【依存症】断酒日数は「競う」ものではなく「祝う」もの

こんにちは、 ちあき です。

 

アルコール依存症の私は、断酒会に通っています。

今日はちょっと断酒継続と断酒日数についての考え方を書いてみたいと思います。

 

断酒会で断酒日数を自慢する、あるいは年数が長いからとマウントしようとする人がたまにいます。

「私は100日以上断酒できているから〇〇さんより上だ」

「2年断酒もできていないのに断酒を語るな」

本当にそうでしょうか?

そしてそれは果たして重要なことでしょうか?

 

どんぐりの背比べ

みんな、アルコール依存症の患者は、同じ病の病人です。

そして、この病に「完治」はありません。

治る、という概念には相当せず、何年も止めているような人は「寛解」が続いている、と表現できます。

「寛解」とは、関節リウマチやがんのように、「いつまた起こるかわからないけれど現在活動は停止している」という状態のことです。

つまり、何年止めている人だろうと、結局みんな治っていないのです。

なぜか?「脳のドパミン報酬系回路が破綻して不可逆的な変化を起こしてしまっているから」です。

不可逆的、とは、もう元には戻らない、という意味です。ですので、一度この病になってしまうと脳は変化したままでもう二度と飲酒前の状態になることはありません。

自転車に乗れるようになったら、乗れなかった頃には戻れないように。

沢庵になったら、元の瑞々しい大根には戻れないように。

したがって、断酒している日数や年数で「病状」は語れても、患者の「優劣」は語れないと思うのです。なぜなら、脳の回路が狂っているという点で全く同じであり、スリップ(再飲酒)して苦しんでいるのは、明日の自分かもしれないから。

つまり、どんぐりの背比べです。

「酒を1日1日やめている」という一点において、アルコール依存症患者は全員が平等であり、優劣なく病人であり、同じ方向を向いて努力する仲間でしかないのです。

だから、アルコール依存症患者の仲間が断酒を継続できているなら、それは他ならぬ自分の分身ともいえる同志が傍らにいてくれている、ということです。

断酒という、世間には理解してもらいにくい病を患い、孤独に戦う日々に確かに見える光です。「心強い、独りではない」と自分を励ましてくれる存在です。

そう考えると、他人がどれだけ続いていてるからと言って焦ることはないということが分かります。

逆に、他人が続いていないからと言って驕り高ぶることはないということもわかります。

他人の断酒歴は祝うもの

私は、この病気になって大切なことに、ひとつ、気づきました。

今までは自分にも他人にも厳しくて少しの失敗も許せない人でした。

足りないところがあったらそれが目に付いてイライラする。

「これができてないくせに」と他人を下に見る。

そういうところがありました。そうやって他人を下におろすことで自分の価値が上がると勘違いしていた節がありました。

恥ずかしい限りです。

 

今思えば、それは、ひとえに、『自分に自信がなかったから』です。

 

しかし、やり方は人それぞれだし完璧な人なんていないということを学びました。

自分が優れている点を挙げつらい、「ほら俺が優れているだろう!」「こいつは馬鹿だけど俺は優秀だ!」とマウンティングしたとしても、それは非常に虚しいことです。

そんな行為は、「私は自信がないんです!」と、震えながら大声で叫んでいるようなもの。

完璧な人なんていなくて、私だってどこか欠損していて、だけど、だからユニークなのであって、何も恥じることはないし、みんな違って当然なのです。

人と比べなくては自分の居場所を確認できなくて、いつも落ち着かないのは、「自分が自分を認めてあげられていない」から。

あなたは、断酒しようと努力を続けているだけで、立派です。少なくとも頑張っているのは確実です。そもそも人生は土壌が千差万別なので、他人と比べるためのものではないのです。

 

MRの仕事でも、同じこと

私は個人的には前任者の人々を悪く言うのは好きではありません。

その人にはその人なりの正義があったと信じているからです。それぞれに多様な強み弱みがありそれを補っていくのがチームであり会社であるからです。

MRとは製薬会社の営業です。私たちは6ヶ月ごとの決算で計画の達成率をほかのMR・営業所平均・支店平均・全国平均と比較されて、上だ下だと毎回ジャッジされます。

そのプレッシャーは大きく、毎回100%でないと人間扱いされないほどです。

これは、「他人と比べて良いか悪いか」で物事を判断する典型的な悪い例です。

 

そして、その評価制度に洗脳されていった人間は、

担当していて思うように数字が上がらない場面で、自分を守るために「前任者が頑張ってなかったから」「あいつの顧客は偶々ラッキーな環境だけど、俺のエリアはそうじゃないから」という弁明というか、言い訳をします。

こういう人が多くてびっくりします。

他人と比べることがもはや手段ではなく、最終目的になってしまった人だけがいう、最高につまらない言い訳です。

 

私は前職では

「ポストが赤いのも自分のせいだと思って原因と結果に向き合え」

「純利益で事務員2名を含めて計3名分の年収が稼ぎ出せない人間は、会社の寄生虫だ」

と言われて育てられてきました。(笑)

とんでもないパワハラも日常茶飯事で、契約をとれなければ相談に提出した見積を先輩にくしゃくしゃにして顔に投げつけられましたし、深夜になり終電を逃したため事務所で寝袋で寝ているところを、早朝出勤した上司にわき腹ごとサッカーのシュートのように蹴りつけられて起こされたりしました。(笑)

そんな超ブラック企業時代、そんな言い訳は通用しませんでした。

パワハラが正しいとは言いません。パワハラは人格を壊します。非常によくありません。私は実際やられてとても嫌でした。

だけど、前職の上司を含めた営業たちは「利益という絶対的な生み出すべき結果」に対しては、限りなくストイックであり、決して「他人との比較」を言い訳にすることはありませんでした。

そこは、尊敬すべき姿勢だったと思います。

 

そんな言い訳を考えている暇があったら、自分の周りで起こる全てのことに対して、自分に責任の一端がある、と拡大して考える。

そこから改善策を考案したほうが、結果的に問題は早期に解決できるし、もう今、私が解決しなくてはいけないのです。

現在の「担当者」は「私」なのだから。

 

「誰が悪いか」を議論するために時間を使うのではなく、「どうやって解決するか」をみんなで考えるために時間を使うべきだと考えるのは至極合理的だと思いませんか?

失敗の大きさと犯人探しに目を向けるのではなく、次に起こさないためには、今解決するためにはどうしたらいいか、を常に考えられる人間でありたいと思います。

 

あとがき

私は、最終的に得意先が喜んでくれれば、世の中の役に立てれば、出世しなくても良いと思っています。

出世するために社内営業に明け暮れたりすることは、出世を目指す人には非常に大事に映るのでしょうが、実に些末なことです。

私たちは、ひとりひとりが関わった人々を笑顔に出来るなら、もうそれで充分すばらしいくて、その実現のためにいろんな社員がいていろんなやり方があってしかるべきなのです。

だめなところも弱いところも強いところも、みんなでさらけ出して助け合ってやって行けたらいいなと思います。

では、また!

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