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【依存症】アルハラは人を殺す?知ってほしいアルコールの知識

みなさんのなかには、こんなこと言ったり言われたりした経験がある人、いませんか?

 

「乾杯はビールだろ!烏龍茶で乾杯なんて失礼だぞ!」

「上役やお客様から注がれたら、飲めなくても飲み干すもんだ!」

「酒の上での失敗なら、俺もやったことある。多少飲み過ぎたって大丈夫だ!」

「記憶なんてなくなることなんて、たまにはあるよ。ふつうふつう。それは今日飲まない言い訳にはならんぞ。」

「ていうか、飲まない奴はつまらん、飲め!」

「飲まなくてもいいんだよ?飲まないなら、分かってると思うけど、それは君の自由だからさ。」

「お酌しにくる立場で、瓶ビール片手に、自分は烏龍茶なんて、もしかしてバカなの?」

 

これ、口にしている人は要注意です。

ちなみに、全部、私が言われてきた言葉です。笑

 

これから社会人になる皆さん、そして、大学生になる皆さんにも、ぜひ知っていてほしい知識として、「アルコール依存症」「急性アルコール中毒」の知識があります。

今回は、アルコール依存症でない人々に向けての視点でアルコール依存やアルハラについて書いてみたいと思います。

 

 

本人が認めたがらない病「アルコール依存症」

 

過度の飲酒により記憶をなくす事を『ブラックアウト』といいますが、これを2回以上経験していたり、酒の上での失敗を繰り返し、反省したり後悔したりしているのに、飲む量をコントロールできなかったり。

 

こんな経験がある人は、だいたい、「アルコール依存症」か、その一歩手前です。

 

「アル中ワンダーランド」という、まんきつ先生のノンフィクションアル中実体験漫画がありますが、その1コマにも「そんなのみんなそうじゃないですか」と自分がアルコール依存症だとは認められないシーンがあります。

 

 

 

アルコール依存症の診断をされても、当初は、本人は依存症だなんてこと、全く信じません。

もしかしたらご家族も、困ったような愛想笑いを浮かべるだけでしょう。

「ウチの旦那に限ってそんなこと…」ってね。

 

特に40〜60代の企業戦士時代の方々で、24時間働けますか?な超体育会系。

モーレツに仕事を頑張って高度経済成長期に時代を作ってきた、素晴らしい年代の方々。

この年代のお歴々は、特に「アルコール依存症」という病気に関してはいくら説明しても、平行線を辿るばかりで、全然伝わらないから、本当に辟易としています。

元々優秀な方々なのに、説明しても理解できない・しないのは、実は本音では「理解したくない」から。

実は、こういった人たちは『否認』しているだけで、むしろ本人たちそのものが「アルコール依存症」だったりします。

アルコール依存症が、「否認の病」と言われ、治療介入が遅れる所以です。

 

お酒をしつこく勧めるのは、とても危険

 

「失礼な!私はアル中なんかじゃない!」というなら、そうなんでしょう。

 

でも、せめて、無理やり飲ませるのは、ホントやめましょう。

アルコールは薬物です。

アルコールで人は死にます。

 

アルハラの定義は以下の通りです。

 

【アルハラ】

アルハラとはアルコール・ハラスメントの略。飲酒にまつわる人権侵害。命を奪うこともある。

特定非営利活動法人ASKおよびイッキ飲み防止連絡協議会では、以下の5項目を主要なアルハラとして定め、啓発活動を実施しています。

 

飲酒の強要

上下関係・部の伝統・集団によるはやしたて・罰ゲームなどといった形で心理的な圧力をかけ、飲まざるをえない状況に追い込むこと。

イッキ飲ませ

場を盛り上げるために、イッキ飲みや早飲み競争などをさせること。「イッキ飲み」とは一息で飲み干すこと、早飲みも「イッキ」と同じ。

意図的な酔いつぶし

酔いつぶすことを意図して、飲み会を行なうことで、傷害行為にもあたる。ひどいケースでは吐くための袋やバケツ、「つぶれ部屋」を用意していることもある。

飲めない人への配慮を欠くこと

本人の体質や意向を無視して飲酒をすすめる、宴会に酒類以外の飲み物を用意しない、飲めないことをからかったり侮辱する、など。

酔ったうえでの迷惑行為

酔ってからむこと、悪ふざけ、暴言・暴力、セクハラ、その他のひんしゅく行為。

出典:特定非営利活動法人アスク『アルハラ5箇条』

 

