月別アーカイブ: 2023年4月

【依存症】私が偏見を気にしなくなった理由

アルコール依存症。

そう聞いて、みなさんはどんな印象を持つだろうか。

だらしない?

人生負け組?

ダメ人間?

 

「私はアルコール依存症です。」

私がこうやって病気のことを知らない人に打ち明けると、反応は様々だ。

 

「まずいことを聞いちゃったな」と慌てて話題を変える人。

「へーそうなんだ」と露骨に態度が変わる人。

「あれってどんな病気なの?」と素直に聞いてくる人。

 

その人のなかに『アルコール依存症』のイメージがあり、そのイメージがその人のなかの私のパーソナリティに反映される。

各々が持つイメージが様々だから、反応は聞いた人によって異なるのだろう。

 

基本的に依存症という病気のイメージは偏見と誤解にあふれている。

マスメディアが作り上げたマイナスイメージに引っ張られていることが多い。

 

国民にとって良くない法案を閣議決定をするとき、国民に騒がれたくないので、覚せい剤や大麻などの薬物を使用した芸能人逮捕のニュースを報道する。いわゆるスピン。知る人ぞ知るお決まりのパターン。

権力者側の都合で情報は歪められる。現代社会の常だ。

「覚せい剤」という単語を聞くと、多くの人は反社会的なイメージをもつのではないだろうか。

実は敗戦当時、覚せい剤であるヒロポンやゼドリンは大手をふるって市販されていた。そんなことは教科書に載ってないし学校では勉強しないからほとんどの人が知らない。製薬会社が販売するのを政府は大っぴらに認めていた。帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)をごまかすのにちょうどよかったから。

昔は合法で巷にあふれていた。今使うと違法だからと袋叩きにされる。

確かにアンフェタミンは依存性があるしその当時乱用がかなり問題になった。

しかし、今合法薬物として国内に出回っているアルコール(酒)はどうだろう。

アルコールは自分と他人に対する害が全ての薬物のなかでNo.1の最悪の薬物で、依存性があり、乱用が問題になっている。

けれど、アルコール(酒)は違法にならない。タバコ程度の害しかない大麻は違法なのに。不思議だよねぇ。

答えは、酒もたばこもたくさん課税できて政府が儲かる産業だから。

違法か合法かは、薬物の危険性とは相関しない。

法律はルールだけど絶対に正しいわけじゃない。必ずしも実態に沿って善意で定められているわけじゃない。

だから、違法なものを使ったからといって、その人の人間性がダメなわけがない。たまたまその人にとってどうしても必要だったものが、社会のルール上違法っていう扱いだっただけ。

 

そういうことを考えない人は「とにかく違法だからダメ」「違法なものを使う人はダメな人」と思ってイメージで他人をジャッジする。

正直言って、そういう人はたいしたことないなと思う。あんまり深く物事を考えない、言われたことを疑いもしない、自分が間違っているかもしれないという謙虚な内省を行わない。

もちろん、情報に触れる機会がないと理解する機会もないので、運もあるだろう。

でも、本当に賢い人は「本当にダメなのかな?」「なんでダメなのかな?」「本当は別の理由があるんじゃないかな?」と裏の裏まで考えて、自分で能動的に調べる。

そういう人はちゃんと情報にたどり着く。背景を知ろうとする。

だから誰かがコントロールしようとして流している恣意的な情報に左右されにくい。

このコロナ茶番ではっきりしたよね、その辺は。

わかる人にはわかるっていうこと。

 

アルコールについてもそう。

酒を飲んだときにその人の本性が現れるとか、飲み方がだらしないのはダメな人間だからだとか、偉そうに言う人がいるけど、本当によく調べて自分の頭で考えていれば、そんなふうに誤解したりしない。

知らないし、知らないかもしれないと調べることもない人が、偏見をもつ。

つまり依存症に対する偏見とは、当事者が抱える問題ではなく、非当事者が抱える課題であり問題だ。

偏見を持たれるからといって、当事者である私は特に気にしない。

「よく知らない人が、いい加減なことを言っているなぁ、知る機会がなかったんだなぁ、かわいそうに」と思うだけだ。

私が非当事者に情報を手渡したとして、知りたいと率直に思って聞いてくれる人は理解してくれるし、逆に聞く気がない人は全然理解できない。冒頭にある通り、反応は様々で、それは受け手の知能にかかっている。知能というか「私を本当に理解しようとしているかどうか」にかかっている。

