【神経発達症】この社会を生きることの難しさ

私は人にとても興味が薄いらしい。

ごく親しい人(家族)以外の人のことをすぐに忘れるし、知りたいともあまり思わない。

顔も名前も「そんな人いたっけなぁ」という感じで、うまく思い出せない。

別に薄情なわけではないと自負しているが、他の人々のように深く知りたいとも関わりたいとも思わないのだ。

ASD・ADHDの併存だからだろうか。

私は本当はどう考えているのだろうか。

 

仕事に関する考察

たとえば、仕事。

顧客のことを知るために、チームの他の優秀な営業は、あらゆる手を尽くす。

SNSやネットからストーカーのように調べ上げるのは当たり前で、家族構成や誰と親しいか、何に興味があって、どういう時間帯が一番余裕があるのかなど、あらゆることを知ろうとする。

正直ドン引きする。

相手に時間を割いてもらうために、自社の製品を売り込むために、一生懸命だ。

お金が欲しい、第三者からの評価を得たい、そういった利己的なモチベーションを基盤としているのかもしれないが、知ろう・把握しようというものすごい熱意を感じる。

そんな熱意は私には持てそうにない。

お金は必要最低限あればいいし、他者評価とは水物で「変えられないもの」なので、コントロールできるように思えても、それは幻想だと私は思う。

コントロール欲求と物欲の無意味さは、仏教でも古典哲学でも古くから語られている。それらは人生の最優先事項ではない。人生とは、いかに自分らしく与えられた時間を感謝して過ごすか、に尽きる。

一種のゲームであり、楽しめる人は楽しみ、楽しめない人がいてもそれは不自然ではないはずだ。

しかし、この世の中は資本主義経済社会なので、定量的かつ金銭的なメリットに基づいて人々は行動する。そういう社会構造だからで、人そのものが性悪なのではない。システムが合理主義と功利主義に立脚しているのであれば、そうなるのはしかたない。

が、この金儲けゲームを楽しめない人は、社会の輪から自然とはじかれてしまう。

 

上司がこの間言っていた言葉でとても印象的なものがある。

「自分ひとりでできることは限られている。いかに他人との繋がりをもつか、それによって成せる仕事の大きさは変わる。」

 

なるほど。

前半には同意する。

ひとりでできることは限られている。人間ができることには限界がある。個体の能力値もばらつきがあり、生まれつき平等ではない。それはそうだ。

だが、後半には首をひねった。

他人との繋がりを持つことによって、リソースが増える。だからできることの幅が広がる。そう考えるのは、少し傲慢ではないだろうか。

それは、自分が望むように他人が役立ってくれるから、意図している成果を創出できる、という発想だが、私はそれはコントロールできないものをコントロールできると妄信しているだけのように思う。

 

他人との本物の「繋がり」というのは、利害関係ではないのではないだろうか。

愛による「繋がり」が本物だと私は思う。

 

利用できて得をするから繋がりがあったほうがいいという考え方に、気持ちがとても萎える。

でもそうか、本当に人生を賭してでも成し遂げたい事があるなら、どんなものだろうと誰であろうと頼るのかもしれない。

それって、なんなんだろう?

経済活動と社会に関する考察

私は今売っている製品に愛着がほとんどない。エンドユーザーに届こうと届かなかろうと、大差はないと思っている。

実際そうだ。産業構造が根本的に腐敗しているので、本来公に資するべき収入体系の生命関連産業にもかかわらず、株式会社の形態をとっている。

そのせいで、売り上げを伸ばし続けて利益を生み出し続けないといけないという株主資本主義的な強迫に近い圧力を、ステイクホルダーに与え続けている。

そうなると、本当に必要かどうかわからない人にまでごり押しして売ることになる。そこに歪みが生じ、煩悩と苦痛が発生する。

しかも、本当に必要かどうかを判断するのは、こちらではなく顧客だ。顧客の自由意思が第一で、私たち営業ができるのはその一助になるかもしれない手を差し伸べることだけだ。

手を取るかどうかは、相手次第。意思決定は相手にゆだねるべきだ。

もしも手を取らないのなら、それはしかたのないことだし、それは営業のせいではない。

「伝える」と「伝わる」は違うというが、それは双方がアサーティブにコミュニケーションをとる意欲と準備ができているかどうかという話で、必ずしも伝える側だけの問題ではない。

受け取る側に準備ができていない、その気がない、それは相手の課題で、課題の分離でいうと影響できる範囲を超えている。

意思疎通の齟齬を自責とするのは、行き過ぎた自己責任感であり、アダルトチルドレンの概念でいうイネイブリングにつながる危険性をはらんでいる。

こちらが愛情をもって差し伸べたものを受け取らなくても、それはしかたのないことだと受け容れて、執着しないことが最も理想的な心の在り方だと私は思っている。

だとすると、会う気のない顧客に時間をもらうためにあれこれと時間を割くことは、私にとっては余剰分の愛で行うことような優先順位の低いことで、熱心にやるべきことではない。

 

物質的なあらゆるものは、必要最低限あれば本来はそれでよい。

人間はどうせ死ぬのだから、どれだけ資産を増やしどれだけたくさんのものを所有したように思えても、ゆくゆくはあらゆるすべてを手放すことになるからだ。

すべては今この世を生きている魂が借りたもの。天にほんの一時だけ預けられた貸与物。それが多いか少ないかで人間の価値は測れない。人間はだれもがどんぐりの背比べで、たまたま与えられたものが違っただけ、器が違っただけ。

だから、現在取り扱っている製品だけでなく、他のどんな製品でも、私はそこまで愛着を持たないと思う。

それが金銭と交換に提供された人にとって、物質的な豊かさを一時的に与える可能性があったとしても、それは本質的にその人に役立ったとは言えないからだ。

その人がその人らしく生きるために必要なのは、お金で買えるものではなく、その人が自然に心から感じる命への感謝。それが真の豊かさだ。内在的なものであるがゆえに、お金では買えない。

しかもその人のなかにすでに充分備わっているもので、感じる力を持っていて、きっかけは天によって用意されている。

だから他人が意図的に何かを施す必要は誰にもどこにもなく、あるがままに在れば、それが最も良い社会貢献だと言える。

 

だとすると、私は商売(あらゆる経済活動)にまったく価値を見出せない。

マネーゲームというただのゲームで、それ以上でもそれ以下でもない。暇つぶしにするためのものだ。

しかし、コントロール欲求に支配された人々が政を行うがゆえに、計算可能性が必要で、そのための支配システムとして資本主義経済を導入し、人々をゲームに強制的に組み込むようプログラムした。

今までもこれからも永続的に物質的に金銭的に豊かに過ごせるよう一部の人々の利益のために生み出されたのが、今の社会だ。そりゃあ、ゲームマスターはすべてを掌握した気分で実に愉快だろうが、使われるほうの我々プレイヤーが病むのは当然だ。

だから精神疾患があるし、ルサンチマンがあるし、自死や他殺がある。現代社会を生きる多くの人々を苦しめ死に至らしめるのは社会そのものだと思う。

 

在り方に関する考察

だから、経済システムからいかに離脱し、ゲームから降りるかが、最も建設的な選択ではないだろうか。

すでにそういった真理に気づいた人々は、自分たちで田畑を耕し、オフグリットを確立すべく動き出している。実に賢い人たちだと思う。

盲目的に現在の価値観と社会システムに振り回され、人間らしさを忘れたまま人生を浪費していく人は、一生懸命死に急いでいるようなものだ。

ビジネスに偽りの価値を見出し、それに傾注するのは、まさにそんな生き様だと思う。

私はそこから一刻も早く脱したがっているのか。

そうか。

 

