月別アーカイブ: 2019年8月

【依存症】カフェイン依存症になっちゃってた話

こんにちは、ちあき です。

最近全く更新できていませんでした。

とほほ…

実はこの記事は8/3から下書きしたまま

無駄に温め続けてしまっていまして

もう夏の暑さで温まりすぎな感が否めませんが、更新します。(白目)

 

 

唐突ですが、私はコーヒーが好きです。

ここ最近は1日1ℓくらいコーヒーばかり飲んでいました。

そんな私のある日のツイートです。

 

そう、カフェイン依存症だということが分かりました。(いまさら感ハンパない)

 

私はこうしてカフェインに依存した!私のしくじり事例

まずは、私の生活習慣と症状を振り返ります。

私は2015年3月1日に断酒を志し、同年7月23日に禁煙をはじめ、今に至ります。

アルコールは4回のスリップを経験し、現在断酒継続は1年11ヶ月、禁煙はそのまま続いていて来月で4年になります。

それまでアルコールとニコチンに依存しつくした生活をしていたのですが、両方の薬物の摂取を止めた結果、「もんのすごい眠気」に毎日襲われました。

そこから、何とか日中起きているためにコーヒーを大量に摂取するようになりました。

その頃からつい最近までは、1日2ℓ飲んでいました。

 

〇朝起きて、まずコーヒー淹れてがぶ飲み。

〇午前中の仕事終わりにコンビニに寄って、1ℓ入りのコーヒーと1ℓ入りの緑茶を買って営業中にゴクゴク

〇夕方帰ってきて、夕食・風呂、落ち着いたらブログ書きながらコーヒー。

(あれ、1ℓ超えてる…まあいっか…)

 

 

そんなわけで

①浮動性めまい・耳鳴り

②無気力・日中の眠気(これをとるためなのに本末転倒)

③謎のイライラ感

これら3つの症状に毎日、苛まれだしました。

ついには、営業車から出て顧客のもとに訪問することもできないほど無気力になりました。

こりゃあまずいぞ、ということで再びたどり着いたのが、この漫画です。神。

「カフェイン依存症 前編」(@mimorimisa)

この漫画、もうなんていうか、すべてをわかりやすく詳しく書いてくれている作品なので、ぜひ読んでいただきたいなと思います。

この漫画のアドバイスに沿って、私の場合は「1日1杯までにコーヒーを制限」したところ、困らされていた3つの症状は改善してきています。

やはり、カフェイン依存に陥っていたと思われます。

そんなわけで、この漫画からの知識も引用させていただきつつ、”ネスレなぜなに?「コーヒーと健康」専門家インタビュー記事シリーズ  Nestlé, Coffee & Health (Vol.10) 2015 Nov. http://www.nestle.co.jp/nhw/coffee/interview” から図などもお借りして、カフェインの知識を整理していきたいと思います。

 

そもそもカフェインとはどんな物質なのか?

カフェインはメチルキサンチン類(アルカロイド) に属する化学物質で、苦みを持ち、もともとは植物が昆虫に食べられないようにするために作られた物 質のひとつと考えられています。

カフェインは我々の生活に深くかかわっています。

飲料では、茶、コーヒー、ココア、 コーラ飲料、マテ茶、滋養強壮ドリンク(一部医薬部外品)、エナジードリンク、食品では、チョコレート、眠気防止用のガム等に多く含まれています。

さらには、医薬品の総合感冒剤、鎮咳去痰配合剤(咳止め薬)、鎮痛配合剤、眠気防止剤、強心薬、呼吸促進薬などにも含まれていて、カフェインは非常に広範囲に使われている物質です。

またカフェインは比較的熱に強く、強い焙煎の場合に微量が昇華して失われる以外 は単一の成分として焙煎後もほとんどが残ります。お茶では一番茶に約90%のカフェインが出て、二番煎じのお茶カフェインが含まれにくく「実はデカフェに近い」ということが知られています。

 

カフェインは日本薬局方に中枢興奮・鎮痛薬として登録された薬物で、覚醒作用や倦怠感の抑制、強心・血管拡 張、片頭痛の緩和などの用途で風邪薬などの配合成分として処方されています。カフェインの作用がこちらになります。

