【AC】「被害者」として生きる『嗜癖』を手放す

こういうタイトルにすると、なんだか責められるような予感を感じる人がいるかもしれないが、そんなことはないので安心して読み進めてほしい。

それにこのブログの記事は私が私の人生において感じる話なので、誰かの何かを責めるために書いているのではない。

基本的にこのブログはそんな感じのスタンスである。

 

さて、私は「被害者」として生きているほうが、自分の生きづらさをみないためにはとても都合がいいので、いつも誰かを責めたり、誰かの粗探しをしていたように思う。

その結果、私は他人を自分を見ないための道具として扱っていて、だから他人と深く付き合えなかった。なので、友達ができなかったし、親友がいないのだ。他人に好意を持たれなかったのは、私が他人を道具扱いしていたからだと思う。

全部、他人がどうのこうのというより、自分の在り方の話だったのだ。今振り返ると、そう思う。

でも、それはしょうがなかったと言えばしょうがなかったんよ。

だから「同じようにやっちまってたなぁ…」と思う読者がいたとして、私は「私も同じように、やっちまった人間だから、わかるよウンウン」と言いたい。

ベストなのはそりゃ最初から他人にアサーティブに道具扱いせずに接することができるほうがいいさ。

でも、私はACとしての課題を抱えていて他人とまごころから接することなんてとてもじゃないけどできない状態だった。

理想なんてわかってても、できなかった。それは誰のせいでもない。

 

もちろん、親が未熟だったのでACとしての私が爆誕したわけで、割と親のせいで苦労したというのはある。

もっとありのままを尊重してくれて、私の感性を正論で否定しないでくれたなら、別の人生もあったかもしれないと思う。だからこそ、私のペンネームは「ちあき」という名前なのだ。「ちあき」にしようか、今の本名にしようか迷って、結局「ちあき」は取り下げられた候補だったそうだ。もしも「ちあき」だったなら…という人生の分水嶺的な意味で私は人生の面白味を感じて、この名前を名乗っている。いわば、ブログのなかの私は、もう一つの世界線の私でもある。

 

話がそれたが、私は親を長らく心のなかで責めてきたし、恨んできた。

今もそんなに仲良くする気はない。私の目の届かないところで早く死んでほしいと思っている。彼らの生き方はあまり変わらないようなので、それなら私はあまり関わらないことを選ぶ。それだけの話だ。

こういう正直な親に対する感情をうっかり何も知らない他人に話してしまうと、だいたい中年以降の人々だが、よってたかって私にクソバイスをする。

 

「まだ若いから。親の気持ちがいずれ分かるわよ」

「でも、見えないところで親の努力のおかげで育ってきたのよ」

「親は本当にすぐボケて会話できなくなるから、早めに和解したほうがいい」

「親がかわいそう、仲良くしてあげてよ」

 

うるせぇ。(笑)

親になり親の気持ちはなんとなくわかってきた。仕方なかった部分もあることも。

しかし、親がやってきたことをどう思うかは、子どもの私にしか決められないし、他人が否定するものではない。

ぶっちゃけ、子どもの私が「地獄のような家だった」と思うなら、それが真実なのだ。外見的にどれだけリッチで幸せそうだろうが、親の愛情が深かろうが。それは子供には関係ない。子どもがどう思うかは、子どもの権利だ。それを否定するのは、人権侵害である。

 

そして、親が子供を権利あるいっこの人間として尊重して育てるのは、当然のことだ。

「子どもの権利条約」 一般原則

・生命、生存及び発達に対する権利(命を守られ成長できること)

すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう、医療、教育、生活への支援などを受けることが保障されます。

・子どもの最善の利益(子どもにとって最もよいこと)

子どもに関することが決められ、行われる時は、「その子どもにとって最もよいことは何か」を第一に考えます。

・子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)

子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します。

・差別の禁止(差別のないこと)

すべての子どもは、子ども自身や親の人種や国籍、性、意見、障がい、経済状況などどんな理由でも差別されず、条約の定めるすべての権利が保障されます。

引用元:ユニセフHP>HOME>世界の子どもたちを知る > 子どもの権利条約

 

 

