【依存症】自分を「赦す」ことからはじめよう

私はたくさん間違えてきた。いけないこともたくさんしてきた。

 

私という人間

小さい頃から、他人より上手にできないことのほうが多かった。

馬鹿にされたし、軽く見られた。

他人に受け入れてもらえない、そんな自分を自分自身が好きになれずに、苦しんだ。

自分の欲に負け、ずるい考えで他人を騙そうとしたこともある。

嘘をついて、罪から逃れようとしたことも、他人に何とかして気に入られようとしたこともある。

いじめられて他人に馬鹿にされる痛みを知っているのに、自分が標的にならないために、いじめる側に立ったこともある。

他人のためと言いながら、自分のために、自分がここにいていいと思うために、他人に過干渉したこともある。

自分に自信がないことを隠すために、社会的な評価・組織内での評価・収入や地位に固執したこともある。

自分だってよく間違えるくせに、他人の失敗をあげつらってこっぴどく責めたこともある。

何もかも知っているわけでは無いのに、自分が知っていることを他人が知らないと、無知だ馬鹿だと心のなかで侮蔑したこともある。

自分より収入が低い人は、自分よりも能力が低い価値のない人間だと下に見たこともある。

自分がただ環境に恵まれていただけなのに、今自分が得られている恩恵は自分が努力したからだと信じたくて、成果主義・能力主義を肯定的にとらえていた時期もある。

かわいそうなひとや恵まれない人の話を、どこか自分とは関係がない世界の話として他人事で無関心で、手を差し伸べなかったこともある。

他人の物を盗んだこともある。それを隠そうとしたことも。

自分の都合で他人の命を粗末に扱ったこともある。それによって、他人の心も体も、ひどく傷つけた。

正しさで他人を打ちのめして憂さを晴らしていた事実がある。

 

私は人間として、よくできているとは言えない。

聖人君子でも紳士でもない。

それが、ありのままの私だ。

 

私もそうだったじゃないか

ありのままの私を、そのまま見ると、つらい気持ちになる。

「なんで私はこんななんだろうか」と思うような汚い部分・嫌な部分は、そこかしこにある。

つらいから、見ない振りをする。

そうやって見ない振りをしていると、汚い嫌な部分は自分の背後でどんどん膨れ上がっていく。

だから、逃げるように何かにすがりたくなる。

何かは、人によっては宗教だったり、他人だったり、モノだったり、行為だったりする。

私の場合は、たまたま酒だった。だからアルコール依存症になった。

 

自分を許せないから、他人を許せない。他人に厳しいとはそういうことだ。

自分が抱える後ろ暗さを打ち消すために正しさを求める。

強迫的な正しさへの固執が、他人の不正への敵意に変換されて表面化する。

他人を責めているとき、自分は正しさの側に立てる。だから、安心する。

それは偽りの安心で、いくら他人を責めても自分の本質は変わらない。抱えている不誠実は消えない。

自分の罪を自分自身が許してあげないと、誰の何の罪も許せない人間になっていく。そして一人きりになる。

 

「俺だって、間違えることもあるよな」

「そのまま受け容れるのって、難しいよな」

「嘘をついたり騙したりすることだって、珍しくない」

 

そう思う。

私はそんなにできた人間ではないから、他人がそうであってもおかしくないと思う。

直接人を殺したことはなくても、この社会システムのなかで誰かを殺して生きているかもしれない。人を殺してしまった人も、いつかどこかにいたかもしれない、私かもしれない。

お金や権力に眼がくらんで自分の都合がいいように他人を操ろうとする人たちも、私と同じように自分自身を受け容れられない苦しみにもがいているのだと思う。

罰を与えて罪を背負わせても、痛めつけて解決したつもりになっているだけ。

「絶対に間違えてはならない」という呪いを、他でもない自分自身に上掛けするだけ。

 

私を許すことは、他人を許すこと

自分が犯してきた罪を、まず自分自身が認めよう。

誠実に実直に、その償いをしよう。

直接謝ることはもうかなわないとしても、いつでも謝れる心で生きていく。

なにもかも全部、包み隠さず認めよう。

その罪の裏にあるのは、悲しみや怒りや寂しさだったことも、認めよう。

その苦しみを誰にも言えなかった弱さを認めよう。

人間はそんなに強くない。一人で生きていけるほど、個人は力を持っているわけではない。

世界の一部だから生きていける。

一部で在り全部。それは、あの人も、この人も、全てのひとがそうだ。

ごくわずかな片隅の一欠けらであることを認めよう。

だからこそ無くてはならない価値があることも、同じように認めよう。

何かの役に立つとか立たないとか、そんな功利的な観点によらず、必要不可欠な存在なのだ。

君も私も。誰もが。

誰もが弱くて寂しくて悲しくて、怒っても仕方がない。

私がそうであるように。

 

そう思いいたると、他人が許せる。

私がそうであったように、何かを抱えて苦しんでいて、それがたまたま外部への攻撃性としてあらわれ、たまたま私が被害に遭っているだけ。

彼ら彼女らは、私だ。だから「そんな気持ちになることも、そんなことしちゃう日だって、あるよね」と思う。

だからと言って何もかも無抵抗で受けるわけではなく、私は私が大事で、彼ら彼女らも同じように大事なので、共存していくために必要な「私の気持ち」は伝える。

「私の気持ち」をどう受け取るか、どう行動するかは、彼ら彼女ら次第だ。私にもその権利があるように。

受け取れるように、伝わるように、できる限りの手心を加えて。その方法が「アサーティブ」であったり「アイメッセージ」であったりする。

 

 

心の根っこのところで自分も他人も許すことで、私は本来の優しさと思いやりを取り戻せる。

それできてはじめて、求め続けて手に入らないと嘆いてきた「安心」が、いつもいつでもすぐそばにあったことに気づける。

救われるのは、自分自身。

自分を「赦す」ことから始めよう。そこからすべてを始めよう。

それではじめて、あなたも私も、優しくなれる。

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