【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑤(コントロール)

今回は、コントロールについて棚卸ししていきます。

 

コントロールとはどんなこと?

■コントロール■

子どもの頃わたしたちは犠牲者でした。自分の環境や起こってくる出来事を、殆どあるいは全くコントロールできませんでした。その結果、成人に達したわたしたちは、安全さと予測可能性を異常なほどに必要とするようになって、ついには他人のと同様に自分の感情と行動をもコントロールするようになりました。わたしたちの恐れは固さを生み出し、自発的になることを妨げます。何かの課題をやり遂げるとき、あるいは何かの事態を取り扱うとき、私たちは自分しか信用しません。わたしたちは、他人が自分たちを承認するように操縦し、人々や状況を厳しいコントロールの下に置いて、初めて安心できるのです。わたしたちは、管理する立場を捨てると、自分の生き方が滅茶苦茶になってしまうのではないかと恐れ、また自分の権威が脅かされた時ストレスを感じ、不安になります。

わたしたちの、コントロール下にあることの必要・欲求は、結果として、次のようなことを生み出しているかもしれません:

●変化に対して過剰に反応する
●他人が信用できない
●失敗を恐れる
●人を裁く傾向があり、硬直している
●寛容ではない
●他人を操る

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
63Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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他人が信用できない

これが特に突き刺さります。

私は他人が信用できません。

弱みを見せたら騙されるのではないか?

今はいい顔をしているが、私が失敗してメリットを生み出せなくなったら容易にはなれてく薄い関係なのではないか?

そう思うと、本当に困っていることほど相談なんてできないし、常に役に立たなければ捨てられるという恐怖があります。

だから、相手に嫌われていないかどうか細心の注意を払い、嫌われる可能性のある選択肢を極力排除し、自分がよく見えているように常に他人の評価をコントロールしようとしていたと思います。

それが、常に他人の前で気を緩められない悪循環を生み、さらに他人との距離を開かせます。このように、真の信頼関係とは程遠い関係しか構築できないゆえんは、自分自身のコントロールしようとする心だったのだと思います。

 

自分の気持ちに蓋をした

他人だけではない、と書いてあるところが実に示唆に富んでいて、私は確かに感じ方をコントロールしようとしてきました。

別の構成要素である『凍りついた感情』にも関連すると思いますが、『感じてもいい』と思う感情や社会的に正しいと確信できる感情しか自分に許さなくなって、私は私が感じていることがわからなくなったのだ、と実感しています。

たとえば、『結婚しているのに他の異性を魅力的だと思ってはいけない』とか『仕事をしなくては生きていけないのだから、仕事をしたくないということは感じてはいけない』とか『育ててもらった恩があるのだから、親を大切にしなければいけない、嫌いになってはいけないし敬わなくてはならない』という風なことです。

賛否両論あると思いますが私は、結婚していても他の異性を魅力的に感じることはあるし、仕事がしたくなくて1日放心状態になるときもあるし、親なんて早くいなくなれと思っています。

常識的に、そして倫理的に見れば、もしかするとこれらは非常識だ、甘えだ、間違っている、と糾弾され裁かれることなのかもしれません。

でも、実際に湧き上がってきた感情や気持ちは、そのまま受け取っていいもののはずです。だって、そう感じている自分は確かにいるのだから。

それを歪めてなかったことにして蓋をすると、感情や気持ちは腐臭を放ちながら別の形で体現されます。

それが、『他人に対する異常な厳しさ』です。

 

とにかく自分にも他人にも厳しかった自分

●人を裁く傾向があり、硬直している
●寛容ではない

という項目がありますが、まさにその通りです。自分の気持ちを封じ込める代償に、他人にもそれを求めたのです。

『自分がこんなに我慢しているのに、お前がそれを許されるなんて不公平を、俺は絶対に許さない』という、青く揺れる炎のような憎しみを燃やしながら、目を血走らせて間違いを見つければ「ほらやはり正しくない」と相手をジャッジしていました。

