月別アーカイブ: 2019年11月

【子育て】親の陰口が子供の心を騙すという話(アダルトチルドレン)

こんにちは、ちあき です。

 

最近になって、母親から呪いを受けていたことに気づく機会がありました。

 

ふとしたときに思い出された、活き活きした父の姿

あるデザイナー兼イラストレーターの先生と話をしていたときのことです。

 

「漫画書く仕事をしているときって、最初は話の構想を練ってネームを描いて、登場人物の心の動きとか設定とか考えながら作業してるんだけど、下書きしたりペン入れしたりして何回も何回も同じシーンを描いては修正し描いては修正しを繰り返しているときには、作業で精いっぱいになって、何を描いてたのかわけわかんなくなるんですよねー。だから、読んでくれた感想ってとってもありがたいんですよー。自分だともう作品をそのままフレッシュに見られないので。」

 

という、狂気が滲み出るエピソードとを聞き深く戦慄したわけですが、なぜか懐かしさがありました。

 

私の父は書道家で、よく自宅で籠って字を書いていました。

 

展覧会の前などは作品が仕上がらない、と言って何時間も部屋で独りでうんうん言いながら書いていました。

 

たまに、「あー!もうわからんくなった!!」と言いながら、リビングにきて

「ちょっとこっちきて」と私と妹を呼び寄せるのでした。

 

何かな?と思って作業部屋に行くと、2つの書が並べて壁にかけてあり、

「どっちをどう思う?」という謎の問いかけをされます。

楷書でなく行書なので、何と書いてあるかすらわからないのですが、特に説明はなく、「感じたままを教えてくれ」というので、ほとほと困り果て、

「うーん、右のほうが白いところが多いから寂しい感じがする」

などと感じたままのふわっふわな感想を話すと、目を輝かせて

「そうか、そうかー、なるほどなー、ふんふん」などと言いつつ、私たちを読んだことはすっかり忘れてまた作品に没頭してしまうのでした。

 

こうしたことが何度もあったことを唐突に思い出したのです。

父もまた、書道家としてずっと作品に向き合ってきて、たまによくわからなくなるのか、こうしたことがあるたびに当惑した思い出がよみがえり、爽やかな感じがしたのです。

 

なぜか?

自分の父が生身の人間として、心に還ってきたような、息づいてる感じがしたのでしょう。

(もうお亡くなりになったような書き方ですが、父はまだ存命しています。)

 

 

母親から授けられた、父を嫌わなくては、という呪い

母親は、ずっと、父の愚痴をいっていました。

繰り返し繰り返し、私は父の悪いところを母親から聞き続けてきました。

 

「仕事ばっかりして帰ってこないなんて、ひどいでしょう」

「なぜなら、私たち家族よりも仕事のほうが私たちより大事なのよ」

 

そんな話をずーっと聞かされてきて。

母は父に帰ってきてほしい、っていうだけだったんだろうけど、

私は父を「嫌わなきゃいけない」と思ったのだと思います。

 

私は母といる時間が圧倒的に長かったので、父と話すのはもっぱら休日で、情報量では母親サイドの話が圧倒的に暴露率が高く、父をどんどん心の中で悪者にしていきました。

 

そうしなければ、嫌われるのは私になるからです。

父が嫌われ者をやってくれているうちは、母から嫌われずに済む。

母に嫌われたら子供の私は生きていけないし、何より母に嫌われることを考えたらとても心が耐えられないだろうと感じていました。

 

それに、父がちゃんと仕事だけじゃなく家庭にリソースを割いてくれれば、母からこんな聞きたくもない話を延々聞かされたりしなくていいし、私が聞いてほしい話ができたのに、と、父を恨む気持ちは日に日に強くなりました。

この記憶は、今も「仕事をしているからといって家事や子育てに手を抜くことは許されない」という、ひとつのクサビになって、私を休ませてくれません。

 

ある研究によれば、父親が家に帰ってくる数が少なくても、母親が、父親に対する愛情をもっていることを、子供たちに伝えている場合と伝えていない場合とでは、父親に対する子供の好感度が異なるといわれています。

 

それを考えるにつけ、私は、やはり父を本当は嫌いになりたくなかったのだと思います。

 

私だって父との時間が欲しかった。

本当は嫌いになりたくなかった。

父の話をもっとしてほしかったし、もっと私も自分の話したかった。

 

しかし、それは叶わなかった。

母が父を遠ざけ、意図せず悪者に仕立て上げてきたから。

父を嫌わなくては、逆に母に嫌われる恐怖を植え付けてきたから。

 

呪いを子供に授けないために、どうすればいいのか?

