【仕事】尊敬できる上司?そんなのいなくない?

あなたの職場に魅力的な上司はいるだろうか?

あこがれる、こんな人になりたい、そんな人はいるだろうか?

私は今はいない。逆に「こんな風にはなりたくないな」と思う。

 

私の職場で出世している人のほとんどは家庭が崩壊している。

妻からも子供からも相手にされていない、さびしい中年男性。

あるいはモラハラ・パワハラで家族を支配している、人としての器が小さい中年男性。

そんなのばっかり。

 

職場の会話では、よくこんなことを言っている。

「もう嫁さんが相手をしてくれない」

「基本自分の部屋にいるけど、子供と話したくなった時だけリビングに行く。そうすると『調子いい時だけ来ないでくれる?』って言われる」

「仕事をやめようか相談したら、事情なんてお構いなしに断固反対される」

「定年退職後は働きたくないから趣味でもやろうと思っているが、妻からは『家に居られても困るから働きに出れば?』と言われている」

「子供とどう話したらいいかわからないから、1時間くらいが限界。どうやって過ごしてる?」

 

 

それさ、もうATMとしてしか、家庭内で居場所がないからだよ。

さびしいね。

ずっと、妻と子供をないがしろにして生きてきたからだよ。

自分の好き勝手に、一番手のかかるときに何もせず、妻に押し付けてきたからだよ。

と、思うけど言わない。言ってももう手遅れだし、どうせ理解できないから。

 

わが子が小さくて手がかかるときに、何もしてこなかった男性は思いのほか多い。

夜泣きがある時期はまとまって寝る時間もないことや、お風呂に入れたり食事の準備をしたりその合間に家事をしたりすることが実は仕事なんかより何倍もしんどいことを、彼らは知らない。

うまく妻に押し付けて乗り切れたと思っている。当時「力を貸してほしい」「責任感を持ってほしい」と訴えた妻の気持ちをただのヒステリーと思い込み、まともに耳を貸さなかったのだろう。「仕事が忙しいアピールをすれば、そのうちだんだん言われなくなるから大丈夫」と攻略法を教えるかのようにドヤ顔で言ってくるぐらいだ。まったく真剣に聞いていない。

妻は絶望しただろう。だから言わなくなったのだ。

やられたほうは一生忘れない。虎視眈々と熟年離婚の準備をしているだろう。

もう終わっている。

 

私はそんな人間になりたくない。

家族から「金を稼ぐしか取り柄のない存在」として認識されたくない。

それこそ、いくらでも代えがきく存在に成り下がってしまうではないか。

会社の雇われなどいくらでも代えがきくが、家族という共同体においては、私たちはそれぞれ代えがきかない存在になれるチャンスがある。

損得ではない絆で結ばれる関係こそが豊かな人間関係であり、その中核を担うのが家族ではないか。

その中核をないがしろにして、仕事でいくら成果っぽいものが出せてたまたま出世したとて、私にとっては優先順位を間違えた愚かな人間にしか見えない。

 

おそらく、鈍感ながらになんとなく家庭内で居場所がないことに気づいているからこそ、さらに仕事に依存を深めるのだと思う。寂しさや不安の裏返し。

家庭で求められない分、会社に求められようとして、組織の言うことをなんでも聞く奴隷に近づいていく。

実は深層心理ではそうやってこき使われるのが苦しいので、他人にも同じように苦しむことを強要する。つまり、仕事に邁進するよう同調圧力をかけたり行動をコントロールしようとしたりする。

思い通りにコントロールできないとわかると「私のほうが優れている」とマウントをとって精神安定を図ろうとする。相手を小さくして心の平安を保とうとする。

自分のほうが優れていて、相手のほうが未熟だから、自分と同じ考えに至らないのだ、という上から目線で、理解が及ばない存在を馬鹿にして矮小化するということだ。

 

なんというか、そんな感じで寂しさを仕事で埋め合わせるために傷をなめあっている中年男性の巣窟が、現在の職場という感じである。

傷のなめあいができないとわかると、否定して排除する。排除できないとわかると馬鹿にする。

そうやって、自分の見たい世界しか見ないように必死で奴隷をやっている。

私から見るとかなり殺伐としている。地獄絵図。

 

そんな職場に順応しようと思って、身を粉にして働いてみたこともあった。

しかし、他人のいい加減な評価軸に沿って、報われるかもわからないのに、やりたくもないことを毎日やって、お陰様で成り立っている現実を自分の成果っぽく虚飾することは、私にとって禿げるほどストレスが強かった。

よくできるなと思う、そういう面では尊敬する。私にはできないことができる人たちだと思う。

私は私が価値があると思えることにしか力を注げない。

私が生きたいと思うようにしか生きられない。

私は私がやりたいようにやりたい。誰かに指図されるなんてまっぴらごめんだ。

賃金をもらって働くなら労働契約以上のことはしないし、契約内容も必要最小限の労力で行う。だって金のためにやっていることで、金以上の価値を感じていないこと=仕事だから。私はそのような優先順位が低い行動にリソースを割きたくない。

 

仕事についても、いろいろと考え、いろいろな本を読み、いろいろな人の話を聞いて、ひとつわかったことがある。

現代において、仕事に価値などない、求めることがナンセンスだということ。

昔は違っただろう、人々が生きるために必要なことが『仕事』だった。命をつなぐために各々ができる能力を持ち寄って、コミュニティを形成し、維持・拡大するために、力を尽くした。貨幣価値に換算できようができまいが、その役割は確かに必要だから存在した。

現代の「仕事」は、このころとは全く違う。

株主資本主義の現代社会において仕事とは、株主の奴隷として人間をこき使うスキームだ。稼ぐ金額と社会的意義は相関しない。むしろ逆相関する。

合理主義に基づいた投資可能性・計算可能性を実現するために、何でも言うことを聞く都合の良い部品が評価され出世し、自分の仕事には価値があると声高に叫ぶ。

実際はマネーゲームの駒のひとつにすぎず、プレイヤー(株主)が飽きたら捨てられる。

虚しすぎる。

どうせ使い捨てされるとわかっているなら、そんなに入れ込まず、ある程度の成果を出しつつ適度にサボるくらいでよい。体よく必要な分だけ金銭を調達できればよく、仕事の内容にも社会的意義にも思いをはせる必要はない。どうせどれでも大差ないのだから。

金稼ぎという意味での「仕事」はそんな扱いでいい。

本来の『仕事』はそんな扱いではダメだ。

本来の『仕事』とは、お金に変えられない、あるいは変えなくても価値を生み出していること。

たとえば、子育て、損得なしに助け合うこと、物々交換を前提とした一次産業的活動などである。こちらにこそ価値がある。

私はそう思っている。

 

だから、上司を魅力的に感じないんだと思う。

私が価値があると思うことに力を注がず、どうでもいいことに右往左往しているように見えるから。

それはそれで、その人の生き方だからいいと思う。私には関係ない。私とは違う生き方だとは思うけど、私の人生ではないからどうでもいい。

私のことを下に見たり上から目線で干渉してくるのは、とても鬱陶しいので、できるだけ近づかない。彼らの安心材料にされる謂れはない。勝手に他人を都合よく使おうとするな。

彼らは便利に他人を使おうとする。実父母のような姑息な側面があるのも、いけ好かないと感じる所以なのだろうなぁ。

他人と比べて上だとか下だとか、どうでもいいんだよそんなことは。暇人がやることだ、そういうどんぐりの背比べは。勝手に一生やってろ。

そのうち、全部がひっくり返る。

今、成功者としてのさばっている人々がないがしろにしてきたことが、最も重要なことだったと、皆が気づかされるようになる。

 

一日も早くそういうふうになって、今上司になっているような人間たちが洗いざらい駆逐されればいいなと思う。

【仕事】肩書きも役職も宗教

「あれだけの役職についておられるということは、人間的にも素晴らしいはずだから。」

こんな言葉を社内で聞いた。私は「それはどうかな」と思ったけど言わなかった。

 

組織における肩書きは個体の優越性証明たりえるか

役職とは、ただの役割である。

高い役職を持つ人は、組織内で裁量が大きい。

しかしいくら権限が付与されていても、収入が高くても、役職はどこまでいっても役割でしかない。

裁量が大きければ責任が伴うはずだが、往々にして上役が責任を取ることはない。責任を取るのが主たる役割のはずなのに。

大きな組織で高い役職につく人とは「失敗という汚点を残さないで働いた人」であり、汚点を残さないことにおいてはたしかに、一流である。

肩書きとは、その立ち回りの小賢しさの証明にはなるかもしれない。しかし人間的に優れているという証明にはならない、と私は思う。

人間的に優れている、とは、そもそもなんだろう。

私にとっては、愛を与えられるかどうかだと思うし、そもそも優劣はつけられないと思う。

役割としてたまたま、あてがわれているだけなので、上役を偉いとか凄いとか私は思えないから思っていない。

「こいつを当てがっても損しないだろう」と思われるだけの隷属を誓って態度で示してきた、という献身はすばらしいと思う。

私にはそんなふうに心を殺して生きることはできないから。

心を殺さずともそう在れたというなら、さらに脱帽する。

そんなふうに思考停止で生きることは、私には不可能だ。

肩書きはむしろ、個人的には侮蔑の対象ですらある。

 

異端審問としての降格人事

組織内のヒエラルキーを重んじない、崇め奉らない、隷属しない。

そんな社員は肩書きという宗教を信仰しない背信者である。権威という神の力を信じない不届者である。

だから、金銭的に不遇な立場に追いやって罰を与え、改心させようとする。

自分たちが信じている宗教が間違っていない、という安心のため、生け贄を痛めつける。

同じような仕事をして同じようなパフォーマンスを発揮していても、上役に傅かない生意気な人間は「人間的に劣っている」神罰の対象者である。

ああ、くだらない。

そのまま、その人の日頃の行いと発する言葉と、成している善行だけを、みるのではだめなのか?

