月別アーカイブ: 2022年6月

【メンタル】「おまえもやればできる」に隠された偏見と分断

この本、とても面白かったです。

かいつまんで内容に触れながら、エリート・能力主義の裏側について考えていきたいと思います。

 

エリートが抱えるアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)

この社会は自由と平等の名のもとに「能力主義」「成果主義」を土台として構築されてきました。

そしてその社会で成功を目指す人々はみな、平等に与えられた(ということになっている)権利とチャンスのなかで、自己を結果と結びつけて確立していきます。

その結果、だれもが多かれ少なかれ「他社にとって良い人(価値ある人)」であるように自己査定しながら生きていて、共依存的な生き方(「他者によって」自分の欲望を定義されることを必要とするような生き方)が主流となってしまいました。

共依存という概念は、今や依存症の臨床のなかだけでなく、社会全体のカギとなる概念になりつつあります。(斎藤学「イネイブリングと共依存」精神科治療学 10(9);963-968,1995)

 

成功を自分の努力や能力のおかげだと驕るいわゆる「エリート主義者」は成功できなかった者に対して冷たい心を持っています。

「平等にチャンスはあったはずなのに掴まなかったのが悪い」

と自己責任論を振りかざします。

この自己責任論は逃げ場を奪うきつい態度です。なぜなら、あらゆる人に言い訳を許さないからです。

能力主義が絶対的正義だと進行している彼らは、自分たちが無意識に権威や成果で他人を差別をしていることに鈍感です。

 

知識社会は高度化し、高学歴と低学歴の分断はいよいよ拡大し、溝は埋めがたいまでになっているのが現実です。

しかしエリート主義者は、学歴・経歴・自分のモチベーションはコントロールできるメリット(価値)だと信じて疑いません。

たとえばアメリカは特に顕著で、アメリカンドリームに表されているように、成功は「個人がどれだけ頑張ったか」という美談として語られます。

成功は個人の頑張り次第、ということは、機会の平等さえ確保すればいい。そう考え、小さな政府にしていった結果、社会保障が弱くなりました。医療費などはよい例で、保険会社によって受けられる医療サービスに格差が生じて、助かりたくてもお金がないと助かれない医療制度です。心臓疾患を患う娘の手術費が出せない…などの描写がよく洋画で登場するのはそのためです。

「努力」を過大評価しているのが、アメリカの姿です。

 

一方でヨーロッパの文化は、成功は「運」と考える傾向があります。

たまたま貴族の家に生まれてラッキーだったから富を得る。そんな運がある人は恵まれない人のために社会を支えるのが当然だろう。そういう価値観です。

そのため、社会保障は当然強くなります。

「努力」を過小評価しているのが、ヨーロッパの姿といえるでしょう。

 

努力できる才能も遺伝

実は、努力できる事も才能であり、遺伝によって生まれたときからすでに決まっていると言われています。

双子を何組もリクルートして行った面白い実験で、「A.裕福で高度な教育を受けられる家庭」と「B.経済的に恵まれず両親の生活レベルも学歴も低い家庭」2つの環境に送り込み、バイオリンをさせた結果、環境によってバイオリンの演奏に優劣が付くのか調べたデータがあります。

これによると、環境によってバイオリンの巧さに差は出ず、どの双子もそれぞれ同様のレベルの演奏をしたということです。つまり、遺伝子によってどんな環境であっても一定のレベルまでできるかできないかはすでに決まっているということになります。

成功者は、この議論を嫌います。

なぜなら、掴んだはずの経済的な成功はほとんどすべて運ということになるからです。

この結論は所得税を正当化するうえに、「成功者は偉いわけでも賢いわけでもない」ということになるので、彼らにとっては非常に具合が悪い。

しかし現実は「実力も運のうち」です。

 