ずっと探していた生身の父。

たしかにそこにいて、感情をもって懸命に生きていた父。

私は、漫画を執筆した先生のエピソードに、父とのかすかな思い出を重ねて、なんだか嬉しくなってしまったのでした。

 

そんな風にならないように、私はパートナーの悪口を子供に吹き込むようなことをしない親でありたい、と思います。

 

私も子育てを積極的にやっている父親の一人として、世の中のお母さんが辛い気持ちは少しはわかるつもりです。

帰ってきてほしい気持ちも、心細い気持ちも、家から出られずふさぐ気持ちも。

それは、感じても仕方がないことですし、その気持ちを否定するつもりもありません。

依存しないで生きていくなんて、人間にはできないと思います。

人は、そんなに強くない。

しかし、つらい気持ちを子供だけにぶつけることは、子供を共依存の犠牲にすることに繋がってしまいます…。それは本意ではないですよね?

他にも複数の健全な依存先を増やし、子供を自分が立っているために杖として使わないようにしていきたいですね。

【依存症】めんどくさい依存症専門用語(略語)をわかりやすく解説する話

こんにちは、ちあき です。

女優の沢尻エリカさんが逮捕されましたが、「反省して二度と薬物に手を出さないように」なーんて、どや顔で漫画ワンピースのハンコックかってくらい上から目線のメッセージを言っちゃうようなひと、いませんよね…?

依存症について、私も知らないことがたくさんあります。

特に略語。

何かを決めたとき、日本でも海外でもわかりやすいように略語にしますが、逆によくわかんなくなりますよね。それにイライラしたので、まとめてみました。

 

 

 

1、「SBIRTS」=早めに程度を調べて、治療や自助に繋がろう

はい。

早めにスクリーニングして、問題の程度を確認しときましょう ってことですね。

今までは結構「底付き」「底打ち」と言って、そりゃーもうボロ雑巾のようにボロボロになって、家族も財産も仕事も生きがいも何もかも失ってからようやく「アルコールを断つか、死ぬしかないかな( ^ω^)・・・(白目」という感じで専門病院に入院する、というパターンが王道でした。

尊厳もくそもないです。人として生きててすみませんレベルで自尊心も基本的人権もすべて引き剥がされてからの治療スタートです。正直しんどいです。つらすぎてくじけます。

家族も本人も疲弊しつくしてからではなくて、最初に問題を確認しておけば、被害が少なくて済みますもんね。みなさん、毎年だいたい健康診断するでしょ。あれです。

最初に定期的にスクリーニングテスト(血圧測定・血糖値測定)なんかをしておいて、異常が有ったり問題が有ったりしたら、とりあえず介入(診察・血圧管理・血糖コントロール)しますよね?それが現代の医療の在り方、と言われれば、まさに依存症も病気なんですから、そうあるべきなんですよね。たしかにたしかに。

Screening・スクリーニング
…「飲酒度」を「ふるい分ける」(「AUDIT」,「KAST」,「CAGE」等スクリーニングテスト実施)

Brief Intervention
… 簡易介入 “危険な飲酒”患者には、節酒を勧め、“乱用”や“依存症”患者には断酒を勧める

Referral to Treatment
…専門治療への紹介 専門治療の必要な患者には「紹介」を行う

Self-help group
…自助グループへの紹介 医療機関や健康診断機関のスタッフが強力に自助グループへ紹介する

1.SBIRT は専門医療機関においては、早期発見から早期治療のためのコンセプトとして定着した手法であるが、SBIRTS は、これに自助グループ(Self-help-group)の「S」を連結した考え方である。

2.アルコール依存症は進行性の慢性疾患であり、医学的治療の進歩により短期的予後は改善しても長期的な回復を持続することは難しい。アルコール依存症の受診患者が順調な長期的回復を実現するためには、自助グループに参加することが望ましい。

3.そのためには、治療にあたる医師が、積極的に、患者と自助グループの構成員との出会いの場を演出し、患者自身の持つ偏見を取り除き、自助グループへの抵抗を和らげるよう寄り添うことが大切である。視点を変えれば、医師による治療のための出会いの場という側面と、自助グループによる医師への治療支援という二つの側面があるといえる。

出典:https://www.dansyu-renmei.or.jp/news/pdf/SBIRTS.pdf

 