違うことには違うと思うと、忖度なく発言してはダメなのか?

私にはよくわからない。

営利組織の営みが、金という暴力で他人を服従させたり下にみたりするための、ひどくくだらない遊びにみえる。

 

飽きた

もう飽きた。

結局のところ、パワーゲームはただただ虚しいしつまらない。

大企業でも中小企業でも、変わらない。醜いことには変わりなかった。よくわかった。

パワーゲームで成り立つこの社会は、人として気高く尊い在り方よりも、損得と迎合が最優先であり正義なのである。

実にくだらない。

こんなつまらない社会、早く滅びて仕舞えばいい。

人間がそんな浅薄な生き物だとしたら、絶滅して仕舞えばいい。

とりあえず擬態しながらそれなりの収入を得られるよう省エネで立ち回り、本当に大切な行動と思索に命を燃やそう。

もう、ある意味あきらめる。

【AC】私が基本的に他人を信頼できない理由とは

なんでなんだろうね?と思ってジムで走りながら考えたことをつらつらと書いてみる。

 

私は基本的に他人を信頼しない。

似た言葉に「信用」という単語がある。私はこの単語が好きではない。

信じるのは良いが「用いる」なんて、他人を道具として扱っていると思わないか?

私はそんな印象を受けて、口にするだけで嫌な気持ちになる。

「信頼」は「信じて頼る」であるから、とても相互尊重の精神を感じる。

相手を頼るべき存在と肯定したうえで、その相手にお伺いを立てるようなイメージ。実に誠実である。あるべき態度を言語化しているのは「信用」より「信頼」だ。

 

ここまで考えて、私は「用いられる」つまり「使われる」ということに、アレルギー反応を起こしているというか、過剰な拒否反応を示している自分を発見した。

たぶん定型発達の普通の人々はここまで気にしない。わざわざただの単語にスキキライしない。

ではなぜ私はここまで気にするのだろうか?

それは、おそらく「使われてきた」という反省と警戒があるからだ。

 

親の愛の真贋

私は長らく両親に「大切にされてきた」と信じて生きてきた。

しかしアダルトチルドレンの概念を知り、機能不全家庭とはまさに私の家庭だと知った。当時はかなりの衝撃だった。

勉強すればするほど、私と実父母との生活は、健全な家族の在り方とは逸脱していた。

そう自覚してもなお、やはり子供というのは親を肯定したいという潜在的なバイアスを兼ね備えているらしい。

「とはいえ、1ミリも愛していないということはないだろう」

「そうはいっても、少しは大切に考えているだろう」

そう思っては裏切られてきた。今はもうできるだけ距離を置こうと思っている。

カラカラに渇き切った。

「本当は大切で愛しているが、伝わっていないだけ」

そうであればどんなによかっただろうか。しかし、本当の愛を知らない親もこの世には存在する。

 

依存症予防教育アドバイザーとして、社会福祉士として、ADHD・ASD当事者として、様々な立場で保護者向けの講演をさせていただく機会があった。

私が親に対する絶望と孤独を話すとき、一様に保護者達は受け入れがたいという表情を浮かべる。自分がもし実子にそう思われていたら…と思うと、親の立場を想像し共鳴して心に痛みを感じるのだろう。

「きっと接し方がわからなかっただけで、本当は大好きだと思うよ」

「話してみれば、分かり合える日がいつか来ると思うよ」

『だから、許してあげて、あなたから歩み寄って』

私の話を真剣に聞いてくれて、とても感謝しているし、貴重な発表の機会をいただいてフィードバックをもらえるのはとてもうれしい。

しかし、本当に申し訳ないが、このメッセージは、呪いそのものだ。

それは聞き手の願望であり、私の人生とシンクロしない。

私の親は、あなたではない。あなたがそうであっても、私の親がそうであるとは限らない。

そして、今まで両親に接してきて得た「愛とは決定的に異なる」という私に対する態度への実感以上に、信憑性のあるエビデンスはない。

にもかかわらず、自分の不安や恐れを覆い隠すために許せとか歩み寄れとかいうのは、無責任だし過干渉だと思う。親の呪いを複製してリフレインしている。

 

親として子供を持ち、ともに生きていて思う。

私は親として、子供たちには本当に好きに生きてほしいと思う。

思うように、やりたいように、思いたいように思って生きていってほしい。

私のことが嫌いでもいい、尊敬していなくてもいい。別の道を行きたいなら応援する。

本心から生きたい方向に突き進むなら、それが社会的に成功か失敗かなどどうでもいい。

その子が自分の人生を成功か失敗か判断する権利があるのだ。親の私ですら、それを勝手に判断する権限はない。世間や他人など、言わずもがな。

どう感じるか、どう判断するか、どう生きるかは、子供たちひとりひとりにその権利がある。

権利を尊重する。ひとりの人間として、その尊厳を侵したくないし、その必要もない。

どんな人生だろうと、どんな価値観だろうと、どんな風に私を思っていようと、私が子供たちを愛し、見返りを求めず本人が望むなら手を貸すだろう。これは少しも変わらない。

それが、親の愛だと、親になって理解した。

 

では、私の両親の「愛」とは、親の愛だったか?

否。彼らのそれは、自己愛であった。

所有物としてのわが子。自分が作った便利な道具、モノに対する愛着。

そういうものを「愛」と偽って私に恩着せがましくも「与えてあげた」と洗脳してきた。本当に信じがたい絶望だった。

 

妻は客観的に私の生家を見ることができるので、とてもありがたい存在だと思っている。

私が気づかないアンコンシャスバイアスを顕在化してくれる。

私が両親と接している様子を観察していた彼女は、次のように言った。

「あの人たちにはもっとちあきを大切にしてほしいと感じる。ちあきがかわいそうだ。」と。

私は最初わけがわからなかった。

大切にされていると思っていたから。しかし、そうではないらしい。

親が成し遂げたい目的のために、使われているというのだ。

たとえば進学・就職。

所有するブランド品として他人に自慢できるステータスを得られるように、勉強させ就活させた。望むレベルの結果でなければ泣き、及第点なら満足げにし、直接言わなくても間接的に子供の将来をコントロールしようとする。

子供自身がどんな信念で、どんな夢をもって、どんな人間になりたくて生きているのかではなく、どこで何をしているか?それが自慢できるか?が重要なのだ。

たしかにそうだ。今回の転職にしても、私が今どう思っているとかなぜ苦しんでいるかとか何を求めて転職するかではなく、どの企業に行くかとか年収がどうなるかくらいしか興味がなかった。

なんというか、そういう視点でみてみると、すべてつじつまが合う。

祖父母とのコミュニケーションのダシに使ったり、すでに内情としては崩壊している夫婦関係の鎹に使ったり。

私の実父母は、私のことを使うことについては長けていたなぁと思う。使うことばっかり考えていたんだろう。

そして、私が自我を持ち、求められる役割にNOを突きつけると、狼狽して怒ったり泣いたりする。

父親は母親のヒステリックや精神不安定さをなだめるために私を使い倒し、母親は自分のつまらない人生をさも充実しているかのように周囲に虚飾するために私を使い倒した。

私は愛されていると思いたくて使われていることに内心傷つき渇きながらも、身を粉にして心を殺して従っていたのだ。

 

もういいです

もう、うんざりである。

私は親とのこのような関係性を通じて、人間とは「私を粗末に扱い便利に使おうとする存在だ」と学んだのだと思う。

半生が与えたもうたこの血塗られた教訓は、私を疑り深く孤独な人間に育てた。

そして私の自尊心を大きく棄損した。精神的虐待である。

私は「利用価値がなければ愛する価値がない」というメッセージをずっと与えられ続けてきたのだ。そんなメッセージを親から常に受け取っていたら、自分を好きになれるわけがないし、価値を感じられるはずがない。そう思わないか?

