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【依存症】ゲーム依存症「ゲームそのものやハマる子供が悪いワケじゃない」

最近、ゲーム依存の相談が多い。

私は課金ゲームやスマホゲームはあまりハマれなかったので、その手のゲームには疎いのだが、「CERO:Z」のゲームで人を殺しまくるのにはハマったことがあるから、ゲーム依存当事者の自覚があり、気持ちの一部を分かるつもりでいる。

「CERO」とは、ゲームソフトの年齢別レーティング制度を運用・実施する機関としてコンピュータエンターテインメントレーティング機構(略称CERO)である。

 

ゲームには種類がある

そのCEROが定める「年齢別レーティング制度」において、市販されているゲームは以下の分類で表記されている。

 

引用:https://www.cero.gr.jp/publics/index/17/

 

基本的には、下記のような刺激の強い描写があるかどうか、で年齢制限を判定している。

引用:https://www.cero.gr.jp/publics/index/17/

 

相談してくださる私より年配の相談者の皆様は、このCEROのような年齢制限を知らないことも多々ある。

「とにかくゲームはよくない!」と十把ひとからげに思い込んでいらっしゃる方もいるので、まずはこのようにゲームのなかにも種類があることを説明する。

 

私のゲーム依存遍歴

私は大学時代、とにかく殺したり盗んだりする刺激の強いゲームが好きだった。

CERO:B(12歳以上対象)の『戦国BASARA』シリーズ・『三国無双』『戦国無双』いわゆる無双シリーズ、

CERO:C(15歳以上対象)のホラーゲーム『サイレントヒル』シリーズ。

CERO:Z(18歳以上のみ対象)にあたる『グランド・セフト・オート』シリーズ、『ウォッチドッグス』。

などなど。

一時期などは、大学の講義など全てそっちのけで、酒を飲みながら部屋を真っ暗にしてずーっとやっていた。食べ物と酒を補充するためにコンビニに行くくらいしかしなかった。結果、単位をほとんど落とし必修科目すら落としかけて、留年の危機を味わった。卒業が危ぶまれたが、なんとか卒業できた。まさに奇跡である。

とにかく現実が好きじゃなかった。

仮想の街、仮想の物語、仮想の人物と過ごす世界にどっぷりハマって戻ってこれない、いや、これないんじゃないな。

私は意識的に、現実になんか戻ってきたくなかった。

当時。エチルアルコールで曖昧になった意識のなかで、別の人生を生きているような幻想的なゲーム中の時間。それが、最も私が安心できる時間だったように思う。

捨てきれない義務感でなんとか卒業し就職したものの、その後アルコール依存症や精神疾患に悩まされることになるのだが、それはまた別の話。

つまり、ゲームの刺激が強いからハマる、という脳のドパミン神経系の医学的な考えも分かるのだが、本当の問題の根本は「こんな現実くそくらえだ」「生きているのがつらくて少しでもいいから忘れたい、逃げたい」と本人に感じさせる『生きづらさ』だ。

いくら無理やりゲームをやることはやめさせられたとしても、その『生きづらさ』に寄り添わない限り、必ず別の形で表出してくるだろう。

 

ゲーム依存は子供たちの悲鳴の現れ

親は、自分の子育てのしかたのせいで我が子を辛い気持ちにさせている、などと思いたくない。

ゲーム依存になっているのは自分たちにも問題があるかも…と認めることは、愛情をもって育てていることを否定されるような気がして、恐ろしさを感じるだろう。

その痛みと恐れは、とてもわかる。

私も親になり、子供が自分のせいで苦しんでいるなんて言われたら、認めたくない。いかに「自分がこの子のために尽くしてきたか」「どれだけこの子を愛しているか」を唾を飛ばして必死に弁明するかもしれない。

誰も悪くないと思う。

分からないなりに、必死にやってきたのだ。

子どものことを必死に考えて、良い人生を歩めるように、自分と同じ失敗をしないために、と思うがゆえ、というのが、親たちの生の姿だと思う。

だからこそ、私たちは親として、本当は「自分のため」にやっていることを「子どものため」とすり替えて押し付けない勇気と真の愛情をもって、子供と向き合う必要がある。

 

なぜ、我が子はゲームをするのか?

我が子は、面白くてやっているのか?それとも面白いとは感じていないのか?

そもそも何が面白いと感じるゲームなのか?

一緒にやったことがあるか?一緒でなくても、ひとりで試しにやったことはあるか?やったことがないなら、どんなところが面白いのか、興味をもって子供に尋ねたことはあるか?

 

そうしたことをしていないのに「ゲームのやり過ぎはよくない」「いい加減やめなさい」と言っているとしたら、立場を置き換えて考えてみるとわかりやすい。

 

あなたがとても好きなもの、寝ても覚めてもそのことを考えるような趣味があるとする。

それを知りもせず、やったこともなく、共に語り合ったこともないのに、「そんなもののやり過ぎはよくない」「いい加減やめなさい」と言われたら、どうだろうか。

「こういう脳によくないというデータがある」「そんなにハマるのは病気だ」と言われたら、どうだろうか。

私なら、心を閉ざす。

この人には私のことは分からない。だから、こっそりやろう。よく知りもしないくせにえらそうに面倒なことを言うから、もう黙っていよう。

そうやってどんどん、双方の心の距離は離れていくだろう。

 

たとえば「これから仲良く付き合いたいな」と思っている人がいるとして、まずはその人が興味を持っている物事のことを真剣に聞くだろう。真剣に調べるだろう。話題が合うように、努力するだろう。

その労力こそ、すなわち「愛情」である。

 

それを、我が子に注いでいるだろうか?

 

まだ幼い子どもだから、親である私たちの言うことを聞くのが、当たり前だろうか。

とんでもない。彼らは、私たちと対等な一人の人間である。

親である私たちの言うことは常に正しくて、彼らの考えることは稚拙でとるに足らない考えだろうか。

とんでもない。私たちも間違う。彼らは彼らなりに考えている。その考えを尊重しないのは、彼らの人格を尊重しないのと同じことだ。

 

必ずしも、親だけではなく。

先生も、塾の講師も、クラブのコーチも、近所のおじさんおばさんも。

子どもを取り巻くこの社会の大人たちが、尊重してくれない。話を真剣に聞いてくれない。正面から真剣に向き合ってくれない。

その辛さに「もういやだ!!限界だよ!!」と悲鳴を上げているのが、聞こえてくるのではないだろうか。

 

まとめ:ゲーム依存症は、子ども個人の病ではなく、社会の病

その土地の自然(人工物ではない土や水や動植物たち)に触れることがなくなり、自然と遊ぶという最も重要な営みを子供から奪ってきた社会。

子どもたちを、自然から不自然に隔離している都市。過剰に干渉し正しさで管理する社会が、子供たちの精神と肉体を蝕み、WHOが示すような自殺率の高さや幸福度の低さを招いているなぁ…と思う。

ゲーム依存は、そうして居場所を奪われ苦しんできた子供達が、この現代社会でなんとか見つけた避難シェルターのようなものではないだろうか。

つまり、ゲームに依存する子供側の問題というよりは、私たちに問題の本質があるのではないだろうか。

彼らの居場所を奪ってきた正しさへの囚われ・リスク偏重主義的な社会構造。それを是とする私たち社会人の貧相な価値観。これら社会的な背景・生育環境に問題の本質がある、と私は考えている。

「やめさせるためにどうすればいいか?」とか「ゲームやスマホが脳にいかに有害か?」とか。私たちは誰しもHOWに頭が偏りがちで、本質的な課題を見て見ぬフリをしやすい弱さを持っている。その弱さを、隠さず認めることが、まず第一歩だと私は思う。

子供の行動を制約する正しさや、コントロールするための方法論ばかりを考えて、子供に強要する前に、私たちのほうにこそ議論すべき課題は山積しているのではないか。

相談を受けていると、そのように思うことがある。

【共依存】助けること、愛すること。

この二つは、簡単なようでとても難しい。

なので、人はよく間違う。

 

私たちは、それ(コントロール)を手放すことを学ぶ。

家族を手放すことを学ぶ。

自分のショー以外、人の回復のショーを仕切ることはできない。

自分の考えが、母、父、兄妹、祖父母の役に立つかどうかということは関係ない。

家族がどうしても必要とする答えを何とか見つけたとしても、それで家族の人生が確実に改善されるとしても、

それは関係のないことだ。

それは全くどうでもよいことだ。

引用:『共依存症12ステップへのガイド』メロディ・ビーティ著(ワンネス出版)P222 より

 

