいてくれたならうれしい。

 

【AC】「恨み」の棚卸し②

恨みが、あなたにとって問題であるような状況を調べなさい。そのような状況を記載するとき、次の質問に答えなさい。

1、あなたは何を、誰を恨んでいますか?
2、あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?
3、この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?
4、どんな性格特質が目立っていますか?

引用:『ACのための12のステップ』 より

 

上から目線のアドバイスを長文で送りつけてきた人のエピソード

1、あなたは何を、誰を恨んでいますか?

私は、一緒にプロジェクトをやろうと話しかけたとき、やたら高圧的な上から目線のアドバイス(しかもわかりきったような稚拙な内容)を長文で送りつけてきたBさんを恨んでいました。

しかも、Bさんは他の人を経由して私たちがやっているプロジェクトには頼ろうとしてきました。

どのツラ下げて頼んできてんだよ…と呆れ返りましたし、侮蔑の気持ちを持ちました。

 

2、あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?

相手の一方的で不遜な態度です。

自分のほうが優れているという思い上がりがにじみ出ていて不快でした。

私が「助けてほしい、頼りにしている」と伸ばした手をぴしゃりと叩き落されたような気がしました。

それが哀しかったし、怒りと恥ずかしさを感じました。

仲間だと思っていた気持ちを裏切られたと感じました。

 

3、この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?

この恨みにより、私はその人が高圧的に他人を批評する姿を見るのが不快になりました。

回復者のふりをしているだけで、承認欲求と傲慢さを克服できていない未熟な人間だと思うようになりました。

そのような未熟な人間に頼る必要もないんだし、むしろこちらから願い下げだ、と距離を置くようになりました。

それ以来、同じようなネットワークで知り合った人に頼ることをやめました。こいつらに頼るのは金輪際もうやめようと思いました。

仲間だとか横のつながりだとか上辺だけ綺麗ごとを言っているだけで、そのつながりはあてにならないと思いました。本当に困っているときには手を振り払うような、薄情な人間しかいないと思い込むようになりました。

その人たちが「仲間のおかげで」「仲間のために」などというたびに、胸やけがしました。飽きもせず嘘ばっかり言ってんじゃねーよ偽善者が、と思って鼻で笑っていました。

 

4、どんな性格特質が目立っていますか?

「孤立」

「コントロール」

「権威ある人を恐れること」

 

私は拒絶されたことに、正直ショックを受けました。

目的やゴールが同じなので、協力してくれるだろうと期待していたし、80%は固いと踏んで声をかけたからです。

そして予想外のしっぺ返しを食らったダメージを緩和させるため、「孤立」して自己防衛しようとしていたと思います。

私としては、他人を頼るということはかなり勇気を出したことでした。

その行いは賞賛されるべきもので、何かを成すのに自分ではすぐにはできないから、という無力を自覚しての行動です。素晴らしい。私はそのように手を伸ばせるまでに回復したということです。

そして、私が認識しなくてはならないのは、私に悪いところは何もないし、ショックを受ける必要はなかった、ということです。

結局、私が勝手に期待しただけでした。それは「コントロール」であり、おそらくOKをもらえるだろうと計算して、他人の能力を利用しようとしたのは確かです。

相手は、それができないと言っただけでした。

まあ、その人がご高説を垂れる必要もなかったのですけれど。

それは、他人の課題でした。

つまり、その人には、相談されて一緒にできる自信がなかった、やる能力がなかった。能力があっても、今はいっぱいいっぱいで手伝えないと思った。

「自分は今、何らかの能力不足で要望を受け付けられない」をそのまま伝えるのは恥ずかしい、とてもその勇気が持てないので、もっともらしい正論を並べ立てて私を追い返すしかなかった。