 

 

カフェインはマイルドな中枢刺激作用の他、利尿作用、代謝亢進作用(脂肪燃焼や基礎代謝の向上)、胃液分泌作用など多くの作用があります。

カフェインは摂取後、約30分で吸収されて血管を通じて全身に行き渡ります。多くの化学物質は血液-脳関門(BBB)の働きにより脳内に入れませんが、カフェインはBBBを通過して脳にも入ります。

カフェインは核酸塩基のアデノシンと構造が似ています。

アデノシンはアデノシン受容体(Ad2-R)と結合することによって、神経終末から放出されるドーパミン、ノルアドレナリン、グルタミン酸といった興奮性の神経伝達物質の放出を抑制します。

アデノシンと拮抗するカフェインは抑制を抑えるので、間接的に脳を興奮、覚醒させます。カフェインの感受性には個人差があり、アデノシン受容体遺伝子の違いに基づくと考えられています2)。

アデノシン受容体のサブタイプAd1-Rは腎臓への血流を減らし、腎尿細管再吸収を促進します。カフェインはこのAd1-Rの働きも阻害するので、利尿作用があるのです。

アデノシンは細胞のエネルギー源であるアデノシン三リン酸 (ATP)が分解されてできるのですが、第2の睡眠物質と呼ばれる物質です。

アデノシンは覚醒中に脳に蓄積し、徹夜をするとさらに増え、眠ると減るということがわかりました。なぜなら、アデノシンはアデノシンA2A受容体と結合することで視床下部に存在する睡眠中枢を活性化し、ノンレム睡眠を誘発させる作用があるからです。

ところが、アデノシンと構造が似ているカフェインがアデノシンA2Aという鍵穴にぴったり合い、その上体内で吸収されるとアデノシンよりも先にアデノシンA2A受容体と結合してしまうので、睡眠中枢の活性化が抑制されてしまい、眠れなくなるというわけです。

カフェインを摂ると眠れなくなるメカニズムって、アデノシンという睡眠物質の働きを邪魔させるからなんですね。

カフェインはどのくらいなら摂っていいのか?

三森先生の漫画とその参考文献によれば、

「1回当たりの摂取量は成人は体重1kgにつき3㎎を目安に」

「1日の摂取量は健康な成人で400mg」

 

ふむふむ。

カフェインの1回当たりの摂取上限3mg/kgということは、私はMAX240mg

コーヒー100mL当たりカフェイン4060mg程度含有だから、1だと400600mg

「なんだ大丈夫やん」と思ったらお茶ー!🍵

 

これも1飲んでるー!

てことは、+200mgで一日600800mg摂取しとるー!

1日の摂取量は健康な成人で400mgだから、明らかにoverdose

 

そんなに摂取してないつもりでした。感覚のズレって、恐ろしいですね。

 

なぜカフェインは 欲しくなったり 摂り過ぎて不調になるのか?

カフェインの依存性については、アルコールの約1/50、ニコチンの約1/10程度という研究があります。(Deneau G et al (1969) Psychopharmacologia 16: 30.)

脳イメージングの研究では、カフェインが脳の依存の回路には関連していないという報告(Nehlig A (1999) Neurosci Biobehav Rev 23: 563.)もあります。

ここで見落としてはいけないのは、

「物質に依存性があるかないか」ということは依存症の問題の一部でしかなく

『離脱症状に苦しむほど摂取しなくては生きていられない人生の背景的課題』や『これさえあればなんとかなるという精神的依存状態』に、問題の根幹があるということです。

つまり、依存性が低いからといってこの物質の使用に危険性がない、とは言い切れない、ということです。どんなものにもリスクはあるし、リスクを含めて上手にお付き合いしていかなくてはなりません。

 

カフェインは依存性薬物と認定されてはいないものの、米国精神医学会は「カフェイン離脱症状」を精神疾患の診断・統計マニュアル第5版(DSM-5)に掲載しています。

 

離脱症状①寝起きが悪くなる(目が開かない)

離脱症状②一日中妙にだるい

離脱症状③不眠

離脱症状④中途覚醒

離脱症状⑤集中力の低下

 

1、浮動性めまい・耳鳴り慢性的な末梢血管拡張作用+利尿作用で脳血管収縮するも脳血流量は低下?