それこそ一人ではできないので、他人との繋がりとやらが必要になってくるのだろう。

たしかに、私は今立ちすくんでいる。

この社会で生きるために家族を支えなくてはならない、そのためにやりたくもない仕事に一日の大半を捧げ、虚ろな目をしている。よくない。

 

しかし、勇気をもって助けを求め、自分が配分できる限りの愛を与える以外に、できることはないように思う。

それこそ、そうあれかしと願い、それが本当にあるべき姿なら、おのずと縁は紡がれていくはずだ。依存症とアダルトチルドレンを通じて、それは体感的に理解している。すべては、意図しなくともおのずとすべて与えられる。気づくか気づかないか、というだけ。

 

私は、生かされている今の状況と、その状況をつくってくれている顧客に、まずは感謝を届けたいと思う。

それは、私が届けたいものだ。選んで使ってくださっている稀有な方々に、ひとりひとりありがとうを伝えることは、私が心から望んでいてやりたいことだ。

まずはそれでいい気がしてきたぞ。

それなら、他人にも会いたいと思える。感謝を受け取り、私という存在に求めることがあって、私にできることなら、応えたいと思う。

他人とはそういうやり取りをしていきたい。

そういう繋がりでも、私は同じように顔も名前も忘れてしまうだろうか。

実の親ですら生きていても死んでいてもどうでもいいと思う私が、生きていてほしい、かけがえがない、と感じるだろうか。

 

それを実験してみようと思う。それが私が私らしく生きていく道につながっているはずだ。

遠回りに見えて、実はそれが最短距離だった、ということは、何度も経験してきただろう?信じて、もう少しやってみよう。

 

感謝

とりとめのないこんな文章を最後まで読んでくれた、そこのあなた。

あなたにも、ありがとう、と言いたい。

存在してくれて、読んでくれて、ありがとう。

【依存症】私はなんでお酒をやめられたのだろう

お酒をやめてもうすぐ6年になる。

私はアルコール依存症だ。

「飲まなくてはいられない」という病気なはずなのに、飲まずに生きている。

なんでだろう?なんで今、飲まないで生きていられるのだろう。

散歩していてぼんやりと思ったので、いろいろ振り返ってみようと思う。

 

しなくていい我慢しなくなった

思い返してみると、私は我慢ばかりしていたように思う。

良い学校に合格しないといけない。

良い成績を取らないといけない。

良い会社に就職しないといけない。

良い評価を得られるように仕事を頑張らなくてはいけない。

まっとうな社会人にならないといけない。

結婚して子供をつくらないといけない。

人生に失敗してはいけない。

大きな失敗しないために、他人から成功しているように見えるように、他人の目に怯えて生きていたように思う。

はたしてそれは楽しかったか?と問われれば、もちろんまったく楽しくなかった。

早く終わりにしたかった。まるで刑務所で服役しているような気持ちだった。

「義務」

それに尽きる。

たくさんの「○○しなくてはならない」に溺れるように生きていた。そんな苦しさを紛らわすためには、お酒が必要だった。そうでないと、生きていられなかった。明日が来る恐怖に耐えられなかった。

だから、浴びるように、溺れるように、お酒を飲んでいた。

生きているように見えて、死んでいた。一度今日の自分を殺すために、毎晩記憶が飛ぶまで飲んでいた。

 

私はアルコール依存症と診断されて、一度しっかり死んだんだと思う。

自分を取り囲んでいた「○○しなくてはならない」が全てポッキリと折れた音がした。

「ああ、もう全部台無しだ、ダメになった」

そう思った。

そこから、どうせ一度死んでいるのだから、生き直そうと思った。

自分は自分以外のことのために、精一杯やった。

だから、ダメでもともとだし、もう一回生き直してみよう。

今度は自分の気持ちに正直に、生きてみよう。

 

そこから私の人生はもう一度スタートしたと思う。

それからも再飲酒は何度もあったし、間違いは数えきれないくらいあった。

でも、まだ生きている。

今日を生きるために食べて動き、明日を生きるために寝ている。

以前の私とは比べ物にならないくらい、積極的に生きている。

 

お酒を必要とする人 と しない人 の違い

妻はお酒を飲まない。

別に病気でもないから、飲んでもいいのに飲まない。

「私に気を遣わず飲んでもいいんだよ」と言っても飲まない。

「飲みたくないから飲まない、飲む必要がないから要らない」という。

 

私は不思議でたまらなくなって、一度聞いてみたことがある。

「私にとっては、お酒は脳を物理的にシャットダウン(鎮静)して現実を忘れさせてくれる魔法の飲み物のように、当時は思っていたけど、酔うことが気持ちいいと思ったことはないの?」

妻は不思議そうに考えながら言った。

「気持ちいいと思ったことない。風邪ひいたみたいに具合が悪くなる、いつもの自分の感覚じゃなくなるから、気持ち悪い。ちゃんと現実を感じられないほうが嫌じゃない?」

 

これは私にとっては目からウロコだった。

現実を感じられないほうが嫌?

いつもの自分の感覚じゃなくなるから気持ち悪い?

全部逆だ。私は現実なんて消えてほしいし、もうこれ以上不愉快な感覚を感じたくないと思っていたのに対し、妻は「現実」や「感覚」は知覚していたい世界だったのだということだ。

現在の私に通じる。

相変わらずADHD/ASDだし、現代社会なんてクソくらえだと思っているし、仕事にやりがいもなく超絶めんどくさい。不毛なことだらけのこの世界が基本的には大嫌いだ。早いとこ滅びて全部壊れてしまえばいい、と正直なところ思っている。

しかし、生きる実感、「現実」や「感覚」を受け容れている。

酒を飲むことによるデメリット(体調不良・社会不適合・死)があるから飲まないのではなく、感じていたい世界を余計な物質を摂取することで変に歪めたくないから飲まない。

何を感じていたいかと言えば、ご飯がおいしいとか、運動してスッキリしたとか、風が気持ちいいとか、小鳥のさえずりや樹々の葉擦れの音が美しいとか、そういう慎ましい歓びだ。

ただ、生きている。その奇跡があって今たまたま受け取れる、多種多様な美しい情報。

生きることに意味や効率を求めたりせず、他者評価や金銭欲に目を眩まさらず、ありのままに自分と世界を観察すると、そこには小さくても確実に歓びがある。

酒を飲んでいた当時は気づかなかった。

義務と意義と他人の目。そんなものにばかり心を奪われて、それこそ私は「現実」を生きていなかった。「現実」だと思っていた嫌な世界は、私の心が創り出した地獄だった。

自ら創り出した仮想の地獄を忘れるために、私は酒を飲んでいたんだなぁ。

とんだ独り相撲じゃないか。笑える。

 

まとめ

酒を必要とする人は、他人に決められた何かを価値基準にし、『変えられないもの』を変えなくてはならないと思い込んで地獄を生きている。

酒を必要としない人は、自分で選んだ価値観にしたがって生き、『変えられないもの』を受け容れて、自分の感覚に正直に『変えられるもの』に集中して生きている。

これが違いだ。

だから酒を必要とする人(昔の私)は、誰かのせいでこうなっているとどこか恨みを抱え、生きるにしろ死ぬにしろ、自分の生死のどちらにも責任を持てないでいる。嫌々生きているが、死ぬのも誰かのせいにしないとできない。