家族を大切にするということ

これを、何でもかんでも転ばぬ先の杖を用意することや、過剰な世話焼きをすることと、わたしたちは誤解しやすい。

「失敗」とは、必要だから用意されている。

経験すべき「失敗」を与えないことは、一種の略奪であり虐待である。

家族を本当に大切にするのであれば、私たちは本人がするに任せることである。

本人が経験する痛みも喜びも、本人のものであると尊重することである。

落ち着くこと、そして辛抱強く見守ることだ。

それこそが家族を「愛する」ということだと私は思う。

 

そういう意味では、私は愛されていなかった。

社会的な失敗を回避するためにうんざりするほど世話を焼かれた。

そして自己効力感を失った。生きている実感を失った。

私にとって、親の「愛情」は、無理やり神経を引き剝がされるような拷問だった。

私の人生は成人して病気になりにっちもさっちもいかなくなるまで、半分死んでいるようなものだった。

私は実感をもって、これらの行いが「愛情」という仮面をかぶった虐待であると自信をもって伝えることができる。

 

なぜ、私の両親はコントロールを、私たち子どもを、手放せなかったのだろうか。

 

それは、自分の人生を生きていなかったからだ。

自分のショーを健全に楽しむことを放棄して、他人のショーに没頭した。

自分のショーに向き合う勇気がなかった。自分のショーを立て直す根気がなかった。

うまくいかない自分のショーよりも、責任を負わなくてもいい他人のショーにばかり一生懸命になった。

そのほうが、楽だと錯覚したから。

「愛しているから」という免罪符を使えば、子供に干渉していいと社会も背中を押した。

社会に疲弊した大人たちの多くは、大義名分をつくって、自分自身が楽になるために子供を生贄にしたのである。

そのなかの一組がたまたま私の両親だったと、いうだけのことである。

しかし、楽だと錯覚しているけれども、本当はどんどん苦しくなっていくだけ。

だから、親も子供も苦しくなり、最終的にはお互いに殺し合ったりする。

それは、愛しているというにはあまりにも凄惨である。

 

「家族を大切にする」というのは、こんなエンディングを迎えるような状態ではなく、それぞれがそれぞれに生きることを楽しんでいて、それを尊重する状態ではないだろうか。

 

何をしていようと、どんな職業だろうと、どこに住んでいようと、子供がいようと居まいと、五体満足であろうとなかろうと、本人が満足しているなら、それは確実に良い人生なのである。

なぜなら、良い人生かどうかは、本人にしか決められないからだ。

自分の家族に与えられる最もパワフルでポジティブな影響とは、自分が健康で幸せな人生を送ることである。

引用:『共依存症12ステップへのガイド』メロディ・ビーティ著(ワンネス出版)P222 より

私の両親は、ただ楽しく生きてさえいればよかった。

息子のために、娘のために、と望まないままに何かを我慢したり何かを犠牲にしたりしないほうがよかった。

無理をして暗い気持ちを隠さなくてよかったし、家庭に問題があることを「なかったこと」にして幸せな家族を演じなくてもよかった。

そういう「〇〇しなければ」で家族を縛り付けた結果、誰も楽しくも幸せでもなくなった。

子どもにとって、親が果たすべき最も重要な役割は、人生を楽しむ姿を見せることだ。

「お前が生まれてきてくれたこの世はこんなに輝きであふれていて楽しい世界なんだ」ということを、言葉ではなく行動で、生きている背中で伝えることだ。

私は、親の後姿を見て、絶望的な気持ちになった。

こんなに我慢しながら、やりたくもないことをして、誰かの陰口を子供に吹き込まないと生きていけないほどのストレスを抱えて、かたちにばかりこだわって生きていかなくてはならないのか。

もはや世界は牢獄であり、生きることは義務のように見えた。

そんな世界で生きていきたい人は少ないだろう。

事実、私は生まれて物心ついたころから、ほどなくして死にたくなった。

さっさと終わらないかな、こんな人生、と思って生きてきた。

そしてアルコール依存症にもなったし、うつ病にもなった。

様々なものを失ったが、「失敗」を経た今が、最も幸せである。

 

家族を助けるということ

では私たちは、家族を、大切な我が子を「助ける」ために、何をすべきなのだろうか。

助ける人として私の役割は、助けようとする人たちのために 何かをする のではなく、何かになる ことである。

つまり、彼らの行動をコントロールして変えようとするのではなく、理解と意識をもって、それらに対する自分の反応を変えることである。

(中略)

他人の将来の行動には一切考えを持たない。

時間が経過しても、他人が良くなるか悪くなるかを期待しないということだ。

なぜなら、そういった期待をするということで、本当は私が望むイメージに作り上げてコントロールしようとしているからだ。

なるがままにする。

引用:『共依存症12ステップへのガイド』メロディ・ビーティ著(ワンネス出版)P222~223 より

つまり、彼らがするに任せる、彼らが向かう未来を信じる、ということだ。

私が望むイメージがあったとして、それは娘や息子が望むイメージではない。

私が勝手に思い描いているだけだ。

娘や息子は、自分自身でイメージを描く権利がある。むしろ、その権利は彼ら自身にしかない。

それを勝手に描いておいて、その通りにコントロールしよう、などというのは、とんでもないことだ。

「将来は野球選手にしよう」「将来は医者や弁護士になってほしい」

しぬほど余計なお世話である。

彼らは立派に勝手に生きるのだから、親は親の人生のことでも考えておればよい。口出しする権利は親にはない。誰にもない。

 

私が精いっぱい自分の人生を生きる。

先に様々なケースを学ぶ。

それを参考にして、子供たちは自分を生きる。

『何かをする のではなく、何かになる』とはそういうことだ。

何かゴールがあってそのために何かをする、というのは、ゴールを勝手に設定している。

彼らが歩む。その道を行くために、「私」という親が「一例」となる。

サンプルの一つである。それが信頼できるかできないか、使うか使わないかは、子供らが決める。

「こんなめんどうくさいやつにだけはなりたくねぇ」と思うかもしれない。

「こんなふうに楽しむにはどうすればいいんだろう」と思うかもしれない。

どちらでもいい。

思いたいように思ってくれていい。

それを使って、自分の頭で考え、自身が思うように生きてみてくれさえすればそれでよい。

 

結果がうまくいこうと行くまいと、正直、俺には関係ないし。

彼らの人生なのだから、彼らがけつを持つのが当然である。

それに、結果がどうであったとしても、当事者として主体的に生きられることは楽しい、と私は思う。

私が途中まで、親にコントロールされるうちに当事者意識を持てなくなり、結果として半生を主体的に生きることができなかったから、かもしれないが。

 

経験上、結果や責任を誰かに盗まれることほど、肩を落とすことはない。

私の親はこの盗みをはたらきがちだった。それは子供である私を深く失望させた。

 

それをしないだけで、私にとっては、私の両親よりマシな親でいられる、と思っている。

 

「助けない。君が勝手に助かるだけさ。」

「人は、一人で勝手に助かるだけ。」

引用:『化物語』忍野忍のセリフ

 

本人が助かろうとしなくては、いくら他人が横から助けようとしても無駄である。

助かりたい人が、『何かになろう』と思って生きている人にヒントを得て、勝手に助かる。

『何かをする のではなく、何かになる』ように生きる誰かが、使いたきゃ勝手に使ってくれ、と置いておいたものを、通るべきタイミングで通りがかってうまく活用する。

それは、利用されているのではない。

たまたま引き合わされただけ。

意図せず活用してくれただけ。

損得ではない。

世の中は計り知れないめぐり合わせで回っていて、私たちは個別でありながらひとつでもあるから。(このあたりは、また話すとしよう。)

 

ともかく、コソコソと計算して、これが必要だろうから何かをしようだなんて、姑息なことを考えてはいけない。何も見えなくなってしまう。

 

自分のために生きた道筋が道となり、その後を歩く人に道のひとつとして役立つ。

それ以上でもないし、それ以下でもない。

自分自身を変えることはできるが、人のことは、愛することしかできない。

それを知って落ち着いて生き、安心して愛するひとでありたい。

【共依存】「感謝」を取り立ててはいないだろうか?