2、無気力・日中の眠気・謎のイライラ感中枢刺激作用(睡眠・覚醒リズムに悪影響)

 

まさに、この1・2の症状はカフェインからきていたと確信しましたよね。

 

でも悪いばかりじゃない!様々な疾患に対して認められているカフェインの効果

最近では、カフェインが認知症にも効果を発揮するのではないかと期待されています。

脳の神経細胞が死滅することによって認知機能の低下(記憶障害、見当識障害等)が起こり、不安状態、うつ、幻覚、妄想、その他の譫妄、徘徊、 不潔行為といった周辺症状が出るのが認知症で、患者数は近いうちに700万人に達するといわれています。

周辺症状は大脳辺縁系という部位の支配下にあります。

認知症では人らしさを作る大脳新皮質の前頭前野の働きが低下することで、大脳辺縁系への抑えが効かなくなっていると考えられています。

カフェインは、前頭前野を活性化することが知られています。

まだ科学的根拠レベルは限定的とする評価もありますが、認知症の半数以上を占めるアルツハイマー病について、コーヒー摂取者は発症リスクが低下するという報告もあります11)。

アルツハイマー病と並ぶ神経変性疾患であるパーキンソン病のリスクは、カフェイン摂取により低下することも示唆されています12)。

 

 

まとめ:摂取量に注意して上手に活用しましょう!

コーヒーなどの嗜好品として摂取されるカフェインと 賢くつきあうことが大切です。

昨今、エナジードリンクな どのカフェインを含む飲料の摂取が増えたこともあり、 小児が摂取する可能性も含めカフェインはどのくらいまで日常的に摂取してよいのかという議論が世界的に進みました。

多くの疫学調査結果も踏まえると、コーヒーの適切な摂取量は1日3-5杯程度と言えるかもしれません。

また睡眠に対する影響があるので、カフェインに感受性の高い方や睡眠が浅くなりがちな高齢者などカフェインが気になる方は、夕食以降は摂取を控えた方が良いでしょう。

医薬品にもカフェインが入っているので、どのぐらい含まれているかをチェックすることも必要です。

カフェインを上手に使って、QOL(quality of life)を高めていきたいと思います。

 

引用文献 1)Yamada M et al. (2009) Public Health Nutr 16:1. 2)Retey JV et al. (2007) Clin Pharmaul Ther 81:691-8 3)Haskell DF et al (2005) Psychopharmacol 179: 813. 4)Satoh H (1994) J. Nara Med. Ass 45: 290 5)Ramakrishman S et al. (2014) J Theoret Biol 358: 1 6)Jarvis MJ (1993) Psychopharmacol 110: 45. 7)Wiles JD et al. (1992) Br J Sports Med 26: 116. 8)EFSA J (2011) 9: 2054 9)EFSA J (2011) 9: 2053 10)Drapeau C et al. (2006) J Sleep Res 15: 133. 11)Xu W et al. (2015) J Neurol Neurosurg Psychiatr doi:10.1136. 12)Costa J et al (2010) J Alzheimers Dis 20: S221. 13) 14)Nehlig A (1999) Neurosci Biobehav Rev 23: 563. 15)DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル 16)EFSA J (2015) 13:4102

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【依存症】本当に自分が変われば、他人は変わるのか?

こんにちは、ちあき です。

先日尊敬する断酒会の先輩と、このタイトルの話になりました。

「果たして、自分が変われば、他人は変わるのか?」

私は『どう影響しようとも他人を変えることはできない』という立ち位置。

先輩は『自分の姿勢が変われば他人の所作や接し方は変わる』という立ち位置。

真っ向から反対の持論でした。はてさて、どちらなんでしょうか??