それはたいそう不自由で、一秒一分が常に苦しい。だから酒でなんとか誤魔化さないととてもじゃないが一日一日を乗り越えられなかった。

私は回復の過程で、私が本当に大切にしたいことがわかってきて、それ以外の問題っぽいものは実は問題ではなく、人生においてそれほど気にしなくていいとわかった。

呪いのように背負ってきた地獄という妄想を手放すことができたから、今酒をやめられているのだと思う。

 

 

 

【依存症】『弱い人ほど他人を責める。』なんて書いたけど

 

まぁ耳が痛い。

私のことだから当然なんだけど。

 

「親のせい」

「酒のせい」

「社会のせい」

と他責にして攻撃してきたのは、他ならぬ私だ。

 

親が自分の問題に真摯に向き合ってくれていれば、子どもたちはACにならずに済んだかもしれない。

この世に毒物である酒が存在しなければ、この世にアルコール依存症はなかったかもしれない。

この社会が善意と愛で構成されたまともな社会なら、生きづらさなどなかったかもしれない。

そんな「○○なら、○○かもしれない」が私のなかにはたくさんあった。

(私にとって)正しくない他の要因が悪い、と顔を真っ赤にして怨嗟の声を浴びせていた。

 

それで楽になったか、といえば、そうでもなかった。

誰かを何かを責めていれば「私は悪くない、私は被害者だ」と思えて、その瞬間は楽になれた気になる。

でも、結局どれだけ責めて悪いところをあげつらったところで、私はACでアルコール依存症で発達障害でこの社会では生きにくい性質を持っていることに変わりはない。

どれだけわめいても、結局はなんとかこの浮世を生きていくしかない。

責めたり断罪したりすることに時間と体力を使っている間、自分は今いる場所から少しも前に進んでいないことに気づいた。

もちろん、大切な時間だった。

自責に傾倒していた私の責任感は、それまでの反動もあって他責に一気に振り切れた時期があった。そんな極端な時期を経たからこそ、今バランスを取り戻したといえる。

だから、ダメだと言うつもりはない。無駄だとも思わない。そう考える時期が必要だった私だ。他人をハチャメチャに責める時期があるのは当たり前で、むしろ自己防衛のためには仕方ないと思う。

 

『弱い人ほど他人を責める。』なんて書いたけど、みんな弱くてもともとだからさ。

私は少なくとも、強くなかった。弱かったよ。というか今も弱いよ。

誰かや何かのせいにしたくなるときだって、生きてればいくらでもある。

 

そうやって責めて責めて、飽きるくらい他人の欠点や過失をあげつらって最終的に思ったのは、「でも、いつまでもこれやってても、どうしようもないよな」ということ。

 

私は結局「私はダメじゃない、他人に認められたい、社会に許されたい」と思っていただけだったんだよな。

だから依存症はダメな人がなる病気なんかじゃないと啓発したかったし、偏見を持たれることに堪えられないと感じた。私が間違ってるんじゃない、世の中が間違ってるんだ、と言いたかった。

 

でもそもそも、それは私が私のことを心から認めさえすれば、全て解決する、気持ちの問題だと気づいた。

他人がどう思おうと、社会が誤解していようと、突き詰めて考えれば、それは割とマジでどうでもいいことだった。

 

他人や社会の評価を気にすることが問題の本質であって、私の病巣だった。

自己存在証明と価値判断を他者の評価軸に委ねることが、私の不安や恐れの源泉だった。

 

他人がどれだけ私がダメ人間だと思っていても、私が私のありのままを肯定する限り、私を否定することはできない。

私の自己評価は私にしか決められない。私が私を否定しない限り、他人がどう思おうがそれは何の影響も及ぼせない。

嫌おうが好こうが、それは自由にしてもらえばいいことで、他人のなかの話。

 

社会がどう扱うかも、同じことだ。

精神に様々な病巣を抱えた人々が構成した、経済原理で動く虚ろな空間。それが「社会」。

その異空間のなかでの位置づけがどうであろうが、私そのものには何の影響もない。認められる必要もないし、差別をなくす必要もない。というかそこはコントロールできない。

構成員の大多数が病んでいて、彼らの現実逃避のために起こっている現象が「差別」や「偏見」であり、その現象をどう解釈するかは私次第だ。

「いやいや差別されて職業が限られたり、謂れのないことを言われて尊厳を傷つけられたり、経済的に損するでしょ?」と思うかもしれない。

そもそも病んだ社会にわざわざ適応することなくね?と思う。

受け容れてくれない、ちゃんと扱ってくれない社会とは程よく距離を置いて、現代社会に精神的にも金銭的にも依存しない在り方を模索し、分かり合える人たちを見つけて関係を創り、穏やかに暮らせばいいだけ。

私たちを認めさせよう、というのは、ヒエラルキー構造の社会で最下層以外になろう、というのに似ている。

私たちを認めさせても、社会はまた別のカテゴリをみつけてきて最下層をつくる。

経済で社会システムが回っている限り、勝ち負けと損得の原理で誰かが負け組になる。

社会とはそもそも破綻していて、壊れている。だからそのなかの椅子取りゲームには固執する必要がない。

椅子が欲しい人にはどうぞどうぞと譲って、死ぬまでゲームに明け暮れていてもらえばいい。

私たちはさっさとつまらない無意味なゲームから降りて、そんなことよりもっと大事なことに時間とエネルギーを使えばいい。

 

このように、事象をどう解釈するか、で世界の見え方は変わり、社会との関わり方は選べる。

そうなると、別に誰かを責めなくてもよくなる。何かのせいにしなくてもよくなる。

そもそも自分自身のなかで必要が無くなるから。

 

私が弱くて誰かや何かのせいにしなくては立っていられなかった時期があったように、ときには私を責める人もいるだろうし、自分のなかの正義を振りかざして断罪する人もいるだろう。

それは、当時自分自身の問題に向き合えなかった私の父母のようでもあり、酒や金なしでは回すことができないほど深い業をはらんだ社会のようでもある。

 

誰もが、どうしようもなく生きることに一生懸命で。

だからまぁ、そうなることもあるよね、しかたないよね、と思う。

私もそうだから。そうだったから。

 

誰もかれもが、いつかの私であり、これからの私。

だから私は誰も憎まなくていいし、誰も排除しなくていい。

誰かに向けて上から目線で放った言葉は、だいたいブーメランみたいに自分に返ってくる。

これから私に返ってくるブーメランは、どんな切れ味だろうか。

親しみを込めて受け止めたい。当時の私の弱さを抱き締めるように。

あんまり鋭いやつが返ってきたら、しゃがんで避けようと思う。

【メンタル】無理をして好かれようとしなくていい

とても穏やかに日々を過ごしている。

身体は健康だし、光も匂いも感じる。

欲や恐れに振り回されるでもなく、日々をのんびり有難く生きている。

 

なにより背伸びをしなくなった。

他人にどう思われようが気にしなくなった。

無理して自分を良くみせようとは思わなくなった。

何か成果をカタチにして認められなくてはと自分を追い詰めなくなった。

 

そんなことは必要がないと気づいたからだ。

 

今までの私を振り返ると

今まで私は、自分がどう思うかより、私が他人にどう映るかを、気にして生きていた。

内心、ひどく怯えていたように思う。

嫌われないように、なめられないように、自分を温厚に見せたり強くみせたりしようとして、一生懸命虚勢を張っていた。

そうやってどこか敵対するような緊張感をもって、他人と接していた。

だから他人に会うと、ドッと疲れた。私にとって人の群れに混ざるのは、戦争の最前線に赴くようなものだった。

 

そうやって勝手に緊張して、勝手に疲れて、自分の感覚というか心の声を蔑ろにしてきたように思う。

他人の視線にばかり気を配り、自分自身に配慮しなかった。自分の心の声はいつも無視されっぱなしだった。

だからいつも疲れていて、イライラしていた。

 

なにが転機だったか?