子供に対する親の「過干渉」「過保護」がしばしば家庭内・教育の分野で問題になる。

しかし、これは親子関係のみに限ったことではない。成人した人間同士であっても、社会の様々な場所で再現されている。

他ならぬ自分自身の為にも、他人に過干渉することをライフワークにするべきではない。

自分も相手も望ましい状態から遠ざかるだけだ。

 

エンパワメント

あくまでもクライエントが自己実現を可能にするために自ら自発的に達成したい目標に対して、我々ソーシャルワーカーはエンパワメントの考え方で寄り添うのであり、クライエントが寄りかかって生きていくような状況を創ってはならない。

また、クライエントに対してのリスペクトを忘れ、専門家としての自負に目を眩まされ手段を強硬的に推し進めてしまうような事もあってはならない。

あくまで本人が人生をより良く生きるためのサポートであると肝に銘じるべきである。

引用:ソーシャルワーク、はじめました。>【社会福祉士】相談援助展開の8つのステップ

 

主役は、本人。私たちは手を添えることくらいしかできない。

他人である援助者が課題を勝手に決めちゃいけない。

本人が課題設定から決めなくてはならない。

それが「エンパワメント」であり、ソーシャルワークの根幹をなす在り方の基礎。

しかし、それはエンパワメントのプロであるはずのソーシャルワーカーですら、しばしば忘れてしまう。

 

頼られることは、気分がいい。

自分の存在が全肯定されたような気持ちになるからだ。

「あなたがいてくれてよかった」と言われることがどれだけ快感かを知ってしまうと、その誘惑から逃れ難い気持ちは分かる。

そういう正のフィードバックが報酬系に刻まれているから、私たちは他人に優しくするのかもしれない。

他人に優しくしたことで、感謝されたり喜ばれたり。その経験がモチベーションとなり人を助ける行動に繋がる。

それ自体は決して悪いことではない。実質的にそうやって行動することが人の助けになっているし。

 

問題は、必ずしも正のフィードバックが毎回得られるわけではない現実に気づいたとき、だ。

 

尻ぬぐい

 

助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けたら、あなたならどう感じるだろうか?

 

「せっかく助けてやったのに」と思うだろうか。

私はそう思ってきた。

感謝されないのに最良のものを与えることなんてない。

感謝の代わりにそれなりに良質なもの(行動)を与えているのだから。

そうして私は感謝の形として、金銭だったり承認欲求だったりを受け取ることを欲した。

 

しかし、それは「助ける」ではなくて、ギブアンドテイクであり取引なのだと気づいた。

「助ける」とか「誰かのために」というのは、本来感謝されることを前提にしていない。

「助ける」の材料は「純粋なあげっぱなしの愛情」だと気づいて、私は今まで誰も助けてなどいなかったのだということを理解した。

まず、本人が自分で立てると信じていなかった。

そいつができないからできる俺が代わりにやってやる、という傲慢さがあった。

相手に潜在的な能力があると信じていなかったということだ。

その人の生きる力を信じなくては、本来エンパワメントはできない。

では私は何をしたかったのかというと、その人をエンパワメントしたいのではなくて、私は『他人を上手に使って』私に力があることを自分に示して安心したかっただけだったのだ。

私は他人を救うくらいの力がある、と思えれば、ダメな自分ではなくなる気がして、他人を助けるふりをした。

だから、助ける相手がいないと困るのは私のほうだった。

私ばかりいつも辛い目に遭う?

とんでもない誤解だ。

自分が、能動的に困っている人に近寄って行ったんじゃないか。

わざわざ他人が解決できる面倒ごとに首を突っ込んで、口では「つらいつらい」と言いながら、内心嬉々として他人の尻ぬぐいを手伝ってきたのだ。

 

「他人のため」というのは「他人の『役に立ちたい自分の』ため」

これは今までの私自身に対する自戒のツイートでもある。
他ならぬ私自身が、私は何者かにならないといけないと思っていた。社会を変えるには影響力がないといけないと思っていたし、自分で組織のひとつくらい立ち上げられる実行力がないと認められないと思っていたし、誰よりも正しい知識を身につけなくてはいけないと思っていたし、現時点で啓発活動で名前が知れた権威ある人々とお近づきにならなくてはいけないと思っていた。

全部、勘違いだった。

AC(アダルトチルドレン)としての『認知の歪み』を引きずっているだけだった。

全ては自分のためだ。そこは誰にも偽ることはできない。

私が勝手にやりたくてしかたないからやっているだけで、その結果勝手に相手が助かり、たまに勝手に感謝されるのだ。

それが「助ける」という事象の顛末。

だから相手に感謝されないからと腹を立てるのはとても変なことだし、問題が何とかならなかったとしても、悔いたり言い訳したりする必要もない。

なぜなら、もともと他人の人生であり、他人の課題なのだから。

解決できなかったのなら、その人に責任があるのだ。人生の責任はその人以外誰も代わることができない。

その人が笑顔でいてくれたら私がうれしいから、「こうなったらいいな」「こうなったらみんな笑顔になれるんじゃないかな」と思うことを勝手にやるだけだ。

迷惑でやってほしくないようなことをしてしまっているなら、他人がそういうメッセージを言葉にしろ態度にしろ、発するのだろう。

そうしたら、私は目的を達成できる行動ではないと理解して「やってほしくない」という相手の意思を尊重して、手を止めるだろう。相手を苦しませることは、私がやりたいことではないからだ。

 

やめてほしいのにやめてくれと言えない、というのは、相手の課題であり、私にはどうすることもできない。

私はエスパーではないから、本人が伝える努力をしてくれないと分からない。コミュニケーションは双方向であり、対等な対話の責任は常に、50/50だ。

「察する」「配慮する」ということを過度に他人に期待するひとは、伝える責任を放棄している。それは、相手をリスペクトしていないことと同じだ。

コミュニケーションの責任を相手に負わせて結果をコントロールしようとしても無駄だ。

いつの時代も人のコントロールは思うようにはいかない。なぜなら相手が成長したら、いつか必ずあなたがその人をリスペクトしていなかったことに気づくからだ。

そして次第にあなたから離れていく。どちらかが搾取する関係は不自然だから永続的ではありえない。いつか必ず、終わりを告げる。

 

誰かを自分の支配下において相手から「感謝」を取り立てて共依存の鎖で縛りつけておくことが、本当に人生を賭けてまで、したいことなのだろうか?

そんなふうに奴隷を増やすことをいくら続けても、自身の人生は一歩も前に進まないよ。

そして相手は本当の意味で感謝してくれることはないし、本当の意味で救われることもないだろう。

登場人物全員が苦しんで、虚ろな人生を過ごして終わり。

そんなのが望んだことではないはずだ。

 

私たちは、自分がしたいことをするために、この世で時間をもらっていると思う。

耳障りの良い言葉で本心を誤魔化しているうちに、もらった時間は矢のように過ぎ去ってしまって、死の淵で「ああすればよかった」「こうすればよかった」と後悔する。

そういうことの繰り返しは、割と珍しくないんだなぁ、と最近はよく思う。

誰よりも自分のために、Just for today.

それがひいては、誰かにとって本当の意味で最も優しい。

 

【依存症】社会啓発って何だろう?(STEP12)

社会は、腐ってる。

私は、基本的に救いようがないと思う。

それは社会の仕組みがそうだからで、誰かが特別悪くて何かを捻じ曲げているからではない。

鉄の檻の内側はディストピア

資本主義経済社会で、行政官僚制の組織を構築して、今人々は生きている。

その仕組みの内側、すなわち「鉄の檻」の内側である以上、人は入れ替え可能な部品として扱われるし、経済的価値に換算される冷たい世界で生きることを余儀なくされる。

そういうシステムだからだ。

もちろん、悪い。

政府も悪いし、企業も悪い。しかしそれを言い出したら、この社会に寄生して生きている私たちは全員悪い。

この社会を否定するなら、山に引きこもって自給自足で文明と切り離された仙人みたいな生活をしなくてはならなくなる。

それは現実的ではない。

すなわち、私たちは「鉄の檻」の内側の世界の人格を持ち続けなくてはならない。

それがどれだけクソのような世界でも。

そのクソっぷりを少しでもマシにするために、社会啓発があるのだろうか?

いや、そんな活動はいつまで続けてもしかたがない。最終的に己が病むだけだ。

そもそも、他人に影響しようというのは、善意を通り越して過干渉なのではないだろうか?

 

他人のために、という嘘

自分のためだ。

社会啓発であれ何であれ、全ての行動は全部、自分がやりたいからやることだ。

「誰それのために」という言葉には虫唾が走る。

自分の動機を他人になすりつける卑怯さを感じる。

 

善行をするのは、そういう自分が好きになれるからだ。

喜ぶ顔をみると、自分の存在を肯定された気がするからだ。

見返りを求めて行う人助けは、善行ではない。感謝の略奪である。

結局、無理をすれば誰もが破綻する。

滅私奉公、自己犠牲はしばしば美徳として語られるが、実際はオブラートに上手に包んだだけの「共依存」でしかない。

自分で決定し、自分の人生を自分のために生きることを放棄する、無責任な行いだ。

つまり、自分の人生を丸投げしてるだけ。

 

では私たちができる社会啓発(STEP12)とは何なのか?