エリートによるエリートのための世界にひきこもる人々

優れた個体を真似る、成功個体に憧れる。

これは生まれ持った防衛本能であり、生き残るために備わったシステムです。

金持ちは金持ちを真似て、金持ちのなかだけで結束し孤立する傾向があります。

優れた個体の一員でありたいし、そう自己認識を持っていたいので、そう認識し合える一定の条件をクリアしている人間だけでコミュニティーをつくります。そのなかでお互いの客観的評価を補完し合い縛りあいながら強い絆を形成します。

 

官僚も同様で、定義としては公僕ですが、彼らは公僕だとは深層心理では思っていません。

官僚は官僚のなかで縛られた下僕であり、国民のために働く公僕ではありません。

つまり、コミュニティーの外側にいる国民が困ることより、コミュニティーの内側の仲間である省庁の身内が困ることを避けるように、意志決定をします。

だから、国民の生活を無視した法案や制度が出来上がるのは当然です。彼らのなかで重要なのは仲間のメンツを潰さないことと、エリートコミュニティーからはじかれないようにすることなのですから。

そんな官僚がつくった作文を読むだけの政治家でいくら政治をやっても、民主主義がまともに機能しないのは当然ですよね。そもそも身内のためで国民のためではないので、国民の声が政治に反映されるわけがない。

 

これは特定のバックグラウンドを持った社会的弱者にも言える傾向です。

ある種の負け組的なエリート意識を持つ者同士で集まると、同じような苦しみを味わっていない人間とは心理的物理的に距離を取り、傷を舐めあうためのコロニーを形成します。

そのなかだけで結束して孤立し「どうぜあいつらにはわからない」とコミュニケーションを拒絶します。

いずれにせよ、分断はかくして起こります。

 

全ては与えられたもの

この分断を打破するにはどうすればよいのでしょうか。

エリートがここから脱するには、経済的な貧富を超えた連帯、共同体としての共感覚を形成する必要があります。

たとえば、身分も収入も関係なく対等に互いを尊重することができるグループに属すること、マックス・ヴェーバーのいう「鉄の檻(経済的システム的豊かさを求めるが故に人間性の欠落に陥ることの閉鎖性)」の外側に繋がりを持つことです。(「鉄の檻」について詳しくは、こちらをご参照ください。)

その繋がりによって、人と人との真に対等な繋がりを再確認すると、おそらく「できないのはやらないから」という能力主義のバイアスから目を覚ますことができるでしょう。

 

全ては与えられたもの。

全ては借りているだけ。

その恵みに感謝すること。

自分の力だ、自分のモノだ、自分の価値だと、勘違いしないこと。

持つ者と持たざる者。この世の不平等を自分では変えられないものとして受け容れること。

変えられないものへのコントロールを手放し、自分とはかけ離れた「誰か」になろうとする虚しい努力をあきらめること。

お互いに与えられた個性を慈しみ、尊敬して補い合うこと。

運によって今持っているものに固執せず、自分の実力などと思い違いをしないで、ありのままを受け容れる勇気と落ち着きと賢さが、この身にいつか宿るのを願うこと。

 

そうした認識ができていて行動でその内面を示している人間こそ、真のエリートなのだと思います。たとえばマハトマ・ガンディーのような。

この現代社会の価値はどれもこれも相対的で、誰もが自分と誰かを比べては一喜一憂しています。しかしそれではキリがなく、いつまでもどこか不安で苦しく、恐れに震えながら生きることになります。

そんな人生は、つまらないですよね。

誰かに認められるために生きるというのは、ちっともおもしろくない。

他人から褒められたり、世の中から評価されたりしなくても、全然問題ありません。

あなたが心から、おもしろいと思うこと、ワクワクすること、楽しい気持ちになること、愛しいと思うこと、尊いと思うこと。

それが最も大切な感覚であり、それによって繋がる人が、あなたが本当に大切にすべき人です。

世俗的な価値に換算できない繋がりを、大切にしていきましょう。

【子育て】家事育児を妻に任せて仕事に夢中になる男性に語りたいこと

同僚と話が合わない。

年配の同僚は、ほぼモーレツ社員というか、昭和のノリで生きている。

男は仕事をするのが当たり前。

女が家事育児をするのが当たり前。

今の時代、表立ってはそう言わないものの、根底にはそういう価値観があり、無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)がある。

