【依存症】セックス依存症を誤解するアルコール依存症者の話

こんにちは、ちあき です。

アルコール依存症とセックス依存症について、考えてみました。

 

依存症をことごとく誤解していた私

何を隠そう、ブログタイトルの不届き者は、私自身です。

私はアルコール依存症になりましたが、それまではアルコール依存症を誤解してきました。

アルコール依存症はどうしようもなくダメないい加減な性格の人がなる、恥ずかしい病気だと思っていました。

だから自分がアルコール依存症だなんて認められずに、ズルズルと色々なものを失うまで否認し続けてきました。

肝臓の数値がまだ4桁ではないしもっと飲む人もいるとか。

人より少し(少しではないのですが)量が多いだけだとか。

ストレスが多いから飲んでも当たり前だとか。

世の中のサラリーマンは毎日飲んでるんだから普通だとか。

 

そう、ありふれているんですよね。酒は。
世の中に浸透して、飲み物として定着している。

実際はエチルアルコールに味をつけた合法ドラックなのにね。

CMでは煌びやかで美しい女性がさも美味しそうに飲み下し、ドラマでは爽やかイケメンがワインを傾けながら素敵な愛の言葉を囁き、イメージを美化しています。

国は酒税で税金が入るので、酒を決して悪者扱いしません。

周囲の大人もキメているし、大丈夫だろう、ということで、何も知らない子供たちも体に悪い飲み物ではない、と成人した途端に次々に手を染め、正しい知識がないまま乱用して一気飲みなどで急性アルコール中毒になり命を落とすこともあります。

アルコール依存症は、社会に酒が根付いているからこそ、文字通り根が深い関係にあるといえます。

(アルコールについては、三森みさ先生の厚労省監修の依存症啓発漫画「だらしない夫じゃなくて依存症でした」を読んでいただくとすごく良くわかります。めっちゃ面白いし、今なら無料なので、読んで損することはないでしょう。)

(現在、オリジナルストーリーが追加され全てに加筆修正が施され、待望の書籍化が実現間近で、予約が既に殺到しています。)

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セックス依存症かもしれない同僚の話

私は、セックス依存症と思われる同僚と出会ったことがあります。

毎日クラブに出向いては女性を誘い、自室に連れ込んで行為に至り、その一部始終を自身のiPadで盗撮するのが趣味の男性でした

容姿端麗でノリが良く、モテていました。
度々その卑猥な動画を見せびらかしては、自分がいかにオスとして優秀かを周囲に誇示している人でした。私は正直、その人が穢らわしいと思っていましたし、大嫌いでした。

しかし、ある時、珍しく弱々しい顔をして私に打ち明けてくれたことがありました。

「本当は本命の彼女がいる。その人のことを本当に愛しているけど、他の女性との行為をやめられなくて、本当は辛い。毎日誰かがそばにいないと、セックスしないと頭を掻き毟りたくなる。俺はタイガーウッズと同じ病気かもしれない。」

私はそれを聞いたとき無知だったので、
「何言い訳してんだ。本当に好きなら不貞行為をしたりしないだろう。」
と冷めきった対応をしてしまいました。

その後、彼はその話について触れることはなく、職場の周囲で性的関係を拡げすぎたのか、理由は会社内でも知らされないまま、別の会社へ転職してしまいました。

真偽のほどはわかりません。
しかし、私はかねてより津島隆太先生「セックス依存症になりました。を読んで、その時の対応に激しい後悔を感じています。

(この漫画も、毎週金曜に更新されているうえに、無料。どうなってんだ全く、依存症界隈の作家さんたちは…。良心的すぎます。)

 

 

ありふれているからこそ問題が理解してもらえない、セックスとアルコール

セックスも、正しい教育などあまりないままに、成人になると見様見真似で普及していき、多くの人が経験していながら、あまり深く掘り下げられにくい、という点で、アルコールと一緒なのではないか、と気づいたのです。

私は、アルコール依存症になって、同じように言われて理解されず、苦しんできたことを思い出しました。

「酒がやめられないなんて言い訳だ、意志が弱いからだ」
「本当にやめたいと思っていたら、やめられる筈だ」
「アル中になるほど飲むなんて頭がおかしい」

正直に差し出した自分の生身の苦しみに唾を吐きかけるようなそんな言葉をかけられて、私はどれだけ悲しくて惨めで怒りを覚え、人間関係に絶望したか、はっきりと重なって私の心にザックリと突き刺さりました。

私は、私を傷つけた人たちと同じことをしていたのかもしれない。
そう思った瞬間、なんとも居た堪れない苦しい気持ちになりました

酒はありふれています。
だからこそ、皆安心だと勘違いします。
多くの人は上手に付き合っているように見えます。
「当たり前」ができない人間を、分かりやすくバカにすれば、自分がマシな人間に見えて、インスタントに自己肯定感を高められるのでしょう。
人は、「当たり前」のことも当たり前にできないひとなら、いくらでも馬鹿にして叩いて尊厳を踏みにじり身勝手に消費しても、一向に構わないと勘違いしやすい。

一歩間違えれば、自分がいつ、「当たり前」から踏み外すかもわからない。弱くて小さな存在だということを、いとも簡単に忘れてしまいます。

 

 

まとめ:歪んだ物差しを抱きしめて

私たちは、自分の物差しで測ることしかできません。
その物差しが実は歪んでいるかもしれないのに、絶対的に正しいと勘違いしやすい。

特にありふれたもの、酒や市販薬やセックスなどを含めたありとあらゆる事象は、ほかの人にとっては、私が定義しているカタチとは全然違うのかもしれない。

そういう想像力を欠いていた、または今も欠いているであろう自分を恥ずかしく思います。

ましてや経験したことのない、表面的にしか知らないことについて、わかったようなことを、どんな根拠で何を言うことができるのでしょうか?
例えば、違法薬物で逮捕された芸能人の方を声高に批判する、無関係なメディアのコメンテーターの下卑た表情を見、見下す興奮に上擦った声音を聴くにつけ、何を偉そうにわかったようなことを言っているのか、と思います。
同時に「あれは少し前の恥ずかしい私そのものだ」と感じます。
だからあんまりテレビは見ません。凹むだけですから。

私たちは、自分の物差しがもしかしたら見事に立派に歪んでいて、あらゆることを見誤っているのかもしれない、という謙虚さを脇に携えながら、他人の話を傾聴すべきなのかもしれません。

そうした己の不完全さ、弱さを認めたうえで、他人の言葉を聞きたいと思いました。

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