2、「ハームリダクション」=最悪使っちゃってもいいからせめて減らそう

ハームリダクションとは、「その使用を中止することが不可能・不本意である薬物使用のダメージを減らすことを目的とし,合法・違法にかかわらず精神作用性物質について、必ずしもその使用量が減少または中止することがなくとも,その使用により生じる健康・社会・経済上の悪影響を減少させることを主たる目的とする政策・プログラムとその実践である。」

つまり、使ってもいいから悪影響とダメージを減らすとこから始めましょう、ってことですね。

ハームリダクションは,薬物使用者,家族,コミュニティに対して,寛容さをもって問題を軽減するきわめて現実的な政策・プログラムであるとされ、欧州,オーストラリア,カナダなどを中心に,最も成功している効果的な薬物政策として広がっていますが、東南アジア、日本を含めた東アジアなど反対する国は少なくないそうです。

ハームリダクションは、薬物の使用量減少や中止を主目的とはしておらず,薬物使用を止めることよりも,ダメージを防ぐことに焦点を当てます。

薬物を使っているか否か,それが違法薬物であるか否かは問われない.ハームリダクションは,科学的に実証された,公衆衛生に基づく,人権を尊重した人道的で効果的な政策であり,個人と社会の健康と安全を高めることを目的とします。

このアプローチは,公衆衛生と基本的人権への非常に強いコミットメント(誓約)を基盤としています。尊厳はすべての人にあり,薬物使用を繰り返す依存症者であっても基本的人権と尊厳は守られ,薬物のコントロールや予防対策の名のもとで,彼らの尊厳と基本的人権をスティグマによって蔑ろにすることは許されないという哲学に基づいています。

 

ハームリダクションの考え方とは ~人権を尊重した支援~

日本は、薬物問題に「ダメ.ゼッタイ.」に象徴される「不寛容・厳罰主義」を一貫して進めてきた、先進国では稀有な国なんですよね。

これらは、「薬物依存症は病気」とする視点とは対極にあり、臨床的には「不寛容・厳罰主義」では治療にならないどころか、「反治療的」な行為です。さらには,偏見や人権侵害を助長し,スティグマを強化する可能性すらあります。

薬物依存症の治療・回復支援を考えた場合,ハームリダクションの考え方は、「当たり前のこと」。そもそも「不寛容・厳罰主義」は刑事司法の考え方であり,医療・福祉の考え方ではありません。
世界の先進国もかつては厳罰主義で対応していましたが、それではうまくいかなかった反省に立って、大きく方向転換をしてきた歴史があります。それが米国を中心としたドラッグコート(西海岸の薬物裁判所)であり、欧州を中心とした、この「ハームリダクション」であると言われています。

出典:ハームリダクションアプローチ やめさせようとしない依存症治療の実践

3、「SMARPP」=再発しないためにみんなで集まって素直に勉強しようぜ

「SMARPP」とは、解散した某アイドルグループを彷彿とさせるスペルですが、「せりがや覚せい剤依存再発防止プログラムSerigaya Methamphetamine Relapse Prevention Program」の略で、神奈川県立精神医療センターせりがや病院にて開発された『認知行動療法型の外来依存症治療プログラム』のことです。

このプログラムは2006年より、松本俊彦先生(国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 薬物依存研究部部長 同センター病院薬物依存症センター センター長)が中心となって開発されました。

なんでか?

コカインや覚せい剤などの薬物だと、中枢神経抑制薬であるヘロインやアルコールのような薬物と薬理特性が違って、重篤な身体合併症や離脱症状がないので、どんどん途中で退院して外来診療からドロップアウトしてしまうことが問題になっていたから。

つまり、覚せい剤の場合は、ちょっと入院したら「もうしんどくないし、めんどいしいいや」と来なくなっちゃうんですね、病院に。

それじゃまた再発しちゃってるし、やっぱいかんやろ、ということで、このSMARPPで再発防止に取り組むというわけです。

 

で、じゃあ、このSMARPPは、具体的には何をするのか?