 

だから、職場の男性陣からこんな声を耳にする。

「仕事で忙しいんだから、家のことは妻が頑張るのが当たり前なのに、期待されても困る」

「夜泣きなんて対応してたら日中眠くて運転が危ないから、別々に寝るしかない」

「稼いできてるんだから、仕事ばかりで手伝ってくれないとか、文句言わないでほしい」

 

うーん。

仕事がしんどいのは分かるけど、ちょっと違うんだよな。

その辺の認識の違いについて今日は触れていきたい。

 

イクメン

 

 

『イクメン』という言葉は、あんまり好きじゃない。

ぶっちゃけ、ちゃんと子育てしていないメンズのことを指す単語だと思う。

「子育てやってる感を外にアピールしている男性」とでもいうべきか。

 

 

たとえば、ちょっとお風呂に入れるだけ、ちょっとオムツ替えるだけ、数時間面倒見るだけ。

寝かしつけはしない、夜泣きの世話を交代したりしてない、お風呂から上がった後の着替えまではやってない、オムツ替えるのでもウンチのときは妻に任せる。

そういう覚えのある人、結構いると思う。

お風呂に入れることすらできない人もいると聞いたときは驚いた。沐浴のときからやってないから、お風呂に入れる経験もスキルも習慣もない。

物心つく前の小さい頃に肌と肌を触れ合っていないと、父親になつかないというのはよく聞く話だ。さびしい話である。

まあなついてもらいたいからやるものでもないんだが、やってないのって結構子供の態度見ればすぐわかっちゃう、ってことだ。

 

いわゆる育児のドロドロの部分。

きつくて眠くてイラっとしちゃう、そんなことが毎日起こる。

「かわいいねー♡キラキラ(´∀`*)ウフフ」みたいなことばかりじゃない。

 

育児のドロドロ

やろうとしていたことが、半分もできない。

中断しては面倒を見て、再開しようと思ったらまた中断、みたいな環境で、やるべきことを終わらせないといけない。

少し眠り始めて、やっと少し休めると思ったら、起きて泣き出して抱っこしないといけなかったりして、結局できずに一緒に寝落ちするほど疲れ果てて。

自分のご飯は満足に食べるヒマもなく、子どものご飯をつくり与える合間に残り物をかき込む。

それが毎日毎日毎日・・・ずーっと逃げ場なく休みなく続く。

それが子育てのドロドロ。

 

仕事はと言えば、朝出勤してしまえば、夕方までは妻と子どもから離れられる。

ある程度は自分のペースでタスクを進めて、お昼はひとりで食べられる。

たとえその日の仕事がうまくいかなくたって、命がなくなるわけじゃない。

 

交代したら、天国みたいに感じると思う。

自分の裁量で時間配分ができて、自分の時間があることだけでも、相当恵まれている。

子育てをやったことがない人ほど、それをあまり実感できないと思う。

 

「やり方が悪い」と語るケース

「いやいや、やることそんなに多くないんだから、タスクの処理を効率的にやればいいんだよ、自分なら、時間内に完璧にできる」

そう思うなら、まず1年くらい代わってあげてほしい。

そんなに効率よくさばけるんなら、仕事と両立できるだろう。それが無理でも半分受け持つくらいわけないだろう。

ん?できない?なぜ?

日中は仕事があるから?

仕事のタスクの処理を効率的にやればいいんだよ。仕事を子育てができるくらいに圧縮して半日で済ませて半休でもとればいいじゃないか。妻に言っていることを自分がやればいいだけだ。

常に自分のペースではできない、睡眠も満足にとれない、そんな状況でも効率よく処理できるんだろう?

