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【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ:Prologue

他人をコントロールし、自分をコントロールし、自分の運命をコントロールしようと努力しつづけた人間は、必ずその限界にぶちあたります。

(中略)

嗜癖者は、「意志の力」を信じています。自分の困った事態を、自分の力でなんとか治せると思っています。けれども、意志の力を信仰すればするほど、自分でコントロールできない部分が多くなっていき、自分の中から自分への反乱が始まります。川の流れを、あちこちせきとめて、思い通りにコントロールしようとしても、ひと雨降ったら氾濫してしまうようなものです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P201〜203より引用

 

 

パワーゲームを生きてきた私たち

パワーゲームとは、支配する・支配されるというコントロールの関係性のことだ。

私たちは無意識のうちに、親子関係に始まり人間関係のパワーゲームに否応なく巻き込まれてきた。

人間関係のパワーゲームは、お互いのコントロール合戦である。

他人の思い通りにしなかれば生きていけないと感じ、他人のいうまま・されるままになるとき、人間は自分の無力さを感じ、自尊心を失います。

そうはなりたくないので、逆に相手を支配し、自分の思うままにコントロールしようとします。誰かをコントロールできている間は、自分の無力を感じずにすむからです。親の思うままにコントロールされていた無力な自分を忘れることができ、自分が他人をコントロールできるほどに力をつけたと感じることができるからです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P125より引用

 

つまり、自分の無力さをみたくない、そんな怖いことは認めたくないので、他人や自分をコントロールしたいのだ。

どうせなら、コントロールされるよりコントロールする側に回ろうとする。

この上下関係のコントロール合戦に参戦している限り、どちら側に属していても苦しいままだ。

なぜなら、冒頭にあるように、他人はおろか自分すらコントロールできないのが、この世の理だからだ。

意志の力=理性を崇拝する『理性教』の信者として懸命にコントロールできるようにあれやこれやと試行錯誤をしてきただろう。私たちはその試行錯誤について飽き飽きするほど繰り返しやってきたはずだ。

それを突き詰めれば突き詰めるほど、極めようとした人ほど悟る。そんなことは土台無理な話だったのだ、という真実に気づける。そして気づいて、愕然とする。

 

子供の世界に不法侵入する親

私を育てた両親や、周囲にいた大人たちは、その真実にたどり着けずにいた人たちだった。

自分や他人をコントロールできる、という信仰にすがり、ついぞその邪教を捨てられなかった悲しい人たちだったとも言える。

子供は親に見捨てられては生きていけないので、簡単に支配できる。

そして、「あなたのため」という都合のいい言葉で自分の世間体を守りながら子供の人生をコントロールすることができる。

親には、それができる。そして、それは親が最もしてはならないことだ。

子供の人生は、親の生き直しのためにあるのではない。

その子の人生は、その子が思い描いた人生を描き出すためにある、その子専用のキャンバスだ。

それなのに、親は、あれやこれやと転ばぬ先の杖を無理やり持たせる。「今の時代英語はしておかないと後悔するから」「ある程度の学歴がないと将来苦労するから」「間違った道にいかないようにしっかり躾けないと」などと、自分の価値観を押し付けて、勝手に他人のキャンバスに色を塗り始めてしまう。

そういう横からの妨害を受けて、子供は人生観を歪ませていく。

「こうでなければならない」「お母さんのいうとおりにしなくてはならない」で何も自分では描き出すことができずに、親が勝手にペインティングしていく様子を眺めるほかない。

なぜか?

そうでないと愛してもらえないと思うからだ。

本当はいやだけれど、そうすることが愛だと信じたい。私のためにやってくれているはずだ、なぜなら私は両親に愛されているはずなのだから、と必死に思おうとする。

親は「ほら、あなたのためにやってあげたのよ」「こんなに綺麗な絵になって幸せでしょ」という。

子供は、それが愛情だと信じたいから、感謝しなくてはならないと思い、引きつった作り笑いで必死に「ありがとう、お母さん」という。

そんなのが、昨今の母と子の麗しき地獄絵図であり、いわゆる「幸せな一般家庭」で行われている精神的虐待である。

 