エピクテトスやマルクスアウレリウスをはじめとしたストア哲学に触れたあたりだろうか。

あるいは岡本太郎先生の著書を読んだあたりだろうか。

 

「私にはどうしようもない、気にしても仕方がないことを、いくら気にしていても結局しかたない。」という心がストンと落ちてきた。

いや、もっと丁寧に表現するなら、心がもともとあった場所に降りてきた。久しぶりに帰ってきたような感覚。

スッと馴染んで落ち着く。寒い夜にやっとのことで家に帰りつき、温かいココアを飲んだときの、染みわたる安心感に似ている。

 

今まで無理やり論理的に考えて「気にするべき要素ではない」と自分を説得していた。

しかしそれは真の理解ではなく、誤魔化しだった。

事実、仕事を評価される場面で私は一喜一憂していたし「認められたい」「バカにされたくない」という気持ちに内心振り回されていた。未熟だった。

 

変えられないものを受け容れる落ち着き

ああ、本当に、どうでもいいことだったんだ、と思った。

 

神様、私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変えていく勇気を
そして、二つを見分ける賢さを

二ーバーの祈り

 

変えられないものを、私は変えようとしていたのか。

だから苦しかったのか、と。

 

自由に至る唯一の道は『我々次第でないもの』を軽く見ることである

エピクテトス

 

私にできることは、意思に基づいてどう行動するか、現実をどう解釈するか、そのくらいしかない。

それ以外はほとんど自分のコントロール下にない事柄だ。

いつの時代に、どこに生まれて、どう育てられるかなど、選べない。

それと同じように、他人にどう思われるか、どう見られるか、ということは、私にはどうにもできないことだ、とわかった。

 

そもそも、他人の心の中にいる「私」は、私じゃない。

その人から見た架空のイメージとしての「私」であり、イコールじゃない。

厄介なことに、そのイメージは発想者により必ず歪む。

被写体をとらえるレンズのようで、そのレンズは発想者の心の傷や想いを一緒に投影する。

むしろ映しているのはその人自身と言える。

 

 

だから、他人が何か「私」を主語に「私」についてあることないこと言っていたとしても、実はそれはその人のその人自身についての感想であって、私は何も言われていないのと一緒ということだ。

つまり独り言だ。

独り言に相槌を打つ必要はない。それと同じように、他人が私についてアレコレ言っていたとしても、応じる必要も反論する必要もない。

「あなたの中でそうなんだね」で基本的には終わる。

もちろんその感想のなかには、私にはない視点からの気づきをもたらしてくれることもある。

そのときは「それは気づかなかった、教えてくれてありがとう」である。

要するに、他人の評価というのはその程度のものなので、そんなに重苦しく考えるものではない、ということ。

私が「違うなぁ」と思えば違うし、「そうだなぁ」と思えばそう。

 

他人から何か攻撃的なことを言われたり、馬鹿にするような言葉を言われたとして、その言葉やその人に腹が立つのは、自分が「そうだなぁ」と内心思って認めているからだ。

 

幼い子供が「やーい、ばーか」と言ってきても、あなたは怒らないでしょう?

それは相手が子供であなたのことをちっとも知らないで言っていると思えているから。

「そんなこと言うけど、私はバカじゃないよ」とあなたの心が堂々と答えている。

 

じゃあなぜ大人に「おまえはバカだ」と言われると腹が立つかというと、「私はバカだ」と認めているから。

それは、発言した他人が振りかざす権威、つまり社会的地位などから「自分よりも正しい見方をしている」と思い込んでいるため。

そんなことはありえない。

あなたのことを一番よく知っている一番のサポーターは、あなたなんだから。

どっかの偉い人よりも、育ての親よりも、あなたはあなたのエキスパートである自信と自覚を持っていい。あなたが「そうじゃない」と思えば、「そうじゃない」が正解だ。

そうじゃないのに勘違いして見当違いな発言をしているのは、他人のほうだ。

だから「フフフ、勘違いしちゃって」と思って聞き流しておればよい。

 

偏見やレッテル張りも同じように無視でいい

同じような理由で、私は依存症についても、全く気にならなくなった。

依存症のイメージがその人のなかでどうでも、私にはどうしようもない。

「私は当事者としてはこう思っているし、学説としてはこういう病態ですよ」と、私なりの解釈と事実と思しき知識はできるだけ伝わるように工夫して伝えるかもしれないが、それが他人のなかでどう消化されるか、どう伝わるかは、他人の問題。

ましてや社会に、私の解釈や知識が浸透するかどうかなど、とうに範疇を越えている。

メディアのイメージ戦略やプロパガンダをそのまま信じている時点で、物事をそんなに深く考えていない。本当に賢ければ、自分の目で現場現物を見る。自分の耳で当事者に話を聞きにくる。

偏見を持つのは偏見を持ちたいからで、その人自身が問題を抱えていることの表出のひとつ。

他人を下に見る必要がその人の内部にあるから、無意識的に飛びつく。あらためて調べないし、見方に偏りがあるのではないかという疑義が生じない。要は実態などどうでもよく、その人にとっては自分より下の存在を調達できればいい。ただそれだけの理由。

だから、せめてもの慰みに、その勝手なイメージを抱いていればいいよ、と思う。

私が額に汗して説得する必要は全くない。

耳を傾けて無駄なエネルギーを浪費する必要もない。

本人が本人のためにやりたくてやっていて、私という人間をしっかり見て言っているわけでは無いのだから。いわばオナニーだ。一人で好きなだけしといてもらえばいい。

その勝手なイメージが多数派だろうが、かまわない。多数決で多数だからといって正しいわけじゃない。いつも正しいかどうかは自分のなかの良心でしか判断できない。

どう思われようが、私がやることに変わりはなく、私の人生に変わりはない。

 

結論

【AC】自分の課題をみないために他人の課題をみる

“人生で一番責任を取らなければならないのは、自分の福利(良い状態にあること)と幸福である”

これは『ACのための12のステップ』のSTEP4「自己憐憫」に記載されている一文である。

同じSTEP4の課題である「過剰に発達した責任感」にも通じる。

読んだらそりゃそうだよね、と思うけど、これがなかなか難しい。少なくとも私にとっては、とても難しいことだったように思う。

 

弱さという鎧

私は自分を自分で否定することで、つまり積極的に「弱さ」を纏うことで、自分を守っていたんだと思う。

「自分は価値がない最低の人間だ」と自分が自分に言い聞かせることで、もし他人からそう言われても傷つかないように予防線を張っていた。

「ほら、やっぱり。知ってたよ。」と、他人の言葉が与える冷たい痛みを軽減するために、これ以上痛まないように、言い聞かせていたんだと思う。

実際には、面と向かってそんなひどいことを言われる機会などほとんどない。

他人は自分のことに興味があるわけじゃない…うーん違うな、興味がないというか、ほとんどの他人は私がそうであるように、自分のことだけで精いっぱいなんだ。

それに他人が見ている自分というのはいつも虚像で、私自身とイコールじゃない。

その虚像は、その人自身を投影している、他人のなかの産物に過ぎない。

罪悪感とか病的な囚われとか、そういうネガティブなもので容易に歪み、実像とはかけ離れていく。

だから、誹謗中傷というのは、他人が「自分ではない誰か」のことを悪く言っているのと、そんなに変わりがない。

つまり、あんまり気にする必要がない。

指摘している内容が「あてはまるなー」と思ったら感謝して素直に受け止めて改善すればいいし、「ちがうんだよなー」と思ったら聞き流せばいい。

反論する必要もない。その人のなかの私という虚像のイメージをいくら良くしようとしたところで、それは私が影響できる範囲を超えた現象であり、叶わない。私には「変えられないもの」だ。