個人としての気の持ちようにアクセスするくらいしかないのではないだろうか?と私は最近しみじみと思う。

人は、与えられる範囲でしか、施すことができない。

他人に施すには、自分のこと以外に関心を持ちエネルギーを注ぐ「余裕」が必要だ。

「余裕」を持つためにはまず、誰よりも自分が健康である必要がある。健康でない者は自分のことで精いっぱいだからだ。

だから、自分の健康をまず整えることが、まわりまわって他人にとっても一番優しい行動なのだ。自分を差し置いて他人を優先することでは絶対に無い。

だからこそ、まずは、自分自身の回復を謙虚に目指すことが重要なのだ。

回復を目指すうち、無理なくやれることが増えていく。そうして少しずつ、還元できることを増やしていく。それが自然な姿だと思う。

 

荒野を歩く身であっても健全に生きていけるのは、「鉄の檻」の外側に仲間を持つことができるからだ。

私たちは外側に健全な繋がりを持たなかったから破綻した。

繋がりが持てなかったのは、方法がわからなかったからだ。

そして内側にしか価値が無いと思い込んできたからだ。

 

アサーティブ。

自助グループ。

12ステップ・プログラム。

 

それらの道具を学びながら、私たちアディクトは「鉄の檻」の外側で、自分と大切な人との信頼関係を守り育てる方法を後天的に身に着けていく。

内側ではなく、外側にこそ価値があるということに気づく。

そのためにまず第一に考えるべきは、己の心身を健康に保つことだ。

そのために時間と労力を怠らない。

そうしてはじめて、「鉄の檻」の内側、つまり社会という荒野を生き抜くことができる。内側への囚われから解放されて、穏やかな世界を持つことができる。

 

つまり、檻の内側を変えることではなくて、外側を創り出すことが、社会啓発の最も重要な役割だと思うのである。

私ができる事をしていきたいと思う。

【社会福祉士】この世の虚しさについて

なんかめっちゃ疲れた。

最近とても疲れることがある。

何にかというと、世の中や人との関わりにまつわる虚しさに。

 

会社(仕事)の虚しさ

会社での仕事なんてまさにそうで、虚しさの塊みたいなところだ。

昨日社内テストがあって、取り扱っている製品について何時間も解かされて疲れた。

しかも、「○○○○試験において、試験の背景はどうだったか?」みたいなクソどうでもいい内容のテストだ。

なんでクソどうでもいいかというと、そんなのパンフレット読めば書いてあるからだ。覚えなくていい。暗記する必要が無いので、問題にする意味がない。

問題を作っている人の意図は「営業の人たちの理解が深まるように」ではない。

「デキない人だという理由を積み重ねてしかるべきときに楽にリストラできるように」というのが目的だ。

それが見え透いているから、心底くだらねぇなぁと思う。

私はそういう実質的に私にとっても世の中にとっても意味がないものにはやる気がしない人だ。

よくこんな無意味な問題をつくっていて、自分は仕事してる、給料をもらう価値がある、と思えるよな、と思う。

私が問題作成者側だったら嫌になって会社やめるレベル。子どもに胸を張って言える内容ではない。

役員も株主の顔色をうかがいながら、既成事実の捏造のために下に当たり散らして、権力者にはこびへつらう。やっているのはそれだけだ。

美辞麗句を並べ見た目ばかり取り繕って中身がスッカスカ。まるで私の実家のような吐き気を催す邪悪そのものじゃないか。

こんなオママゴトみたいな仕事で、人間本来のライフサイクルから外れたゲスくてつまらない仕事もどきのほうが、実際に食べ物を作ったりお世話が必要な人を助けている人々の仕事より実入りがいいなんて、世の中ってお金って何なんだろうな、と思わざるを得ない。

 

善行 でもそう

他人のためにどうのこうのというのも、同じようにくだらない。

結局、全部自分のためなんよ。

耳障りの良いこと言っているけど、結局は他人の役に立つ自分なら少しは好きになれたり、マシに思えたりするから人助けをしているだけ。

つまり自分を好きになりたいから他人を助けている。

それを見失っている人は感謝や尊敬という見返りが得られないと分かると途端に、「せっかくやってあげたのに」とか「恩知らずだ」とか急に被害者ぶって手助けしていたはずがいつの間にか加害者側に180度反転している。おそろしいことだ。

重要な決定は誰もがしたくない。責任を取りたい人なんていない。

だけどいつか誰かが決めなくてはいけない。

その役割をやってもらっておきながら、文句言いや責任追及だけはいっちょまえにする人がいる。ホント、どんだけ都合がいいんだよ、と思う。

私は何かを決めるときには、良い面も悪い面も責任を持つつもりで決定する。

だから後でなんだかんだと後付けで言われることも引き受ける前提で考えをまとめて、それを私の意見として話す。

いろんな場面でそんなことがあり、結果的に私が提唱した案が採用されて状況が動くこともよくある。

経験しているからわかるんだけど、ほとんどの場合、思うように感謝されたりしない。

全方位的にうまくいくような解決策を制限時間内に定めることはほぼ不可能なので、どこかで負荷がかかるし何かを満たせないことはある意味しょうがない。

だけど代替案も出さないような無責任なやつが往々にして「これが問題だった」「あれが想定できていないからストレスがかかった」などと騒ぎだして、ちあきのやった方法は間違いだったんじゃないか?などと最終的には救おうとした人にまで後ろ指を指される。

知ってる。

そうなるって知ってた。

だから静観することもできた。

だけど、それは嫌だからやった。

だから納得してる。

だけど、虚しいわ。正直。

頑張ったよ、俺だって。いろんな方法を考えて、最も最適だとその時判断したことに、誰も異議を唱えなかったじゃん。でも、結局何か言われるのは決断を下した人なんだよな。

頭のなかのもう一人が「そんなに苦しむだけなんだったら、関わらなきゃいいじゃん」という。

そうだよなぁ。その通りだと思う。

でも俺は、見て見ぬふりしてだんまりを決め込むほうがもっと夢見が悪いんだよ。

だから致し方ない。

私はそれ以外を選べなかったし、無責任に途中で放り出すこともできない人間なんだ。

 

社会支援 でもそう

何かしらの啓発だってそうだ。

私は好きでやっているし、やれる範囲でやっている。

これ以上もこれ以下もない。

使命感とやらで無理をしてやっても、最終的には押し付けにしかならない。

自分がやらないと居ても立っても居られない気持ちになり、落ち着かないからやっているだけ。

こうなったらいいな、と思うことは勝手だけれど、その通りになることが必ずしも正しいわけでは無いんだよ。

それぞれがそれぞれに在るように在るだけで、クズはクズでいるのが自然だし、良心がある人は良心に従って生きていくだけ。脅威や侵略をする哀れな生き物(他人の権利を侵害するタイプのホモサピエンス)からは、知恵ある我々が逃れるしかない。必要なら本人が必要な手段で必要な対策を講じるサポートをすればいいだけ。

結局は、本人がどう生きたいか決める。

私たちは、自分が、どう人生を生きるかに責任があるだけであって、それ以外は結局どこまで行っても他人事なんだよ。

あーだこーだ言ったところで、私たちは私たち自身が幸せに生きること以上にできる事など、実は何もない。

正直、私は他人の人生は結構どうでもいいし、割と信頼している。信頼しているというのは、勝手にがんばるし、勝手に幸せになる力を持っている。

助けるというのは本来おこがましくて、その人に手を貸した結果、その人の力で勝手に助かるだけだ。私はただ手を貸すということを、したいからしただけ、余裕があるからしただけ。

余裕がないのに他人の手を掴もうとするのは、逆に奈落に引きずり込んでいる。

まずは自分の足場をしっかり固めないと、一緒に落ちていくだけだ。

そのあたりを自覚しないで、他人とより多くよりしっかりと手を繋いでいることを誇るような支援者や啓発者は、自分が助けているのではなくて、自分がその人たちが困っていることで助けられているだけだ。自らの存在意義を確認するために、その人たちを遠回しに利用しているだけ。

その辺の薄気味が悪い偽善が垣間見えて、なんだか萎える。

 

 

