【依存症】仕事依存症(ワーカーホリック)はゲーム依存症

最近、社会学者の宮台真司さんの話が面白すぎて、ずっと聴いている。宮台さんの話に感化されてうすうす思っていたことが確信に変わる。それが実に快感。腹落ちすることばかり。分かりみの嵐というべきか。

そんな確信に変わった事柄をつらつらと書いてみる。

 

ヴェーバー予想の実現

まず、宮台真司さんが言う「ヴェーバー予想の実現」から紐解かなくてはならない。

ドイツの政治学者・社会学者・経済学者であるマックス・ヴェーバーによって、今の社会システムが限界を迎えることは喝破されていた。

複雑な社会システムを運営するためには計算可能性が必要。

なぜなら計算可能性が無くては投資可能性が無いから、資本主義が回らないから。

そして計算可能性を担保するためには行政官僚制が必要。

行政官僚制とは、ヒエラルキー構造を持った組織運営で、属人的にならないようにシステムにとって取り換え可能な存在として人間を部品化することに他ならない。

行政官僚制でしか回らない社会は、他の組織の形態と比して、業務の正確性と継続性や、曖昧性と恣意性を排除するなどの側面が認められうる。

しかし他方、行政官僚制は形式合理性の論理にしたがって組織を閉鎖化し、単一支配的な傾向を生み出す。

つまり合理性を求めれば求めるほど人間性はノイズになるので、人としての性格がどんどん削られていき合理性と組織の奴隷になるしかなくなる。

この経済的システム的豊かさを求めるが故に人間性の欠落に陥ることの閉鎖性を、ウェーバーは「鉄の檻」と比喩した。

行政官僚制のなかでは人事(権力)と予算(金)が人を支配するので、上の意向を尊重し周りをキョロ見し自分のポジション取りしか考えない損得勘定だけで動く「損得マシーン」が自然と増える。

同時に、行政官僚制は文書による事務処理を原則としているので、人々は自分で考えるのをやめ既存のもっともらしい言葉・概念の持つシステムや体系にそのまま乗っかるようになる。

プログラムのように言葉によって自動的に動くだけで、自分の感情にも他人の感情にも鈍くなり「感情が劣化」する。

なので、人々の「言葉の自動機械」化が進む。わかりやすく言えば、主語がでかい人。

中国に行ったこともないのに「中国は〜だ」と語ったり、性というカテゴリで安易に分けて反応するミソジニーやミサンドリーのこと。

しかし、この行政官僚制に基づく社会システムに乗らなければお金が稼げないし生きていけないので、結局人々はシステムの支配から抜けられない。法に閉じ込められた人々を指して「法の奴隷」と呼ぶ。

この「損得マシーン」「言葉の自動機械」「法の奴隷」が3つそろうと「人はどんどんクズになる」と宮台氏は言う。ヴェーバーは「没人格」と表現していて、つまり結局人はシステムに頼れば頼るほど、人間をやめていくということだ。

「鉄の檻」つまり宮台氏のいう「クソ社会」では、どんどんクズが生まれていき、結局頼みの綱だった民主主義や民主制は育たなくなる。「鉄の檻」の破綻は、その存在そのものが持つ性質上、成立した瞬間から運命づけられているということ。

ここまでのことを予見したウェーバーは絶望して神経症になってしまうわけだが、「ウェーバー予想の実現」は、自称「先進国」日本において、先進国らしく世界に先駆けていよいよ完了しそうだ、ということ(社会システム崩壊のトップバッター)。

今の社会の阿鼻叫喚の正体は、システムそのものに最初からプログラムされていた。当然の帰結だったのだということ。

行政官僚制は何も政治経済だけではなく、ありとあらゆるところに蔓延っている。だってそれが資本主義経済社会の在り方そのものだから。

つまり経済活動である「仕事」などは、例外なく「鉄の檻」の内側の出来事でしかない。

すなわち働く人々は組織的であればあるほどクズ化(法の奴隷×言葉の自動機械×損得マシーン)していくのが、むしろ当たり前なのだ。

だから、私が日ごろ同僚や上司の良心の欠如を嘆き「なんでなんだろう?」と頭を抱えていたのは、とても滑稽な話だったのだ。だって当たり前のことなんだから。

「もしかしてこの世の中のほうが間違っているのではないか?」とうすうす感じてきた感覚は、まさにビンゴだった。

この日本社会(日本に限らず資本主義社会全部だけど)がクソ社会なんだから、正常な思考能力を持っている人ほど生きづらくて絶望するのは、当たり前だったということ。

だから依存症になるほど悩むというのは、むしろ上等な人間だという証明でもある!