「どう思われるか」という変えられないものを変えなくていい、ということ。

変えられるのは今ココからの自分の在り方と行動だけ。そして変えるかどうかはいつもいつでもその人自身に選択権があり、その意思は誰にも奪えない。

私が私を好きだと思うのは自由だし、最低だと思うのも自由。

「“他人からどう思われるか”が変えられないものであるがゆえに軽い」と気づいた今、私は自分を否定して弱さで武装する必要がなくなった。

私自身、アルコール依存症も今までの人生も全部ひっくるめて、その時を全力で生きてきたと思う。

間違いもたくさんあったし、他人を傷つけてきたけれど、それでもそれは私は私なりに全力で向き合い生きた結果だと思う。

だから私は私自身を否定しなくなった。そして、やっと好きだと思えるようになった。

「弱さ」という鎧は必要なくなった。

 

ACにしても、私は立ち位置の捉え方を誤っていたように思う。

機能不全家庭の「被害者」という弱さ、つまり正義を理由に、親という他人をボコボコにするというのは、加害者的というか嗜虐的な側面がある。

「自己否定」というかたちで自分に向けていた牙を「自己憐憫」という牙に変えて他人に突き立てる。

それは、回復しているようでいて、回復とは程遠い姿だったと思う。

確かに私は親の不健全な療育のおかげで苦しんだ。それも事実。

でもそれは親も親なりに(病んでいたとしても)全力でやったことだった。それも事実。

幼少期の私はつらかったということに向き合い、本当の意味で消化し受け容れて、親に対して憎しみや恨みを抱くことをようやく手放すことができた。

「親の被害者」としての人生から、「わたし」の人生に目を向けたからだ。

アルコール依存症になったのは、この世のお酒があるからいけなかったのか?

いや、自分がお酒を飲まなくては立っていられないほど病んでいたからだ。お酒を世の中から消すことはできない。

病んだのは、親がACを自覚せず過干渉(世話焼き)という虐待(加害)を加えたからか?

いや、それは確かに私の病的な振る舞いを構成する主要な要素だったが、今の私は「私の人生を生きる」という選択肢を選ぶことができる。ずっとその被害者というポジションを手放さなかったのは、自分の人生に目を向けるのが怖かった私が望んで選択したことであり、選択した理由は私にとってメリットがあったからだった。

全てを誰かや何かのせいにしてそれをいつまでも繰り返し責めていても、自分自身は一歩も前に進まない。

 

自分の課題をみないために他人の課題をみる

他人の課題に目を向けていれば、自分の課題に目を向けないで済む。

芸能人のスキャンダルなどに飛びついてはあれやこれやと正論をまくしたてる人がいるが、まさに自分の課題から目を逸らしている典型的な状態だ。

何を隠そう、私も恥ずかしながら、その類いのひとりであった。

気にくわない世の中、組織、人間に嚙みついて正論を言い、自分の課題をみないようにしてきたひとりである。穴があったら入りたい。

他人のここがよくない、あれが悪いと指摘するのは、実に気楽だ。

他人の人生は他人のもの。自分には責任がないので、好き放題いえる。

そして、指摘しているときはその人よりも上に立ったように錯覚できる。

「間違った人間に説教をしてやっている」という場面設定に陶酔して、マウントが取れる。

自分が少しマシな存在になったように思えて、自分の人生に対する不安や恐れが軽減される。

自分を見る勇気がなければないほど、その勇気の無さすら覆い隠すために、他人に上から目線で干渉する。

それはただの有難迷惑でしかなく、相手は私を認めるどころか逆に呆れたことだろう。

他人のためを思ってやっているという大義名分とは裏腹に、他人の役に立つこともほぼない。

 

親切と過干渉は紙一重

求められてもいないのにアドバイスするとき、私は「自分の課題をみないために他人の課題を見ている」状態だ。

前述した私がやってしまった有難迷惑の多くは、そんな状態で行われたことだった。

私にできることはせいぜい、相手が相談してきたら「私の場合はこうだったから、少なくとも私はこう考えているよ」と伝えるくらいのものだ。

たいていは、その人自身がその人のタイミングで気づくべき時に気づく。私にできる事はほとんどないと言っていい。

その人がプライドが高い人で、自尊心が邪魔をしてなかなか他人に助けを求められなかったとしても、生きる意思が、内なる良心が、いつか困難を契機にその殻を破る、そして、そのとき頼るべき人を頼る。

その人自身に内在する力を信じているので「見守る」ということができる。

 

子どもを見ているとよくそう思う。

この世に産まれて少ししか経っていないということは、経験が絶対的に浅いということで、なにをやるにも危なっかしいし、たどたどしい。

より確実に目的が達成できるよう「こうすればいいんだよ」と横から手を出したくなる。

しかし、それをせずにじっと見守っていると、子どもは試行錯誤しながら自分でできるようになっていく。

どうしてもできなくて助けが欲しいときは「できないから教えて」と周りに救難信号を発信する。

そういう力があるのだ。そもそも備わっているのだ。それを根本的に信じなくてはならない。

自分の意思で助けを借りるのと、勝手に横から手を出されるのとは、全然違う。

前者では、自らの意思で助けを得る選択をしている。自分で選んだ道筋だから、得られた結果や納得できる。達成したという実感を享受できる。

後者では、工程が奪われて結果が贈呈されるので、自分で選んだ、自分でたどり着いたという自己効力感がない。

「あなたなら自分で気づき、自分でたどり着くと信じている」というメッセージ。それこそが愛情である。

 

親切でアドバイスしてやっている、と悦に入っているときは、自分の課題をみないために他人の課題をみているとき。本当の意味でハイヤーパワーを信じられていないとき。

 

他人のことは他人に任せよう。

頼られたなら、そのときはじめて可能な範囲でこたえればよいだけ。

自分の人生の福利と幸福に集中しよう。

それが何よりも他人のためになる。

 

 

【雑談】この狂った世の中で大切にすべきこと

今の世の中は基本的に狂っていると思う。

人の命を摘み取ることが平然と行われているし、その歪んだ社会に生きる人も病んでいる。

社会不適合者というが、そういうふうに社会から蔑まれている人たちほうがまともなんじゃないかと思う。

 

今の社会に適合している人は、どこか麻痺している。

経済的な成功を追いかけたり、他人の評価を追いかけたりすることが称賛されて、自分が成功するためなら他人を踏みつぶしてもかまわない。

そんな人間味のない生き方に疑問を抱かない。

あるいは疑問を持つと生きていけないので、あえて考えない、感じないようにしている。

そんな、もともと麻痺しているか、あえて麻痺している人であふれている。

 

追いかけている成功というのも、とても不確かなものだ。

お金をたくさん稼いだから偉いかといえば、そうではない。

お金は必要最低限あればよいもので、持ちすぎると毒になる。

他人の評価を得ているからといって、それが正しさの証明になるわけでもない。

他人が見た自分というのはどこまで行っても虚像であって、自分自身ではない。

自分のことは、自分でもわからない。ましてや他人がよく知るわけもない。

よく知りもしないのに、見たいように見て、好きかって言っているだけだ。

そんな幻想をどれだけ良いものにしようと躍起になっても、虚しい。

砂浜で砂の城を一生懸命つくっているようなものだ。いずれ波にさらわれる。そうでなくても時が経てばもろくも崩れ去る。

追いかけて、自分の努力のおかげで手に入れられたように錯覚できると、幸せを感じるだろう。

しかしそれは、すべて運のなせる業で、自分の功績のようで誰かの何かのおかげだったりする。

 