これを読んで分かる通り、今ニュースになっている光本勇介さんの行為は、歴としたアルハラです。

恵比寿の飲食店の事件でお亡くなりになった女性に対して一定の責任があることは明らかです。

文春オンライン記事:『《恵比寿テキーラ20歳女性急死》「A子さんは段ボール箱に頭を突っ込んで……」NewsPicks系“天才起業家”「一気飲みチャレンジ」の真相』

 

記事を読む限り、客という立場で上下関係と金に物を言わせて、女性たちに飲むことを断れない圧力をかけてきたことが、まず問題です。

光本氏は本人が飲むことを選択したと言いますが、そんなことはありません。

権力を振りかざされて、チャレンジすることを選ばざるを得ない状態に誘導されています。

コントロールしているのは他ならぬ光本氏であり、そのように金と権力の力で自分の思い通りにコントロールできることを楽しんできたのです。

『相手に無理やりやりたくないことを強要できる』それだけの力があるのだ、と自己顕示欲と自尊心を満たすために、他人をコントロールしたのです。

その結果、一人の女性が命を落としたのです。

『命は、カネより重い』。

それがこの殺人行為の本質です。

光本氏が、そして彼の行為を見て見ぬ振りをし続けてきた関係者全員が省みなければならないことです。

 

光本氏のように、人の命を奪わないまでも。

飲まない、という人にしつこく勧めたり、「つまらんやつ」等と飲まない事を侮辱するのは、ホントやめましょう。

言われる側は、たまったもんじゃありません。

めっちゃストレスです。キレます。

少なくとも10年は恨みます。

 

体質的に本当に飲めない人もいます。アルコール依存症の患者さんの場合は、『アルコールを解毒できなくする薬』である、「抗酒剤」を飲んでいることがあります。

 

どちらの場合でも、ビール一杯でも救急車行きの可能性があります。

呼吸が止まります。

全身が痙攣して泡を吹きます。

飲ませることは、もはや殺人です。

 

酔った勢いであろうが何だろうが、その気があろうがなかろうが、なんの言い訳にもなりません。

もしあなたがすでに誰かにストレスをかけているなら…。

あなたはもう他人から、深く深く怨まれているかもしれませんよ。

 

自己責任だとか聞いてないとか、本気で言ってますか?

「私は強要してない、自己責任だよ」

「そっちが勝手に飲んだんだ、私は悪くない」

「そんな理不尽な!病気ならちゃんと話せばいいじゃないか!そんなの聞いてない、知らなかったんだ!」

「そんな厄介な地雷みたいなやつ、そもそも飲み会に来るんじゃねーよ!」

と、アルハラしたことを認められず、生死を彷徨うトラブルを起こしてから責任逃れを言う人がいます。

 

正直、私はアルコール依存症になるまで、ガッツリ「アルハラする側」の考え方でした。

周りより酒に強かったのも災いして、じゃんじゃん飲んで、「大量に飲めること」を誇りに思っていました。

だから、「アルハラする側」の気持ちも、感覚も、わかります。

 

でも、ですよ…

社会的に間違った認識や差別がまだ根強い、この病。

アルコール依存症と聞いたら、どんなイメージでしょうか?

 

「仕事ができないダメなやつがなる病」

「心が弱いやつがなる病」 などなど。

 

そう思われるのを覚悟するのは、当たり前ですか?

「アル中です」と公言することは、義務ですか?

反対の立場だったとして、言えますか?

 

アルコール依存症でなくても、お酒を酌み交わすことが当たり前という空気の中で、飲まないことを選択できますか?

「飲まない人」というマイノリティの立場で、楽しいはずの場を白けさせるのを厭わず、嫌われたくない人に嫌われるのを厭わず、公明正大に、本当に言えますか?

私は職場の仲間に打ち明けるだけで、口はカラカラに渇き、汗が止めどなく流れて、情けなくも、声が震えました。

 

誰もが飲めるわけではない、という当たり前の配慮

言えないだけで、実は今隣にいる彼・彼女は、お酒があまり得意ではないかもしれません。

もしかしたら、アルコール依存症を患ってきたかもしれません。

あなた方との付き合いを大切にしたいから、必死で努力しながら、烏龍茶で参加してるかもしれません。

「アルコール依存症」は、糖尿病や喘息や統合失調症と同じぐらい、サラリーマンにとって身近な病気なんですが、なかなか知られていません。

そんなこと気にせず、飲みたい人もいるでしょう。

それは、別に否定できません。後悔してもしなくても、それぞれの人生です。

でも、他人に苦しみを与える飲み方・飲ませ方なら、いつの日か、己れに天罰が下ります。

飲むシーズンになるといつもそう思います。

飲まない人のあたりまえ、飲む人のあたりまえ、両方あっていい当たり前ですが、少しのやさしさでお互いに気持ちよく過ごせるのにな、と思います。

【仕事】仕事で他人にマウントを取るの、もうやめました。

今日、私が今まで担当していた仕事を引き継いだ同僚Aさんから電話があったんですよね。

 

