最近、いつの間にか一日が終わっている。
いろいろなやりたいことがなかなかできないまま、日々が飛ぶように過ぎていく。
もう7月も後半とかウソでしょ?ウソって言ってほしい( ^ω^)・・・
やりたいことを書きだしてみる。
〇会社設立(正確には妻を個人事業主としての、共同事業の立ち上げ)
・事業デザインの精査
・場所探し(居抜き物件で放課後等デイサービスができるような建物)
・仲間探し(保育士さん)
〇現在の勤務先での従業員ネットワークのイベント準備
〇動画編集の勉強(Youtubeで啓発活動を始めたい)
〇社会福祉士としての活動
・リワーク施設への訪問
・児童発達支援事業所への訪問
・地域医療連携室の精神保健福祉士のみなさんへの訪問
〇発達支援の勉強(ASD・ADHD・LDなどの発達障害の子どもたちへの支援資格取得)
〇代表理事をやっている任意団体の活動内容更新(ブログ整理)
〇農業
・畑を借りる
・家族が食べていけるだけの食べ物を自給自足できる準備する
〇資産を金に換える
いっぱいできていない。
つらい。
正直、もう仕事はどうでもよくなってきている。
もう全然興味がなくなってしまった。
とてもやばい。けど、それが本心なのでしょうがない。
薬って、そもそも飲まなくて済むのであれば一番いいものだと思う。
異物だから。
どうしても必要な人に届けばいいのであって、全体のマーケットは小さくなるのが最も世の中にとっては良いこと。
ましてや西洋医学の理論で開発された化合物など、なおさら使わなくて済むならそのほうがいい。
そもそも、今回のmRNAワクチンの件に端を発して、私は西洋医学に基づく薬理学的な理論に懐疑的になってきている。本当にこれは人のためになるのだろうか?と疑っている。
今回はあからさまにバレバレなやばい代物だったから明るみになった。
でも、よくよく振り返ってみると、子宮頸がんワクチンやインフルエンザワクチンも、似たような物だと私は思う。
ということは、私がよかれと思って科学を信じて宣伝してきた高血圧症治療薬や糖尿病治療薬や睡眠薬や脂質異常症治療薬は、もしかすると全然必要のない、むしろ毒でしかなかったのではないだろうか。そういう恐ろしい予感に背筋が寒くなる。
私は、また人を不幸せにするような仕事に加担してしまったのではないかしら。
一番最初に携わった太陽光発電システムの営業、マテリアルリサイクルの営業。
これらの世界を環境問題に取り組むという「良いこと」だと思って飛び込んだ。
しかし蓋を開けてみれば、仕事の内容は詐欺に近かった。
中国から取り寄せた安い太陽光パネルを利用して、国産メーカーに競合したことは、国内の電機産業を衰退させる手助けをしたに過ぎないし、太陽光発電システムそのものがそもそも環境に良い製品ではなかった。
いや、環境問題そのものが、でっち上げられた架空の課題であり、そもそも解決する必要などないものだった。
私は大学で何を学んだのだろう。
環境経済学という学問は、世の中の本質にリンクする学問ではなかった。
倫理の教科書に強く惹かれた高校時代の自分の感性を信じて、哲学を専攻すべきだったと思う。今古典哲学にのめり込んでいるのは、本当はそれが知りたかったことで、深めたかったことだったからだ。
「社会で成功しなくてはならない」
「高収入を得られる仕事をしなくてはならない」
そういう世俗的な価値観・親の期待に惑わされて、やりたくもないことを嫌々やってきた結果が、今の仕事だ。
正直、全然面白くない。
元々お金に無頓着で、あれば使うだらしない人間だった。
無ければ無いで、道草を油で揚げて食べたりして糊口をしのいでいた。
そんな大学生活だった。
わりと金が無くても人ひとりで生きる分には何とかなるものだ。
お金に全然興味を持てない。
ACとしての恐れと不安から高収入を条件に仕事を選んできたけれど、実際はそこまで私の価値観のなかでは大事なものじゃなかったんだと思う。
つくづく失敗した、と思う。
会社の皆はお金が大好きだ。
どこどこでいくら売れたとか、売り上げが伸びているとか、嬉々として語る。
「〇人の新規処方が確認できました!」とかSMSで毎日飛び交っている。
それは、病んでいる人がたくさんいるということで、薬が必要なほど苦しんでいる人が見つかった、というだけではないだろうか。
喜ぶことじゃないんじゃないだろうか。
そりゃたくさん売れれば会社で褒めてもらえて、あわよくば昇進・昇給、ボーナスが何百万ももらえるかもしれない、という期待に胸が膨らむんだろうと想像はできる。
でも、会社が褒めてくれることって、そんなに喜ぶほど価値のあることだろうか。
会社は、命令を着実に遂行してくれる「人間をやめた歯車」がほしくて、日夜洗脳に余念がない組織である。自分たちの洗脳が功を奏して無事に生まれた「優秀な歯車」に対して、賞賛を送るようにできている。
ということは、会社に褒められる、というのは、「お前は使い勝手のいい歯車だな!いい感じに人間やめれてて素晴らしいぞ!」と言われているのとイコールだ。
それ、うれしいの?