 

私のインナーチャイルドはこう考える。

親ですら私を使おうとするのだ。他人など、言わずもがなである。

メリットがなければあえて私には近寄ってこないし、力を貸すなら何か取引条件、つまり裏があるはず。

相手が想定している利用価値を正確に把握してから取引に応じないと、とんでもない見返りを請求されるかもしれない。

それなら、安易に手を借りないほうがいい。後悔することになる。

人間関係における「借り」とは借金と同じ。借金がいくらかわからないのに借金する人間はいないだろう。いくら負債を負わされるかをよく吟味して、力を借りるかどうか判断すべきだ。

たいした力にならないのに頼り負債を抱えるくらいなら、自分自身のリソースで対処したほうがマシだ。

それがベストな結果に繋がらなかったとしても、かまわない。負債を抱えて不安と恐れと負い目に精神をさいなまれるコストを考えればおつりがくる。

まずは自分が使い潰されないことだ。そうしなければ死んでしまう。

つまり、他人を頼るということは、死ぬ可能性がある選択だ。

自分でやり切ろうとしてやり切れず死ぬか、他人を頼り代償として使い潰されて死ぬか、二つに一つ。

なら、まだコントロール可能な前者で行こう。

こういう思考回路で、インナーチャイルドは、よっぽどのことでもない限り他人に相談しないし、頼るという判断をしない。

 

しかし、わりとそこまでこの世は地獄ではない。

私がそうであるように、困った人がいたら損得なしに助けたいと思う人もいる。

他人が期待するリターンがあったとしても、すべてに応える必要はない。

損得で人間を判断する人だとわかったら、そこそこのディールでまとめつつ、深くは付き合わないという選択もできる。

私という人間は存在するだけで価値がある。

私は私らしく生きているだけで価値がある。

他人がどう値踏みしようが、その価値は揺るがない。

私は付き合う人を選べる。私を大切に思ってくれる人と一緒に生きていけばいい。

私が大切な人に惜しみなく愛を注げばいい。

 

実父母は私にとって大切な人ではない。なぜなら私を大切に扱わない人々だから。そう私が感じている、それが全てだから。

それはいけないことではない。私が判断していいことで、どう感じるかは私に権利がある。

わが子が私をどう感じるか、私との関係性をどう判断するかは、わが子に委ねられているのと同じように。

私は好かれようと思ってわが子と接することはない。好かれるか好かれないかは、私のわが子に対する愛情にまったく影響しないから。

 

大切な人は、選べる。

私の価値は、揺るがない。

【仕事】お金のためにする仕事の虚しさ

かっこいいことを書けたらいいし、悟ったようなことを書けたらいいが、私はそんなに人間できていない。

とある人にブログのことを貶されて以来、なんだか書きたくないなぁ、と思っていたし、書くとしても読むに値するものを書かなければ、と思ってしまっていた。

弱音を吐こうものなら、画面の向こうで嗤われているような気がして素直に書けなくなった。

でも、そんなの気にせずに気取らずに書けばよかったんだよな。

私はそもそもそのためにブログを立ち上げて、わざわざサーバーの費用を払っているんだし。

読んだ人がどう思おうが、何を言われようが、知ったことか。

ここは私が書きたいことを書く場所なんだ。別に金をもらってるわけでもない。感謝されるために書いているのでもない。認められるためでもない。

なら、遠慮する必要はないよな、と思ったので書いてみる。

 

ブレインフォグ

最近、仕事のこととなると頭がどうも鈍い。

脳内に霧がかかったようになって、するべきことが霧散していく。

「するべきこと」とは商売上組織がしてほしいことであって、私が心からしたい事じゃない。だからADHDの特性も相まってまったく集中できない。

以前は、自分が心からやりたい事だったから、まだなんとかなっていた。

医薬品を届けることは良いことで、科学的医学的アプローチは回復に必要な素晴らしいことだと考えていたから。

必ずしもそうではない、場合によっては悪ですらある、そう思うようになってから、途端にやっていることへの興味がすっかり失せてしまった。

成果が上がってもそれは喜ばしいことなのか。素直に喜べない、というか喜びを感じない。

ないがしろにされながらなんとか時間をもらって会って話して、他の薬よりはマシだから切り替えてもらったとして、それはどれほどの意義があるのだろうか、と自問自答する日々。

組織からは「あれもやれ」「これもやれ」と山のようにタスクが降ってきて、どれもこれもが本質的価値のないゴミのように見える。ゴミがどんどんたまっていく。

溜まるゴミを生きるために掃除する。いつまでもゴミが降ってくる。死ぬまで終わらない掃除をしているような気分だ。賽の河原と同じ。

組織は、そのくだらないゴミ掃除をしているかどうか、ITシステムを駆使して監視している。まさに監獄パノプティコンだ。私は雇われている今の私を囚人のようだと思っている。

毎日懲役に服するように、ゴミ掃除をし、喜びも楽しみもないことを、朝から晩までやっている。

正直なところ、実に虚しい。生きながらにして死んでいるのと同じだ。

 

ジレンマ

では、今の仕事をやめて別の仕事をすればいいのではないか?

そもそも仕事なんてそこまで言うならしないでいいじゃないか?

 

そんなわけにはいかない。

私には家族がいて、家族を養わなくてはならない。

小さい子供ふたりが、将来金銭的な理由で選びたい未来を選べないなんて、そんな状況には絶対にしたくない。

そのためにはある程度の資産がなくてはならない。

現時点でも養育費はかかるし、生活費を稼いでこなくてはならない。

 

もしひとりきりだったら、仕事をやめて退職金で農地付きの中古物件を買ってみたい。

限りなくオフグリッドで食べ物は自給自足し、自然のなかで哲学をもっと深めたいし、その内容をまとめて執筆したり発信したりしたい。

実際に農業系のコミュニティに参加して、そうした生活を選びイキイキと生きている人に会ったことがある。

男女問わず独身で、そこには高い自由度があった。

うらやましくないと言えばうそになる。

 

しかし、家族のおかげで私はとても幸せな時間を過ごしている。

満ち足りた気持ちになる。生きていてよかったと思う瞬間がそこにはある。

昔抱えていた言いようのない孤独感や不安がないのは、心許せる本当の家族がいるおかげだ。

だから私は、この人たちとの関わりこそ最も人生のなかで重要なことで、それを外敵や脅威から守ることが私が果たしたい私の役割だと知っている。

 

得たものもあれば、失うものもある。

そのバランスのなかで、どう現実をやりくりしていくか。

結局は、面白くもなんともない答えだが、「中庸」に行きつく。

どうにかこうにか楽しみを見つけて、やり過ごすしかいない。

苦難や苦痛を全く無くすることなどできない。

 

それでも、わかっちゃいるけど、今はけっこうきつい。

なんとかして他に収入の柱を増やして、組織の奴隷である割合を減らすしかない。

収入の柱というのは単に金の調達手段だけではなく、生活に必要な物資を調達する手段だ。

それさえ徐々に確立できていけば、金銭に依存するウエイトを減らせる。

ウエイトを減らせれば、金銭を子供たちに回せる。そうなれば、不安は少ない。

 

カタストロフ

この国は一度大きな大きなカタストロフに遭遇すると思っている。

資本主義経済社会は、今限界にきている。がけっぷちだ。

おそらく、今まで常識となっていた社会通念や社会基盤は崩壊する。

現在の円安・ドル高は、世界恐慌前と似ている。あるいは、ヴェルサイユ講和条約後のドイツのハイパーインフレの時に似ている。

借金誘導型マネーシステムを根幹とする今の社会は、もうそろそろ維持できなくなるだろう。

円もドルも紙屑同然になり、貨幣による価値交換ではなく、物々交換が実用的な手段になると思う。

そうなるのが今年中か、2025年7月なのかは、私にはわからないが、遅かれ早かれそうなる。

 

そうなれば、私たちのほとんどは貨幣価値に基づく財産をすべて失う。

そうなっても困らないようにできる範囲で資産を分散しているものの、私は結構焦りを感じている。

 

そうなったとき、私は家族を支えられるだろうか。いや、支えなくてはならない。

それは結局、貨幣経済社会だろうが、物々交換の原始的な社会だろうが、変わらない。

社会の収益構造は学閥的エスカレーターシステムでなくなるだろうし、子供たちにとっては日本に住み続けるのではなく、海外でこそ必要な学びを得られるかもしれない。

そうなったときに必要な分の資産は残しておきたい。

 

不安はまだ起こっていないことから生まれる

書きながら眺めていて気付いたのだが、これらはまだ起こっていない未来のことなんだよな。

未来がどうなるかわからないのなら、不安になったって仕方がない。

今できることをして、今準備できることをやったなら、あとは天にゆだねるしかない。

今できることは何だろう?

それは、このゴミのような仕事をひとつひとつ行うことだし、将来必要だと思う農耕ができる土地を今の資産の範囲内で確保することだ。

それ以上に重要なのは、今を楽しむことだ。

私にはこれが決定的に欠けている。

 

やりたくもないことに楽しみを見出す。

これがとても難しい。少なくとも私にとっては。

養老孟子先生も確かおっしゃっていた。

「どうせやりたいことだけなんてできねぇんだから、やらなきゃいけないことを好きになるしかねぇんだよな」

好きになるしかねぇのか。きついな。

好きじゃないのに好きになるってどうやってやるんだ?