私は依存症者であることを誇りに思うと同時に、自分の人間性を確認出来てとても安心した。

 

クズにより世界規模で繰り広げられるMMORPG=仕事

結局大企業にいるいわゆるエリートサラリーマンや行政・政府に所属するエリート官僚や政治家が何をしているかというと「ゲーム」だ。

泥船であるこの社会のなかで、限られた椅子を奪い合う椅子取りゲームをしている。

分かりやすく言うと「出世しようゲーム」「成果出そうゲーム」「勝ち組になろうゲーム」だ。これは男性だけではなく近年女性も参戦している。性差はない。

(言語ゲーム理論について話した記事でも似たようなこと書いたなあ。)

地位・名声・名誉・権力。これらをいかに集められるかというミッションを掲げ、貨幣価値を共通言語として「MMORPGMassively Multiplayer Online Role-Playing Game、マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム)」つまり「大規模多人数同時参加型オンラインRPG」をやっている。

このゲームにおいて、プレーヤーの人道的・良心的な価値観は、どんどん剥ぎ取られていく。当然だ。だってクズ化がレベルアップだから。

法の奴隷で、自分で何も考えなくて、損得勘定だけで動くもはや人の形をした「人間をやめたもの」にならなきゃ、このゲームでは勝ち残れないから。

学歴や資格などはたとえば「課金アイテム」と位置付けられる。

不平等の極みだが、経済的に恵まれていなければテストを受けるチャンスすらもらえない。ガチャをまわす金がないのと同じ。もともと初期値で割り振られた所持金が低いからアイテムが手に入れられないプレーヤーが一定数いる感じ。

一定数のゲームランク上位にいるクズたちが強くてニューゲームして、「課金アイテム」を独占し、よりボロ勝ちするために自分たちに有利なようにガチャ自体の設定を好き勝手いじっている。

上位ゲーマーたちは下位のゲーマーは負けてんだからログアウトすればいい(死ねばいい)と本気で思っている。「下手で弱いヤツはやめちゃえよ」と課金アイテム使いまくってふんぞり返ってるイメージ。

だからこの社会では、お金がある人がよりお金持ちになるための法制度を行政府をコントロールして成立させるのが当たり前。

そうやって現に日本は、グローバリズムによってどんどん国の財産であるヒト・モノ・カネを、なますに切り刻まれている。そして、これから激安で海外にたたき売りする予定だ。

日系大企業で働いていて思う。

社員は本当に、社会や消費者のことなど考えていない。クズこそ出世するクソシステムだとしみじみ実感する日々である。

御上のご機嫌を損ねず、周りに合わせておいて要所で騙して出し抜く。限られた椅子をいかに自分のモノにするかしか考えていないプレーヤーばかり。

 

エリートサラリーマンの面白いところは、総じてこのクソみたいなゲームに依存していることだ。

仕事そのものは決して悪いものではないのと同じように、ゲーム依存症の当事者からも「ゲームそのものは悪くない」という話をよく聞く。共通している。

ゲームにも良さはある。

ITスキルの向上であったり、ゲーム好き同士の利害を超えた繋がり(仲間・居場所)であったり。資本主義に寄らない社会的価値を生み出すプラットホームとしての価値を持っている。

同様に仕事も社会とそこに住む人々を豊かにするためにするのであれば、これほど自己実現できるものはない。

仕事を通じて心を通わせる瞬間はあるし、仕事という共通言語のなかで育まれる共同体はときとして損得勘定を上回る。

 

ゲーム依存症と仕事依存症

つまり、ゲーム(仕事)それ自体は悪くない。

ゲームに依存して人としての道を踏み外すことが問題だということ。

ゲーム依存症では、ゲーム以外に楽しみを見出せなくなったり、実生活をおろそかにしてしまうなど、仮想空間に入れ込むあまり不健全になっていくことで自分だけでなく他人にも悪影響を及ぼすことが問題だとされる。

仕事に依存するワーカーホリックも全く同じ。

仕事依存症だと仕事以外に達成感を味わえるものがない。その結果、夫婦生活や親子の関係を犠牲にしてまで椅子取りゲームに夢中になる。それにより機能不全家族という不健全性を自分にも他人にももたらす。これがどれだけ有害かに無自覚で、このクソ社会にとっては問題にならないことが問題の本質なのだが、ほとんどの人がわからないまま病んでいく。

