月別アーカイブ: 2019年12月

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録④(恐れについての課題演習)

今回は、「恐れについての課題演習」をしたいと思います。

恐れの健康的な取り扱いを学ぶことは、回復の過程の重要な要素です。

この記事の課題演習 の続きです。

 

私の恐れ

「恐れが、あなたにとって問題であるような状況を調べなさい。そのような状況を記載するとき、次の質問に答えなさい。」

 

1、あなたは何を、または誰を恐れていますか?

恐れを抱く人は、高圧的な人。自分に自信がある人。権力を持っていて私の生活を脅かすことができる人。噂話が好きな人。陰口を叩く人。裏表があり裏切る人。

私の判断や行動に影響してきて、私がそのまま思ったことから遠ざけたり、思い描いたようにやりたいことができなくなるからだと思われます。制限をかけられるイメージで、見えない圧力で自由に動けなくなる感じです。重力のようなもの。

信用したくてもできなかったり、信じたのに裏切られたりしたら痛みに耐えられないから、そういうリスクがある人も、恐いと感じます。

 

2、あなたに恐れを感じさせるものは何ですか?

大切な人に嫌われること。頼りにしていて愛を向けている人から何も反応が返ってこなくなること。

本心をうちあけたとき、これが恐すぎるからいつも喉がカラカラになります。

居場所がなくなること。ここにいてもいい、という権利がなくなること。誰にも望まれなくなること。いてもいなくても変わらないと思われること。

だから役に立たないと、と思うし、何かしてないと不安になるし、役に立ってないとその場にいてはいけないような気になる。望まれないと居てはいけないと思っている節があります。

酷評されること、つまり他人に低い評価をされること。生きている価値がないと思われること。これはやっぱり、評価をされてないといちゃダメだと思っているようです。さっきの「役に立たないといけない」に似ています。

今大切にしている人や場所失うこと。失った悲しみに耐え生きていかなければならないこと。人が去っていく、見捨てられるのがすごく辛いイメージがあって、いなくなられる悲しみに耐えられそうにないから、失うのが恐い。だから、自分が多少傷んでもキープしようとしがちです。それが歪んだ自己犠牲に繋がっています。

自分がやってきた失敗やされてきた苦しみを「繰り返す」こと。同じ過ちをすること。その時の後悔や悔恨を味わうこと。自分が許せなくて存在を消したくなるし、すっごくイヤーな苦しい気持ちになります。取り返しがつかないような気がしてしまいます。

たぶん親から「3回言われてできないような奴は一生できない」みたいなことを言われて育てられたことが起因しています。それで同じ間違いをするの怖いし人に聞けないのかもしれません。3回目は見捨てられる覚悟で聞かないと聞けません。その恐怖に負けて、わかったふりをしてしまう自分がすごく嫌いです。

自分をこれ以上嫌いになるのも、恐れてるんだと思います。

自分を大事にできないから。

 

3、この恐れはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?

とりあえず簡単には他人を信用せず、頼らず、借りを作らず、貸しをつくることでコントロールしようとしてきたと思います。

結局ダメだったし、コントロールなんてできないし、ブッつぶれてお酒にはしりました。

ひとりでなんとかしようとしました。嫌われるのが怖いし、居場所を失いたくないし、失敗できないから。

顔色伺ってほしいだろう反応ばかりして気に入られようって無理したり、やたらがんばって役に立たないとと自分を追い詰めてきたんですね。

同じミスを許せなくて、頭の中の自分が自分を罵倒しています。いつも。

そこまでしてひとりで頑張ってきたことが、正当に評価されなかったら烈火の如く怒ったし、評価しない人間を許せなかったです。それは恐れだったんだと思います。いてもいい権利を否定されたと感じて。

自分でやってただけなのに。

一人になったのも自分・

がんばったのも勝手にやったこと。

でも、他の人も許せなくなって、俺はがんばってなきゃここにいることすら安心できないのに、なんでみんなは頑張らなくてもいていいんだ、理不尽だ、ていう怒りに繋がってたと思われます。

 

 

4、どんな性格特質が目立っていますか?

「承認を求めようとすること」

「コントロール」

「見捨てられ不安」

「権威のある人たちを恐れること」

「孤立」

「低い自己評価」

「過剰に発達した責任感」

 

まとめ:

なんか全部、他人基準なんだよな、という感想です。

他人に認められないとダメ

他人に必要とされないとダメ

他人に愛されないとダメ

他人より優れてないとダメ

だから他人はライバルでありながら、顧客のようで常に緊張感がある存在になりだから、人といることそのものはすごくストレスに感じることになってしまっているんだろうと思います。

だから、適度に時間を空けないと人と話すのが難しいくらい追い詰められるし、人混みなんかはパニックに近いくらい神経が逆立つような感じがします。今でもそうです。

とにかく人がいると落ち着かない

だから営業は正直つらいです。人に会いたくない日もあります。

 

ネットの自助グループに繋がり、その仲間といるときは、神経が逆剥けになるような感覚がなくてすごく穏やかな気持ちでいられるから不思議です。

だから、その仲間に嫌われるのはすごく恐いと感じます。

ちょっとした誤解で、私はまた間違えて簡単に、今のこの大切な人たちも失うんじゃないか、と思うと恐いです。

だけど、仲間のみんななら、そのまま話しても受け容れてくれるかもしれない、という期待が捨てられないし、今まで受け容れてくれたから、話してみたい、頼ってみたい、信じたい、と思えます。

そう思って、いつもちょっとビビりながら、自分が今までやってきたより勇気を出して、手を差し出してる感じがします。

その手をとってくれる仲間に、大切な人に、感謝してもしきれない毎日です。

本当に、ありがとう。

 

 

性格特性に関して、個々に事例を振り返りながら、棚卸ししていく必要があります。

これはまた次回以降。

【依存症】年末年始で再飲酒してしまった話

こんにちは、ちあき です。今年も、もうあと少しですね。

この年末年始という季節は、実家に帰ったり、旧友と会う約束があったりして、つい羽目を外したくなるし、「1杯くらいいいじゃないの」という甘い誘惑に誘われたりして、どんなにこれまで頑張ってきていても、再飲酒(スリップ)してしまうことがありますよね。

そんな危機について、今回は振り返りつつ私の考えを書いてみようと思います。

 

正月に再飲酒(スリップ)してしまった私のケース

2017年1月1日。

私の場合は、義理の実家に帰省していた時でした。

義理の実家は緊張しますよね。ただでさえアウェーなのに、お酒がずらりと並ぶ年末年始。

「アルコール依存症」という私の病気を理解している人はまだまだ少ないので、『もう治ったんだろう』とか『病気だなんて考え過ぎだろう』みたいな軽い気持ちで、私の目の前でどんどんお酒を飲みます。

断酒して半年ほどだった私にとって、その環境は地獄でした。

事前に相談のうえで、妻と一緒に飼っている愛犬を一緒に連れて帰ったのですが、赤ちゃん連れの義姉夫婦が、まるでばい菌の塊であるかのように愛犬をあしらったのがすごくつらかったので、イライラが募りました。

わたしたちは「連れてきていいよ」と言われたから連れて帰ったのに、なんだよそれは!と。でも、義理の実家とはいえ他人の皆に当時の私はそんなことは言えませんでした。

極めつけに、1月1日に義理のお父さんがお酒を勧めてきました。

「正月くらいいいんじゃないんか?」と。

やめておきます、と答えた私に、義姉の旦那(義理の兄)が、

「酒も飲めないなんてつまんないですよね」と義父にニヤつきながら話したのを聞いて、もうブチ切れました。

「そんなに勧めてくれるなら飲もうかな」

そう言って、ビールを空けたら、もう止まりませんでした。

皆さんに、と持ってきた30缶の350mlビールをすべて自分で飲み切り、ブラックアウトしました。(つまり、10.5ℓのビールを、ひとりで飲みました…)

そのあともまだ酒を飲ませろと怒り狂い、義兄に「おら、俺より飲んでみろや、このクソやろうが!うちの犬をクソ扱いしやがって!」などと怒号を浴びせまくった挙句、さんざん手をかけさせた後で、轟くような大イビキをかきながら寝たようです。(翌日青筋を立てている妻から聞きました。)

 

結論:飲んでも全くいいことはない

ストレスをすべて酒にぶつけた私が翌日どうなったかは、想像に難くないでしょう。

二日酔いで体調は最悪。義姉夫婦はカンカン。気まずい空気のなか、1月2日以降の正月休みが過ぎていきました。

 

こちとら飲みたいのを1日1日薄氷を踏むような気持ちで一生懸命日々断酒しているのに、「1杯くらいいんじゃないの?」「正月なのに」「飲まないなんてノリが悪い」「つまんないやつだな」こんなこと言われたら、そりゃストレスがたまるでしょう。私は死ぬほどたまりました。だから死ぬほど飲みました。そして、死ぬほど後悔しました。