世の中のあらゆることはほとんどコントロールできない。

偶然生まれたこの世の中が狂っていることは、私のせいではない。

たまたま私が生まれて、たまたま世界が狂っていただけ。

世界をどうこうしようとはしないことだ。

社会を変えようなどというのは非常に傲慢なことだ。

私は私が思うところを、どれだけ弾圧されようと正直に率直に伝えるだけだし、非暴力不服従で自分の在り方を貫くだけだ。

結局、変えられるものとは自分自身のありようだけなのだ。

他人がどう思うか、どう動くかは、他人の範疇のことで、私にはどうすることもできない。

私ができるのは、ただ良心に従ってできる範囲の手助けをすることだけ。

家族に対しても、仕事でも、すべてがそうだ。

「助ける」というのはおこがましく、私が関わって何かをしたらその人が「勝手に助かる」。

私自身の影響というのはそれだけちっぽけで脆弱なものだと思う。

その人そのものが持っているエネルギーは計り知れない。

そのエネルギー、存在するだけでとてつもない価値もっていることを、その人が見失っているだけ。

 

その原理原則を忘れて、自分が他と比べて強大だと思い込むと、過干渉をしたり病気になる。

人間である限りその個体に大した差はなく、比べることはばかばかしい。

ゲームとして楽しむ分にはいいが、他者比較を生きる軸にしてしまうととても苦しい人生になる。

そういう意味では、生命活動に関わらないすべての活動は余分であり、メインではない。

生命活動とは、生命本来のやるべきこと。

食べる。食べるために種を植える。狩りをする。その命の有難みをかみしめる。

寝る。愛する人と愛し合う。肌を重ねる。存在を互いに尊ぶ。

子供を育てる。自分が庇護すべきか弱い血族を外敵から守る。

自己表現。自分という存在を外界に表現する。会話でも音楽でも絵画でもダンスでも文章でも動画でも何でもいい。自分という内的宇宙を第三者に露出すること。

大事な活動はそのくらいだ。

これらを実現するために貨幣が必要になっているのが、この貨幣経済社会なので、お金に価値を置きがちだが、本来なら貨幣によらずとも成立する活動ばかりだ。

なので、お金そのものには実は価値がない。

必要以上のお金を得るために、お金を貯めるために仕事をすると心が空虚になるのはそのためだ。

価値がないものを一生懸命集めるために人生の貴重な時間を浪費することに、心がうすうす気づいていて「もうやりたくない」と悲鳴を上げる。

それでもその声を無視し続けて頑張り続けると、次第に心の声は聞こえなくなって、空っぽになる。

 

食べ物を自分で育ててみるもの良いだろう。

家庭菜園を始めて、土に触れ草木に触れ、それを食べる喜びを知った。自分で育てて自分で調理した野菜は本当においしい。心に届く。

他人が全くいないとしたら、そんな風に想像して「本当に必要なもの」以外を手放してみるのもいいだろう。

高価な時計、良い車、ピカピカの靴、高いスーツ、ブランドのバッグ、そんなものは、特に必要がなかったことに気づく。

世界を感じられる健康な心と体があって、今日一日食べるものと寝る場所がある。

人はそれだけで充分幸せなのに、それ以上を望んで自ら進んで不幸になる。

 

まずは他人と比べるのは無意味で無価値だと知ること。その評価軸を手放すこと。

そしてお金から離れること。できるだけお金を介さないで価値を感じられる活動を増やすこと。

大好きな人に「大好きだよ」と面倒くさがらず言葉にすること。逆に他人を攻撃して自分の不安や恐れを打ち消そうとしないこと。結局は自分に返ってくる。

一日でも早く、そうするといい。

 

 

【子育て】育児してるだけですげぇ

マジで時間が取れない。

いつの間にか一日が終わり疲れ果てている。

自分の時間を確保できるのは早朝か深夜だけど、それも子が起きてしまえば寸断されて台無しになる。

 

こんな環境のなかで家事もこなすのは、至難の業。

専業主婦の人を本当に尊敬する。

シングルで仕事しながら家事育児してる人は神だと思う。

とても真似できない。スゲェよほんと。

 

独身、あるいは子供がいない夫婦だけの生活って、すごく恵まれていたんだなぁ、としみじみ思う。

自分のペースで生きられるってだけでありがたすぎる。

当時は当時で大変さはあったけど、自分で生活を組み立てられた。主導権が自分にあった。

子供が産まれたら、子供たちが最優先になるから、どうしても生活が組み立てにくい。

自助グループにしても、行く時間を確保するのが困難。オンライン自助ですら、何かアクシデントがあったら役割もままならない。

なんとかできる範囲で、できる限りのことをやるしかない。

 

このへんが、育児の経験がない人にはなかなか想像ができない。

独身時代は私もできなかった。

長期の連休明けに「休みはゆっくり休めましたか?」なんてずっとボケたことを言っていた。恥ずかしい。

小さい子どもがいる家庭の長期の連休は、戦場だ。

むしろ「長期連休、おつかれさまでした…お互い生き残りましたね…」くらいがしっくりくる声かけだ。

「ゆっくり休めましたか?」と言われると少しイラっとするもん。「休めたわけがねーだろうが」と。

独身の社員、妻に丸投げして子育てしてこなかったであろう男性社員が、能天気に「休んだし今日から仕事だぁ!」みたいなテンションで「休めましたか?」とウキウキ絡んでくるのが本当に疲れる。マジでやめてほしい。

 

なんとかやりくりすれば時間作れるでしょ?その努力が足りないだけでしょ?

そういう輩に限ってこんなふうに言うけど、できる人もいればできない人もいて、できないほうが多数派じゃないかな?と思うよ。

やりくりして作っても潰されることは多々あるし、努力でなんでもかんでも解決するわけじゃない。

賽の河原で石積みをしている人に、

「鬼が見てない間にササっと積んだらいいんだよ」

「積む技術を磨く努力が足りないだけでしょ?」

と安全な下界からヤジを飛ばすようなもんだ。

そんなに言うなら代わりにやってくれって思うわ。笑

 

今しかない小さい我が子の表情。

今ある輝きを楽しむしかない。

過ぎ去ってしまうと「あの時は良かった」などと未来の私は今の私の気持ちを忘れて無責任に懐かしむのだろう。

あんなに恵まれていた独身時代には家庭を持つことに憧れたように、だいたい人間はいつもいつでも無いものねだりをするものなのかもしれない。

 

自分がやりたいことは、できる範囲でできる分だけやるのがMAX。投下可能時間としては最大なのだから、その限られたリソースで発揮するパフォーマンスが、そのときの100%。

諦めずにやろうとする気持ちを捨てない。そんな自分を褒め称えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

【依存症】私が偏見を気にしなくなった理由

アルコール依存症。

そう聞いて、みなさんはどんな印象を持つだろうか。

だらしない?

人生負け組?

ダメ人間?