好きじゃないもんは好きじゃなくない?

分解して、好きだな、と思う部分を見つけるのか。

やってみよう。

 

私が扱っているモノには、社会的意義も価値もない。むしろ毒かもしれない。

それを届けること、世に流通させることは、むしろ悪行かもしれない。

モノはダメだとして、行動はどうだろうか?

ユーザーに聞いてまわって、問題がなかったかどうか、事実をヒアリングするのは意義がある。好きかも。

行動の一部には好きな部分がありそうだ。

それを制限しようとする組織の活動方針が邪魔だ。

組織としてはできるだけたくさん売り上げを上げたいし、利益を生み出したい。

だからモノを使わせる方向になんとか動かそうとして、そのための行動指標を策定してくる。

これがうっとおしい。まったくやる気がしない。

これを好きになるにはどうすればいいか?

ギャンブル要素のあるゲーム性を楽しもうとしたが、ダメだった。競争・他者比較でのパワーゲームは私には嫌悪感しかなかった。ハマれなかった。

できるだけやってる風を装うという演技のゲームだと思って楽しもうとしたが、ダメだった。私は演技が下手だし、嘘がうまくないし、第一まったく気分が良くなかった。

実験だと思ってやってみるのはどうだろうか?

戦略推進室が立案した戦略は、現実において本当に再現性があるのか?を検証するというのは。これはちょっとおもしろそう。

戦略自体にも結果にも興味はないが、それが想定通りにいくのかどうかを確かめるという行為そのものは、好きかもしれない。

弱いな、もっと他にワクワクすることはないか?

自分で考えて試す、ということに私はもっとワクワクするに違いない。

しかし独自性を出すと組織は命令に従えという。どうしようか。

ここなんだよな。

好きになるには自分で考え、自分で試すという試行錯誤と、その結果の享受が不可欠だ。

それを奪うからやる気がなくなる。過干渉や世話焼きにあっているアダルトチルドレンの状態に似ている。

好きなようにはやらせてもらえないが、好きになるしかない。

やらされ仕事を好きになるのは私には無理だ。

 

結局は、指示の範囲内で実証実験する、といったところか。

観測者的な立ち位置で仕事のタスクをとらえてみよう。

やれる範囲でやってみて、やれないことはあきらめよう。

そのあとの未来はどうとでもなれ、だ。

とりあえず命令されている行動指標だけやって観察してみよう。そのあとのことは知らん。

求められているのは命令の遂行なのだから。心のなかでは責任はとらない。知ったこっちゃない。

そう思うと少し楽になってきた。

どうせただの金集めなのだ。真面目になることはない。

 

その程度のこと

私は仕事という遊びにはハマれない。

が、ハマれないながらに楽しむしかない。

嫌だと言っていてもやらなくては今のところ生きていけないのだから、やるしかない。

幸い、死ぬほどきついことでもないし、割に合わなさすぎる給料でもない。社会的な信用はあるほうだし、それに伴うメリットを生かして本当にほしい状況を作る足掛かりとしよう。

ラッキーだと思おう。

仕事とは、私にとってその程度のことだ。悩むほど大きい存在ではないじゃないか。

とりあえずのらりくらり、こなしていこう。

 

それにしても、それ以外の個人的な楽しみがないのは問題だ。

最近筋トレもなんだか味気ないというか、面白みに欠ける。

ワクワクするような金に依存しない何かを、見つけていきたい。

自然農は実に興味深く、やってみたいが、今の環境では難しい。

今できる、楽しいことにアンテナを張って生きてみよう。

【神経発達症】この社会を生きることの難しさ

私は人にとても興味が薄いらしい。

ごく親しい人(家族)以外の人のことをすぐに忘れるし、知りたいともあまり思わない。

顔も名前も「そんな人いたっけなぁ」という感じで、うまく思い出せない。

別に薄情なわけではないと自負しているが、他の人々のように深く知りたいとも関わりたいとも思わないのだ。

ASD・ADHDの併存だからだろうか。

私は本当はどう考えているのだろうか。

 

仕事に関する考察

たとえば、仕事。

顧客のことを知るために、チームの他の優秀な営業は、あらゆる手を尽くす。

SNSやネットからストーカーのように調べ上げるのは当たり前で、家族構成や誰と親しいか、何に興味があって、どういう時間帯が一番余裕があるのかなど、あらゆることを知ろうとする。

正直ドン引きする。

相手に時間を割いてもらうために、自社の製品を売り込むために、一生懸命だ。

お金が欲しい、第三者からの評価を得たい、そういった利己的なモチベーションを基盤としているのかもしれないが、知ろう・把握しようというものすごい熱意を感じる。

そんな熱意は私には持てそうにない。

お金は必要最低限あればいいし、他者評価とは水物で「変えられないもの」なので、コントロールできるように思えても、それは幻想だと私は思う。

コントロール欲求と物欲の無意味さは、仏教でも古典哲学でも古くから語られている。それらは人生の最優先事項ではない。人生とは、いかに自分らしく与えられた時間を感謝して過ごすか、に尽きる。

一種のゲームであり、楽しめる人は楽しみ、楽しめない人がいてもそれは不自然ではないはずだ。

しかし、この世の中は資本主義経済社会なので、定量的かつ金銭的なメリットに基づいて人々は行動する。そういう社会構造だからで、人そのものが性悪なのではない。システムが合理主義と功利主義に立脚しているのであれば、そうなるのはしかたない。

が、この金儲けゲームを楽しめない人は、社会の輪から自然とはじかれてしまう。

 

上司がこの間言っていた言葉でとても印象的なものがある。

「自分ひとりでできることは限られている。いかに他人との繋がりをもつか、それによって成せる仕事の大きさは変わる。」

 

なるほど。

前半には同意する。

ひとりでできることは限られている。人間ができることには限界がある。個体の能力値もばらつきがあり、生まれつき平等ではない。それはそうだ。

だが、後半には首をひねった。

他人との繋がりを持つことによって、リソースが増える。だからできることの幅が広がる。そう考えるのは、少し傲慢ではないだろうか。

それは、自分が望むように他人が役立ってくれるから、意図している成果を創出できる、という発想だが、私はそれはコントロールできないものをコントロールできると妄信しているだけのように思う。

 

他人との本物の「繋がり」というのは、利害関係ではないのではないだろうか。

愛による「繋がり」が本物だと私は思う。

 

利用できて得をするから繋がりがあったほうがいいという考え方に、気持ちがとても萎える。

でもそうか、本当に人生を賭してでも成し遂げたい事があるなら、どんなものだろうと誰であろうと頼るのかもしれない。

それって、なんなんだろう?

経済活動と社会に関する考察

私は今売っている製品に愛着がほとんどない。エンドユーザーに届こうと届かなかろうと、大差はないと思っている。

実際そうだ。産業構造が根本的に腐敗しているので、本来公に資するべき収入体系の生命関連産業にもかかわらず、株式会社の形態をとっている。

そのせいで、売り上げを伸ばし続けて利益を生み出し続けないといけないという株主資本主義的な強迫に近い圧力を、ステイクホルダーに与え続けている。

そうなると、本当に必要かどうかわからない人にまでごり押しして売ることになる。そこに歪みが生じ、煩悩と苦痛が発生する。

しかも、本当に必要かどうかを判断するのは、こちらではなく顧客だ。顧客の自由意思が第一で、私たち営業ができるのはその一助になるかもしれない手を差し伸べることだけだ。

手を取るかどうかは、相手次第。意思決定は相手にゆだねるべきだ。

もしも手を取らないのなら、それはしかたのないことだし、それは営業のせいではない。

「伝える」と「伝わる」は違うというが、それは双方がアサーティブにコミュニケーションをとる意欲と準備ができているかどうかという話で、必ずしも伝える側だけの問題ではない。

受け取る側に準備ができていない、その気がない、それは相手の課題で、課題の分離でいうと影響できる範囲を超えている。

意思疎通の齟齬を自責とするのは、行き過ぎた自己責任感であり、アダルトチルドレンの概念でいうイネイブリングにつながる危険性をはらんでいる。

こちらが愛情をもって差し伸べたものを受け取らなくても、それはしかたのないことだと受け容れて、執着しないことが最も理想的な心の在り方だと私は思っている。

だとすると、会う気のない顧客に時間をもらうためにあれこれと時間を割くことは、私にとっては余剰分の愛で行うことような優先順位の低いことで、熱心にやるべきことではない。

 

物質的なあらゆるものは、必要最低限あれば本来はそれでよい。

人間はどうせ死ぬのだから、どれだけ資産を増やしどれだけたくさんのものを所有したように思えても、ゆくゆくはあらゆるすべてを手放すことになるからだ。

すべては今この世を生きている魂が借りたもの。天にほんの一時だけ預けられた貸与物。それが多いか少ないかで人間の価値は測れない。人間はだれもがどんぐりの背比べで、たまたま与えられたものが違っただけ、器が違っただけ。