それは、私ではなくその人の「否認」です。

「自分には余裕が無くて今はできない」というのは、実はちゃんと相手を尊重しているからできる事です。

無理をして引き受けたとしても、相手を傷つける断り方で強くrefuseして自尊心を守ったとしても、結果的に良い状況は生まれません。

強く拒否するのは恐れているから。つまり、相手の恐れが私を傷つける形になって表出していただけでした。

私は当時強がりで「相手がショボいだけだ」と思っていましたが、奇しくもそれは的を射ていました。相手に、私の要望を一緒に実現するだけの能力が無いから受けることができなかった、その事実を恥ずかしくて認められず、素直に言えなかった、というだけでした。

 

だから私は「孤立」しなくていいということです。

その繋がりのすべてが腐ったリンゴなのではない。

たまたま今回は腐ったリンゴに語りかけてしまっただけで、他の人にトライする価値は常にある。

そして、他の人も、できないならしかたない。それ自体は悪いことではない。

なぜなら、私にもできないことはたくさんあるから。それと同じ。

できるひとでやれることをやるしかない。

できないことは、できない、と素直に言うことが最も優しいこと。

 

人々が、あるがままの私たちを受け入れてくれることが分かってきたとき、自分の感情を、もっと楽に表現できるようになってきます。

それと同時に、自分を受け入れられるようになり、自己評価が高まってきたことの結果として、さらに快適に落ち着いて生活するという、貴重な贈物を楽しむことができるようになってきます。

引用:【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑦(孤立)>孤立からの回復ってどんなこと?

 

あるがままの私たちを受け容れてくれることを理解するには、私たちがあるがままで生きてみないといけません。

その勇気と引き換えに、本当のつながりが見えてきます。

そのつながりのなかで私たちは自分の感情をもっと楽に表現できるし、その結果、できないことについて他人を頼れるようになってきます。

私はまさに、回復するにつれて、自己評価が高まってきたことを実感してきています。

自分らしく表現しながら生きていて他人に批判的な態度をとられたとしても、認めてくれる人は認めてくれる。

否定されたとしても「私とは少し価値観が違う人だったんだな」と理解するようになりました。

バカにしたり失礼な態度をとる人には「おそらく余裕や能力が不足しているんだな」あるいは「何か哀しい辛いことがあって健康な精神状態ではないのかもしれない」と思うようになりました。

自分の側にばかり責任があると思い込まない。

それこそが、ACからの回復を、ある意味決定的に特徴づける、思考方法の大転換なのだと思います。

 

参考:恨みの課題演習の過去の取り組みは以下のリンクから見られます。

【AC】「恨み」の棚卸し①

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録①(恨みについての課題演習)

【AC】「恨み」の棚卸し①

恨みが、あなたにとって問題であるような状況を調べなさい。そのような状況を記載するとき、次の質問に答えなさい。

1、あなたは何を、誰を恨んでいますか?
2、あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?
3、この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?
4、どんな性格特質が目立っていますか?

引用:『ACのための12のステップ』 より

 

失礼なメールを送ってきた人のエピソード

 

1,あなたは何を、誰を恨んでいますか?

私は、とある研修の運営主体であり責任者のAさんを恨んでいました。

 

2,あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?

研修を受けた後、私が質問を送ったメールの返信で、私の意図と理解の範囲をよく把握しないうちに「ボタンを押しただけで答えが出てくるわけではありませんよ」などと上から目線の返事をしてきたことに、強い怒りを感じ、恨みを持ってきました。「馬鹿にしやがって」と思ったし、その人を物事をよく理解していると信頼して頼ったことを後悔しました。思ったような素晴らしい人物ではなかったことに落胆し、そんな人だと信じてしまった自分の浅はかさを憎みました。

研修中の状況も思い返せば、聞くに値しない質問をする迷惑な参加者のように扱われていたと認識して、とても哀しい気持ちになりました。

時間管理で精いっぱいで私たち参加者の疑問や質問より、スケジュール通りに研修をこなすことを最重要視しているところが垣間見え、研修の完成度の低さに落胆しました。

 

3,この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?

私は、そのことがあってから、私のなかでこの団体の評価を下げました。心のなかで、取るに足らない、大したことのできない未熟な集団と位置づけました。馬鹿にされた分バカにしてやろうと思いました。

 

4,どんな性格特質が目立っていますか?