まあ、今日は唯々愚痴を言うだけのブログになってしまったけど、何とか生きている。

こんな感じに落ち込むことはよくあること。というか、酒を飲んでいたころはいつもそういう不快感があったから酒に逃げていただけで、酒が無い今表面化するのは当たり前。

この虚しさを受け容れてもなおできるだけ楽しく生きようとしているだけでも、というかそういう姿勢こそが、回復した証拠だよな、と思う。

前なら死んじゃいたかったからな。つまんなすぎて。

動物も娘もかわいいし、捨てたもんじゃないよな、と思う瞬間があるから、私はまだ虚しくてもやっていけるし、楽しみを見つけるセンサーの感度を取り戻しつつある。

マザーテレサが言うように、他人がどう反応しようとも実は関係なくて、私のなかの最良のものを手渡すことが、自分の為なのだ。他人との間のことは一つもなく、私と私のなかの魂とのやり取りなのだ。

だから、反応が返ってこなくとも、逆恨みされようとも、動揺せずにできることをするだけなのだ。人生はそれだけだ。

そしてそれが一番遠回りのように見えるが、最終的に私がたどり着きたい場所への一番の近道になる。

他人に後ろ盾を求めたり、責任を押し付けたりすることは、もう卒業したからこそ、世の中に蔓延るそれらが浮き彫りになってきただけだ。

そう信じて、休み休み生きていきたいと思う。

【共依存】シリーズ「わたしの共依存」④20万を借りパクしていった君へ

私は「ある出来事」があってから、お金は一切貸さなくなった。

貸すときは、あげるときだ。

返ってこないとしてももう構わないや、と思うときだけ、貸す。

「ある出来事」とは、高校からの知り合いに20万円を借りパクされたことだ。

 

S君

借りパクしたのは、S君という男の子だ。

彼は一人っ子だった。名犬ラッシーのようなフサフサの毛の犬を飼っていた。

ピアノがうまくて、ラフマニノフやショパンが弾けて、割とイケメンだったからモテていた。運動は少し苦手だった。

元いた中学校では成績がトップだったらしく、高校でもそこそこ成績が良く、同じ進学クラスにいたので徐々に話すようになった。

 

彼は、少し落ち着きがなく、どこか陰があった。

なので、高校生の当時、私は彼を少し面白いなと思った。

ピアノが弾けて勉強ができてイケメンなのに、アニメが好きでオタクだったし、先生や学校に従うのを嫌うので、完全な優等生タイプとは少し違っていた。

私は反抗挑戦性障害(ODD)なんじゃないかと今思い返せば疑うほど、先生や学校にたてついていた。学校の備品を破壊したり、高圧的な教師に徹底的に反抗して授業を妨害し職員室に呼ばれたりしていた。

教師をバカにして目をつけられていた。勉強をしなかったので成績が悪くなる一方だったが、スポーツでは表彰され続けていたので、一目置かれてはいた。

S君は、自分より下だったり、どこか欠けている人と付き合う傾向にあった。

私は見事にバランスを欠いていたので、彼にとってはとても興味がある存在だったのだろう。彼から話しかけてきたように思う。

なんとなく教師をバカにしているところが共鳴して、よく一緒にいた。

このままおそらくお互いにある程度の成績で関関同立程度以上の大学に進学し、エリートではないまでも、そこそこのステータスで社会に出るはずだった。

 

しかし、S君は受験に失敗した。

原因は、バカにしていじめていた中学時代の同級生に深く恨まれてストーキングされた挙句、復讐を誓うその子につきまとわれる恐怖で不登校になってしまったことだった。

受験どころではなくなり、彼は統合失調症を患った。

受験でそこそこのところに合格できなかったので、たしか大阪にある駿台か代ゼミか河合塾かなんかの寮に入って浪人していたと思う。

私は現役合格したので、大学生として関西にいた。

彼は私を友達だと思っていたので、よく連絡してきた。

学祭を一緒に回ったり、一緒に酒を飲んだりした。想像に難くないと思うが、そんなちょうしだったので勉強は全然していなかったようで、当然のように受験はその年もその次の年も全然うまくいかなかった。

そして、ゴミみたいな私立大学に入って、彼はもっと精神のバランスを崩していった。

 

学歴コンプレックスが極まっていた。

在学生たちをバカにして、自分より優秀な人はいないと言っていた。

私をおそらく高校時代は下に見ていたのだが、圧倒的に差をつけられて嫉妬と羨望が入り混じったような妙な絡み方をしてくるようになった。

何人もの中学生と同時に付き合って「彼女がたくさんいる」と紹介して自慢してきたり、私より優れているところを見せつけるのに必死だった。

 

タバコを持つ手は常に震え(おそらく統合失調症の治療薬等による錐体外路症状)、うわごとのように昔語りを繰り返すさまは、哀れだった。

 

私の共依存的な関わり

私は、彼が私より下にいることを安心材料にするようになった。

とても恥ずかしいことだが、私はうまくいっていない当時の自分の状況を見て見ぬふりをするために、彼を憐れみ、利用するために関係を続けていたのである。

最低のクズだと思う。

私は大学までは何とかギリギリ及第点だったものの、そのあとベンチャー企業に入ってあまりのブラックさに「これは失敗した」と思って焦っていた。

アルコールの問題も日に日に深刻になり、もともと小さい自尊心を毎日鑢でゴリゴリと削られるような毎日だった。私はみるみる摩耗していった。

そんな私にとって、さらに底辺に近いS君の惨状を見るのは、とても安心できたし、気分がよかった。

「ああよかった、私もたいがいゴミだけど、さらに下でうごめいているやつもいる」

そんな気持ちで、彼が一生懸命女性関係をアピールして私にマウントを取ろうとしてくる様子を心配している優しい友人を装いながら、その実哀れな彼の姿を酒の肴に一杯やっていた。「彼よりはマシ」という優越感を味わうことで、毎日毎日上司にコケにされ馬鹿にされるしんどい日々を頭の外に追いやろうとしていた。

 

これは、明らかに共依存的な関わり方だったと思う。

共依存とは、自分自身に焦点があたっていない状態のこと。

私もS君も、お互いを見ることで自分の苦しさを見ないようにした。

まさに、自分の人生に焦点が当たっていない。むしろ意図的にずらそうとしている。

 

ついに、S君は金に困るようになり、金を無心してくるようになった。

私は、表向き「彼は大切な友人だから助けてあげなくちゃ、そしてまともに生きていけるように俺がしっかり言って聞かせなくちゃ」などと自分に言い聞かせて、なけなしの貯金から20万円を貸した。

私が望んでいたものは、それによって私が決定的にS君の上に立つことだったと言わざるを得ない。

当時の私の醜さは、今振り返るとみるに堪えない。

金を貸したのは、「俺のおかげで」問題を解決できた、という既成事実をつくりたかっただけだろう?彼の為でもなんでもない、自分の為じゃあないか。

「私は働いている。友人が困ったときに手を差し伸べられるくらい素晴らしいんだ」とブラック企業で死にそうになりながらこき使われている惨めな自分にも、少しは価値があると思い込みたかっただけ。自分の問題から目を逸らしたかっただけだろう?

何を「その人のためだ」などと偉そうなことを。

その後彼が結局借りた金を返せないことも計算ずくで、また息詰まるのを舌なめずりをして待っていたくせに。

そのときに「借りた金を返さないとはどういう料簡だ」と正論を振りかざして「そんなんだからダメなんだ」と彼を責めてサンドバックにするために。

「厳しいことを言うようだけど」などともっともらしく前置きをして神妙なふりをして、実際は相手の話や状況を想像するのをサボって自分が正しいと信じ込んでいるだけ。

言っていたことはひどい有様だった。

「統合失調症だと?病気を言い訳にすんなよ」

「返す気がないから働かないんだろ?俺は毎日終電逃しても働いてるよ」

偏見にも程がある。冷たいにも程がある。

自分が言われた傷つく言葉を、言う側になって溜飲を下げたいだけ。

自分の言いたいことを自分の言葉で素直に伝える勇気がないだけ。

弱さや不安を正しさで取り繕っているだけ。

自分を慰めるために金で囲ったようなものだ。

それは友人に対して、人間に対してすることでは無い。

S君に謝らなくてはならないこと

S君、私は、君のことを本当の意味で友人として大切にしていなかった。

友人として、とても恥ずかしいことをした。

君を尊重しているのなら、君が自分で人生を選び取ることを信じるべきだった。それが友達のすることだった。

だから、あのとき金を貸さないことが、君のために最もすべきことだった。

そして、同時に、私が私を大切にするためにすべき選択は、君の問題に首を突っ込んで共依存することではなくて、自分に向き合うことだった。

それから逃げるために君を使い、君をイネイブリングしたことを、心から謝罪したい。

君をバカにして、本当に申し訳なかった。

私は後悔している。

君に当時伝えたかったことは、本当は少なくて良かった。

「私も頑張る、君も頑張れ。信じている。」それだけでよかった。

変に上から目線で言ったことは、すべて私の弱さと醜さだった。

君は君で一生懸命に生きていたのに、私はとんでもなく失礼だった。

 

もう今はS君がどこにいて何をしているか分からないけど、彼が幸せでありますようにと思う。

20万ぽっち、安い授業料だったよ。私は私の問題に気づくために、S君と出会ったのだと思う。

お金はもう返さなくていいから、元気でいてくれたならうれしい。

 

【AC】「恨み」の棚卸し②

恨みが、あなたにとって問題であるような状況を調べなさい。そのような状況を記載するとき、次の質問に答えなさい。

1、あなたは何を、誰を恨んでいますか?
2、あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?
3、この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?
4、どんな性格特質が目立っていますか?