だから、現在取り扱っている製品だけでなく、他のどんな製品でも、私はそこまで愛着を持たないと思う。

それが金銭と交換に提供された人にとって、物質的な豊かさを一時的に与える可能性があったとしても、それは本質的にその人に役立ったとは言えないからだ。

その人がその人らしく生きるために必要なのは、お金で買えるものではなく、その人が自然に心から感じる命への感謝。それが真の豊かさだ。内在的なものであるがゆえに、お金では買えない。

しかもその人のなかにすでに充分備わっているもので、感じる力を持っていて、きっかけは天によって用意されている。

だから他人が意図的に何かを施す必要は誰にもどこにもなく、あるがままに在れば、それが最も良い社会貢献だと言える。

 

だとすると、私は商売(あらゆる経済活動)にまったく価値を見出せない。

マネーゲームというただのゲームで、それ以上でもそれ以下でもない。暇つぶしにするためのものだ。

しかし、コントロール欲求に支配された人々が政を行うがゆえに、計算可能性が必要で、そのための支配システムとして資本主義経済を導入し、人々をゲームに強制的に組み込むようプログラムした。

今までもこれからも永続的に物質的に金銭的に豊かに過ごせるよう一部の人々の利益のために生み出されたのが、今の社会だ。そりゃあ、ゲームマスターはすべてを掌握した気分で実に愉快だろうが、使われるほうの我々プレイヤーが病むのは当然だ。

だから精神疾患があるし、ルサンチマンがあるし、自死や他殺がある。現代社会を生きる多くの人々を苦しめ死に至らしめるのは社会そのものだと思う。

 

在り方に関する考察

だから、経済システムからいかに離脱し、ゲームから降りるかが、最も建設的な選択ではないだろうか。

すでにそういった真理に気づいた人々は、自分たちで田畑を耕し、オフグリットを確立すべく動き出している。実に賢い人たちだと思う。

盲目的に現在の価値観と社会システムに振り回され、人間らしさを忘れたまま人生を浪費していく人は、一生懸命死に急いでいるようなものだ。

ビジネスに偽りの価値を見出し、それに傾注するのは、まさにそんな生き様だと思う。

私はそこから一刻も早く脱したがっているのか。

そうか。

 

それこそ一人ではできないので、他人との繋がりとやらが必要になってくるのだろう。

たしかに、私は今立ちすくんでいる。

この社会で生きるために家族を支えなくてはならない、そのためにやりたくもない仕事に一日の大半を捧げ、虚ろな目をしている。よくない。

 

しかし、勇気をもって助けを求め、自分が配分できる限りの愛を与える以外に、できることはないように思う。

それこそ、そうあれかしと願い、それが本当にあるべき姿なら、おのずと縁は紡がれていくはずだ。依存症とアダルトチルドレンを通じて、それは体感的に理解している。すべては、意図しなくともおのずとすべて与えられる。気づくか気づかないか、というだけ。

 

私は、生かされている今の状況と、その状況をつくってくれている顧客に、まずは感謝を届けたいと思う。

それは、私が届けたいものだ。選んで使ってくださっている稀有な方々に、ひとりひとりありがとうを伝えることは、私が心から望んでいてやりたいことだ。

まずはそれでいい気がしてきたぞ。

それなら、他人にも会いたいと思える。感謝を受け取り、私という存在に求めることがあって、私にできることなら、応えたいと思う。

他人とはそういうやり取りをしていきたい。

そういう繋がりでも、私は同じように顔も名前も忘れてしまうだろうか。

実の親ですら生きていても死んでいてもどうでもいいと思う私が、生きていてほしい、かけがえがない、と感じるだろうか。

 

それを実験してみようと思う。それが私が私らしく生きていく道につながっているはずだ。

遠回りに見えて、実はそれが最短距離だった、ということは、何度も経験してきただろう?信じて、もう少しやってみよう。

 

感謝

とりとめのないこんな文章を最後まで読んでくれた、そこのあなた。

あなたにも、ありがとう、と言いたい。

存在してくれて、読んでくれて、ありがとう。

【依存症】私はなんでお酒をやめられたのだろう

お酒をやめてもうすぐ6年になる。

私はアルコール依存症だ。

「飲まなくてはいられない」という病気なはずなのに、飲まずに生きている。

なんでだろう?なんで今、飲まないで生きていられるのだろう。

散歩していてぼんやりと思ったので、いろいろ振り返ってみようと思う。

 

しなくていい我慢しなくなった

思い返してみると、私は我慢ばかりしていたように思う。

良い学校に合格しないといけない。

良い成績を取らないといけない。

良い会社に就職しないといけない。

良い評価を得られるように仕事を頑張らなくてはいけない。

まっとうな社会人にならないといけない。

結婚して子供をつくらないといけない。

人生に失敗してはいけない。

大きな失敗しないために、他人から成功しているように見えるように、他人の目に怯えて生きていたように思う。

はたしてそれは楽しかったか?と問われれば、もちろんまったく楽しくなかった。

早く終わりにしたかった。まるで刑務所で服役しているような気持ちだった。

「義務」

それに尽きる。

たくさんの「○○しなくてはならない」に溺れるように生きていた。そんな苦しさを紛らわすためには、お酒が必要だった。そうでないと、生きていられなかった。明日が来る恐怖に耐えられなかった。

だから、浴びるように、溺れるように、お酒を飲んでいた。

生きているように見えて、死んでいた。一度今日の自分を殺すために、毎晩記憶が飛ぶまで飲んでいた。

 

私はアルコール依存症と診断されて、一度しっかり死んだんだと思う。

自分を取り囲んでいた「○○しなくてはならない」が全てポッキリと折れた音がした。

「ああ、もう全部台無しだ、ダメになった」

そう思った。

そこから、どうせ一度死んでいるのだから、生き直そうと思った。

自分は自分以外のことのために、精一杯やった。

だから、ダメでもともとだし、もう一回生き直してみよう。

今度は自分の気持ちに正直に、生きてみよう。

 

そこから私の人生はもう一度スタートしたと思う。

それからも再飲酒は何度もあったし、間違いは数えきれないくらいあった。

でも、まだ生きている。

今日を生きるために食べて動き、明日を生きるために寝ている。

以前の私とは比べ物にならないくらい、積極的に生きている。

 

お酒を必要とする人 と しない人 の違い

妻はお酒を飲まない。

別に病気でもないから、飲んでもいいのに飲まない。

「私に気を遣わず飲んでもいいんだよ」と言っても飲まない。

「飲みたくないから飲まない、飲む必要がないから要らない」という。

 

私は不思議でたまらなくなって、一度聞いてみたことがある。

「私にとっては、お酒は脳を物理的にシャットダウン(鎮静)して現実を忘れさせてくれる魔法の飲み物のように、当時は思っていたけど、酔うことが気持ちいいと思ったことはないの?」

妻は不思議そうに考えながら言った。

「気持ちいいと思ったことない。風邪ひいたみたいに具合が悪くなる、いつもの自分の感覚じゃなくなるから、気持ち悪い。ちゃんと現実を感じられないほうが嫌じゃない?」

 

これは私にとっては目からウロコだった。

現実を感じられないほうが嫌?

いつもの自分の感覚じゃなくなるから気持ち悪い?

全部逆だ。私は現実なんて消えてほしいし、もうこれ以上不愉快な感覚を感じたくないと思っていたのに対し、妻は「現実」や「感覚」は知覚していたい世界だったのだということだ。

現在の私に通じる。

相変わらずADHD/ASDだし、現代社会なんてクソくらえだと思っているし、仕事にやりがいもなく超絶めんどくさい。不毛なことだらけのこの世界が基本的には大嫌いだ。早いとこ滅びて全部壊れてしまえばいい、と正直なところ思っている。

しかし、生きる実感、「現実」や「感覚」を受け容れている。

酒を飲むことによるデメリット(体調不良・社会不適合・死)があるから飲まないのではなく、感じていたい世界を余計な物質を摂取することで変に歪めたくないから飲まない。

何を感じていたいかと言えば、ご飯がおいしいとか、運動してスッキリしたとか、風が気持ちいいとか、小鳥のさえずりや樹々の葉擦れの音が美しいとか、そういう慎ましい歓びだ。

ただ、生きている。その奇跡があって今たまたま受け取れる、多種多様な美しい情報。

生きることに意味や効率を求めたりせず、他者評価や金銭欲に目を眩まさらず、ありのままに自分と世界を観察すると、そこには小さくても確実に歓びがある。

酒を飲んでいた当時は気づかなかった。

義務と意義と他人の目。そんなものにばかり心を奪われて、それこそ私は「現実」を生きていなかった。「現実」だと思っていた嫌な世界は、私の心が創り出した地獄だった。

自ら創り出した仮想の地獄を忘れるために、私は酒を飲んでいたんだなぁ。

とんだ独り相撲じゃないか。笑える。

 

