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【依存症】私はなんでお酒をやめられたのだろう

お酒をやめてもうすぐ6年になる。

私はアルコール依存症だ。

「飲まなくてはいられない」という病気なはずなのに、飲まずに生きている。

なんでだろう?なんで今、飲まないで生きていられるのだろう。

散歩していてぼんやりと思ったので、いろいろ振り返ってみようと思う。

 

しなくていい我慢しなくなった

思い返してみると、私は我慢ばかりしていたように思う。

良い学校に合格しないといけない。

良い成績を取らないといけない。

良い会社に就職しないといけない。

良い評価を得られるように仕事を頑張らなくてはいけない。

まっとうな社会人にならないといけない。

結婚して子供をつくらないといけない。

人生に失敗してはいけない。

大きな失敗しないために、他人から成功しているように見えるように、他人の目に怯えて生きていたように思う。

はたしてそれは楽しかったか?と問われれば、もちろんまったく楽しくなかった。

早く終わりにしたかった。まるで刑務所で服役しているような気持ちだった。

「義務」

それに尽きる。

たくさんの「○○しなくてはならない」に溺れるように生きていた。そんな苦しさを紛らわすためには、お酒が必要だった。そうでないと、生きていられなかった。明日が来る恐怖に耐えられなかった。

だから、浴びるように、溺れるように、お酒を飲んでいた。

生きているように見えて、死んでいた。一度今日の自分を殺すために、毎晩記憶が飛ぶまで飲んでいた。

 

私はアルコール依存症と診断されて、一度しっかり死んだんだと思う。

自分を取り囲んでいた「○○しなくてはならない」が全てポッキリと折れた音がした。

「ああ、もう全部台無しだ、ダメになった」

そう思った。

そこから、どうせ一度死んでいるのだから、生き直そうと思った。

自分は自分以外のことのために、精一杯やった。

だから、ダメでもともとだし、もう一回生き直してみよう。

今度は自分の気持ちに正直に、生きてみよう。

 

そこから私の人生はもう一度スタートしたと思う。

それからも再飲酒は何度もあったし、間違いは数えきれないくらいあった。

でも、まだ生きている。

今日を生きるために食べて動き、明日を生きるために寝ている。

以前の私とは比べ物にならないくらい、積極的に生きている。

 

お酒を必要とする人 と しない人 の違い

妻はお酒を飲まない。

別に病気でもないから、飲んでもいいのに飲まない。

「私に気を遣わず飲んでもいいんだよ」と言っても飲まない。

「飲みたくないから飲まない、飲む必要がないから要らない」という。

 

私は不思議でたまらなくなって、一度聞いてみたことがある。

「私にとっては、お酒は脳を物理的にシャットダウン(鎮静)して現実を忘れさせてくれる魔法の飲み物のように、当時は思っていたけど、酔うことが気持ちいいと思ったことはないの?」

妻は不思議そうに考えながら言った。

「気持ちいいと思ったことない。風邪ひいたみたいに具合が悪くなる、いつもの自分の感覚じゃなくなるから、気持ち悪い。ちゃんと現実を感じられないほうが嫌じゃない?」

 

これは私にとっては目からウロコだった。

現実を感じられないほうが嫌?

いつもの自分の感覚じゃなくなるから気持ち悪い?

全部逆だ。私は現実なんて消えてほしいし、もうこれ以上不愉快な感覚を感じたくないと思っていたのに対し、妻は「現実」や「感覚」は知覚していたい世界だったのだということだ。

現在の私に通じる。

相変わらずADHD/ASDだし、現代社会なんてクソくらえだと思っているし、仕事にやりがいもなく超絶めんどくさい。不毛なことだらけのこの世界が基本的には大嫌いだ。早いとこ滅びて全部壊れてしまえばいい、と正直なところ思っている。

しかし、生きる実感、「現実」や「感覚」を受け容れている。

酒を飲むことによるデメリット(体調不良・社会不適合・死)があるから飲まないのではなく、感じていたい世界を余計な物質を摂取することで変に歪めたくないから飲まない。

何を感じていたいかと言えば、ご飯がおいしいとか、運動してスッキリしたとか、風が気持ちいいとか、小鳥のさえずりや樹々の葉擦れの音が美しいとか、そういう慎ましい歓びだ。