いかに自分が無理を言っているか、理解できるだろうか。

 

「私の仕事は妻より大変だ」というケース

「いやいや、私は妻より稼いでいるから、妻より仕事がハイレベルで多いんだ。妻とは違うんだよ。」

なるほど、では、そんな大変なお仕事で、年間どれぐらい稼いでいるのだろうか。

ちなみに私は年収としては平均的だが、休職せず夜泣きに交代で対応したし、一通りすべて面倒が見れるよう妻と一緒に学んだ。おかげで一週間に一日は、妻がひとりで外出できてゆっくりする時間をあげられるくらいには、なれた。

400~1000万円の年収帯の仕事なんて、おおかたそんなレベルである。やり方次第でどうとでもなる。

そして、どのくらい子だくさんかにもよるが、普通に生活していくだけならこれ以上の年収はほぼ必要ない。

つまり「生活するだけじゃ足りない、もっと贅沢をするためにお金が必要だ、もっと稼いでこい」と妻がいうのであれば、「自分で足りない分の収入の穴埋めをできない分、子育ての一切を担うので、お金を稼いできてほしい」と願っているので、仕事を優先する道理があると理解できる。Win-Winだから。そうでないならその限りではない。

「ちあき(筆者)、俺はお前の年収よりもはるかに多く稼いでいる、だからあてはまらない」という人は、妻に、今の収入を維持するべきか、それとも少し減らしてでも家庭のために時間を持つべきか、アサーティブに聞いてみてほしい。おのずと答えは妻の口から聞こえてくるだろう。

 

そもそも、妻が自分より稼げないという主張は、それそのものが不公平だと認識する必要がある。

出産を経験するということは、男性にはできないので想像しにくいが、例えるなら交通事故でダンプカーに轢かれて全身を負傷するくらいの一大事だと思う。文字通り生きるか死ぬかである。

妊婦の頃から体調不良に悩まされ、お腹に重しをつけながら生活して、いざ出産したら骨はガタガタだし髪は抜けるし、もはや満身創痍である。

それだけの大事故を経験しても、入院せずどこ吹く風で仕事を続けるなんて、できるはずがない。どれだけ実力があっても、出世コースから外される可能性が高い。不平等だ。

かたや、妊産婦の苦しみを背負うことなくリソース全てを仕事に注ぐことができた男性が、妻より稼げていないとしたら、それはもう論外である。

妻より自分が努力しているから、今のポストにいるし、たくさん稼いでいるんだと信じたいかもしれないが、前述のとおり妻は女性だからというだけでとんでもないハンディキャップを背負っているので、出産時点で夫は妻より稼いでいるのがこの社会の仕組みでは自然なのだ。

だから、仕事が現時点で妻よりハイレベルで年収が多いというのは、だから自分のほうが大変だとか、優秀だとかという理屈には繋がらない。

満身創痍でも産後すぐに子供をつきっきりで世話しなくてはならない、という状況のほうが、よっぽどハイレベルで、年収に換算すれば3000万に匹敵する。

家事育児は、きつくて価値がある立派な「仕事」である。

 

「男は家族を養わなければいけない重圧を背負って仕事をしているんだ」というケース

なるほど。確かに男性には、収入を求められるプレッシャーがある。

稼いでこなければ存在価値がない、と言わんばかりの「世間」が押し付けてくるジェンダーロールに押しつぶされそうになる気持ちは分かる。

しかしそれは「妻」も押し付けただろうか?

あなたに妻が「ひとりで自分たちを生涯養え」と実際に言ったのだろうか。

ありもしない「世間」に負い目を感じて、勝手に重圧を背負っている可能性はないだろうか。

家族とは、一緒に協力して、楽しく暮らせる生活を維持しようという共同体である。

持ちつ持たれつ、協力し合いながら、営みを続けていくための仲間である。

あなたが家族に役割を押し付けられていると感じているなら、家族で話し合う必要がある。

 

「私の力では今、これぐらいの収入を得ることができる。しかし、申し訳ないが、仕事を二の次にして家事育児を半分担うとすると、生涯賃金でこのぐらい下がるかもしれない。さて、お互いにより良い生活を実現するには、どうしたらよいだろうか?」