私は嬉しくない。馬鹿にすんなと思う。
そんな人をコケにした真意を知ってか知らずか、私以外の人々は組織内での地位と名声と権力を求める。
私も、自分が自分としてありのままで充分に価値のあるいっこの存在だと認めきるまでは、それらの外部からの承認を喉から手が出るほど欲しがった時期があった。
だから気持ちは分かる。
不安な心の穴を埋めるための、対症療法。
依存症と一緒だ。
社内で上昇志向をもつ人間は一見パワフルで健康的にみえるし、いわゆる「レベルの高い」人間と錯覚されやすいが、実際は病んでいる依存症者と同じだ。
つまり私たちと同じ。アディクトの仲間だ。
だから、彼らを侮蔑することも、下に見ることもない。
私がそうだったように苦しんでいるんだな、と思うだけだ。
特に干渉することもないし、否定することもない。
しかし、彼らとしては、私のような思想と行動は容認しかねるようだ。
売上のためにもっと人格を削ぎ落してでも、あくせく働いてほしいそうだ。
自分たちと同じように。
だから、私が数字に無頓着だと「意識が低い」とか「やる気がない」とか言って心のなかで馬鹿にしだす。
心のなかでどう思おうが、その人の自由なので、それはよいのだが、「自分たちと同じ歯車になれ」と集団同調圧力とコントロールを働かせてくるところは、看過しがたい。
私は私で、私のやり方でこの仕事のなかで実現したいことがある。
それは、結果的に会社が社会的信頼を取り戻し、提案を受け入れてもらえる手助けになると思う。
会社にとってメリットがあることをやっているつもりだ。
私は不必要なところに提案することはないが、必要だと感じるところには薬剤の使用を一つの手段として提案することはある。
その提案を採用して実際に使うかどうかは、先生方の判断だし、患者さんの意向もあるだろう。その領域は、私たちにとって「変えられないもの」なので、絶対に侵害してはいけない。
しかし信頼関係があれば、勘案してくれる可能性は高い。
役に立てるかどうか、その観点で誠実に可能な範囲で接することが私たちがやるべきコトであり、唯一できることでもある。
私はそう考えているので、「MRには会いたくない」という先生の所に無理して会いに行ったりしない。
会わないことで薬剤の最新情報や私という社会資源と出会えないリスクを踏まえてその判断をしているわけだから、その責任はその先生がとればいい。私は関係がないし、その生き方を変える権利も義務もない。その判断を尊重する。
ただ手は差し伸べ続けるし、必要とあらば時間を取る。可能な限り丁寧に対応する。
このコロナ騒動で先生方としては「コロナだから」という黄門様の印籠を手に入れた。
MRを締め出すには絶好のチャンス。今までうっとおしい夏の夜に蚊帳の中に入ってきたやぶ蚊のようなMRを、やっと院内から追い出すことができた。
今まで「使ってください」というお願いとそれを成就させるためにありとあらゆる詭弁を弄してきた今までのMR活動の成果のひとつだ。本来は、その残念な結果を、真摯に受け容れ反省するべきだ。
が、無謬性の神話に雁字搦めになっている製薬会社の上層部が、今まで自分たちがやってきたことが元凶だとは認めるはずもなく、数字とにらめっこしながら、頓珍漢な結論を導き出して、とにかく会えるように努力しろと現場にげきを飛ばす。
追い詰められた現場は、なんとか理由をつけて無理やり自分のアポイントをねじ込もうとする。
成功例として社内で報告されている事例も、一見うまくいっているように見えて、実は長期的に見てより関係を悪化させる一手にしかなっていないことがある。
しかし組織内では、自分たちの仮説と戦略が正しいと裏付けられそうな成功事例を欲しているので、飛びついて賞賛する。自分たちがみたいものしか見えなくなっている。
なぜかといえば、自分たちが正しいという裏付けが欲しいからだ。それをアピールしたいからだ。もしも間違っているという方向に結論が導かれてしまったら、方針を決定した責任を取って役職を降りなくてはならないリスクと恐怖にさらされるからだ。
管理職に、自身の判断が間違いだった可能性を模索する覚悟がない。自分の進退を含めての戦略的な決断ができていない。リーダーを務めるに価しない人間が配置されているからだ。
わが身が一番かわいい人たちだ。
本当は、患者さんのことなんてどうでもよくて、自分たちが組織内の椅子取りゲームで居場所を奪われないかどうかだけが、関心事だ。
そんな人たちの指示に従いたくなる人がいるだろうか?
