仕事をしながら生きていくのって、しんどいですよね。
働かなくていいなら、金のことなんて気にしなくていいなら、どんなにいいでしょうか。
生きるのに金が必要な資本主義経済社会では、何でも金金金カネ…。
ひどくつまらない、価値観が固定された、いろどりの希薄な社会だなと思います。
会社で働いていて私が思うのは、金や権力が好きで、あまり深く物事を考えない人間ほど、この社会は生きやすくできているということです。
仕事とは一種のゲームです。
金を集める。そのためにいろいろな手練手管を使って目的を達成する。
結局はこれだけの遊びです。
仕事に意味なんてない。人生における意義もない。金儲けが目的のレベルではね。
心から顧客の役に立とうなんて考えて仕事をしている人は、ごく一握りだし、そう思っていても組織内のプレッシャーに負けて手前勝手な都合を押し付ける営業をしてしまうことがほとんどです。
結局は我が身大事で、他人のことなんて心の底では気にかけていない。
そのくせ、「顧客のために」とか「社会のために」とかきれいごとを並べます。
だから言うことが薄っぺらいし、所作は偽善がにじみ出て、どこかうすら寒い。
私が仕事で社内の人間と会うだけで疲弊するのは、こういう「気持ちが悪いもの」を見せつけられる気持ちがするからでしょう。
私は会議に出るだけで翌日まで人と話をしたくなくなります。
そんな元気はまるでなくなってしまうのです。
意味のない、ただ自分の欲望を実現したいだけの分析や考察を長々と聞かされるだけで、うんざりです。胃もたれします。
素直にそういえばいいものを、聞こえがいいように、耳障りの良い言葉に置き換えてしゃべるから、脳が混乱するので、気持ち悪くなります。
「建前」って、本当に気持ちが悪いんですよね。
ADHD・ASDだからかもしれませんが、本音なのか嘘なのか、冗談なのか本気なのか、人と会話しているといつも測りかねます。
たとえば妻は発言の内容に冗談が80%くらい含まれていますが、出会った当初は冗談で言われた『いじり』に対して真に受けて「なんてひどいことをいうひとだろう」と思ってました。(笑)
思えば幼少期から、いわゆる『いじる』という感覚がよくわからなくて、発言一つ一つに傷つきながら苦笑いを浮かべていました。「冗談だよ」といえば、どんなひどいことでも言ってないことになるのか、と解釈違いをして、辛辣なことを言ってしまい他の子を泣かせてしまったり、怒らせてしまうことがありました。それからは「私には『いじる』というのは高度過ぎてできない芸当だ」と戦線離脱してただ横で調子を合わせてニコニコしたりウケたふりをしたりするモブに徹しました。
正直、なんてこいつら笑ってんだろ?って思ってまったく楽しくありませんでした。友人との会話って、そんな感じです。
一定の役割をやって、起承転結というか、序破急というか、オチをつけてという一連の作業。それには、なんの新規性もありません。
冗談を言い合える程度に「自分と相手の仲が良い」ということを確認するための儀式なのだろうか。それは、不安を埋めるための児戯にすぎないのではないか。何も生産的ではなく、新たな驚きもなく、不安を見て見ない振りをするために他人と自分の時間を犠牲にしているようにしか思えなかったのです。
結局人間はひとりなので、どれだけ仲が良いと錯覚していようとも、それは確かめようがない。相手が腹の底でどう思っているかなんて、定量的に測ることはできない。
つまり、それを確かめようがないのだから、気にしても仕方がない。
私が確かに相手を好きで、愛しているのなら、それを伝えることしかできない。それは人間なら誰しもそうでしょう。
話がそれましたが、つまり「建前」を言われるとそれを信じようとする脳みそを持っているので、とても困るわけです。
本当はそう思っていないのに、そう思っていると錯覚してしまうから。
顧客のためというので、顧客のためになることを真剣に考えたら、ドン引きされますからね。
「いやいや、お前何マジになって慈善事業しようとしてんの?ビジネスなんだから金儲からなきゃダメでしょ」
っていうんですけど、いやいやそれなら「どんなことをしてでも金を稼ぎたい」って言ってくれよ、って感じなんですよね。
どうせ金がほしいだけなら、変なおべんちゃらくっつけんなよ、と。
程度の違いだけの話であって、金が欲しくて顧客をコントロールして売りつけたいだけなら、オレオレ詐欺でもなんでも結局はやってること変わらないじゃん、と。
そう思っちゃいますね。
だから会議で「建前」言われるの、すごく疲れます。
