【雑談】結婚はしてもしなくてもいい(男女それぞれの勘違い)

未婚率を年齢(5歳階級)別にみると、2015(平成27)年は、例えば、30~34歳では、男性はおよそ2人に1人(47.1%)、女性はおよそ3人に1人(34.6%)が未婚であり、35~39歳では、男性はおよそ3人に1人(35.0%)、女性はおよそ4人に1人(23.9%)が未婚となっている。長期的にみると未婚率は上昇傾向が続いているが、男性の30~34歳、35~39歳、女性の30~34歳においては、前回調査(2010(平成22)年国勢調査)からおおむね横ばいとなっている。

引用:内閣府HP 内閣府ホーム >  内閣府の政策 >  子ども・子育て本部 > 少子化対策 > 少子化社会対策白書 > 平成30年版 少子化社会対策白書(全体版<HTML形式>) > 第1部 少子化対策の現状(第1章 3)

 

結婚とは、国の洗脳でありビジネスのためのもの

結婚は幸せと直結しない。

なぜなら、国のための制度だから。

1898年に明治民法で家制度が制定された。

なぜか?天皇制の国家制度を定着させるためだ。

家長である世帯主と家族の関係を、天皇と国民の関係性になぞらえて、「天皇は国の家長」という価値観を定着させるため。

戦後の民法改正で家制度は廃止されたが、刷り込まれた価値観はそのまま国民のなかに残存する。

そのため、今なお「結婚して家庭を持つもの」という価値観をぬぐえないのだ。

 

結婚産業の力も大きい。

結婚式は大きなカネが動くので、ビジネスとして旨味がある。婚活イベントや結婚専門雑誌や結婚式場や写真家や飲食業界など様々な利害関係者が存在している。

だから「結婚するのが当然」と社会が認識しているほうが、彼らにとっても都合がいい。

あの手この手で婚期を焦らせる。「結婚適齢期」とか「婚活偏差値(結婚偏差値)」とか、数字で横並びにして劣等感を煽る。「みんなしているのに、自分だけしていないのは変に思われるでは」とこの国が大好きな同調圧力で不安を煽る。

 

こうして、なんとなく「みんながするものだから」と他人の価値観をもとに結婚を選択する。

国がかつて意図した仕組みのための洗脳と、結婚によって儲かるビジネスを終わらせたくない人々に選択させられている。

自分が「したいからする」ことは、少ないのではないだろうか。

 

 

女も男も、どっちも幻想を「待っている」

承認欲求を満たしてくれる白馬の王子様を待っている女

「誰かが見つけて迎えに来てくれる」

そう思って運命の人が自分にアプローチしてくれる日を待っている。

女性は、ルッキズムの呪いで、男性からも同性からも容姿で順位を付けられる苛酷な世界を生きている。

そんな厳しい競争社会のなかで、自分磨きによりをかけ、女としての価値を高める努力を強いられながら、「一生幸せにする」という確約をくれる契約相手が現れるのを待つ地獄。

いつか自分の輝きを見出してくれる異性が現れる、その特別な誰かと一緒になれば幸せになれるという、幻想を信じている。

実は、「幸せ」より「安心」が欲しい。

真の敵は女の目であり、自分の女としてのランキングが平均より下にならないか、知り合いの誰かより下にならないか、それを心底恐れている。

腕によりをかけて女としての自分を高めたと認識すればするほど、その努力と築いてきたプライドに報いるような収入・ルックス・甲斐性がある異性でなくては納得できなくなる。

しかしそんな異性は、この貧困にあえぐ日本において数%であり、すでに契約済みの物件ばかり。

白馬の王子様候補は他に取られてしまったと気づいて、何とか我慢できる程度の相手に妥協する。

しかし、欲しい「安心」は理想より格下の「王子もどき」では得られないので、徐々にストレスを抱えていく。

「妥協して私にふさわしくないにも関わらず結婚相手に選んでやった」という忸怩たる思いがあるので、一挙手一投足が癪に障る。

家事育児ができない、仕事ができない、配慮ができない。できないことばかりが目に付く。

 

 

自分より弱い自分だけのマリア様を待っている男

「女はどうせ相手にしてくれない」

スクールカーストのトラウマを抱えた男の子。それが多くの男性の姿。

バスケ部のキャプテンやテニス部のエースなど、スクールカーストトップの男しか男として認識されない。思春期の多感な時期に、否定され続けた心の傷を抱えて、「女は怖くてめんどくさい生き物だ」と半ばあきらめムードで引いていっている。

それでも、誰かを守って死にたいとどこかで思っている、哀れな生き物。

異性に褒められたい、認められたい。否定され続けた恐れで自分からはもうアプローチする気力はない。だが、自分より弱い、儚げな誰かを求めている。

だから、女性が強いとなると、男はもう出る幕がない。

マウントを食らって正論で論破されようモノなら、もう黙るしかなくなる。

実家のお父さんがしゃべらない静かな存在になっていくのはそのため。

女性と喧嘩するということは、男性にとっては裁判で尋問されるようなものだ。

自動的に女性は判事であり、男性は被告である。過去に遡って過失をひとつひとつ列挙され、人格否定とジャッジが始まる。

判事に1つ口答えすれば、100倍になって返ってくることを知っている。

否定され続けた思春期を経て、もう男性の心はボロボロなので、裁判を戦える心の体力はすでに皆無。

馬鹿で弱いので「とりあえず同意して聞き流しておけば収まる、言い返しても長くなるだけだ」と諦めている。だから、男性を説教して成長させようなどとは、女性は期待しないほうがいい。男は正論で論破しても決して成長しない。殻にこもるだけだ。