間違っていることが許せず、徹底的に糾弾して、周囲を萎縮させ、自分自身も間違いができないようになって、どんどん気苦しくなっていきました。

自分の本当の気持ちが見えていないから、正しさが唯一の物差しになっていたんですね。

出発点は自分が自分の感情をないがしろにしたこと。それを他人にまで強要するなんて、嫌なやつだったなぁ、と呆れます。

私は他人が人生を謳歌しているのがとにかく憎くてたまりませんでした。

楽しそうにしている姿も、前向きに頑張る姿も、私がしてはいけない(と思い込んでいる)からできないことを、反則で自由にやっている、と思うと気が狂いそうなほど嫌いでした。全部燃え尽きて滅びればいい、目の前から消え失せてほしい、とすら思っていました。

今思えば、自分らしく振る舞い楽しそうに生きている姿が、羨ましかったのです。自分の感情のままに、生きていきたいと本当は思っていたから。

なぜそれができなかったのか?

それはやっぱり両親との不健全な関係からだったように思います。

 

何も決めさせてもらえなかった

私は小さい頃、自分では何も決めさせてもらえなかったように思います。

習い事も、行く学校も、目標とする将来ですら、自分で思い描くことを諦めるほど、両親から無言の圧力を感じていました。

どうせこの人達がむかってほしい方向にレールが敷かれて私はその通りに進まなくてはならなくなるのだから、考えたって無駄だ、いう通りにだけしていよう、と思っていました。

だから、何の喜びもありませんでした。

全ては義務でした。

子どもの頃わたしたちは犠牲者でした。自分の環境や起こってくる出来事を、殆どあるいは全くコントロールできませんでした。

上記の内容にある通り、それは「コントロール」だったと思います。

こうしなくてはならない、あれをしてはならない、なぜならそれが正しいことだから。

呪いのように正しさだけが私の周りを占拠して、世界がどんどん高くなる壁に覆い尽くされて見えなくなるような感覚。

足元の靴やそれより下にいる人だけを見ていれば、見えていたはずの空を思わなくて済むので、私は見上げるのをやめたのでした。

自分が行きたい方向なんてない。ここで言われた通りに生きるしかない。だから、下に人がいないと「これでいいんだ」と思えないし、不安になるのです。

だから、人より優れていようと必死になり、わかりやすい偏差値やランキングにこだわり、持っているもので必死に他人をジャッジして安心しようとしました。

それは、本当にその人そのものを見ていない、見ようともしない、失礼で浅ましい思考だったと思います。

安全さと予測可能性を異常なほどに必要とするようになって、社会的評価が高く、経済的に安定した何者かになろう、またはそういった組織の一員になろうとしました。

それが今ある程度叶っているのに、なぜこんなにも不満足なのか?

それは、本当に求めていることではないからです。

コントロールされたことにより、コントロールしようとして、安全さや予測可能性を異常に欲した結果、今の場所にたどり着いたものの、本当にしたいことや本当に好きなことや、本当に得意なこととは違う場所にたどり着いているから、こんなに違和感があるのだと思います。

たしかにこれで正しいのだろう。そう納得できるし、そう生きてきて間違いはないはず。

なのになぜかイライラするし、毎日憂鬱で、なぜか悲しく虚しい気持ちになるのです。

正しさがほしかったのではないのでしょう。

では、何が欲しかったのか?あるいは欲しいのか?

それは、『楽しむ』ということではないかと最近思うのです。

コントロールからの回復とはどんなこと?