「といってますが本当は?」と考えながら聞かないといけないの、イライラするんですよね。
社会人向いてないなーって思いながら、途中からぼーっとしてます。
金儲けっていうゲームは、つまんないんですよ。私からすると。
なぜかというと、この世のものはいくら集めていくら所有権を主張しても、結局は世界のモノであって、自分だけのものではないからです。
この世にいる間借りているだけ。どんな富豪もどんな偉人も、金や権力は本当はその人のモノではない。全ては脈々と引き継がれてきた生命の歴史の一瞬を切り取ったに過ぎないので、その一場面で金を持っていたり権力を持っていたりするのって、虚しいことなんです。
たとえば、みんなで使うコップがあったとして、それに水がたまたまたくさん入っていたとしますよね。
それを、そのときたまたま使う順番だった人が、「俺のコップに俺の水がたくさん入ってるぜ!」と言ったとしたら「はぁ?みんなのコップだし、たまたまたくさん入ってるだけじゃん」ってなるでしょ。
そういうことです。
この世に存在するものは全てが有限で、誰のものでもない。
誰もが必ず死ぬし、死んだら持っていたものは誰かの手に渡るだけだし、そんなものに執着しても何の意味もない。
って考えると、金は必要最小限だけあればいいし、無理して社会に認められたり何かの称号を誰かに授けてもらう必要なんてないし、他人にどう思われようが好きに思わせておけばいいわけです。
だから、出世には何の意味もないし、職場で人望があるかないか、上司や同僚に好かれるか嫌われるか、はどうでもよい問題で、私たちの貴重な時間の大半を割くほど優先度は高くない。
そういうわけで、根本的に仕事って、意味ないしつまんないんですよね。
だけど、この世の大半の人は、そういうつまんないゲームを寝る間を惜しんで時間を投資するほど好きだったり、人生を見誤るほど熱狂している。
それを私はなんとなく眺めていて、変わってんなーと思っている。そんな感じです。
「じゃあそんなにスレてるあんたが、価値があると認めるものって何なのさ?」
と言われれば、今このときをあるがままに生きることだ、と答えます。
なんのために、とかない。誰のために、でもない。
絶対感によって無条件で生きること。
これには価値がある。
つまり、仕事というゲームにいそしまなくとも、社会不適合であろうとも、充分に人生には価値がある、ということです。
あるがままに生きていて、ワクワクして、何かやってみようと思いたつ。
その先に人生を通じて感じるべき、生命の歓喜がある。
もちろん楽なことばかりではなくて、何かをやってみよう、ここまでやってみたい、という己の目指す場所にたどり着くためには苦しみはつきものですし、時につらく苦しく光を浴びない側面がともなうことから、何も知らない他人には、上京が悪くなっているようにも見えたりします。
「あいつは道を踏み外した」「あいつはエリートコースから外れた負け組」と、仕事ゲームに夢中な人は、歓喜を道しるべに生きる人に、そんなことを言うかもしれないですが、勝手に言わせておけばいいのです。私からすると、見当違いも甚だしいのですが、彼らには彼らの価値観があり、それは良くも悪くもない。彼らの人生は、彼らの人生です。がんばって、彼らなりの価値観で一生を全うしてくれればそれでよろしい。私の人生には深く影響しない人たちです。
今あるものを失うことを恐れて「でも○○してからにしよう」とか「○○になったら損だからやめておこう」とか、そういうふうに自分のまごころを裏切っていると、雁字搦めになって、結局他人の道具としてやりたくないことをやるだけの人生になってしまいますよ。
その現実を見て見ぬふりをしたくて、「仕事こそ人生だ」とか「社会人は働いて社会に貢献する必要があるんだ」とか独自の価値観を他人にも強要したがるようになってしまうのです。余計なお世話なんだよね。それはあなたが今に不満があるのを、見て見ぬフリしたいだけでしょうが。そっちの問題こっちに押し付けてくんなよ、って感じです。
無条件で生きる、というのは、そういうことです。
「○○したら○○しよう」なんて勝手に条件を付けない。
やりたいと思ったら、それが正解なんです。
むしろそれだけが、耳を澄ませるべきことなんです。
正論や常識なんてどうでもいい。あんなのはゴミです。
生きているという確かな感覚は、ワクワクドキドキを感じる心にしか宿らない。
自分の心に素直に生きるって、この世ではどんなことよりも難しく、どんな鍛錬よりも厳しい道なんですが、本来はそのために、私たちはリソースを割くべきなんだよな、というお話でした。