それを、断酒しているみんなには、味わってほしくないな、と心底思います。

飲んでも、何にもいいことはありませんでした。

結局、飲ませようとしてきた誰かや、飲みたいと思うような気に障ることをしてきた誰かは、私のことなど考えていないひとたちです。

自分のことは、自分で大事にするしかありません。

そんなひとたちのために、大切な自分が守ってきたものを差し出す必要はない。

だから、そっと、そういう場から離れてしまったほうがいい。

そんな人たちに嫌われても、馬鹿にされても、どうせ私たちのことをそんなに真剣に考えていないのだから、そんなどーでもいい人たちに好かれようとしなくていいのです。

その人たちが私たちのことをどうでもいいように、私たちだってその人たちにどう思われようが気にする必要ないですもん。

だから、あなたは、あなたがしたように振舞っていいし、NOと言っていい、と私は思います。

 

もし再飲酒(スリップ)してしまったとしても

「いや、もう飲んじゃったんだよね…」という、そこのあなた。

 

飲んでもいいことないってわかってたって、飲んでしまう気持ち、わかります。

私たちはそういう病気だから。

 

 

大丈夫。

よくがんばった、えらいよ、と私は言いたい。

あなたがダメなわけではない。辛い病気になったもんですよね、お互い。

 

逆に考えてみていただきたいのが、スリップするということは、それまで断酒を継続していたからです。

断酒する、というとてもハードな道を歩む決意をして、それを歩んできたから、「再飲酒」という事象が発生しうるわけで、その決意や努力が無ければ、スリップなんて元からないわけですから。飲み続けてれば、もっと最悪な未来が待っていたのを、あなたは今日までよくがんばってきた、と思います。

それまで断酒してきたこと、努力してきたことは、別に消えてなくなったわけではありません。

確かに、あなたが努力してきたことを、私は知っている。

だって、私は同じように再飲酒(スリップ)して、ここにいるのだから。

 

再飲酒(スリップ)は辛いです。

もう、死んでしまいたいと思うでしょう。このまま消えてしまいたい、と思うでしょう。

私はとても思いました。恥ずかしくて情けなくて惨めで、もう消えてしまいたい、と思って涙が出ました。

 

だから、再飲酒(スリップ)したとしても、私はあなたを尊敬します。

多くの問題飲酒をしている人たちが断酒に踏み切れないなか、あなたはそれに踏み切った。

エチルアルコールという薬物を欲しくなる、飲まなくては平静ではいられない病気でありながら、1日1日と、酒を断つ日々を乗り越えてきた。

そんなことは、できないひとのほうが、実は多いのです。

皆、「酒を控えるなんて当たり前だ」「社会人としての自覚がないからだ」「だらしないからそんなことになるんだ」などと、見当違いなことを言うでしょうが、同じように病気になって断酒してみろ、と言われて何%のひとが断酒に踏み切れるでしょうか。

おそらく一握りです。それだけ、私たちは狂気に満ちた道を歩もうとしています。

そして、その修羅の道に踏み出すことができたあなたは、周囲の、まだエチルアルコールという合法薬物に狂っていながら私たちを見下す人たちよりも、努力している。

間違いなく、努力している。それを忘れないでほしい。

だから、また一緒に歩んでいきませんか?と言いたい。

もう一度立ち上がるのはすっごく苦しいし、無理にポジティブになれとは言えません。私はなれなかったし、「前向きに」とか言われたら殴ってやろうかと思うくらいイライラしましたし。

スリップしても、少なくとも私はあなたをダメだなんて思わない。

そういう断酒の道を歩む仲間がいるってことを、忘れないでくださいね。

 

アルコール依存症ではないあなたへ

ここまで読んでくれて、「私はアルコール依存症じゃないんだよね…」という人がいたら、最後にこれだけ守ってあげてほしい。

『無理に酒を勧めない』

私は飲んでいたころ、無理にお酒を勧める筆頭みたいな最悪なやつでした。

「同じだけ飲め」とか「飲まないやつはサムい」とか「酒の席なのに飲まないなんて失礼だ」とか。いわゆる『アルハラ』してました。後悔しかない…。

 

そんなん、おかしな話だから。

 

シラフなのに飲み会に来てくれてるだけで、神様みたいに心広いよ。

だって、あんなつまんない、同じ話でくだを巻く臭いおじさんおばさんが集まった会合に、ニコニコして出てきてくれるんだよ?

飲んでないからっていって、送迎までしてくれたりするんだよ?

 

やばいよ。もう、生き仏だよ。

 

だから、大事にしてあげて。

飲まない人は、何か理由があって飲まないんだよ。

体質的に飲めないのかもしれないし、妊娠してるのかもしれないし、病気なのかもしれない。そういう背景があるから、飲まないっていう選択をしつつも、あなた方との時間が大事だから、わざわざシラフで参加しようとしてくれてるんです。

それだけで、ありがたいじゃないですか。

無理やり飲ませたり、飲まないのを責めたりしないであげてください。

どうかよろしくお願いします。

 

飲む人も、飲まない人も、良い年末年始になりますように。

 

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【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録③(凍りついた感情)

こんにちは、ちあき です。

今回は「凍りついた感情」について棚卸ししていきたいと思います。

 

凍りついた感情とはどんなこと?

わたしたちの多くにとっては、自分が感情を持っているということを認めることさえ難しく、ましてそれを表現することはとても困難です。子どものとき、わたしたちの感情は、非難や怒りや拒絶に出会いました。生き残るための手段として、わたしたちは自分の感情を隠すか、完全に抑圧しました。
成人になったわたしたちは、しばしばその存在や激しさに気づかずに、痛み、罪、恥、憤怒の感情を、わたしたちの深い部分に貯蔵して持ち歩いています。わたしたちは「安全」に感じるために、「持って良い」感情だけしか自分に許すことができません。
わたしたちが人生や生活に応答する仕方は、実際に感じている現実から自分を守るために、歪んでいます。歪んだ、抑圧された感情は、恨みや怒りや抑欝の原因となり、さらには時間が経つにつれて、身体的な病気を引き起こすこともあります。

感情が凍りついていることは、わたしたちに次のような問題をひき起こしているかもしれません:

● 自分の感情がわからない
● 歪んだ感情を持っている
● 感情を抑圧する
● 抑欝を経験する
● 身体的な病気になる
● 浅い人間関係しか持てない

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
69Pより引用

 

自分の感情がわからなくて困る

私は、自分が何が好きなのか、何を食べたいのか、どんなことをしたいのか、などがよくわからなくなることが頻繁にあります。というか、ほぼわかりません。

自分のやりたいようにしかしたくないくせに「好きなことしていいんだよ?」と言われるとひどくまごつきます。

好きなことってなんだったっけ?となり停止します。

食べ物を食べに行くとき、「なんでもいいよ?何にする?」と言われたとき、すごく悩みます。

 

それはなぜか?

「好きにしていいよ」って母親がいったときも、先生がいったときも、好きにしたら怒られたり、哀しい思いをさせて傷ついたりした結果、そのまま受け取れるほど性格が真っすぐではなくなってしまったからです。

例えば、父親がケーキを買ってきたとき。

イチゴのショートケーキが2個あり、チョコレートケーキがあります。

父、母、私の3人家族で食べる場合、「さあ、○○から好きなケーキをとっていいよ?」と母親に言われました。

あなたは、何をとりますか?

何をとるべきでしょうか?

 

正解は、イチゴのショートケーキです。

なぜか?

イチゴのショートケーキが好きだからではありません。

母親が何を食べたいかはっきりしない以上、先に選択肢をつぶさない唯一の方法は、2個あるものを選び、選択可能な状態を崩さないこと。母親が選びたかったものを選ばずに済み私に責任が及ばないのは、イチゴのショートケーキだけだからです。

 

私は無邪気に何も考えずとったケーキが、運悪く母が食べたいと思って買ってきたケーキだったことがありました。

母親は「本当は私はこれが食べたかったのに…」と哀しそうに食べ終わった後で言いました。

私は心から後悔しました。

「何でも好きに選んでいいよ?」というのは言葉通りにとっていはいけなかったのだ、そういうわけではなかったのだ…。

私は次から母親の視線や指をさす順番、何を好きで何を嫌いなのかを考えて、選択肢を選ぶようになりました。

妹が生まれてからは、妹に先に選択権が与えられるため、さらに難解になりました。

2個ある選択肢がつぶされる場合が増えたからです。

先に選ばせたり、手を伸ばしてみて顔色を窺ったり。様々な手段で『母親が選びたいものではないものを選ぶ』ことが、『好きなものを選んでいい』という言葉の真の意味だと理解していました。

さて、私は何を食べたかったのでしょうか。

今はそれがわからない。他人が欲しがりそうなものはわかる。それを譲るのは得意です。

しかし、私が欲しいものを選ぶことが、どうしてもできません。

今は私が稼いだお金だし、私の自由に時間が使えるし、成人しているのだから、もう誰の機嫌もうかがう必要がないのに。

 

復讐に爽快感を感じる(歪んだ感情を持っている)

そうした抑圧への不満や怒りは、ゲームや映画などの残虐な表現やプレイを好むという風に形を変えて現れていたように思います。

好きに人を轢き殺したり撃ち殺したりできる海外のゲームをよくやっていましたし、大事なものを奪われて、その復讐(リベンジ)を果たす、というストーリーにものすごく引き込まれます。

 

特に好きなのが、「完全なる報復」 と 「レヴェナント: 蘇えりし者」 です。

 

 

 

おそらく、親や大人に抑圧されてきた感情が怒りとして表出し、それを代わりにやってくれている主人公にあこがれて、すごく興奮しました。
現実でも、何か屈辱的な思いをさせられたことや、尊厳を踏みにじられたことをずっと覚えているタイプです。
何十年も前のことを執念深く覚えていて、絶対に10倍返しにして仕返しをしてやろうと、腹にため込んできました。

失礼な態度をとってきた人には、それ相応の報復をし返してきました。

そうした時折見せる厳しい冷徹な態度は、周りの人々を緊張させ、遠ざけていたように思います。

 

浅い人間関係しか持てない

私は、親しい友人というものがあまりありませんでした。(今はやっと本当に大事な仲間ができましたが。)

 

正直に伝えることが怖いです。

今まではそれを受け容れてもらえなかったから。

正解はわかります。今はこういうべき、今はこう返すべき。

そんなことばかり話していると、ちゃんと会話しようとしている人は気づきます。

「お前の本当のところはどうなんだ?それが聞きたいんだ」と言われたとき、私はひどくまごついてしまいます。

本当の気持ちがわからないからです。

 

私は本当は復讐をしたいわけではありません。

イチゴのショートケーキではなく、チョコレートケーキが欲しかったのかもしれません。

本当の気持ちを言ってもいいんだろうか?