□コントロールからの回復□

自分が安全であると感じ、安心するために、人々や物事をコントロールしようとしてきたやり方に、私たちはもっと良く気がつくようになります。わたしたちの努力は無益だったこと -わたしたちのコントロールにもかかわらず、他人はその人のやり方で物事をやっていき、状況はそれ自身の成り行きを持っていること- が分かります。ハイヤー・パワー(回復の力)を自分の安全の源泉として受け入れ始めるとき、私たちの必要を満たすための、最も有効なやり方を発見します。わたしたちが降伏して、意志といのちをハイヤー・パワー(回復の力)の配慮に委ね始めると、ストレスや不安を経験する度合いは小さくなります。自分の安全にばかり気を取られることなしに、いろいろな活動に参加することが、前より良くできるようになります。平和の祈りを口に出してみることは、コントロールに対する欲求・必要がまた起こっていることに気がついた時なら、いつでも役に立ちます。

コントロールを捨てるようになるにつれて、わたしたちは次のようになり始めます:

〇変化を受け容れる
〇自分を信じる
〇他の人に権限を与える
〇ストレスが減る
〇楽しむ方法を見つける
〇他の人たちをそのまま受け入れる

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
64Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
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何も楽しくなかったのはコントロールしようとしたから

私が今一度認識し直さなくてはいけないのは、両親がそうしようとして無駄であったように、物事や、特に他人などは『コントロールできないものなのだ』ということです。

それぞれがそれぞれの行きたい方向があり、実現したい未来がある。それが叶うか叶わないかによらず、それを目指す自由があるし、失敗する権利がある。

そもそも、出発点はそうであるはずでした。

しかし私は両親に邪魔されました。いろいろな失敗する権利を奪われて、目指す自由を見失いました。

結構、楽しくなかったと思います。ワクワク心踊る!みたいな人生ではありませんでした。それは、自分の人生ではなかったから。

今は、経済的にも自立しました。年齢も成人と認められる歳になりました。今もなお親からの呪いを引き継ぐ必要はなくなりました。

私は、私がコントロールしようとしてきたことを手放します。

自分のこと、他人のこと、そして、常に正しくあること。

人は、常に正しくあることなんてできないのだから。

こうではないかな?と思ってやってみて、そうでなかった、なんてことは日常茶飯事です。

失敗の経験を積み重ねることで、私たちは成功の確率を上げてきました。それが正しさと言われるものです。

つまり、正しさこそ失敗から生まれたものであり、自分がきちんと正しくあろうとするなら、むしろ失敗を知らなければならない。生身で本気の失敗をしていない人が、真に正しいことを肌感覚で知りようがなく、知識として知っていてもその人の正しさは本物とは言えない、と思うのです。

そして、だからこそ、『正しい』なんてことは常に変化していてとらえどころがなく、陽炎のような存在であって、他の人の正しさに囚われて、右往左往したり、あるがままに感じることをやめてしまった途端、私たちは健全ではなくなってしまうのでしょう。

正しさも人生も、フル・オーダーメイドです。

それぞれがオーダーメイドの人生を楽しむために生まれてきました。

だから、比べる必要がない。羨む必要もない。妬む必要もない。見下したり蔑んだりジャッジしたりする必要もない。

どれひとつとして同じではないからです。

なるようになっていきます。状況はそれ自身の成り行きを持っていて、私がヤキモキしなくても勝手にあるべき姿に収束していくと信じることができます。

だから、私は、私が何をしたいか、何をして楽しみたいか、に全身全霊をかけていいと、全てを手放して、自分に許可を出してもいいのです。

正しくなくてもいい、社会的に価値がなくてもいい。私たち一人ひとりの自分らしさとは、常に自分だけのオーダーで形作られる「オーダーメイド」だからこそ、それだけで価値があります。

だからみんな、好きなように、生きていいんだよ。

誰に何を言われるかなんて気にしなくていい。みんな外野で脇役。親ですら登場人物のなかのひとりでしかない。

主人公は私たち自身。自由にオーダーが出せるそれぞれの世界の主役は、自分自身以外にいない。

自分の夢は、自分にしか見つけられないし、自分にしか叶えられない。

私は、コントロールされてきた私の人生を、今度こそ取り戻そうと思います。

そして、精一杯楽しんで胸を張って死んでやるぞ!とワクワクした気持ちでいます。

 

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