週1回24週の外来集団治療プログラムで、認知行動療法・依存症の生理学的知識をまとめた教科書(ワークブック)を用いて、10人くらいで集まって、主に平日昼間に外来で一緒に勉強します。

このとき、カウンセラーやグループが、当事者に対して支持的・受容的であることが重要です。

尿検査もしますが、治療状況の把握のみにとどまり、結果が陽性であっても決して警察に通報しません。正直であること、素直に向き合えることを最優先します。むしろ治療につながる重要な介入のチャンスととらえ、一緒に乱用を防げなかったことを省みて、再発防止プランを再考するようにします。

この方法は、平成22年から24年度の計3年間の厚生労働科学研究班「薬物依存症に対する認知行動療法プログラムの開発と効果に関する研究」により、平成28年度の診療報酬改定にて、SMARPPは依存症集団療法として診療報酬加算が認められました。研究の成果に基づいて、診療報酬を計上できるくらいの効果的な治療としてエビデンスを有している、と言えます。

出典:特集 認知行動療法と社会との接点「統合的外来薬物依存治療プログラムーSMARPPの試みー」(小林桜児)精神経誌(2010)112巻9号

 

 

結局、依存症は慢性疾患なので、先に挙げたように、高血圧や糖尿病と一緒なんですよね。

高血圧や糖尿病の人だって、単に薬物療法していれば治るわけじゃない。食事・運動療法などの非薬物療法を取り入れながらやらないと、治療継続できないし、結果的に改善しないことがほとんどです。

一回入院すれば、高血圧や糖尿病が完治するわけではないですよね。

それは、依存症も同じ。

一回入院したり、一回逮捕されて刑務所行ったら、もう二度と手を出さないはず!だって反省してるんだから!なんて、ちゃんちゃらおかしい話なんですよ。

病気になったことを反省して薬1ヶ月だけ飲んだら、血圧ずっと下がる?血糖ずっと下がる?いやー下がらないでしょ。笑

だから血圧の薬や糖尿病の薬飲みながら、先生に「またラーメン汁まで飲んで!」ってたまに叱られながら、コツコツ通院してる人が、全国各地にたくさんいるんじゃないですか。笑

定期的に検査して早めに治療につながること、繋がったら脱落しないように治療継続すること、何よりも依存症の人の基本的人権や尊厳を軽視しないこと、これ、実は当たり前のことですよね。

だって、慢性疾患の患者という意味で、薬物依存症の患者さんは、生活習慣病の患者さんと一緒なんだから。

しかも、本当に誰でもなる可能性のある身近な疾患なんだから。

高血圧なだけで、糖尿病なだけで、「だらしないから手を出すんだ」とか「病気になるのは意志が弱いからだ」とか、差別される世の中なんて嫌だよね?

それと同じなんですよね。

人気ブログランキングへ

【メンタル】性別を超えて相手を愛するということ

恋と愛と尊敬の違いについて、最近、よく考え、悩みます。

異性として大切に思うことと人として信頼し敬うことは、何がどう違うのでしょうか。

性別が違えば、慕うことは全て恋愛なのでしょうか。

尊敬とは

尊敬するということは、読んで字の如く「人格を」「尊いものと認めて敬う」こと。

相手が同性・異性に関わらず、その人そのもの、人格を尊いものとして扱うこと。

では、「尊い」とは?

貴重である、たいへん価値が高い、ありがたい、得がたい素晴らしさがある、という意味合いで用いられる表現古代階級社会においては人の身分の高さを「尊い」(尊し)と表現し得た。この用法今日では廃れている。神格を「尊い神様」のように表現する場合があるが、これは敬うべき・尊敬すべき・尊重すべきという意味合い捉えられる。

今日では「尊い」という表現は「たいへん価値がある」「貴重である」という意味において多く用いられている。たとえば「尊い犠牲」「尊い命」「尊い絆」「尊い努力」というような言い回しはよく用いられる。多分に理念的抽象的であり、金銭価値では置き換えられず、他の何かと比較することもできないような絶対的なもの、というニュアンス捉えられる場合が多い。

2010年代後半にはサブカルチャー分野中心に推しが尊い」というような言い回しで「尊い」の語を用いる言い方登場し、ネットスラングとして広がった。この「推し」は自分が好きなキャラクター(またはキャラ同士カップリング)のことであり、そこに見出された価値の高さが「尊い」と表現されているものと捉えられる。

「尊い」には自分と対象との間にある種隔絶があるというニュアンスも汲み取れる。その意味では「推しが尊い」も「萌え」と同様、自分と二次元世界との埋まらない隔たり無意識的前提した表現とも解釈し得る

『他の何かと比較することもできないような絶対的なもの』としての素晴らしさ(価値)がある事を意味しています。

つまり、同性であろうと異性であろうと、その人の人格に、他の誰かと比較することもできないような絶対的な素晴らしさを感じた場合は、「尊敬している」と捉えることができます。