本当にこの人はそう思っているのだろうか?

言葉の裏を読んで対応することばかりしてきて、額面通りに言葉を受け取れない私がいます。

 

「正解しか言えない」という目に見えない呪縛

私は正しいことや間違いないことに固執しそうでなくてはいけないと思ってきました。

でも、本当は正しくなくたって感じていることや好きって気持ちは事実なんだし、それはいいも悪いもないんですよね。

父親と母親はいつも正しかったので、何も言い返せませんでした。

私が感じていることは間違いで、父や母が言うとおりにしていれば、「正しい」。

私自身でやろうとしたことや、考えて言ったことは、全部正解以下でした。

だったら、もう正しいことだけでいいじゃないか。私の話なんて誰も聞いていないんだから。

私が感じることもどうでもいい。だれも望んでいないのだから。

私が感じたままに何かをすれば、私自身は傷つき、周りが哀しい顔をしました。

だから、感情を凍らせることは、必然だったと言えるでしょう。

 

しかし、このテーマをみたとき、私は自分の感情が凍っているとは思っていませんでした。いろいろなものを感じ、表現していると思い込んでいました。

しかし、実際は「正しさ」に縛られて、それ以外の感情を取捨選択して打ち消そうとしていたんだと気づきました。

それは、新鮮で、深い驚きと失望を感じさせました。

 

嫌なことを嫌と言い、手放す。その代わりにどうしたいか、を考えて伝えてみる

ACに詳しい尊敬する先生に聞いてみたところ、「まずは嫌いなものから始めてみるとよい」と教えていただいたので、今はそれをやってみています。

 

たとえば、私はベッドで寝るとき、娘に足蹴にされ、犬2匹に居場所を奪われ、無理な体勢で寝ていました。

私はそれが「つらい」と感じていました。

でも、家族みんなで一緒に寝る、というあるべき家族像を崩す気がして、何より「一緒に寝たくないのか?」と哀しい顔をされるのではないか?という恐怖で言い出せませんでした。

しかし、つらいし嫌なことは、言わなければ伝わりません。

私は、寝るスペースがないこと、それが原因で日々の生活に支障をきたしていること、できればベッドのわきに布団を敷いてそこで寝たいこと、を勇気を出して言ってみました。

そうすると、すんなり聞き入れてくれました。

 

また、うつ病で朝辛くて起きられない日も朝犬の散歩に行くのが日課だから、私の役割だから、と無理をしていましたが、調子が悪い日はいけない日もある、ということを伝えました。

それも、行ける日でいい、という話になりました。

 

実は、「~しなければならない」という正しさや自分の正当だというイメージに囚われていることをしなくても、私は許されるのではないか?と思うようになっています。

それならば、私はしたいことをするために、嫌なことを手放していって、もっと自由になってもいいのかもしれない。そうして身軽になっていけば、やりたいことや好きなことが見えてくるかもしれない、と思うのです。

 

凍りついた感情からの回復とはどんなこと?

自分の感情に触れ、それを表現するようになるにつれて、わくわくするような出来事が起こり始めるでしょう。自分の感情を正直に表現できるようになるにつれて、わたしたちのストレスの度合いは低くなります。
自分の本当の感情を表現することは、人と対話するための健康な方法であることが分かってきて、その結果の一つとして、他の人たちが彼らの感情を私たちと分かち合っていることを発見するかもしれません。蓄積された感情を開放し始めるとき、わたしたちは確かにいくらかの痛みを感じるでしょう。
しかし、自分の感情を表面に出すことについてわたしたちのやる気が高まるにつれて、その痛みは弱まっていき、そのことで脅かされたり圧倒されたりすることは少なくなってきます。自分の感情を敢えて解放しようとする気持ちが強ければ強いほど、自分自身のハイヤー・パワーと他者とに対する有益な、親密な関係を持つ能力が高まるでしょう。

自分の感情を経験し、表現するようになるにつれて、わたしたちは次のようになっていきます:

〇自分の感情をきちんと捉える
〇感情をオープンに表現する
〇人間関係において親密度が増す
〇自分の真の自己を経験する
〇自分の必要を他の人たちに表現する

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
70Pより引用

 

今はまだたどたどしいですが、少しずつ少しずつ、自分の感情を、まずは嫌だと言うことから初めて、解放していきたいです。

それでも人に受け入れられる、そのままでいいと思える。

そこから、私が本当に大切にしたいと考えていること、一緒にいたいと思っている人、やりたいこと、生きたい人生が見つかり、私は生きていてよかった、と心から思えるようになるのではないか、と思います。

そうなるように、私はがんばります。

【AC】7つの「否認」について(ACのための12のステップ)

こんにちは、ちあき です。

否認には、7つの種類があると言われています。

それぞれについて、自分自身の認知の歪みを認識すべく振り返ってみました。

 

否認はわたしたちの病気の中核的要素であって、わたしたち全員に多かれ少なかれ見受けられます。

否認はわたしたちの病気の破壊的な面です。

なぜなら、それはどんどん悪化していく行動パターンにわたしたちを封じ込めるからです。

否認は、わたしたちが現実に直面することを避けるために無意識に使う、多くの複雑な防衛や策略から成り立っています。

否認の見分けられる形として次のようなものがあります。

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷 45Pより引用

 

■単純な否認

:ある物事が本当はあるのに無い振りをする

(例:問題があることを示しているかもしれない身体症状を、割り引いて軽く見る)

私は自分の体や心の不具合を軽く見る傾向があります。

最近は朝起きれなくなるほど気持ちの落ち込みが激しいのですが、「まだ出社できているし」「ご飯も食べられなくなったわけじゃないし」と重症度として適切に評価せず、軽視しています。「私はつらい」「私は会社に行きたくない」ということを感じてはいけない、感じたらもう動けなくなってしまうから。そう、自分にとって「私はつらい」と認めることは、都合が悪いと思っているから、抑圧しているんですね。

 

■矮小化

:問題を認めるがその重大さは見ようとしない

(例:人間関係で、本当は明白な裏切りがあるのに、よそよそしくなっていることだけ認める)

私は、酒(エチルアルコール)を飲んでいるとき、特に自分の酒害を軽く見ていたと思います。前歯が折れたり、財布を無くしたり、携帯をなくしたり、カバンをなくしたり、頻繁に遅刻したり。明らかに社会人生活に悪影響を及ぼし、具体的な損失があるにもかかわらず、それを「みんなもよくあること」「もっとひどい人もいる」などと目を背けていました。問題を認めていても、その重さやどれだけ迷惑をかけているかについて、考えを及ぼさないようにしました。今、自分のダメさや起こしてしまったことの重大さを理解してしまったら、ギリギリで立っている当時受け止められないと思って恐ろしかったからでした。だからより、依存物質に逃げました。脳をエチルアルコールで麻痺させて、考えないように逃避しました。

その結果、どうにも逃れようのない、死ぬ手前まで追い詰められなくては、問題の重大さを見ることができず、様々なものを失いました。

 

■非難

:問題の原因として誰か他の人を非難する-その振る舞いは否定しないが、その原因は誰か他の人にある

(例:あなたの現在の不適切な振る舞いについて親を責める)

Twitterでよく見かける、政治や事件や芸能界のひとたちが起こした不祥事への怒りに代表されるように、何か他のことに怒りをぶつけることで、私たちは本当の問題を見ないようにすることができるので、自分とは関係のない、直接的な原因ではない人たちに怒りをぶつけるほうが楽で、しばしばそちらに流れがちです。

わたしも、凄惨な事件や不倫報道に対して、自分が自分に対して抱えている怒りに目を背けてきました。本当は、非難している対象の人がどうなろうとしったことではなかったのに「世の中のために」「この人は間違っているから正しく更生するために」などと体の良い『言い訳』を並べ立て、自分の怒りのはけ口に使いました。

本当は、自分が思うとおりに生きられない悔しさや哀しさ、弱さを認めたくない心、正しくない感情を持つことへの葛藤などを、抱えきれないで、目を逸らすために、他の人を非難したのでした。