ただ、生きている。その奇跡があって今たまたま受け取れる、多種多様な美しい情報。

生きることに意味や効率を求めたりせず、他者評価や金銭欲に目を眩まさらず、ありのままに自分と世界を観察すると、そこには小さくても確実に歓びがある。

酒を飲んでいた当時は気づかなかった。

義務と意義と他人の目。そんなものにばかり心を奪われて、それこそ私は「現実」を生きていなかった。「現実」だと思っていた嫌な世界は、私の心が創り出した地獄だった。

自ら創り出した仮想の地獄を忘れるために、私は酒を飲んでいたんだなぁ。

とんだ独り相撲じゃないか。笑える。

 

まとめ

酒を必要とする人は、他人に決められた何かを価値基準にし、『変えられないもの』を変えなくてはならないと思い込んで地獄を生きている。

酒を必要としない人は、自分で選んだ価値観にしたがって生き、『変えられないもの』を受け容れて、自分の感覚に正直に『変えられるもの』に集中して生きている。

これが違いだ。

だから酒を必要とする人(昔の私)は、誰かのせいでこうなっているとどこか恨みを抱え、生きるにしろ死ぬにしろ、自分の生死のどちらにも責任を持てないでいる。嫌々生きているが、死ぬのも誰かのせいにしないとできない。

それはたいそう不自由で、一秒一分が常に苦しい。だから酒でなんとか誤魔化さないととてもじゃないが一日一日を乗り越えられなかった。

私は回復の過程で、私が本当に大切にしたいことがわかってきて、それ以外の問題っぽいものは実は問題ではなく、人生においてそれほど気にしなくていいとわかった。

呪いのように背負ってきた地獄という妄想を手放すことができたから、今酒をやめられているのだと思う。

 

 

 

【依存症】『弱い人ほど他人を責める。』なんて書いたけど

 

まぁ耳が痛い。

私のことだから当然なんだけど。

 

「親のせい」

「酒のせい」

「社会のせい」

と他責にして攻撃してきたのは、他ならぬ私だ。

 

親が自分の問題に真摯に向き合ってくれていれば、子どもたちはACにならずに済んだかもしれない。

この世に毒物である酒が存在しなければ、この世にアルコール依存症はなかったかもしれない。

この社会が善意と愛で構成されたまともな社会なら、生きづらさなどなかったかもしれない。

そんな「○○なら、○○かもしれない」が私のなかにはたくさんあった。

(私にとって)正しくない他の要因が悪い、と顔を真っ赤にして怨嗟の声を浴びせていた。

 

それで楽になったか、といえば、そうでもなかった。

誰かを何かを責めていれば「私は悪くない、私は被害者だ」と思えて、その瞬間は楽になれた気になる。

でも、結局どれだけ責めて悪いところをあげつらったところで、私はACでアルコール依存症で発達障害でこの社会では生きにくい性質を持っていることに変わりはない。

どれだけわめいても、結局はなんとかこの浮世を生きていくしかない。

責めたり断罪したりすることに時間と体力を使っている間、自分は今いる場所から少しも前に進んでいないことに気づいた。

もちろん、大切な時間だった。

自責に傾倒していた私の責任感は、それまでの反動もあって他責に一気に振り切れた時期があった。そんな極端な時期を経たからこそ、今バランスを取り戻したといえる。

だから、ダメだと言うつもりはない。無駄だとも思わない。そう考える時期が必要だった私だ。他人をハチャメチャに責める時期があるのは当たり前で、むしろ自己防衛のためには仕方ないと思う。

 

『弱い人ほど他人を責める。』なんて書いたけど、みんな弱くてもともとだからさ。

私は少なくとも、強くなかった。弱かったよ。というか今も弱いよ。

誰かや何かのせいにしたくなるときだって、生きてればいくらでもある。

 

そうやって責めて責めて、飽きるくらい他人の欠点や過失をあげつらって最終的に思ったのは、「でも、いつまでもこれやってても、どうしようもないよな」ということ。

 

