【AC】他人の目が気になってやりたいことができない人へ

ACは特に「他人の目」を気にしやすい。

具体的には、問題でいうところの、以下の太字部分に、悩みを抱えている。

 

機能不全のある家庭で育ったことにより、わたしたちが共通して持っていると思われる特徴

  1. わたしたちは孤立し、人や権威を恐れるようになっていた。
  2. わたしたちは承認を追い求めるようになり、そうしているうちに自分が何であるか分からなくなっていた。
  3. わたしたちは人が怒っていたり、何であれ個人的な批判を耳にしたりすると怯えてしまう。
  4. わたしたちはアルコホーリクになったり、アルコホーリクと結婚したり(両方の場合もある)、あるいはワーカホリックなどの他の強迫的な問題を持つ人を見つけたりして、病んだ「見捨てられ欲求」をみたそうとする。
  5. わたしたちは人生を犠牲者の視点から生きていて、そういう弱さによって恋愛関係や友情関係で人にひきつけられる。
  6. わたしたちは行きすぎた責任感を持っていて、自分のことに気をつかうより他人の心配をする方が簡単にできる。そうすることで例えば、自分の欠点をよく見ないですむ。
  7. わたしたちは人のいいなりにならずに自分の意見を述べると罪悪感を感じる。
  8. わたしたちは刺激に嗜癖するようになっていた。
  9. わたしたちは愛を哀れみと取り違え、自分が “哀れみ” “救える” 人を “愛する” 傾向がある。
  10. わたしたちは悪夢のようだった子ども時代から感情を抑え込んできて、そうするとひどく傷つくので、自分の感情を感じることや表現することが出来なくなっていた(否認)。
  11. わたしたちは自分のことを厳しく裁き、自己評価が非常に低い。
  12. わたしたちはとても依存的になっていて、見捨てられることを怖れ、見捨てられる痛みの感情を経験しないですむように、人との関係が切れないようにするためになら、どんなことでもしようとするほどだ。その痛みの感情は、わたしたちにとって情緒的に不在だった病んだ人たちと、一緒に生きてきたことから受け取ったものだった。
  13. わたしたちは、自ら行動する人ではなく反応する人である。

これは特徴を述べたものであって、非難ではない。

引用:ACA(アダルトチルドレン・アノニマス)>問題

 

結論から言えば、これらの悩みを手放すには、ACの自助グループに参加し、12ステップ・プログラムに取り組む必要がある。

今回は、取り組んだ結果、どんなマインドで生きることができるようになるかについて話していきたい。

 

「自信がないこと」に自信を持つようになる

プライドや自信というのは、自分らしい挑戦の邪魔になる。

そういった余計なものを抱えていると、何かをやろうとするとき、あるいはやりたいとき、「うまくできるかどうか」を気にしてしまう。

うまくできなければ、他人と比べて下手だったら、バカにされるのではないか。

傷つくのではないか。

生まれた恐れが、踏み出そうとする足を止める。

 

たとえばこの世に、自分以外誰もいなければ、どうだろうか。

比較する対象がないので、優劣をつけられる心配はない。

上とか下とか、そんなランキングもない。

そんな状況なら、好きなようにのびのびと、やりたいようにやれるのではないだろうか。

評価されなければ、評価されるために何かをしなくて済む。

 

他人の目がある状況と、無い状況。

いずれも、自分がやりたいようにやったとして、うまくいくかどうかわからないのは、同じだ。

うまくいったか否かすら、見る角度によっては異なる。

つまり、周りがどうであれ、結果はやってみなくてはわからない。

そして、結果は、やってみて初めて得られる。

他人がいるか、いないか、は関係ない。

 

私も、やる前から、あれやこれやと思案して躊躇してしまうことがある。

結果が不安だからだ。

失敗して他人と比べられ、下に見られる痛みを経験したくない。誰もがそうだ。

自信がない。

 

しかし、今まで述べてきたように、自信なんてものは、実はどうでもいい。

そんなもんは必要ない。

 

私と他の人は、同じじゃない。

あらゆる面で、同じではない。

だからそもそも比較することができない。

生まれた環境も、与えられたポテンシャルも、個性も、全てが違う。

世の中でいう上下や優劣というのは、ひとつの角度から無理やり比べてひねり出したものであって、絶対ではない。

私がやったことの結果、というのは、私が行動することで初めて得られる果実であり、それは私以外誰も獲得できない、唯一無二のものだ。

「私」という人間が、行動を起こさなければ、私の現実に影響を及ぼすことはできない。

私の行動ひとつひとつが、私にしかできないこと。

 

それなら、自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。

そんなものを持っているから、やりたいときに、やりたいようにできない。

そもそも私は、そんなになんでもうまくできるわけじゃない。

やってみないと分からないことばかりだったし、すぐにうまくできることなんて、ほとんどなかった。

ポンコツで結構。下手で結構。むしろ下手こそ、なお素晴らしい。

下手だと分かることは喜びだ。

今の自分にできないことがわかるということは、未来の自分にはもっとできる事が増えるかもしれないということだ。自分のなかに可能性を見つけたという、喜び。

 

他人と比較するかどうかは、私が決められる。

他人がどう思うかは、他人の仕事であって、私が気にすることじゃない。他人が他人のために、私のイメージを他人の心のなかでポジショニングしているにすぎない。どうでもいいうえに、私にはどうしようもない。