まとめ

酒を必要とする人は、他人に決められた何かを価値基準にし、『変えられないもの』を変えなくてはならないと思い込んで地獄を生きている。

酒を必要としない人は、自分で選んだ価値観にしたがって生き、『変えられないもの』を受け容れて、自分の感覚に正直に『変えられるもの』に集中して生きている。

これが違いだ。

だから酒を必要とする人(昔の私)は、誰かのせいでこうなっているとどこか恨みを抱え、生きるにしろ死ぬにしろ、自分の生死のどちらにも責任を持てないでいる。嫌々生きているが、死ぬのも誰かのせいにしないとできない。

それはたいそう不自由で、一秒一分が常に苦しい。だから酒でなんとか誤魔化さないととてもじゃないが一日一日を乗り越えられなかった。

私は回復の過程で、私が本当に大切にしたいことがわかってきて、それ以外の問題っぽいものは実は問題ではなく、人生においてそれほど気にしなくていいとわかった。

呪いのように背負ってきた地獄という妄想を手放すことができたから、今酒をやめられているのだと思う。

 

 

【依存症】『弱い人ほど他人を責める。』なんて書いたけど

 

まぁ耳が痛い。

私のことだから当然なんだけど。

 

「親のせい」

「酒のせい」

「社会のせい」

と他責にして攻撃してきたのは、他ならぬ私だ。

 

親が自分の問題に真摯に向き合ってくれていれば、子どもたちはACにならずに済んだかもしれない。

この世に毒物である酒が存在しなければ、この世にアルコール依存症はなかったかもしれない。

この社会が善意と愛で構成されたまともな社会なら、生きづらさなどなかったかもしれない。

そんな「○○なら、○○かもしれない」が私のなかにはたくさんあった。

(私にとって)正しくない他の要因が悪い、と顔を真っ赤にして怨嗟の声を浴びせていた。

 

それで楽になったか、といえば、そうでもなかった。

誰かを何かを責めていれば「私は悪くない、私は被害者だ」と思えて、その瞬間は楽になれた気になる。

でも、結局どれだけ責めて悪いところをあげつらったところで、私はACでアルコール依存症で発達障害でこの社会では生きにくい性質を持っていることに変わりはない。

どれだけわめいても、結局はなんとかこの浮世を生きていくしかない。

責めたり断罪したりすることに時間と体力を使っている間、自分は今いる場所から少しも前に進んでいないことに気づいた。

もちろん、大切な時間だった。

自責に傾倒していた私の責任感は、それまでの反動もあって他責に一気に振り切れた時期があった。そんな極端な時期を経たからこそ、今バランスを取り戻したといえる。

だから、ダメだと言うつもりはない。無駄だとも思わない。そう考える時期が必要だった私だ。他人をハチャメチャに責める時期があるのは当たり前で、むしろ自己防衛のためには仕方ないと思う。

 

『弱い人ほど他人を責める。』なんて書いたけど、みんな弱くてもともとだからさ。

私は少なくとも、強くなかった。弱かったよ。というか今も弱いよ。

誰かや何かのせいにしたくなるときだって、生きてればいくらでもある。

 

そうやって責めて責めて、飽きるくらい他人の欠点や過失をあげつらって最終的に思ったのは、「でも、いつまでもこれやってても、どうしようもないよな」ということ。

 

私は結局「私はダメじゃない、他人に認められたい、社会に許されたい」と思っていただけだったんだよな。

だから依存症はダメな人がなる病気なんかじゃないと啓発したかったし、偏見を持たれることに堪えられないと感じた。私が間違ってるんじゃない、世の中が間違ってるんだ、と言いたかった。

 

でもそもそも、それは私が私のことを心から認めさえすれば、全て解決する、気持ちの問題だと気づいた。

他人がどう思おうと、社会が誤解していようと、突き詰めて考えれば、それは割とマジでどうでもいいことだった。

 

他人や社会の評価を気にすることが問題の本質であって、私の病巣だった。

自己存在証明と価値判断を他者の評価軸に委ねることが、私の不安や恐れの源泉だった。

 

他人がどれだけ私がダメ人間だと思っていても、私が私のありのままを肯定する限り、私を否定することはできない。

私の自己評価は私にしか決められない。私が私を否定しない限り、他人がどう思おうがそれは何の影響も及ぼせない。

嫌おうが好こうが、それは自由にしてもらえばいいことで、他人のなかの話。

 

社会がどう扱うかも、同じことだ。

精神に様々な病巣を抱えた人々が構成した、経済原理で動く虚ろな空間。それが「社会」。

その異空間のなかでの位置づけがどうであろうが、私そのものには何の影響もない。認められる必要もないし、差別をなくす必要もない。というかそこはコントロールできない。

構成員の大多数が病んでいて、彼らの現実逃避のために起こっている現象が「差別」や「偏見」であり、その現象をどう解釈するかは私次第だ。

「いやいや差別されて職業が限られたり、謂れのないことを言われて尊厳を傷つけられたり、経済的に損するでしょ?」と思うかもしれない。

そもそも病んだ社会にわざわざ適応することなくね?と思う。

受け容れてくれない、ちゃんと扱ってくれない社会とは程よく距離を置いて、現代社会に精神的にも金銭的にも依存しない在り方を模索し、分かり合える人たちを見つけて関係を創り、穏やかに暮らせばいいだけ。

私たちを認めさせよう、というのは、ヒエラルキー構造の社会で最下層以外になろう、というのに似ている。

私たちを認めさせても、社会はまた別のカテゴリをみつけてきて最下層をつくる。

経済で社会システムが回っている限り、勝ち負けと損得の原理で誰かが負け組になる。

社会とはそもそも破綻していて、壊れている。だからそのなかの椅子取りゲームには固執する必要がない。

椅子が欲しい人にはどうぞどうぞと譲って、死ぬまでゲームに明け暮れていてもらえばいい。

私たちはさっさとつまらない無意味なゲームから降りて、そんなことよりもっと大事なことに時間とエネルギーを使えばいい。

 

このように、事象をどう解釈するか、で世界の見え方は変わり、社会との関わり方は選べる。

そうなると、別に誰かを責めなくてもよくなる。何かのせいにしなくてもよくなる。

そもそも自分自身のなかで必要が無くなるから。

 

私が弱くて誰かや何かのせいにしなくては立っていられなかった時期があったように、ときには私を責める人もいるだろうし、自分のなかの正義を振りかざして断罪する人もいるだろう。

それは、当時自分自身の問題に向き合えなかった私の父母のようでもあり、酒や金なしでは回すことができないほど深い業をはらんだ社会のようでもある。

 

誰もが、どうしようもなく生きることに一生懸命で。

だからまぁ、そうなることもあるよね、しかたないよね、と思う。

私もそうだから。そうだったから。

 

誰もかれもが、いつかの私であり、これからの私。

だから私は誰も憎まなくていいし、誰も排除しなくていい。

誰かに向けて上から目線で放った言葉は、だいたいブーメランみたいに自分に返ってくる。

これから私に返ってくるブーメランは、どんな切れ味だろうか。

親しみを込めて受け止めたい。当時の私の弱さを抱き締めるように。

あんまり鋭いやつが返ってきたら、しゃがんで避けようと思う。

【メンタル】無理をして好かれようとしなくていい

とても穏やかに日々を過ごしている。

身体は健康だし、光も匂いも感じる。

欲や恐れに振り回されるでもなく、日々をのんびり有難く生きている。

 

なにより背伸びをしなくなった。

他人にどう思われようが気にしなくなった。

無理して自分を良くみせようとは思わなくなった。

何か成果をカタチにして認められなくてはと自分を追い詰めなくなった。

 

そんなことは必要がないと気づいたからだ。

 

今までの私を振り返ると

今まで私は、自分がどう思うかより、私が他人にどう映るかを、気にして生きていた。

内心、ひどく怯えていたように思う。

嫌われないように、なめられないように、自分を温厚に見せたり強くみせたりしようとして、一生懸命虚勢を張っていた。

そうやってどこか敵対するような緊張感をもって、他人と接していた。

だから他人に会うと、ドッと疲れた。私にとって人の群れに混ざるのは、戦争の最前線に赴くようなものだった。

 

そうやって勝手に緊張して、勝手に疲れて、自分の感覚というか心の声を蔑ろにしてきたように思う。

他人の視線にばかり気を配り、自分自身に配慮しなかった。自分の心の声はいつも無視されっぱなしだった。

だからいつも疲れていて、イライラしていた。

 

なにが転機だったか?