と具体的に落ち着いてパートナーと相談しただろうか。

おそらく子育てと家事で追い詰められ疲弊している妻なら、「今は少しくらい下がってもいいから、助けてほしい」というだろう。

子供が成長してからなら、妻も収入を得られるように力を合わせることを、考えてくれるはずだ。

 

つまり、話し合いもせずに、勝手にジェンダーロールを背負っているのではないか?ということだ。

収入が少ないと言われるのが怖い。

できない夫だと思われるのが怖い。

家事育児ができなかったら見下されたりしないか不安。

 

自分の居場所がなくなるのが不安で怖いのだ。

そういう言葉にできない恐怖や不安を見て見ぬフリをするために、仕事に逃げていないだろうか。あるいは、今まで自分が妻に手を差し伸べなかったせいで悪化した家庭環境に対する罪悪感を「妻の無理解のせいだ」と他人に押し付けて無かったことにしていないだろうか。

「稼いでこないとどうせ文句を言うくせに」

「お金がなかったら妻だって生活できないのに」

それは、文句を言うかどうか、生活できなくなるかどうか、ちゃんと二人で話して検証して、そう言われてから、思い込むべきである。

思い込みで対話をせずに、勝手に責任をなすりつけようとするのは、罪深い。

 

パートナーを、家族をなめるな

妻は、夫に「年収」だけを期待しているのだろうか。

そうではない。

もしそうなら、お金様と結婚したのであって、あなたと結婚したのではないのだから、離婚してもいいと思う。もっとたくさんの「お金様」が、その女にはお似合いだ。他をあたってもらおう。

しかし、ほとんどの妻は、つまりあなたの妻は、別にお金だけに眼がくらんで婚姻届に判を押したのではないはずだ。

「この人となら、一緒に生きていける」

「この人なら、信頼し合える」

そう思って、あなたと何十年も一緒に生きることを決めたのだ。

 

その決断の重みをなめないでほしい、と思う。

健やかなる時も 病める時も
喜びの時も 悲しみの時も
富める時も 貧しい時も
これを愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い
その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?

この誓いの重みをなめないでほしい、と思う。

 

家族とは、役割分担できっちり割り切れるほど、簡単でもないし、軽くもない。

合理性とは対極にある。

だからこそ実直な対話が必要で、お互いを思いやり助け合う努力が必要で、様々なことを乗り越えていく過程で育まれるものなのだ。

もっとパートナーはあなたそのものを必要としている。

もっと信頼しているし、頼りにしている。お金ではなく、あなた自身を。

 

なんか、同僚と話していると、そんなことを悶々と思うことがある。

【雑談】仕事ってつまんないよね

仕事をしながら生きていくのって、しんどいですよね。

働かなくていいなら、金のことなんて気にしなくていいなら、どんなにいいでしょうか。

生きるのに金が必要な資本主義経済社会では、何でも金金金カネ…。

ひどくつまらない、価値観が固定された、いろどりの希薄な社会だなと思います。

 

会社で働いていて私が思うのは、金や権力が好きで、あまり深く物事を考えない人間ほど、この社会は生きやすくできているということです。

 

仕事とは一種のゲームです。

金を集める。そのためにいろいろな手練手管を使って目的を達成する。

結局はこれだけの遊びです。

仕事に意味なんてない。人生における意義もない。金儲けが目的のレベルではね。

心から顧客の役に立とうなんて考えて仕事をしている人は、ごく一握りだし、そう思っていても組織内のプレッシャーに負けて手前勝手な都合を押し付ける営業をしてしまうことがほとんどです。

結局は我が身大事で、他人のことなんて心の底では気にかけていない。

そのくせ、「顧客のために」とか「社会のために」とかきれいごとを並べます。

だから言うことが薄っぺらいし、所作は偽善がにじみ出て、どこかうすら寒い。

私が仕事で社内の人間と会うだけで疲弊するのは、こういう「気持ちが悪いもの」を見せつけられる気持ちがするからでしょう。

 