特性は以下の3つが複合してます。

「権威のある人たちを恐れること」

「承認を求めようとすること」

「低い自己評価」

「コントロール」

 

私は研修を受けた当時、その団体に大変権威があると思い込んでいました。

私がその団体に軽んじられることや存在価値を認められることを、不自然に重く取り扱っていました。存在価値を認めてもらえないことを恐れていたし、拒絶や批判を恐れていました。

それは、ひとえに私の自己評価の低さが問題でした。

彼らは彼らなりに準備したものを提供し、彼らの経験の範囲のなかで回答したにすぎません。それがたとえ今回のように思ったより質が低いものだったとしても、それは私の見る目が無いわけでもないし、彼らに落胆する必要はなかったということです。

そして、彼らにとって、私がメールのなかで提案した改善策は、受け取って気持ちのいいものではありませんでした。

なぜなら、運営に関するアドバイスをするなど、彼らにとって一参加者として参加しただけの私にされるべきものではない、という認識だったから。

私がより良くなるのに、と思ってかけた言葉は過干渉であり、共依存的な行いでした。私の評価が上がること、すなわち存在価値が上がることを期待して行動していたからです。つまり厳密にいえば彼らの為ではなかった。だから彼らにとっては不快なアプローチとしてぞんざいに扱われてもおかしくない内容でした。冷静に後から考えればそうです。

つまり、私は彼らに必要以上に構うべきではなかった。

そんなことをしなくても私には価値があるし、彼らは彼らのやりたいようにやればいいのだから。

彼らから自発的にアドバイスを求められたらすればいいし、特に求められていないなら心のなかで「ショボいな」って思っとけばいい、ただそれだけのことだったのです。

 

私がどの程度理解していて、どういう意図で質問していたのかも、私とその人は1回あっただけですから、分かるわけがない。

今まで接してきたアディクトたちの知能レベルと反応のケーススタディの累積から推察するしかない。そしてその結果はじき出されたのが「ボタンを押せば回答が出てくるわけじゃない」というなめた答えだったということです。

つまり、彼らが接してきた人々の集大成というか想像上の平均的なキャラクターがおそらく「ボタンを押せば回答が出てくる」と思っている思考停止型のアイデンティティを持っている、ということがはっきりしただけで、私がばかにされたわけではなかった、ということです。

彼らが接してきた人たちが統計的に思考停止型の人間が多かったので、経験上そういう思い込みが発生しただけで、それは彼らの問題でした。

つまり、彼らの反応がどうであっても、私の価値は少しも変わらない、ということです。

 

まとめ:すなわち私はその人を恨む必要がない

ここまで見直してみると、私の課題とその人の課題が複合していることが分かります。

そして、私の課題に私は取り組むことができるけど、その人の課題はその人にしか解決できない、ということで、持つべき課題意識が明確になります。

私は自分のAC的な認知の歪みを修正することができる。それしかできない。

つまり、以下のように振舞いを変えることで、私は彼らを恨まなくていいということが分かります。

「権威のある人たちを恐れること」→権威があるという思い込みを捨てる。そうすると、その人たちを恐れなくて済む。

「承認を求めようとすること」→その組織に承認される必要などなく私は私であるだけで価値があるし、それは他者評価によって左右されるものではないことはないと知る。

「低い自己評価」→自分の能力を現実的に認める。両親や権威ある人たちとの関係で培ってきた誤った自己イメージ(自分を無能のように思い、他人のほうが正しいと思う)を捨てて、他人の行動と切り離して考える。

「コントロール」→彼らが主催するイベントなのだから、それが結果的に不満足な内容であっても私の責任ではないので、彼らの運営と自意識に任せて必要以上に関与しない。

 

私は私の問題に真剣に取り組む以外にできることはない。

なので、彼らの認識の誤りを正す必要もないし、ショボいイベントをより良くする責任もない。

だから、私はそのメールで彼らを恨む必要は、最初からなかった、ということです。

 

参考:恨みの課題演習の過去の取り組みは以下のリンクから見られます。

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録①(恨みについての課題演習)