 

■弁解

:自分や他人の振る舞いについて弁解したり、アリバイを言い立てたり、正当化したり、その他の説明をつけて言い訳する

(例:パートナーが仕事に行けないことの本当の原因は酔っぱらっているからなのに、病気だからと電話する)

わたしは、自分が欲しいものがわかりません。何を望んでいるのか、わからなくなることがあります。それは異常なことなのですが、しばしば見ないふりをしています。

「大切な家族が最優先だから」とか「アルコール依存症の私には欲しがる権利がない」とか「今ぱっと思い浮かばないということは本当にほしいものがないからだ」とか「そんなものより仕事が忙しく大事だから」とか。

本当はずっと、自分の自由にしたいし、好きなように時間を過ごしたかったはずなのに。願望があったはずです。それを「正しいこと」を目の前に置いて、見て見ぬふりをしているうちにわからなくなった、というのが今の状況だと思います。

 

■一般化

:問題を一般的に取り扱うが、状況や状態について個人的にまた情緒的に見ることは避ける

(例:化学物質への依存がそこにある問題であることを知っているのに、友達のインフルエンザの症状にだけ同情する)

私は、とてもしんどい・きついと感じているときほど、冷静に状況を分析して、原因と結果、課題と解決策にフォーカスし、一般的な分析指標を用いて問題をとらえようとします。

それはビジネスにおいて奨励されるスキルであり、資本主義経済では正しいと言われてきた方法でした。

しかし、こと私の問題の状況や状態について同じ捉え方をすることは、ひとつ欠落するものがあります。それは私の感情や素直な気持ちです。

分析手法により正しい解決方法や問題点の整理は可能です。その手前にある自分が感じた感情を、わたしは余計で邪魔な、とるに足らないものだと思い込むことで、軽視し、封じ込めようとしました。

しかし、それは抑圧され深い怒りとなり、認知を歪めてきたのです。本当の問題は、私自身の論理の前にある心を軽視したことだったのでした。

それは、親に与えられた唯一の物差しは、正しいかどうか、だけだったからです。

 

■ごまかし

:脅威を感じるような話題を避けるために主題を変える

(例:「世間話」に巧みになる)

わたしは「世間話」は苦手です。ASDだから、意味のない話はあまり頭に入らないし、いつ終わるかもわからない話は精神的に大変苦痛です。

しかし、あえて話があまり話したくないと思うような話題になりそうなとき、わたしはしばしば、相手が話したいであろう話を聞くことに専念する傾向があります。

わたしがしゃべらなくてもいいからです。そして、相手は自分の話したいことを話して満足する。聞かれる心配がなくなる。自分が認めたくない、傷に触れられる機会をつぶすことができるから、わたしは「相手が話したい話を聞く」という先手を打つことで相対します。

しかし、私は本当は自分がどう感じたか、なぜそうなのか、を話したい人です。

だから、相手が話したい話は実はどうでもいいのです。だから、人と話すと疲れるのです。聞きたくないことをずっと聞くことが、自分の核心に触れさせず、自分自身に対しても本心を誤魔化す最も有効な方法のひとつだから。

それをやめない限り、人と居心地の良い関係を構築することはできないのでしょう。

 

■攻撃

:今現在の状況に話が及んだとき怒り、いらいらする。そのことによってその問題を避ける

(例:あなたの今感じていることを分かち合おうとしない)

わたしは、今現在の辛いと感じたくないこと、認めたくないことを他人に言及されたとき、黙りこんでしまいます。分かち合おうとしません。

また、本当は言いたいことがあるのに、それを表に出すことがためらわれて、しかし我慢ができないとき、私はその「本当は言いたいこと」を認めたくないくせに、他人にわかってほしいという願望を抑えきれず、あえて不機嫌になったり、イライラしたりします。

それは、遠回しで卑怯なやり方です。自分が感じていることは、話さなければわからないし、そもそも感じていることを認めなくてはいけません。

その勇気が持てないでいることを、相手が理解をしてくれないことにすり替え、責任転嫁してイライラいていることがあります。

 

 

まとめ:自分を素直に理解するために

12のステップを踏むことは、わたしたちが現実に直面することに対する防壁になっていた、否認に気づくことを手助けしてくれます。

ある意味では否認は、私たちがかろうじて保っていた、わずかばかりの価値や尊厳の意識を持ち続けさせてくれたのです。

ステップ4によってわたしたちは、現在にいたるまで生き残りのための主要なテクニックの一つであった、自分の否認システムをよく見ることができるようになります。

また否認はわたしたちの知覚を歪め、判断を大きく狂わせ、自分を騙し、正確な自己理解を妨げていました。

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷 46~47Pより引用

 

そう、わたしは、今まで否認してきました。ありとあらゆる手段を講じて、見るべきものを見ないようにしてきました。

それは、私が悪いからではなかった。親が「正しさ」しか教えてくれなかったこと、本当の気持ちを大切にしてくれなかったこと、親からの影響に対して私が無力だったことは、私のせいではなかった。

この否認のシステムは、今までの私を守ってきてくれました。なんとか今まで命をつないでいくために、必要なものでした。しかし、歪んだものでした。

私はもう親の機嫌をうかがいながら生きなくても、自分で稼いで自分で生活できるようになった。もうこの期に及んで、否認システムに頼らなくても、私はわたしらしく生きていていい。たとえ誰に何を言われようとも。

否認システムを卒業して、私は私をそのまま生きられるようになりたい。

今度こそ、親が望む自分ではない、自分が望む「成りたい自分」になるために。

 

 

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【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録②(低い自己評価)

前回の棚卸しにしたがって、まずは「低い自己評価」について棚卸ししていきたいと思います。

 

「低い自己評価」とはどんなこと?

子供時代を通じて、わたしたちは自分の能力を信じるようには決して奨励されませんでした。終始批判されてきた結果として、自分は「悪く」、家族の問題の原因なのだと信じ込みました。愛され、受け容れられていると感じるために、わたしたちは人を楽しませ、完全であって、批判の余地がないようにしようと、さらに一生懸命努力しました。一生懸命やればやるほど、私たちの欲求不満は大きくなりました。私たちが何をしても、「偉い人たち」を楽しませることは決してできませんでした。私たちは自己評価を低く保っていて、そのことは目標を設定し、それを成し遂げる私たちの能力に影響を与えました。間違いをすることを恐れて、私たちは危険を冒すことを避けます。物事がうまくいかないと、そのことに責任があるように感じてしまい、うまくいくと、そのことに自分が功績があることを受け容れようとしません。そうする代わりに、自分はそれに価しないと思って、「もう一方の靴がなくなる」のを待っているのです。

わたしたちの自己評価が低いと、わたしたちは次のようであるかもしれません。

●主張できない
●失敗を恐れる
●無能のように見える
●拒絶を恐れる
●他の人たちからひきこもる
●否定的な自分像を持っている
●完全である必要がある

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
73Pより引用

 

 

ありのままではダメだという呪縛

小さいころから「そのままではダメなんだ」という気持ちが常にありました。

 

親は私がありのままに振舞うと哀しい顔をしました。

 

小さいころから好きな遊びもはたから見れば危険なことが多かったので「止めなさい!」とヒステリックに叱責され、したいことをするといつも否定されていた、おぼろげな記憶しかありません。

幼稚園に行きたくないと泣けば哀しい顔をされ、ショッピングモールで「もう疲れた帰りたい」と言えば哀しい顔をされ。

「どうしてみんなと同じようにいい子にできないの?」

「なんで普通のことが普通にできないの?」

「なんでいうことを聞かないの?」

「お母さんのことが嫌いなの?」

母親からそんな質問を投げかけられ続け、次第に「ごめんなさい」しか言わなくなりました。

 

みんなと同じでなくてはダメ、普通でなくてはダメ、言うことを聞かないとダメ、そうじゃないとお母さんが嫌いということになる。悲しまれる。

だから、私はそのままでいちゃダメなんだ、何か自分とは違う別の物にならないと、お母さんに認めてもらえない、好きだと言ってもらえない人間なのだ、と思いました。

 

 

「求められている完璧な自分」になり愛されるために

だから文字通り死ぬ気で、一生懸命努力しました。

ありのままと違う、優秀で愛される自分になるために。

小学校のテストは100点以外は失敗だと思っていたしそういわれてきました。受験の合格ラインも親が満足し社会的に評価が高いレベルでなければならないと思って偏差値で決めました。

勉強を理由にして部活で成績を残せないのは甘えであり、全国大会に行くレベルでなくてはならない。だから、県内3位なんて中途半端な成績で満足していてはいけない。だれも認めてくれないと思っていました。

将来の夢など、どのタイミングでも思い描いたことはありませんでした。すべてが義務でした。

 

勉強もスポーツも親の望み通りになるように、愛してもらえるように、完璧な長男で在ろうと頑張りました。

誰にも相談できませんでした。弱音を吐いて聞いてくれるはずの親にいいところを見せないといけないのですから、当然ですよね。

どんどん一人で抱え込んでいきました。

結果が不十分なのは自分が未熟だからだ、自分が悪い、まだ至らないから幸せになれないのだ、もっともっと完璧にならなくてはならない、そうでないと誰も私を必要としてくれない。