エピクテトスやマルクスアウレリウスをはじめとしたストア哲学に触れたあたりだろうか。

あるいは岡本太郎先生の著書を読んだあたりだろうか。

 

「私にはどうしようもない、気にしても仕方がないことを、いくら気にしていても結局しかたない。」という心がストンと落ちてきた。

いや、もっと丁寧に表現するなら、心がもともとあった場所に降りてきた。久しぶりに帰ってきたような感覚。

スッと馴染んで落ち着く。寒い夜にやっとのことで家に帰りつき、温かいココアを飲んだときの、染みわたる安心感に似ている。

 

今まで無理やり論理的に考えて「気にするべき要素ではない」と自分を説得していた。

しかしそれは真の理解ではなく、誤魔化しだった。

事実、仕事を評価される場面で私は一喜一憂していたし「認められたい」「バカにされたくない」という気持ちに内心振り回されていた。未熟だった。

 

変えられないものを受け容れる落ち着き

ああ、本当に、どうでもいいことだったんだ、と思った。

 

神様、私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変えていく勇気を
そして、二つを見分ける賢さを

二ーバーの祈り

 

変えられないものを、私は変えようとしていたのか。

だから苦しかったのか、と。

 

自由に至る唯一の道は『我々次第でないもの』を軽く見ることである

エピクテトス

 

私にできることは、意思に基づいてどう行動するか、現実をどう解釈するか、そのくらいしかない。

それ以外はほとんど自分のコントロール下にない事柄だ。

いつの時代に、どこに生まれて、どう育てられるかなど、選べない。

それと同じように、他人にどう思われるか、どう見られるか、ということは、私にはどうにもできないことだ、とわかった。

 

そもそも、他人の心の中にいる「私」は、私じゃない。

その人から見た架空のイメージとしての「私」であり、イコールじゃない。

厄介なことに、そのイメージは発想者により必ず歪む。

被写体をとらえるレンズのようで、そのレンズは発想者の心の傷や想いを一緒に投影する。

むしろ映しているのはその人自身と言える。

 

 

だから、他人が何か「私」を主語に「私」についてあることないこと言っていたとしても、実はそれはその人のその人自身についての感想であって、私は何も言われていないのと一緒ということだ。

つまり独り言だ。

独り言に相槌を打つ必要はない。それと同じように、他人が私についてアレコレ言っていたとしても、応じる必要も反論する必要もない。

「あなたの中でそうなんだね」で基本的には終わる。

もちろんその感想のなかには、私にはない視点からの気づきをもたらしてくれることもある。

そのときは「それは気づかなかった、教えてくれてありがとう」である。

要するに、他人の評価というのはその程度のものなので、そんなに重苦しく考えるものではない、ということ。

私が「違うなぁ」と思えば違うし、「そうだなぁ」と思えばそう。

 

他人から何か攻撃的なことを言われたり、馬鹿にするような言葉を言われたとして、その言葉やその人に腹が立つのは、自分が「そうだなぁ」と内心思って認めているからだ。

 

幼い子供が「やーい、ばーか」と言ってきても、あなたは怒らないでしょう?

それは相手が子供であなたのことをちっとも知らないで言っていると思えているから。

「そんなこと言うけど、私はバカじゃないよ」とあなたの心が堂々と答えている。

 

じゃあなぜ大人に「おまえはバカだ」と言われると腹が立つかというと、「私はバカだ」と認めているから。

それは、発言した他人が振りかざす権威、つまり社会的地位などから「自分よりも正しい見方をしている」と思い込んでいるため。

そんなことはありえない。

あなたのことを一番よく知っている一番のサポーターは、あなたなんだから。

どっかの偉い人よりも、育ての親よりも、あなたはあなたのエキスパートである自信と自覚を持っていい。あなたが「そうじゃない」と思えば、「そうじゃない」が正解だ。

そうじゃないのに勘違いして見当違いな発言をしているのは、他人のほうだ。

だから「フフフ、勘違いしちゃって」と思って聞き流しておればよい。

 

偏見やレッテル張りも同じように無視でいい

同じような理由で、私は依存症についても、全く気にならなくなった。

依存症のイメージがその人のなかでどうでも、私にはどうしようもない。

「私は当事者としてはこう思っているし、学説としてはこういう病態ですよ」と、私なりの解釈と事実と思しき知識はできるだけ伝わるように工夫して伝えるかもしれないが、それが他人のなかでどう消化されるか、どう伝わるかは、他人の問題。

ましてや社会に、私の解釈や知識が浸透するかどうかなど、とうに範疇を越えている。

メディアのイメージ戦略やプロパガンダをそのまま信じている時点で、物事をそんなに深く考えていない。本当に賢ければ、自分の目で現場現物を見る。自分の耳で当事者に話を聞きにくる。

偏見を持つのは偏見を持ちたいからで、その人自身が問題を抱えていることの表出のひとつ。

他人を下に見る必要がその人の内部にあるから、無意識的に飛びつく。あらためて調べないし、見方に偏りがあるのではないかという疑義が生じない。要は実態などどうでもよく、その人にとっては自分より下の存在を調達できればいい。ただそれだけの理由。

だから、せめてもの慰みに、その勝手なイメージを抱いていればいいよ、と思う。

私が額に汗して説得する必要は全くない。

耳を傾けて無駄なエネルギーを浪費する必要もない。

本人が本人のためにやりたくてやっていて、私という人間をしっかり見て言っているわけでは無いのだから。いわばオナニーだ。一人で好きなだけしといてもらえばいい。

その勝手なイメージが多数派だろうが、かまわない。多数決で多数だからといって正しいわけじゃない。いつも正しいかどうかは自分のなかの良心でしか判断できない。

どう思われようが、私がやることに変わりはなく、私の人生に変わりはない。

 

結論

【AC】自分の課題をみないために他人の課題をみる

“人生で一番責任を取らなければならないのは、自分の福利(良い状態にあること)と幸福である”

これは『ACのための12のステップ』のSTEP4「自己憐憫」に記載されている一文である。

同じSTEP4の課題である「過剰に発達した責任感」にも通じる。

読んだらそりゃそうだよね、と思うけど、これがなかなか難しい。少なくとも私にとっては、とても難しいことだったように思う。

 

弱さという鎧

私は自分を自分で否定することで、つまり積極的に「弱さ」を纏うことで、自分を守っていたんだと思う。

「自分は価値がない最低の人間だ」と自分が自分に言い聞かせることで、もし他人からそう言われても傷つかないように予防線を張っていた。

「ほら、やっぱり。知ってたよ。」と、他人の言葉が与える冷たい痛みを軽減するために、これ以上痛まないように、言い聞かせていたんだと思う。

実際には、面と向かってそんなひどいことを言われる機会などほとんどない。

他人は自分のことに興味があるわけじゃない…うーん違うな、興味がないというか、ほとんどの他人は私がそうであるように、自分のことだけで精いっぱいなんだ。

それに他人が見ている自分というのはいつも虚像で、私自身とイコールじゃない。

その虚像は、その人自身を投影している、他人のなかの産物に過ぎない。

罪悪感とか病的な囚われとか、そういうネガティブなもので容易に歪み、実像とはかけ離れていく。

だから、誹謗中傷というのは、他人が「自分ではない誰か」のことを悪く言っているのと、そんなに変わりがない。

つまり、あんまり気にする必要がない。

指摘している内容が「あてはまるなー」と思ったら感謝して素直に受け止めて改善すればいいし、「ちがうんだよなー」と思ったら聞き流せばいい。

反論する必要もない。その人のなかの私という虚像のイメージをいくら良くしようとしたところで、それは私が影響できる範囲を超えた現象であり、叶わない。私には「変えられないもの」だ。

「どう思われるか」という変えられないものを変えなくていい、ということ。

変えられるのは今ココからの自分の在り方と行動だけ。そして変えるかどうかはいつもいつでもその人自身に選択権があり、その意思は誰にも奪えない。

私が私を好きだと思うのは自由だし、最低だと思うのも自由。

「“他人からどう思われるか”が変えられないものであるがゆえに軽い」と気づいた今、私は自分を否定して弱さで武装する必要がなくなった。

私自身、アルコール依存症も今までの人生も全部ひっくるめて、その時を全力で生きてきたと思う。

間違いもたくさんあったし、他人を傷つけてきたけれど、それでもそれは私は私なりに全力で向き合い生きた結果だと思う。

だから私は私自身を否定しなくなった。そして、やっと好きだと思えるようになった。

「弱さ」という鎧は必要なくなった。

 

ACにしても、私は立ち位置の捉え方を誤っていたように思う。

機能不全家庭の「被害者」という弱さ、つまり正義を理由に、親という他人をボコボコにするというのは、加害者的というか嗜虐的な側面がある。

「自己否定」というかたちで自分に向けていた牙を「自己憐憫」という牙に変えて他人に突き立てる。

それは、回復しているようでいて、回復とは程遠い姿だったと思う。

確かに私は親の不健全な療育のおかげで苦しんだ。それも事実。

でもそれは親も親なりに(病んでいたとしても)全力でやったことだった。それも事実。

幼少期の私はつらかったということに向き合い、本当の意味で消化し受け容れて、親に対して憎しみや恨みを抱くことをようやく手放すことができた。

「親の被害者」としての人生から、「わたし」の人生に目を向けたからだ。

アルコール依存症になったのは、この世のお酒があるからいけなかったのか?

いや、自分がお酒を飲まなくては立っていられないほど病んでいたからだ。お酒を世の中から消すことはできない。

病んだのは、親がACを自覚せず過干渉(世話焼き)という虐待(加害)を加えたからか?