 

「私はアルコール依存症です。」

私がこうやって病気のことを知らない人に打ち明けると、反応は様々だ。

 

「まずいことを聞いちゃったな」と慌てて話題を変える人。

「へーそうなんだ」と露骨に態度が変わる人。

「あれってどんな病気なの?」と素直に聞いてくる人。

 

その人のなかに『アルコール依存症』のイメージがあり、そのイメージがその人のなかの私のパーソナリティに反映される。

各々が持つイメージが様々だから、反応は聞いた人によって異なるのだろう。

 

基本的に依存症という病気のイメージは偏見と誤解にあふれている。

マスメディアが作り上げたマイナスイメージに引っ張られていることが多い。

 

国民にとって良くない法案を閣議決定をするとき、国民に騒がれたくないので、覚せい剤や大麻などの薬物を使用した芸能人逮捕のニュースを報道する。いわゆるスピン。知る人ぞ知るお決まりのパターン。

権力者側の都合で情報は歪められる。現代社会の常だ。

「覚せい剤」という単語を聞くと、多くの人は反社会的なイメージをもつのではないだろうか。

実は敗戦当時、覚せい剤であるヒロポンやゼドリンは大手をふるって市販されていた。そんなことは教科書に載ってないし学校では勉強しないからほとんどの人が知らない。製薬会社が販売するのを政府は大っぴらに認めていた。帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)をごまかすのにちょうどよかったから。

昔は合法で巷にあふれていた。今使うと違法だからと袋叩きにされる。

確かにアンフェタミンは依存性があるしその当時乱用がかなり問題になった。

しかし、今合法薬物として国内に出回っているアルコール(酒)はどうだろう。

アルコールは自分と他人に対する害が全ての薬物のなかでNo.1の最悪の薬物で、依存性があり、乱用が問題になっている。

けれど、アルコール(酒)は違法にならない。タバコ程度の害しかない大麻は違法なのに。不思議だよねぇ。

答えは、酒もたばこもたくさん課税できて政府が儲かる産業だから。

違法か合法かは、薬物の危険性とは相関しない。

法律はルールだけど絶対に正しいわけじゃない。必ずしも実態に沿って善意で定められているわけじゃない。

だから、違法なものを使ったからといって、その人の人間性がダメなわけがない。たまたまその人にとってどうしても必要だったものが、社会のルール上違法っていう扱いだっただけ。

 

そういうことを考えない人は「とにかく違法だからダメ」「違法なものを使う人はダメな人」と思ってイメージで他人をジャッジする。

正直言って、そういう人はたいしたことないなと思う。あんまり深く物事を考えない、言われたことを疑いもしない、自分が間違っているかもしれないという謙虚な内省を行わない。

もちろん、情報に触れる機会がないと理解する機会もないので、運もあるだろう。

でも、本当に賢い人は「本当にダメなのかな?」「なんでダメなのかな?」「本当は別の理由があるんじゃないかな?」と裏の裏まで考えて、自分で能動的に調べる。

そういう人はちゃんと情報にたどり着く。背景を知ろうとする。

だから誰かがコントロールしようとして流している恣意的な情報に左右されにくい。

このコロナ茶番ではっきりしたよね、その辺は。

わかる人にはわかるっていうこと。

 

アルコールについてもそう。

酒を飲んだときにその人の本性が現れるとか、飲み方がだらしないのはダメな人間だからだとか、偉そうに言う人がいるけど、本当によく調べて自分の頭で考えていれば、そんなふうに誤解したりしない。

知らないし、知らないかもしれないと調べることもない人が、偏見をもつ。

つまり依存症に対する偏見とは、当事者が抱える問題ではなく、非当事者が抱える課題であり問題だ。

偏見を持たれるからといって、当事者である私は特に気にしない。

「よく知らない人が、いい加減なことを言っているなぁ、知る機会がなかったんだなぁ、かわいそうに」と思うだけだ。

私が非当事者に情報を手渡したとして、知りたいと率直に思って聞いてくれる人は理解してくれるし、逆に聞く気がない人は全然理解できない。冒頭にある通り、反応は様々で、それは受け手の知能にかかっている。知能というか「私を本当に理解しようとしているかどうか」にかかっている。

いくら「本当はこういう病気なんです」と声を大にして発信したとしても、相手に受け取る気がなければ伝わらない。

詰め込み教育ばかりを施されてきたこの現代社会というのは、残念ながらそういう消極的な情報の受け手の集合体なので、社会を変えるというのはほぼ困難と言っていい。

変えられないものを「なんで変わらないんだ、偏見をもたれて苦しい」と嘆いていても、しかたがないよなぁ、と思う。

そりゃ理解されなくて悲しい気持ちになることもあるけど、それはもうしょうがないじゃん。だって相手が理解できないし理解する気がないんだもの。

変えられないものを受け容れる落ち着きをもち、変えられるものを変えていく勇気を持つほうが建設的。

変えられるもの、つまり、自分の在り方を考えるほうがいい。

つまり、偏見を持つ人がいる現実を受け容れて、特に気にしないという在り方をとるということ。

 

偏見を持つ人の問題は、その人の問題で、私の問題じゃない。悩む必要がない。

どうでもいい人が私を誤解していても、どうでもいい。

一ミリも私の価値を上げ下げしない。好きなように勝手に誤解していればいい。

わかってくれる人だけ、わかってくれればいい。

わかってくれる人は、賢く優しい人が多い。そういう人は私が付き合いたい人なので有象無象のなかから友人候補を分別でき、むしろ無駄な付き合いを省けるのでちょうどいい。

アルコール依存症というステータスは、私にとって「人との相性診断ができる便利なリトマス試験紙」くらいに思っている。

 

古今東西あらゆる哲学者が、承認欲求との付き合い方について説いている。

なんでもそうだが「他人がどう思うか?」というのは他人が抱える問題で、その問題を解決できるのは本人だけだ。外野である私にはどうしようもない。

承認欲求とは、他人に自分を認めさせたいという欲求だが、私を認めるかどうかは他人が決めることだ。

「他人のなかの自分」を現実の自分よりよく見せたいと願う人の、なんと多いことか。

無理して「他人のなかの自分」を良く見せようとがんばるのは、徒労でしかない。

「他人のなかの自分」は、前述のように、その人の先入観やマスメディアのプロパガンダでねじ曲がっている。

そんな歪な「他人のなかの自分」は、他人の数だけ存在する。

虚像であって私そのものじゃない。他人の頭の中にいる自分をいくら着飾り大事にしても、私そのものにはなんの変化も成長もない。逆に、どんなにその虚像が虐げられていても、私そのものに害はない。そんなどうでもいいものに必死になるのは、くだらない。

虚像を実像のように勘違いをするから苦しくなる。虚像だからと軽く見れば、偏見に対する悩みなど吹けば飛ぶほどの軽さになる。

 

私そのものは、私がどう思うかで決まる。

だから他人がどう思おうが関係ない。私の価値は、私が決めるんだから。

私が自分の良いところ、存在そのもの、それをほかならぬ私自身がわかっている限り、私そのものは存在自体がいつもいつでも肯定されている。

私はそう思うようになって、アルコール依存症だよと他人に話すことに躊躇いを感じなくなった。

私にとってアルコール依存症とは愛すべき自分の一部であり、恥ではなく誇りであるから。

 

【メンタル】唯一の羅針盤は、いつも己の心の裡に在る。

誰が何と言おうと、自分が信じるようにやるのが一番よい。

結果的に自分にとってだけではなく、他人にとっても、最もよい。

 

あなたの心が「最良」「最善」と感じたのなら、

その感覚に従うのが最も適切な選択だ。

他の選択肢はない。

「たられば」は存在しない。

常に自分の心に素直に耳を傾け、その声に従って進めばよい。

 

