1、私は、◯◯することへの執着は、他人の評価を気にしすぎるところから始まり、自分の意志の力を信じすぎたことでひどくなったことを理解した。
あなたの力には限界があり、到底何もかも思い通りにはできません。がんばってもがんばっても、他人はおろか、自分さえも思い通りにはできないのです。
出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P209より引用
「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ /大和書房/斎藤学
2つの問題
「私は、人に認められること=承認欲求への執着は、他人の評価を気にしすぎるところから始まり、自分の意志の力を信じすぎたことでひどくなったことを理解した。」
問題は2つ。
①他人の評価を気にし過ぎたこと。
②自分の意志の力を信じすぎたこと。
①について考えてみよう。
なぜ気にし過ぎたのか?
そのままではダメだと思った。
どうダメなのか?
受け容れてもらえない、生きていけないからダメだと思った。
それはなぜか?
元もとの自分は取るに足らない存在だから。
ほんとうに?
「評価されなければ愛されない」「評価されなくてはココにいてはいけない」という強迫観念から、努力を重ねてきたという事実。
私そのものの価値を認めてくれる親。親に愛されていると信じたいと思った。
愛されているのは、よくできるときの自分だった。
私は愛されているはずなのだから、つじつまを合わせるために、私は親から見てよくできる人間でなくてはいけない。そう思い込んだ。
今、期待通りにできないのは、私の頑張りが足りないからだ。
だって私は愛されるはずだから、よくできるはずだから。
そうやって努力してきた。
意志の力
その行動は、私を②の「自分の意志の力の信仰」に導いた。
自分の意志の力で何とか出来る、と信じてきた。
それがそもそもの間違いだったと認めるときが来た。
私の意志の力は万能ではなかった。
他人より優れるということは、意志の力でコントロールできるようなものではなかった。
何とかできると思うから、極端に自責したり、極端に己を恥じたりする。
どうにもならないことを何とか出来るはずと思っているから、いつまでも自分の努力が足りないことになる。
雪だるま式に大きくなる強迫観念。
他人が認められているとき、発狂しそうなほどの黒い嫉妬と醜い憎しみに駆られる。
自分を痛めつけるような努力に身を投じる。そして疲弊する。
そして私は酒を頼ったのだと思う。
意志の力は、わりと強いほうだと思う。
結構粘り強いし、簡単には諦めない。悪く言えば一生根に持つほど執念深いタイプ。
だから今まで何とかなってしまったのだろう。
そしてますます信仰を深めたのだ。
やればできるはず。だから今できないのは自分の怠慢だ、と。
しかしこの世にはすごいひとはいっぱいいるし、負けることなど日常茶飯事なのだ。
それをいちいちあれやこれや比較していたら、勝ち続けることなど不可能だ。
そんなに他人はしょぼくない。それぞれに良さがあるし、磨いてきた技術がある。経験してきたことも違う。
それなのに、意志の力さえあれば勝てると思うこと自体が、不自然だった。
それを認めるときが来た。
私は何がしたいのだろう。
自分そのものとして社会に認められたい、と思ってきた。
なぜなら私は、社会に馴染めなかったから。
幼少期。のびのびとそのままでいた時期に仲間外れにされて哀しかった。
受け容れてほしい。
そう思ってきた自分がいる。
それを、承認欲求というかたちで今まで満たそうとしてきたのではないかしら。
人に認められて、すごいね!ありがとう!と言われて、私はここにいていいと思いたい。確かめたい。
でもひとりでは特別なものは何も生み出せない。
ここにいてはいけないことになる。それは嫌だ。
だから、他人にこびへつらった。他人に望まれることをして、褒めてもらおうとした。
卑屈な笑顔の下にある私の本性はそれだ。
コントロール。
失敗に終わったことを認める
不安と強迫観念に気づかぬために、他人の評価をコントロールしようとした。
意志の力を信じてますます努力した。
でも、その生き方は幸せではなかった。
結果、今、破綻している。
一流企業に転職しようと、国家資格を取ろうと、依存症から回復しようと、いつも他人と比べてしまう。他人の目に怯えた自分がいる。
結局、己の手では何も創造することができない。個として価値を生み出せない自分を、嫌いになりそうになる。
この生き方は、どこまでいっても渇いている。
いつまでも満たされない。
つかの間の賞賛で喉を潤しても、もっと高くもっと多くと、依存していく。永遠に欲しがる。
そして、何もかもが認められるためだけの道具になり、人生がつまらなくなる。
今、まさに。だからつまらないのだ。何をしても。他人に褒められないと意味がないと思っているから。
人に認められても、つまらない人生を生きたいか?
私はその問いにNoと答える人間だと思う。
本来、楽しむために産まれてきたのに。なぜ他人に認められる、なんて不毛なコントロールできないことのために生きなくてはいけないのか。
そんな徒労をもう終わりにする時が、今ようやく来た。
そのために私は、今までのやり方が失敗だったと潔く認める必要がある、ということだ。
①小さい頃から感じてきた寂しさを埋めるために、他人の評価を気にし過ぎたことがきっかけだった。
②今まで自分の意志の力を信じ過ぎ努力してきたことが、私の人生を不健康にしてきた。
ということを。
私は何かを生み出せなくても、胸を張って生きていていい。
私はたとえ他人に認められていなくても、無価値ではない。
他人に評価されない考えだとしても、私が感じて考えたことや生み出したものには価値がある。
承認欲求に振り回されてきた人生。
その生き方をやめたい。
私が今までやってきた生き方が、より苦しみを生み出していたことを理解した。