私は会議に出るだけで翌日まで人と話をしたくなくなります。

そんな元気はまるでなくなってしまうのです。

意味のない、ただ自分の欲望を実現したいだけの分析や考察を長々と聞かされるだけで、うんざりです。胃もたれします。

素直にそういえばいいものを、聞こえがいいように、耳障りの良い言葉に置き換えてしゃべるから、脳が混乱するので、気持ち悪くなります。

 

「建前」って、本当に気持ちが悪いんですよね。

ADHD・ASDだからかもしれませんが、本音なのか嘘なのか、冗談なのか本気なのか、人と会話しているといつも測りかねます。

たとえば妻は発言の内容に冗談が80%くらい含まれていますが、出会った当初は冗談で言われた『いじり』に対して真に受けて「なんてひどいことをいうひとだろう」と思ってました。(笑)

思えば幼少期から、いわゆる『いじる』という感覚がよくわからなくて、発言一つ一つに傷つきながら苦笑いを浮かべていました。「冗談だよ」といえば、どんなひどいことでも言ってないことになるのか、と解釈違いをして、辛辣なことを言ってしまい他の子を泣かせてしまったり、怒らせてしまうことがありました。それからは「私には『いじる』というのは高度過ぎてできない芸当だ」と戦線離脱してただ横で調子を合わせてニコニコしたりウケたふりをしたりするモブに徹しました。

正直、なんてこいつら笑ってんだろ?って思ってまったく楽しくありませんでした。友人との会話って、そんな感じです。

一定の役割をやって、起承転結というか、序破急というか、オチをつけてという一連の作業。それには、なんの新規性もありません。

冗談を言い合える程度に「自分と相手の仲が良い」ということを確認するための儀式なのだろうか。それは、不安を埋めるための児戯にすぎないのではないか。何も生産的ではなく、新たな驚きもなく、不安を見て見ない振りをするために他人と自分の時間を犠牲にしているようにしか思えなかったのです。

結局人間はひとりなので、どれだけ仲が良いと錯覚していようとも、それは確かめようがない。相手が腹の底でどう思っているかなんて、定量的に測ることはできない。

つまり、それを確かめようがないのだから、気にしても仕方がない。

私が確かに相手を好きで、愛しているのなら、それを伝えることしかできない。それは人間なら誰しもそうでしょう。

 

話がそれましたが、つまり「建前」を言われるとそれを信じようとする脳みそを持っているので、とても困るわけです。

本当はそう思っていないのに、そう思っていると錯覚してしまうから。

顧客のためというので、顧客のためになることを真剣に考えたら、ドン引きされますからね。

「いやいや、お前何マジになって慈善事業しようとしてんの?ビジネスなんだから金儲からなきゃダメでしょ」

っていうんですけど、いやいやそれなら「どんなことをしてでも金を稼ぎたい」って言ってくれよ、って感じなんですよね。

どうせ金がほしいだけなら、変なおべんちゃらくっつけんなよ、と。

程度の違いだけの話であって、金が欲しくて顧客をコントロールして売りつけたいだけなら、オレオレ詐欺でもなんでも結局はやってること変わらないじゃん、と。

そう思っちゃいますね。

だから会議で「建前」言われるの、すごく疲れます。

「といってますが本当は?」と考えながら聞かないといけないの、イライラするんですよね。

社会人向いてないなーって思いながら、途中からぼーっとしてます。

 

金儲けっていうゲームは、つまんないんですよ。私からすると。

なぜかというと、この世のものはいくら集めていくら所有権を主張しても、結局は世界のモノであって、自分だけのものではないからです。

この世にいる間借りているだけ。どんな富豪もどんな偉人も、金や権力は本当はその人のモノではない。全ては脈々と引き継がれてきた生命の歴史の一瞬を切り取ったに過ぎないので、その一場面で金を持っていたり権力を持っていたりするのって、虚しいことなんです。

