【AC】私が基本的に他人を信頼できない理由とは

なんでなんだろうね?と思ってジムで走りながら考えたことをつらつらと書いてみる。

 

私は基本的に他人を信頼しない。

似た言葉に「信用」という単語がある。私はこの単語が好きではない。

信じるのは良いが「用いる」なんて、他人を道具として扱っていると思わないか?

私はそんな印象を受けて、口にするだけで嫌な気持ちになる。

「信頼」は「信じて頼る」であるから、とても相互尊重の精神を感じる。

相手を頼るべき存在と肯定したうえで、その相手にお伺いを立てるようなイメージ。実に誠実である。あるべき態度を言語化しているのは「信用」より「信頼」だ。

 

ここまで考えて、私は「用いられる」つまり「使われる」ということに、アレルギー反応を起こしているというか、過剰な拒否反応を示している自分を発見した。

たぶん定型発達の普通の人々はここまで気にしない。わざわざただの単語にスキキライしない。

ではなぜ私はここまで気にするのだろうか?

それは、おそらく「使われてきた」という反省と警戒があるからだ。

 

親の愛の真贋

私は長らく両親に「大切にされてきた」と信じて生きてきた。

しかしアダルトチルドレンの概念を知り、機能不全家庭とはまさに私の家庭だと知った。当時はかなりの衝撃だった。

勉強すればするほど、私と実父母との生活は、健全な家族の在り方とは逸脱していた。

そう自覚してもなお、やはり子供というのは親を肯定したいという潜在的なバイアスを兼ね備えているらしい。

「とはいえ、1ミリも愛していないということはないだろう」

「そうはいっても、少しは大切に考えているだろう」

そう思っては裏切られてきた。今はもうできるだけ距離を置こうと思っている。

カラカラに渇き切った。

「本当は大切で愛しているが、伝わっていないだけ」

そうであればどんなによかっただろうか。しかし、本当の愛を知らない親もこの世には存在する。

 

依存症予防教育アドバイザーとして、社会福祉士として、ADHD・ASD当事者として、様々な立場で保護者向けの講演をさせていただく機会があった。

私が親に対する絶望と孤独を話すとき、一様に保護者達は受け入れがたいという表情を浮かべる。自分がもし実子にそう思われていたら…と思うと、親の立場を想像し共鳴して心に痛みを感じるのだろう。

「きっと接し方がわからなかっただけで、本当は大好きだと思うよ」

「話してみれば、分かり合える日がいつか来ると思うよ」

『だから、許してあげて、あなたから歩み寄って』

私の話を真剣に聞いてくれて、とても感謝しているし、貴重な発表の機会をいただいてフィードバックをもらえるのはとてもうれしい。

しかし、本当に申し訳ないが、このメッセージは、呪いそのものだ。

それは聞き手の願望であり、私の人生とシンクロしない。

私の親は、あなたではない。あなたがそうであっても、私の親がそうであるとは限らない。

そして、今まで両親に接してきて得た「愛とは決定的に異なる」という私に対する態度への実感以上に、信憑性のあるエビデンスはない。

にもかかわらず、自分の不安や恐れを覆い隠すために許せとか歩み寄れとかいうのは、無責任だし過干渉だと思う。親の呪いを複製してリフレインしている。

 

親として子供を持ち、ともに生きていて思う。

私は親として、子供たちには本当に好きに生きてほしいと思う。

思うように、やりたいように、思いたいように思って生きていってほしい。

私のことが嫌いでもいい、尊敬していなくてもいい。別の道を行きたいなら応援する。

本心から生きたい方向に突き進むなら、それが社会的に成功か失敗かなどどうでもいい。

その子が自分の人生を成功か失敗か判断する権利があるのだ。親の私ですら、それを勝手に判断する権限はない。世間や他人など、言わずもがな。

どう感じるか、どう判断するか、どう生きるかは、子供たちひとりひとりにその権利がある。

権利を尊重する。ひとりの人間として、その尊厳を侵したくないし、その必要もない。

どんな人生だろうと、どんな価値観だろうと、どんな風に私を思っていようと、私が子供たちを愛し、見返りを求めず本人が望むなら手を貸すだろう。これは少しも変わらない。

それが、親の愛だと、親になって理解した。

 

では、私の両親の「愛」とは、親の愛だったか?