今日はそんなお話。

 

先輩が経験した他人の変容

先輩も穏やかな人ではありません。

割と強い言葉を言いがち。

そんな先輩は割と荒々しい性格の人たちのなかで所謂ブルーカラーの仕事に就いています。

御歳80代。

身体は上手く動きません。

「オラァそんなこともできんのかジジィ!」

「役立たねーなら帰れよ邪魔くせぇなぁ!」

そんな言葉が飛んでくる職場。

辛くないわけがありません。

しかし、先輩は固く守っていることがあるそうです。

「自分の頭を低くして、きつい物言いをされても一歩引いて考える。それから言葉を吟味しよく咀嚼したうえで発する。」

そしてその上で、ただ静かに自分ができる事をするそうです。

例えば、休憩所のゴミ掃除。自分でも運べるものの運搬。休憩用のお茶の準備。

「そんなこと後輩にやらせておけばいいんだよ、あんたは年長者なんだから。」

と親方が声をかけるので

「私にはできないことがたくさんあるのに、来させてもらっているだけで感謝しているから。」と笑って、ひたすらやり続けるそうです。

そうしていると、先輩に罵詈雑言を発していた若い子が、その姿を見ていて、次第に一緒に掃除をしてくれるようになり、

「おっちゃんは体しんどいんだから、無理すんなよ」

ある日、そんなこというようになった、と言うのです。

 

言葉と姿勢が他人に与える影響は、決して小さくはない

私は、にわかには信じられませんでした。

そんなに人は変わることができるのか?

素直な驚きと戸惑い。

私は、他人は他人の力でしか変わらない、だから私がアレコレと言ったりやったりしても意味がない、とあきらめて切り捨てていたけれど、そうではないかもしれない?

私の突き放した諦めの態度が水面に映るように、相手もそれを見て世界の変化を同じように諦めているだけなのかも。

自分の行動が必ず結果に結びつく、なんてことにはならない。

だけれど、影響は無視できないし、意外に小さくないのかもしれない。

 

7つの習慣 の 影響の輪

この話で思い出されるのは、一世を風靡したビジネス書、スティーブン・R・コヴィーによって書かれ1996年に出版された『7つの習慣』です。

コヴィーは、「影響の輪」「関心の輪」という概念を提唱しています。

関心の対象は、自分自身が影響を及ぼすことができるものとそうでないものに分かれます。

たとえば、天気に関心があっても自分の力で天気に影響を及ぼすことはできませんが、今晩の食事を何にするかについては影響を及ぼすことも可能です。

つまり、同じ関心事でも、影響を及ぼすことができることと影響できないことがあるというわけです。

このように、私たちの身の上に起こる出来事や周囲に存在する物事は、関心の有無、そして影響を及ぼせるか否かで分類することができます。

そのことをコヴィー博士は「関心の輪」と「影響の輪」という概念で説明しています。

引用:http://www.franklinplanner.co.jp/learning/selfstudy/ss-11.html

 

影響を及ぼすことができるのは、自分の行動であり、その範囲が「影響の輪」。

関心や興味があるけれど、自分が影響できない事柄の範囲が「関心の輪」。

得てして「関心の輪」、つまり他人をどう変えるかとか、取り返しのつかない過去の失敗とか、天気や景気や世界情勢や悲しいニュースに、私たちは限られた脳のキャパシティを使いがちです。

しかし、私たちが影響できるのは、自分達の立っている「今、ここ」だけです。

『やることを、やる』

どんなに偉い人でも、どんなに立派な人でも、あるいはどれだけダメで邪悪な人でも、これ以外に影響を与える事は出来ません。

期待しないけど、諦めない。

私は、その影響の輪以上の効果を、拡がりを、期待しすぎて苦しくなり、結果を求めてしまった。

叶わないなら全て諦めた方が楽だから、手放そうとしたのではないかしら?

結果を期待して、相手に関わるのは、コントロールできないものをコントロールしようとすることで、「関心の輪」に手を伸ばしていたことになります。

それでは、影響の輪の境界線を見失う。

他人の在り方は他人の物。

私の願いは私の物。

しかし、影響の輪の中の事柄に集中し、自分がやれることが増えていき、その幅を拡げれば拡げるほど、かつて関心の輪だった範囲に手が届く。面積が拡がっていく。

それはあくまで、自分のやるべきことに徹していて、それだからこそ、かつて他人の範疇だった関心の輪の範囲まで、影響を拡大することができる。

まさしく先輩が休憩所を綺麗にする後ろ姿を見せ続け、他人から数歩引いて冷静に言葉をかけ続けた結果、若者が変わったように。

私は願いを諦めることで、影響の輪を拡げる事も手放していたのではないかしら?