私は従いたくない。だから理由を言って拒否している。当然煙たがられる。
なんとかして言うことを聞かせようとしつこく接触してくる。
それをあしらう時間がもったいない。
そういう雑事に追われて、上記に示しているような本当にやりたいことができない。
信頼していないからだと思う。
雇っている人たちを信頼していない。
性悪説で、人は権力者が管理しなくてはならないと思っている。そうでなくてはサボるし悪いこともする、と思っている。
会社はリヴァイアサンでいなくてはならないと思っている。ホッブズである。
信頼されていないから、従業員もまた会社を信頼しない。
不信感で繋がった希薄な雇用関係。実に空虚で暗い繋がりだ。
信頼して任せる。真の意味で権限移譲ができれば、もっと自由にもっと多様な価値が生まれることだろう。
それが、最終的には企業価値の最大化に最も近い道のりだと思う。
だけどそれは、恐れと不安でコントロールしたい欲望に負けてしまってできない。
まるで、ACの生きづらさそのものだ。
ハイヤーパワーに委ねられない、南無阿弥陀仏に委ねられない。阿頼耶識の声を聞けない。
だから苦しみを背負い、幸せから遠ざかることになる。
投資可能性は、計算可能性。
計算可能性が無ければ、事業は立ち行かない。投資できないから。
結局、資本主義の原理原則が、あらゆる人をコントロール欲求の奴隷に貶めている。
だから資本主義はシステムとして破綻していて、誰も幸せにならない。
それを証明したのが、ここ最近の1世紀の人類の取り組みの成果だと思う。
だけど、自分を守るために精一杯の人類は、この成果に気づけない。
だから行くとこまで行って自滅して、多くの価値あるものを失いつくして初めて、真の底付きを体験するんだと思う。
そこに至るまでのディストピアを生きるのは、今からとても暗澹たる気持ちになるけれど、それが私にとっても、私たちにとっても、必要な禊であり、ハイヤーパワーの導きなんだろうと思う。粛々と受け容れて今を生きていくしかない。
私は私で、ブレずにやりたいこと・やるべきことをやっていくよりほかはない。
やりたくないことをやれと言われると疲れてしまうので、休み休みにはなるが。
よく頑張っていると思う。
自分の心と身体に折り合いをつけながら、いくつか実現して形になってきたものもある。
今できる100%は常にできているんだ。今できる100%は、いつもの日常なのだから。
焦る気持ちやイライラする気持ちは、ある。
「仕事をやめてしまいたい。もっとやりたいことだけに集中できれば、違う未来があるのに…」と思わない日はない。
しかし、そのタラレバは、起こりえないからタラレバなのであって、私ができる事は、無理なく自然に今ココを全力で生きることだけだ。
こうしてブログに想いを書き出すことだって、一見ただの愚痴吐きのように見えるが、自分を見つめ直しやりたいことを整理することで、マインドをリブートするきっかけになった。
何もかもには意味があって、それを認識できるかできないかの違いしかない。
明日も、一生懸命楽しんで生きていこう。