Aさん「B(私が担当していた取引先)って、訪問してました?」

私「あー、手紙を出したり訪問したりはしていましたが、ついぞ会えませんでしたね。」

Aさん「あー(笑)私、運がよかったのか、アポイントもらえたんですよ」

私「おおおおー!!マジですか!!よかったですねー!!(*^-^*)」

Aさん「・・・」

私「すごいですねー!!私は会えなかったから何もお伝え出来ることがなくて申し訳ないですが、アポイントぜひがんばってくださいね!」

Aさん「ええ、まあ、・・・はい」

 

「?…なんか歯切れ悪いな」と思いながら電話を切りました。

なんか私が一緒に喜んでいることが意に反しているというか、若干不服そうだったような…なんなんだろう…この違和感。

 

後で考えてみて「ああそうか」と分かり少し寂しくなりました。

彼は、私と一緒に喜びたかったのではなかったのです。

彼は、「ちあきが今までできなかったことをできた俺はすごい」と私に思ってほしくてマウントを取ろうと考えた。

不安に揺れるろうそくの灯のような自尊心を少しでも守りたかったのでしょう。

私は、私の力には限界があること、他人には私にない可能性があることを知っています。いや、理解しようとしています。

だから、当然私には出来ることと出来ないことがあり、私が出来ないことを彼が出来たとして何の不思議もない。

そして、それは喜ばしいことなのです。

得意先に良い影響がもたらされればいいわけだから、私に出来ないことをかれがやってくれたなら、それは私にとって嬉しい報告でしかない。

彼は、私が悔しがり、彼を「すごい」と仰ぎ見ることを期待したのだろうけど、あるがままであれば、私に対してはただそれだけで「尊重されるという目的」はすでに達成されている。わざわざマウントを取る意味はないのです。

 

・権力がほしい

・お金がほしい

・ほめてほしい

・居場所がほしい

 

そういう切なる願いで、一生懸命仕事で認めてもらおうとする事も、また人の営みなんですよね。

最近は「私にもそういうときがあったんだもんな」と、そういうマウント合戦を仕掛ける人を、一歩引いて温かい目で眺めていられるようになってきました。

私をみくびり「俺の方が優秀だ」という気持ちをチらつかせずにはいられないのです。

自分だけで何かを成し遂げることなどほとんどない。

それなのに、他人にやってもらったことの有難みに気付けずにいるのです。

それは、己のなかの不安と焦りを見ないようにしているからです。

それは、かつての私そのものです。

 

「相手に勝ってやろう」

「己の力を、強さを、存在を誇示したい」

「俺を見ろ」と。

そんなことのために剣は、武はあるのかね?

我々が命と見立てた剣は、そんな小さなものかね?

 

出典:『バガボンド』第7巻

 

誰かより上か下か。

そんなことは、どうでもいいことです。

 

私が目指している状態=真理に近い状態 に近づけるかどうか。

それだけが重要なことです。

 

真理に近い状態とは、もともとのありのままの姿に戻ること。

それでいいと思えるようになること。

これこそが、最も重要で難しいこと。

この世のすべて事象は、私の肉体や精神すらもその到達のための道具です。

そう捉えると、道具に良し悪しなど無く、較べることなどできない。

だから、他人と比較する必要が全くないことに気づけるのです。

 

「体を使えと……もらったこの体を使って知れと……何を? その前のもともとの俺をーー体がそういうものだとしたら 俺だけじゃなくてこの世のもんすべてが それを知るためにあって いやものだけじゃなくて人も 出会う人も 父も母も すべてそのために出会うのなら……ほんとは誰も恨まなくていいーーそういうことなのか……?」

出典:『バガボンド』第32巻

 

「誰かを恨まず、誰かのせいにもせず、あるがままを生きる」

 

