「みんな同じだよ」
私は、この言葉が大嫌いだ。
今朝の情報番組で、「ウィンターブルー」が話題になっているのをぼんやり妻と観ていた。
ウィンターブルーとは、冬季の季節性気分障害のことで、朝起きられなくなったり、眠気が取れなかったり、やる気が起こらなかったり、いつもより糖分を欲する、というような症状を呈する現象である。
妻がこれを見て、私に「みんな同じだよ」と話しかけてきたのだった。
この言葉に私は不快感を覚えたが、即座にはその不快感を言語化できなかった。
しかし、これは妻に限らず常に感じてきた不快感だということと、怒りをともなう感覚だったので、何となく気になっていたのである。
今日はこの「みんな同じだよ」が孕んでいる不気味な怒りについて考えてみたい。
「みんな同じだよ」=「みんな同じなんだから甘えるな」?
単刀直入に言おう。
なんだか責められている気がするのである。
みんな同じなのに、それでも辛いなか、がんばっている。
みんな同じなのに、お前は休もうとしている、サボろうとしている。
そういわれているように聞こえる。
または、「はい、もうこの話は終わり。だから黙れ」と言われている気がするのである。
みんな同じなんだから、これ以上何も言うべきではない。
みんな同じなのに、お前だけ何か不平不満を言うのは不公平だ。
そう言われているように聞こえる。
もちろん、発言者がそんな高圧的な意図を含ませて言葉をかけているのではないということはわかっている。
おそらくは、みんな同じなんだから、ひとりじゃないよ?と言いたいのだろう。たぶん。
そのあたりの感覚が私にはよくわからない。
みんな同じだ、という事実が、私の辛さを軽減することには直結しない。
それは、言葉で言われるものではなく、自発的に感じるものだからだ。
「孤独ではない」「私はひとりではない」と真に思うには、お互いに辛さを受け容れあっている関係の間で「しんどいね、でも、ひとりじゃなかったんだよね」という共感と実感が必要だ。
おそらく、定型発達だったり、ACではない人たちは、その感覚がとても身近なのだろう。
だから、「みんな同じだよ」=「ひとりじゃないんだな」に自動変換され、それだけで安心感を得られるのだろう。
なぜ、「責められている」と解釈するのか?
ではなぜ、ACである私たちは安心感を得られないのか?
それは、親との関係や他者との関係のなかで、まず辛さを受け取ってもらった経験が圧倒的に足りないからである。
「私はつらい」ということを聞いてもらうことはもちろん、言うことも許されなかった灰色の幼少期を過ごし、最も信用できるはずの他人(親)との心の交流をもつことができなかった我々にとって、「みんな同じ」=「ひとりじゃないんだな」と変換するのはとてつもなく困難である。
親と子の信頼関係が健全に育まれている家庭では、子供は理解してもらえるという安心感が前提にあり、私の辛さは誰かに受け取ってもらえる、という信頼感を根底に宿す。
だからこそ、「みんな同じ」ということは、『私はこの辛さを感じてもいいんだ、だってみんな同じだということは、この気持ちも理解してもらえているはずだから』という自己肯定感をともなって吸収されている。
それはそれは心が満たされるだろう。
私にはまだ心の底からは理解できないが。
なぜ、「もっと頑張らなくてはならない」と解釈するのか?
私たちの受け取り方が、「もっと頑張らなくてはならない」という観点に引っ張られがちである原因について視点を変えて考えてみたい。
ASD(自閉症スペクトラム)である私は、みんなと同じではなかった。
ずっとずっと、違和感を感じて、みんなと打ち解けられず、心から安心して他人といることなどなく、自分は異質なものでどこか仲間外れであることを感じながら過ごしてきた。
ASDである私にとって、異質な者扱いされない存在、つまり「みんなと同じ」という存在になり普通に溶け込むことは、切なる願いでありながら、同時に、自分そのものを全否定されるものすごいストレス源だった。
同じであることへの拒絶感は、このようなASDとして自然な生き方をさせてもらえなかったことへの鬱屈した怒りによるものである。
それでも、「普通の人間」「まともな人間」「常識的な人間」になるべく、尋常ではない試行錯誤と努力の果てに、今の生活を手に入れているのである。
そんな人が、ボロボロになりながらなんとか歩いてきて、一度も弱音を吐かないでガクガクの足を引き摺り、たどり着いた休憩地点で、ぽつりと「つらいな」と吐露したときに、「みんな同じだよ」と声をかけられたときのことを想像してみてほしい。
ふざけるなよ、と思うよね。
お前に何がわかる、と思うでしょ。
みんな同じなわけないだろ、こんなに苦しいのに、と思うんだよ。
楽しいと思ったことのほうが少ない人生を歩んでみてから言えよ。
と、憤るのは意外に的外れな感情ではない、ということをご理解いただけるだろうか。
私は、自分の人生がそこまでしんどいものだったかどうか、今のところ分からない。
しかし、物心ついた時から感じてきたのは、親は期待した通りにがんばる私しか認めてはくれないし、頑張れない私はいても嬉しくないのだ、という実感だった。
それ以外の大人を含めた他人は、いじめをおこなうなど、ただ単にうっとおしい脅威であり、社会で生きていかなくてはならない私は、社会的に排斥されないように、適度に武力と智力で御さなければならない厄介な不確定要素だとしか感じなかった。
みんな同じなら、それも同じなんだよね?
毎日どこにも行きたくないし、生きていたくもない。
やりたくないことをやりたくないとも言えない。
他人に合わせなければ生きている価値がないと思う。
そんな人生を生きてきたんだよね?
だって、みんな同じなんだもんね?
と、私はこの「みんな同じだよ」という言葉に、熱い恨みすら感じるのである。
少し変化してきていること
でも、なんとなく今まで生きてきて、私が知らなかっただけで、いろいろな人がいろいろな見えない苦悩を抱えながら生きてきたことを理解できるようになった。
同じではないが、私以外の人間もみんな大変だった。
みんなそれぞれ、それなりにがんばってきた。
つらいときも、かなしいときもあって、これからもある。
それを他人に共有して、心と心の繋がりで何とか乗り越えてきたのだ。
恐ろしい隣人ではなく、わたしと同じに弱い生命体のひとつなのだ、と。
我々のように、自分の中だけで処理しようとしてきた人というのは、どうしてもその他人との繋がりについて経験がなさ過ぎて、想像が追い付かない。
今ある心のつながりを大切にしたい。
そして、私は私のつらさを棚卸して、「みんな同じだよ」と言ってくれるひとの優しさについて、実感をともなった理解ができるレベルに到達したい、と思う。