たとえば、みんなで使うコップがあったとして、それに水がたまたまたくさん入っていたとしますよね。

それを、そのときたまたま使う順番だった人が、「俺のコップに俺の水がたくさん入ってるぜ!」と言ったとしたら「はぁ?みんなのコップだし、たまたまたくさん入ってるだけじゃん」ってなるでしょ。

そういうことです。

この世に存在するものは全てが有限で、誰のものでもない。

誰もが必ず死ぬし、死んだら持っていたものは誰かの手に渡るだけだし、そんなものに執着しても何の意味もない。

って考えると、金は必要最小限だけあればいいし、無理して社会に認められたり何かの称号を誰かに授けてもらう必要なんてないし、他人にどう思われようが好きに思わせておけばいいわけです。

だから、出世には何の意味もないし、職場で人望があるかないか、上司や同僚に好かれるか嫌われるか、はどうでもよい問題で、私たちの貴重な時間の大半を割くほど優先度は高くない。

そういうわけで、根本的に仕事って、意味ないしつまんないんですよね。

だけど、この世の大半の人は、そういうつまんないゲームを寝る間を惜しんで時間を投資するほど好きだったり、人生を見誤るほど熱狂している。

それを私はなんとなく眺めていて、変わってんなーと思っている。そんな感じです。

 

「じゃあそんなにスレてるあんたが、価値があると認めるものって何なのさ?」

と言われれば、今このときをあるがままに生きることだ、と答えます。

なんのために、とかない。誰のために、でもない。

絶対感によって無条件で生きること。

これには価値がある。

つまり、仕事というゲームにいそしまなくとも、社会不適合であろうとも、充分に人生には価値がある、ということです。

あるがままに生きていて、ワクワクして、何かやってみようと思いたつ。

その先に人生を通じて感じるべき、生命の歓喜がある。

もちろん楽なことばかりではなくて、何かをやってみよう、ここまでやってみたい、という己の目指す場所にたどり着くためには苦しみはつきものですし、時につらく苦しく光を浴びない側面がともなうことから、何も知らない他人には、上京が悪くなっているようにも見えたりします。

「あいつは道を踏み外した」「あいつはエリートコースから外れた負け組」と、仕事ゲームに夢中な人は、歓喜を道しるべに生きる人に、そんなことを言うかもしれないですが、勝手に言わせておけばいいのです。私からすると、見当違いも甚だしいのですが、彼らには彼らの価値観があり、それは良くも悪くもない。彼らの人生は、彼らの人生です。がんばって、彼らなりの価値観で一生を全うしてくれればそれでよろしい。私の人生には深く影響しない人たちです。

今あるものを失うことを恐れて「でも○○してからにしよう」とか「○○になったら損だからやめておこう」とか、そういうふうに自分のまごころを裏切っていると、雁字搦めになって、結局他人の道具としてやりたくないことをやるだけの人生になってしまいますよ。

その現実を見て見ぬふりをしたくて、「仕事こそ人生だ」とか「社会人は働いて社会に貢献する必要があるんだ」とか独自の価値観を他人にも強要したがるようになってしまうのです。余計なお世話なんだよね。それはあなたが今に不満があるのを、見て見ぬフリしたいだけでしょうが。そっちの問題こっちに押し付けてくんなよ、って感じです。

無条件で生きる、というのは、そういうことです。

「○○したら○○しよう」なんて勝手に条件を付けない。

やりたいと思ったら、それが正解なんです。

むしろそれだけが、耳を澄ませるべきことなんです。

正論や常識なんてどうでもいい。あんなのはゴミです。

生きているという確かな感覚は、ワクワクドキドキを感じる心にしか宿らない。

 

自分の心に素直に生きるって、この世ではどんなことよりも難しく、どんな鍛錬よりも厳しい道なんですが、本来はそのために、私たちはリソースを割くべきなんだよな、というお話でした。