引用:『ACのための12のステップ』 より

 

上から目線のアドバイスを長文で送りつけてきた人のエピソード

1、あなたは何を、誰を恨んでいますか?

私は、一緒にプロジェクトをやろうと話しかけたとき、やたら高圧的な上から目線のアドバイス(しかもわかりきったような稚拙な内容)を長文で送りつけてきたBさんを恨んでいました。

しかも、Bさんは他の人を経由して私たちがやっているプロジェクトには頼ろうとしてきました。

どのツラ下げて頼んできてんだよ…と呆れ返りましたし、侮蔑の気持ちを持ちました。

 

2、あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?

相手の一方的で不遜な態度です。

自分のほうが優れているという思い上がりがにじみ出ていて不快でした。

私が「助けてほしい、頼りにしている」と伸ばした手をぴしゃりと叩き落されたような気がしました。

それが哀しかったし、怒りと恥ずかしさを感じました。

仲間だと思っていた気持ちを裏切られたと感じました。

 

3、この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?

この恨みにより、私はその人が高圧的に他人を批評する姿を見るのが不快になりました。

回復者のふりをしているだけで、承認欲求と傲慢さを克服できていない未熟な人間だと思うようになりました。

そのような未熟な人間に頼る必要もないんだし、むしろこちらから願い下げだ、と距離を置くようになりました。

それ以来、同じようなネットワークで知り合った人に頼ることをやめました。こいつらに頼るのは金輪際もうやめようと思いました。

仲間だとか横のつながりだとか上辺だけ綺麗ごとを言っているだけで、そのつながりはあてにならないと思いました。本当に困っているときには手を振り払うような、薄情な人間しかいないと思い込むようになりました。

その人たちが「仲間のおかげで」「仲間のために」などというたびに、胸やけがしました。飽きもせず嘘ばっかり言ってんじゃねーよ偽善者が、と思って鼻で笑っていました。

 

4、どんな性格特質が目立っていますか?

「孤立」

「コントロール」

「権威ある人を恐れること」

 

私は拒絶されたことに、正直ショックを受けました。

目的やゴールが同じなので、協力してくれるだろうと期待していたし、80%は固いと踏んで声をかけたからです。

そして予想外のしっぺ返しを食らったダメージを緩和させるため、「孤立」して自己防衛しようとしていたと思います。

私としては、他人を頼るということはかなり勇気を出したことでした。

その行いは賞賛されるべきもので、何かを成すのに自分ではすぐにはできないから、という無力を自覚しての行動です。素晴らしい。私はそのように手を伸ばせるまでに回復したということです。

そして、私が認識しなくてはならないのは、私に悪いところは何もないし、ショックを受ける必要はなかった、ということです。

結局、私が勝手に期待しただけでした。それは「コントロール」であり、おそらくOKをもらえるだろうと計算して、他人の能力を利用しようとしたのは確かです。

相手は、それができないと言っただけでした。

まあ、その人がご高説を垂れる必要もなかったのですけれど。

それは、他人の課題でした。

つまり、その人には、相談されて一緒にできる自信がなかった、やる能力がなかった。能力があっても、今はいっぱいいっぱいで手伝えないと思った。

「自分は今、何らかの能力不足で要望を受け付けられない」をそのまま伝えるのは恥ずかしい、とてもその勇気が持てないので、もっともらしい正論を並べ立てて私を追い返すしかなかった。

それは、私ではなくその人の「否認」です。

「自分には余裕が無くて今はできない」というのは、実はちゃんと相手を尊重しているからできる事です。

無理をして引き受けたとしても、相手を傷つける断り方で強くrefuseして自尊心を守ったとしても、結果的に良い状況は生まれません。

強く拒否するのは恐れているから。つまり、相手の恐れが私を傷つける形になって表出していただけでした。

私は当時強がりで「相手がショボいだけだ」と思っていましたが、奇しくもそれは的を射ていました。相手に、私の要望を一緒に実現するだけの能力が無いから受けることができなかった、その事実を恥ずかしくて認められず、素直に言えなかった、というだけでした。

 

だから私は「孤立」しなくていいということです。

その繋がりのすべてが腐ったリンゴなのではない。

たまたま今回は腐ったリンゴに語りかけてしまっただけで、他の人にトライする価値は常にある。

そして、他の人も、できないならしかたない。それ自体は悪いことではない。

なぜなら、私にもできないことはたくさんあるから。それと同じ。

できるひとでやれることをやるしかない。

できないことは、できない、と素直に言うことが最も優しいこと。

 

人々が、あるがままの私たちを受け入れてくれることが分かってきたとき、自分の感情を、もっと楽に表現できるようになってきます。

それと同時に、自分を受け入れられるようになり、自己評価が高まってきたことの結果として、さらに快適に落ち着いて生活するという、貴重な贈物を楽しむことができるようになってきます。

引用:【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑦(孤立)>孤立からの回復ってどんなこと?

 

あるがままの私たちを受け容れてくれることを理解するには、私たちがあるがままで生きてみないといけません。

その勇気と引き換えに、本当のつながりが見えてきます。

そのつながりのなかで私たちは自分の感情をもっと楽に表現できるし、その結果、できないことについて他人を頼れるようになってきます。

私はまさに、回復するにつれて、自己評価が高まってきたことを実感してきています。

自分らしく表現しながら生きていて他人に批判的な態度をとられたとしても、認めてくれる人は認めてくれる。

否定されたとしても「私とは少し価値観が違う人だったんだな」と理解するようになりました。

バカにしたり失礼な態度をとる人には「おそらく余裕や能力が不足しているんだな」あるいは「何か哀しい辛いことがあって健康な精神状態ではないのかもしれない」と思うようになりました。

自分の側にばかり責任があると思い込まない。

それこそが、ACからの回復を、ある意味決定的に特徴づける、思考方法の大転換なのだと思います。

 

参考:恨みの課題演習の過去の取り組みは以下のリンクから見られます。

【AC】「恨み」の棚卸し①

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録①(恨みについての課題演習)

【AC】「恨み」の棚卸し①

恨みが、あなたにとって問題であるような状況を調べなさい。そのような状況を記載するとき、次の質問に答えなさい。

1、あなたは何を、誰を恨んでいますか?
2、あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?
3、この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?
4、どんな性格特質が目立っていますか?

引用:『ACのための12のステップ』 より

 

失礼なメールを送ってきた人のエピソード

 

1,あなたは何を、誰を恨んでいますか?

私は、とある研修の運営主体であり責任者のAさんを恨んでいました。

 

2,あなたに恨みを感じさせるものは何ですか?

研修を受けた後、私が質問を送ったメールの返信で、私の意図と理解の範囲をよく把握しないうちに「ボタンを押しただけで答えが出てくるわけではありませんよ」などと上から目線の返事をしてきたことに、強い怒りを感じ、恨みを持ってきました。「馬鹿にしやがって」と思ったし、その人を物事をよく理解していると信頼して頼ったことを後悔しました。思ったような素晴らしい人物ではなかったことに落胆し、そんな人だと信じてしまった自分の浅はかさを憎みました。

研修中の状況も思い返せば、聞くに値しない質問をする迷惑な参加者のように扱われていたと認識して、とても哀しい気持ちになりました。

時間管理で精いっぱいで私たち参加者の疑問や質問より、スケジュール通りに研修をこなすことを最重要視しているところが垣間見え、研修の完成度の低さに落胆しました。

 

3,この恨みはあなたの考え方、感じ方、行動の仕方にどのような影響を与えましたか?