眼を醒すべき親のひとりとして

親が、寂しいからだ。

自分が必要とされたい。自分を絶対的に必要とする存在が欲しかったから、子供をコントロールして自分が安心するために都合よく利用したのだ。

「あなたのためだから」という建前を盾にして、子供の人生を勝手に無茶苦茶にした。

それは、親が、親自身の人生を責任を持って生きていないからだ。

 

 

いい加減、私たちは降りなくてはならない。このパワーゲームという無限螺旋を。

この不毛なマウント合戦をやっている限り、負の世代連鎖は止まらないのだから。

 

ここまでの話を読んで、以下のような感想を持った人はいないだろうか。

「でもそれが親の役目でしょ?」「それが親の愛情というものだ」「子供は判断がつかないんだから親が導いてあげるのが当然でしょ」

 

これこそが、まさしく『否認』している人の反応である。

何を否認しているかというと、自分がしていることが「自分のためである」という本人にとっては認めがたい、耳が痛い真実を、否認している。

あなたがしたいからしている。

それは、子供のためではない。あなたのためだ。あなたの寂しさを埋めるためだ。あなたの人生の寂しさを埋めるために、子供を利用しているのと同じなのだ。

親が親として最もするべきことは、2つだ。

「子供にとって掛け値無しに存在を肯定してくれる安全基地であること」と「自分自身をハッピーにすること」つまり、自分自身のセルフケアを行い、人生を謳歌していることだ。

人生の先輩として、この世で生きていくことは素晴らしい楽しいことなんだと、背中で語ることは、最も手本となる大人の姿だ。

「私はあなたが残す結果がどんな結果だろうと、どんなに失敗しようと、あなたがあなたである限り愛しているわ」

こういってくれる安全基地があるからこそ、人は冒険ができる。親元を巣立って外の世界に飛び込むことができる。子供がいつまでも家や家族から離れられず巣立っていかないのは、その子にとって家庭が安全基地ではないからだ。

 

「私はあなたを尊敬しているしいつも愛している。でも、私は私の人生を楽しむことで、手一杯なの。あなたはあなたが生きたい人生を自分で選んで楽しんで頂戴」

そういう、親が精一杯誠実に人生を生きている姿を見て、子供は自分の人生を選び取っていく。

なりたい自分を、親に褒められるかどうか、社会的に褒められるかどうか、などというものと関係なく決めて責任を持つことができる。

 

そうなるために、私は私のために、これから『パワーゲームを降りるための10のステップ』を進めていきたいと思う。

興味がある人は、私と一緒にやってみてほしいと思う。

【AC】STEP11:信じるベクトルを変える

以前、「私は無神論者だ」という旨の記事を書いた。(【依存症】神を信じない人のための「ハイヤー・パワー」

しかし正確には、私は『不可知論者』だそうだ。

7月20日に開催されたプログラム・フォー・ユー勉強会も、大変勉強になった。

「神様に対する考え方」の持ち主は、全部で3種類に分類されるという。

1、無神論者…神は存在しないということを信じている人。

2、不可知論者…神はいるとも、いないとも言えない、自分にはどちらも証明することは出来ないという人。

3、信仰者…神は存在していると信じる人。

この分類でいくと、私は2だなと思う。

いるともいないとも言えない、神様が実在しないということは私自身確証をもって論理的に否定できないし、いるというにはあまりにも世の中がまともではないので、皆が言うような神様仏様は信じ難い、という感じだ。

今後は不可知論者として自己表明していこうと思う。

 

理性という神

さて、勉強会のなかで大変興味深かったことが、不可知論者としての私が信じてきた信仰に気づかされた以下の言葉だ。

「私たちは、理性を神に見立てて忠実に信仰してきたのではないだろうか」

この発想は目からうろこだった。

たしかに。たしかにそうだ。

私は自分の「理性」が万能のように思っていなかったか。

理性こそが自分を律し正しい道に導くと信じてきた。あらゆる人から成熟した人間としてそうすべきだと教えられてきた。

しかし、実際はどうだ。

将来設計も、己の日常生活も、酒を飲むということすらも、理性ではどうにもならなかった。理性ですべてをコントロールできる、という夢物語のような信仰はことごとく裏切られてきた。

