【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録③(凍りついた感情)

こんにちは、ちあき です。

今回は「凍りついた感情」について棚卸ししていきたいと思います。

 

凍りついた感情とはどんなこと?

わたしたちの多くにとっては、自分が感情を持っているということを認めることさえ難しく、ましてそれを表現することはとても困難です。子どものとき、わたしたちの感情は、非難や怒りや拒絶に出会いました。生き残るための手段として、わたしたちは自分の感情を隠すか、完全に抑圧しました。
成人になったわたしたちは、しばしばその存在や激しさに気づかずに、痛み、罪、恥、憤怒の感情を、わたしたちの深い部分に貯蔵して持ち歩いています。わたしたちは「安全」に感じるために、「持って良い」感情だけしか自分に許すことができません。
わたしたちが人生や生活に応答する仕方は、実際に感じている現実から自分を守るために、歪んでいます。歪んだ、抑圧された感情は、恨みや怒りや抑欝の原因となり、さらには時間が経つにつれて、身体的な病気を引き起こすこともあります。

感情が凍りついていることは、わたしたちに次のような問題をひき起こしているかもしれません:

● 自分の感情がわからない
● 歪んだ感情を持っている
● 感情を抑圧する
● 抑欝を経験する
● 身体的な病気になる
● 浅い人間関係しか持てない

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
69Pより引用

 

自分の感情がわからなくて困る

私は、自分が何が好きなのか、何を食べたいのか、どんなことをしたいのか、などがよくわからなくなることが頻繁にあります。というか、ほぼわかりません。

自分のやりたいようにしかしたくないくせに「好きなことしていいんだよ?」と言われるとひどくまごつきます。

好きなことってなんだったっけ?となり停止します。

食べ物を食べに行くとき、「なんでもいいよ?何にする?」と言われたとき、すごく悩みます。

 

それはなぜか?

「好きにしていいよ」って母親がいったときも、先生がいったときも、好きにしたら怒られたり、哀しい思いをさせて傷ついたりした結果、そのまま受け取れるほど性格が真っすぐではなくなってしまったからです。

例えば、父親がケーキを買ってきたとき。

イチゴのショートケーキが2個あり、チョコレートケーキがあります。

父、母、私の3人家族で食べる場合、「さあ、○○から好きなケーキをとっていいよ?」と母親に言われました。

あなたは、何をとりますか?

何をとるべきでしょうか?

 

正解は、イチゴのショートケーキです。

なぜか?

イチゴのショートケーキが好きだからではありません。

母親が何を食べたいかはっきりしない以上、先に選択肢をつぶさない唯一の方法は、2個あるものを選び、選択可能な状態を崩さないこと。母親が選びたかったものを選ばずに済み私に責任が及ばないのは、イチゴのショートケーキだけだからです。

 

私は無邪気に何も考えずとったケーキが、運悪く母が食べたいと思って買ってきたケーキだったことがありました。

母親は「本当は私はこれが食べたかったのに…」と哀しそうに食べ終わった後で言いました。

私は心から後悔しました。

「何でも好きに選んでいいよ?」というのは言葉通りにとっていはいけなかったのだ、そういうわけではなかったのだ…。

私は次から母親の視線や指をさす順番、何を好きで何を嫌いなのかを考えて、選択肢を選ぶようになりました。

妹が生まれてからは、妹に先に選択権が与えられるため、さらに難解になりました。

2個ある選択肢がつぶされる場合が増えたからです。

先に選ばせたり、手を伸ばしてみて顔色を窺ったり。様々な手段で『母親が選びたいものではないものを選ぶ』ことが、『好きなものを選んでいい』という言葉の真の意味だと理解していました。

さて、私は何を食べたかったのでしょうか。

今はそれがわからない。他人が欲しがりそうなものはわかる。それを譲るのは得意です。

しかし、私が欲しいものを選ぶことが、どうしてもできません。

今は私が稼いだお金だし、私の自由に時間が使えるし、成人しているのだから、もう誰の機嫌もうかがう必要がないのに。

 

復讐に爽快感を感じる(歪んだ感情を持っている)

そうした抑圧への不満や怒りは、ゲームや映画などの残虐な表現やプレイを好むという風に形を変えて現れていたように思います。

好きに人を轢き殺したり撃ち殺したりできる海外のゲームをよくやっていましたし、大事なものを奪われて、その復讐(リベンジ)を果たす、というストーリーにものすごく引き込まれます。

 

特に好きなのが、「完全なる報復」 と 「レヴェナント: 蘇えりし者」 です。

 

 

 

おそらく、親や大人に抑圧されてきた感情が怒りとして表出し、それを代わりにやってくれている主人公にあこがれて、すごく興奮しました。
現実でも、何か屈辱的な思いをさせられたことや、尊厳を踏みにじられたことをずっと覚えているタイプです。
何十年も前のことを執念深く覚えていて、絶対に10倍返しにして仕返しをしてやろうと、腹にため込んできました。

失礼な態度をとってきた人には、それ相応の報復をし返してきました。

そうした時折見せる厳しい冷徹な態度は、周りの人々を緊張させ、遠ざけていたように思います。

 

浅い人間関係しか持てない

私は、親しい友人というものがあまりありませんでした。(今はやっと本当に大事な仲間ができましたが。)

 

正直に伝えることが怖いです。

今まではそれを受け容れてもらえなかったから。

正解はわかります。今はこういうべき、今はこう返すべき。

そんなことばかり話していると、ちゃんと会話しようとしている人は気づきます。

「お前の本当のところはどうなんだ?それが聞きたいんだ」と言われたとき、私はひどくまごついてしまいます。

本当の気持ちがわからないからです。

 

私は本当は復讐をしたいわけではありません。

イチゴのショートケーキではなく、チョコレートケーキが欲しかったのかもしれません。

本当の気持ちを言ってもいいんだろうか?