どうやれば売上が上がるか、そのためにやればいい事は何か、は限られていて、もう大体分かりました。

だけど、それよりも大事な事があります。

だから、私は残りの限られた人生をそっちに割きたい。

たとえば、家族と過ごす時間とか、売上に直接インパクトはなくても、自分が世の中にとっていいと思う活動とか。

 

それは、私が全身全霊で私であることの裡に在るということ。

それが最も自然で、最も価値があり、最も生産性が高いのです。

今のど真ん中にいるために、己であることを徹底する。

それが、最も良いことだと悟りました。

 

だから、会社の人たちと話が合わなくて今まで悩んできましたが、唐突に「もう合わなくていいんだ」と思えるようになりました。

忙しなく己の立ち位置を気にして戦々恐々とする同僚たち。

彼らにマウントを取ろうとされても取り合わず「焦らずとも大丈夫ですよ」というくらいで、心を揺らすことなく終えることができるようになった自分に、確かな手ごたえを感じます。

 

彼らもまた、彼らが好きなようにやればいいのです。

その過程で、大事なことに気づける人は気付くだろうし、気づかない人は気づかないのだから。その人にとっての最適なタイミングが、きっとくる。

それは私には変えられないし、関わる必要もないことです。

「がんばって。お互い、いいことあるといいね。」と思っています。

それしかもうかける言葉がない。

 

親が子供の独り立ちを見守る気持ちは、こんな感じなのかもしれません。

己が己を見失わない限り、与えられるすべてのことは、必要なことにたどり着くために用意されたものです。

だから、もう自然に任せていい。いや、むしろ任せるしかないのです。

コントロールすることなどできない。

やりたいようにやってみて、その結果を受け容れる。

私たちがやれることは、ただただ、それだけなのです。

【依存症】私が今の考え方にたどり着くまでの軌跡

私は昔、酒をやめられない自分をいつも責めてきました。

「自分がダメだから、自分が努力不足だから、やめられないんだ」と思っていました。

毎日が来るのが嫌で嫌で逃げたくてたまらないけど、努めてそれを感じないように、湧き上がる感情を否定する努力をしていました。

「つらい現実から逃げちゃダメだ」とハウトゥー本を読み漁ったり、『行動でしか人生は変わらない』とか『やるかやらないかだ』みたいな体育会系の偉人の格言みたいなのを繰り返し毎朝唱えたりしました。必死になって、すでにカラカラに枯渇しているやる気を絞り出そうとしていたのです。

その努力は涙ぐましいものがあります。しかし思えば方向性がハチャメチャでした。

 

がんばってがんばって、でもいつも虚しくて悲しいのです。

「何でダメなのか、何でこんななのか」

「他の人はちゃんとしているのに、うまくやっているのに」

「ああ、自分が不良品だからいけないんだ。『良品』にならなくては」

今の自分を否定して「別の自分」に成ろうとしていました。

他の人々のように社会を生きられる「自分より優れた自分」に。

この思考はAC由来で、親との関わりから刷り込まれた信仰なんですが、当時は知る由もありませんでした。両親はもうそばにはいないのに、繰り返し繰り返し事あるごとに、私は「自分はダメなんだ、だからうまくいかないんだ」と自分に刷り込んでいたように思います。

「自分はダメだ」「だからうまくいかない」

人は、気づかないうちにそう自己洗脳していると、無意識に「うまくいくと困る」と思って可能性を自ら潰していきます。

「ほらやっぱりうまくいかなかった」という一貫性を保とうとします。

そうやって、自分の信仰を証明するできるように生きてきたのでした。

誰のせいでもありません。

律儀に「自分はダメだ」と思い続けてきたのは、他ならぬ私でした。

ダメな自分を維持しようとしていたのは、他ならぬ私自身でした。

 

酒でその自己矛盾をごまかすことを覚えて5年。

いよいよ「もう消えたい…もうたくさんだ、やってられるかこんなこと!」とどん詰まりにたどり着きます。

何もかも嫌で、何もかも憎むことにすら疲れ、考えるのは「死ぬ苦しみとどちらが苦しいだろうか…」そればかりになります。

そう、真剣に命と苦しみを天秤にかけ出したのは、社会人になって2年目でした。

消えたいが、消えるのもそう簡単じゃないぞ…

しかし生きていてもただただしんどい。どうすればいい…?