理性、いわゆる大脳新皮質、特に前頭前野を、まるで「神」のごとく信奉して生きてきたように思う。

つまり、現代人は、不可知論者を自称しながら、その実「理性」という神を崇め奉る信仰者である。『理性教』の信者だ

 

「信じる」という力のベクトル

そう考えると、私たちは「信じる」という力のベクトルに導かれて、今までの人生を歩んできたのではないだろうか。

今まで信じるものは「理性」という神だった。

なんとなく「神様」に拒否反応を示すのは、なんだかよくわからない、いるんだかいないんだかわからない「自分の外側にある得体のしれない神」を信じ込まされるのではないか?という警戒心からくるという。

めっちゃわかる。

信じるのはあなたの勝手だけれど、私に信じることを強要しないでくれ、というのが、まさに私が感じる抵抗感である。

だから、仏教もキリスト教もイスラム教も神道も、なんだか胡散臭いと今も思っている。

だから、12ステップ・プログラムの本に「神」という単語が出てくると、眉をひそめる。

それは、私の警戒心だということか。

 

そのような、外側にいるよくわからん神を信じなくてもいい。

私たちがSTEP11でするべきことは、「信じる」ベクトルを変えることだ。

今まで他人も自分も何も信じてこなかったと豪語してきた私ですら、「理性」という神を信じることに導かれて生きてきた。その事実から、人は信じることをやめられないということがわかった。

やめられない。何かを常に信じている。信じることが、生きることとセットだともいえる。

そう考えると、切っても切り離せないなら、今まで信じてきた神様である「理性」を信じるのではなくて、別のベクトルに「信じる」をシフトする必要がある。

「理性教」の信者としての私はどんな信仰だったかと言えば、

「こんなに欠けていて至らない私が幸福になれるはずがない」

「努力が足りない自分が成功するはずがない」

「自分が間違いを犯すのは理性を働かせていないからだ」

「正しくあらねばならない、強くなければならない、自分で責任を取れる行動をしなくてはならない。だって理性がある大人なのだから」

こんなクソ堅苦しくてしんどい信仰だった。

そして世界はその通りになった。理性で本当の自分を押さえつけようとすればするほど、ストレスはたまり、動きは固くなり、成果が出ず、喜びも幸せも遠ざかり、人々はもっと遠ざかっていった。

そして私の友は長らく酒だけだった。

つまり、もう大失敗なのだ。「理性教」は悪徳宗教だったということが、今までの人生でもうばっちり証明されている。

 

「理性教」よりも確かな「信じる心」

では、何を信じようか?ということになる。

「理性教」はダメだった。他のキリストだの仏陀だのも胡散臭い。

それならば、「内なる神」はどうだろうか?

「内なる神?」そんなもんがいるのか。

よく振り返ってみよう。

「理性教」を信じていたときでさえ、私の内には、私にはコントロールできないほどの大きな力の流れがあったのではないか。

それは、「『理性教』を信じる私の世界観を世界に投影する」ほどの強大な影響力を持ち、私が思い描いているその通りに地獄を実現させてきたではないか。

ダメだと思う自分をどんどんダメにして、今こうして問題に向き合えるチャンスを与えてくれて、出会うべき仲間に声をかける勇気をくれた、いつもそばにあった得体のしれない大きな力。

それが、12ステップ・プログラムがしきりに言う『ハイヤー・パワー』という物の正体なのではないかと思う。

つまり、なんかめっちゃすごいホーリーな何かがこの世にいて天地創造したりしてこの世のすべてをコントロールしてます☆的な胡散臭いパワーではなくって、私が今まで生きてきて、いつも傍らにい続けてくれる力。私たちそれぞれの応援団、小さな内なる味方。正しい道ではなく、いつでも「私が望むように」道を拓き助けてくれようとする力。そんな力が、「ハイヤー・パワー」だと考えてみると、私はとてもしっくりくる。

 