 

 

自分にも他人にも厳しくなり、どんどん孤独になる

それはとても、さびしいことでした。

そのままでは私は親にすら必要とされないのか?そんなに私は生きる価値のないダメな人間なのか?なら、のうのうと生きている私以外の人間は、私以上に正しく結果を残していて、偉くなくてはならないはずだ。でないとつじつまが合わない。

 

だから、他人に対して、自分と同じようにどんどん厳しくなっていきました。

少しのミスも許されないのだから、お前らにも許されるべきではない。

完璧でなければ愛されないのだから、愛されて幸せなお前らは完璧でなくてはならない。

 

そうやって正しさと理屈を振りかざして防御を固め続けて、気がつけばさらに独りになっていて、そばにはお酒しかありませんでした。

ただただ、ずっと寂しかった。

酒という名の簡単に手に入る薬物であるエチルアルコールに耽溺しているときだけが、自分の脳を麻痺して停止させ、「こうでなくてはならない」という義務感から解放される唯一の安息でした。

次第にそれも、より多くの問題を引き起こすだけの代物だとわかったわけですが。笑

 

失敗という財産を今度こそ 自分の足で歩くために

振り返ると、私は、なんとかエチルアルコールという薬物の力を借りて、ぎりぎりで命をつないできたのだと思います。

今は、その杖をなくし、今断酒しているということは、たとえば足を骨折して松葉づえをついていたのに、杖をすてて骨折したまま歩いているようなものだと思います。

だから、棚卸をして、自分の問題に目を背けず、立ち向かわなければ、この足はまた歩けるようにはならない。今まで生まれてからずっと引きずってきたこの足をリハビリしなければ、2本の足で真の意味で自立できない。だから、がんばりたいのです。

 

失敗は恐ろしい損失ではなく、むしろ財産でした。

私はアルコール依存症になりそれはそれはたくさんの失敗をしてきましたが、そのおかげで私は自分の問題に気づくことができました。失敗はしてしまったら終わりではなく、そこから学ぶことができる。そして、自分の失敗をそのまま受け入れることが、他の人の至らなさに対して寛容になれる最善の方法だったのだと最近よくわかります。

 

「失敗してもいい、失敗してきたからこそいい、そのままの黒い心を含めてあなたはそのままですばらしい」といってくれる最も大切な人と出会い、あこがれを抱き、好意を持っています。ここ数ヶ月交流があり、いろいろな学びをもらったおかげで、行動することの大切さや、プロセスを認めてもらう喜びを教えてもらいました。

 

「低い自己評価」からの回復とはどんなもの?

わたしたちは、ハイヤー・パワーと協同して、自分自身と自分の能力をより現実的に見るようになるにしたがって、私たちの自己評価は高まります。他の人たちと、もっと自信をもって交際できるようになり、自分自身をそのまま受け入れて、自分の弱さと同じように、自分の力も評価できるようになります。失敗から学ぶことができるということが分かってくるにつれて、前には可能だとは夢にも思わなかったことが、気が付いてみたらできています。他の人たちを知り、他の人たちに自分を知ってもらうようになるにつれて、私たちはより安全に感じます。人間関係はさらに健康になります。ーなぜなら、自分を信じ、自分を保証できて、もう保証してもらうために他の人たちを当てにする必要がないのですから。

わたしたちの自己評価が高まるにつれて、わたしたちは次のようになり始めます。

〇もっと自信がつく
〇より積極的に行動する
〇他の人と交際するのが楽になる
〇自分を愛し、大事にする
〇感情をオープンに表現する
〇危険を冒す

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
74Pより引用

 

自分に言い聞かせる意味でも、私が気づかせてもらった私の真実を話して〆たいと思います。

 

 

私は失敗してもいい。

私は完璧でなくてもいい。

私は普通と違うところがあってもいい。

私は他人の言うとおりにせず、自分がしたいように生きていい。

親に愛されようと無理に自分を飾らなくてもいい。親はありのままの私を見てくれなかったが、今は他に大切な人が、私自身を見てくれるのだから。

そして、もし見てもらえなくても、私を一番大切にできるのは私であり、親ではないことが分かった今、親の顔色をうかがう必要はもうなくなった。

だからこそ、私は、そのままの自分をこれからはずっと好きでいていい。

 

 

【メンタル】「みんな同じだよ」っていう言葉にイライラする話

「みんな同じだよ」

 

私は、この言葉が大嫌いだ。

 

今朝の情報番組で、「ウィンターブルー」が話題になっているのをぼんやり妻と観ていた。

ウィンターブルーとは、冬季の季節性気分障害のことで、朝起きられなくなったり、眠気が取れなかったり、やる気が起こらなかったり、いつもより糖分を欲する、というような症状を呈する現象である。

 

妻がこれを見て、私に「みんな同じだよ」と話しかけてきたのだった。

この言葉に私は不快感を覚えたが、即座にはその不快感を言語化できなかった。

しかし、これは妻に限らず常に感じてきた不快感だということと、怒りをともなう感覚だったので、何となく気になっていたのである。

今日はこの「みんな同じだよ」が孕んでいる不気味な怒りについて考えてみたい。

 

 

「みんな同じだよ」=「みんな同じなんだから甘えるな」?

 

単刀直入に言おう。

 

なんだか責められている気がするのである。

 

みんな同じなのに、それでも辛いなか、がんばっている。

みんな同じなのに、お前は休もうとしている、サボろうとしている。

 

そういわれているように聞こえる。

 

または、「はい、もうこの話は終わり。だから黙れ」と言われている気がするのである。

 

みんな同じなんだから、これ以上何も言うべきではない。

みんな同じなのに、お前だけ何か不平不満を言うのは不公平だ。

 

そう言われているように聞こえる。

 

 

もちろん、発言者がそんな高圧的な意図を含ませて言葉をかけているのではないということはわかっている。

 

おそらくは、みんな同じなんだから、ひとりじゃないよ?と言いたいのだろう。たぶん。

 

そのあたりの感覚が私にはよくわからない。

 

みんな同じだ、という事実が、私の辛さを軽減することには直結しない。

それは、言葉で言われるものではなく、自発的に感じるものだからだ。

「孤独ではない」「私はひとりではない」と真に思うには、お互いに辛さを受け容れあっている関係の間で「しんどいね、でも、ひとりじゃなかったんだよね」という共感と実感が必要だ。

おそらく、定型発達だったり、ACではない人たちは、その感覚がとても身近なのだろう。

だから、「みんな同じだよ」=「ひとりじゃないんだな」に自動変換され、それだけで安心感を得られるのだろう。

 

なぜ、「責められている」と解釈するのか?

ではなぜ、ACである私たちは安心感を得られないのか?

それは、親との関係や他者との関係のなかで、まず辛さを受け取ってもらった経験が圧倒的に足りないからである。

 

「私はつらい」ということを聞いてもらうことはもちろん、言うことも許されなかった灰色の幼少期を過ごし、最も信用できるはずの他人(親)との心の交流をもつことができなかった我々にとって、「みんな同じ」=「ひとりじゃないんだな」と変換するのはとてつもなく困難である。

 

親と子の信頼関係が健全に育まれている家庭では、子供は理解してもらえるという安心感が前提にあり、私の辛さは誰かに受け取ってもらえる、という信頼感を根底に宿す。

だからこそ、「みんな同じ」ということは、『私はこの辛さを感じてもいいんだ、だってみんな同じだということは、この気持ちも理解してもらえているはずだから』という自己肯定感をともなって吸収されている。

それはそれは心が満たされるだろう。

私にはまだ心の底からは理解できないが。

 

 

なぜ、「もっと頑張らなくてはならない」と解釈するのか?

私たちの受け取り方が、「もっと頑張らなくてはならない」という観点に引っ張られがちである原因について視点を変えて考えてみたい。

 

ASD(自閉症スペクトラム)である私は、みんなと同じではなかった。

ずっとずっと、違和感を感じて、みんなと打ち解けられず、心から安心して他人といることなどなく、自分は異質なものでどこか仲間外れであることを感じながら過ごしてきた。

 

ASDである私にとって、異質な者扱いされない存在、つまり「みんなと同じ」という存在になり普通に溶け込むことは、切なる願いでありながら、同時に、自分そのものを全否定されるものすごいストレス源だった。

同じであることへの拒絶感は、このようなASDとして自然な生き方をさせてもらえなかったことへの鬱屈した怒りによるものである。

 

それでも、「普通の人間」「まともな人間」「常識的な人間」になるべく、尋常ではない試行錯誤と努力の果てに、今の生活を手に入れているのである。

 

そんな人が、ボロボロになりながらなんとか歩いてきて、一度も弱音を吐かないでガクガクの足を引き摺り、たどり着いた休憩地点で、ぽつりと「つらいな」と吐露したときに、「みんな同じだよ」と声をかけられたときのことを想像してみてほしい。

 

ふざけるなよ、と思うよね。

お前に何がわかる、と思うでしょ。

みんな同じなわけないだろ、こんなに苦しいのに、と思うんだよ。

楽しいと思ったことのほうが少ない人生を歩んでみてから言えよ。

 

と、憤るのは意外に的外れな感情ではない、ということをご理解いただけるだろうか。

 

私は、自分の人生がそこまでしんどいものだったかどうか、今のところ分からない。

しかし、物心ついた時から感じてきたのは、親は期待した通りにがんばる私しか認めてはくれないし、頑張れない私はいても嬉しくないのだ、という実感だった。

それ以外の大人を含めた他人は、いじめをおこなうなど、ただ単にうっとおしい脅威であり、社会で生きていかなくてはならない私は、社会的に排斥されないように、適度に武力と智力で御さなければならない厄介な不確定要素だとしか感じなかった。

 

みんな同じなら、それも同じなんだよね?