否。彼らのそれは、自己愛であった。

所有物としてのわが子。自分が作った便利な道具、モノに対する愛着。

そういうものを「愛」と偽って私に恩着せがましくも「与えてあげた」と洗脳してきた。本当に信じがたい絶望だった。

 

妻は客観的に私の生家を見ることができるので、とてもありがたい存在だと思っている。

私が気づかないアンコンシャスバイアスを顕在化してくれる。

私が両親と接している様子を観察していた彼女は、次のように言った。

「あの人たちにはもっとちあきを大切にしてほしいと感じる。ちあきがかわいそうだ。」と。

私は最初わけがわからなかった。

大切にされていると思っていたから。しかし、そうではないらしい。

親が成し遂げたい目的のために、使われているというのだ。

たとえば進学・就職。

所有するブランド品として他人に自慢できるステータスを得られるように、勉強させ就活させた。望むレベルの結果でなければ泣き、及第点なら満足げにし、直接言わなくても間接的に子供の将来をコントロールしようとする。

子供自身がどんな信念で、どんな夢をもって、どんな人間になりたくて生きているのかではなく、どこで何をしているか?それが自慢できるか?が重要なのだ。

たしかにそうだ。今回の転職にしても、私が今どう思っているとかなぜ苦しんでいるかとか何を求めて転職するかではなく、どの企業に行くかとか年収がどうなるかくらいしか興味がなかった。

なんというか、そういう視点でみてみると、すべてつじつまが合う。

祖父母とのコミュニケーションのダシに使ったり、すでに内情としては崩壊している夫婦関係の鎹に使ったり。

私の実父母は、私のことを使うことについては長けていたなぁと思う。使うことばっかり考えていたんだろう。

そして、私が自我を持ち、求められる役割にNOを突きつけると、狼狽して怒ったり泣いたりする。

父親は母親のヒステリックや精神不安定さをなだめるために私を使い倒し、母親は自分のつまらない人生をさも充実しているかのように周囲に虚飾するために私を使い倒した。

私は愛されていると思いたくて使われていることに内心傷つき渇きながらも、身を粉にして心を殺して従っていたのだ。

 

もういいです

もう、うんざりである。

私は親とのこのような関係性を通じて、人間とは「私を粗末に扱い便利に使おうとする存在だ」と学んだのだと思う。

半生が与えたもうたこの血塗られた教訓は、私を疑り深く孤独な人間に育てた。

そして私の自尊心を大きく棄損した。精神的虐待である。

私は「利用価値がなければ愛する価値がない」というメッセージをずっと与えられ続けてきたのだ。そんなメッセージを親から常に受け取っていたら、自分を好きになれるわけがないし、価値を感じられるはずがない。そう思わないか?

 

私のインナーチャイルドはこう考える。

親ですら私を使おうとするのだ。他人など、言わずもがなである。

メリットがなければあえて私には近寄ってこないし、力を貸すなら何か取引条件、つまり裏があるはず。

相手が想定している利用価値を正確に把握してから取引に応じないと、とんでもない見返りを請求されるかもしれない。

それなら、安易に手を借りないほうがいい。後悔することになる。

人間関係における「借り」とは借金と同じ。借金がいくらかわからないのに借金する人間はいないだろう。いくら負債を負わされるかをよく吟味して、力を借りるかどうか判断すべきだ。

たいした力にならないのに頼り負債を抱えるくらいなら、自分自身のリソースで対処したほうがマシだ。

それがベストな結果に繋がらなかったとしても、かまわない。負債を抱えて不安と恐れと負い目に精神をさいなまれるコストを考えればおつりがくる。

まずは自分が使い潰されないことだ。そうしなければ死んでしまう。

つまり、他人を頼るということは、死ぬ可能性がある選択だ。

自分でやり切ろうとしてやり切れず死ぬか、他人を頼り代償として使い潰されて死ぬか、二つに一つ。

なら、まだコントロール可能な前者で行こう。

こういう思考回路で、インナーチャイルドは、よっぽどのことでもない限り他人に相談しないし、頼るという判断をしない。

 

しかし、わりとそこまでこの世は地獄ではない。

私がそうであるように、困った人がいたら損得なしに助けたいと思う人もいる。

他人が期待するリターンがあったとしても、すべてに応える必要はない。

損得で人間を判断する人だとわかったら、そこそこのディールでまとめつつ、深くは付き合わないという選択もできる。

私という人間は存在するだけで価値がある。

私は私らしく生きているだけで価値がある。

他人がどう値踏みしようが、その価値は揺るがない。

私は付き合う人を選べる。私を大切に思ってくれる人と一緒に生きていけばいい。

私が大切な人に惜しみなく愛を注げばいい。

 

実父母は私にとって大切な人ではない。なぜなら私を大切に扱わない人々だから。そう私が感じている、それが全てだから。

それはいけないことではない。私が判断していいことで、どう感じるかは私に権利がある。

わが子が私をどう感じるか、私との関係性をどう判断するかは、わが子に委ねられているのと同じように。

私は好かれようと思ってわが子と接することはない。好かれるか好かれないかは、私のわが子に対する愛情にまったく影響しないから。

 

大切な人は、選べる。

私の価値は、揺るがない。

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