【メンタル】映画『孤狼の血』に学ぶ、人生の生々しい輝きについて

 

私は元来、あんまりヤクザ映画が好きではない。

不良がなんかケンカするだけの映画も好きではない。

でも、この映画はとても好きだと思ってしまった。

その証拠に、2日で3回観た。Amazonプライムで。

 

 

物語の舞台は、昭和63年、暴力団対策法成立直前の広島。所轄署に配属となった日岡秀一(松坂桃李)は、暴力団との癒着を噂される刑事・大上章吾(役所広司)とともに、金融会社社員失踪事件の捜査を担当する。常軌を逸した大上の捜査に戸惑う日岡。失踪事件を発端に、対立する暴力団組同士の抗争が激化し…

(C)2018「孤狼の血」製作委員会

監督:白石和彌

主演:役所広司松坂桃李真木よう子

出典:Amazon.jp『孤狼の血』より

 

 

「呉原というダーティな街に舞い降りた天使だと思って、私は演じました。」

と語るのは、主役の大上章吾を演じた役所広司である。

真ん中の滅茶苦茶厳ついおっさんが天使?と思うかもしれないが、見終わった後、なかなかどうして、天使に見えてしまうから不思議である。

 

この映画は、安いバイオレンスやアウトローへのナルシシズムに酔った作品とは違う。

冒頭からしっかりグロいので、近年の映画では類をみないそういった残虐で派手な描写に目が行きがちかもしれないが、そういった表現手法はあくまで脇役だと感じた。

本筋は、白石和彌監督が語った以下のコメントに凝縮されている。

(今は)生きづらい世の中になってきている。決して暴力がいいって言いたいわけじゃなくて、この頃の昭和の男たちの生き様は、自分の意志で動いて、必要なことは必要と言い、嫌なことははっきりNOと言う、私たちが忘れかけている人間の生き様そのものだ。

これから社会に出ていく若者たちは、誰の背中を見て働いていったらいいのだろう?ということをすごく感じる。社会全体のエネルギーがなくなっている一つの原因だと思う。

そういう意味で、大上の背中を、ちゃんと見届けてほしい。

 

自分の欲望に素直に生き、意志を持ち貫くことの人間臭い、生の輝き。

一生懸命人が生きる姿の、逞しさと力強さ。

大上の背中の大きさや厚みとは、そういうものでできている。

「じゃあ聞くがの、正義たぁ、なんじゃ?」

「落ちんようにするにゃあ、歩き続けるしかなぁ。のう、広大。わしゃもう綱の上に乗ってしもうとるんじゃ。ほんなら落ちんように、落ちて死なんように、前に進むしか、ないじゃなぁの。」 大上章吾

真に重要だと「自分が信じること」を実現するために、覚悟を決めること。

恐れるべき相手を正しく恐れ、自分の脳味噌で考え、汗だくで生きることそのものの、武骨な魅力を、大上の背中は教えてくれていると思う。

 

私たちは、自分の欲望を忘れて久しい。

社会も家庭も会社も、共依存的な関わりにあふれている。

誰もが役割を押し付けられて、その役割のステレオタイプを演じている。

「他人に馬鹿にされたくない」「認められなければならない」という不安や義務感で、自分の価値を高めることに毎日が消費されていく。みなマーケットで負けないように一生懸命だが、本当にやりたいことではない。

市場において「よい商品」であろうと努力し続けることが徒労に感じるのは、実はそれはあなたが本当に「やりたいこと」ではないからだ。

本当はやりたくないことで毎日がいっぱいになって、本当は何をしたかったのか、どう生きたかったのか、わからなくなっているのである。

欲望があるとも叫べず、叫ぼうにも何が願いなのかもわからず、私たちは途方に暮れている。

 

大上と出会ったばかりの日岡のように、ルールや規則を守ってさえれば絵に描いたようなわかりやすく薄っぺらな正義が守ってくれる、と信じたい。実現不可能な夢物語を信じていたい。

自分のなかに目指すべき何かがないとき、誰もがそうだ。

我々はそんな青く純粋で生真面目な日岡の目線で、大上の背中を追いかける。

物語が進むにつれて、今まで自分が信じたいと思い描いてきた善悪の構図に疑念を抱くようになる。

小綺麗な勧善懲悪など、実はこの世には存在しないのではないか。

血で血を洗うような生々しい魂のせめぎ合い。それが生きていくことの本質だとすれば、その泥沼のような血溜まりを、自分で航路を定めて漕ぎ進めてゆくほかない。

そんなグロテスクな現実を見ることは、誰もが怖い。足がすくむ。

組織という檻の中で犬として大人しく飼われていれば見なくて済むものが、この世にはたくさんある。

そして、それが良しとされてきた。賢いことだと言われてきた。だから疑いを持てない。

誰かに飼い殺しにされ、それにすら目を瞑って、うろんな生涯を過ごしていれば、無惨に死ぬことはないのかもしれない。

でも。…そうやって大事なことから、自分の本心から眼をそらすことに、みな実は嫌気がさしているのではないだろうか。

誰かのために生きることを躾けられて、飼い慣らされた犬のように、日々無様に鳴いている、いや嘆いているのだ。

 

だから皆、どことなくイライラしているのではないか。

 

メディアを見れば、他人の人生のしくじりを血眼になって探しては、叩き溜飲を下げようと必死なひとばかりだ。

何もかも、自分の人生の空虚さ、生きている実感のなさを、『怒り』という嗜癖で、目を背けたい、本心を見て見ない振りをしたいからなのではなかったろうか。

 

俺は強くなったはずだった

強くなろうと思って 懸命に砂をかけていたのか

罪を 弱さを 覆い隠す為に完全無欠の強さを求めたのか

俺はここから一歩も動いちゃいなかった

俺自身も覆い隠し 誰に何も与えもせず 孤独

出典:『バガボンド』第8巻 砂遊び より引用 宝蔵院胤舜のセリフ

 

強さという『結果』や『正しさ』を追い求め、宮本武蔵との命のやり取りを経て、やっと自分の過去の過ちと弱さに向き合うことができたときの、胤舜のセリフが蘇る。

必死で砂をかけてきたのは、私たちも同じではなかろうか。

逞しく「己の生涯」を往き切ることに死力を尽くさないで、私たちは何に力を尽くせるというのだろうか。

 

他の何したところで、退屈で不安で、どこか苛立つだけだったろう?

実は、それはもう、みんなすでにわかっていることだろう?

 

本来我々は狼であり、孤独であろうとも狼として生きることが最も人間性に溢れた生き方なのだ。

単純な白黒ではない、グレーで泥臭いこの世をいかに生きるべきか、否、どう生きたいか、だ。多くの人がずっと先延ばしにしてきたであろう、この力強い問いを、大上の背中は私たちに突きつける。

 

狼として生き切る勇気を持ちたいと思う。

大上の背中の魅力は、綱渡りでも前に進む勇気を携えた頼もしさだ。

私が、こうありたい、と願う姿を別の形で体現している。

自分を生きていくこと、人に愛情を持つことに、正直な生き様だ。

 

その背中をずっと追いかけてきた日岡がタバコに火をつけるラストシーンに、私は勇気をもらった。

大上のライターが、自分の人生を生きる、覚悟の火を灯す。

 

人間はなぁ、一回こっきりしか生きられんのよ?

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