毎日どこにも行きたくないし、生きていたくもない。

やりたくないことをやりたくないとも言えない。

他人に合わせなければ生きている価値がないと思う。

そんな人生を生きてきたんだよね?

だって、みんな同じなんだもんね?

 

と、私はこの「みんな同じだよ」という言葉に、熱い恨みすら感じるのである。

 

少し変化してきていること

でも、なんとなく今まで生きてきて、私が知らなかっただけで、いろいろな人がいろいろな見えない苦悩を抱えながら生きてきたことを理解できるようになった。

 

同じではないが、私以外の人間もみんな大変だった。

みんなそれぞれ、それなりにがんばってきた。

つらいときも、かなしいときもあって、これからもある。

それを他人に共有して、心と心の繋がりで何とか乗り越えてきたのだ。

恐ろしい隣人ではなく、わたしと同じに弱い生命体のひとつなのだ、と。

 

我々のように、自分の中だけで処理しようとしてきた人というのは、どうしてもその他人との繋がりについて経験がなさ過ぎて、想像が追い付かない。

 

今ある心のつながりを大切にしたい。

 

そして、私は私のつらさを棚卸して、「みんな同じだよ」と言ってくれるひとの優しさについて、実感をともなった理解ができるレベルに到達したい、と思う。

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録①(恨みについての課題演習)

「ACのための12ステップ」という本があります。

 

『ACのための12のステップ』(”The 12 Steps for Adult Children”)の原著はACの問題からの12のステップに沿った回復の道を歩んでいる匿名の著者たち「フレンズ・イン・リカバリー」が、自分たちの経験と力と希望を分かち合い、「このメッセージを他の人たちに伝える」ためにアメリカのある出版社から出版した本です。

この日本語版は、自分自身がAC(アダルト・チャイルド)である、ACAの仲間たちが「ACの会」という形をとって翻訳・発行し、ACA事務局から配布しているものです。

 

ACAに繋がっている大切なひとから教えてもらい、私はAC(アダルトチルドレン)であることを自覚しました。

この本に沿って、私は自分のACの課題に取り組むことに決めました。

そして、step4において棚卸しすることの重要性を教えてもらい、まず今回は、「恨みについての課題」を整理したいと思います。

恨みの健康的な取り扱いを学ぶことは、回復の過程の重要な要素です。

 

私の恨み

「恨みが、あなたにとって問題であるような状況を調べなさい。そのような状況を記載するとき、次の質問に答えなさい。」

 

1、あなたは何を、誰を恨んでいますか?

→ 今は会社(特に上層部)です。そして今も昔も共通なのは、親です。

 

2、あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?

→ 社会的なステータス、私を評価しないこと、期待した正しさを有していないこと。

私のそのままを受け容れてくれなかったこと。

期待した役割の私しか好きでいてくれなかったこと。

 

3、この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?

社会的ステータスを見下すようになった

評価しない人間の粗探しをするようになった

会社を低く見るようになった

会社を支持する人間を見下すようになった

会社の矛盾に厳しくなった

自分が文句を言える完璧さを持たなければならないと思った

認めさせるために結果にこだわるようになった

素直に評価してほしいと言えなくなった

他人を敵だと思うようになった

他人に頼ることを諦めた

常に仕事においてイライラするようになった

評価されない自分を責めるようになった

独りで生きていける道を探すようになった

会社の間違いを徹底的に許さず通報した

親や他人の顔色を常にうかがうようになった

家族としての在り方がわからなくなった

他人として安らぐことがわからなくなった

他人を満足させなくてはならないと思うようになった

 

4、どんな性格特質が目立っていますか?

「権威のある人たちを恐れること」

「承認を求めようとすること」

「抑圧された怒り」

「孤立」

「低い自己評価」

「コントロール」

「過剰に発達した責任感」

これらに関して、個々に事例を振り返りながら、棚卸ししていくようです。

これはまた次回以降。

 

感想:恨みをずっと抱えるのは苦しかった

今は会社に対してですが、常にだれかに恨みを持ってきた気がします。

そのもとにあるのは親でした。

私に向き合ってくれず、自分の見たいようにしか、私を見ようとしなかった両親。

 

恨みを抱えて生きるのは、苦しいです。

誰かを憎みながら生きるのは、つらいです。

したくもないことを、しないといけないからする人生は、つまらないです。

 

そういう自分の真実に気づくために。

大切な人を大切にするために。

まだ始まったばかりですが、丁寧にやっていきたいと思います。

 

 

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【依存症】セックス依存症を誤解するアルコール依存症者の話

こんにちは、ちあき です。

アルコール依存症とセックス依存症について、考えてみました。

 

依存症をことごとく誤解していた私

何を隠そう、ブログタイトルの不届き者は、私自身です。

私はアルコール依存症になりましたが、それまではアルコール依存症を誤解してきました。

アルコール依存症はどうしようもなくダメないい加減な性格の人がなる、恥ずかしい病気だと思っていました。

だから自分がアルコール依存症だなんて認められずに、ズルズルと色々なものを失うまで否認し続けてきました。

肝臓の数値がまだ4桁ではないしもっと飲む人もいるとか。

人より少し(少しではないのですが)量が多いだけだとか。

ストレスが多いから飲んでも当たり前だとか。

世の中のサラリーマンは毎日飲んでるんだから普通だとか。

 

そう、ありふれているんですよね。酒は。
世の中に浸透して、飲み物として定着している。

実際はエチルアルコールに味をつけた合法ドラックなのにね。

CMでは煌びやかで美しい女性がさも美味しそうに飲み下し、ドラマでは爽やかイケメンがワインを傾けながら素敵な愛の言葉を囁き、イメージを美化しています。

国は酒税で税金が入るので、酒を決して悪者扱いしません。

周囲の大人もキメているし、大丈夫だろう、ということで、何も知らない子供たちも体に悪い飲み物ではない、と成人した途端に次々に手を染め、正しい知識がないまま乱用して一気飲みなどで急性アルコール中毒になり命を落とすこともあります。

アルコール依存症は、社会に酒が根付いているからこそ、文字通り根が深い関係にあるといえます。

(アルコールについては、三森みさ先生の厚労省監修の依存症啓発漫画「だらしない夫じゃなくて依存症でした」を読んでいただくとすごく良くわかります。めっちゃ面白いし、今なら無料なので、読んで損することはないでしょう。)

(現在、オリジナルストーリーが追加され全てに加筆修正が施され、待望の書籍化が実現間近で、予約が既に殺到しています。)

「だらしない夫じゃなくて依存症でした」書籍版(amazon)

 

 

セックス依存症かもしれない同僚の話

私は、セックス依存症と思われる同僚と出会ったことがあります。

毎日クラブに出向いては女性を誘い、自室に連れ込んで行為に至り、その一部始終を自身のiPadで盗撮するのが趣味の男性でした

容姿端麗でノリが良く、モテていました。
度々その卑猥な動画を見せびらかしては、自分がいかにオスとして優秀かを周囲に誇示している人でした。私は正直、その人が穢らわしいと思っていましたし、大嫌いでした。

しかし、ある時、珍しく弱々しい顔をして私に打ち明けてくれたことがありました。

「本当は本命の彼女がいる。その人のことを本当に愛しているけど、他の女性との行為をやめられなくて、本当は辛い。毎日誰かがそばにいないと、セックスしないと頭を掻き毟りたくなる。俺はタイガーウッズと同じ病気かもしれない。」

私はそれを聞いたとき無知だったので、
「何言い訳してんだ。本当に好きなら不貞行為をしたりしないだろう。」
と冷めきった対応をしてしまいました。

その後、彼はその話について触れることはなく、職場の周囲で性的関係を拡げすぎたのか、理由は会社内でも知らされないまま、別の会社へ転職してしまいました。

真偽のほどはわかりません。
しかし、私はかねてより津島隆太先生「セックス依存症になりました。を読んで、その時の対応に激しい後悔を感じています。

(この漫画も、毎週金曜に更新されているうえに、無料。どうなってんだ全く、依存症界隈の作家さんたちは…。良心的すぎます。)

 

 

ありふれているからこそ問題が理解してもらえない、セックスとアルコール

セックスも、正しい教育などあまりないままに、成人になると見様見真似で普及していき、多くの人が経験していながら、あまり深く掘り下げられにくい、という点で、アルコールと一緒なのではないか、と気づいたのです。

私は、アルコール依存症になって、同じように言われて理解されず、苦しんできたことを思い出しました。

「酒がやめられないなんて言い訳だ、意志が弱いからだ」
「本当にやめたいと思っていたら、やめられる筈だ」
「アル中になるほど飲むなんて頭がおかしい」

正直に差し出した自分の生身の苦しみに唾を吐きかけるようなそんな言葉をかけられて、私はどれだけ悲しくて惨めで怒りを覚え、人間関係に絶望したか、はっきりと重なって私の心にザックリと突き刺さりました。