拮抗状態で苦しむこと5年。(不思議なことに5年スパンですね。)

「会社を解雇されるかもしれない」という状況に追い込まれ、社会的な死、その後に来る肉体的な死を、リアルに想像するようになります。

「死ぬんだな」と思ったとき、人界万里のどん詰まりで感じたのは、不思議にも「よかった、やっと楽になれる」ではなくて、「まだ終わりたくない」でした。

 

「わたしはまだやり切れていない」

「わたしはまだやり残したことがある」

「まだ、死ねない」

「このまま終われねぇ」

「どうせ死ぬなら、それをやってから死にたい」

出典:『はじめの一歩』森川ジョージ

 

 

そうは思ったけど、当時感じていた「ガラクタのような自分」とまたいちから生きていくのは、とても覚悟が要りました。

「サハラ砂漠に行って、砂粒の色を一粒一粒、確かめろ」

と言われているような、気の遠くなる不可能なことのように思いました。

だけど、生きるにはやるしかない。「この私」で私として生きていくより他はない。

そうであるならば「もう何でもいいから教えてもらったことを素直に一つひとつやるしかない」と心から思いました。

この地獄を知ってもなお、まだ生きている人がいる。

その人たちがどうやったのか、知りたい。そして真似したい。生きるためにはそれしかない。

自分のやり方ではまったくもって無理だった、もうやっていけない、それをつくづく思い知らされた10年でした。

 

自助グループやステップは、そういう私にとってすら、当初は胡散臭くうつりました。

「そんなことやって何になる?」

「お前らとは違う」

「私にもそんな効果が本当にあるのか?」

でも、自分は自助グループやステップ以上に成功したエビデンスはありません。

むしろ何もかもダメだったから、ここにたどり着いている。それを認めて、とにかくやってみました。

結局、絶望して白旗を振ってからも、あれやこれやと脱線しては戻りを繰り返しました。

理解するのに、また5年間かかりました。笑

 

そうして、ようやく今があるなぁ、と思います。

この15年があったから、今があるとも思います。どんな苦しい瞬間も、無駄じゃなかった。

全ては必要だから、その時々に私の目の前に用意されていたのだと、今は感じます。

当時はとてもじゃないけどそんな風には考えられませんでした。無理で当たり前だと思います。

こういう回復への道程で経験してきたことを率直に正直に他人に伝えるっていうことが、12番目なんじゃないかなぁと、最近思います。

つまり、12番目はなにもそんな大仰に啓発などをしなくてもよく、素直に話すだけで、実はとてもシンプルなんじゃないかと思うのです。

 

私はそういう風にこのブログを活用していきたいな、と思います。

過去の記事で書いていることは、時として目を覆いたくなるような恥ずかしい認知の歪みにまみれています。

しかし、それも私。ぜーんぶひっくるめて私。

ぜーんぶひっくるめてのお前なんだ

いいんだ それで

 

出典:『バガボンド』井上雄彦

 

【AC】仕事の承認欲求に基づく「嫉妬・不安・焦り」を手放せて楽になった話

最近、私の仕事に対する依存や執着と、酒に対する態度はとても似ていたんだな、と思っている。そのことについて書いてみる。

 

「酒を飲みたいから飲んでるんだ」「俺は酒が好きなんだ」と思っていた。

でも、違った。目的は別にあった。

私は現実が見たくなくて、見るのがもう辛いから、飲んでた。嫌いな自分をこれ以上知覚したくない、と言ってもいいかもしれない。麻痺させるために、これ以上考えないために、酒を使っただけで、飲むことが目的じゃなかった。

本当に解決したいのは、生きづらさだった。

生きづらさをどうにかしたくて、対症療法として酒を使っていたのだった。

 

それを仕事に置き換えてみると、実に似通っている。

「私は結果を出したいんだ」「成功するのが好きなんだ」と思ってきた。

結果を出すためなら何を犠牲にするのも正義だと思ってきた。

でも本来の目的は?と振り返ってみる。

「生存していていいという安心感のため」だったのではないだろうか。

稼げなきゃ生きている価値がない。稼いでいなきゃ結婚できない。長男として生まれた務めを果たせない。一族を滅ぼす「人でなし」になってしまう。つまり、人として社会に許容してもらえなくなる。

そういう「人として生きる権利を脅かされる」という恐怖と不安を見て見ぬ振りをするために、私は仕事で結果を出さなくてはならないと思い込んできた。それが本当の目的だった。