私は、そのことがあってから、私のなかでこの団体の評価を下げました。心のなかで、取るに足らない、大したことのできない未熟な集団と位置づけました。馬鹿にされた分バカにしてやろうと思いました。

 

4,どんな性格特質が目立っていますか?

特性は以下の3つが複合してます。

「権威のある人たちを恐れること」

「承認を求めようとすること」

「低い自己評価」

「コントロール」

 

私は研修を受けた当時、その団体に大変権威があると思い込んでいました。

私がその団体に軽んじられることや存在価値を認められることを、不自然に重く取り扱っていました。存在価値を認めてもらえないことを恐れていたし、拒絶や批判を恐れていました。

それは、ひとえに私の自己評価の低さが問題でした。

彼らは彼らなりに準備したものを提供し、彼らの経験の範囲のなかで回答したにすぎません。それがたとえ今回のように思ったより質が低いものだったとしても、それは私の見る目が無いわけでもないし、彼らに落胆する必要はなかったということです。

そして、彼らにとって、私がメールのなかで提案した改善策は、受け取って気持ちのいいものではありませんでした。

なぜなら、運営に関するアドバイスをするなど、彼らにとって一参加者として参加しただけの私にされるべきものではない、という認識だったから。

私がより良くなるのに、と思ってかけた言葉は過干渉であり、共依存的な行いでした。私の評価が上がること、すなわち存在価値が上がることを期待して行動していたからです。つまり厳密にいえば彼らの為ではなかった。だから彼らにとっては不快なアプローチとしてぞんざいに扱われてもおかしくない内容でした。冷静に後から考えればそうです。

つまり、私は彼らに必要以上に構うべきではなかった。

そんなことをしなくても私には価値があるし、彼らは彼らのやりたいようにやればいいのだから。

彼らから自発的にアドバイスを求められたらすればいいし、特に求められていないなら心のなかで「ショボいな」って思っとけばいい、ただそれだけのことだったのです。

 

私がどの程度理解していて、どういう意図で質問していたのかも、私とその人は1回あっただけですから、分かるわけがない。

今まで接してきたアディクトたちの知能レベルと反応のケーススタディの累積から推察するしかない。そしてその結果はじき出されたのが「ボタンを押せば回答が出てくるわけじゃない」というなめた答えだったということです。

つまり、彼らが接してきた人々の集大成というか想像上の平均的なキャラクターがおそらく「ボタンを押せば回答が出てくる」と思っている思考停止型のアイデンティティを持っている、ということがはっきりしただけで、私がばかにされたわけではなかった、ということです。

彼らが接してきた人たちが統計的に思考停止型の人間が多かったので、経験上そういう思い込みが発生しただけで、それは彼らの問題でした。

つまり、彼らの反応がどうであっても、私の価値は少しも変わらない、ということです。

 

まとめ:すなわち私はその人を恨む必要がない

ここまで見直してみると、私の課題とその人の課題が複合していることが分かります。

そして、私の課題に私は取り組むことができるけど、その人の課題はその人にしか解決できない、ということで、持つべき課題意識が明確になります。

私は自分のAC的な認知の歪みを修正することができる。それしかできない。

つまり、以下のように振舞いを変えることで、私は彼らを恨まなくていいということが分かります。

「権威のある人たちを恐れること」→権威があるという思い込みを捨てる。そうすると、その人たちを恐れなくて済む。

「承認を求めようとすること」→その組織に承認される必要などなく私は私であるだけで価値があるし、それは他者評価によって左右されるものではないことはないと知る。

「低い自己評価」→自分の能力を現実的に認める。両親や権威ある人たちとの関係で培ってきた誤った自己イメージ(自分を無能のように思い、他人のほうが正しいと思う)を捨てて、他人の行動と切り離して考える。

「コントロール」→彼らが主催するイベントなのだから、それが結果的に不満足な内容であっても私の責任ではないので、彼らの運営と自意識に任せて必要以上に関与しない。

 

私は私の問題に真剣に取り組む以外にできることはない。

なので、彼らの認識の誤りを正す必要もないし、ショボいイベントをより良くする責任もない。

だから、私はそのメールで彼らを恨む必要は、最初からなかった、ということです。

 

参考:恨みの課題演習の過去の取り組みは以下のリンクから見られます。

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録①(恨みについての課題演習)

【AC】「他人からどう見えるか」というのは 実は「あなたの幸せ」には全く関係ない

私は、身長170cm・体重92kg・体脂肪率19% だ。

数字でみて、あなたはどう思うだろうか。

太っている、と思うひともいるだろうし、デカい、と思うひともいるだろう。

私の身体を数値的に表した事実から、人が想像するものは異なる。

その違いは、いったいどこからくるのだろうか?

 

ひとは見たいものしか見ない

太っている、と思った人は、体重をみたのかもしれない。

「いかに低い体重を実現するか」を重視している人にとって、92kgは「重い」と感じるので、そこから連想されるのは「太った身体」というイメージなのかもしれない。

または、体脂肪率をみたのかもしれない。

「10%未満でないと痩せているとは言えない」などと思っている人にとって、男性で19%というのは「痩せている」と表現するには許せない数字なのかもしれない。

デカい、と思った人はどうだろうか。

おそらく瘦せ型の身体を鍛えていて、筋肉をデカくしてパワフルな身体になりたい、と思っているのかもしれない。なかなか体重を増量できない人にとって、食べて動いて筋肉の重量をあげることは大変なことだから、羨ましさを感じるかもしれない。

 

ここまで読んでみると、見え方の基準には必ず、自分の願望や価値観が隠れている。

「こうでありたい」「こうであるべき」という自分の感覚で、数字という情報から、知らず知らずのうちに好きなようにひろってきて勝手に判断している。

つまり、他人のことをあれやこれやと言うとき、ひとは自分のことを見て話しているのである。

 

だから他人の評価は「サンプルその①としての価値」はあるかもしれないが「絶対的に正しい価値」ではない。

客観的だからといって、すべてが正しいかと言えば、それは違う。

客観的にみる、といっても、人それぞれに客観的な見方は異なるからだ。

先に申し上げた通り、人は自分の見たいように物事をみているので、必ず自分の願望が入る。客観的と言いつつ、常に一部主観的であることから逃れることはできない。

つまり、完璧な客観性など存在しない。

たとえば空を見てAさんが「青いね」と言っていてBさんが「そうだね、青いね」と言っていたとしても、全く同じ「青色」に見えているかどうか、正確にはわからない。微妙に彩度や濃淡は違って見えていてもおかしくない。しかしその同一性は検証しようがない。

だから、私とは違う個体が同じ事象をどのように見るのか?という一応の参考にはなるけれど「他人が見て言っているのだから(客観なのだから)主観よりも真実に近い」というのはおかしい考え方で、他人の視点というのは常に「自分が見る世界と同じ程度の価値をもつ、似ているけれど少し違う別の世界観」というだけなのである。

 

だから、私は「太っている」と言われようが、「デカいね」と言われようが、「意見を述べてくれてありがとう。そうか、あなたのなかではそうなんだね」としか思わない。

そうでしかなく、それでよい。

 

アイ・フィール・プリティ!

『アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング (字幕版)』

という映画がある。

私はとてもこの作品が好きだ。

 

 

【あらすじ】

自分の容姿にコンプレックスがあり、仕事も恋も積極的になれないレネー(エイミー・シューマー)。ある日、自分を変えようと通いはじめたジムでハプニングに見舞われ、頭を打って気を失ってしまう。そして目覚めると、絶世の美女に変身していたのだ(とただの勘違い)!見た目はそのまま、超絶ポジティブな性格に生まれ変わったことでレネーは自信に満ち溢れ、仕事も恋愛もすべてが絶好調になるが…!?