いくら「本当はこういう病気なんです」と声を大にして発信したとしても、相手に受け取る気がなければ伝わらない。

詰め込み教育ばかりを施されてきたこの現代社会というのは、残念ながらそういう消極的な情報の受け手の集合体なので、社会を変えるというのはほぼ困難と言っていい。

変えられないものを「なんで変わらないんだ、偏見をもたれて苦しい」と嘆いていても、しかたがないよなぁ、と思う。

そりゃ理解されなくて悲しい気持ちになることもあるけど、それはもうしょうがないじゃん。だって相手が理解できないし理解する気がないんだもの。

変えられないものを受け容れる落ち着きをもち、変えられるものを変えていく勇気を持つほうが建設的。

変えられるもの、つまり、自分の在り方を考えるほうがいい。

つまり、偏見を持つ人がいる現実を受け容れて、特に気にしないという在り方をとるということ。

 

偏見を持つ人の問題は、その人の問題で、私の問題じゃない。悩む必要がない。

どうでもいい人が私を誤解していても、どうでもいい。

一ミリも私の価値を上げ下げしない。好きなように勝手に誤解していればいい。

わかってくれる人だけ、わかってくれればいい。

わかってくれる人は、賢く優しい人が多い。そういう人は私が付き合いたい人なので有象無象のなかから友人候補を分別でき、むしろ無駄な付き合いを省けるのでちょうどいい。

アルコール依存症というステータスは、私にとって「人との相性診断ができる便利なリトマス試験紙」くらいに思っている。

 

古今東西あらゆる哲学者が、承認欲求との付き合い方について説いている。

なんでもそうだが「他人がどう思うか?」というのは他人が抱える問題で、その問題を解決できるのは本人だけだ。外野である私にはどうしようもない。

承認欲求とは、他人に自分を認めさせたいという欲求だが、私を認めるかどうかは他人が決めることだ。

「他人のなかの自分」を現実の自分よりよく見せたいと願う人の、なんと多いことか。

無理して「他人のなかの自分」を良く見せようとがんばるのは、徒労でしかない。

「他人のなかの自分」は、前述のように、その人の先入観やマスメディアのプロパガンダでねじ曲がっている。

そんな歪な「他人のなかの自分」は、他人の数だけ存在する。

虚像であって私そのものじゃない。他人の頭の中にいる自分をいくら着飾り大事にしても、私そのものにはなんの変化も成長もない。逆に、どんなにその虚像が虐げられていても、私そのものに害はない。そんなどうでもいいものに必死になるのは、くだらない。

虚像を実像のように勘違いをするから苦しくなる。虚像だからと軽く見れば、偏見に対する悩みなど吹けば飛ぶほどの軽さになる。

 

私そのものは、私がどう思うかで決まる。

だから他人がどう思おうが関係ない。私の価値は、私が決めるんだから。

私が自分の良いところ、存在そのもの、それをほかならぬ私自身がわかっている限り、私そのものは存在自体がいつもいつでも肯定されている。

私はそう思うようになって、アルコール依存症だよと他人に話すことに躊躇いを感じなくなった。

私にとってアルコール依存症とは愛すべき自分の一部であり、恥ではなく誇りであるから。

 

【メンタル】唯一の羅針盤は、いつも己の心の裡に在る。

誰が何と言おうと、自分が信じるようにやるのが一番よい。

結果的に自分にとってだけではなく、他人にとっても、最もよい。

 

あなたの心が「最良」「最善」と感じたのなら、

その感覚に従うのが最も適切な選択だ。

他の選択肢はない。

「たられば」は存在しない。

常に自分の心に素直に耳を傾け、その声に従って進めばよい。

 

この生き方はとても勇気がいる。

何故なら誰かのせいにはできなくなるから。

どんな結果になっても受け容れて納得するしかない。

 

でも、勇気がないからと決断を他人に委ねたとて、結果がともなうとは限らない。

だれも結果の責任など取れはしない。

結果はコントロールできないものだから。

 

つまり、自分で決めるにせよ、他人に決めてもらうにせよ、どっちに転んでも結果はなるようにしかならない。

それなら、よりあなたが納得できるほうを選択するほうがよい。

あなたは、他人に言われるがままに動くのと、自分の意思で動くのとでは、どちらが納得できるだろうか。

 

前者を選べば、他人のせいにできるから、一時的には楽だ。

だから、恐れと不安を見て見ぬフリしたい人は、判断を他人に委ねる。

誰もが弱い。私もそうだから。

だけど、前者の選択は後々もっと大きい苦しみを抱える可能性がある。

結果が良くても、素直に喜べなくて苦しく、

結果が悪いと、他人を責める理不尽な怒りに苛まれて苦しい。

どっちにしても苦しくなる可能性が高い。

だから私はおすすめしない。

 