私は結局「私はダメじゃない、他人に認められたい、社会に許されたい」と思っていただけだったんだよな。

だから依存症はダメな人がなる病気なんかじゃないと啓発したかったし、偏見を持たれることに堪えられないと感じた。私が間違ってるんじゃない、世の中が間違ってるんだ、と言いたかった。

 

でもそもそも、それは私が私のことを心から認めさえすれば、全て解決する、気持ちの問題だと気づいた。

他人がどう思おうと、社会が誤解していようと、突き詰めて考えれば、それは割とマジでどうでもいいことだった。

 

他人や社会の評価を気にすることが問題の本質であって、私の病巣だった。

自己存在証明と価値判断を他者の評価軸に委ねることが、私の不安や恐れの源泉だった。

 

他人がどれだけ私がダメ人間だと思っていても、私が私のありのままを肯定する限り、私を否定することはできない。

私の自己評価は私にしか決められない。私が私を否定しない限り、他人がどう思おうがそれは何の影響も及ぼせない。

嫌おうが好こうが、それは自由にしてもらえばいいことで、他人のなかの話。

 

社会がどう扱うかも、同じことだ。

精神に様々な病巣を抱えた人々が構成した、経済原理で動く虚ろな空間。それが「社会」。

その異空間のなかでの位置づけがどうであろうが、私そのものには何の影響もない。認められる必要もないし、差別をなくす必要もない。というかそこはコントロールできない。

構成員の大多数が病んでいて、彼らの現実逃避のために起こっている現象が「差別」や「偏見」であり、その現象をどう解釈するかは私次第だ。

「いやいや差別されて職業が限られたり、謂れのないことを言われて尊厳を傷つけられたり、経済的に損するでしょ?」と思うかもしれない。

そもそも病んだ社会にわざわざ適応することなくね?と思う。

受け容れてくれない、ちゃんと扱ってくれない社会とは程よく距離を置いて、現代社会に精神的にも金銭的にも依存しない在り方を模索し、分かり合える人たちを見つけて関係を創り、穏やかに暮らせばいいだけ。

私たちを認めさせよう、というのは、ヒエラルキー構造の社会で最下層以外になろう、というのに似ている。

私たちを認めさせても、社会はまた別のカテゴリをみつけてきて最下層をつくる。

経済で社会システムが回っている限り、勝ち負けと損得の原理で誰かが負け組になる。

社会とはそもそも破綻していて、壊れている。だからそのなかの椅子取りゲームには固執する必要がない。

椅子が欲しい人にはどうぞどうぞと譲って、死ぬまでゲームに明け暮れていてもらえばいい。

私たちはさっさとつまらない無意味なゲームから降りて、そんなことよりもっと大事なことに時間とエネルギーを使えばいい。

 

このように、事象をどう解釈するか、で世界の見え方は変わり、社会との関わり方は選べる。

そうなると、別に誰かを責めなくてもよくなる。何かのせいにしなくてもよくなる。

そもそも自分自身のなかで必要が無くなるから。

 

私が弱くて誰かや何かのせいにしなくては立っていられなかった時期があったように、ときには私を責める人もいるだろうし、自分のなかの正義を振りかざして断罪する人もいるだろう。

それは、当時自分自身の問題に向き合えなかった私の父母のようでもあり、酒や金なしでは回すことができないほど深い業をはらんだ社会のようでもある。

 

誰もが、どうしようもなく生きることに一生懸命で。

だからまぁ、そうなることもあるよね、しかたないよね、と思う。

私もそうだから。そうだったから。

 

誰もかれもが、いつかの私であり、これからの私。

だから私は誰も憎まなくていいし、誰も排除しなくていい。

誰かに向けて上から目線で放った言葉は、だいたいブーメランみたいに自分に返ってくる。

これから私に返ってくるブーメランは、どんな切れ味だろうか。

親しみを込めて受け止めたい。当時の私の弱さを抱き締めるように。

あんまり鋭いやつが返ってきたら、しゃがんで避けようと思う。