ユニセフの「子どもの権利条約」にもあるように、これらの権利は当然与えられるべきものだ。それが子供をつくった親たちの責務であり、社会の責務だ。

そんな責務を果たすのは当たり前なのに、子どもに対して恩着せがましく「育ててやった」みたいに言ってんじゃねーよ、と思う。

生んで育てたことを担保にして感謝と献身を引き出し搾取しようとするのは、詐欺みたいなもので、とても質が悪い。

子どもが仲良くしてくれないのは、そういう詐欺を親がいい年こいて今もなおやろうとするところが忌避されているだけだし、それに気づかないで死んだりボケたりするのは「ああ、理解が間に合わなかったね、どんまい」で終わりなのである。子どもにしりぬぐいをさせようとするのはお門違いである。

 

とまあ、ボロクソに書いたが、親側が勘違いしすぎな感がある。

子どもに「お父さん、お母さん、育ててくれてありがとう」と言われたい気持ちはわかる。

気持ちは分かるが、それを言わせるために洗脳したり抑圧したりするのは、

『子どもを道具に使っている』のだ。

 

ん??どっかで聞いたような。

 

そう、冒頭の話に帰ってくる。

「他人」を「自分を見ないための道具」に使っている。

 

それは、私そのものだ。この態度は、親から学んだものだったのだ。

親が私を「自分を見ないため道具」として使ったことをしっかり経験的に学んでいて、私は他人との関わり方をそのように徹底したのだ。なんて素直で勉強熱心な息子だろう。涙が出そうだ。(笑)

 

そうした何らかの目的のために特定の何かをやりがちな状態を「嗜癖にしている」という。

「嗜癖」とは英語で「addiction」ともいう。つまり「依存症」、有害な習慣を意味する。

 

親も結局、この他人を道具として扱うことをやめられないために、子どもとの関係が破綻したと言える。親の在り方次第だったのに、いまだに子供に対して親に歩み寄る努力を求めている。この不自然さ、不健全さがわかるだろう。

先の私にクソバイスを言う人々は、依存しているのだ。子どもに。

自分の問題をみないために、自分の心の穴を満たすために存在する道具扱いしている。それにまだ気づいていない。

むしろ親として正当なことだと思っている。だから子供はますます病むし、親に失望し心がだんだん離れていく。いつになったら気づくんだろうなぁ。否認を解くのはとても難しいんだな、と思う。

 

親は、親自身の課題に全集中するのがベストだ。

というか、親に限らず、人は全てそうだ。

自分自身の生きづらさや人生の課題について、プライオリティを第一において取り組んでいる限り、最も豊かな人生を送ることができる。

他人をコントロールしようとせずそのままを尊重し、全ては無理でも一定数を愛することができる。なぜなら他人は自分と同じ世界の一部だから。

 

最近、自分の人生を一番に生きるようになって、他人と少しずつ深く語ることができるようになってきたと思う。

例えば私が自殺しようとしていたこととか、アルコール依存症になった経緯とか、素直に率直に話す内容を受け止められる人は、同じく率直に自分自身を語ってくれる。

そうやって、他人はそれまで知らなかった辛いことや哀しいことを、なんとか乗り越えて生き延びてきたことを知る。

それは、私とは違う人生だけれども、懸ける思いは同じだったのだと。

得も言われぬ、人生への深い愛と真摯さが根底に流れていて、それで自分と他人は繋がっていたんだと気づく。独りではないと気づくというのは、そういう感覚だ。

 

この繋がっているという感覚。自己開示しなければ得られない繋がり。

繋がっているという実感がないからこそ、寂しくて独りぼっちで、何かに「嗜癖」していなければ生きていられないほど辛い。

しかし、拒絶されることが恐ろしいので、自己開示できないから、最終的に欲しいものをいつまでも手に入れられず(実感できず)に、苦しみ続けている。

 

それが、子どもを道具に使おうとした私の親と、他人を道具に使おうとした私自身の、真の姿だった。

 

その姿を隠すためには「被害者」である必要があった。

「私は悪くない」と他人に言い訳するための隠れ蓑が必要だったから。

全部、本当は自分のことしか考えていない。

そうやって「被害者」として独りぼっちで自分のことばかり守ろうとして、自分を自分に閉じ込めたまま生きているから、苦しい。

 

変えられないものを受け容れる落ち着き。

変えられるものは変えていく勇気。

それら二つのものを見分ける賢さ。

 

それらが与えられますように、と祈ろう。

そして、勇気を出して「被害者」として生きる嗜癖を手放そう。

その先に、本当に欲しかった繋がりがあり、真の安らぎがある。

それが、本当の意味で子どもを愛することに繋がる。

やらない手はない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です