ACの12ステップ・プログラムと切っても切り離せないのが、『アサーティブ』であることだと思う。
自分の気持ちを率直に伝えたり、自分の考えをきちんと伝えることは難しい、しんどい、と感じることはありませんか。また言いすぎてしまった、もっとはっきりものが言えたらいいのに、上手に断れるようになりたい、攻撃的な言い方をやめたい、自信をもって人と接することができるようになりたい…。
でも、どうやったらそんなふうにコミュニケーションすることができるのでしょうか。その道しるべとなってくれるのが「アサーティブ」です。
アサーティブネス(Assertiveness)の訳語は、「自己主張すること」。でも、アサーティブであることは、自分の意見を押し通すことではありません。自分の気持ちや意見を、相手の気持ちも尊重しながら、誠実に、率直に、そして対等に表現することを意味します。
しかし、長年身についた言い方の癖や態度はなかなか変えられません。それには練習が必要です。自分のコミュニケーションパターンに気づき、それをアサーティブなものに変えていく学びと練習が、アサーティブ・トレーニングなのです。
私には、自分の要望がもし受け容れられなかったらとても傷つくから、なんとか言わずに相手をコントロールしようとする悪癖がある。
それは私の母親がやっていたことを無意識に模倣しているのだ。ずっとそのやり方でコントロールされてきたから、気が付いたら同じことをしている。それでさんざん苦しんできたのにもかかわらず、である。
自分が悪くならないように、言葉には出さず、疲れた様子やイライラした様子を見せてやるように仕向ける、という卑怯なやり方。そのやり方を私はよくしがちであることを認める。
この悪い習慣を手放し、アサーティブな自分であること。そのためにも、12ステッププログラムに真摯に取り組み続けること。
それによって、私の生きづらさは改善されていくのだと、信じている。
ちゃんとした「謝罪」の難しさ
相手に対して素直に謝れることが増えてきた。
まだまだ難しいが、悪いと感じたことを、言葉にして、心から謝ることを今、頑張っている。
なんとなく、気兼ねしている人が、みなさんにもいるのではないだろうか?
なんとなく嫌われているような気がしたり、なんとなく見下されているような気がして警戒したり。そういうときは、自分のなかに『何か認めたくないもの』があるときなのかもしれない。
私は、ある人を傷つけるようなことを言ってしまった。そのことに、今まで気づいていなかった。
しかし、最近傷ついた経験から、同じようなことをして傷つけたのではないか、という罪悪感を無意識に持っていたのだろう。
その人から何か言われるたびに、「私のなかの罪悪感」が心の壁となり、発言に対して警戒したり、気にしたりしていたように思う。
そこで、罪悪感について己の気持ちを突き止め、勇気を出してちゃんと心から謝罪した。
結果として、自分の行いがその人の心の安全を脅かしていないということに気づけた。
すると不思議なことに、それからは、「バカにされているのではないか」という不安感や、その人のことがわからない状況に対するイライラが起こらなくなったのだ。
他人が何も語らない場合、それはその人の自由であり、私がコントロールできるものでも、コントロールしていいものでもない。
たとえばある人が何も話していないにもかかわらず攻撃されているような気がするときは、己の心の中にいる自分が、自分自身を責めているのだと思う。自分がみる他人というのは、限りなく己の心が映し出す幻影であり妄想である。
そういうときは、事実を確認するようにしたい。
特に批判しているないようではないのに、批判されているような気がしたときは、自分の心に聞いてみよう。おのずと、答えが返ってくるはずだ。
ちゃんとした「謝罪」と同じくらい私にとって難しいこと
謝罪と同様に、私が他人に言えない難しいことがある。
それは『強く出る人に対してきっぱり断ること』だ。
強く言われると、自分が100%正しくないと断りづらくてたまらない。自分が断る正当性をついつい探し求めてしまう。
仕事で、こんなことがあった。
私はA社で働いている。
協力会社のB社が仲介をしているイベントがあってC社からの依頼を取りまとめしているのだが、B社には日頃からお世話になっているので、C社が定期的に開いている講演会を請け負ってくれないかと言われた。
講演をしてくれる演者の手配と会場費を負担するだけだったので、依頼をA社として受けることにした。だいたい2ヶ月前から動き、1ヶ月前には演者と演者のご略歴(経歴みたいなもん)を調整して、会場を運営するくらいのもので、予算もたいしてかからないし、と軽く受けた。
