【AC】お盆に考える「親の愛とは何なのか」問題

お盆である。

実父母とひさびさに三日間過ごしてみて改めて感じたことについて、書いてみる。

 

実母の生い立ち

実母は、AC(アダルトチルドレン)でありACoA(アダルトチルドレン オブ アルコホーリックス)の当事者だが、否認しており回復に繋がっていない。

アルコール依存症の父(私から見た母方の祖父)の壊れた機能不全家庭に育った。

祖父もまたACで、母親の共依存から逃れられないままの人生を生きた。

脈々と引き継がれてきたACの系譜。

その先に私がいる。

 

実母の人生を振り返ってみよう。

実母は祖父から「食うのに困らないのは教師だから、教師になれ」と人生のレールを敷かれた。そして、それに従って生きてきた。

なぜかといえば、祖父は成功者のレールから外れてコンプレックスを抱えており、権威主義と満たされなかった承認欲求に支配されていたからだ。

祖父は、次男でありながら彼の母親に共依存的に頼られて、当時勤めていた総合商社をやめて地元にUターンした。海軍の軍役を終えて、幸運にも総合商社という経済的に裕福な生活が送れる職業に就いた祖父は、おそらく優秀だったのだろう。そしてその自負もあったはずだ。

その経済力を魅力に感じて、そして次男というポジションから介護とは無縁であると期待して、祖母は祖父と結婚した。結婚後突如として表れたUターンするという話は彼女にとって青天の霹靂であり、ひどく狼狽して激しく反対したそうだ。

その反対を押し切って、総合商社を退職したのは、祖父の兄(長男)が「地元に帰ってくるなら仕事を世話してやる」と約束していたからだ。

しかし、その約束は結果的に反故にされた。祖父は兼業農家として貧しい暮らしを強いられることになった。

貧しいばかりか年老いた母親の介護まで祖父母に押し付けられ、祖母は祖父に対する好意を急速に失っていったという。思い描いていた人生設計がものの見事に粉砕されて、祖父に対しては憎しみさえ抱いていたことだろう。その話を娘である実母にするくらいなので、そうとう腹に据えかねていた様子がうかがえる。

祖父は、自分の選択ミスにより針の筵と化した家庭の居心地の悪さと自分のACとしての生きづらさを紛らわすために、アルコールに依存することになる。

いつもREDウイスキーの瓶を枕にして寝ていたというエピソードから、私と同じようなアルコホーリクだったと容易に想像できる。

祖父は、愛した女性は自分そのものではなく自分のステータスや経済力と結婚したのだとわかって、絶望と自暴自棄に埋没した。

口を開けば母親に世の中に対する恨み言ばかり言っていたそうだ。完全なるマルトリートメントである。

実母は、そんな祖父に過干渉され、祖父を憎む祖母の苛立ちを八つ当たり的に日常的に浴びせられた。そしてその地獄のような家庭環境は、実母をしっかり伝統的なACとして育んでいった。

 

実母の現在

そして今も彼女は、ACとしての生きづらさを抱えたままだ。

息子や娘の就職先は有名企業や社会的に地位が高いと認識されている専門職(医師・薬剤師・弁護士・裁判官など)でなくては満足できない。

なぜなら、祖父から刷り込まれた権威主義を今も引きずっているから。

人生を、父親に言われた職業に就くため・母親から小言を言われない「いい子」であり続けるために費やし、自分のインナーチャイルドを窒息死させたまま生きてきたため、自己肯定感が低い。

 

引用:一般社団法人リカバリング・マインズHP「第一章:インナーチャイルドを知る」

 

そのため、他者からの承認を求め、正しさに固執し、嫌われないために行動する。

しかし、それこそが他人との健全な関係構築を遠ざける。

その証拠に、彼女にはいつも親しい「友人」がいない。損得や共通点で繋がっている他人はいるが、胸の内を打ち明けられるような、心から信頼している他人が一人もいない。

だから常に孤独。その孤独を埋めるために、子どもに共依存する。

祖父の母親がそうであったように、祖父がそうであったように、子どもの人生に過干渉しイネイブリングする。歴史的にその方法しか子どもに対する関わり方を知らないので、不可抗力ともいえるが、子どもである私からすれば、たまったものではない。

実父はそんな実母にかける言葉も提示できる解決策もなく、居づらさや後ろめたさを隠すように、仕事に依存して家庭になかなか帰らなくなる。

マンツーマンで相手をさせられるのは、長男である私だ。

実父の代わりに、実母の愚痴を聞き、実母がかけてほしいであろう言葉をかけ、彼女の孤独を埋めるための「道具」に使われる。

子どもは生活力がないうちは家庭を離れることができない、私は母親から逃げられない。

逃げ場を失った私を人ではなくモノとして使っている自覚が彼女にはない。彼女のなかでは「愛情を注いでいる母親」であり、その愛情の見返りとして、子どもが自分に対して「お母さん大好き」と言うなど「承認欲求を満たしてくれる対価」を差し出すのは当然のことだと勘違いしている。