この生き方はとても勇気がいる。

何故なら誰かのせいにはできなくなるから。

どんな結果になっても受け容れて納得するしかない。

 

でも、勇気がないからと決断を他人に委ねたとて、結果がともなうとは限らない。

だれも結果の責任など取れはしない。

結果はコントロールできないものだから。

 

つまり、自分で決めるにせよ、他人に決めてもらうにせよ、どっちに転んでも結果はなるようにしかならない。

それなら、よりあなたが納得できるほうを選択するほうがよい。

あなたは、他人に言われるがままに動くのと、自分の意思で動くのとでは、どちらが納得できるだろうか。

 

前者を選べば、他人のせいにできるから、一時的には楽だ。

だから、恐れと不安を見て見ぬフリしたい人は、判断を他人に委ねる。

誰もが弱い。私もそうだから。

だけど、前者の選択は後々もっと大きい苦しみを抱える可能性がある。

結果が良くても、素直に喜べなくて苦しく、

結果が悪いと、他人を責める理不尽な怒りに苛まれて苦しい。

どっちにしても苦しくなる可能性が高い。

だから私はおすすめしない。

 

後者を選ぶと、結果がどうであっても、ありのままを受け容れられる。

失敗しても成功しても、自分の血肉になる。

 

そもそも、失敗するか成功するかなんて、どうだっていい。

コントロールできない事なんだから、気を揉んでも仕方ない。

やりたいか、やりたくないか。

やるか、やらないか。

本当に決まるべきはそれだけだ。突き詰めると簡単なこと。

 

結果は関係ない。

他人はもっと関係ない。

下手で結構。むしろ下手こそよい。不完全なほうが人間らしくてよい。

 

誰かと比較するから、気後れする。「上手にやらなくては」と身体が硬直する。

あるいは自分のほうが上手いと自惚れて、雑になる。

それでは、あなたは本当の意味で生きることを楽しめない。

本人が楽しめていないうちは、他人を楽しませることは到底できない。

結果にばかり目が行ってしまって、楽しむことが忘れ去られた「屍」では、人は感動しない。

 

ひとつひとつを、まるで初めてやるかのように、何回でもやってみればいい。

何回失敗してもいい。

何回諦めてもいい。

やりたいからやる。

信じたいから信じる。

 

従いたくないことに、従う必要はない。

唯一の羅針盤は、いつも己の心の裡に在る。

【依存症】「なるようになる」=真の自己肯定感 という話

「たぶん、なんとかなる」

私は今までそう思えなかった。

結果が欲しい。

評価が欲しい。

安心が欲しい。

理解者が欲しい。

他人軸の何か後ろ盾になるようなもの。それが無いと私は私にYESと言えなかった。

だけど、今はそう思わなくなってきた。

 

今までいろんなことがあった

今まで生きてきて、様々な出来事があり、様々な感情を味わった。

それでも今、こうして生きている。

それは、乗り越えてきたということだ。

今まで生きてきたすべてが、私という今を肯定している。

ニーチェのいう「永遠回帰」があるとしても、私は私の人生をもう一度生きることにYESと言える。

たぶんまた苦しむだろうし、生きようか死のうか悩む局面に出会うだろう。

でも今乗り越えて息をしている。これからも息をし続けることを望む私がいる。

全てのことに私のなかでは意味があり、必要だから与えられたと思う。

発達障害(神経発達症)として生きづらさを抱えたのも、機能不全家庭に生まれてACとしての特性を抱えたのも、社会に過剰適応しようとしてうつ病やアルコール依存症になったのも、生まれた時代がたまたま資本主義社会であったことすらも、全て私が私であるために必要だったから、そうだっただけ。

 

大谷翔平や鈴木一郎がもてはやされているが、実際人間は大して変わらず、弱くて小さな存在だ。

どんぐりの背比べでしかない。

野球という競技になっているが、元をたどれば暇つぶしの玉転がし遊びであり、それが上手なのは純粋にすごいことだが、それもすべては運だ。

成功には再現性があり、法則がある。そう思うほうが、私たちは希望を持ちやすく不安を見て見ぬフリしやすいので、そう信仰する傾向がある。

ビジネスにも何かしら成功の法則があり、成功者に学べば自分たちもそうなれる、と思って有名人のサロンやビジネススクールに通う。それっぽい理論や前例を学び、信仰を強固なものにする。

しかし繰り返すが、すべては運だ。

先の野球選手の事例でいえば、たまたま野球ができる環境にあり、たまたま努力し続けられる個体に産まれ、たまたま身体的に不具合を持たないで五体満足に生まれて、たまたまそれ以上の個体が野球競技者のなかにいなかった。

だから相対的に順番をつけると上にいて、たまたま周りにいる人たちの見えない協力のおかげで成果も残せた。

実力とはすべてが運であり、成功しているのはたまたまだ。

 

偽物の自己肯定感

だから、相対的な価値観でこしらえた「自信」は、自己肯定感とは程遠い。

仕事で同僚より成果を出している。

スポーツでいい成績を残している。

偏差値が高い大学に合格している。

他人と比べて頑張っている。

平均より良い暮らしをしている。

「だから自分を信じられる」というのは、自分自身ではなく他人の物差しを信じている、という状態だ。

その偽りの自己肯定感は、そのよりどころである他人の物差しが変われば一瞬で雲散霧消するだろう。

 

信仰は選べる。

意思だけは誰にも奪えない。奴隷の哲学者エピクテトスの言葉だ。

結果主義・成果主義のストーリーを信仰するのも自由。

自分の無力を受け容れ、無為自然を説く老子の思想を信仰するのも自由。

在り方は、自由自在だ。自分で選べる。

 

まとめ:なるようになる

唯一確かなのは、それぞれの意思だ。

私は私の意思を信じる。

どうしても自分に嘘がつけない、不器用で愚直な人間として生きてきたこの人生を信じる。

他人が信じるかどうかは関係ない。

成果が出ているかどうかも関係ない。

それは他人の物差しでどうか、ということで、他の宇宙の話だ。私そのものとは関係ない。

どこに価値をおくか、どう思うかは、私が決められる。

いや、私にしか決められない。

こんな私が、今も生きていて、一定の納得のいく思想にたどり着いている。

たまたまそうなった、何か大きな力の支えのおかげで。

ということは、これからなんかあっても、私なら、だいたい何とかなる。なるようになる。

この「なるようになる」というのが、自己肯定感の真の姿だと思う。

私とみんなは失礼ながらどんぐりの背比べなので、みんなもおそらく同じ。

ということは、みんな、だいたいなんとかなる。なるようになる。

みんなのおかげで私がいて、そんなみんなもなるようになるということは、これから先も大丈夫。

 

成果をコントロールしようとしなくていい。

他人をコントロールしようとしなくていい。

未来をコントロールしようとしなくていい。

だってそれぞれにとんでもないパワーを秘めていて、自分で自由にとらえ方を決められるうえに、この世界は「なるようになる」ようにうまくできているのだから。

これまで肩にのしかかっていた不安や重圧が、一気に軽くなるのを感じないだろうか。

なんにも心配しなくてよかったのだ。

しようとしたってできないことを、無理してしようとしなくていい。

他人の評価もポジションも、全然気にしなくていい。

お金があるかないか、少ないか多いか、も全然気にしなくていい。

だって私たちは、私たちらしく泥臭く素直に生きていさえすれば「なるようになる」のだから。

何か意味があるとしたら、それは私たちがそれぞれに自由に決められる。

この信仰で生きる人は、どこまでも自由で、開放的である。