このように、弁舌やコミュニケーション能力もさることながら、女性のほうが基本的に生物として男性よりも強い。痛みにも強い。精神力も強い。男性が敵うわけがない。

男性が夢見ている女性像が、そもそも現実の女とはかけ離れているのが問題。

自分を褒めてくれて、優しく包んでくれる優しさを持つマリア様を望んでいる。幻想を待ち望んでいるのは男性も同じ。

そう錯覚して幻想と結婚すると、すぐに現実を突きつけられてまごつく。

生理により毎月ホルモンバランスと激しい闘いを繰り広げる妻。楽屋は戦場である。仕事で疲れて帰ってきても、家庭も戦場。終わりなき戦場めぐりを体験し、こんなはずではなかった、と後悔する。

一緒になった妻は、もうあの頃の可憐でか弱い彼女ではない。

「結婚して・子供ができて妻は変わってしまった」と嘆く男性が多いが、それは男性側が勝手に勘違いしていただけだ。変わってなどいない。元からそうだったのだ。

目の前の女性ではなく、妄想のなかの自分だけのマリア様と結婚した気になった。

だから、女性としても、夫から自分以外の誰かのような期待を持たれて当惑するし、寂しさを感じるようになる。自分を自分として愛してくれていたのではないと思うようになる。

夫は「か弱い守るべき存在」と思い込んで接してくるので、妻である自分を下に見ているように感じる。

 

お互いに「あれ?なんか違う」ということに、結婚してから気づく。

 

どちらも孤独で不安で、病んでいる

女性も、男性も、病んでいる。

どちらも「助けて」と叫んでいる。

溺れながら相手を求め、相手も溺れているので、一緒に足を引っ張りあいながら水底に沈んでいく。そして、さらに深い場所で息もできない孤独と不安にもがき苦しむ。

これが、結婚後うまくいかない夫婦の姿だと思う。

 

自分に欠けた何かを、相手に求める。

それは自然なことだし、自分に無いものを持っているから惹かれる。似た遺伝子をかけ合わせないで子孫を残すために、遺伝子配列が異なる個体を本能的に求めている。

ここで問題なのは「相手の『自分と違う部分』を含めて『人』として尊敬しているか」ということ。

自分に無い部分の補填要員として夫・あるいは妻をリクルートすると、『自分と違う部分』が鼻につく。それは結婚により自由を失う代わりに求めているサービスとは関係がない、不純物だから。

お互いにある種のビジネスで一緒になってしまうと、相手を人として見ていない。所有物として、購入済みの商品として見ている。

それが問題の根本。

自分の生きづらさを他人で埋めようとしない。埋める手段にしない。

自分の生きづらさは自分の課題として引き受けたうえで、相手を人として尊敬するから一緒に生きていきたいと思う。

そういう前提で結婚して一緒に生活するなら、独りでいるよりも人生は実り多いものになると思う。

夫婦間の愚痴、諍い、内に秘めた恨みを感じるたびに、結婚するにあたって前提を間違えて選択している男女がとても多いのではないか、と想像する。

 

結婚はしてもしなくてもいい

結婚は、してもしなくてもいい、そんなに気にする必要のないものだと思う。

他人の目を気にしてするものでは、決してない。

男女とも、同性間でランキングをつけられることに恐怖している。

その恐れから逃れるための「逃げ道」として結婚を手段として使うと、自分の幸せから余計に遠ざかる。

誰かの一番でなくても、私もあなたもそれぞれの世界のなかで一番であることに変わりはない。主人公は自分自身。

私は永らく、同性の親友がいないことにコンプレックスを抱えていた。

他人との関係を深められない、つまらない人間だから、親友ができないのだと思っていた。

それは、相手に特別視されることで、自分が価値ある人間だと思いたかったからだった。

自分自身が自分に価値があると信じられないから、他人の物差しを頼る。それは、他人の目を気にして結婚を急ぐ人と全く同じ思考回路だった。

自分が「こいつは俺にとっての親友だ」と思っていれば、もう親友でよかった。

相手がどれだけ自分を慕っているかは、あまり関係なかった。そのことに気づいた。

つまり、自分が「いない」と思っていただけで、実はそこかしこに居たのだった。

あえて形にしなくても、または相手が証言してくれなくても、自分が信じるならそれは真実であり、他人には否定できない。

だから、親友がいるかいないか、と同じように、伴侶がいるかいないか、はそんなに大きな問題ではない。真の幸せに必要な条件ではない。

そう考えると、結婚しても離婚しても、それは自然なことでもあり、必要かどうかは人それぞれであり、結婚していなくてもしていても、自分の価値には大して影響を与えないという価値観は、素直に受け入れられるようになるだろう。

素直に自由に選択することが、結果的に後悔しない選択をすることに繋がると思う。

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