私は、私を傷つけた人たちと同じことをしていたのかもしれない。
そう思った瞬間、なんとも居た堪れない苦しい気持ちになりました

酒はありふれています。
だからこそ、皆安心だと勘違いします。
多くの人は上手に付き合っているように見えます。
「当たり前」ができない人間を、分かりやすくバカにすれば、自分がマシな人間に見えて、インスタントに自己肯定感を高められるのでしょう。
人は、「当たり前」のことも当たり前にできないひとなら、いくらでも馬鹿にして叩いて尊厳を踏みにじり身勝手に消費しても、一向に構わないと勘違いしやすい。

一歩間違えれば、自分がいつ、「当たり前」から踏み外すかもわからない。弱くて小さな存在だということを、いとも簡単に忘れてしまいます。

 

 

まとめ:歪んだ物差しを抱きしめて

私たちは、自分の物差しで測ることしかできません。
その物差しが実は歪んでいるかもしれないのに、絶対的に正しいと勘違いしやすい。

特にありふれたもの、酒や市販薬やセックスなどを含めたありとあらゆる事象は、ほかの人にとっては、私が定義しているカタチとは全然違うのかもしれない。

そういう想像力を欠いていた、または今も欠いているであろう自分を恥ずかしく思います。

ましてや経験したことのない、表面的にしか知らないことについて、わかったようなことを、どんな根拠で何を言うことができるのでしょうか?
例えば、違法薬物で逮捕された芸能人の方を声高に批判する、無関係なメディアのコメンテーターの下卑た表情を見、見下す興奮に上擦った声音を聴くにつけ、何を偉そうにわかったようなことを言っているのか、と思います。
同時に「あれは少し前の恥ずかしい私そのものだ」と感じます。
だからあんまりテレビは見ません。凹むだけですから。

私たちは、自分の物差しがもしかしたら見事に立派に歪んでいて、あらゆることを見誤っているのかもしれない、という謙虚さを脇に携えながら、他人の話を傾聴すべきなのかもしれません。

そうした己の不完全さ、弱さを認めたうえで、他人の言葉を聞きたいと思いました。

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【社会福祉】社会的スティグマとジェンダーロールに関する個人的見解

なんだか、生きづらい世の中ですね。

しんどすぎて、たまにくじけそうになりますね。

生きづらさについて、社会的スティグマとジェンダーロールについて考えてみました。

世間に誤解されて孤立する依存症

近年、覚せい剤取締法違反で芸能人や官庁職員が逮捕されるニュースが相次いで報道されている。

ワイドショーなどで面白おかしく取り上げられ、刑務所から出てくる前に完治させよ、というような暴力的な議論が笑いを交えながら展開されていることに戦慄を感じざるを得ない。

サイモン・フレーザー大学のブルース・アレクサンダー博士による有名な「ラットパーク」の試験で明らかになっているように、ネズミをモルヒネに耽溺させるのは、モルヒネという依存性薬物の存在ではなく、孤独で、自由のきかない窮屈な環境、すなわち「孤立」である、ということである。

このことはそのまま人間にも当てはまる。

薬物を使ったことがある人が必ず薬物依存症になるのかといえば、実は必ずしもそうではない。

たとえば酒などは、日本において宗教的にも深く文化に関わっているため成人したらほぼ全員が口にする機会がある。その後習慣飲酒になるか機会飲酒になるかは個人により様々だが、少なくとも依存性のあるアルコールを摂取することによりすぐに依存症が発症するわけではない。

では何が依存症にさせるのか?といえば、先に挙げた社会的な疎外感や孤独感ではないだろうか。

「社会的スティグマ」という社会的に望ましくないレッテルは、依存症という課題に直結していると考えている。

 

 

社会的スティグマが依存症からの回復を妨げている

社会的スティグマの観点からこの日本社会の不自由さに目を向けてみたい。

薬物を使用して警察に逮捕されると、犯罪者という耐えがたいレッテルを貼られて刑務所に収容される。一度踏み外してしまえば、「受刑者」「前科者」のいうスティグマを抱えて生きる人生から逃れることはできない。

なぜなら、学校や社会で間違った依存症教育が行われ、「1回でも薬物を経験すると、薬物の快感が脳に刻印付けられ、脳がハイジャックされてしまい、もう正常な判断はできなくなる」と『ダメ絶対』な教え込まれてきたからである。

実際はそうではなく、社会的孤立感や生きづらさから依存性薬物に頼り、依存から抜けられなくなったのであって、根本原因は人と人との繋がりの病であるにも関わらず、社会的スティグマを抱えさせられた薬物依存症者は社会的にさらに孤立した立場に追い込まれるのである。

このため、専門家のなかでは、薬物依存症の患者数が減っているのに再犯率は増えている現状を、「社会的スティグマに対する恐れから重症にならなくては捕まらないほど使用状況が悪化しており、逮捕後の社会復帰が困難な状況から再び孤立し薬物に手を出してしまうからだ」とする見方もある。

すなわち、社会的スティグマを背負わせるような現在のマスコミの誤った報道や学校での間違った依存症の理解と教育、社会における一般市民の無理解・無関心が依存症の問題をより根深くしているのではないか、と私は考えているのである。

 

社会が作り出したもうひとつの苦しみ「ジェンダーロール」

次に、DVやハラスメントに代表されるジェンダーの問題、性別によって社会から期待されたり自ら表現する役割や行動様式、すなわちジェンダーロールの問題がある。現代社会においてSNSで多くの怨嗟の声が聞かれ、男性からも女性からも憎しみと苦しみが表出してきている。

性差における議論は生物学的見地からアイデンティティとしての見地まで様々な切り口がある。

「わからないから遠ざける」という自己防衛的無理解が互いの耳をふさいでいることが最も大きな原因のひとつである。

我々は女も男も違うからこそそれぞれに魅力的であり、等しく尊厳があると思う。そのことを忘れて、バイアスを通してその人を判断しようと焦り、互いの尊厳を傷つけることに繋がっている不幸な状況だと私は感じている。

たとえば女性側には、今まで議論ではなく暴力や圧力で男性側にそうした尊い見解の相違を検討されず踏みにじられてきた悲しい歴史がある。私たちはその歴史に学び、違う価値観や生態をもつ相手を敬い、相手の立場を想像する力を身につけなくてはならない。

逆も然りで、「日本男児」に代表されるような男性像に縛られて社会的に自由さを失っている男性の苦しみや歪みに対して男性は自身の歪みや見えない苦しみを自覚する必要があるし、女性ももっと理解を深めることができる。

互いを異質なものとして非難するばかりでは歩み寄りなど成立しない。生きづらさを取り払っていけば、互いに自分らしく幸せに生きていけるのではないだろうか。

 

孤独感と無理解に満ちた世の中だからこその社会福祉

人は誰でも間違いを犯す。

そして孤独感は耐えがたいものである。

何らかの生きづらさを抱えていても、正しさを押し付けられ、他人には相談できないような社会的閉塞感が充満している現代では、そのような窒息しそうな社会背景が、さらに依存症やジェンダーロールの問題が深刻化しているように感じる。

依存症において違反者を厳罰化しても根本的な解決にはならない。

むしろ、厳罰化することでますます重症者を増やし、回復しにくくすることに繋がる。それは、社会的な恨みとなり犯罪の温床にもなりかねない。

ポルトガルでは依存性薬物について合法ではないが、罰を与えないようにしている。薬物依存症に苦しむ人に社会のなかで居場所をつくったら、治療に繋がる人が増え、10代の子供達の薬物使用が減り、全体についても、薬物に関連する問題が減った。

日本がこれから、平和で多様性を尊重するダイバーシティとインクルージョンを実現する、立派な人権国家を目指すなら、まずは社会的スティグマを背負わせる前に正義を叩きつけるのではなく傾聴しともに生きる術を模索する社会福祉的関わりが重要であると考えている。

そうした意味で、社会福祉士の役割は依存症やジェンダーロールという「孤独」に起因した社会問題の解決に寄与できる可能性が小さくないと考えて、期待している。

【メンタル】なぜ有酸素運動はうつに効果があるのか?

こんにちは、ちあき です。

イギリスのNICEにおいて成人のうつ病に関する診療ガイドラインが発表されており、うつ病に運動療法が推奨されてるの、ご存知ですか?

私は教えてもらうまで全然知りませんでした。

‪有酸素運動はうつ病に対して抗うつ剤と同等の効果が期待できる治療法かもしれないと言われています。

はたして本当なのでしょうか?