後者を選ぶと、結果がどうであっても、ありのままを受け容れられる。

失敗しても成功しても、自分の血肉になる。

 

そもそも、失敗するか成功するかなんて、どうだっていい。

コントロールできない事なんだから、気を揉んでも仕方ない。

やりたいか、やりたくないか。

やるか、やらないか。

本当に決まるべきはそれだけだ。突き詰めると簡単なこと。

 

結果は関係ない。

他人はもっと関係ない。

下手で結構。むしろ下手こそよい。不完全なほうが人間らしくてよい。

 

誰かと比較するから、気後れする。「上手にやらなくては」と身体が硬直する。

あるいは自分のほうが上手いと自惚れて、雑になる。

それでは、あなたは本当の意味で生きることを楽しめない。

本人が楽しめていないうちは、他人を楽しませることは到底できない。

結果にばかり目が行ってしまって、楽しむことが忘れ去られた「屍」では、人は感動しない。

 

ひとつひとつを、まるで初めてやるかのように、何回でもやってみればいい。

何回失敗してもいい。

何回諦めてもいい。

やりたいからやる。

信じたいから信じる。

 

従いたくないことに、従う必要はない。

唯一の羅針盤は、いつも己の心の裡に在る。

【依存症】「なるようになる」=真の自己肯定感 という話

「たぶん、なんとかなる」

私は今までそう思えなかった。

結果が欲しい。

評価が欲しい。

安心が欲しい。

理解者が欲しい。

他人軸の何か後ろ盾になるようなもの。それが無いと私は私にYESと言えなかった。

だけど、今はそう思わなくなってきた。

 

今までいろんなことがあった

今まで生きてきて、様々な出来事があり、様々な感情を味わった。

それでも今、こうして生きている。

それは、乗り越えてきたということだ。

今まで生きてきたすべてが、私という今を肯定している。

ニーチェのいう「永遠回帰」があるとしても、私は私の人生をもう一度生きることにYESと言える。

たぶんまた苦しむだろうし、生きようか死のうか悩む局面に出会うだろう。

でも今乗り越えて息をしている。これからも息をし続けることを望む私がいる。

全てのことに私のなかでは意味があり、必要だから与えられたと思う。

発達障害(神経発達症)として生きづらさを抱えたのも、機能不全家庭に生まれてACとしての特性を抱えたのも、社会に過剰適応しようとしてうつ病やアルコール依存症になったのも、生まれた時代がたまたま資本主義社会であったことすらも、全て私が私であるために必要だったから、そうだっただけ。

 

大谷翔平や鈴木一郎がもてはやされているが、実際人間は大して変わらず、弱くて小さな存在だ。

どんぐりの背比べでしかない。

野球という競技になっているが、元をたどれば暇つぶしの玉転がし遊びであり、それが上手なのは純粋にすごいことだが、それもすべては運だ。

成功には再現性があり、法則がある。そう思うほうが、私たちは希望を持ちやすく不安を見て見ぬフリしやすいので、そう信仰する傾向がある。

ビジネスにも何かしら成功の法則があり、成功者に学べば自分たちもそうなれる、と思って有名人のサロンやビジネススクールに通う。それっぽい理論や前例を学び、信仰を強固なものにする。

しかし繰り返すが、すべては運だ。

先の野球選手の事例でいえば、たまたま野球ができる環境にあり、たまたま努力し続けられる個体に産まれ、たまたま身体的に不具合を持たないで五体満足に生まれて、たまたまそれ以上の個体が野球競技者のなかにいなかった。

だから相対的に順番をつけると上にいて、たまたま周りにいる人たちの見えない協力のおかげで成果も残せた。

実力とはすべてが運であり、成功しているのはたまたまだ。

 

偽物の自己肯定感

だから、相対的な価値観でこしらえた「自信」は、自己肯定感とは程遠い。

仕事で同僚より成果を出している。

スポーツでいい成績を残している。

偏差値が高い大学に合格している。

他人と比べて頑張っている。

平均より良い暮らしをしている。

「だから自分を信じられる」というのは、自分自身ではなく他人の物差しを信じている、という状態だ。

その偽りの自己肯定感は、そのよりどころである他人の物差しが変われば一瞬で雲散霧消するだろう。

 

信仰は選べる。

意思だけは誰にも奪えない。奴隷の哲学者エピクテトスの言葉だ。

結果主義・成果主義のストーリーを信仰するのも自由。

自分の無力を受け容れ、無為自然を説く老子の思想を信仰するのも自由。

在り方は、自由自在だ。自分で選べる。

 