とは

は、違うと思っています。

いろいろ見てみたら、この纏めが最もシンプルに纏まっているように思います。

恋は自分本位で、愛は相手本位。

恋は一時的で、愛は永遠。

恋はときめきで、愛は信頼。

恋は心配で、愛は安心。

恋愛とは言っても、愛恋とは言わないように、恋は先にあり愛へと変わる。

などなど、恋と愛の違いを挙げたら数え切れないほどあり、文学や哲学、芸術などのテーマにもされるものだが、どれも人それぞれの考えであって明確な定義ではない。

出典https://chigai-allguide.com/恋と愛/

つまり、自分本位に考え、相手に好かれたくて心配をして、一時的にときめいているような状態では恋をしている。

反対に、相手本位に考え、その人について考えるとき心から安らぎ、それは信頼関係からきている場合、『愛している』といえます。

尊敬し愛するということ

異性として魅力的だと思われたい、という気持ちは正直あります。

それは、尊敬し愛している人に評価されることは、深い喜びを伴うからです。

しかし、その喜びが得られなくても構わない、その人がその人自身の力で幸せになることを大切に考えて、その邪魔になるなら自分が報われなくても構わない、と思っています。

その人が素晴らしい人だと尊敬しているからこそ、自分が満たされることと相手が満たされることはイコールではなく、また自分という存在が影響しなくても、その価値は眩い光彩を放ち良い未来へ進んでいくことを信じて疑わない。

そういうこの気持ちは、恥ずべきものではない。

異性に対して、そのように貴び敬うことは、決してけがらわしいものではないと思う。

だから、愛しています、ということを私は悪いことだとは思えない。

それ以外に、表現のしようがない。

それでも間違っている、というならばその人は愛することを知らないのではないか、と思ったりします。

私はついこの間までそうだったから、受け容れてもらいにくいのも、なんとなくわかります。

でも、気持ちに嘘はつけません。

ただいつも心配なのは、私が本当に相手の気持ちを最優先できているのか?嫌な思いをさせていないか?私がいること自体がその人の害になっているのではないか?ということです。

相手がどう変わっても、たぶん私のこの気持ちは変わらない。

私はもう充分与えられた、ということなのでしょう。

私が出来ることなら、消えることを含めて相手の人生が最も幸福になることをしたい。

私は、親にそんなふうに思ってほしかったから、そうだったからこそ、私のその人への気持ちは紛れもなく愛であり尊敬なんだと思っています。

【依存症】断酒会に行くのがだんだんしんどくなってきた話

こんにちは、ちあき です。

断酒会が今まで自分の心のオアシスだったんですが、最近はすこし様子が違ってきていまして…。

この心のモヤモヤは何なんだろう?ということで、よく考えてみました。

 

私は断酒会に救われて断酒を続けてきた

私は2015年3月から断酒を始めましたが、はじめて断酒会に繋がったのは、2017年。

得意先とのゴルフコンペが嫌で嫌で、スコアが悪いことをネチネチ言われるのに耐えかねてハイボールをがぶ飲みしました。「次に飲んだら離婚」と言われていたのに、飲みました。

妻が探してくれた専門病院に繋がり、先生から、入院か通院どちらがいいか聞かれました。

仕事をやめるわけにはいかなかったし、妻も仕事をつづけながら通院という選択を許可してくれたので、私の場合は通院しながら断酒会に通うことを約束しました。

 

断酒会にはじめて足を踏み入れた時は、「ああ、こんな人生の落伍者の集まりに参加するにまで、俺は落ちぶれてしまった」と思ったものです。(超失礼)

しかし、同じように止められない酒の問題に悩み苦しみ、一度は自死を意識した面々の赤裸々な酒害の告白に胸を打たれ、「苦しんできたのは私ひとりではなかったんだ」という安心感と内省を繰り返すうち、自分がどれだけひどいことをしてきたか、いかに酒が生活を壊してきたか、を認識できるようになりました。

そして、月日が経つにつれ、自分の話を打ち明けるだけで精いっぱいだった私も、自分のことばかりでなく次第に他の人の言うことに聞く耳が持てるようになりました。

他のアルコール依存症者の体験談や感じたことから学びを得て、共通の傾向・どんな状況でスリップしたり欲求が蘇ったりするのか、とても興味深く、また目が開かれるようでした。

 

少しずつ感じ始めた「違和感」

そこまではよかったんですけどね…。

 

最近、断酒会の「体育会系」な体質に少し辟易としています。(あくまでも私が参加している断酒会は、という話で、全国の断酒会にはそうではない会も多数あると思います。)

 

自助する人の心の安全が守られていないように感じてしまうのです。

 