いや、それは確かに私の病的な振る舞いを構成する主要な要素だったが、今の私は「私の人生を生きる」という選択肢を選ぶことができる。ずっとその被害者というポジションを手放さなかったのは、自分の人生に目を向けるのが怖かった私が望んで選択したことであり、選択した理由は私にとってメリットがあったからだった。

全てを誰かや何かのせいにしてそれをいつまでも繰り返し責めていても、自分自身は一歩も前に進まない。

 

自分の課題をみないために他人の課題をみる

他人の課題に目を向けていれば、自分の課題に目を向けないで済む。

芸能人のスキャンダルなどに飛びついてはあれやこれやと正論をまくしたてる人がいるが、まさに自分の課題から目を逸らしている典型的な状態だ。

何を隠そう、私も恥ずかしながら、その類いのひとりであった。

気にくわない世の中、組織、人間に嚙みついて正論を言い、自分の課題をみないようにしてきたひとりである。穴があったら入りたい。

他人のここがよくない、あれが悪いと指摘するのは、実に気楽だ。

他人の人生は他人のもの。自分には責任がないので、好き放題いえる。

そして、指摘しているときはその人よりも上に立ったように錯覚できる。

「間違った人間に説教をしてやっている」という場面設定に陶酔して、マウントが取れる。

自分が少しマシな存在になったように思えて、自分の人生に対する不安や恐れが軽減される。

自分を見る勇気がなければないほど、その勇気の無さすら覆い隠すために、他人に上から目線で干渉する。

それはただの有難迷惑でしかなく、相手は私を認めるどころか逆に呆れたことだろう。

他人のためを思ってやっているという大義名分とは裏腹に、他人の役に立つこともほぼない。

 

親切と過干渉は紙一重

求められてもいないのにアドバイスするとき、私は「自分の課題をみないために他人の課題を見ている」状態だ。

前述した私がやってしまった有難迷惑の多くは、そんな状態で行われたことだった。

私にできることはせいぜい、相手が相談してきたら「私の場合はこうだったから、少なくとも私はこう考えているよ」と伝えるくらいのものだ。

たいていは、その人自身がその人のタイミングで気づくべき時に気づく。私にできる事はほとんどないと言っていい。

その人がプライドが高い人で、自尊心が邪魔をしてなかなか他人に助けを求められなかったとしても、生きる意思が、内なる良心が、いつか困難を契機にその殻を破る、そして、そのとき頼るべき人を頼る。

その人自身に内在する力を信じているので「見守る」ということができる。

 

子どもを見ているとよくそう思う。

この世に産まれて少ししか経っていないということは、経験が絶対的に浅いということで、なにをやるにも危なっかしいし、たどたどしい。

より確実に目的が達成できるよう「こうすればいいんだよ」と横から手を出したくなる。

しかし、それをせずにじっと見守っていると、子どもは試行錯誤しながら自分でできるようになっていく。

どうしてもできなくて助けが欲しいときは「できないから教えて」と周りに救難信号を発信する。

そういう力があるのだ。そもそも備わっているのだ。それを根本的に信じなくてはならない。

自分の意思で助けを借りるのと、勝手に横から手を出されるのとは、全然違う。

前者では、自らの意思で助けを得る選択をしている。自分で選んだ道筋だから、得られた結果や納得できる。達成したという実感を享受できる。

後者では、工程が奪われて結果が贈呈されるので、自分で選んだ、自分でたどり着いたという自己効力感がない。

「あなたなら自分で気づき、自分でたどり着くと信じている」というメッセージ。それこそが愛情である。

 

親切でアドバイスしてやっている、と悦に入っているときは、自分の課題をみないために他人の課題をみているとき。本当の意味でハイヤーパワーを信じられていないとき。

 

他人のことは他人に任せよう。

頼られたなら、そのときはじめて可能な範囲でこたえればよいだけ。

自分の人生の福利と幸福に集中しよう。

それが何よりも他人のためになる。

 

 

【雑談】この狂った世の中で大切にすべきこと

今の世の中は基本的に狂っていると思う。

人の命を摘み取ることが平然と行われているし、その歪んだ社会に生きる人も病んでいる。

社会不適合者というが、そういうふうに社会から蔑まれている人たちほうがまともなんじゃないかと思う。

 

今の社会に適合している人は、どこか麻痺している。

経済的な成功を追いかけたり、他人の評価を追いかけたりすることが称賛されて、自分が成功するためなら他人を踏みつぶしてもかまわない。

そんな人間味のない生き方に疑問を抱かない。

あるいは疑問を持つと生きていけないので、あえて考えない、感じないようにしている。

そんな、もともと麻痺しているか、あえて麻痺している人であふれている。

 

追いかけている成功というのも、とても不確かなものだ。

お金をたくさん稼いだから偉いかといえば、そうではない。

お金は必要最低限あればよいもので、持ちすぎると毒になる。

他人の評価を得ているからといって、それが正しさの証明になるわけでもない。

他人が見た自分というのはどこまで行っても虚像であって、自分自身ではない。

自分のことは、自分でもわからない。ましてや他人がよく知るわけもない。

よく知りもしないのに、見たいように見て、好きかって言っているだけだ。

そんな幻想をどれだけ良いものにしようと躍起になっても、虚しい。

砂浜で砂の城を一生懸命つくっているようなものだ。いずれ波にさらわれる。そうでなくても時が経てばもろくも崩れ去る。

追いかけて、自分の努力のおかげで手に入れられたように錯覚できると、幸せを感じるだろう。

しかしそれは、すべて運のなせる業で、自分の功績のようで誰かの何かのおかげだったりする。

 

世の中のあらゆることはほとんどコントロールできない。

偶然生まれたこの世の中が狂っていることは、私のせいではない。

たまたま私が生まれて、たまたま世界が狂っていただけ。

世界をどうこうしようとはしないことだ。

社会を変えようなどというのは非常に傲慢なことだ。

私は私が思うところを、どれだけ弾圧されようと正直に率直に伝えるだけだし、非暴力不服従で自分の在り方を貫くだけだ。

結局、変えられるものとは自分自身のありようだけなのだ。

他人がどう思うか、どう動くかは、他人の範疇のことで、私にはどうすることもできない。

私ができるのは、ただ良心に従ってできる範囲の手助けをすることだけ。

家族に対しても、仕事でも、すべてがそうだ。

「助ける」というのはおこがましく、私が関わって何かをしたらその人が「勝手に助かる」。

私自身の影響というのはそれだけちっぽけで脆弱なものだと思う。

その人そのものが持っているエネルギーは計り知れない。

そのエネルギー、存在するだけでとてつもない価値もっていることを、その人が見失っているだけ。

 

その原理原則を忘れて、自分が他と比べて強大だと思い込むと、過干渉をしたり病気になる。

人間である限りその個体に大した差はなく、比べることはばかばかしい。

ゲームとして楽しむ分にはいいが、他者比較を生きる軸にしてしまうととても苦しい人生になる。

そういう意味では、生命活動に関わらないすべての活動は余分であり、メインではない。

生命活動とは、生命本来のやるべきこと。

食べる。食べるために種を植える。狩りをする。その命の有難みをかみしめる。

寝る。愛する人と愛し合う。肌を重ねる。存在を互いに尊ぶ。

子供を育てる。自分が庇護すべきか弱い血族を外敵から守る。

自己表現。自分という存在を外界に表現する。会話でも音楽でも絵画でもダンスでも文章でも動画でも何でもいい。自分という内的宇宙を第三者に露出すること。

大事な活動はそのくらいだ。

これらを実現するために貨幣が必要になっているのが、この貨幣経済社会なので、お金に価値を置きがちだが、本来なら貨幣によらずとも成立する活動ばかりだ。

なので、お金そのものには実は価値がない。

必要以上のお金を得るために、お金を貯めるために仕事をすると心が空虚になるのはそのためだ。

価値がないものを一生懸命集めるために人生の貴重な時間を浪費することに、心がうすうす気づいていて「もうやりたくない」と悲鳴を上げる。

それでもその声を無視し続けて頑張り続けると、次第に心の声は聞こえなくなって、空っぽになる。

 

食べ物を自分で育ててみるもの良いだろう。

家庭菜園を始めて、土に触れ草木に触れ、それを食べる喜びを知った。自分で育てて自分で調理した野菜は本当においしい。心に届く。

他人が全くいないとしたら、そんな風に想像して「本当に必要なもの」以外を手放してみるのもいいだろう。

高価な時計、良い車、ピカピカの靴、高いスーツ、ブランドのバッグ、そんなものは、特に必要がなかったことに気づく。

世界を感じられる健康な心と体があって、今日一日食べるものと寝る場所がある。

人はそれだけで充分幸せなのに、それ以上を望んで自ら進んで不幸になる。

 

まずは他人と比べるのは無意味で無価値だと知ること。その評価軸を手放すこと。

そしてお金から離れること。できるだけお金を介さないで価値を感じられる活動を増やすこと。

大好きな人に「大好きだよ」と面倒くさがらず言葉にすること。逆に他人を攻撃して自分の不安や恐れを打ち消そうとしないこと。結局は自分に返ってくる。

一日でも早く、そうするといい。