他人には結果を期待しない。

だけど、関わりを諦めない。

他人の可能性を、諦めない。

それは、私が出来ることが拡がる可能性を信じる事と同じだから。

他人にもあるかもしれない、私の中にあると信じたい、可能性。

「希望」を諦めない行いは、他人に「希望」を見せる。

素晴らしい、美しい何かを、他人の世界にもたらす。

だから、他人が自然に変わりたいと思うようになる。

いつの日か。

そう信じる、美しさ。

信じる美しさの共有を、諦めないでいたい。

 

自分ができること以外のことばかり気になってしまったら。

スヌーピーがいいことを言っています。

ルーシー「Sometimes I wonder you can stand being just a dog ….」
(時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ。)

スヌーピー「You play with the cards you’re dealt …whatever that means. 」
(配られたカードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ。)

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【依存症】水のように生きる、ということ。

こんにちは、ちあき です。

久々更新です。

今日は久しぶりに断酒会にいけました。

そこで感じたことをちょっと書いてみたいと思います。

 

異動になりました

部署が異動になることになりました。

一応希望している領域にいけることになり、いいことなのですが、問題が一つ。

上司がまた変わること。

現在の上司は、依存症には想像力が働かないタイプの人でした。

私がアルコール依存症になったことは「恥ずかしいこと」で「あまり言うべきではないこと」だと、今の上司には映るようで、私が飲み会をすべて断ることもあまりよくは思っていない人でした。

それ自体は仕方がありません。人のとらえ方はそれぞれなので。

でも、アルコール依存症の病態と私の状態を説明して、チームのメンバーにも説明して、

「でも今はもう治ったんでしょ?」とか

「そんなの言い訳で飲めるのに頑張らないだけでしょ」とか

そういう勘違いをいちいち訂正するのは、結構大変でした。

またそうなるの正直面倒だし、嫌だな…と思ったんですよね。

自分の酒害を話したとき、眼の奥に揺らぐ侮蔑・嘲笑・憐憫。

それらをまた一から目の当たりにしつつ、『できないこと』を話して助けを求めるのは、やはりそれなりに勇気と覚悟がいるものなのです。

 

 

それでも、私は、そうでしかない。

しかし、それで怖がって隠していても、しかたがありません。

だって、飲めないんだから。

だって、飲んで失敗してきたんだから。

だって、できないものはできないんだから。

そこから逃げて目を背けてきたから、私は私を見失ったのだから。

今度は逃げないで向き合うと決めた。それが私の断酒なのだから。

 

今回、初回の面談で、新しい上司に素直に『できないこと』を伝えられたのは、私にとって大きな進歩でした。

 

私は今まで、人に、現実の自分よりもよく思われようとしてきたのではないかしら。

なぜ? 現実の自分には自信がないから。

アルコール依存症をバカにされる。

自分がやってきた過ちで人から見くびられ、軽んじられ、陰口をたたかれる。

「許せない、見返してやる」「俺の頑張りをどうして認めてくれないんだ」と、

私は他人に対して、認識を変えさせよう、そのためによく見せよう、と『背伸び』していました。

 

しかし、どう受け取るか、どう考えるかは、相手の問題です。

相手の器の成熟度にも左右されるし、何よりそれは「私にはどうすることもできないこと」というタッチできないカテゴリの事柄だということです。

だから、アルコール依存症のことをどれだけわかりやすく丁寧に話したとしても、理解してくれるかどうかは相手次第。

コントロールすることができないこと。

それと同じように、相手がいくら

「そんなんじゃだめだ」

「お前は頑張っていない」

「そんなことで恥ずかしくないのか」

と感じ、私に言葉を投げかけたとしても、私は、ただ、私としてしか生きられない。

言われたことが腑に落ちれば、行動を変容させるかもしれないけれど、それはどこまでも

「私がそうしたいと思った」からするわけで、誰かに言われたからするわけじゃない。

誰かに言われたから変える、というのは、今までやってきた『背伸び』と同じだから。

私は私として生き、私として死ぬ。

それ以外の道はありません。

それを「許すことができるようになった」のではないかしら…と思うのです。

 