だから、自分を慕ってくれないとひどく気分を害して不貞腐れた結果「構ってちゃん」になる。「私はこんなに尽くしているのに」と罪悪感を煽って自分がしてほしい行動を引き出そうとする。

これは、ACがよくやりがちな「コントロール」であり、子どもを自分に都合がいいように「道具化」して支配しようとしている状況だ。

なので、私が成人した今も、私がきちんと満足できる優良企業()で働けているかどうかを真っ先に探ってくるし、何かしら世話焼きができる欠点がないかどうか「心配する」というふりをして詮索する。そして欠点らしきポイントを見つけると、舌なめずりをしてあれやこれやとアドバイスという名の過干渉をし始める。

本人としては、本当に本人の未来を案じていて「善き母親として子どもを気にかけている」と思っているのだろう。

本当に子どもを愛していて善き母親であるならば、成人した既婚者の息子に対して余計なことは言わず、ただ信頼して見守るものだ。

相手にはもう責任能力があると信じていて、そのように親として関わってきたという自信があり、対等に尊重している関係性なら、過干渉や詮索行動は起こりえない。

相手が我が子だという関係性を笠に着て、成人した尊厳ある人間との適切な境界線を見失っている。

自分の生きづらさと向き合う工程がゴッソリと抜け落ちて、精神は満たされない子供のまま、大人になり親になってしまったから、自分の人生以外のところ、すなわち息子の人生にいつまでも関わろうとする。

 

回復する私と取り残される実母

私がACを受け容れ回復のために歩み始めたことで、離れようとする私の挑戦に、幾度となく実母は抵抗運動をした。

さめざめと泣いてみたり、怒り狂ってみたり、息子が一生添い遂げようと決心してプロポーズした妻のことを低学歴だ気にくわないなどと侮辱してみたり。

全てが、私の目を覚まさせるには十分すぎるほど、毒親のそれだった。

そして今も、私が幼少期に惨めなACとして貢いできた労働の歴史を、息子から愛されている証明と勘違いして、過去の話を持ち出して反芻しては、息子側の認識の違い・現実と妄想との乖離に心を痛め、あからさまに落ち込んだりしている。

過去の思い出話しかすることがなく、現在の自分・未来の自分に関する話がひとつもないのは、そういう現実逃避の仮想世界にいるから。

今回接してみて、未だにその世界にいるんだな、と実感した。

とても残念だ。しかし私にはどうしようもない。

彼女の問題は、彼女にしか取り組むことができない。

 

親孝行とは、いったいなんだろうか。

私は親になってみて思う。

親孝行とは、すでに完了した過去である。

子どもは我が子として存在してくれただけで、もう十分すぎるほど様々なギフトをくれたと思っている。

自分の人生を、素直に真っすぐに生きてほしい。

私や妻などに関わっていないで、想いのままに生きてほしい。

その邪魔になるくらいなら、早々に退場したい。

私から与えてあげられる、彼ら彼女らが自分らしく生きるために必要なものなら、見返りが無くともいくらでも差し上げる。

代わりに私を愛さなくてもいい、憎んでも構わない。

褒められもせず、苦にもされず、そんな存在であればいい。

もう、親孝行は、生まれた時点ですでに済んでいる。

 

まとめ:親の愛

親の愛とは、そういうものではないだろうか。

フロムは『愛すると言うこと』で「精神的に成熟した人間でなくては、愛することを実践するのは難しい」と説いている。

 

いい子でなくてもいい。

私のことが大嫌いでもいい。

障害があってもいいし、うまく社会に馴染めなくてもいい。

他人と比べて優秀でなくてもいいし、誰かに認められる何者かでなくてもいい。

その子が、その子らしくあってくれさえすれば、それだけでいい。

 

成熟したインナーアダルトを持つ親とは、子どもに対してこんな想いを抱いているものではないだろうか。

 

引用:一般社団法人リカバリング・マインズHP「第二章:インナーアダルトと共に」

 

なぜなら、その子は「自分の延長」ではないから。

所有物や「道具」ではないから。

思い通りになんて、ならなくて元々。

彼ら彼女らの人生は、本人のものだ。

親であろうと、他人である私がコントロールすべきものではない。

 

悪夢のようなACの世代間連鎖を断ち切る。

そのためにはまず、私は私らしく生きることに、全力でなくてはならない。

私は、私として精一杯生きて、しっかり己の宿命を生きたと胸を張って死にたい。

自分の人生の課題を、子どもに背負わせることだけはしたくない。

実母のような「愛を嘯く呪い」ではなく、「どこにでも宿る愛」でありますように。

切れ切れの愛として彼ら彼女らの世界の一部となり、爽やかに忘れ去られますように。

偽らざる愛情とは、そういうものではないだろうか。

 

 

 

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