 

主人公は、客観的には何にも外見が変わっていない。

自分自身を「魅力的だ」と思うか「ブスだ」と思うかは自分で選べる、生き方は選べる、というメッセ―ジをコミカルに描いている。

この映画のスト―リー展開を観るたびに、女性だけでなく、人は皆そうなんじゃないかと思う。

 

結局のところ「自分がどう思うか」がすべてを決める

私はトレーニングをしている。

なぜトレーニングをしているかというと、楽しいからだ。

先週よりも1回多くMAX重量を扱えたとか、少しずつ筋繊維が太く大きくなっている変化を感じるとか。

この栄養を摂ってこの運動をすると〇週後こういう変化がある、という理論上の身体的変化を、仮設通りに自分の身体で再現できたときとか。

いわゆる「楽しい遊び」としてやっていて、前の自分と比べた変化が面白いから、やっている。

他人よりも優れた身体になるため、つまり比較の為ではない。今更異性にモテたいわけでもない。痩せたと他人に言われたいからでもない。

自分が「目指す良い体に少し近づいたな」と思えたなら、それは楽しい。

 

人生やメンタルでも同じことがいえると思う。

他人と比べても、キリがない。

もって生まれたポテンシャルも文化も、何もかも初期設定が違う者同士、異なる価値観を包摂しながら社会を構築して生きていかなくてはならない、この浮世だ。

他人と比べること自体が、ナンセンスなのである。

能力を競うこの世のあらゆる競争はすべて「遊び」であって、それで勝っても負けてもその人そのものの価値に何の傷もつけない。

オリンピックに出ようが、世界一になろうが、それはたまたまそういう結果が一つの比較で生まれただけであり、その人の価値がどうこうするものではない。

「競争」を「遊び」として楽しむ範囲において人生は健全だが、それに囚われると、途端に不健全になっていく。

他人に一部の能力で劣る自分を「生きている価値が無い」とまで思い詰め蔑み粗末に扱ったり、一部の能力で優れているからといって増長して他人よりも自分のほうが価値があると思い込んで傲慢になったりする。

それは自分で自分の存在価値を認識しづらいから、「競争」という場で優劣をつけることで「自分の立ち位置」を確かめないと不安なのだ。低いのか高いのか、どちらでもいいから自分のポジションを決めたくて、人は卑屈になったり不遜になったりしている。実にばかばかしい。

仕事にハマる人、特に大きな組織に属しているワーカーホリックはだいたいこれ。

不安を抱えているから、ポジション取りに必死になる。

成績で横並びに優劣をつけられ、その競争のなかで褒めてもらうことを生きがいにしている。

それを人生のなかのサブゲーム的な位置づけで遊びとして楽しむなら別にいいのだが、「人間としての価値を決めるゲーム」だと思っていることが多いのが、このタイプの辛いところで、負けたら死ぬしかない、死んでも仕方ないと思っている。

パワーゲームで人を殺し、人に殺される。それがワーカーホリックの世界だ。

とんでもない!遊びで殺されてたまるか!!

しんどかったらゲームから降りてもいいし、楽しくなかったら別のゲームに移行していいのだ。

だって、ただの遊びなんだから。

 

しかし、今この社会を構築しているいわゆるエリートと呼ばれる人々が、だいたいこんな調子で病んでいる。なので、本当に人が死ぬ羽目になっている。それがこの日本社会である。

出世のためにポジション取りに忙しい人々が本当に必要な仕事をしないせいで、人が今どんどん死んでいる。コロナショックはウイルスによる自然災害というより、行政官僚制のなかで腐っていった人間による人災だ。

相当終わっていると思う。

 

まとめ:少なくとも忘れないでほしいこと

それは、

「あなたの幸せは、あなたが定義するものだ」ということだ。

 

誰かのお仕着せの「幸せはこれだよ」というのを真に受けて、信じないこと。

 

大企業で安定した暮らしをするのが幸せらしいから、いい学校に行っていい会社に就職する。

結婚したほうが幸せらしいから、結婚する。

子どもは2人以上いたほうがいいらしいから、子供をもうひとり産む。

 

そういう他人の幸せをなぞったところで、あなたは幸せにならない。

「他人からどう見えるか」というのは 実は「あなたの幸せ」には全く関係ない。

「他人からどう見えるか」ということばかり追いかけていると、自分がどう思い、どう考え、何を幸せと感じるのか、何もわからなくなってしまうよ?

私みたいに。

 

今ここから、他人は自分のするすべてのことや今の自分すべてを肯定してくれると仮定して考えてみよう。

あなたは、何がしたいのか? あなたが心の底から楽しいと思うことは何なのか?

他人を関係なしに思い描いたとき、あなたはどんなふうになりたいのか?

それこそがあなたの幸せである。

 

 

【仕事】Gと仕事は似ている(※虫が苦手な人は見ないでください)

仕事がもうどうでもよくなってきた。

仕事のことをあれこれ愚痴ってきたけれど「もう、いいや」と思えてきた。

今も会議中だけどもう全然聞く気にならない。

それに対してイライラしてきたけど、もうイライラすらしない。

なお、Gとはゴキブリである。苦手なら速攻ブラウザバックしてほしい。

 

資本主義社会は好きじゃない

仕事は、生活するお金を得るために必要だからやっているけれど、本来したいわけがない。

お金が必要だからしぶしぶやっている。

できることなら、好きな本や映画を観て、他人に関わらずのんびり過ごしたい。

でもそんなことは不可能だ。

なぜなら、この世は資本主義社会だからだ。

何かメリットを生み出し、経済価値に還元しなくてはならない。

本当は、感謝されて、その感謝と敬意がお金として支払われるのが健康的だ。

だけど現実はそうではない。

本当は要らないものを必要そうに見せかけたり、業界を独占して提供するサービスの値段を吊り上げたりする。

なぜか?お金に対する恐れと不安から、よりたくさんのお金をより安定的に得ることを追い求めるからだ。

そのために、経済活動を突き詰めれば突き詰めるほど、本質を見失う。

要は、手段が目的になってしまうのだ。

本当に必要なものは何もしなくても売れるので、必要のないものをいかに騙して買わせるかというパワーゲーム・マネーゲームが目的になる。

本当は人と人とを繋ぐ一つの価値観でしかなかったのに、経済的価値は、人々の命と生活をお互いに縛り合う呪縛と化している。

だから楽しくないし疲れる。

人の役に立ちたいという誠実な願いを持つ人間が踏み台にされ「他人より優れていたい」「他人をコントロールしたい」という私利私欲に忠実な人間がのさばる腐りきった世の中。

それが今の世の中。

 

もうそんなもんだと思うしかない

仕事も、嫌すぎたら辞めりゃあいいし、結局どの仕事したって経済活動である以上、同じような人間の嫌らしさや醜さを見ざるを得ない。

それは、転職を経験してよくわかった。

規模の差でも、会社の差でもなかった。

この社会全体がもう醜く歪んでいるからだった。

最近そのことがよくわかった。

 

最終的には、この不快感を「人生の代謝物」として受け入れるしかないんだな、と悟った。

誰でもうんこすると思う。仕事はうんこだ。

どうしても生きていれば汚物を処理しないといけないみたいに。

仕事という呪縛も「変えられないもの」だと知った。

実際、今いる会社の規模がでかいことや、様々な組織が代々いろいろやってきたことの積み重ねで、今の私や私の家族が、社会生物として生きるうえで助けられている。

ゴキブリやハエがバクテリアと一緒に糞尿を分解してくれるから、地球の生命の循環が途切れないわけで、会社や経済的な繋がりは、まさにそんな感じだ。

「ぐえ~…気持ちわりい!」といくら嫌ったところでゴキブリやハエを絶滅させることは不可能だし、そんなことをしたら逆に困ることになる。また別の問題を抱えるだけ。

つまり私が、会社や仕事を「過度に恐れず」「過度に寄りかからず」うまく共生していけたらいいだけなんだよな。

いくら嫌っても仕方がないし、彼らは彼らの生き方を変えることはできない。

そしてもちろん、私は彼らの在り方を変えることはできない。

 

ゴキブリも仕事も 必要な世界の一部

ちなみに私はゴキブリを尊敬している。その不屈の生命力と身体能力の高さには、遭遇するたびに度肝を抜かれる。

でもゴキブリを嫌いな人は、見たくない、触りたくない、この世から抹殺されてほしい、という感じだと思う。私は仕事がそんな感じ。

でも仕事はなくならないし、生きていくためにどうしても付き合っていかなくてはならないものだ。

 

だから、もうしかたない。

嫌いでも割り切って適当に付き合っていくしかない。

そう思ったら、あまりイライラしなくなった。

 

バウンダリー(境界線)を引いて、侵略されたらしっかりアサーティブにコミュニケーションをとる。

ゴキブリに例えるなら、台所に現れてしまったら、目撃した個体をしっかり殺して、私の家の領域を守るために追い出す。

しかし、相手の在り方には干渉せず、違いがあっても、私が嫌いでも、存在を否定せずに、世界の一部として包摂する。

ゴキブリに例えるなら、世界の果てまでゴキブリを駆逐するようなことはせず、自分の家以外で目撃しても温かく見守る。

そんなふうに、お互いの価値観が違っても、境界線を守りながら存在を尊重する関係の在り方を、法人に対してもゴキブリに対しても適用していくのが、一番自然なんだよな、と思う。

私は少し大人になった。