例えばある日、入院患者さんが「実は酒を飲みたいです、退院したらうまく飲めると思うので、今度こそ失敗しないようにしたい」と本心を打ち明けました。

そうすると、断酒を1~2年継続しているような元入院患者の「先輩」が、自らの体験談を語る順番になるとこういうのです。

「うまく飲めるなどと言っているやつはまたすぐ再入院になる。私はそうだった。そんな心構えではまだまだ甘い」

 

あとは、基本的に断酒会はずっと着席していなくてもよく、聞きたくない話のときには席を外してもよいのですが、席を外して外で電話をしていた人がいて、部屋に帰ってきたら、

「なんでみんなの話を聞かないんだ?!」

と恫喝されていたこともありました。

 

これ、きつくないですか…?

 

本心を話しても受け容れてもらえる、心の安全があるから、一度過ちを犯して傷ついた人でも、「生きていていいんだ」「そのまま感じてもいいんだ」って思えるんだと思うんですが、私が通っている断酒会は、どうも『後輩を先輩が厳しくしごく』みたいな男性的縦社会の嫌な部分を見ることが多くなってきました。

断酒会のリーダーと古参の断酒継続者が対立していて、お互いの体験を話し時にライバル意識剥き出しで、どちらかと仲良くしていると、どちらかが不服そうにこちらを見ていたり。

 

おいおい勘弁してくれよ、いい年して中学生かよ、お前ら…。(白目

まだまだ甘い、とか少年ジャンプのスポ根漫画に登場する師匠かよ。

 

入院患者さんは、退院しても、だいたい、この断酒会に戻って来ることはありません。

そりゃそうだわな。

入院中に義務で連れてこられた断酒会で本心を話したら、なんだかしらないけど長いこと断酒しているという知らないおじさんおばさんにボッコボコに間接的に否定されたら、そんなとこ二度と行こうとは思わないですよね?

言いっぱなし、聞きっぱなしとは、いったいどこに消えてしまったのか?という状況です。

私が知っている断酒会が、

①古参の人々は入院患者を間接的にボコボコにすることで、「断酒継続できていてがんばっている自分」を再認識する『断酒会版生贄システム』により自己肯定感を保ち、

②入院患者はボコボコにされて、自助グループに繋がる機会を失い、自力で頑張ろうという一番過酷な道を自動的に選択するので、再飲酒してしまい、また生贄になるべく入院患者として病院に搬送される、

という①~②の地獄のようなループを繰り返す、回復とは程遠い実態であることに、私は気づいてしまいました。

それから、何となく行く気がなくなってしまい、困っています。

 

自助グループって、断酒会って、なんだっけ?

つまり、私は悲しいんですよね。

私は断酒会に繋がってからもスリップしたことがありました。

断酒会ではえらそうに「酒をやめていて毎日が素晴らしい、もう飲まないと思う」などときれいごとを言っておいて、あっさり隠れて飲んで頭を6センチ切って貧血で動けなくなり、バレバレなのに隠ぺいしようとし、妻にどちゃくそ怒られました。

死ぬほど恥ずかしくて、消えてしまいたくて、それでも何とか酒をやめたくて、それは独りではできないことが火を見るよりも明らかで。すがるような思いで断酒会に妻と足を運んだことがありました。

そのとき、みんなは黙って話を聞いてくれました。断酒会が終わった後、近づいてきて何も言わずに手を握ってくれました。

 

それで、どんだけ、私が救われたか。

それだけで、どんだけ、嬉しかったか。

黙って聞いてくれて、手を握ってただ頷いてくれて、あんなに死にたかったのに、苦しいけど生きてみようと思わせてくれたじゃんか。

みんな、そういういいやつだったじゃんか。

 

自助グループって、もう死ぬほど恥ずかしくて言えないようなことを「否定されずにただ聞いてもらえる」っていうかけがえのない居場所だから、今までの人生で自分一人では向き合うことができなかった本心や生きづらさに向き合う勇気をもらえるんじゃないかと思うんです。

 

「独りじゃ何もできなかった。それでも、今まで独りでがんばってきた。辛いことはもちろんまだまだあるし、正直お酒だって飲めるものなら浴びるほど飲みたいよ。でも生きていきたいと思うから、完全じゃないし弱いし醜いけど、今日一日、お酒をやめて生きてみよう。」

それが、私の本心そのままの『一日断酒』です。

 

その本心と自助の真理を私に教えてくれた断酒会なのに、なんだか嫌なしごきがある部活みたいで、がっくり来ています。

人気ブログランキングへ