実際、そんなことはない。稼げるか稼げないかは、基本的人権には何の関わりもない。

全部「こうでなくてはならない」と私が勝手に決めただけ。

本当はそんなルールはなかったのに、ルールだと思って必死にやってきただけ。

酒も、仕事も、世の中から無くならない。仕事は今も、生きていくために付き合っていかなくてはならない。

食事や睡眠と同じように、私はこれらの執着してきたものたちを完全に私の世界から切り離すことはできない。

うまく付き合おうとした、もといコントロールしようとしてきた。

しかし、コントロールすることなど無理だった。

どう頑張っても振り回されてきた事実が、ここにある。

徹底的に酒を避けて生きる。そうやってライフスタイルを変えてやってきたアルコール依存症だけど、仕事…特に承認欲求については、より高度で光明が見えずにいた。

自分の根本が何なのか見定めたい。そう思ってずっと考えてきた。

 

「本当に価値がある」と思うことをやってきたはず、今もやっているはず。それなのに、周りが気になって躊躇したり、本当に良かったのか自信がなかったりすることが、よくある。

それは結局自分をよく見せるためにやっているからだ。

目的を誤っている。

善行を行うことに他人の許可も承認もいらない。

ただやれば、私の心は満たされるものだ、ということ。

 

自分が本当に望んでいるものは何か。目指しているものは何か。

 

自分のゴール、善を行いたいという目的を見失って、心の芯ではなく周囲にばかり目を向けているから、不安や焦りを感じる。

私は、私が今やれるだけの善行を行い、改良できる限りの改良をしていれば、それで何も恥じることはない。

一日一日を全力で感じ、全力で楽しみ、今ココの繰り返しを過ごしている。

それ以上の状態はなく、何の欠落もない。何の負い目もない。

 

もう、今ここに、全部あるのだ。

これほど気づいてありがたい事実はなかった。

 

出典:『バガボンド』第37巻 より

 

 

何もかも今ココには揃っている。未来を憂いたり過去を悔いたりしなくていい。

今ココに、何もかもが用意されていて、私は用意された完璧な一瞬一瞬を味わうだけで100%だ。100点満点だ。

 

『バガボンド』のこのシーンが、大地に五月雨が染み込むように、私の渇いた心へすっと落ちてきた。

 

出典:『バガボンド』第29巻 より

 

 

作中、沢庵和尚と宮本武蔵が共にたどり着いたのは、

「天と繋がっている限りにおいて、人は自由で無限だ」という境地だった。

 

 

私が他人に認められないのも、ただそれだけでしかない。

今は、それがただ、今であるだけだ。

私は、誰にどう思われようとも、私にとって最良のものを、人生で積み重ねていく。

それは変わりない。私の良心が、魂が、私のなかの天が、そうであり続ける。

社会的に「結果」と呼ばれる事象として結実するかしないかはわからない。

しかし、それは問題ではない。

私の根本に宿る「善良なる魂」「善行を行う心」すなわち「天=ハイヤーパワー」を信じて進んでいる限り、全ては社会的に結実するかしないかを超えて、在るべくして常にあり続ける。

そうした自分を超えた大きな力により、いずれ万物があるべき姿に導かれるのなら。

私のように小さな存在が、あくせくとコントロールしようとしなくていい。

天にお任せしておけばよいのだ。

迷ったなら、何かをコントロールしようとするのではなく、魂に尋ねればいい。

そして、やると決めたことをただ迷わずやればいい。

 

なんだ、すげ〜簡単なことだったんだな!と思って、最近は生きていることがシンプルで、実にラクなのである。

 

出典:『スティール・ボール・ラン』第21巻 より

 

 

見縊られるのもそう。

バカにされるのもそう。

他人がどう反応し、私をどう見るか。

そんなことは、本当に『私には何にも関係がなかった』。

些末なことだった。

 

全ては、内なる神とのやり取り。

すなわち、ハイヤーパワーとのやり取り。

他の誰かとの間のことであったことは、一度もなかったし、これからもない。

 

 

‘Give the world the best you have’ – Mother Theresa

People are often unreasonable, illogical, and self-centered

;Forgive them anyway.

If you are kind, People may Accuse you of Selfish, Ulterior motives

;Be kind anyway.

If you are successful,you will win some false friends and some true enemies

;Succeed anyway.

If you are honest and frank, people may cheat you

;Be Honest and Frank anyway.

What you spend years building, someone could destroy overnight

;Build anyway.

If you find serenity and happiness, they may be jealous

;Be happy anyway.

The good you do today, people will often forget tomorrow

;Do good anyway.

Give the world the best you have,and it may never be enough

;Give the world the best you’ve got anyway.

You see, in the final analysis,it is between you and God

;It was never between you and them anyway.