本当にこの人はそう思っているのだろうか?

言葉の裏を読んで対応することばかりしてきて、額面通りに言葉を受け取れない私がいます。

 

「正解しか言えない」という目に見えない呪縛

私は正しいことや間違いないことに固執しそうでなくてはいけないと思ってきました。

でも、本当は正しくなくたって感じていることや好きって気持ちは事実なんだし、それはいいも悪いもないんですよね。

父親と母親はいつも正しかったので、何も言い返せませんでした。

私が感じていることは間違いで、父や母が言うとおりにしていれば、「正しい」。

私自身でやろうとしたことや、考えて言ったことは、全部正解以下でした。

だったら、もう正しいことだけでいいじゃないか。私の話なんて誰も聞いていないんだから。

私が感じることもどうでもいい。だれも望んでいないのだから。

私が感じたままに何かをすれば、私自身は傷つき、周りが哀しい顔をしました。

だから、感情を凍らせることは、必然だったと言えるでしょう。

 

しかし、このテーマをみたとき、私は自分の感情が凍っているとは思っていませんでした。いろいろなものを感じ、表現していると思い込んでいました。

しかし、実際は「正しさ」に縛られて、それ以外の感情を取捨選択して打ち消そうとしていたんだと気づきました。

それは、新鮮で、深い驚きと失望を感じさせました。

 

嫌なことを嫌と言い、手放す。その代わりにどうしたいか、を考えて伝えてみる

ACに詳しい尊敬する先生に聞いてみたところ、「まずは嫌いなものから始めてみるとよい」と教えていただいたので、今はそれをやってみています。

 

たとえば、私はベッドで寝るとき、娘に足蹴にされ、犬2匹に居場所を奪われ、無理な体勢で寝ていました。

私はそれが「つらい」と感じていました。

でも、家族みんなで一緒に寝る、というあるべき家族像を崩す気がして、何より「一緒に寝たくないのか?」と哀しい顔をされるのではないか?という恐怖で言い出せませんでした。

しかし、つらいし嫌なことは、言わなければ伝わりません。

私は、寝るスペースがないこと、それが原因で日々の生活に支障をきたしていること、できればベッドのわきに布団を敷いてそこで寝たいこと、を勇気を出して言ってみました。

そうすると、すんなり聞き入れてくれました。

 

また、うつ病で朝辛くて起きられない日も朝犬の散歩に行くのが日課だから、私の役割だから、と無理をしていましたが、調子が悪い日はいけない日もある、ということを伝えました。

それも、行ける日でいい、という話になりました。

 

実は、「~しなければならない」という正しさや自分の正当だというイメージに囚われていることをしなくても、私は許されるのではないか?と思うようになっています。

それならば、私はしたいことをするために、嫌なことを手放していって、もっと自由になってもいいのかもしれない。そうして身軽になっていけば、やりたいことや好きなことが見えてくるかもしれない、と思うのです。

 

凍りついた感情からの回復とはどんなこと?

自分の感情に触れ、それを表現するようになるにつれて、わくわくするような出来事が起こり始めるでしょう。自分の感情を正直に表現できるようになるにつれて、わたしたちのストレスの度合いは低くなります。
自分の本当の感情を表現することは、人と対話するための健康な方法であることが分かってきて、その結果の一つとして、他の人たちが彼らの感情を私たちと分かち合っていることを発見するかもしれません。蓄積された感情を開放し始めるとき、わたしたちは確かにいくらかの痛みを感じるでしょう。
しかし、自分の感情を表面に出すことについてわたしたちのやる気が高まるにつれて、その痛みは弱まっていき、そのことで脅かされたり圧倒されたりすることは少なくなってきます。自分の感情を敢えて解放しようとする気持ちが強ければ強いほど、自分自身のハイヤー・パワーと他者とに対する有益な、親密な関係を持つ能力が高まるでしょう。

自分の感情を経験し、表現するようになるにつれて、わたしたちは次のようになっていきます:

〇自分の感情をきちんと捉える
〇感情をオープンに表現する
〇人間関係において親密度が増す
〇自分の真の自己を経験する
〇自分の必要を他の人たちに表現する

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
70Pより引用

 

今はまだたどたどしいですが、少しずつ少しずつ、自分の感情を、まずは嫌だと言うことから初めて、解放していきたいです。

それでも人に受け入れられる、そのままでいいと思える。

そこから、私が本当に大切にしたいと考えていること、一緒にいたいと思っている人、やりたいこと、生きたい人生が見つかり、私は生きていてよかった、と心から思えるようになるのではないか、と思います。

そうなるように、私はがんばります。

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