あくまで、これは対等な取引だ。我々A社としては開催費用を負担してあげてるわけで、B社から見たら依頼を受けてくれたありがたい存在なのだが…。
気に障ることには、やたらB社の担当が横柄なのであった。
「やって当たり前」「早く動け」「俺だってやりたくない」みたいな態度で、感謝の気持ちもない。新型コロナウイルスの影響ででA社の判断で延期が決まったのだが、
「(私は怒られたくないから)それはC社に直接行って詫び入れてくれる?」
と言ってきたのである。
「え?飛び越えて私が代わりに言っていいんですか?」
って思わず聞いてしまった。とりあえずして欲しいとのことなので、丁寧に電話で説明したら、
「そりゃあそうですよね、むしろこちらが目処を立てられず申し訳ない」
と逆に謝ってくれるC社。いいやつだ、C社。
お互い頑張って乗り切りましょう!とC社と爽やかな電話をした後、すぐにB社から電話かかってきた。
「どうやった?」
「どうやったって、何事もなく延期になりました。」
「怒ってなかった?」
「逆に謝られましたよ」
「そっか、ほんなら俺からも連絡しょーわい」
「しょーわいっていうか、もう私が連絡したんだからする意味なくないですか?」というのは飲み込んだものの、その後に続けられた「じゃあ、時期がきたらまた頼むわ」には流石に青筋が立った。
「状況が今までとは異なると思いますので、あらためて正式にご依頼いただいたときの状況で、可否を判断させていただきますね」と言うと、
「え、できんゆーこと?できるってゆーたやん。今からできんとか言われたら困るんやけど」と凄まれた。
こういう言われ方が、滅法苦手である。
たしかに一回できるって言ったよな…とか思いがちだし、正直頭にきすぎてなのか、母親に正論を言われ続けたせいなのか、心臓がバクバクして頭がクラクラする。
「だから、できるかどうかの判断が、コロナが落ち着いてからになる、ということですよ」
と伝えると、相手は
「わかりました」
と不服そうに電話を切ったのだが。
なんか、悔しい。
「は?もう二度と受けるか、バーカ!」と本当は言いたい。笑
しかし言えずにビクビクする自分がすごく嫌だと感じる。後に引きずって不機嫌になったり憂鬱になったりしたくないのに、なってしまう。気にしなければいいし、そのときに断ればいいだけなのに、本当に私に非はなかったか、点検してしまう自分がいる。
少しでも落ち度があったら「こっちも悪かったしな」とこちらから卑屈に謝りかねない。明らかに向こうが失礼なことが原因にもかかわらず、である。
12ステップ・プログラムを学び始めて、
「自分の気持ちは、正しくなくても認めていいこと」
「相手と同様に自分にも価値があり、尊重されるべき人間なのだということ」
「自分の気持ちはちゃんと感じて、そのまま素直に、自分の判断でやりたいようにやればいいこと」
そんなようなことを理解し始めている。
単純に私はB社とはもうお付き合いしたくない。そもそも、ビジネスとしても特に利益があるわけじゃないのにお世話になってるから『やってあげよう』とした私の判断は、歪んでいるように思う。
よく考えたら、B社をイネイブリングしてたんじゃないかな、ということに気づいた。
だから「新型コロナが落ち着いて依頼されても、やはり毅然と断ろう。」そう思った。
たぶん以前なら断る罪悪感でズルズルやりたくないことやってたから、これは大きな進歩である。
まとめ:なぜ、難しいと感じるのか?そこに理想の答えがある。
なぜ、私は正しくなければ断れないと思っているのだろうか。
謝罪のケースと同様に自分のなかに正しさを探すのは、『認めたくない何か』を見ないようにしているからだと思う。
謝らないことで、どんどん捉え方が自己防衛的に歪んでいって、そのままから遠ざかる。
常に真ん中にあるために、非を認めるのは、他ならぬ自分のためでもあるのだな、と思う。
自分の心がフラットなら、人と対峙していても安心できるし、心を揺らすことなくしっかりと受け答えできる。相手も自分も尊重できる。
つまり、毅然と自分の気持ちや要望を伝えることを躊躇わず、傷つけた時には勇気を持って謝り、傷ついた時には勇気をもって伝えることができるということが重要なのである。
このことにより、安心してお互いに自分を出すことができる環境が整う。
接する人が安心できる、真ん中でいられるような人になりたい。
それが、人としての優しさであり強さではないだろうか。
例えばすべての人がおぬしのように強くあれたら、こうして誰かと対峙したとき、それぞれが心を揺らす事なく真ん中であれたら、闘いは起こらない。闘う必要がない。そう思わんか?(板倉勝重)
— バガボンド 名言bot (@vaga_bot) February 2, 2020
最も、私がありたい理想像だと認識している。