まとめ:なるようになる

唯一確かなのは、それぞれの意思だ。

私は私の意思を信じる。

どうしても自分に嘘がつけない、不器用で愚直な人間として生きてきたこの人生を信じる。

他人が信じるかどうかは関係ない。

成果が出ているかどうかも関係ない。

それは他人の物差しでどうか、ということで、他の宇宙の話だ。私そのものとは関係ない。

どこに価値をおくか、どう思うかは、私が決められる。

いや、私にしか決められない。

こんな私が、今も生きていて、一定の納得のいく思想にたどり着いている。

たまたまそうなった、何か大きな力の支えのおかげで。

ということは、これからなんかあっても、私なら、だいたい何とかなる。なるようになる。

この「なるようになる」というのが、自己肯定感の真の姿だと思う。

私とみんなは失礼ながらどんぐりの背比べなので、みんなもおそらく同じ。

ということは、みんな、だいたいなんとかなる。なるようになる。

みんなのおかげで私がいて、そんなみんなもなるようになるということは、これから先も大丈夫。

 

成果をコントロールしようとしなくていい。

他人をコントロールしようとしなくていい。

未来をコントロールしようとしなくていい。

だってそれぞれにとんでもないパワーを秘めていて、自分で自由にとらえ方を決められるうえに、この世界は「なるようになる」ようにうまくできているのだから。

これまで肩にのしかかっていた不安や重圧が、一気に軽くなるのを感じないだろうか。

なんにも心配しなくてよかったのだ。

しようとしたってできないことを、無理してしようとしなくていい。

他人の評価もポジションも、全然気にしなくていい。

お金があるかないか、少ないか多いか、も全然気にしなくていい。

だって私たちは、私たちらしく泥臭く素直に生きていさえすれば「なるようになる」のだから。

何か意味があるとしたら、それは私たちがそれぞれに自由に決められる。

この信仰で生きる人は、どこまでも自由で、開放的である。

【仕事】組織に使い潰されない!サボリーマンのススメ

 

サラリーマンは仕事に入れ込まなくていい

受け身の雇われ仕事に、基本的に意味などない。

ゼロベースで自分がやるべきこと・やりたいことを明確化し、それを実現するためにやっている分には、大いに意味がある。能動的に思い描く未来の延長線上、通過点に今の仕事があるから。

そういう人を除いた、ただ惰性で言われたことをやっているサラリーマンの仕事のことを「受け身の雇われ仕事」と表現していると思ってほしい。

 

今の待遇・生活を維持するために、やりたくもないけどやっている。

そういう人がほとんどではないだろうか。

周りがやっているからなんとなく始めた就職活動。

会社の名前や知名度で選んだよく知らない会社に、なんとなく就職。

なんとなく組織内の出世競争という「椅子取りゲーム」に巻き込まれて、なんとなく日々消耗している。

不安と恐れと虚しさに苛まれながら毎日が終わっていく。

「こんな人生生きたくない」

その不快で不都合な本音をかき消すために、SNSで暴言を吐いたりより不遇な他人を覗きに行って溜飲を下げたり。少し空いた時間で酒を飲んだりギャンブルをしたりゲームをしたり。

楽しみは全てが本音をみないための対症療法。誰かに飼育される奴隷。

誤魔化しでできている人生。クソのような人生。

客観的にみると改めてそう感じるのではないだろうか。

「そんなこと言ったって、どうしようもないじゃないか!今の私が生きていくにはこれしかないんだ!」

「そうですか。そりゃしょうがないですね。じゃあずっとこのままそうしてたらいいんじゃないですかね。それしかないんだから。」誰かからそう言われると、本気で腹が立つだろう。

その感覚はとてもわかる。私もそうして摩耗してきたひとりだから。

 

組織はあなたを道具扱いしているという事実

組織は、あなたのお母さんではない。お父さんでもない。

他人である。利己的な他者で構成された、ただの営利団体。

「社員こそわが社の宝」などとほざいているが、嘘八百。

ただの換えの効く歯車だと思っている。金儲けのための道具だ。

使い潰すつもりで雇用している。

あなたの人生なんてどうでもいい。一ミリも考えていない。使った後、どう死のうがどう生きようがどうでもいい。

本当は、どんな会社も、どんな経営者も、心の底ではそう思っている。

だって、利益を出すために組織はあるのだから。

利益を効率的に生み出すには、一人では手が足りないから、人を使う。

できるだけ少ないコストでできるだけ効率的にお金を稼げれば、それが最適。

だから、給料はできるだけ払わないようにしようとするのが当然だし、昇進はできるだけしないようにする引力が当然働く。

私は営業部門において類い稀なる成果を継続的に残してきた。だから、私を認めもっと仕事を任せたいなら昇進させるだろう、昇給するだろうと思っていた。しかし組織はあれやこれやと言い訳をして私を評価しなかった。