 

うつの症状や重症度は人によってさまざま

現在、様々な抗うつ剤発売されており、最近新たに新規作用機序の「ボルチオキセチン(トリンテリックス錠)」が発売されました。優れた効果と安全性で、Lancet誌に掲載されたネットワークメタ解析の直接比較試験での解析結果において最も優れた薬剤として位置付けられたことが、精神疾患領域においてホットな話題になっています。

しかし、そのボルチオキセチンですら、すべての人に対して等しく効果を発揮する薬剤ではありません。

うつの症状は幅広く、タイプははっきり異なっています。

食欲がなく眠れないという人もいれば、過食気味で疲労感がひどく、毎朝ベッドからなかなか出られない人もいます。簡単なことも決められないほどの無気力感に陥って引きこもる人もいれば、あらゆる人やモノに対して怒鳴りつけケンカをふっかける人もいます。

このように、症状は両極端に振れたり、その程度が異なったり、気になる訴えが違ったりと、千差万別です。それぞれの患者さんに合う薬をひとつひとつ慎重に試しながら探していくしかなく、その間に医療への信頼をなくしてドロップアウト(治療から脱落)してしまう人も少なくありません。

そんな人それぞれのうつ病の症状に対して、どんなひとにでも有酸素運動はある一定の効果が期待できるというのです。

マジかよ…??本当に??

というわけで調べてみました。

有酸素運動は本当にうつに効果があるのか?

まず、運動は本当に効果があるのでしょうか?いくつかの疫学研究を振り返ってみましょう。

①アラメダ郡研究(カリフォルニア州バークレー)

1965年から26年間にわたりアラメダ郡の住人8023名を対象とした追跡調査。

調査開始時にうつの兆候が見られず、1974年までの9年間で、

あまり運動をしなかった人は、1983年までうつになった割合がよく運動した人に比べて、1.5倍多かった。

最初は運動していなかったが少しずつ運動するようになった人と、最初から一貫して運動していた人は、1983年までにうつになる割合が同じだった。

運動習慣がないと、運動習慣がある人よりうつになる確率が高い。

 

②SMILE(Standard Medical Intervention and Long term Exercise/標準的な医学的介入と長期運動)研究

運動の効果と抗うつ薬(セルトラリン:SSRI)の効果を16週にわたり検討した研究。

大うつ病に該当する50~77歳までの合計156名を3群にランダムに割り付け、薬剤療法グループ、運動療法グループ、併用療法グループに分けて検討したところ、3群ともうつの症状が大幅に緩和し、それぞれの約50%の患者の症状が完全に消失した(寛解した)。約13%は症状が緩和したものの、寛解には至らなかった。(約37%は無効だった。)

薬剤療法=セルトラリン 50~200mg/日を投与(国内の承認用量は100mgまで)

運動療法=週3回 30分間 監督下で予備心拍数70~85%の強度でウォーキングかジョギング

☆予備心拍数の計算方法

(1)220-年齢=最高心拍数
(2)最高心拍数-安静時の心拍数=予備心拍数
(3)予備心拍数×0.5~0.6+安静時の心拍数=目標心拍数

運動療法と薬物療法は、それぞれ単独で同程度の効果がある。

 

③IT関連企業の従業員を対象とした1年間の追跡調査

余暇身体活動及び通勤時の歩行が勤労者の抑うつに及ぼす影響(体力研究,109,1-8,2011)において、

余暇の身体活動時間が最も長い群は、全く行っていない群と比較して、うつ症状の発症リスクがおよそ50%低かったことを報告している。

日本においても、身体活動時間はうつの発症リスクに影響を及ぼしている。

 

以上の研究以外にもさまざまな疫学研究において、運動量とうつのになりやすさには反比例関係があり、薬剤と同じくらいの効果が、運動療法(有酸素運動)には期待できるということが、精神医学の研究において明らかになっています。

 

なぜ有酸素運動はうつ状態を改善するのか?

じゃあ、なんで有酸素運動が、あんなにどうしようもないうつの症状を改善できるのでしょうか?

生理学的機序として、有酸素運動は、以下のような要素が挙げられています。

・成長因子の増加

・神経細胞新生

・脳血流量の増加

・脳神経伝達物質(ドパミン、ノルアドレナリン、セロトニン)の増加

・セロトニン系の過活動状態の抑制

・自律神経系調節(副交感神経系の活性)

・視床下部・下垂体・副腎皮質系の機能調節

 

特に有酸素運動がうつに効果を発揮する生理学的効果を考える上で重要なのは、成長因子の増加のひとつである、「BDNF(脳由来神経栄養因子)の増加」です。

 

☆BDNF(脳由来神経栄養因子)とは?

記憶や学習、神経発達、神経新生などの脳機能に不可欠であり、主に、海馬、大脳皮質、視床下部などの中枢神経系で発現するほか、体内の器官や血液中にも存在する成長因子のひとつ。ニューロン同士の結合や成長を促す肥料のようなもの。

細胞の自己破壊的な活動にブレーキをかけ、抗酸化物質を放出し、軸先と樹状突起の材料になるたんぱく質を提供している。

うつ病の患者の脳内では、血清中のBDNF濃度は、健常者と比べて明らかに低く、うつ症状とBDNF濃度には負の相関が認められる。また、未治療のうつ病患者の血清BDNF濃度は治療中のうつ病患者や健常者に比べると明らかに低いことが報告されている。

 

うつ病では、脳のなかの扁桃体と呼ばれる情動を司る部位と、海馬と呼ばれる長期記憶を司る部位が委縮していきます。特に海馬はうつ病に罹患すると15%程度小さく萎縮してしまうと言われています。

原因は、ストレスホルモンであるコルチゾールと考えられます。

コルチゾールにまみれると海馬のニューロンは新しくできるどころか死滅していくのです。うつ病だった期間が長ければ長いほど縮む割合は大きくなります。

うつ病で否定的な感情や記憶ばかりがリフレインするのは、このニューロンの損傷により、細胞レベルで学習と記憶が遮断されるためだと言われています。

このコルチゾールによる損傷からニューロンを守るのが、BDNFの役割の一つであることが分かってきました。

コルチゾールが増えすぎるとBDNFは減ってしまいますが、このBDNFの濃度は抗うつ剤で増加することが確認されていて、有酸素運動でも増やすことができると確認されています。

つまり、運動をすれば、BDNF濃度が上がり、うつ症状悪化の原因の一つである海馬の萎縮を抑制することができると考えられます。

 

また、有酸素運動は、前頭前野においても同様に各種の神経伝達物質を調節させると考えられています。

前頭前野はヒトをヒトたらしめ,思考や創造性を担う脳の最高中枢であると考えられていて、高次な認知・実行・情動・動機つけ・意思決定の役割を担っている重要な脳の部位です。

認知行動療法と心理療法は、まず自分を肯定的にとらえられるようになって、上位組織である前頭前野からの『トップダウン方式』で下位組織へ波及していくアプローチですが、有酸素運動が前頭前野のモノアミンを調整するということは、治療法として、認知行動療法と同じ『トップダウン方式』としての性格を有していると考えることができます。

また、抗うつ剤は、まず下位組織である脳幹に働きかけ、その影響が大脳辺縁系に伝わり、最終的に前頭前野に影響を及ぼす『ボトムアップ方式』のアプローチですが、有酸素運動はダイレクトに体を動かすの脳の中枢である脳幹をダイレクトに刺激します。脳幹が刺激されると、エネルギー・情熱・関心・やる気が生む効果があります。

つまり、有酸素運動はうつに対して『トップダウン方式』と『ボトムアップ方式』の両方向からアプローチできる治療方法だと言えるのです。

 

どのぐらい有酸素運動すれば効果があるのか?

「有酸素運動がいいのはもうわかったよ。だから、どのぐらい運動すればいいんだよ?」

と、ここまで読んでくださったあなたは少しやきもきしているかもしれません。

ご安心ください。

有効だったと結論付けられ、ガイドラインに推奨されている強度や頻度がこちらです。

頻度:週3回以上

時間:45~60分/回

期間:最低10~14週

強度:中等度(心拍数:80~98くらい)のジョギング or ウォーキング

☆35歳女性の場合:適切な心拍数=80~98
(1)220-35=185(最大心拍数)

(2)185-70=115(予備心拍数)

(3)目標心拍数=115×(70~85%)= 80 ~ 98

☆参考文献

1、「うつ病運動療法の現状と展望」武田典子,内田直,ストレス科学研究,2013,28,20-25

2、「脳を鍛えるには運動しかない!最新科学でわかった脳細胞の増やし方」ジョンJ.レイティwithエリック・ヘイガーマン,2009,3,143-178

 

科学的に正しい、うつに対する運動療法として、上記の通りやれば、セルトラリンによるSSRI単剤治療と同じだけの効果が期待できる、ということになります。

経済的にいうならば、メーカー純正品の薬剤を服用する場合で、薬剤費約7200円分(自己負担は約2000円)の効果を発揮してくれる、ということです。

お得!!

まとめ:有酸素運動、まずは一緒にはじめてみましょう!

私もこれからトライするところなので、一緒にやってみませんか?

週3回の運動習慣が、脳内のモノアミンを調整して、うつを晴らしてくれるなんて、すごく爽やかで素敵ですよね。

こんな文章を書いている私も、じつはアルコール依存症からくるうつ病・うつ状態にずっと悩まされてきましたが、無気力感や性機能障害に悩まされて、SSRI単剤の薬物療法では限界を感じており、ある先生に本や実体験を教えていただいたのがきっかけで、この理論と実践に出会いました。

ともに回復していき、生きていてよかった、と思える朝を迎えられる一助になれば、こんなにうれしいことはありません。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。