若かりし頃、伊達公子選手を育てたテニスのプロコーチ、田中 信弥プロが合宿に来てくれたとき、こんなことを話してくれた。

「毎晩、君がなりたいプレーヤーの姿を思い描いて、そのようになれると信じて寝るといい。ウインブルドン(イギリス・ロンドンのウィンブルドン (Wimbledon) で開催されるテニスの4大国際大会の一つ)の決勝で世界ランクNo.1の選手とフルセットで戦って勝つシーンを、鮮明に思い描いてみてほしい。そうすれば、君は本当にそうなろうと勝手に行動するようになる。そして、気が付いたら思った通りになっているんだよ。」

当時高校生でこの話を聞いた当時、私は「このおっさん、とんでもねー嘘つきだな」と思った。

「願うだけで何でも叶うなら、みんなウインブルドン優勝しちゃうじゃん、そんなわけねーじゃん」と思った。

でも、今思えばそういうことを言いたいんじゃないんだな、と理解できる。

「なりたい姿を思い描く」ということは本当に強力な引力をもつ。まさに、「信じる」力の強いベクトルが働くのである。

こうなりたいな、と思って街を歩いていると、理想像に近い人を無意識に目で追っている。何をしているかをよく見る。いつどんな風にどんなことをすれば、この人みたいになれるのか、勝手にアンテナが高くなる。

情報を無意識に脳に集積していった結果、ある日突然「あ、こうしてみればいいのかな」と思いついて、それを即座に実行しだす。

なりたい姿を思い描いたことが、実際に行動を変容させ、自分自身の世界を変えていく。

これは、いつも、いつでも、誰のもとにもある、強力なその人だけの専属サポーターのように、悪い想像も良い想像もその人の願望としてとらえて実現させるために私たちを引っ張ってくれる。

 

『魔法騎士レイアース』をご存じだろうか。

私は大好きである。CLAMPはある意味神だと思う。

主人公たちが飛ばされて冒険する異世界の「セフィーロ」は、意志の力の強さが全てを決める世界で、信じる心が物語を左右する重要なカギになっていく。

「セフィーロ」のように、私たちが生きている世界も信じる心がとてつもなく重要で、自分を、他人を、そして幸せを信じることが、この世においても重要なカギなのではないだろうか、と感じる。

 

 

 

頼れる協力者『ハイヤー・パワー』君にアウトソーシング

つまり何が言いたいかというと、もう全部任しちゃえばいい、ということだ。

私たちはSTEPを行っていくうちに、コントロールを手放した。自分のことすらも、コントロールできない無力な存在が私たちだ。

だから、未来がなりたいようになるかどうかは、もうこの頼りがいのある専属サポーターの『ハイヤー・パワー』に任せて、私たちは他のことに没頭すればいい。

他のことって?

それは、今ココである。

瞑想や祈りを行なうのは、こうした「願いの実現」を『ハイヤー・パワー』君にアウトソーシングして、過去を憂うのでもなく、未来に浮足立つのでもなく、今ココのみに集中して一生懸命生きることに100%己の力を注ぐためだ。

なぜなら、私たちが「変えられるもの」は今ココの己の行動だけだからだ。

そのほかは、アウトソーシングした『ハイヤー・パワー』君が全部やってくれると信じる。信じて任せる。信じて手放す。

そうすると、そうするからこそ、未来は願った通りにすべて用意されていて、願った通りの世界にたどり着くようになっている。

なぜなら、今までそうだったから。これからもそうである可能性が高い。

そうでなかったとしても、私にはもうコントロールできないことだから、『ハイヤー・パワー』君を信じて任せる以外にできることは無い。そもそも分不相応なことだったのだ、過去や未来や結果をコントロールすることなど。

 

「われわれの意志といのちの方向を変え、自分で理解している神の配慮に委ねる決心をする」

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷 138Pより引用

 

正しくあらねばならないと律し罰するようなのは、私たちがこれから信じる神ではない。

それは、今まで信じてきた「理性」という神そのもの。

かつての信仰を捨て、私は、今までいつもそばにいてくれた協力者である『ハイヤー・パワー』君と人生をよりよく生きるということについてアライアンス契約を結んで、お互いを信頼し合いながら共に歩んでいきたいなと思っている。