であれば、そんな自分には関係のない「他人の評価」を気にして、やりたいことを我慢することは、馬鹿馬鹿しい。

実にもったいない。

まだ自分も見たことがない色の絵の具を試したいのに「他の人が変な色と言わないだろうか」とブツブツ言いながらパレットに出す前にためらっているようなものだ。

変か変じゃないかは、私がパレットに出して実際に画用紙に描いてみて、私が決めるのだ。

他人には変な色でも、私にとって綺麗ならそれは綺麗な色だ。

描いてみないと、どんな色かわからない。気に入らない色かどうかもわからない。

わからないことをずっと考えていても、ずっとわからないままだ。

 

新しい色を試すとき、失敗はたくさんある。初めてだからしょうがない。

試したことがたくさんあるから、私は失敗が珍しくないことを知っている。

失敗する自信がある。つまり、自信はない。

自信がないことに、自信を持っている。

 

 

「分かりやすい成功」にあまり価値はない

お金がある。

社会的地位がある。

賞をもらう。世間から認められる。

 

目に見える、他人が与えてくれるもの。

それらは、確かなもののようで、確かじゃない。

だからいくら集めても、いつまでも渇きが癒えない。

 

この地球は、今までもこれからも、ずっと続くだろうか。

残念ながら、地球にも寿命がある。

地球のプレート運動は、地熱をエネルギー源としている。

この地熱は有限であり、地球がある程度冷えてしまうとプレートの運動も止まる。

プレートの運動が止まると、太陽からのフレアで、いずれ地球の大気がはぎとられていき、海水は蒸発し、数10年程度で火星の様な不毛の地と化す。

いずれ地球上のすべての生命は消えてなくなる。

私にいずれ寿命が来るのと同じに、万物にはすべて終わりがある。

そのことを考えると、お金をどれだけため込もうと、どれだけ他人が賞賛しようと、それが永久に残るわけでは無い、ということがわかる。

だから、分かりやすい価値に、そこまで価値はない。

いずれ消えるからだ。

 

では、何が価値あるものなのか。

それは、今存在している「私」という役割を果たすこと。

今という時間を生きる一個の存在として、全力で自分らしく生きることが、自分であることを全うする、ということ。

豆粒のような小さな存在。誰もがそう。だから尊いしかけがえがない。

小さな存在こそが世界を覆い、だからこそ世界が成り立っている。

「今」という時間を構成するために、私もあなたも必要不可欠な存在だということ。

それが最も重要な価値あること。

つまり、存在し、自分らしく生きていることそのものが、真の価値だ。

分かりやすく、褒められる必要もない。認められる必要もない。たくさん稼ぐ必要もない。

それは「価値がある」と自分自身を肯定することができないから必要だと錯覚するだけで、まるっと自分そのものを肯定してしまうと、きれいさっぱり要らなくなる。

つまり、他人がつくった「確からしい証明」は、無くていい。

 

生き死にを越えて追い求めるべきもの

親が子どもに莫大な財産を残したとして、果たしてその子は幸せだろうか。

往々にして、2代目・3代目はその財産を食いつぶしたり、要らぬ贅沢をして、一生を終えていく。その歴史を鑑みるに、金銭的な遺産を引き継ぐことは、およそ幸せとは程遠いのではないかと感じる。

何か金銭的・物質的に価値があるとされるものを残さなければ、我が子は幸せに生きられないだろうか?

自分の子どもの可能性をそんなに軽んじてはいけない。

本人の幸せは、本人にしか決められない。

失敗する経験こそが糧となる。試行錯誤のなかで自らを考え行動し成長していく。生命はいずれの個体もその力を充分に持っている。

自分たちの子どもが、自分で自分の生きる道を探せないわけがない。

「きっとできる」

そう信じて任せることこそ、本当に愛するということではないだろうか。

 

自分で自分の命そのものを肯定できさえすれば、生きること自体を楽しむことができる。

逆にそれが親自身にぽっかり抜けているから、何かを残さないと安心できないし、何か結果にならないと子どもを褒められない。

自分を肯定できないから、子どもを信じられない。

子どもを信じられないから、過干渉して世話を焼き、「あなたの幸せのため」と言って「経験」と「失敗」という果実を横取りして、AC(アダルトチルドレン)という呪いを残す。

自分の人生を楽しめない親が、子どもの人生を楽しくないものにする。

他人へ与えられる唯一のギフトは、自分がご機嫌で、希望に満ちて人生を生きていること。

私たちはそんな姿を、子どもたちに見せられているだろうか。

 

「My life is my message.」

「私の人生が、私のメッセージ」というガンディーの言葉。

親が子供に残せるのは、人生の先輩として楽しんで命を生きている姿。生き様。

だから、お金を稼ぐため、家族のため、と自分に言い聞かせて、やりたくもないことをやらないほうがいい。それは逆に家族のためにならない。

他人に認められるために、人の目にビクビクしながら我慢したり遠慮したりしないほうがいい。

ため息をつきながら嫌々生きる必要はない。

自分の気持ちに素直にのびのびと生きればいい。

他人の目など気にする必要はない。

好きなことを言わせて、好きに評価させておけばいい。それはあなたの価値に1ミリも傷をつけたりしない。

自分のご機嫌をとろう。

それが最も大切にするべきことだ。

「自分のことばかりでいいのか」と他人のことを気にかけるヒマがあるなら、自分自身が人生を最高に楽しくご機嫌で過ごすことだ。

それだけが、他人に与えられる唯一の贈り物だ。

 

こう思えるようになると「他人の目を気にしてやりたいことができない」という悩みは、消えてなくなる。

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