そしてゲーム依存症や摂食障害と同じように、うまく付き合いながら生きていくしかないのが、残念ながら今の時代だ。

資本主義経済社会で生きていく以上、お金は血液みたいなものなので、仕事をせずに生きていくことなどなかなかできない。

この世で生きる限り経済活動を余儀なくされる。

食べ物を食べなくては生きていけないように。ゲームによる繋がりが必ずしも悪ではないのと同じように。

要は、依存症に陥らないためには『「鉄の檻」の外側をもつこと』『損得に寄らないで関わり助けあえる「仲間」をもつこと』が重要だ。

宮台氏がいう社会という荒野を仲間と生きろというスローガンは、まさにこのことだと理解している。

ゲーム依存症でいえば、自助グループ。

仕事依存症でいえば、仕事以外に意味を見出せる繋がり。

家族でもなんでもいいから資本主義経済社会とは一線を画した共同体を持つことで、人はなんとか「鉄の檻」の外側に自ら己の居場所を創り出す。それでいて初めてクズでなくなることができる。クズ社会から一歩抜け出すことができる。

 

つまり世に言う「勝ち組」というのは、ただのジャンキーなんだということを覚えておきたい。一昔前に言われたネトゲ廃人というのに似ている。

仕事というゲームにどっぷりハマって、何が良きことで何を感じているかを考えることを放棄した人たち。

「俺のほうがすごい」

「俺のほうが偉い」

「私のほうが優秀だ」

と周りをキョロキョロ伺いながらゲームで勝つために何もかも犠牲にして人間をやめたクズ。

それが、今の社会で認められている人だ。

だから、むしろ社会から認められないほうがいい。

そのほうが誇らしいことなのだ。社会からボッコボコに叩かれるほうが「ああ、俺ってやっぱ間違ってないわ」と安心するというもの。

社会から否定されることこそ「まともな人間である」という証明だと思う。

だって社会は、いずれ滅びるクソ社会だから。そんなもんに認められちゃったら「おめでとうございます!あなたもいずれ滅びる方向に向かってる一味だよ」とクズに笑いかけられている状況なわけ。

むしろ背筋が凍る話だと思わないか。

 

まとめ:仕事がゲーム化しているからゲーム依存症と親和性を持つのは当たり前

仕事がゲーム化している以上、仕事依存症はゲーム依存症である。

そして、今日本社会ではありとあらゆる人が没人格化、つまりクズ化しつつあるので、クソ社会の沈みゆく泥船のシステムのなかで生き残りをかけてバトルロイヤルをやっている。

例えるならば、サービス終わりかけのリアル『フォートナイト』なのかな。

MMOPRG要素を追加した「フォートナイト改」のなかで、一生懸命課金して毎日毎日必死こいて他人と殺し合いしてるんだけど、もうサービス終了がすでに決まっていてそろそろなのに気づいていない感じ。

ゲーム以外に何も関係性を育ててこなかったゲーマーの末路は想像に難くないよね。

だからアホみたいに仕事依存症になってないで、経済的価値観では測れない、己の人間性に共鳴する経験や繋がりに投資すべきなんだよ。

「金になるか、ならないか」で考えると心がどんどん貧しくなっていくのはつまりそういうこと。

経済的価値はゲームのなかの通貨の話で、ドラクエの「ゴールド」はいくら集めても現実世界では何の恵みも与えてくれないでしょ?

アルコール依存症の私がお酒をやめてから言うから間違いないけど、リアルにもたくさん依存していたこと以外に面白いことはあるし、それはお金なんていうクズの価値の物差しでは測れない価値なわけ。

いろいろ話が飛んだけど、依存症ってこのクソ社会が生んだ社会的な病で、むしろ踏み絵的位置づけだと最近思うんだよね。

こんな人が人でなくなるようなシステムに順応できる狂人が健常者で、システムが嫌すぎて他に何かドラッグ使わなきゃとてもじゃないけどやってらんねーよ…っていう人間をまだやめてない連中が依存症者なのよね。

たとえば「覚せい剤やめますか?人間やめますか?」なんて腸ねん転起こすくらい笑える高度なギャグ。「おまえらみたいなガチガチの行政官僚制のなかで椅子取りゲームやってる、生粋のジャンキー(マトリの方々)にそんなこと言われたくねーよw」って話なわけ。

だから依存症の人たちは胸を張ってほしい。あなた方こそ人間の希望だし、まだ人間だという証拠だと思う。

恥でもなんでもない。むしろ名誉だよこれ。だって社会がクソだしクズが評価される世の中なんだもん。そりゃ依存したくもなるって。

そんなことを思うわけです。

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