結局、昇進・昇給とは、その人の真の価値と相関しない。

組織に対する忠誠、つまり「奴隷としての利用価値」の見せ方と運で決まる。私はそれがなかった。だから組織内で評価されなかった。

 

私はそれでほっとした。

私には奴隷の才能がなかった。道具として使い勝手がよくなかった。だから、評価されなかった。

私は、組織内での「椅子取りゲーム」にはハマれなかった。私にとっては、心底つまらないゲームだったから。

ここまで読んで「負け惜しみじゃん」と思う人もいるだろう。

そう思ってもらって構わない。

私にとって価値がないことで、どうでもいい他人が勝ち負けを勝手につけているだけなので、その勝敗を他人がどうとらえようと、私にとってはどうでもいい。

会社という組織は「横並びにした数字の勝敗でムキになってくれる」「目の前にぶら下げたニンジン(昇進・昇給・賞罰)を追いかけてくれる」そういう他者承認を餌にした心理的誘導に引っかかってくれるようなチョロい奴隷が大好きだ。

「どうぞ終わりのないラットレースに巻き込まれてくださいな。終わらない苦しみを癒すためにせめて私を憐れんだらいい。そして自分の心に目を逸らしながら、無駄な一生を終えればいい。」、「負け惜しみじゃん」と思う人に、私はそう思う。

 

仕事は極限までサボってかまわない

向こうが使い潰す気なんだから、こっちも使い倒す気でいて構わない。

仕事に割くリソースなど、MAX50%でいい。それ以上はかけすぎ。

身を粉にして働く、というのは、自分がやりたいと能動的に思うことなら全然OKだと思う。それは自己実現のカタチだから。

でも、他人にやれと言われて、金でほっぺたをひっぱたかれたからって、そんなに根を詰める必要はない。

向こうができるだけ安く使い倒そうと思っているなら、こちらとしては、できるだけ力を入れずにできるだけ多くの金がもらえればよいと思って何の問題もない。

サラリーマンとはそういうものだ。

だからできるだけサボって構わない。

いやむしろ、サボりを極めたサラリーマンこそ、最も優秀なサラリーマンだ。

 

「やってる感」を出すコツは、理論武装と数字のレトリックにある。

結局ビジネスとは、相手がある以上「変えられないもの」「コントロールできないもの」なので、結果も能力も突き詰めると「運」でしかない。

それっぽく、偶然の産物を「努力によって誰もに再現性のある成功」のように見せているだけだ。理論立てて数字で味付けすれば、その「成功の法則」が出来上がる。

それがその人の「やってる感」「優秀な人材っぽさ」を演出する。

組織での椅子取りゲームは、実はこのイカサマの上手下手を競っている。

上の指示に従って上が決めたことが「成功につながっている正しい判断だ」と証明する材料になるのが、イカサマをそれっぽく見せるには手っ取り早い。だから全社方針・経営者方針を体現した(ように見える)人が出世する。

見え透いていてつまらない。

しかし、他に面白いことのない空虚な人には、すこぶる面白いのだろう。だからなんとか成り上がろうと頑張れる。世にも素晴らしい暇人たちだな、と感心する。

 

まとめ:所詮、金儲けはすべて暇つぶし

そもそも、お金というもの自体に価値がない。

単なる商業用の交換媒体であり、本質的な価値はそこに存在しない。

必要最低限あればよく、囚われてはいけないものの代表例だ。

それをもっと欲しがったり、無駄にかき集めたりして、人生を見失っていく。

たまたま世の中が資本主義経済を主体をした社会だったから、ビジネスがあるだけで、本来の人の営みにはほとんど重要ではない。

ヒマつぶしの遊びのようなものだ。

そんなもんに人生をかける必要はない。

面白がれるならおもしろがり、ハマれないならテキトーにやってる感を出して参加しているふりをしておればよい。

どうせ暇つぶしのゲームなんだから。

ただ、生きている時代のせいで強制的に参加させられているだけ。

仕事はつまんないと感じていいし、やる気が出ないのは当然だ。面白いと感じないなら、それはおもしろくないんだ、あなたにとって。

ゲームごときで、暇つぶしごときで、あなたの貴重な人生を棒に振ってはいけない。

私はそう思う。