自分も自分以外も許せない生き方は、自分も他人もしんどい

私は、許せませんでした。

自分をバカにする他人も、馬鹿にされるようなアウトカムしか出していない自分自身も。

飲めないから機会を失う、同僚の飲み会の中で交わされる会話についていけない、そんな惨めに見えた自分自身。

どれだけ言葉を尽くしても分かってくれない、分かろうともしない、思い通りにならない他人。

ああ、そんな風にすべてに憤り、青筋を立てて顔を真っ赤にして、私はどうしたかったのでしょうか?

 

そもそも、思い通りになることなど、そんなに世の中にはないのですから。

 

ブルースリーは、「友よ、水のようになるのだ」という言葉を残しています。

 

水は、たとえば川を流れるとき、川の在り方に沿ってしか、流れていけません。

傾斜・角度・川幅・方向…すべてが外の力で完璧に決められていて、それを水自身はどうすることもできません。

しかし、水自体はどんな形にもなれる。

速く流れることも、激しく打つことも、穏やかに揺蕩うことも。

そして、水は、水以外の何物でもなく、唯々、水であり続けます。

こっちの水とあっちの水のどちらが優れているとか劣っているとか、水自身は何も比べません。

比べる気持ちがある人(第三者)が、その気持ちを込めた目で視て、優劣を勝手に決めつけているだけ。

その勝手な優劣は、人の目の数だけ存在することになります。これが他人の評価、というもの。

 

つまり、そんなものを気にしていたら、そのニーズのすべてを満たすために、水は水で在ってはいけなく、他のどんな物質にもそれを成し遂げることなどできません。

「出会うすべての他人の意に沿おうとする」というのは、すなわち、水を水でなくす=「正体をなくす」ということです。

私たちは、正体をなくしてしまった。アルコールという薬物で、土台無理なことをしようとする自分自身を、隠しだまし裏切り続けてきたのではなかったか。

そう思うのです。

そりゃ、苦しいですよね。だって、「自分が自分で在ってはならない」って24時間365日思い続けているんだから。

そんな自分を許してくれない他人にも、常に苛立ち恨みを抱えているのだから。

そんなあなたを見た他人も、ずっと刀の切っ先を向けられているような、責められているような気持になっていたでしょう。

お互いに苦しいだけですよね。

 

水と水を較べない。水が水である事を、もうそろそろ許そう。

水=自分・他人と置き換えてみると、どうでしょう。

自分と他人を較べない。

自分が自分であることを許そう。

自己啓発セミナーみたいな怪しげなところでも言っていそうなセリフでしょう?笑

 

でも、そうなんですよ。

私は、私でしかないんだから。他の誰にも成れないんだから。

『背伸び』しなくてもいいし、『できないこと』を隠さなくてもいい。

 

だって、水は水でしかないのと同じなんだから。

 

水はどんなに背伸びしても他の液体にはなれない。

水銀にもガソリンにもなれない。

 

「なんで水銀じゃないんだ?水銀になれないお前(水)は頑張ってない!!」

「ガソリンになれないなんていうのは、気持ちが弱いからだ。恥ずかしくないのか?!」

って言われても

「ごめんなさいね。でも、私は水なので、水でしかないんですよ」

と言って、ただそう在ることしかできないことを恥じる必要はないし、できないことは、できないと言ってもいい。いや、むしろできないと言わないと相手が見誤ってしまいます。

 

私はアルコール依存症であり、そういう「私」でしかない。

その事実を恥じて隠してしまったら、他人は私に「できないこと」を求めてしまうし、できると勘違いしてしまいます。

だから、私はこれからも、「アルコール依存症のちあきさん」として生きます。

そうでしかないのだから。

 

早朝に増水した川を愛犬と眺めていて、そんなことを考えていた、という話をした久々の断酒例会でございました。

 

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